261. マッチポイント
《ネタバレ》 この作品を見ると、西洋人にとって非常に重要な事柄が意図的に省かれている(描かれていない)ことに気づく。 舞台はイギリスであり、ヒューイット一家はプロテスタントのはずで、クリスはアイルランド人だからカトリックに違いない。なのに、2回の結婚式以外に、宗教に関する事柄が一切出てこない。その結婚式ですら、神の前で誓いのセリフを言う場面すらカットされている。これはおかしい。きっと、もののわかる西洋人がこの映画を見れば、たちどころに理解できるようになっているに違いない。 で、これは監督の意図を示しているのだ。それは、冒頭でクリスがドストエフスキーを読む場面をわざとらしく映すことでも明らかだ。 クリスは「すべては運である」という世界観を持っていて、それはテニスプロとして多くの試合を経験した結果であった。「いつも固い試合を心がけていた自分が、大成できなかったのは運のせい」そして、「運」に左右される人生に嫌気がさして、ツアープロをやめてコーチになった。 で、「運」であるが、井沢元彦が言うには、偶然の幸運に対して「これはきっと死んだお父さん(とか先祖とか)のおかげ」と思うのは「アニミズム」で、「オレってものすげーツイてる!きっとそういう時期なんだ。」とか思うのは「マナイズム」なのだそうだ。 クリスは、当然後者である。そして、前述のように「神様はいない」と知っている(つもり)。 すると、悪事を働いたとて、いつもどこかであなたを見張っている神様は存在せず、地獄に落ちることもなく、仏教でもないから「因果応報」で凶事が降りかかってくることもない。 いかに追いつめられたとて、クリスが愛人殺しをするには、こうした背景が必要だった。(これがなければただの火曜サスペンスになってしまう。) …が、クリスは試したところもあると思う。「神様の力が働いて、自分の悪事がバレるかどうか」「やっぱり神様がいて、死んだら地獄に行くのかどうか」「神様が自分を懲らしめるために、罰を与えるのではないか」もともとカトリックで育った彼なら、そう思うのが当然である。 しかしこの映画では、そのどれも起こらず、不安気なクリスのアップで終わる。 「果たして、神様はいるのか?」「本当に人生は運だけで回るのか?」そう問いかけたまま意味深に終わるのである。これはウッディ版「神様のいない(?)世界の危険な情事」、前作よりはパンチは効いていた。 [DVD(字幕)] 7点(2007-04-29 00:32:16)(良:3票) |
262. サタンクロース
《ネタバレ》 こいつはいいぞっ。 ブレット・ラトナー。「天使のくれた時間」は豪華キャストなのに駄作であったが、「レッドドラゴン」は物語性があってよかったものだ。 で、このハチャメチャなブラックコメディ、スカッといたします。 なんといっても、見どころはサタンクロースの滅茶苦茶な暴れっぷりのキレの良さ。ここまでされると、「恐怖」ではなく「快感」になるということだ。 有り得ない登場の仕方に有り得ない暴れぶり、その割にはペンタゴンに懲りてラビには手を出さないとか、人喰いトナカイとか、ちょっとしたところにもこだわりが感じられる。こんなキャラクター、待っていたんだ。 残念なのは、主役の二人に魅力が欠けること。こういう話だから主役にティーンエイジャーを持ってくるのは仕方ないとしても、じいさんの存在感に比べ、ニコラスとメアリーの場面では面白さが全く感じられず、早送りしたくなるほどである。この二人のシーンには、脚本に工夫が足りない。 ビル・ゴールドバーグの圧倒的なアクションのキレには驚く。さすがレスラーにして、演技もそれほど悪くはない。 続編が待たれるが、頼むからティーンエイジャーを登場させるならこんなつまらない描き方をしないでくれ。 [DVD(字幕)] 7点(2007-03-21 12:51:56) |
263. ロード・オブ・ウォー
