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onomichiさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 407
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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21.  ロッキー 《ネタバレ》 
この作品は、ボクシング映画であると共に、ロックとエイドリアンの孤独と恋愛の物語でもある。ロッキーは孤独であった。彼にはボクシングしかなかったが、30歳になって、彼にはもう闘う気持ちがなくなりかけていた。チャンプになって金が稼げれば違っていたろうが、引退を勧告された彼にもう闘い続ける理由が見出せなかったのである。ボクシングが全てだったロッキーにとって、ボクシングを失うということはどういうことだろう。優しさ故にゴロツキにもなりきれず、中途半端な自分の境遇を持て余すしかなかったロック。そんな彼がエイドリアンと付き合うようになったのは、エイドリアンもロッキーと同じように孤独だったからである。二人は都市の下層に息を潜めるように生きてきたけれど、自分が孤独であることを知り、そしてそれが癒されることの可能性を捨てなかった。だからこそ、二人はお互いを理解し合い、深く求め合い、そして優しさをもって付き合うことができたのだ。 彼は何のために、誰のために闘ったのだろう。『ロッキー』はやはり『ロッキー』で完結すべき話だったように僕は思う。ロッキー2も3も4も5も『ロッキー』とは別ものの話である。何故なら、ロッキーに元々必要だったのは勝利ではなく、やり遂げること、それをエイドリアンに認めてもらいたかった、そのことだけだったからである。それは何故か?だって、ロッキーにはエイドリアンしかいなかったし、エイドリアンにもロックしかいなかった。二人はそれまで孤独だったから。(それはもちろんフィラデルフィアの為でもアメリカの為でもない。それらの声援とは無縁の二人だけの世界、そういう作品だったのである。最初は、、、) Rocky : Adrian! Hey, where's your hat? Adrian : I love you! Rocky : I love you! セリフだけ見たら洒落た恋愛映画のようなラストシーンに込められた思いは、この映画が単なるアメリカンドリームを体現したスポ根映画であることを超えて、超個人主義的な純愛映画であるとともに、そんな純愛を別種の可能性へと高らかに昇華させてみせたアカルイミライな人生賛歌であることを示している。そして、その物語は僕の胸にキリキリと切実に響くのだ。 
[インターネット(字幕)] 10点(2007-05-01 23:26:20)
22.  硫黄島からの手紙 《ネタバレ》 
素晴らしい映画だった。僕は前作『父親たちの星条旗』のレビューで、クリント・イーストウッドは個人という矮小な物語から戦争という壮大な物語を描いてみせる、ということを書いた。今、彼の硫黄島2部作の後編というも言うべき『硫黄島の手紙』を観終わって、正に我が意を得たりとでも言おうか、その感想に聊かの変化も感じていない。  この映画の主人公は一兵卒、西郷であろう。(彼は狂言回しではなく、この物語の主人公である) その弱々しくも人間的なキャラクターから硫黄島戦を捉えたとき、この映画は戦争という極限状態における個人的な側面をその切実さとともに描き出す。クリント・イーストウッドは戦争という局面の中でも執拗なまでに「人間」を描くのである。ほぼ全編にわたって硫黄島戦の経過をなぞるように場面が進んでいく為、『硫黄島の手紙』は『父親たちの星条旗』と違い、硫黄島戦の史実を日本軍側から忠実に描く戦争記録映画として観ることもできるだろう。しかし、主人公の西郷、そして、栗林中将、元憲兵の清水の過去、その個人史がフラッシュバックで描かれる、その短い場面に込められた登場人物たちの「生きる想い」、その凡庸でありながら、普遍的な切実さこそがこの映画に込められた最大の「祈り」であり、それが僕らの心に自然に、そして重く受け止められるのである。  西郷は生きる。彼は逃げ続けることによって、生を得る。そして彼は言うのだ。 『私はただのパン屋です』  私は愛する妻と未だ見ぬ娘に会いたい、彼女らに会うために祖国に生きて帰る、そういう自らの真実に支えられて戦場を生き抜く、そういうただのパン屋なのです。  ただのパン屋であるという西郷の真実。それとともに、西郷が清水の死に触れて流す涙、栗林を看取る際の涙、それは単純ではない人間の(ある意味でパン屋であるということを越えた)在るがままの涙であり、そのことの重みが僕らの胸を強く掴む。 彼は誰にも知られずに誓った「生きて帰る」という信念を貫いたわけだが、そういう個人的な正義を僕らは誰も非難することなどできない。何故ならばそういった人間の信念が戦争という狂気の中で揺らぎ、繋ぎとめられる、それこそが戦争というものであり、クリント・イーストウッドが伝えたかった信念であろうと僕は思うのである。
