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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2597
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  シティーハンター(2024)
体現している人物が「冴羽獠」であることを信じて疑わせない鈴木亮平は、奇跡的ですらあった。それは、一般的な漫画の映画化作品における“忠実”とは一線を画していると言っていいくらいに、正真正銘の“実写化”だった。 何がスゴいって、漫画版、アニメ版の両方世界観における「冴羽獠」という架空のキャラクターを統合して一つの人格の中で表現していることだ。  男性でも惚れ惚れするしか無い肉体美を惜しげもなく披露したかと思えば、その“ほぼ全裸”状態のまま、ちょける、はじける。 普通、漫画やアニメの世界のテンションのまま実写版でふざけても、大体の場合は白けるし、失笑を避けられない。 けれど鈴木亮平の“獠ちゃん”は、漫画世界のキャラクター性とテンションそのままに、現実描写を成立させてしまっている。更に驚いたのは、ちょけたシーンの声色がアニメ版の声優・神谷明のそれにそっくりだったことだ。 そこには、実写版を観ていながら、アニメ版や漫画世界の境界線を超えて、三様の「シティーハンター」の世界線が入り混じり、違和感なく共存しているような感覚があった。 無論、真に迫っていたのはコメディシーンばかりではない。 説得力を伴った身体能力による格闘シーンもガンアクションも、世界最高のプロスイーパーである“シティーハンター”を過不足なくクリエイトしていた。  苛烈な過去を背負っている裏社会No.1のスイーパーが醸し出すハードボイルドと、“もっこり”がトレードマークの新宿の種馬という、あまりにも相反する両面のキャラクターを持つ主人公を、これほどまでに説得力を持って演じきれたのは、鈴木亮平という俳優自身が演じてきた役柄の振れ幅の広さに起因するだろう。 「HK 変態仮面」でお下劣なヒーローを演じたかと思えば、「孤狼の血 LEVEL2」では鬼畜の最凶ヤクザを狂気のままに演じきる。彼自身インタビューで語っていた通り、これまで決して型にはまることなくありとあらゆるキャラクターを演じきたことが、本作において圧倒的な説得力を伴った「冴羽獠」に繋がったことは明らかだ。  また「シティーハンター」という作品において、主人公と並んで重要度を持つヒロインであり相棒である「槇村香」を演じた森田望智も素晴らしかったと思う。 彼女は世代的に「シティーハンター」を知らなかったと言うが、おそらくはしっかりと原作やアニメを叩き込んで撮影に臨んだのだろう。ボーイッシュなビジュアルの再現はもちろん、重い荷物を担ぐ仕草だったり、ラストのジャケット&ジーンズ姿のフォルムに至るまで、こちらも鈴木亮平同様に細部に至るまで完璧に「香」を体現していた。 現在放映中の朝ドラ「虎に翼」でも印象的な役柄を好演しており、一躍いま最注目の女優の一人となっている。  兎にも角にも、過去最高に原作愛、アニメ愛に溢れた見事な実写化作品だ。 80年代生まれの生粋の原作ファンとして、ここまでのクリエイティブを見せてくれれば、もう文句は言えない。 まあ唯一注文をつけるとするならば、ラストかエンドクレジット後のカットで、“ラスボス”である「海原神」の存在をシルエット程度でいいので匂わしてほしかった。 要は、それくらい「続編」の存在を明示してほしかったということ。“海坊主”、“ミック・エンジェル”、この実写化で観たいキャラクターはまだまだ沢山いる。自信と確信を持ってシリーズ化してほしい。
[インターネット(邦画)] 8点(2024-06-02 18:33:31)《新規》
2.  シン・仮面ライダー