《ネタバレ》 ユダヤ人のふりをしてソ連から移住してきたというオルロフ一家は、家名からして偽名、最初からウソを背負っているわけだ。ユーリの父は、ウソと事実の隙間を少しでも埋めようと、熱心なユダヤ教徒になる。ウソの量の多さに耐え切れないということだ。 しかしユーリは違った。ウソを空気のように吸って育った彼には、ウソに対するアレルギーなど全くない。誰もがウソをつくのが当たり前で、自分もウソをつくわけだから、他人にウソをつかれても本心からは怒らない。彼は長じてシニシズムの権化のような人間となり、ウソの上に築かれた関係こそうまくいく、という信念を持つに至る。本作では、これが死の商人ユーリを成立させた背景とされている。 当然女を落とすのもウソを利用するわけだから、妻に対してもウソをつきつづけ、貧乏移民の子としての本当のユーリの姿をさらすことができるのは、弟の前だけだ。それが「戦友」という弟との呼び交わしの意味である。 いついかなるときもシニカルなユーリは、判断を誤ることがない。それで銃弾が飛び交う現場へ行っても、余計なトラブルに巻き込まれず常に生き延びる。そんなユーリの負の部分を引き受けてしまったかのように、弟ヴィタリーの精神状態はおかしくなっていく。 妻エヴァに「なぜ商売をするのか」と問われたユーリの答えは、「俺には才能があるからだ」というものだ。ウソに対する抵抗がなく、ウソとウソの間を自由自在に泳いでいくことができる、それが非合法な武器商売に必要な「才能」であり、自分にはそれがある、ということだ。「才能」があるから、それを生かしたくなる、それが「ネイチャー」というものだ、とユーリはいう。 しかし、さしものユーリも妻のウソだけは見破ることができなかった。これで万事休す、と思ったら間違いで、監督アンドリュー・ニコルは、薄っぺらい勧善懲悪ドラマなどは排している。 ニコラス・ケイジは好演していて、ラストのイーサン・ホークとのやりとりでは寒気がするほど鬼気迫る。逆にイーサン・ホークは単なる正義派の刑事の枠を超えず、人物に幅がない。 もともとそういう目的で作られたとはいえ、ラストで常任理事国の国名を並べて非難するなどは、映画としての出来を損ねる気がして残念だ。政治的メッセージをあからさまに出すのはいつでも逆効果と思うのだが。 [DVD(字幕)] 7点(2007-02-24 15:58:46)(良:3票) |
264. レッド・ドラゴン(2002)
《ネタバレ》 盲目の女性となら、お付き合いができるかもしれない。という犯人の思いつきとそれを行動に移してしまうところ、面白いと思いました。 正直言って、エドワード・ノートンのFBIとレクターのやりとりなんてどうでもいいんです。それよりも、盲目のリーバとフランシスの交際模様のほうがよっぽどスリルがあってドキドキさせられる。 リーバってのは、目は見えないけれど、もてるんですよ。 もしかしたら、〝見えないから〟なのかもしれない。だって、毎朝鏡を見ることがないもの。「今朝はいつもに増してまぶたが腫れぼったい」「ああ、こんなところにもシミが」「こんなに毛穴が広がっていたっけ」などという悩みとは無縁なのだもの。こんなに自信があって自由奔放にふるまえるというのは、盲目であるがゆえの特権といえるかもしれない。 また、彼女のように見えるものに惑わされない女性がフランシスを選んだという事実も、重要な意味があると思う。 これは猟奇殺人をしないではいられなかった変態のフランシスが、盲目のリーバに出会って癒され、二人でどこかへ旅立っていく、という話にしてもよかったのになあ。 もちろん罪の重さを考えると、途中でフランシスが車にはねられて死ぬとか失明するとか下半身不随になるくらいのことがなければ、収まりがつかないけれど。 …ラストのプチどんでんなんか全然なくてもよくて、そのくらいにこの映画はリーバとフランシスのラブストーリーとしての出来が突出して優れている、と思うのでした。 [DVD(字幕)] 7点(2006-11-23 20:51:27)(良:2票) |
265. サイレントヒル
《ネタバレ》 ゲームについては何も知らずに見ました。 どうりで強引な部分があるわけですね。 ただ、冒頭からサイレントヒルに着いてシャロンを探し回っているあたりまで、「これは〝サイレン〟オチじゃないの」と思っていました。おまけにサイレン鳴るしね。なんだか設定も似ているよな、とか。ベネットまでシャロンを目撃しているということは、ベネット自体がローズの別人格なのか?とか余計なことまで考えてしまった。ただ、グッチ警部までもが「娘」と言っているのでやっとサイレンオチじゃないことに気がついた。 ストーリーを全く知らない私の場合は、サイレンオチでないならばあの怪物の意味は?なぜローズは絶体絶命のところで助かってしまうの?