[映画館(字幕)] 10点(2006-12-10 17:59:01)(良:1票)
23.  父親たちの星条旗 《ネタバレ》 
戦争は神話を生む。それは常にある意図をもった物語として、その一面性、その共振性のみがクローズアップされ、形式化される。本来、物語とは多面的であり、ある種のイデオロギーに容易に集約されるべきものではないが、物語をその純粋たる物語として描ききることはとても難しい。『父親たちの星条旗』は3人の硫黄島戦の英雄という個人に焦点を当てることにより、そこから戦争と生死、国家と個人などのタームをその絶対的感情として取り出してみせる。個人という矮小な物語から戦争という壮大な物語を描いてみせようとする。  戦争とは戦闘のみではない。しかし、戦闘は戦場における最も明白な現実であり、それが戦争の狂気そのもの、その由来でもある。戦争という現実は、実際に体験したものしか分かりえないだろう。いくらそれを映像としてリアルに再構築したとしても、戦争の恐怖と高揚、狂気はその場にいたものしか分からない絶対主観的な体験なのである。硫黄島戦は太平洋戦争史上で米軍にとっては多大な犠牲者を出した最も過酷な戦場であり、海兵隊神話にもなった象徴的な戦闘である。その物語を個人の側から再構築し直す。それがイーストウッドがこの作品で行った映画的試みであると僕は思う。  この物語の主人公は3人の硫黄島の英雄たちである。その中でも原作者の父親でもあるジョン・ブラッドリーは英雄という称号を不平なく受入れて政府に協力し、そして、その立場に自らを規定されることなく静かに生活を続けて年を重ね、死の間際に至る。彼は戦争について語らず、その語り得なさを心に保ち続ける。衛生兵として多くの兵士達の死を看取り、自らも過酷な戦場で生存の危機に晒される。しかし、彼が執拗に捉えられたのは彼がコンビを組んでいたイギーの死(その悲惨な死は僕らにも隠される)であった。その一人の兵士の死が一人の兵士の生の、その生きる手綱を握り続ける。そのことの重みを僕らは見せ付けられる。  彼は最後に息子に対して赦しを乞う。赦しとは、「人は誰もが自分と同じように弱い」という人間にとって最も根本的な地平から生まれるものであり、「自分が存在することの原理」への気付きでもある。最後に映画がこのことを描いたとき、僕の心は確実に震えた。
[映画館(字幕)] 10点(2006-11-14 00:18:34)
24.  ブロークバック・マウンテン
「恋愛が自意識の劇であり、鏡であること、そしてその究極には不可能性という可能性への期待があり、それが刹那に超越され、持続しない。これはそういった恋愛の本質をよく捉えた小説であると共に、自意識が恋愛という観念に結実した美しくも悲しい、と同時に奇跡的に幸福な作品である」 以前、『春の雪』のレビューで僕はこのように書いた。この言葉は映画『ブロークバック・マウンテン』にもそのまま当てはまる。 この映画の優れている点は、やはりその映像にある。セリフが少ない映画ではあるが、映像は僕らに様々な言葉を伝える。それは言葉にならない言葉であるとともに、僕らに明確な言葉を喚起させるのだ。恋愛は言葉である。それは理性の森を通してしか発現しえない人間の特権である。映像が言葉を伝える。とてもシンプルかつ緻密な繊細さを要求する作業を見事に表現できたこの映画は素晴らしいと思う。表現は意思より発現し、そして意思に帰る。それはテクストや作者の背景を含めたあらゆる個人の歴史を巻き込み、作品の絶対性を生むのである。作品とは常に読者と一対一の関係にある。それは凡百のテクスト論を超えて、僕らが僕らであるが故の様々な感動をもたらすと僕は信じている。 『ブロークバック・マウンテン』は素晴らしい作品であり、珠玉の恋愛映画であった。その哀しさに心を震わすと同時に久々に幸福感を味わった。
[DVD(字幕)] 10点(2006-11-05 02:08:43)
25.  アラバマ物語 《ネタバレ》 
