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onomichiさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 407
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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81.  華氏911
ムーア氏の前作『ボーリング・フォー・コロンバイン』は、アメリカ世界の現代的セキュリティの問題を鋭く解いた秀逸なドキュメンタリーであったと思う。それを認めた上で僕は、セキュリティというタームが必然的に覆い隠す人間の本質的な生の歪んだ物語にこそ目を向けるべきなのではないかと前作のレビューで書いた。 しかし、それはどうやらムーア氏の仕事ではなかったようであるw 『華氏911』は、前作で示した彼の社会構造論的な解釈を踏襲し、アメリカという脅迫観念に縛られた国家が必然的に志向しながら常に隠匿せざるを得ない社会的構図を様々な角度から追求した渾身のドキュメンタリーであるといえる。さらにそこから導き出される国家による作為的なセキュリティに対する本質的な懐疑を素直に表明しており、僕はこの点を大いに評価していいと考えている。 この映画そのものをムーア氏の妄想だとする意見もあるかと思うが、映画の中で取り上げられた事実或いは解釈は、僕にとって特に目新しいものではなかった。つまり、こういった事実或いは解釈は、アメリカだけではなく、日本でも既に指摘されているものである。 大局的に見れば、この作品で取り上げられた事実或いは解釈に僕は大いに納得する。しかし、人間一人一人に目を向けてみれば、やはりこういった国家的セキュリティ批判という考え方が個々人のある種ナイーブな側面/その視点を覆い隠してしまうのではないか、という思いも拭いきれない。 この作品の中には、人間の原理という地平において、もっと捻じ曲がった物語が見え隠れしている。それはセキュリティという次元の問題とは全く別のものと思われて仕方がないが、今のところこれをムーア氏に期待するのはお門違いかもしれない。 それにしても、アメリカという国は懐が深いと思わざるを得ない。この映画の内容も然ることながら、こういう映画が存在すること自体がある意味でアメリカなのだと思う。僕は素直にそう感じた。
9点(2005-01-23 11:40:41)
82.  プレッジ
とても怖い映画だった。この映画のニコルソンをどう捉えたらいいだろうか。彼にとってのプレッジとは一体何だったのだろうか。ショーン・ペンの前2作品を認めている身としては、彼が単なる凡庸なサスペンスを撮るような人間ではないという確信はあったし、実際そういうサスペンスのみの視点でこの作品を観るべきではないのだと思う。この作品に通底する孤独な男の信念が徐々にその箍(たが)を狂わされていく様子は正直言って恐ろしく、それが事件と素直に繋がっていかないところが逆に評価できると僕は思っている。それを「長いネタふりのコント」だと言われると、観る人によってはそうなのかなとも思うが、そもそも人生とはオチのつかない枝葉なエピソードのつづきであって、傍目には全く面白みのない孤独な一人芝居を知らず知らずに演じているものなのだ。まぁそれはもう自明なことであって、僕らがそこに求めるのはその中で失われつつあるものをどう汲み取っていくかということなのだろう。この作品は、冒頭から刑事を引退した後のニコルソンの一挙一動を克明に記していく。彼は、刑事としての本能と執念によって事件を執拗に追いかけているように見える。そして僕も映画中盤までは、その信念こそ彼が少女のイノセンスを守る孤独なキャッチャーであるというところから来ている、そういう物語なのだと思っていたのだ。<彼の語られない境遇は重要だ> ところが、、、徐々に何かが狂っていくのである。それは体の中に巣食う癌のように確実に何かを蝕んでいくのである。そんなニコルソンの微細な変化と抑えきれない狂気が垣間見える場面の恐ろしさ。彼の「イノセンスのキャッチャー」という立場は、その絶対的不可能性の罠に確実に閉じ込められていくのである。この作品のテーマはずばり「イノセンスのキャッチャー」の行く末だと思う。ニコルソンは年老いて歪んだホールデン少年の行く末なのだ。彼がプレッジとして信奉したもの、全てのイノセンスを守ることの不可能性は、容易に自らを矛盾の孤独に押し込め、どこでもない場所へ導く。なんというリアリティだろうか。この作品のエピローグは冒頭のシーンへと繋がっているが、そこにはウロボロスの如き出口のない絶望が横たわるのみである。前作で描いた希望の光のようなものはそこには見出せない。この地平からショーン・ペンが如何にして物語を紡いでいくのか、それは次作に期待するとしよう。