まず、ある種の清々しさを含めつつも、本作に対しては個人的にきっぱりと「駄作」だったと言いたい。それも近年まれに見る「超」がつくほどの。  庵野秀明による、「シン・ジャパン・ヒーローズ・ユニバース」の大トリ第四弾。 「シン・エヴァンゲリオン」はまったくの門外漢なのでまた観ていないが、2016年の「シン・ゴジラ」を皮切りに、2022年の「シン・ウルトラマン」、そして本作「シン・仮面ライダー」と、大いなる高揚感と期待感をもって鑑賞してきた。 なんと言っても、「シン・ゴジラ」で表現された新時代感とそれに伴う畏怖感は衝撃的で、ゴジラ映画を全作観てきた者として、圧倒的にエキサイティングだった。  一方で、昨年の「シン・ウルトラマン」の時点でおやおやと思う節はあった。 製作者たちの溢れ出る過去作に対する「愛情」を感じる反面、僕自身は乗り切れなかった。 嬉々として繰り広げられる良く言えば“独特”、悪く言えば“陳腐”な映像表現、映画表現に対して、「あ、ふーん」、「あ、そうなんだ」と引いたスタンスを取らざる得ず、なんとも困惑してしまった。  そして、この「シン・仮面ライダー」の“世界観”を目の当たりにして、一つのことが明確になった。 「シン・ゴジラ」にあって、「シン・ウルトラマン」、「シン・仮面ライダー」に無かったモノ、それは僕自身の過去作品対する「愛情」という名の「耐性」だったのだろう。  個人的な遍歴として、玉石混交の全作品を観てきた「ゴジラ」映画シリーズに対して、「ウルトラマン」も「仮面ライダー」も、僕は過去のオリジナルシリーズを殆ど観てきていない。 故に、今回の各映画作品に対して僕が求め期待するものと、オリジナルシリーズを偏執的なまでに愛し表現し続けてきた製作者たちが見せたいものとが、乖離しすぎていたのだと思う。   と、自分にとって本作が本質的に“合わない”映画であり、「仮面ライダー」に対する無知を認めつつも、やっぱり客観的に見て酷い映画だったなとは思う。 「シン・ウルトラマン」はそれでもまだ“乗り切れなかった”という印象であり、特撮映画としての見応えと、娯楽映画としての楽しさも随所に存在していた作品だった。 が、しかし、本作は正直“耐え難かった”という印象を拭えない。久しぶりに鑑賞中に“しんどさ”を感じてしまい、思わず席を立ちたくなった(無論そんなことはしないが)。  個性的でユーモラスな怪人たち(チープで陳腐)、昭和感を感じさせる俳優たちの朴訥な演技(お遊戯会レベルの某演技)、映像技術の低さを工夫で補うカメラワーク(見づらく気持ち悪い)。 それらは、「仮面ライダー」や「ウルトラマン」がテレビ放映されていた当時のつくり手たちが、限られた制作環境や時代性の中で、必死に“面白いもの”を生み出そうとした結果の産物だろう。  それらを観て育ち、感銘を受けて映画制作やアニメ制作の世界に入ったクリエイターたちが、過去のオリジナル作品対しての“リスペクト”をふんだんに盛り込むのは良い。 ただ、だからといって当時の映像表現やアイデアを現代技術でそのまま再現して、「仮面ライダーといえばこれでしょう」と悦に浸るのは、あまりにも安直だし、クリエイターとしてダサすぎるのではないか。 そんなものは、過去作へのリスペクトを笠に着た“クリエイティブ”の怠慢であり、放棄だと思ってしまった。   自分の想像以上に本作を称賛する人たちも多いようなので、やはり作品に何を求めるかによって、映画の価値なんてものは大いに振れるものなんだなと思い知る。 だからこそ、しっかりと自分の感情に沿った評価をしていきたいと思う。 “10点”の映画は年間数本出会えるが、その逆は数年に一つ出会えるかどうか。振り返ってみると実に8年ぶりの“0点”を捧げよう。
[映画館(邦画)] 0点(2023-03-17 23:17:45)(笑:1票) (良:2票)
3.  新・男はつらいよ
今年も正月は“寅さん”からスタート。元日の夜半、シリーズ4作目にしてしっかりと定番化したキャラクター描写とお決まりの喜劇が心地よく身にしみる。  前作(第3作「男はつらいよ フーテンの寅」)は、舞台設定やストーリーテリングがやや脱線気味でまとまりがない印象があったが、本作は「新」という冠のもとで、原点回帰というか、本作以降も続くであろう定形が固まった印象を受ける。  決して特別に感動的な話が展開されるわけではないが、渥美清演じる車寅次郎の特異なキャラクター性を軸にしてベタな喜劇が安定していたと思う。  ヒロインの描写がやや表面的で、彼女が抱える人生模様に踏み込みきれていないようにも思うが、自身の実父の死に対する悲しみを、とらやの面々の滑稽な様を目の当たりにしつつ深めて、自分の中の本当の思いに気づく様は印象的だった。  寅次郎は相変わらず馬鹿で迷惑な男だけれど、人間誰しも素直になれない不器用さや愚かさは内包しているもの。これからも、時代を越えて、この国の人たちは寅さんに思いを重ね続けるのだろう。