この物語はさまざまな出来事が子供の目を通して語られる。大人を理解すること、公正さとは何か、差別とは何か、妥協とは何か、そしてそれらの思念の中で彼女らの誠実さの行方がそのイノセンスによって赤裸々に綴られている。そして、その語られる中に、アメリカという国の「正義」、その形が見え隠れする。 「ぼくはね、いまはっきりわかったよ。世の中には四種類の人間がいるってことだよ。ぼくたちや近所の人たちのようなのがふつうの種類、森のなかからでてくるカニンガムのような種類に、ごみ捨て場にいるユーイルのような種類、最後はニグロだ」 無実の黒人を死に追いやり、子供達を襲ったユーイルは思わぬ援護者によって逆に刺殺されてしまうのであるが、結局、ユーイルは事故死の扱いで処理される。そのまともな裁判もない事故死の扱いがこの作品を貫く正義の報いであり、この作品がアメリカ人の良心であるところのアメリカの正義なのだと思う。 この物語を思う時、僕は名作映画『十二人の怒れる男』を同時に思い出す。この作品もアメリカの陪審員制度における「正義」を扱ったものであるが、ここでの十二人は皆が顔の見える人間として自らの歴史を語り合い、納得するまで議論を尽くして、一旦は有罪と決まりかけた少年を無罪へと導く。但し、ここに『アラバマ物語』で差別の主題ともなる黒人と女性はいないし、ユーイルもいない。アメリカの正義というのは単純なものではないのだ。『アラバマ物語』は1930年代が舞台となっているが、まだそれから70年しか経っていない。当時、黒人は人間ではなく、学校教育も受けられず、当然まともな仕事にも就けなかった。何かあれば簡単に吊るされた、そんな時代からたったの70年しか経っていないのだ。黒人のみならず、森の中で自給生活をする人々、ゴミを漁って生活をする最下層の白人などが歴然と存在していた時代からほんの少ししか経っていない。差別は人々の意識に根付くものだ。アメリカという国はそんな差別を乗り越えようとして、結局は乗り越えられず、それがアメリカの正義を形づくってきた。その正義は微妙に歪んだ形を維持しながら、それを柔らかい衣に包んだまま何十年も受け継がれてきたような気がする。この問題はとても深い。それはアメリカ人の意識に深く根付き、彼らの正義を確実に規定しているのである。 
[DVD(字幕)] 10点(2006-10-21 01:33:13)(良:1票)
26.  モンタレー・ポップ
Janisが衝撃のデビューを果たし、The Whoが過激なパフォーマンスでアメリカを驚かせ、Jimi Hendrixがその超ド級のギターワークで時代を切り裂き、Otis Reddingが「音楽は感動そのものだ」ということを世に知らしめた。 それがSummer of Love'67の奇跡、Monterey POP Festivalである。人々はこの史上初のロックの祭典により、ロック・ミュージックが一種の衝撃であるとともに、一体感というある種の幸福感を共有できる麻薬的な幻想であること知ったのである。そのキャッチフレーズは"Love"である。 その幻想も2年後のWoodstockで賞味期限を迎え、1969年最後の月(僕の生まれた月だ)のオルタモントで完全に終わる。MontereyでMCをつとめたブライアン・ジョーンズはWoodstockの直前に死んでいる。ロックは商業ベースとして、別のステージに移行していく。 ロックにとって、奇跡的に幸福な時代。それがSummer of Love'67であり、Montereyだったのである。 今、僕らはMonterey POP Festivalの映像記録をDVDで観ることができる。以前は切れ切れにしか観ることが出来なかったシーンも今ではより多くの連続した演奏として追うことができる。 演奏そのものについては、挙げたらキリがないほどに充実しており、演奏シーンを集めたライブ映像としても卓越した作品と言えるだろう。 しかし、この映像記録は、音楽そのもの充実感以外にも僕らにある感慨をもたらす。確かに音楽そのものであれば、出演者達のオリジナル・アルバムやライブ盤を聴けばいい。この映画は確実に時代の空気、その幸福感を映していると言えないか。Montereyの映像がもたらす空気の色は明らかにWoodstockと違うのだ。それがSummer of Love ‘67、過ぎ去った一時の高揚感、その始まり。それは単なるノスタルジーとは違う、幻想という可能性、その幸福感を僕らに垣間見せる。過去にそこにあったはずのものが確かにある、ということが、その無に対して「有り得る」という豊穣を浮かび上がらせる、そういう幻想を僕らに呼び起こさせるのだ。 人間は幻想によって生きている。それは僕らを生かし、そして殺す。それもまた幻想。その全ては「心々」であり、また、それが僕らの心を震わす源泉なのである。 Summer of Love'67、Montereyという奇跡。この映像は確かに僕らに何かを語りかける。その何かを考えさせる。そういう映画としての力を僕は感じるのである。
[DVD(字幕)] 10点(2005-11-27 12:18:27)(良:1票)
27.  キッズ・アー・オールライト ~ディレクター・カット完全版~