10点(2005-01-20 14:08:52)
83.  アメリカン・ビューティー
主人公が取り戻そうとしたのは、自身の「青春」である。彼が会社を辞めてフリーターになり、娘の友達に魅せられて肉体を改造し、マリファナを吸ってロックを絶叫するのは、自らの青春への信とその回帰の意志からくるものであろう。この映画は、そんな青春に象徴される精神の自由とか、利己主義とか、社会に対する無責任さなどというものに対する無邪気な信頼を描いたものなのだろうか。  きっかけは、主人公を襲う妄想であった。現代的妄想とは、現実によって侵食された内面からの末期の悲鳴である。そしてそれは現実/世界を超越する意志という失われた原初的思念の新たな発現になり得るのである。 この物語のもう一方の主人公は隣人の若者であろう。彼の存在によって、ケビン・スペイシーの無邪気さは相対化されていると感じた。彼の現実は最初から不透明である。そこには回帰すべき青春への信などというものは既にない。しかし、彼とケビン・スペイシーはまるでコインの裏と表のような存在であるようだ。彼らが同じ世界を生きている以上に共有している思念を感じるのだ。それこそがこの映画のモチーフである「生きていくことへの信」だろう。そのモチーフに繋がる若者の動機が少し弱いかもしれないが、ある意味でそこにこそ「青春」というタームを超えたこの物語の新たな可能性を見たような気がする。
9点(2005-01-07 16:31:39)(良:1票)
84.  ロスト・ハイウェイ
内面と現実の境界、それは人と世界の境界でもある。人は世界を構築する毎に必然的に人と世界の境界たる壁をも同時に構築してきた。しかし、今の時代<無精神の時代>、気がつけば壁は消失し、人は世界という波に無防備に侵食されつつある。つまり、内面と現実の境界が消失して侵食されたのは人の心的世界であり、これが内面の喪失と呼ばれる現代的な主体の変容なのである。侵食された人の心はその少ない領域の中で末期の悲鳴を上げるだろう。そこに立ちのぼるのが現代的な妄想であるのだ。リンチは映画がそんな人(作家)の妄想そのものが作り上げる世界であること、そのことを明確に主張しているように思える。妄想から浮かび上がる人間的なリアリティという面においては、最新作の「マルホランド・ドライブ」に譲るが、本作「ロスト・ハイウェイ」は、ひたすら人間理性の森の中で道を見失った主人公の姿を追うことにより、追い詰められた狂気の静謐さを見事に描いていく。「ロスト・ハイウェイ」という場所、そこが妄想の源泉であり、同時にそれは現実/世界を超え出でる「力への意志」という失われた原初的思念の新たな発現なのかもしれない。
9点(2005-01-03 23:06:15)
85.  レイジング・ブル
『タクシードライバー』では自らの過剰な感情を正義へと志向させ、『キングオブコメディ』でそれを狂気へと潜行させた。その中間に位置する本作『レイジングブル』では、その過剰さの生々しい姿を実に大らかに、そしてシンプルに描いて見せる。 そういう意味で『レイジングブル』は、主人公の過剰な生の有り様が明瞭であり、幸福な時代の幸福な物語なのかもしれない。主人公にはボクシングがあった。自らの抑えがたい感情や衝動をぶつけるものとしてのボクシングが存在したが、もちろん、彼の過剰さは、ボクシングという競技を軽々と超え、周りの人間、兄弟や恋人達を容易に傷つけることになる。気がつけば、周りの人間には愛想を付かされ、裏切られ、そして独りきりになる。彼はつぶやく、『何故だ?』と。そのとき、彼は一人の人間としてのゼロ地点に立っていることに気がつくのである。そこで自分という人間の生の姿を理解し、直視することができれば、彼は狂気へと向かわないし、社会性を失ったりしない。そういうギリギリの確信とその揺らぎが主人公の生き様に通底しているのである。この映画の美しさは、幻想を剥ぎ取った人間の根源的な過剰さに由来するのと同時に、それがまだ歪んでいない実に健康的な立ち姿によるのではないか。この映画が苛立たしくも晴やかな印象を残すのはその美しさ所以であろう。
10点(2004-11-06 20:45:14)(良:1票)
86.  ブレイクダンス2/ブーガルビートでT.K.O!
