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onomichiさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 407
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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81.  ベンジャミン・バトン/数奇な人生 《ネタバレ》 
彼らは永遠を求めた。 そして、それを見つけた、、、のだろうか? 海と解け合う太陽を胸に刻んだのだろうか?  この物語はファンタジーであり、寓話である。2人の男女が同じように年を経るのではなく、男は80歳から老いを逆行し、若年化する過程で女の時間に自らの年齢を重ねていく。2人は共に40歳代という人生の中間地点で、ようやくお互いを真っ当に愛し合えるようになる。それは短いが故に密度の濃い時間の流れであった。その後、ベンジャミンとデイジーは別離という運命を受け入れる。  ベンジャミンの物語をひとつの人生として考えれば普通と変わらないのではないか、という見方があるが、デイジーという常に身近に感じる他人の人生と重ねあわせると、やはり若返りという逆向きの人生というのは特異であると言わざるを得ないだろう。それは、ベンジャミンとデイジーの年輪の重なりにこそ、恋愛によって輝いている時間が短いというある種の人生訓的な観念を想起させる。 しかし、ベンジャミンとデイジーにとって、それは現実以外の何ものでもなかった。だから彼らは40代前半で意図的に出会い、愛し合い、別れる。そして、そこに永遠を確信する。 ベンジャミンとデイジーは「終わり」を現実として認識していた。長い人生があり、お互いが愛し合える短い時間がそこにしかないということを。。。恋愛について意図的であるということは、自らの人生に対して鳥瞰的であり、「私」を超えて、第三者的であることを意味する。この映画がファンタジーでありながら、本格小説の如き重みを備えるのはその視点故だと思う。 普段、僕らは人生が限定的であることを知ってはいても、そのことを意識から遠ざけて生きている。時の流れがあり、それに身を任せることにより、永遠という時間は常に遠ざかっている。  ベンジャミンとデイジーは永遠を確信する。 永遠はその瞬間にあり、瞬間は永遠に引き延ばされるから。 
[映画館(字幕)] 9点(2009-03-18 20:16:51)(良:1票)
82.  ドリームガールズ(2006)
ジェニファー・ハドソンがとにかく素晴らしい。最初はモータウン風のフランクリン・シスターズって感じですごく楽しめたし、彼女の抜けた後の現代風シュプリームスもよかった。ジェニファー・ハドソンの歌はまさにアレサ・フランクリンのゴスペル調のボーカルスタイルを彷彿とさせ、さすがにシュプリームスの中には入れられないかなと思うが、それはそれで十分楽しめる。それよりも何よりも、ステージシーンにも増して、ミュージカル仕立ての部分での彼女の「うた」がとにかく響きまくっていて、その響きの倍音が僕らの肌を粟立たせ、胸をぐいっと掴んでくる。彼女の状況語り、心理語りの「うた」が伝える響きこそが、実はこの映画が描きたかったことそのものではないだろうか、とさえ僕には思えた。 全編に響き渡る「うた」は、その浅薄なシチュエーションを越えて、僕らにある種の「身体的な意味性」とも言うべき感動(それはジャッキー・チェンのアクション映画から受ける感動にも似たもの)を訴えかける。それは従来の映画における分かりやすく意味の通った(そうであることを求められる)セリフ回しという映画的常識、その不自然なリアリティを方法論的に(自覚的に)変容してみせるのだ。(例えば、市川準『東京夜曲』で描かれる人々の会話が、その聞き取り難さ故に、各人の「ためらい」という身体性をリアルに表現するのと呼応する) 改めて言えば、『ドリーム・ガールズ』こそは、今、僕らの物語に求められる「身体的な意味性」を、映画的なコミュニケーションを、「うた」の響きによって体現している方法論的に革新的な映画なのではないかと思うのだ。(これこそがロックやソウルの感動であり、物語との融合である) それには言うまでもなく、ジェニファー・ハドソン抜きにはこの映画を語れない。これは彼女の映画なのである。。。と、ビヨンセとエディ・マーフィーを忘れてはいけないか。もちろん、ビヨンセのとことんまでダイアナを表現してみせたポップセンスも素晴らしい。エディ・マーフィーもJBというか、ピケット風なシャウトあり、マーヴィン風のメロウサウンド、且つポリティカルソングもあり、マーヴィン&タミー風なデュエットあり、いろんなスタイルが楽しめて、MTV時代のParty All The Timeの軽いノリとは全然違う、彼の奥深さを感じた。これだけ感動できて、楽しめるんだから、この映画は傑作でしょう。やっぱり。