「手がかりを見つけた」って、なんでそれが娘の居場所の手がかりだってことが分かるわけ?という疑問だらけとなってしまいました。 ちょっと長すぎるのと、クライマックスの火あぶりおよび針金シーンあたりの見せ方が冗長な感じがしました。ああゆうシーンはえんえんと見せられると「はい、作り物ですね。」という気がしてきてしょうがない。また、ラーダ・ミッチェルがヒーロー気取りで叫びまくるシーンは舞台チック(芝居クサー)な気配もぷんぷんしてきて、閉口した。 クリーチャーが次々出てくるところはなんとなく「ザ・セル」ぽい感じもしました。 この手の映画にしては、そう悪くはないが、手放しで喜ぶほどではないというレベルでしょうか。 お疲れ女優のデボラ・カーラ・アンガーは、あの役にはぴったりだったし、ベネット巡査もイカしていました。女性警官がこんなにはまっている女優さんもめずらしい。やっぱ、女性警官はこのくらいごつくなくっちゃね。あっさりつかまってしまうところは「?」と思いましたが。 が、ラーダ・ミッチェルはあいかわらず好きじゃない。この人はウッディ・アレンの映画で堂々主役を張るわで勘違いもはなはだしい。あんなミニスカートにブーツなんて全然似合わない。他の美人女優たちがみなアクションものに励んでいるのにならって「あたしだって、戦うヒロインぐらいやれるわよ」と思ったか知らないが、ミラ・ジョボビッチやケイト・ベッキンセールやシャーリーズ・セロンとあなたは違うと思う。それは勘違いです。 [DVD(字幕)] 7点(2006-11-23 00:06:42) |
266. ブギーマン(2005)
《ネタバレ》 終始うっすら笑ってしまいました。 この子があんまりにも怖がりなもんで。 疎遠だった母親が死んで、久しぶりに帰郷する、というパターンは「ライディングザブレット」を思わせます。作り手はキングとか好きなんでしょうね。 これそんなに悪くないです。B級にしたらマトモな仕上がりだと思う。(ラストのドタバタを除いて) 同じスティーブン・ケイの「デッドマン・コーリング」と比べても、こちらのほうがよいと思います。 終盤までの出来が悪くなかっただけに、ラストがお約束のCG一本締めに終わってしまったのが残念だが、そこに至るまでのティム君がひたすらビビって暮らしている様子なんかは、けっこういいと思います。 主演の俳優さんも、いいですね。若い頃の太川陽介に似ているのだが。自然でさわやかな嫌みのない演技だと思います。有名じゃなくても、このくらいできる子がいるのは喜ばしいですね。って、なんだか「ギミーヘブン」の安藤のあまりのひどさと比べるとレベルの差に悲しくなってくるけどね。ちなみにケイト役の子は、シガニー・ウィーバー似ですね。(しっかりエラも張っているし) しかし男の子の怖がりって、どうしてこんなに笑ってしまうのかしら。 [DVD(字幕)] 7点(2006-11-17 21:46:04) |
267. ジャケット
《ネタバレ》 ジェニファー・ジェイソン・リーだったのか! なんということでしょう。彼女もすでに堂々のシワ女優の仲間入り。「マシニスト」のときよりさらに老けていた。「アニバーサリーの夜」は遠くなりにけり…。 ちょっと気になるのが取ってつけたような湾岸戦争ですね。全然テーマと関係ないでしょう。なんのつもりだか。要らない要らない。 「またしても〝ジェイコブ〟か?」とも取れるような出だしでしたが、方向性は「バタフライエフェクト」でした。エイドリアン・ブロディを使ったことで、「バタフライ」のような軽さは皆無となり、どこまでもいつまでも画面を暗くする結果となりました。いやほんとに、写っているだけでこんなに画面が暗くなる俳優さんもめずらしい。こういう俳優さんはほんとうは使いにくいでしょう。しかしまあ、今回のような話にはギリギリの線でマッチしていたのである。かなりのギリギリだが。キーラ・ナイトレイとのラブシーンはかなり無理があったと思うけれども。 いやべつに、これがマット・ディロンであろうが、サル顔のコリン・ファレルであろうが、この役じたいは誰がやってもそれなりになってしまう役どころだと思う。ということは逆に、誰を使うかによって、全く違った味わいになるということだろう。 そこに果てしなく暗いエイドリアン・ブロディ。この世の不幸を一身に背負ったかのようなその顔面。枯れ木のような肉体。