私の記憶が確かならば、、、「ブレイクダンス2」は日本でメジャー公開された上、かなり大々的に宣伝された為、ある意味でブレイクダンスというダンススタイルが爆発的に浸透するきっかけとなった映画ともいえる。もちろん、風見慎吾も忘れちゃいないよ。でも彼の「涙のTake A Chance」がヒットしたのはこの映画の後なのだ。僕が初めてブレイクダンスらしき踊りを観たのはライオネル・リッチーの「オールナイト・ロング」(1983)のPVの中である。そこでブレイクダンスという奇妙なダンスを披露していたのが何を隠そうこの映画の主役2人、オゾーンとターボなのだ。(もちろん、マイケル・ジャクソン「ビリー・ジーン」での伝説のムーン・ウォークも忘れちゃいない。)それから、2人は「ブレイクダンス」という映画に出演し(パート1はまだマイナー上映だったと思う)、その余勢を駆ってつくられたのがこの続編なのである。この映画の中で、特に、ターボのブレイクダンスは炸裂しまくっていた。あの部屋が引っくり返る中でブレイクダンスを踊り続けるシーンは今でも印象に残っている。それから主題歌キャロル・リン・タウンズの「ミラクル」も流行りましたね。ちょっとだけ。でもあれは結構いい曲だったと思うよ。実はこの映画を僕は映画館で2回か3回観ている。(そのうちの1回は「ブレイクダンス」パート1と同時上映だった)当時、まだ中学生の頃。何故、この映画を繰り返し観たのか? そう僕はブレイクダンスに目覚め、仲間と一緒に練習していたからなのだ。この映画を観ていろんな技を覚えたものである。今思うとかなりこっぱずかしい記憶だなぁ。。。でも、この映画って、僕らの世代にとってちょっとしたツボなんじゃないかな。たぶん。
8点(2004-10-16 02:07:11)
87.  ブレイクダンス
この映画の続編である「ブレイクダンス2」に比べて、その印象はかなり薄い。殆んどストーリーも覚えてないのが実情だ。本当は「ブレイクダンス2」をレビューするのにいきなり続編だけというのも何なので、ついでに登録したが、あまり書くこともないかなぁ。「ブレイクダンス2」の併映で観たんだけどね。あの当時、「フラッシュダンス」とか「フットルース」とか流行ったけど、僕らにとっては、あのブレイクダンスというダンススタイルがかなり強烈だったんだよね。よく部屋で練習したなぁ。学校の体育館でクルクル回ったりしたよ。このパート1でもターボの踊りが冴えてたような記憶がある、、、まぁそのくらいかな。
6点(2004-10-16 01:37:40)
88.  ミッドナイト・ラン
僕の中では、デニーロの映画で12番目ぐらいかな。「ミッドナイトラン」以降の映画に限定すれば、ベスト3には入るだろう。確かに「デニーロの転機になった映画」というイメージはある。あまりにも普通の映画で普通のデニーロだったからね。当時、僕の中でこの作品は、流行りの刑事アクション&コメディ系映画のワンオブゼムとの印象しかなかった。<デニーロである必然を全く感じなかったのが最大の印象だったのだ。> まぁ今観ればまた違った印象を受けるとは思うが。。。個人的にデニーロの本質とは、自然に滲み出る孤独と狂気の表情、現実への「もどかしさ」を漂わせる語り口にあると感じている。そういったイメージによって支えられた彼の存在感を自ら吹っ切ったのがこの「ミッドナイトラン」だったのだろう。この作品によって、彼の役者としての可能性が広がったのは間違いないが、明らかにアプローチを変えた以降の作品群のあまりの「普通っぽさ」に一抹の寂しさを感じることもまた確かなのである。これは、あくまで個人的にではあるが。。。
7点(2004-10-10 20:35:56)(良:1票)
89.  シルバラード