世界3大ロックバンドと言えば、ビートルズ、ストーンズ、そしてフーである。フーズ フー? 残念ながら日本でのフーの知名度は恐ろしく低い。このドキュメンタリーは、フーのデビュー当時からのライブ映像やインタビュー、そして新たに収録した演奏シーン等を追加して作り上げられたフーの歴史であり、ひいてはロックの歴史でもある。78年、時代はパンクである。パンクムーブメントの中では、ビートルズは過去の産物であり、ストーンズは現代の恐竜と呼ばれ、難解を極めたプログレや頭でっかちとなった産業ロックは嫌悪の対象であった。そんな中でも、フーはパンクキッズからリスペクトされる存在であり続けた。何故か?同年、彼らは『さらば青春の光』をプロデュースするが、この作品は彼らの出自であるモッズの青春像を捉えた傑作である。『さらば青春の光』と『キッズ・アー・オールライト』は当時のムーブメントに提示された1セットの作品ともいえる。それはロックの歴史であり、ロックとは何か??という彼らの回答そのものなのである。そう、ロックとは何か? この作品のハイライトである『無法の世界』のステージこそ、当時の彼らにとっての現在形のロックであり、彼らが「オヤジのロック!」と叫ぶありのままの姿であろう。そしてそれは彼らの限界でもあり、ロックの限界でもあったのである。言うまでもなく、フーは世界最強のライブバンドである。彼らのライブ盤を聴き、ライブ映像を観れば、彼らの激しいロックスピリットと高い演奏技術に誰もが感嘆するだろう。その象徴、ピート・タウンゼント。そしてキース・ムーン、最強ドラマー。残念ながら、彼はこの映画の公開を待たずに急逝してしまう。彼の不在によって、フーのメインストーリーは映画と共に一旦幕を閉じる。パンクが終わり、フーが終わり、70年代が終わる。ロックが70年代に突き当たったもの、その壁自体がロックの原点であると僕は思っている。今やロックミュージシャンはロックを真摯に抱えることしかできないし、それを抱えること自体の誠実さこそが貴重なのだといえるのではないか。ロックは何度も死んだと言われたが、それでもロックは残っていくものである、しかし同時にその表現のアビリティには幅としての限界があるのだ。深さや複雑さを無理やり単純化したり拡張したりするような装飾はロックにとっても人間にとってもいいことではない。
[DVD(字幕)] 10点(2005-04-23 01:03:36)
28.  ナチュラル 《ネタバレ》 
僕にとって涙なしに観ることができない映画です。「人生には2つある。学ぶ人生とその後の人生。」実力がありながら16年間を棒に振ってしまったレッドフォード演じるロイ・ハブスがようやく大リーガーとしての夢に辿りついた時、意に反するその夢の不確かさを語った後に、グレン・クローズ演じるアイリスが呟いた言葉である。 この映画の好きな場面はたくさんあるが、僕はやはり最後のシーンを語りたいと思う。シーズンプレーオフの最終試合。古傷の再発に耐えながら不調に喘ぐロイ。ベンチのロイにアイリスから手紙が届く。その言葉自体は僕らに伝えられない。しかし、そこにはアイリスの子供がロイとの間にできた子供であることが告げられており、その言葉がロイに力を与えたであろうことを僕らに想像させる。手紙を読み、立ち上がるロイ。スタンドを見上げ、ベンチを歩き回り、そして決意を胸にする。ロイは期待通りに逆転のホームランをスタンドの照明灯に打ち込み、チームをプレーオフ勝利に導く。この試合を最後にロイは引退した(であろう)ことが後に続く息子とのキャッチボールのシーンで僕らに伝えられる。確かにクライマックスシーンは派手であるが、僕はこれらのシーンにさざめく静かな感動を覚えた。それは何故だろう。この作品はベースボールを題材とした映画であるが、ベースボールゲームそのものを描いてはいない。なぜなら、ロイが最後にバットに想いを込め、ホームランを捧げたのは自分の息子に対してであるからだ。あの場面でバッターボックスに立ったロイは、既に「その後の人生」に足を踏み入れていたのだと思う。ある意味でこのクライマックスシーンの主役はアイリスとその想いを受け取ったロイであり、彼女の想いがあの結末を導いたのである。最後、親子によるキャッチボールとそれを見つめるアイリス。最後のキャッチボールといえば、名作「フィールド・オブ・ドリームス」が思い浮かぶけど、この映画の最後のキャッチボールは親子の様々な思いを想起させるノスタルジックなそれとは少し違う。何と言っていいか、、、ある確信的な勇気、ささやかながら何か大切であろう心の有り様を僕に思い起こさせるのである。それははっきり言って凡庸たる家族や愛情というタームなのかもしれないが、にもかかわらず、僕は「はっ」と思った時には心が既に溢れ、我知らず涙を流している自分に気付くのだ。。。