(実は脱ぐとマッチョだったりするところもエグイ気がする。) この顔が最強の武器になることもあるという、不思議な効果を生んだ作品といえます。死体安置所のボックスが世界一似合う男と認めよう、ブロディよ。 脚本としては、荒れた生活をしているジャッキーを先に見せまくったことで、ラストの健康そうなジャッキーが生きてくる、という古典的ながらの決め技を褒めておきます。まあ、そのへんがこの映画の技のすべてとも言えるかも。 それにしてもママさんはぜひお疲れ顔のデボラ・カーラ・アンガーにしてほしかったところだ。残念。 [DVD(字幕)] 7点(2006-11-02 22:59:59)(良:1票) |
268. マインドハンター
《ネタバレ》 4人目です。 えっあんた主役じゃなかったの、第2弾。(第1は「スケルトンマン」) しかしスレーターはなぜこんなチョイ役で出たのか?意外にスターとしてのクラスが低いのだろうか。 顔のパーツがそれぞれ小さめなうえに、中央に寄りぎみでインパクトが薄い顔だからでしょうか。そりゃあ、ジェイク・ギレンホールみたいな濃い顔と並んだりしたら負けるけどなあ。 私は最後まで当たりませんでした。あの車椅子のヤツが実はすたすた歩けるんじゃないか?とか思ったりしましたが。でもさ、あの防弾ベストのヤツが死んだ(ように見えた)とき、「血」が出てなかったか?なんかずるいぞ。 プロダクツがしょぼかったのが悲しいけれど、「レニ・ハーリンにしては悪くない」という程度の作品でした。 [DVD(字幕)] 7点(2006-10-14 14:24:05) |
269. 5IVE[ファイブ]
《ネタバレ》 おお。予想外にいいではないか。 実を言うと私は画面に食い入るように見入ってしまった。 とにかく一瞬も目が離せない。ひさびさの釘付け状態に突入。 とりあえず映画にはいつも「釘付け」を要求して(これがなかなか得られない)いるので、第1段階クリア。 「箱」という閉じた世界の中でですね、4人(とりあえず4人)がそれぞれ「アンタッチャブル」状態である、という状況を作り出しているのですね。 ある者は銃を構えて、ある者は発作を起こして瀕死だから、ある者は臨月、そしてエイズという文字通りの「アンタッチャブル」。そう、ここにいる4人はみんながみんな、それぞれ違う意味で容易に他人と抱き合えない状態なのです。 そんな、「全員が磁石のマイナス」を抱えたような箱の中。ややもすれば「舞台臭(芝居クサー)」が漂ってしまう設定であるにもかかわらず、リアリティを損ねないようテンポを効かせた脚本はお見事、と思います。演出も、舞台臭を極力抑えた悪くない出来と思う。俳優陣もなかなかいいですね。 あのビデオは事後に撮ったものだったわけか。それで、彼が感謝の言葉を語りかけるのは、「ターニャ」ですよ。ゲイの恋人ではなく。 それが一番の「オチ」だったのではないだろうか。 今後が楽しみな監督さんです。 [DVD(字幕)] 7点(2006-10-07 21:39:34) |
270. アフター・アワーズ
《ネタバレ》 数年前に見ていたら間違いなく途中でやめていただろう。 そして現在。なんとも味のあるスコセッシ印のこの作品、愛らしいと思うのだった。 この手の作品はテンポが絶対。冗長に感じられたら終わりだ。スコセッシでなければどうしようもない出来になっただろう。どっかの大学生が書いた脚本を安く買い取って、ティム・バートンも監督候補に挙がっていたという。ああスコセッシで良かった。 80年代に作られたこの作品には、スコセッシがこだわっているものがいっぱい詰め込まれていて、「救命士」の根っ子はこのころから芽生えていたのだなあ、と改めて感じます。ニューヨーク、真夜中の彷徨、交差する人々、交差しているように見えるだけの人々、混沌、錯乱、そして一夜明ければ何事もなし。 道端にはゴミの山、アパートのドアはボロ、登場人物ひとりひとりの部屋も個性的でリアルに描かれ、画面の中からそこに暮らしていることを主張してくる。ジュリーの部屋なんてすごく可愛くて凝っている。部屋中なめるように見つめてしまった。そしてどの役者さんも「撮影中」という感じは皆無であり全員が「地」であるかのような臨場感。とにかくスコセッシのリアリズムは「空気」を運んでくる。 帰れない、お金が無い、というシュールなストーリーはまさに筒井康隆の「俺は裸だ」を思い出させる。噛み合わない会話、通じない意思、こんなシュールが楽しめるのはある程度年を食ってからかもしれないなあ。ひとことでいってしまえば「悪夢」、ということになるのだけど、これをどういうふうに味わうか、楽しむか、人それぞれですね。 [DVD(字幕)] 7点(2006-09-30 23:13:18) |