ローレンス・カスダンズ・オールキャストによる西部劇。やっぱり「再会の時」の影響か、日本でいう団塊の世代、ベビーブーマー達が若き日の挫折や心の傷を抱えながら、家族や仕事という世間的な安定に対する無意識の不安と常に葛藤し、自らの心の支えとなるべく「精神」を確立しようともがき奮闘しつつ、極悪牧場主に立ち向かう西部劇、という感じが漂う。。。まぁこれは半分冗談ですが、実際、とても若々しく、颯爽としたニューウェイブ西部劇に仕上がっていると思います。ケビン・クラインやスコット・グレンにはまだまだ西部劇の主人公たる圧倒的な存在感がなく、なんとなく弱々しいところもこの世代の西部劇らしいですね。
8点(2004-10-10 02:50:30)
90.  レディホーク 《ネタバレ》 
ミシェル・ファイファーとルトガー・ハウアーが素晴らしい。妙にもやけた軽々しいファンタジーアクション映画。確かにその通りですね。80年代特有の陳腐なバックミュージック。確かに。でも、僕は好きだなぁ。ミシェルとルトガーという孤高かつ美的なカップリングの妙。それはまた動物的な御姿を持つ二人の孤高性でもある。そりゃなんてったって鷹と狼なんだからね。間を取りもつ語り部たるマシューの独白も僕は良かったと思いますよ。呪術に捉えられた二人が異形の相手を思いやる姿、人間に戻った二人が抱き合うラストシーン。ラブストーリーとしてもなかなか魅せます。MTV的なスタイリッシュさは「ストリート・オブ・ファイヤー」に通じるものがあるかな。良くも悪くも80年代的センスでしょう。
8点(2004-10-09 22:28:11)
91.  フレンチ・コネクション
昔、テレビで何遍もやっていて、その度に何遍も観たけど、とにかく面白い作品です。オープニングのポパイ登場のシーンなんてサイコーですよね。何だコイツは、って感じで出てきたと思ったら、ハチャメチャやって、確かに殺伐としているけど、男同士の意地の張り合いが滲みでているっていうのかな。展開が退屈? そうかな。でも、僕は、展開の退屈さも含めて、あの雰囲気が大好きなのです。まぁポパイっていうキャラクターに痺れているだけなのかもしれないけどね。 僕にとっては、古いとか新しいとか関係なく、ヒジョーに単純に「好きな作品」です。
8点(2004-09-20 12:44:19)(良:2票)
92.  ボウリング・フォー・コロンバイン
なかなか面白かったとは思う。アメリカの銃社会が白人のインディアンや黒人に対する自己防衛という脅迫観念から発したものであり、その脅迫観念は、境遇が変わった今でも形を変えてマスコミによって煽情的に流布され続けている。脅迫観念は常に外敵を作り出さずにはいられない。銃による犯罪は、その脅迫観念により常にアメリカ白人の重要な関心事となり、その銃犯罪の誇大報道そのものが自己防衛としての銃社会を国家的に認知していく、と同時に銃犯罪そのものを助長している。。。なるほど、まさにその通りかもしれない。ムーア氏の解釈はなかなか的を得ているように思える。この映画のタイトルでもあるコロンバインでの銃乱射事件の背景にあるのは、確かに彼の言うようなアメリカの銃社会という制度的(潜在的)な問題と利害を含んだマスコミのプロパガンダによるものなのかもしれない。ただ、それを理解した上で問いたい。何故、彼らは自分達の同級生に銃を向けなければならなかったのか? ムーア氏が銃犯罪の少ない国として賞賛する日本(銃携帯が認められないから当たり前か)でも子供同士の殺人事件が最近起こった。日本のマスコミは、事件の背景としてインターネットやお受験の弊害について論うのみで、動機は常に「心の闇」という言葉に帰着させているように思えた<それは15年前から先に進んでいない>。確かにそこから導き出されるディスコミュニケーションや疎外感の問題にある種の正当性はあるのだろう。