[映画館(字幕)] 9点(2007-03-11 11:15:22)
83.  ブルックリン最終出口 《ネタバレ》 
ジェニファー・ジェイソン・リーが発散する空虚さ、その美しさと悲しさがとても痛かった。それでも最後に僕も一筋の光を見た思いがする。彼女にもスト解除と共に開いた最終出口があったと信じる。「無知の涙」という言葉(というか小説の題名)があるが、彼女は最後に無知である自分を涙し、他人の愛情を感じることによって救いを得ている。この映画の舞台は1950年代であり、同名小説も1960年代前半に書かれたもので、僕らのイメージとして多分に牧歌的な時代だと思っていた当時のアメリカ社会における下層の暗黒部が淡々と描かれている。当時も今もそれでしか生きられない、生きることができない人がいる。そういう人達は知ることによって救われる可能性があるのだろうか。悔恨の涙を流すことができるだろうか。しかし、知っていながらそこへ落ち込んでしまう、最も可能性が閉ざされた、出口の全く見えないそういう現実があるのではないか。最後の光を見ながらそういう暗澹がチラッと頭を掠め、少し背筋がゾッとした。
[DVD(字幕)] 9点(2006-05-28 09:59:59)
84.  最後の誘惑 《ネタバレ》 
十字架から逃れたイエスがマグダラのマリアと交わり、ラザロの妹マリアやマルタと生活を共にして多くの子供をもうける。人間的な生活に幸福を見出すイエス。イエスを神と崇めるパウロの演説を罵倒する人間イエス。老いたイエス。さすがに『タクシー・ドライバー』や『キング・オブ・コメディ』の監督はすごいことをしてくれる。それらの映画の過激さに痺れていた僕が新しいイエス像に喝采したのも当然な話だ。しかし、最終的に人間イエスは裏切りを装ったイスカリオテのユダによって逆に裏切り者扱いされ、彼を十字架の上から生活という土壌に導いたと思われた天使は悪魔に変わり、イエスが必死に父たる神に許しを請うシーンに至る。長い長い妄想は「最後の誘惑」という悪魔的思念として閉じられ、彼はそれに打ち克つことにより旧来の聖書、そのイエス像は守られるのである。生活という、日常という悪魔。それは結局のところ否定され、作品は閉じられる。このラストシーンに至り、当時の僕は落胆した。この映画は結局のところ、イエスを神の子として担保する以外の何物でもない、そこに大胆な「イエスの生涯」に対する現代的解釈、よりリアルで厳しい宗教感覚というものはなかったのである。しかし、最近になって『最後の誘惑』という作品もまた別の角度から観ることができるようになった。スコシージ監督が描きたかった新しいイエス像というものは正にあの妄想としての「最後の誘惑」の物語にこそあったのではないかと。確かに最後にそれは否定されるのであるが、やはり彼らが最も描きたかったのは神の子イエスを批判する人間イエスの物語であって、宗教というものが必ず躓かざるを得ない生活というもの、その悪魔を生み出す欲望への飽くなき信、それが人間として肯定すべき現実である以上に、人間を人間足らしめるココロそのものである、そういうことではなかったか。 『最後の誘惑』から15年以上が過ぎ、『ダ・ヴィンチ・コード』が全世界の4000万人に読まれる現代になって初めて、この作品の本当の意義が眩い朝の光のようにベールの隙間からこぼれ出ているような気がする。マグダラのマリアがイエスの子供を宿しながら、神によって死へと召される、あの短いシーンの中にこの作品を別の解釈へ導く象徴的な意図が隠されていたのかもしれない。
[ビデオ(字幕)] 9点(2006-05-28 02:59:29)
85.  ミリオンダラー・ベイビー
僕もやましんの巻さんと同様にフランキーとマギーの関係は恋愛そのものであり、同時にそれを超え出たものであると感じた。「自分を守れ」「タフなだけではダメだ」「相手の逆へ動け」、、、ボクシングにおけるフランキーの信条こそが彼の美意識としての人生を物語る。しかし、そんな彼の孤高さは、孤独と等価だ。フランキーとマギーは孤独が結びつける精神的な関係であると共に、トレーナーとボクサーというボクシングを通じた絆によって、一種の肉体的な関係をも共有する。僕らはそこに通常の恋愛における激しさやメロウさとは違う、揺るぎない生の勁さ(つよさ)、身体性に基づく深い関係を見出すのである。 2人は精神的な恋愛関係であると共に、身体的とも言える強い結びつき、生の実感を共有する。だからこそ、マギーはフランキーによって死に至らしめられることを望み、最終的にフランキーはマギーに対してタオルを投入できたのである。 スクラップがケイティに語り聞かせる。彼らがどう生きてどう死んだか、それが2人の物語として語られてこそ、関係を生きるという実感、可能性、そのリアリティが初めて強調される。僕はそこにこそ、この映画の生の強度を強く感じる。僕らにとっての主体的な生とは何だろうか?