271. クラッシュ(2004)
「25時」でも出てきた「アメリカにおける人種」の問題。 これは白人監督による場所を替えての(LA)お話だ。スケールも韓国人からペルシャ人までと大きい。 この映画では人々は「人種間の憎悪」を解決するためにすーぐ銃を用いることを考える。 「怖い気に入らない憎たらしい」→「じゃ銃だな」。 「銃」を用意しないサンドラ・ブロックのような人は恐怖と不安でノイローゼになるしかない。 アメリカは白人がネイティブアメリカンを追い出して(殺して)住み着いた国であるのに、そこに自分達より後に別の人種が入ってくると、「俺たちよりいい思いをしなければお前らがここに居ることに目をつぶろう」というレベルから基本的に少しも進歩しないのだ。 これはよその国の自分に関係ない出来事ではない。 留学生を装って日本に出稼ぎにくる中国人、ダンサーだと言って売春する東南アジア人、薬物を売買するイラン人、日本語も話せずブラジルから出稼ぎに来て2~3年で帰ってしまう日系3世。日本の安全を守りにきたはずなのに、現金も持たず(超低収入)街に出てきてナンパをしたり悪さをする基地の米兵。 もちろん普通の無害な外人もいるだろう。しかし、「無害かどうか判断のしにくい」外人に対して、「どうぞ私の家のとなりに家を建ててください。」とか、「私の店のとなりに店を出してください」とか「私の所有するマンションを借りてください」とか「どうぞ私よりたくさん稼いでください」と言える人が何人いますか。 上記の白人と同じでしょう。「俺たちよりいい思いをしなければ目をつぶっていてやるよ。」 これが「人間」の真実の姿だと私は思う。普通の人間はもともとそんなに立派ではないんだ。 この作品を見る限りポール・ハギスの考えもおそらく同じだと思う。 「立派じゃないので、避けないでぶつかれ。触れ合え。避けるともっともっと相手が怖くなるだけだ。」と彼は言いいたいらしい。 「日本ではここまでひどいことは起こらないわ。銃が無いから。」?それでは、福岡の4人殺しとか、ペルー人の女児殺しとか、世田谷一家殺人事件はなぜ起きたのか? それでも、ポール・ハギスの言うように、「怖がって避けてばかりいないで触れ合え」ますか? 脅かしているようだが普通の日本人もあの検事の妻のように、不安とイライラに苛まれる日は近い。たぶん「銃のあるよその国の出来事」として見るのでは甘い。 [DVD(字幕)] 7点(2006-09-24 14:34:48)(良:2票) |
272. ヒストリー・オブ・バイオレンス
《ネタバレ》 現実の生活に何の不満もないトムが、死んだことにして意識下に押し込めてきたジョーイという男。 ところが身の危険が迫ったときだけ、ジョーイは復活し大活躍する。精神からジョーイを追い出しても、体から追い出すことはできなかったということですね。ジョーイに変身しなければ死んでいたような追い詰められた場面にだけ、都合よく登場する。なんか、これだけだとコメディなんですが。コメディでもよかったような気がするが、残念ながらそうではない。 冒頭の犯罪者2人組。ここもかなり味が出ていて、さすが曲者クローネンバーグと思った。 疲れきって、「もうやめたい」と言いながら同じことを繰り返して1万キロも逃避行している彼ら。 「(人殺しと盗みの)他に方法がない」というドツボの2人組。そうなるともう、相棒に対して余計な感情を表すことすら面倒になるようで、その乾いた感じがなんともいえず。 これまたエンドロールを見るまで気付かなかったリッチーのウィリアム・ハート。怪演でした。 なんかこう、特殊メイクもしていないのにいきなり「遊星からの物体Ⅹ」が飛び出しそうな超ヤバい感じ。なんでかなー、と2回見てみたらびっくり眼のまま瞬きを全くしていなかった。ご苦労なことだ。 それにしてもクローネンバーグの怖さって、ぱっと見「ん?何かヘン。どこがヘンなんだろ」と近寄って見たくなるような「異様」感だと思う。特に人物の「顔」。