その正当性を信じたいがために、また理由の見当たらない宙吊りの状態に耐えがたいがためにそこへ誰もが理解できる物語を当てはめたくなるのである。僕はそこに違和感を感じる。彼らの物語はもっと歪んでいるのだ。その歪みを正すのは、彼ら自身の生の原理を捉えた彼ら自身の物語しかないのではないか。 ムーア氏はコロンバインの殺人者達が事件の直前にボウリングをしていたことに言及していたが、それは彼らの歪んだ生の原理が垣間見える瞬間ではなかったか。ムーア氏は言及しただけで追及しなかったボウリングを禁止したからといってコロンバインの問題がすっかり解決する<彼らの歪んだ生が癒される>はずがないということは言うまでもないが。
8点(2004-09-11 13:21:13)
93.  ハンバーガー・ヒル
当時、「プラトーン」「ハンバーガーヒル」「フルメタルジャケット」とベトナムものが立て続けに上映され、僕らは仲間内でどれが一番気に入ったかを言い合ったものである。ちなみに僕はハンバーガー派であった。 ベトナム戦争は、アメリカの国家的戦争であり、アメリカ軍の戦争従事者にとっての敵はアメリカの敵である。つまり、彼らが自らの死を意識した時、それは「国家に対する死」ということになる。僕らは単純にそれをこう言いかえることができる。僕は国の為に死ぬことができるのだろうか、殺すことができるのだろうか、と。 僕が当時、「ハンバーガーヒル」を最も評価したのは、この単純な問いこそが作品のテーマであった点である。 日本が国を賭して戦い、国民が国民として国の為の死というものを初めて意識し始めたのは日露戦争の頃からだろう。ハンバーガーヒルの激戦は、僕にあの二百三高地を思い出させた。ただ国の利害の為に、戦略的高地を奪う為に、命令されるがままに、自らの狂気と引き替えにして命を落とした多くの若者達の煩悶が僕には聞こえてきたのだ。 昨今、日本にも微温的なナショナリズムが叫ばれているように感じるが、僕らにとって、そのナショナリズムの基盤とは一体何だろうか? 日本とは? 国家とは? 自由とは?  日常とは? これらの原理を理解した上で国民国家というものを考えた時、僕らは「国の為に死ぬことができるか?」という問いに出会わざるを得ない。<日本が軍隊を持つことはこういうことだろう。> ハンバーガーヒルも二百三高地も単なる歴史絵巻ではないと考えたい。
8点(2004-09-04 10:21:20)(良:1票)
94.  アマデウス
モーツアルトは<神の子>である。神の子として、その天賦の才をもってしても人間である限りにおいて生きるという現実は単純ではなく、彼が苦悩と怖れを抱えて人生を生き、死んだことはよく知られている。モーツアルトを一人の人間として捉えるドラマというのもひとつの観点として興味深いものであるが、実際、その試みはイエス・キリストを主人公とするのと同じように難しいだろう。とはいえ、この映画を天才モーツアルトに対峙する凡庸の人サリエリの物語と考えるのはちょっと違う。サリエリがモーツアルトの音楽についての真の理解者であり、この映画をサリエリという自意識の鏡を通したひとつのモーツアルト像として捉えるのがやはり一番しっくりくるのである。やはり、主役はモーツアルトであり、モーツアルトの神性、人間性をサリエリという自意識を通して語ることによって、僕らは僕らの中の無限のかけがえのなさを語りえるのではないか、というのが僕の<文学的な>捉え方である。 モーツアルトの音楽を語る時、アポロン的な伝統音楽の高度な模倣の上にディオニュソス的な情熱、官能のエッセンスを見出すことが重要である。さらに生と死を行き交う精霊の如く、まさにデモーニッシュな一面により生み落された名作「レクイエム」に至っては、彼が神の子の苦悩を人間的な深みによって表現し得たことを示している。