[ビデオ(字幕)] 10点(2005-02-14 06:29:03)(良:1票)
29.  ブラウン・バニー 《ネタバレ》 
映画が現実に起こりえるとか起こりえないとか、そういった基準で観られるべきものではないというのが僕の考え方だ。バイオレット、リリィー、、、なぜ花の名前か?ローズ。美しいものの余韻。名前という幻想。名前にこそ意味がある。取り替えのきかない名前という幻想。それは彼の心を執拗に捉えていく。 なぜリリィーは涙を流しているのか、そんなことは疑問として意味がない。ただ涙を流しているということが答えなのだ。妄想?失われたものへの掛け替えのない想い。それを抱えていかなければ生きる意味なんてない。でもこれ以上の哀しみを背負う必要があるのだろうか。そして思いとどまる。 ロードムーヴィーとは何かを探す旅を映す。彼は?砂漠での疾走。砂漠という茫洋。無意味の意味。彼は何を追い求めているのだろう。 デイジーは死んで、死んだものは現実には帰ってこない。だから彼は夢想する。幻想としてのデイジーを彼は許す。人が生きる原理を掴むにはまず許すことから始めなければならない。彼が欲したのは、彼女を許すということ。その不可能性の可能性。それは幻想であるが、それは彼にとって必要なことだったのである。そして彼は帰還するのだ。 
10点(2005-01-23 11:32:23)(良:1票)
30.  レイジング・ブル
『タクシードライバー』では自らの過剰な感情を正義へと志向させ、『キングオブコメディ』でそれを狂気へと潜行させた。その中間に位置する本作『レイジングブル』では、その過剰さの生々しい姿を実に大らかに、そしてシンプルに描いて見せる。 そういう意味で『レイジングブル』は、主人公の過剰な生の有り様が明瞭であり、幸福な時代の幸福な物語なのかもしれない。主人公にはボクシングがあった。自らの抑えがたい感情や衝動をぶつけるものとしてのボクシングが存在したが、もちろん、彼の過剰さは、ボクシングという競技を軽々と超え、周りの人間、兄弟や恋人達を容易に傷つけることになる。気がつけば、周りの人間には愛想を付かされ、裏切られ、そして独りきりになる。彼はつぶやく、『何故だ?』と。そのとき、彼は一人の人間としてのゼロ地点に立っていることに気がつくのである。そこで自分という人間の生の姿を理解し、直視することができれば、彼は狂気へと向かわないし、社会性を失ったりしない。そういうギリギリの確信とその揺らぎが主人公の生き様に通底しているのである。この映画の美しさは、幻想を剥ぎ取った人間の根源的な過剰さに由来するのと同時に、それがまだ歪んでいない実に健康的な立ち姿によるのではないか。この映画が苛立たしくも晴やかな印象を残すのはその美しさ所以であろう。
10点(2004-11-06 20:07:33)(良:1票)
31.  ゴッドファーザー・サガ<TVM>
「ゴッドファーザー・PART1」と「PART2」を年代順に並べなおした「ゴッドファーザー・サガ」。テレビの深夜劇場で4週連続2時間づつ放映していたのを眠い目をこすって観続けたのは、僕が高校生の頃だった。少年ビドーがコルレオーネ島から逃げるところに始まって、アメリカのイタリア移民社会での貧しい暮らしぶりやその中で暴力によってのし上がっていくところの淡々としていながらも叙情的な映像、ドラマティックで緊張感溢れる殺戮シーンと若きデニーロの哀愁と野望を秘めた表情、その精悍な立ち回り、時折発っするセリフから漂う掠れた雰囲気などなど、初回にしてぐぐぐいっーと惹き込まれたものだった。その後のブランドやパチーノの登場、とくにパチーノの挫折や成功の具現者としての憎悪と苦悩の歴史から、忘れがたい胸を締め付けられるようなラストシーンに至るまで、全てに通底した「呪縛の歴史」には圧倒されたと言う以外に言葉がない。でも、このコッポラ作品には、<その後の大傑作「地獄の黙示録」にも通じるが>歴史大作であるとともに、ニューシネマ的な青さ、もどかしさが僕にとって大きな魅力なのである。デニーロやパチーノのようなニューヒーロー達の若々しい存在感は、その「もどかしさ」の体現者として、僕らの胸をしめつける。この物語は、ファミリーの血の結束をテーマとしながらも、魂の孤独へのアンビバレンツな感情、呪うが故に救われる、その絶対的な孤独への呪縛を描いていると言えないだろうか。「この世界は永遠に家庭とは相容れぬ。破滅か、しからずんば。。。世に孤独ほど憎むべき悪魔はいないけれども、かくのごとく絶対にして、かくのごとく厳たる存在もまたすくない」-坂口安吾の青春論より-
10点(2004-08-24 01:24:28)
32.  アマデウス