主体的な生とは主体的な死にも繋がる。今、日本には年間3万人の自殺者がいるが、彼らは主体的に死を選び取っているのだろうか?正直言って僕には分からない。僕には所詮「生きる」意味すらも実は分からないのである。分からないことは分かるし、そのことを意識する限りにおいて、分からないことのリアリティを感じることができる。それだけなのである。この映画を観て感じるリアリティも逆説的な生への実感という意味で同様かもしれない。最後に、、、この映画の陰影ある映像こそ、クリント・イーストウッドの「いかがわしい場所で人間の道を極める」意志そのものだろうと、僕は思うのである。 (追記)この映画のラスト、、、「人間の宥め難い不遇の意識に対する水のような祈りとして」、生きる努力に対するひとつの許しとして、タオルは投げられたのだと僕は思う。ちなみに行為としてのタオル投入は、闘いの放棄という意味しかない。通常、セコンドは闘者の直接的、間接的(肉体的)意志を感じ取り、またその声を聞き、タオルを投入する。その際、セコンドは闘者とリングを共にしているのだ。
[映画館(字幕)] 9点(2005-06-04 20:39:29)(良:2票)
86.  ロング・エンゲージメント
『シンデレラの罠』のジャプリゾが描く第一次世界大戦期の歴史ミステリー。これをジュネ&オドレイのアメリコンビで映像化。僕は映画を先に観てから原作を読むという幸福な関係でこの作品に接したので、映画自体もとても楽しめた。ジャプリゾは映画の脚本も書いている人なので、原作自体も映画的なスピード感覚に溢れ、場面展開も小気味よい。相手からの手紙を挿入することによって、周りに状況を語らせ、主人公の語らなさ(レティセンス)を補完する手法も読み手の好奇心を煽り、ついつい読みを走らされる。また、ジャプリゾは、フランスで『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を翻訳した人でもある。サリンジャーが戦争を直接描かないことによって、戦争という心的状況を突き詰めた作家であることを思えば、この小説に戦闘シーンの直接的描写が一切ないのも納得できる。ミステリーは、謎解きによって真相を追い求めていくものであるが、今では、事件の真相とそこに本当の真実がないというアンビバレンツな感覚こそが現代的なリアリティでもあり、そこからどう一歩進めるか、どう結末を付けるのかが今僕らの読む物語に求められているのではないだろうか。さて、映画であるが、この作品は基本的にミステリーだが、主人公が恋人を思い続ける恋愛映画でもあり、そこにアメリ的な「生きることそのものが、希望であり可能性であること」という思想が全面的に押し出されていく。主人公が事件の謎解きをしていく中で、事件に関わった人々の様々な人生と事件に対峙することで自らに問い掛けざるを得なかった生きることに対する戸惑いが次第に露呈されて、それは僕らの中にも沈殿していくのである。しかし、主人公は決して希望の芽を摘むことなく、謎解きこそを自らの生きる希望に変えるのである。偶然に頼る主人公の心情は余りにも乙女チックすぎる気もするが、彼女の楽観的意思の切実さは、逆にこの作品に時代的なリアリティを与えることに成功していると僕は感じた。人は様々な人達の様々の物語に翻弄され、いつでも間違え得る状況にいるが、その中でも適切に綱引きを行いながら、常に真っ当さを信じて生きていくべきなのだろう。この映画は遠い過去を描いていながら、そんな現代的な歴史性をとても素直に描いてみせる。あと、戦闘描写のリアリティについては、あまりここで語るべきものでもないと僕は思う。そこには客観的描写以外の何もないからである。
[映画館(字幕)] 9点(2005-03-21 21:06:36)
87.  ブルース・ブラザース
この映画は最高に面白い。でも敢えて言うと、ミュージカル部分はまあそれなりに。。。ブルース・ブラザースの演奏は、僕にとって、それほどぐっとくるということもなく、一応、サントラと「ブルースは絆」をCDで持っているけど、最近殆んど聴いてない。聴くんだったらやっぱりアレサのオリジナルやオーティス、エルビスのライブを選んでしまう。。。それは仕方がないことかな。<でもスペンサーの「ギム・サム・ラヴィン」は、わりとハマってたね。> ブルース・ブラザースの時代って、70年代後半、いわゆるディスコやニューウェイブ全盛の頃だから、彼らの音楽にもその影響が見受けられる。それは良くも悪くも時代の流行なのだ。それでも、、、そんな時代にR&Bの古典を堂々と聴かせてくれるのだから、まぁそれなりの目新しさはあったのだろう。ある意味で功績も。。。 映画としてみれば、2人のクールな掛け合いやハチャメチャな展開は最高に楽しい。あれだけ車をぶっ潰したり、ショッピングモールをめちゃめちゃにしておきながら、誰一人として死なない。怪我もしない。<あのナチス野郎も死んでない??> それが、素敵じゃないか! 