それをモーツアルトのモノローグによって語ることは不可能である。この映画では、サリエリという媒介を通じて、僕らはモーツアルトの心性を知るのである。 サリエリのモーツアルトに対する歓喜、恍惚、忘我、嫉妬、憎悪、愛情を僕らは理解する。芸術とは、神の言葉、御業かもしれないが、それはあくまで人間によって生み落されるものだ。人間という理性の森を通してしか、それは具現化されない。それがモーツアルトの作品であり、サリエリという自意識を通した時、それは僕らに人間的なドラマ<現代的な神話>を提供するのである。
10点(2004-08-15 23:15:59)(良:1票)
95.  アメリカン・ヒストリーX
歴史とは個々人の心の在り様の集大成としてある。世界の至るところで人々が憎しみを連鎖させ、負の歴史はつくられていくのだ。そこに出口はないのだろうか? この映画は改めてその可能性を信じることの困難さを見せつける。無邪気な救いは無慈悲に閉ざされ、どうしようもない救われなさだけが残るラストシーン。 お互いが分かり合える足場を失った状態でも、人が人を理解する希望を失わないこと、その為に僕らは如何したらいいのか? そもそもそういった方法論は有り得るものなのか? 僕らは昨今のイラク情勢により、憎しみの連鎖というものが如何に根の深い問題かを知っている。その救われなさは既に自明なのだ。その先の道筋へ、仄かな希望の光を見出すこと、そんな作品としての方法論に現実性があるのかどうか。今こそ確信的なコミットメントへの志向を期待したいものである。 「もしあなたの人生が、それほど筋のとおった理由もないのに、どこかの誰かの人生とからみあってきたら、その人はおそらくあなたのカラースの一員だろう。人はチェス盤をつくり、神はカラースをつくった。」(カラースとは、民族や制度や階級などに全くとらわれない、神の御心を行うためのチームのことである)~カート・ヴォネガット・ジュニア『猫のゆりかご』 ボコノン教教義より~  Peace!
9点(2004-08-13 11:38:43)
96.  ラスト サムライ
中途半端な印象は拭えませんね。確かに「ダンス・ウィズ・ウルブス」のサムライ版ってところでしょう。武士道などというものをハリウッドが表現できるとは到底思えなかったけれど、そもそもそれを日本人自身が理解していない限り、その評価も推して知るべしです。まぁいろいろと書かれているようにあまりその辺りのことを意識せずに架空的日本国を舞台にした日本人とアメリカ人との「愛と友情物語」として見れば、なんのことはない、従来のハリウッドスタイルそのものなのですね。「サムライ」や「インディアン」というタームは、反近代的なモチーフ、傍流の歴史を理解する為に選ばれてはいるけど、最終的にはアメリカイズムという個人主義にすっかりと回収されてしまっているように僕には思えました。 僕自身が武士道というものをよく理解している訳じゃないけど、武士道って江戸時代の一部の武士階級にとっての特権的な観念であって、ああいう戦国時代のような戦士や半農民的な足軽たちにとっては、日常的に不要の観念だったのではないかな。平和な時代だったからこそ、自らを律する為の観念が必要とされたのです。それに武士道自体を本当に尊ぶようになったのは明治初期でそれも一部の人々の間でしかないでしょう。あと利用されたという意味では太平洋戦争の頃ですか。「葉隠」なんて江戸時代でも多くの人たちはその存在すら知らないわけで、それを日本人全体の精神性かのように捉えるのはそもそも間違い。実際、日本人のすべてがサムライの息子ではないのだからね。 まぁそれはそれとして、ストーリー的にも僕にはあまりぐっとくるものがなかったなぁ。途中で三島由紀夫の描いた「神風連史話」(「奔馬」)が頭をよぎったけど、あの決起と自死の顛末に描かれたものこそ日本人が武士道的なものとして憧れるperfectな精神性ではないかな。その静謐さをハリウッドで描くことは不可能でしょう。