[インターネット(邦画)] 7点(2023-01-01 23:57:45)
4.  シン・ウルトラマン
まず個人的な立ち位置から言うと、僕自身はいわゆる「ウルトラマン世代」ではなくて、再放送やソフトも含めてちゃんと「ウルトラマン」を観た記憶は殆どない。 特撮映画は大好きであり、ゴジラシリーズを始めとする東宝特撮映画は殆ど鑑賞してきたし、樋口真嗣が特撮監督を勤め上げた平成ガメラシリーズ(特に「G2」)も“崇拝レベル”で何度も観ている。 そんな趣向の者が、「ウルトラマン」に触れてこなかったというのは、自分自身不思議に思う。  本作「シン・ウルトラマン」の公開に先立ち、ベースとなる「ウルトラQ」や初代「ウルトラマン」のTVシリーズで“勉強”しておこうかとも思ったが、門外漢であるならば門外漢なりの楽しみ方もあるだろうと思い、予習なしで“ウルトラマンデビュー”してみることにした。  鑑賞後率直に思った感想は、良い意味でも悪い意味でも“ぶっ飛んだ”映画だったな、ということ。 それは「空想特撮映画」とこれ見よがしに掲げるこの作品の性質に相応しい、とは思った。 ただ、それと同時に、「これは映画として成功しているのか?」と、疑問とモヤモヤも存在していることに気づいた。  鑑賞から一夜明けて一個人として定まった結論は、「失敗作」だった。 決して駄作だとは言わないし、興味深い要素やユニークな表現も溢れた作品だったとは思うけれど、この映画がたどり着くべき姿はコレではなかったんじゃないかと思う。   前述の通り僕自身はウルトラマン世代ではなく、オリジナルシリーズもまともに観ていないので正確なことは言えないけれど、おそらくは「ウルトラマン愛」が各シーン、各描写、各台詞に散りばめられた作品なのだろう。 YouTubeの解説動画で聞きかじった限りでは、ストーリー展開においても、オリジナルシリーズの人気エピソードを軸にして構成されており、それらを未鑑賞の者としても、随所にオマージュやリスペクトが溢れているのであろうことは感じられた。  だが、それ以上の驚きやそれに伴うエモーショナルが感じられなかったというのが正直なところ。 この映画に携わった一流クリエイターたちにとっての“バイブル”とも言える「ウルトラマン」に対する尊敬と憧れ、あまりにも大きな「愛」が溢れ出る一方で、今この時代に「再誕」させるに当たってのテーマ性や価値を追求しきれていないように感じてしまった。 雑な言い方をしてしまえば、それはやはりやや一方的過ぎる「懐古主義」であり、僕のような門外漢や、今この時代の子どもたちにとっては“楽しみづらいモノ”になってしまっていると思える。  また、冒頭のタイトルクレジットでも表現されている通り、本作は「シン・ゴジラ」の同じ世界線ではないものの、一つの並行世界が舞台になっていると思われ、登場するキャラクターや日本政府、社会環境など類似する要素が多い。 それ故にどうしても比較をしてしまうが、本作は圧倒的に予算不足が露呈している。 それは、脇役・端役を含めた出演者数や場面数の少なさからも明らかだが、一番問題なのは、そのことが“映画づくり”そのもののクオリティ低下に繋がってしまっていることだろう。 ドラマシーンのカメラワークが一辺倒だったり、意図的にiPhoneで撮影されたカットが単にチープな映像に見えてしまっているなど、予算の少なさが「丁寧さ」の低減に影響してしまっていることは致命的だ。  予算がないならそれなりに映像作品としてのあり方自体を見直すべきだったのではないかと思う。 過去作のエピソードを連ねて一つの映画としてやや強引にストーリー展開をするくらいなら、オリジナルと同様にドラマシリーズでも良かったのではないか。 それこそ、NetflixやAmazon Prime等で、全6話くらいの構成の配信作品にした方が、潤沢な制作費も得られやすく、より尖った作品に仕上がっていたのではないかと、映画ファンとしては邪な思いも生まれてしまう。  