モーツアルトは<神の子>である。神の子として、その天賦の才をもってしても人間である限りにおいて生きるという現実は単純ではなく、彼が苦悩と怖れを抱えて人生を生き、死んだことはよく知られている。モーツアルトを一人の人間として捉えるドラマというのもひとつの観点として興味深いものであるが、実際、その試みはイエス・キリストを主人公とするのと同じように難しいだろう。とはいえ、この映画を天才モーツアルトに対峙する凡庸の人サリエリの物語と考えるのはちょっと違う。サリエリがモーツアルトの音楽についての真の理解者であり、この映画をサリエリという自意識の鏡を通したひとつのモーツアルト像として捉えるのがやはり一番しっくりくるのである。やはり、主役はモーツアルトであり、モーツアルトの神性、人間性をサリエリという自意識を通して語ることによって、僕らは僕らの中の無限のかけがえのなさを語りえるのではないか、というのが僕の<文学的な>捉え方である。 モーツアルトの音楽を語る時、アポロン的な伝統音楽の高度な模倣の上にディオニュソス的な情熱、官能のエッセンスを見出すことが重要である。さらに生と死を行き交う精霊の如く、まさにデモーニッシュな一面により生み落された名作「レクイエム」に至っては、彼が神の子の苦悩を人間的な深みによって表現し得たことを示している。それをモーツアルトのモノローグによって語ることは不可能である。この映画では、サリエリという媒介を通じて、僕らはモーツアルトの心性を知るのである。 サリエリのモーツアルトに対する歓喜、恍惚、忘我、嫉妬、憎悪、愛情を僕らは理解する。芸術とは、神の言葉、御業かもしれないが、それはあくまで人間によって生み落されるものだ。人間という理性の森を通してしか、それは具現化されない。それがモーツアルトの作品であり、サリエリという自意識を通した時、それは僕らに人間的なドラマ<現代的な神話>を提供するのである。
10点(2004-08-15 23:15:59)(良:1票)
33.  アルマゲドン(1998)
大好きな映画です。奇想天外、荒唐無稽、空前絶後の暴発的ストーリー展開にはかなり興奮しましたし、ブルースウィリスの超人的行動や献身的な最後にも晴やかさと潔さを感じましたよ。この映画に対して多くの言葉は要らないでしょう。最高です。
10点(2004-08-12 20:25:58)
34.  エルビス オン ステージ
エルビスが偉大なる復活を果たし、日本でも大ヒットした1970年のライブ記録映画。最近、僕の叔父さんが車で<オンステージ>のサントラ盤をかけながら、運転&熱唱していたのを横で見ていて、「なるほど、団塊の世代の叔父さんにとってもエルビスの歌が響くというのは、この<オンステージ>のせいなのだなぁ」と納得した。僕自身も、高校生の頃、テレビで<オンステージ>を観たときには、さすがに「エルビスすごいぞ!」と感銘し、さっそく図書館へエルビスのベスト盤テープを借りに行った記憶がある。ど派手なステージングも印象的ながら、あの甘い歌声から繰り出される極上のバラードソングには、男の僕でもかなり痺れるものがあった。単純にかっこいいのである。50年代中期から60年代にかけての若々しいロックンロールアイドルたるエルビスも印象的だが、やはり彼がスターとしてステージ上で最も輝き、その虚勢と苦悩をも全身全霊で見せ付けた孤高の<オンステージ>があってこそ、エルビスはエルビス足りえるのではないだろうか。(思い出してみれば、最近の映画で現れるエルビスの亡霊たちも皆この頃のエルビスではないか!日本のスターにしきのあきらも何かって言うとエルビス風の衣装を着ているしね。)彼の<オンステージ>はDVDで発売されている。もうこれは一家に一枚の世界だね。
10点(2004-06-25 02:03:48)
35.  ショート・カッツ
傑作である。レイモンド・カーヴァーの小説作品といえば、日本では、村上春樹訳としてよく知られている。その村上春樹がカーヴァー作品について、「人間存在の有する本質的な孤独と、それが他者と関わりあおうとする際(あるいは他者とかかわりあうまいとする際)に生じる暴力性が重要なモチーフ」と解説しているように、カーヴァーは、その原初的な孤独と暴力性に常に囚われる下層労働者たちの荒涼とした悲哀を描く作家である。しかし、村上訳でカーヴァーに接する僕たちにその辺りのニュアンスを掴むのはなかなか難しい。村上訳から漂う軽妙な風がまさに都市的な悲哀を僕らに吹き込んでくるからである。個人的には、その悲哀の本質<弱さ>は変わらないと思うが、カーヴァー作品で描かれる下層労働者たちの絶対的な「どうしようもなさ」が圧倒的な存在感をもって僕らに伝わっているかと言えば、なかなかそうは捉えられないところがあるだろう。それに比べればアルトマンの描く「ショートカッツ」は実にカーヴァー的<原カーヴァー的>であると僕には感じられた。画面に漂うあまりにも明瞭な寒々しさ、絶対的な孤独を自明とした人々の生活とその荒涼感。映画としては、カーヴァーのいくつかの短編を繋ぎ合わせた構成となっていながら、そのエッセンスをうまく統合することにより、カーヴァー的世界を忠実に表現していたように思える。著名な役者たちも各々の無意識的な「ボロボロさ」加減をうまく演じていた。上空を旋回するヘリコプターが煽る硬質な不安感の中、最後の地震のシーンは人間の根源的な衝動、漠とした悪夢を見事に映し出す。僕は映画を観終わったあと、しばらく間、悪夢の続きの中をくらくらしたものだ。