よく見てみればただの顔なのに、ぱっと見がヘン。格闘場面直後のヴィゴの顔とか、もちろんウィリアム・ハート、手下のリーベン、子供に至ってはいじめっ子もハンサムなのにヘンだ。なんか、角度と照明に工夫がありそうだ。 あの暴力的な階段セックスで、トムは奥さんに対して「ジョーイはやっぱり俺の中に居る。ジョーイも自分の一部であるので、どうか受け入れて欲しい」と表明したのではないかというように私は解釈した。 この家族はこれからも、「いざというときには親父が何をやらかすか」に怯えて暮らすのだろうか。それがちょっと気になる。前作では滅入ってしまったが、この作品はなかなか見られると思う。 [DVD(字幕)] 7点(2006-09-15 00:29:18) |
273. オーメン/最後の闘争
《ネタバレ》 キツネ狩り!金かかっとる! イギリスの緑豊かな丘陵を馬と犬(大量)が同時に疾走するシーンはぜひ一度ご覧いただきたいものです。壮観。危険な撮影で大変だったことでしょう。 アイロン主婦!怖いです。でも憎い相手に一回ぶちかましてやりたい気もする。 それで?24日に生まれた子は全部殺されて、ナザレのイエスの再来も居なくなったのか?なんかオチがないな。でも子供や聖職者や看護婦まで総動員するところが微妙にリアルでよかったかも。集会でダミアンが演説するシーンは冗長に感じた。 [DVD(字幕)] 7点(2006-08-26 23:29:40) |
274. チョコレート(2001)
《ネタバレ》 問題のラストシーン。 レティシアの視線は庭の墓石を漂う。 新しく土が盛られたソニーの墓石を見つめる彼女。 そして彼女の視線はアイスを食べるハンクへ移り、納得したかのように軽くうなずいたように見えた。 つまり、ハンクの口から詳しく語られなかったソニーの死が、尋常な死に方でなかったことを確信したのだ。夫の死と無関係ではないことを、知ったのだと思う。 これにより、「夫に直接手を下した人間」でありながら「彼もまた代償を支払っていた」ことを引き換えに、ハンクを責める気持ちが中和されたのだと想像する。 なのでどこにも行くあてがない彼女が、これからもハンクに頼ることの正当性を自分自身に与えた瞬間だったと思う。 それにしてもセックスの仕方で登場人物の変化をあらわすのはキツいなあ。 前戯なしでいきなり背後(しかもお金で)→正常位と女性上位→最終的にはオーラルセックスもOKという流れでハンクという人間の変化を描いたのはひとつの思いつきとはいえるが、身も蓋も無いともいえる。同じことを描くのにほかに方法はなかったのか?やっぱり話題性を狙ったのか?と疑いたくなってしまう。 この話自体は、「レイシストの白人中年男性と、貧しく虐げられた黒人女性が結ばれるさまを誰もが納得するように描いてみたい」というところから始まって、死刑囚だの息子の死だのは、あとから付け加えていったのだと思う。こういう作り方をすると「ありえない」とか「ご都合主義」になってしまうのは仕方ないなあ。ソーントンに努力賞。 [DVD(字幕)] 7点(2006-08-20 12:13:19)(良:3票) |
275. ヘルレイザー リターン・オブ・ナイトメア
《ネタバレ》 「ジェイコブズラダー」のリック・ボータ版といえよう。 しかし、そんなに悪くはない。べつにピンヘッドさんを出さなくても成立する話なんだけど、編集で無駄なところが思い切りよくカットされてるので作品としてはダメじゃない。でもシーツをめくる0.5秒前に分かってしまう。 [DVD(字幕)] 7点(2006-07-30 14:02:45) |
276. イン・ハー・シューズ
《ネタバレ》 トニ・コレットはお姉さん女優だ。「アバウト・ア・ボーイ」のヒッピーお母さんでしたよね。 キャメロン・ディアスはまぎれもない妹女優だ。「彼女を見ればわかること」の盲目で発展家の妹役、はまってましたね。彼女には1%も「お姉さん性」を感じない。 この作品は前半のヤな感じが、後半でみごとにうっちゃりにもってかれた、そんな大技を感じる映画でした。 ひたすらローズの気持ちになってマギーに憎しみをつのらせる前半。「そうだこんな下品な女死んでも直るもんか」「早く追い出せ。私なら2時間と持たぬ」とこぶしを握りしめるのであった。 フロリダに行ってもお行儀が悪く自分中心のマギーに、「どうしたバーサン、こいつの根性をビシビシ叩きなおしてやれ!」