一説によると、「監督」として現場を取り仕切った樋口真嗣と、「総監修」として作品全体の指揮権を持った庵野秀明との間で、「責任」のバランスが取れていなかったのではないかとも聞く。 両者ともバイブル「ウルトラマン」に対する「愛」は強く揺るがないものだったはずだ。それ故に、その表現方法において乖離も生じてしまったのだろう。 「愛」を語るに当たって、やっぱり人任せにしてはいけないし、少しでも思いが離れてしまったその表現は、ちゃんと伝わることはないなと思う。  少なくとも、僕にとっては、ウルトラマンの一連の活躍や、身を挺して孤軍奮闘する長澤まさみよりも、「赤坂さん(仮名)」の登場が最たる激アツポイントだった時点で、「シン・ゴジラ」に遠く及ばない作品であったことは間違いない。
[映画館(邦画)] 5点(2022-05-15 00:31:03)
5.  資金源強奪
溢れ出る「昭和」のギラつく雑多感。 人からも、服装からも、街並みからも、すべてから放たれるそのギラギラに圧倒される。 展開される犯罪アクションの卓越したエンターテイメント性もさることながら、映し出される「昭和」そのものが揺るぎない「娯楽」だった。  ムショ帰りの主人公(北大路欣也)が、塀の中で知り合った仲間と共に、自身の組が主催する賭場の資金強奪を謀る。 計画は見事に成功するが、そこから報復と裏切りが織りなす容赦ない強奪金争いが始まる。  ハリウッド映画などでは、玉石混交に描きつくされたプロットであるが、それがこの時代の日本映画で、これ程まで娯楽的な完成度の高い作品として存在していたことにまず驚く。 ストーリーテリングのテンポの良さとユニークさ、そして何よりも、登場するキャラクターたちの個性がそれぞれ際立っていて、そのアンサンブルが娯楽映画としての質を高めていると思う。  北大路欣也の決してヒーロー然としてはいない悪党としての男臭さ。梅宮辰夫演じる悪徳刑事の軽妙さと曲者ぶり。そして何と言っても、川谷拓三の泥臭すぎる雑草魂。 最終的に“三つ巴”となって、「金=命」を奪い合う三者のキャラクター性が、俳優本人の個性とも掛け合わさり、特に印象的だった。     匂い立つような昭和娯楽の匂いにクラクラしっぱなしだった。 各種動画配信サービスの普及に伴い、これまでその存在すら知り得なかった“昭和映画”にも容易に触手を伸ばすことができるようになった。今一度、昭和娯楽の真髄を掘り起こす沼にハマっていきそうだ。
[インターネット(邦画)] 8点(2021-06-05 14:55:59)
6.  仁義なき戦い 完結篇
昼寝から目覚めた土曜日の夕刻、この「完結篇」を鑑賞。 思い返せば、シリーズ第一作目の「仁義なき戦い」を初鑑賞したのは、2004年だった。つまり、足掛け17年でこのヤクザ映画シリーズ5部作を観終えたことになる。 この17年の間で、菅原文太をはじめ、松方弘樹も、梅宮辰夫も、今シリーズに限らず、この国の“ヤクザ映画”という娯楽を彩った名優たちがこの世を去ってしまった。なんとも寂しいことだ。  感傷に浸る一方で、驚かされるのは、この5部作が1973年から1974年の僅か一年半あまりで、怒涛の如く製作され、公開されているという事実だ。 日本映画界そのものがギラギラと隆盛を極めたプログラムピクチャー全盛の時代だったとはいえ、「映画製作」に対するあらゆる意味での今はなき「熱量」を感じずにはいられない。  今シリーズは、本来前作の「頂上決戦」で“完結”する予定で、ストーリー的にも綺麗に収束していたのだけれど、東映社長・岡田茂の一声で、半ば強引にこの「完結篇」が製作されたらしい。 そういう映画会社の権威性やその重役の豪腕ぶりも、この時代ならではのことであり、是非はあろうけれど、今の時代にはないエネルギーが満ち溢れている。  時代劇研究家の春日太一の著書「あかんやつら」などを読むと、当時の東映映画は、その撮影現場そのものが文字通りの“修羅場”であったことがよく分かる。 会社重役も、監督や脚本家をはじめとするスタッフも、俳優たちも、すべての“映画人”たちが血気盛んに入り乱れ、その延長線上に映画作品が結実していたのだろう。  実際、これまでの「任侠映画」の概念を打ち破り、実録映画として実在のヤクザ・暴力団組織をモデルに描いた今シリーズは、“ホンモノ”の方々と密接に繋がりながら製作されており、まさしく“命がけ”の製作現場であったことは想像に難くない。  今作単体としては、シリーズにおける「蛇足」感を拭えないけれど、そういうフィルムに映し出されているもののすぐ裏面に焼き付いている“戦い”を思うと、メタ的かつ重層的な新たな娯楽性が見えてくる。  その壮絶な「内幕」にこそ悲喜こもごもの娯楽性が溢れていることは明らかだ。 当時の撮影現場の空気感をリアルに汲み取って、ぜひとも映画化に挑んでほしいものだ。