9点(2005-01-29 10:23:54)
88.  キャスト・アウェイ
現代版のロビンソン・クルーソー物語。バレーボールを相手に延々と一人芝居を繰り広げるトム・ハンクス。最高である。彼の演技だけでもなかなか飽きさせない。この物語、それで終わりかと思いきや、帰国後の彼とヘレン・ハントの切ない恋物語もわりと良かったな。そして、最後のシーン、新しい出会いの始まり。主人公にひたすら感情移入しながらも、全くもって展開が予想通りの予定調和である。が、にもかかわらずじっくりと観させるだけの映画としての真摯さを僕は感じた。そして、やっぱりトムハンクス。彼の存在感は素晴らしい。ヘレン・ハントも可愛らしいね。何はともあれ、とても素直に楽しめた作品である。
9点(2005-01-23 19:59:04)
89.  華氏911
ムーア氏の前作『ボーリング・フォー・コロンバイン』は、アメリカ世界の現代的セキュリティの問題を鋭く解いた秀逸なドキュメンタリーであったと思う。それを認めた上で僕は、セキュリティというタームが必然的に覆い隠す人間の本質的な生の歪んだ物語にこそ目を向けるべきなのではないかと前作のレビューで書いた。 しかし、それはどうやらムーア氏の仕事ではなかったようであるw 『華氏911』は、前作で示した彼の社会構造論的な解釈を踏襲し、アメリカという脅迫観念に縛られた国家が必然的に志向しながら常に隠匿せざるを得ない社会的構図を様々な角度から追求した渾身のドキュメンタリーであるといえる。さらにそこから導き出される国家による作為的なセキュリティに対する本質的な懐疑を素直に表明しており、僕はこの点を大いに評価していいと考えている。 この映画そのものをムーア氏の妄想だとする意見もあるかと思うが、映画の中で取り上げられた事実或いは解釈は、僕にとって特に目新しいものではなかった。つまり、こういった事実或いは解釈は、アメリカだけではなく、日本でも既に指摘されているものである。 大局的に見れば、この作品で取り上げられた事実或いは解釈に僕は大いに納得する。しかし、人間一人一人に目を向けてみれば、やはりこういった国家的セキュリティ批判という考え方が個々人のある種ナイーブな側面/その視点を覆い隠してしまうのではないか、という思いも拭いきれない。 この作品の中には、人間の原理という地平において、もっと捻じ曲がった物語が見え隠れしている。それはセキュリティという次元の問題とは全く別のものと思われて仕方がないが、今のところこれをムーア氏に期待するのはお門違いかもしれない。 それにしても、アメリカという国は懐が深いと思わざるを得ない。この映画の内容も然ることながら、こういう映画が存在すること自体がある意味でアメリカなのだと思う。僕は素直にそう感じた。
9点(2005-01-23 11:40:41)
90.  アメリカン・ビューティー
主人公が取り戻そうとしたのは、自身の「青春」である。彼が会社を辞めてフリーターになり、娘の友達に魅せられて肉体を改造し、マリファナを吸ってロックを絶叫するのは、自らの青春への信とその回帰の意志からくるものであろう。この映画は、そんな青春に象徴される精神の自由とか、利己主義とか、社会に対する無責任さなどというものに対する無邪気な信頼を描いたものなのだろうか。  きっかけは、主人公を襲う妄想であった。現代的妄想とは、現実によって侵食された内面からの末期の悲鳴である。