6点(2004-08-13 10:03:41)
97.  恋愛小説家
ジャック・ニコルソン、変わった男である。極度の神経症とも思える、潔癖症、離人症、他人を平気で傷つける毒舌家、誰もがお近づきになりたくないであろう、正に偏屈オヤジ。でも、よく考えてみたら、これらの症状というのはすべて、青春時代に僕らが囚われる、あの自意識の過剰さに由来する心の在り様そのもの、その極端な症例ではないだろうか。ある意味で永遠に大人になりきれない男。恋愛小説を描くことを生業としながら、恋愛のできない男。恋愛に人一倍の憧れを抱きながら、自分を傷つけたくないばかりになかなか踏み込めない、過剰な自意識のせいで日常的な幸せの価値を見出せない不幸な男。 そんなジャック・ニコルソンが選んだのが、はすっぱな感じではあるけど、生活感に溢れる力強い母親、それでいて自分の可愛らしさを素直に表現できる女性、ヘレン・ハントだというのはすごく分かるような気がする。 この「恋愛小説家」という映画、僕にはこう思える。恋愛への過剰な憧憬を捨て、現実的な愛情生活に目覚めた中年恋愛小説家の転向、その滑稽さと清清しさ。実はものすごく共感してたりなんかして。。。 
9点(2004-08-13 02:06:26)
98.  ザ・フライ
カフカ作『変身』の蝿バージョン。蝿と融合して崩壊していく人間は、その過程でいつから人間でなくなったのだろうか? 蝿と人間の境目は? と考えるとかなり哲学的な命題になってくる。。。ような気がする。
8点(2004-08-12 22:18:14)
99.  アルマゲドン(1998)
大好きな映画です。奇想天外、荒唐無稽、空前絶後の暴発的ストーリー展開にはかなり興奮しましたし、ブルースウィリスの超人的行動や献身的な最後にも晴やかさと潔さを感じましたよ。この映画に対して多くの言葉は要らないでしょう。最高です。
10点(2004-08-12 20:25:58)
100.  ブラック・レイン
「ブラックレイン」に対する僕の評価は、松田優作に尽きる。<僕みたいに>昔から松田優作が好きで、遊戯シリーズ等に思い入れがある人間でなくても、その圧倒的存在感にはおそらく痺れるのではないかとは思うが。この作品は、癌を患った彼が自らの病気を伏せて撮影に望み、病魔と闘いながらも魂魄の演技をし続けたことがエピソードとして伝えられる。結果的に彼の映画としての遺作となるこの作品で、日本人の役者がハリウッド映画で通用すること、それを自身の命を賭けた最後の仕事としたと言えるわけだ。そんな彼の想いを抜きにしてこの映画を観ることはできない。作品というのは、純粋な客体として絶対的に存在することは不可能だ、と僕は思っている。作品は、個人が観るという行為を通して初めて作品として個人に認識されるのであって、個人が観るという行為には、当然個人的な視点や歴史、或いは偏見が主観的に加わる。つまり作品とは常に鑑賞者と1対1の関係としてあり、評価というのはその関係性から立ちのぼる自身の思いとしてしか現われざるを得ないのである。「ブラックレイン」という作品には、松田優作という役者馬鹿の生き様がオーバーラップしており、そんな彼に対する感情を抜きにして作品を評価しなければならないということは原理的に不可能なのだ。僕はこの映画をストーリーや設定、演出や映像など、映画のあらゆる評価軸を越えて、松田優作の歴史そのものとして評価するのである。
9点(2004-07-05 22:52:06)
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