[インターネット(邦画)] 7点(2021-02-13 19:25:26)
7.  新聞記者 《ネタバレ》 
ラスト、彼が示したものは、この国の「限界」か。それとも、未来のための「一歩」か。  8年ぶりに総理大臣が変わった。 だからといって、大きな希望も期待もない。この国の殆どの人々は、諦観めいた視線で国の中枢を眺めている。 いや、「諦観」などと言うとまだ聞こえがいい。自分自身を含め、この国の人々は、無知のまま考えることを諦め、自ら「傍観者」に成り下がってしまっているのではないか。  そういうことを改めて鑑賞者に突き詰め、あまりにも居心地の悪い情感で覆い尽くすような映画だった。  国家の中枢の陰謀と闇に気づいた新聞記者たちが、真実を暴き出そうとするストーリーテリングは、ハリウッドをはじめ数多の映画作品で描かれてきたプロットだ。 ただし、多くのハリウッド映画と異なり、この映画は、主人公たちが明確な危機に陥ることもなければ、胸をすくカタルシスを得ることもできない。 ただ、じわじわと真実に気づくと同時に、じわじわと真綿で首を絞められるようにこの国の闇の本質に追い詰められる。  真実を光のもとに晒そうとする行為が、実のところ、もっと深い闇へと自分自身を引きずり込んでいたという悍ましさ。 溜飲を下げさせないこの映画の顛末が物語るもの、それは今この瞬間の、この国の有様そのものではなかろうか。     “一応”フィクションであるこの映画のストーリーが、現実社会のありのままを描き出しているとは思わない。 或る新聞記者の主観が原案でもある以上、“一つの観点”として捉えるべきものだろうとは思う。 この映画で描かれていることに対して、「偏って考えすぎ」と揶揄したり、「そんな馬鹿な」と嘲笑することも自由だろう。 だがしかし、そういう風に一笑に付することができない現実が、事実としてこの国の社会や政治の愚かな有様に表れてしまっていることは否定できない。  この国の中枢に「巨悪」は存在するのか否か。 もし存在するとするならば、その「闇」を司るのは、私利私欲に走る政治家か、それとも「この国のため」と盲信する官僚組織そのものか。 そう逡巡しながら、はたと気づく。 否、「闇」を拡散し、支配しているのは、「諦観」という言葉の下に考えることを放棄し、「傍観者」に成り下がってしまっているこの国の人々一人ひとりなのではないかと。  「誰よりも自分を信じ、疑え」  新聞記者の主人公の亡き父が遺した言葉が指し示すものは、決してジャーナリズム精神に留まらず、国民一人ひとりのあり方として、我々が刻むべきものではないかと思えた。     主演の韓国人女優シム・ウンギョンの演技は素晴らしかった。日本語のアクセントの問題も、主人公のキャラクター設定が、国際的に活躍したジャーナリストを父親に持つ帰国子女ということを踏まえると、決して違和感ではなくむしろ的を射たキャスティングだったと思う。 一方で、日本人の主人公役に日本人女優がキャスティングされていないことに否定的な意見も見聞きするが、ここにも何かしらの圧力めいたものを感じてしまった。  韓国人俳優の骨太な演技力と存在感は言わずもがなだが、だからといって日本人女優の演技力が劣っているとは思わない。 主人公の記者役に日本人の実力派女優がキャスティングされていたとしても、作品としてのクオリティーが下がることは無かっただろう。  ではなぜ日本人女優はキャスティングされなかったのか。  この映画の主演に日本人女優がキャスティングされなかったのは、日本の芸能事務所が“尻込み”したということに他ならないのではなかろうか。 