そしてそれは現実/世界を超越する意志という失われた原初的思念の新たな発現になり得るのである。 この物語のもう一方の主人公は隣人の若者であろう。彼の存在によって、ケビン・スペイシーの無邪気さは相対化されていると感じた。彼の現実は最初から不透明である。そこには回帰すべき青春への信などというものは既にない。しかし、彼とケビン・スペイシーはまるでコインの裏と表のような存在であるようだ。彼らが同じ世界を生きている以上に共有している思念を感じるのだ。それこそがこの映画のモチーフである「生きていくことへの信」だろう。そのモチーフに繋がる若者の動機が少し弱いかもしれないが、ある意味でそこにこそ「青春」というタームを超えたこの物語の新たな可能性を見たような気がする。
9点(2004-08-27 23:37:02)(良:1票)
91.  ロスト・ハイウェイ
内面と現実の境界、それは人と世界の境界でもある。人は世界を構築する毎に必然的に人と世界の境界たる壁をも同時に構築してきた。しかし、今の時代<無精神の時代>、気がつけば壁は消失し、人は世界という波に無防備に侵食されつつある。つまり、内面と現実の境界が消失して侵食されたのは人の心的世界であり、これが内面の喪失と呼ばれる現代的な主体の変容なのである。侵食された人の心はその少ない領域の中で末期の悲鳴を上げるだろう。そこに立ちのぼるのが現代的な妄想であるのだ。リンチは映画がそんな人(作家)の妄想そのものが作り上げる世界であること、そのことを明確に主張しているように思える。妄想から浮かび上がる人間的なリアリティという面においては、最新作の「マルホランド・ドライブ」に譲るが、本作「ロスト・ハイウェイ」は、ひたすら人間理性の森の中で道を見失った主人公の姿を追うことにより、追い詰められた狂気の静謐さを見事に描いていく。「ロスト・ハイウェイ」という場所、そこが妄想の源泉であり、同時にそれは現実/世界を超え出でる「力への意志」という失われた原初的思念の新たな発現なのかもしれない。
9点(2004-08-21 00:00:24)
92.  アメリカン・ヒストリーX
歴史とは個々人の心の在り様の集大成としてある。世界の至るところで人々が憎しみを連鎖させ、負の歴史はつくられていくのだ。そこに出口はないのだろうか? この映画は改めてその可能性を信じることの困難さを見せつける。無邪気な救いは無慈悲に閉ざされ、どうしようもない救われなさだけが残るラストシーン。 お互いが分かり合える足場を失った状態でも、人が人を理解する希望を失わないこと、その為に僕らは如何したらいいのか? そもそもそういった方法論は有り得るものなのか? 僕らは昨今のイラク情勢により、憎しみの連鎖というものが如何に根の深い問題かを知っている。その救われなさは既に自明なのだ。その先の道筋へ、仄かな希望の光を見出すこと、そんな作品としての方法論に現実性があるのかどうか。今こそ確信的なコミットメントへの志向を期待したいものである。 「もしあなたの人生が、それほど筋のとおった理由もないのに、どこかの誰かの人生とからみあってきたら、その人はおそらくあなたのカラースの一員だろう。人はチェス盤をつくり、神はカラースをつくった。」(カラースとは、民族や制度や階級などに全くとらわれない、神の御心を行うためのチームのことである)~カート・ヴォネガット・ジュニア『猫のゆりかご』 ボコノン教教義より~  Peace!