とイライラするが、話は意外な方向へ。マギーがなぜにアバズレとなったか、その理由がはっきりする。LDだっただけでなく、それに対するきちんとした指導も受けられず成長し、大人になった今もそれを隠し続けている彼女。他人の愛情の真贋について、異常なほど猜疑心が強い彼女。「あら、それなりに可哀想な子だったのかも」なんて気持ちになったりして。 一方のローズにも、これまでしがみついていたものをあっさり捨てたことにより、新たな運が訪れる。 そうなの。それって真実で、女の場合は今持っているものを思い切り良く捨てないと、次のものが来ないみたいなのよ。そこが「男の運」と「女の運」の違いなのよね。と「運命研究家」の私はつねづね思っているのです。「ユー・ガット・メール」におけるメグ・ライアンもそうでしたよね(映画だけど。) 姉妹それは決して「仲良し」だけでは成立しない関係。「憎たら可愛い」のが妹。そういう私は姉。 ともかくすっきりハッピーエンド。殺人も犯罪も超常現象も起こらないがたまにはこういうのもいいじゃない。 [DVD(字幕)] 7点(2006-07-29 16:26:01)(良:2票) |
277. 二重誘拐
《ネタバレ》 ふむふむ。わりと洗練されたつくりだ。余計な描写の省き方とかカットのつなぎかたもうまい。 登場人物も少ないし、オチがいっこしかないし、邦題がひどいということで、皆様の怒りをかっているようですね。 「山小屋がない」つーのが最大のオチ(言っちゃった)だけど、まあこれも予想はついてしまうよね。だから、そーゆーことでだまされたい人は、怒って当然です。 他の方のレビューにもあるように、「対照的な2人のおじさんの人生の比較」が重要マターではあります。が、それ以上に「あちらの男性にとっての妻の位置なり意味」の重要性が主題となっていた。 ウェインがなんとかアーノルドを懐柔するために必死に話しかけるその内容は、「妻」関係の話。どうやらあちらの男性にとって「妻」とは「山の神」以上の精神的な「聖域」であり、己の「良心」の宿るところ、であるみたいなのです。最も「痛いところ」であり相手との関係を深めるカギなんですね。 そして結果的にこれは「効いて」いた。アーノルドはウェインの手紙を見てはじめて己の妻のことを現実的に考える。それが後の行動につながったわけです。ウェインは殺されたとはいえある意味「勝利」を得たとも言える。(彼の言ってた貧乏だったお父さんのように) 「THE CLEARING」の意味を考えてみましたけど、「清算」か「手形」かなあ。 タイトルにこれをもってきたということは、犯人にとっての「清算」は、せしめた「100ドル紙幣」であり、これを使うことで、わざとつかまる方向へ仕向けたこと?ウェインにとっての「清算」は、浮気を続けて裏切っていた「妻への感謝状」? それにしても画面上のレッドフォードの存在感てすごいですね。なんか、ものすごくオーラ出てます(すでにフェロモンの段階を超えていて掃除機のように吸い込まれそう。) ウィレム・デフォーは、インテリをやってもはまるし、こういう無教養でアブな犯罪者もぴったりくるというめずらしい役者さんですね。 この映画、「勝ち組」「負け組」という視点で見た場合には、「勝っているやつはやはりそれなりの人格者であって、負けてるやつが暴力で脅したところで最終的にはかなわない」と語っているようにも見えますね。まあ、デフォーだって彼自身はセレブだからそういう意味では現実味は欠けるが。 [DVD(字幕)] 7点(2006-07-17 19:57:58)(良:1票) |
278. マルコヴィッチの穴
《ネタバレ》 それなりにおもしろかった。 乗り移られる人間(ホスト)を、穴を通してどうやって特定しているのか、そこんとこがイマイチわからない。なんで一人のホストにわざわざ大勢で乗り込んで人格統合するのかもわからない。あと、15分超えのテクはなんなのかもよくわからい。まあ不条理だから。それでもいいけど。後半マルコヴィッチがジョンキューザックの真似演技をしているところがウケた。 あと、そんなにまでして皆が乗り移りたいと思う対象が「俳優マルコヴィッチ」てところが、ジョークと思った。(腹たるんでるし) [DVD(字幕)] 7点(2006-03-12 15:35:07) |
279. 21グラム