10点(2004-06-10 00:47:32)
36.  プレッジ
とても怖い映画だった。この映画のニコルソンをどう捉えたらいいだろうか。彼にとってのプレッジとは一体何だったのだろうか。ショーン・ペンの前2作品を認めている身としては、彼が単なる凡庸なサスペンスを撮るような人間ではないという確信はあったし、実際そういうサスペンスのみの視点でこの作品を観るべきではないのだと思う。この作品に通底する孤独な男の信念が徐々にその箍(たが)を狂わされていく様子は正直言って恐ろしく、それが事件と素直に繋がっていかないところが逆に評価できると僕は思っている。それを「長いネタふりのコント」だと言われると、観る人によってはそうなのかなとも思うが、そもそも人生とはオチのつかない枝葉なエピソードのつづきであって、傍目には全く面白みのない孤独な一人芝居を知らず知らずに演じているものなのだ。まぁそれはもう自明なことであって、僕らがそこに求めるのはその中で失われつつあるものをどう汲み取っていくかということなのだろう。この作品は、冒頭から刑事を引退した後のニコルソンの一挙一動を克明に記していく。彼は、刑事としての本能と執念によって事件を執拗に追いかけているように見える。そして僕も映画中盤までは、その信念こそ彼が少女のイノセンスを守る孤独なキャッチャーであるというところから来ている、そういう物語なのだと思っていたのだ。<彼の語られない境遇は重要だ> ところが、、、徐々に何かが狂っていくのである。それは体の中に巣食う癌のように確実に何かを蝕んでいくのである。そんなニコルソンの微細な変化と抑えきれない狂気が垣間見える場面の恐ろしさ。彼の「イノセンスのキャッチャー」という立場は、その絶対的不可能性の罠に確実に閉じ込められていくのである。この作品のテーマはずばり「イノセンスのキャッチャー」の行く末だと思う。ニコルソンは年老いて歪んだホールデン少年の行く末なのだ。彼がプレッジとして信奉したもの、全てのイノセンスを守ることの不可能性は、容易に自らを矛盾の孤独に押し込め、どこでもない場所へ導く。なんというリアリティだろうか。この作品のエピローグは冒頭のシーンへと繋がっているが、そこにはウロボロスの如き出口のない絶望が横たわるのみである。前作で描いた希望の光のようなものはそこには見出せない。この地平からショーン・ペンが如何にして物語を紡いでいくのか、それは次作に期待するとしよう。
10点(2004-05-02 01:53:37)
37.  地獄の黙示録
これまで繰り返し語られてきたことだが、この映画は、悪夢の如き戦争を描いたのではなく、戦争に纏わる悪夢そのものを描いているのである。まず、冒頭。密林を一瞬に炎と化すナパーム弾、「ワルキューレの騎行」の旋律とともに隊列を組むヘリコプターの一群。破壊の象徴としての圧倒的な重量感と硬質性、その神々しさ。戦争という生の破壊的状況において、それは荒ぶる女神の如き美しいものとなる。中盤。ボートを駆って河の上流を目指す一隊に訪れるベトナム戦争という義なき闘争への疑念。剥ぎ取られていく人間性。河の上流は、明らかに人を正義から狂気へと導く思念的道筋である。終盤。此の世の境界というべきド・ラン橋を超えた辺りより、映画には常に不穏な音楽が流れ続ける。ボートは遂に彼岸とも言うべきカーツ王国に辿りつく。カーツを神と崇める天国。それはカーツの思念的理想を生み出した地獄でもある。ウィラードによるカーツ殺しは、文化人類学的に言う「王殺し」であろうか。これもカーツの思念的達成である。<特別編では、カーツを殺したウィラードは、鬼が島から帰還する桃太郎の如く、村上春樹の「羊をめぐる冒険」の主人公の如く、現世に戻る。> ここまでストーリーを俯瞰してきたが、改めてこの物語の骨子を言えば、それは「狂気のその先にあるもの、その一線を越えることへの抑えがたい欲望と恐怖」である。そしてその答えは、Nothingなのである。この物語はそういう悪夢なのだ。そう、これはコッポラの悪夢。彼が芸術的信念に基づいて辿った悪夢の先、現代の黙示録として名づけた物語の終末はNowhereであり、Nothingなのである。彼がただ善悪を超えた美しさ、心象の完全性のその先に描いた光景、それは物語として如何に脆く儚いものであったろうか。Nothing。その恐怖。そんなものは物語として、映像として描ききれるものではないのだ。その到達と挫折が混沌としたラストシーン。彼の作品に対する自身の評価は、どうだったのだろうか。それは、彼が80年代以降に辿った道筋によって示されている。しかし、映画界でこの領域にまで足を踏み入れた作品は数少ない。そして僕にとっても忘れがたい悪夢としてこの映画は脳裏に刻まれることになった。大傑作。<全くもって個人的に。。>