9点(2004-08-13 01:09:09)
93.  恋愛小説家
ジャック・ニコルソン、変わった男である。極度の神経症とも思える、潔癖症、離人症、他人を平気で傷つける毒舌家、誰もがお近づきになりたくないであろう、正に偏屈オヤジ。でも、よく考えてみたら、これらの症状というのはすべて、青春時代に僕らが囚われる、あの自意識の過剰さに由来する心の在り様そのもの、その極端な症例ではないだろうか。ある意味で永遠に大人になりきれない男。恋愛小説を描くことを生業としながら、恋愛のできない男。恋愛に人一倍の憧れを抱きながら、自分を傷つけたくないばかりになかなか踏み込めない、過剰な自意識のせいで日常的な幸せの価値を見出せない不幸な男。 そんなジャック・ニコルソンが選んだのが、はすっぱな感じではあるけど、生活感に溢れる力強い母親、それでいて自分の可愛らしさを素直に表現できる女性、ヘレン・ハントだというのはすごく分かるような気がする。 この「恋愛小説家」という映画、僕にはこう思える。恋愛への過剰な憧憬を捨て、現実的な愛情生活に目覚めた中年恋愛小説家の転向、その滑稽さと清清しさ。実はものすごく共感してたりなんかして。。。 
9点(2004-08-12 21:52:14)
94.  ブラック・レイン
「ブラックレイン」に対する僕の評価は、松田優作に尽きる。<僕みたいに>昔から松田優作が好きで、遊戯シリーズ等に思い入れがある人間でなくても、その圧倒的存在感にはおそらく痺れるのではないかとは思うが。この作品は、癌を患った彼が自らの病気を伏せて撮影に望み、病魔と闘いながらも魂魄の演技をし続けたことがエピソードとして伝えられる。結果的に彼の映画としての遺作となるこの作品で、日本人の役者がハリウッド映画で通用すること、それを自身の命を賭けた最後の仕事としたと言えるわけだ。そんな彼の想いを抜きにしてこの映画を観ることはできない。作品というのは、純粋な客体として絶対的に存在することは不可能だ、と僕は思っている。作品は、個人が観るという行為を通して初めて作品として個人に認識されるのであって、個人が観るという行為には、当然個人的な視点や歴史、或いは偏見が主観的に加わる。つまり作品とは常に鑑賞者と1対1の関係としてあり、評価というのはその関係性から立ちのぼる自身の思いとしてしか現われざるを得ないのである。「ブラックレイン」という作品には、松田優作という役者馬鹿の生き様がオーバーラップしており、そんな彼に対する感情を抜きにして作品を評価しなければならないということは原理的に不可能なのだ。僕はこの映画をストーリーや設定、演出や映像など、映画のあらゆる評価軸を越えて、松田優作の歴史そのものとして評価するのである。
9点(2004-07-04 21:59:31)
95.  ビッグ・フィッシュ
映画っていうのは所詮がホラ話なんですね。そりゃもう巧妙なホラ話。それをリアルに見せれば見せるほど人は満足したりするんです。不思議なことに。そうすると、「この映画は真実に迫っている!」なんて杓子定規な評価が出たりしまして、これは映画っちゅうものの成り立ちからしてそういう傾向があるから、仕方のないことなのかもしれませんけど。映画のジャンルを問わず、ドキュメンタリーであろうが何であろうが凡そ人が撮るものには必ず演出ってものが付いてまわるもんだし、言ってみりゃあ、それは思い込みとヤラセの世界ですよ。映画ってものはそもそもそういう了解のもとに観るべきものなんじゃないのかって僕は思うんですけどね。ホラ話だって、そこに夢や希望が感じられれば十分に幸せを与えられるんです。ということで、ティムバートンの「ビッグフィッシュ」っちゅう映画なんですけど、これが実に大らかでいい作品ですね。クソ面白くもないエピソードを延々と見せられてつまらんという評価もあるみたいですけど、あのつまらん(?)ディテールがラストに大団円となるところが「蒲田行進曲」的な映画愛だとしたら、僕がほんとに評価したいのは、そっちのつまらんディテールの方でして、あれこそがティムバートンなりのささやかな日常への賛歌なのだと思いますよ。映画もホラ話も、大風呂敷な夢や希望があるのはいいけど、それが日常に繋がる「誠実さ」もなくっちゃね。その観せ方には十分なリアリティがあったような気がしますよ、この映画は。実は親父も自分と同じ弱さを抱えたひとりの人間なんだって、この「自分が存在することの原理」みたいなものを認めなければ、本当の意味で自分が親父を赦し、自分を自分として認めることはできないんです。映画の中の息子と同様に、観ている僕たちが知らず知らずのうちにそのことを了解してしまう、そういう父子にとっての現実的な物語でもあるんです。