《ネタバレ》 結論からいうとこれは「人の生死は神の領域」もしくは「人の操るところにあらず」を描いた作品である。言葉でいうとそっけなくなってしまうが、このことを映画は重苦しい雰囲気と音楽の中、数人の「無神論者」である登場人物を通して描いてゆく。ジャック、神を信じてまだ2年しか経たないのに、クジで車が当たったことを「自分の信仰心に神が応えた」と思いこんでいる。神の業とは人間の都合に合わせたものではないはずなので、彼は傲慢になっているだけで、本当に「神を信じている人間」とはいえない。その妻は、「神様に関係なく人生は続く」と言い切る現実主義の無神論者。クリスティーナ、これは普通の主婦であるが、おそらく「不妊治療」によって娘を2人もうけたことを自慢たらしく思っている「無神論者」である。ポール、これは数学の教授で、彼にとっては数学こそが神であり、過去に女を口説く時にも数学が活躍したと思われる、もちろん無神論者。彼の教え子だったらしきその妻メアリーは、堕胎はするわ、もちろんのこと無神論者である。この無神論者たちのやらかすことが、臓器移植であり、不妊治療、人工授精、ひき逃げ、隠蔽工作。とくにジャックは神に対して自分の都合のいい解釈を勝手にしておきながら「裏切られた」と言っている。ここにいるのはすべて「傲慢な人間」である。製作者は、傲慢な人間(神様から見た場合の)を描き、「神の業は人間ごときの想定を超えたところにある」と言っている。ラストのポールの死が、何よりもそれをあらわしている。なぜかといえば、ポールは「自殺」したのではなく、「元の位置に戻る」ことを望んで頭部でなく胸を撃ったからだ。「元の位置」とは、「死の待合室」で順番を待っていたころの自分である。ジャックを殺すことができず、移植した心臓もダメになり、無神論者のポールは「人知を超えた」「人の生死」を悟った。しょせん人が人の生死を左右することはムリがあると。ポールを自ら「元の位置」に戻したことにより、製作者は「命にかかわる臓器移植」を否定し、クリスティーナの想定外の妊娠により、「不妊治療」と「人工授精」を否定する。「それらはすべて人間の担当するところではない」と言いきっている。これはカトリックであり、新種の宗教映画とも思う。ナオミワッツはがんばっているが、通俗的な演技で浮いている。ショーンペンは姿のいい俳優さんだと改めて感じた。 [DVD(字幕)] 7点(2006-03-05 16:16:37)(良:1票) |
280. ライディング・ザ・ブレット
《ネタバレ》 冒頭ほんの数分だけどマックス・ヘッドルームのマットが出ている。老けたなあ。それはともかく。キング原作のこの作品は、男の子たちが「死のスリル」と戯れたがることについて描いているようだ。アラン・パーカーというどっかで聞いたような名前の主人公の男の子。彼はお行儀が悪いだけで、普通にヘタレな男の子である。ほとんどすべての男の子はヘタレと決まっているからである。そして男の子は「死のスリル」と戯れがちだ。なぜかというと、橋本治風にいうなら、男の子には生理が来ないからである。下世話な話をしないと説明できないので申し訳ないけれど、これが本当の事だ。生理というのは、本人の意思に関係なく無理やりに訪れる。自分の意思でコントロールすることはできない。男の子の射精と根本的に違うのはここのところだ。生理とは「おまえは生きているぞ。忘れるな。」という「確認を求められる」現象なのだ。「そうか。不本意ながらやっぱり生きているのか。」女の子はほぼ毎月それを繰り返しているのだ。男の子と比べてヘタレなはずがなかろう。女の子が「死のスリル」と戯れる必要がない理由はこれである。男の子はこれがないので、しばしば「自分が本当に生きているのか」について確認する必要があるらしい。この作品はそのことについて言っていると思う。亡霊のジョージが、「彼女をBULLETに誘ったが生理なので断られた」と言うが、これが端的に現している。BULLETに乗ることは「死のスリルを味わう」行為でありすなわち「生の確認」なのであるが、「彼女」は「生理」があるので、そんなもの必要ないのだ。ラストにキングらしい説教くささがあるが、これはどこまでも男の子の話であり、とりあえず「女の子」には必要のない教訓である。 [DVD(字幕)] 7点(2006-03-02 21:16:33) |