10点(2004-03-28 21:45:54)(良:1票)
38.  ホテル・ニューハンプシャー
「ホテルニューハンプシャー」とは喪失の物語である。家族、或いは父親が真っ当な存在としてのあり方を模索しながらも、結局はそれが永遠に失われてしまったことが語られているのだ。熊とは正にその真っ当さの象徴だったのではないか。この物語の中で、本物の熊が冒頭で殺されてしまうのは、家族としての真っ当さの死を象徴しているのだろう。そして、擬似の熊はその喪失の代替的な役割を担っており、彼らが常に失われたものへの快復を切実に求めていることの証しなのである。父親はその失われたものを快復しようとホテルニューハンプシャーの経営を始めるが、家族はそれぞれに不具を抱えており、さらに新たな喪失にも見舞われてしまう。彼らは、それでも家族としての或いは生きていくことの真っ当さを求めることを諦めず、喪失感の中で彷徨<その象徴がウィーンであろう>し続けるが、結局のところ、彼らは何処に辿りついたのだろうか。もちろん何処にも辿りつかない。村上春樹の小説「回転木馬のデッドヒート」の有名なプロローグは、その現代的な喪失感を的確に表現している。「我々が意志と称するある種の内在的な力の圧倒的に多くの部分は、その発生と同時に失われてしまっているのに、我々はそれを認めることができず、その空白が我々の人生の様々な位相に奇妙で不自然な歪みをもたらすのだ。」 この映画<或いは小説>は、僕らにこう考えることを教えてくれる。それは一種の方法論として。それでも、僕らは意志し、生きていく。それしかないのだと。
10点(2004-02-28 23:35:06)
39.  ザ・ビーチボーイズ/アン・アメリカン・バンド
ブライアン・ウィルソンがブルース・ブラザースと夢の共演を果たしている。それだけでも一見の価値あり。但し、歌の共演ではないが^^; ビーチボーイズに関しては、ちょっとこの場だけで語りつくすことはできない。ただビーチボーイズの偉大さを知る上でもとにかく観て欲しい作品だ。初期のサーフィン/ホットロッドの時代からブライアンの才能溢れる「ペットサウンド」の時代、伝説の「スマイル」製作風景とブライアンがドラッグに溺れていく様、ブラザース時代である不遇の70年代初期とブライアンの復活、そしてデニスの死。まさに原題のごとく一つのアメリカンバンドの歴史を追いながら、それはまさしくポップ&ロックの歴史そのものでもあるのだ。80年代のレーガノミクスの時代、ビーチボーイズがアメリカンロックの象徴として建国記念コンサートに招かれたのは当然といえば当然であるが、不遇の時代にヨーロッパでは認められながらもアメリカから見放され続けた彼らが実際どう思っていたのかは分からない。まぁとにかくビーチボーイズを知るための入門映画として、お薦めの一品である。僕としては、デニスが歌う「You are so beautiful」がとても印象に残っている。ブライアンとカールの入れ替わるPVも暗示的だったな。 そしてトリップ状態のブライアンがソロで歌う「Surf's up」・・・美しくも哀しい。
10点(2004-02-22 04:09:17)(良:1票)
40.  ワイルドバンチ
今や伝説となったラストの殺戮シーン。数年ぶりにこの映画を観て、改めてここに描かれる男達の生き様死に様の美しさに感嘆の念を禁じえなかった。男達の自死を賭した大量殺戮は、如何なる理由で描かれなければならなかったのか。彼らは仲間への友情の為に殺すのか。それとも自らのプライドの為か。ゴモラの火の如く、ラプラスの悪魔の如く、一切の妥協も躊躇いも排したあの殺戮シーンの美しさは一体何であろうか。僕はこの映画に失われた予定調和を見る。強烈なメランコリーの発露として、男達のちっぽけな信念に裏打ちされた運命そのものを見るのである。行き場のない狂気は、ただ生死の意味のみに執着し、その行為は、神の裁きの如き美しさを放ち、瞬時に一切を無に帰す。刹那に放たれた至上の輝き。その美しさ、その哀しみ。その根源性は、僕らの胸を強烈に打ち奮わせるのである。
10点(2004-01-24 03:53:45)
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