9点(2004-06-19 11:36:35)(良:1票)
96.  ミッドナイトクロス
どこを取ってもデ・パルマ丸出しのデ・パルマ映画の中堅どころ。独特のカメラワークに、多用される画面分割、そして美しい音楽と奇妙に捩れたサスペンス・ストーリー。主演のトラボルタとナンシー・アレン<「キャリー」を引き継ぐアーパーカップル>も最高だけど、相変わらずの変質的殺人者ジョン・リスゴーもいい味を出しています。ラストはとても哀しい。美しきヒロインの死も、暴走する殺人者のあっけない死に様も共に哀しい。濃密な夢が終わるかのごとく、世の中は何事もなかったかのように日常を流れていく、ただ主人公の大きな喪失感と実録された悲鳴だけを残して。これはデ・パルマ版の「世界の中心で、愛をさけぶ」だ。かなり捻くれてはいるけど、やっぱりテーマは純愛物語なのだから。。。
9点(2004-06-05 00:52:00)(良:1票)
97.  バッファロー'66
ヴィンセント・ギャロは、自らの腐っていく弱さと自閉していくイノセンスをギリギリのラインで救済して見せたのだと思う。この映画を「主人公にとって都合の良すぎる展開だ」ということで責めるのはちょっと違う。それはその展開こそが映画の方法論だからだ。この映画が指し示す「愛情」というテーマには切実に納得させられた。心底共感したと言うと僕もダメ人間ということになるのかな? まぁそれはいいけどね。ビリーにとってレイラが確かな存在として捉えられる、その弱さを包含したからこそ了解される「愛情」がビリーを破滅から救うことになる。ビリーというとてつもなくか弱いキャラクターをギリギリまで粗暴に扱っておいて、最終的にレイラへの「愛情」という装置に吸収してしまう方法は、一見するとなんの変哲もない物語に思われるかもしれない。ただ、僕にはその弱さの自明的な崩壊がギリギリのところで救われるというか、1周ひっくり返ってやっぱり救われる、崩壊への暴力と広範囲な救済をない交ぜにするような「愛情」という風呂敷でスッポリと包み込んで救われる、というような微妙に違和感のあるラインがとても新鮮だったのだ。ギャロが最後のシーンで描きたかったのは、個から愛への広範囲なひっくり返しの救済というイメージだったのだろうと思う。確かにイメージへの意識が強すぎて、展開が唐突な感じがしないでもない。レイラの母性を強調しすぎる点もちょっとひっかかる。しかし、今の世の中で成熟を永遠に放棄した人間たちがその内包している弱さを開放する方法など全くないのが現実なのだ。ギャロはそれをどうだと言わんばかりに開放してみせた。そこには人間の成長物語など初めから存在していないことに留意してほしい。人間の弱さこそ優しさの源泉だと僕は思う。しかし、それは腐っていくものだ。そして、それは絶対的な強さに転換などしない。僕らはそれをただ抱えていくのみで、そのことは人間の成長とは全く関係のないことだ。敢えて言えば、損なわれつつある人間が絶対的な個という「強さ」を放棄することによって回復していく、そういう可能性の物語なのだといえるのではないか。
9点(2004-05-19 01:25:36)(良:3票)
98.  スクール・オブ・ロック
遂に登場!「ハイ・フィデリティ」で変態的ロックおたく&ソウルシンガーを見事に演じたジャック・ブラックが、本職のロッケンローラーに戻って、その本物のロック魂を思う存分発揮した正真正銘のロック映画「スクール・オブ・ロック」! この映画は日本ではGW公開なので、まだ多くの人は観てないと思うけど、いやー面白かったなぁ。ジャック先生、最高です。落ちぶれたロックミュージシャンが代理教師を偽って小学校に潜り込み、なんと小学生とロックバンドを組んで地元のロックコンテストを目指す、という破天荒なストーリーなんだけど、まぁそんなストーリーはとりあえず置いておいて、とにかくジャック先生の一見狂犬のような容貌と躍動感溢れるボディアクションから繰り出されるパワフルなロックスピリットには圧倒されましたねー。笑えたし。やっぱりジャック・ブラックは「愛しのローズマリー」のさえないヤッピーなんかよりもロックが関わるこっちの映画の方がそのキャラクターを100%発揮できるんだろうな。まぁ、この映画はジャック・ブラックのオンステージですよ。そのアクの強いキャラクターにウンザリする人もいるだろうけど、僕は完全にハマリましたね。改めてロックって様式というかスタイルが重要なんだなぁって感じましたよ。ジャック先生も案外と趣味が幅広くって、AC/DCからザ・フー<ジャック先生のロック講義の中ではハードロックにジャンル分けされてましたねー>、ピンク・フロイドにブロンディ、ときたもんだ。ジェーン校長のスティービー・ニックス好きにも笑えたしね。ギターを使った授業は、なんか月亭可朝みたいだったよw。最後にステージでの演奏が盛り上がって、念願叶って観客へのダイブを受け止めてもらえたジャック先生。なんだ、これがやりたかっただけなの?? なんて、思っちゃったりしたけど、まぁご愛嬌。これもロックのスタイルなのだ。いやーとにかく面白い映画でしたぁ。
[映画館(字幕)] 9点(2004-03-27 23:26:21)(良:1票)
99.  レッド・ツェッペリン/狂熱のライブ
ZEPの2枚組サウンドトラック「永遠の詩」。僕は高校生の頃に買って以来、2,3回しか聴いたことがない^^; ZEPのスタジオ盤は何回も繰り返し聴いているのに。。。やっぱり、あのライブは映像がないとキツイ!かな?と思い、最近ようやく映画版DVDを購入しました。が、いきなり、最初の2曲「Rock and Roll - Black Dog」。プラントの声が屁たれている~!なんかやばい雰囲気。。。<あの悪名高きライブエイドを思い出したよ~> しかし、3曲目から、ようやくプラントの声も出るようになって安心。どうも、映画とサウンドトラックでは演奏が違うようですね。<曲目も違うのだ> 1973年7月のMSG3日間のライブ演奏を編集したのが「永遠の詩」なのですが、映画版の編集はかなりやっつけ的で問題が多いというのが一般的な評価のようです。だいたい、何でいきなりプラントの声が屁たれたバージョンを持ってくるのだろうか?? でも、まぁそれ以外は、僕みたいな素人にとって、編集の是非なんてあまり気にならなかったからいいですけど。映像に関しては、ロバート・プラント王子の美しい立ち姿も、ペイジのノリノリプレイも、ジョンJのお茶目な演技も、ボンゾのド迫力ドラミングにも、かなり満足しました。ペイジのギタープレイングは最高にカッコいいね。演奏的にはサントラに収められていない「Since I've Been Loving You」と「Heartbreaker - Whole Lotta Love」が良かったかな。どちらもZEPサウンドの真骨頂でしょう。ZEPのライブアルバムなら、72年のものがようやく公式盤として出たみたいで、プラントのハイトーン・シャウティングの状態はそちらの方が良いという話です。<僕は聴いてないけど> ただ、76年製作のこの映画は、やっぱりロックファンなら必見だよね。こういうライブ映像をもっともっと観たいなぁ。あわよくば、僕の好きなフリー<第1期>とかフリートウッドマック<ピーター・グリーン在籍時>、ハンブルパイ<フランプトン在籍時でもいない時でもどっちでもいいけど、マリオットが元気な時>なんかを観たい! 映像が残っていればねぇ。やっぱり映画としてばっちり映像が残っているZEPは、ロック界の王者だったんだなぁ。
9点(2003-12-29 02:39:59)
100.  レナードの朝
「生かす」というのは非常に難しい問題だと思う。なぜなら「生きる」とは元来、主体的な問題だからである。「生きる」という倫理には、結局のところ普遍的な結論というのは有り得ず、道徳という道筋や常識という枷でそれを推し量ることはできない。ただ、人間というのが常に<他者との>関係性によって成り立つ社会的な自我そのものであること、それ故、人間の抜け殻である身体が果たして人間としての価値を有するのか、という素朴な<ある意味哲学的な>疑問を誰もが拭い去れないのである。そういう潜在的な妥当がこの映画を感動的にしている要因であると思う。レナードが眠りから覚めるシーン。その輝きと喜び。生きることの素晴らしさへの訴え。一体これは誰の意思なのか、一瞬、疑念が湧く。確かに人嫌い医師とレナードの対比は作為的に感じるし、展開があまりにも予定調和すぎるような気がしないでもない。ただ、僕はこの映画を素直に捉えたい。この映画が見せる「生きる」という問いかけを僕は真摯に受け止めたい。彼が「生きたい」のかどうかは僕には分からない。ただ、僕は「生きる」のである。その主体的な有り様、実はロビン・ウィリアムス演じる医師に投影されているところの、生きていくことの素直な有り様を深く考えさせる、そういう映画として僕は評価したいと思う。
9点(2003-12-06 22:37:44)(良:1票)
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