時の政府をほぼ名指しで糾弾する役柄を演じさせることによる、女優個人というよりも所属する芸能事務所自体のパブリックイメージに対する怯えと、何かしらの忖度。  そういうことがどうしても垣間見れる日本の芸能界には、やはり脆さと限界を感じずにはいられない。 近年、トップランナーの俳優たちの独立が立て続く背景には、そういうこの国の芸能界そのものの脆弱性も影響しているのではないか。     イメージ低下を危惧する芸能事務所に限らず、この国の人々、いや国家そのものが、弱々しく、怯えている。 国全体の怯えと共に、闇は益々深まる。 どうしたって同調圧力から脱することができない国民性であるならば、国民全体が同じ方向に勇気を持った「一歩」を踏み出すことでしか、「未来」は見えてこないのではないか。
[インターネット(邦画)] 8点(2020-09-20 00:09:26)
8.  女囚701号 さそり
「梶芽衣子全曲集」というアルバムを持っている。 クエンティン・タランティーノの「キル・ビル」公開当時に、劇中とエンディングで使用された「修羅の花」と「怨み節」に聞き惚れて即刻入手したものだ。 「修羅の花」が主題歌の梶芽衣子主演映画「修羅雪姫(1973)」は、「キル・ビル」公開直後に観ていたのだけれど、「怨み節」が主題歌の今作は今まで観られていなかった。 “オリジナル”映画での「怨み節」をようやく聴けて、そのことが先ず感慨深い。  「修羅雪姫」を観た時の衝撃も物凄いものだったが、ほとばしる女の情念そのものにおいては、今作もまたとんでもない。 殆ど主演女優「梶芽衣子」の眼力だけで押し通す見紛うことなきトンデモ映画ぶりに呆然とするしかない。 徹頭徹尾ためらいも遠慮もなければモラルも何もあったもんじゃない。コレが人気映画としてシリーズ化されるわけだから、当時の“ニッポン”はどうかしている。 改めて、クエンティン・タランティーノが惚れ込むわけだと思い知った。  あらゆる意味で、このカルト映画の「再現」は不可能だろう。 その理由は、現代社会のモラルや常識が今作のあらゆる表現を許容しないこともあるが、それよりも何よりも、この時代の「梶芽衣子」という存在が唯一無二だからということに他ならない。
[インターネット(邦画)] 6点(2018-01-06 01:20:08)
9.  仁義なき戦い 頂上作戦
ドン底からの暴力による抗いを描きつけるシリーズ第4弾。 東京五輪を間近に控え、時代が生んだアウトローたちの一寸のカタルシスは、権力と時代の激流により徐々に確実に淘汰されていく。 暴力のカリスマ二人が、極寒の留置所で諦観じみた掛け合いをする様が哀愁に満ち溢れる。 菅原文太、そして小林旭、稀代の映画スターの存在そのものが、今作における圧倒的娯楽である。  いつの時代であれ、暴力団という存在を肯定するつもりは一切ないけれど、敗戦に伴う喪失と屈辱、国全体の貧困と飢えが、彼らを暴力に駆り立てたこともまた事実だろう。 言うなれば、この稀代の暴力映画シリーズの根底にあるものは、この国の覆い隠された生身の姿なのだろうと思う。  だからこそ、ひたすらに繰り広げられるバイオレンス描写と愚かしいヤクザ世界の人間模様に、一抹の滑稽さと多大な娯楽性と共に、どこか拭い去れない侘しさを感じてしまうのだ。  クエンティン・タランティーノをはじめ、世界の映画ファンからも愛される日本のヤクザ映画だが、日本人にとってのヤクザ映画には、時代を越えた特別な感慨がじっとりと染み付いている。 それは、ヤクザ稼業の人種に関わらず、この国のすべての人達がかつて味わった「侘しさ」を思い起こすからだろう。  この「仁義なき戦い」シリーズをはじめ、この国のヤクザ映画が老若男女に愛された理由は、そういうところにあるのではないかと思える。
[インターネット(邦画)] 8点(2017-04-22 20:30:32)
10.  白ゆき姫殺人事件
僕自身、何かの事件や事故の速報を見聞きした時、真っ先にtwitterでキーワード検索するクセがついてしまっている。 どこかの誰かがツイートしたその情報をそのまま鵜呑みにするつもりは毛頭ないのだけれど、情報伝達の速さ一点において言えば、一般大衆の「口コミ」に勝るものは今の時代無く、実際、緊急性の高い事故や災害などの情報は役に立つことも非常に多い。  醜聞や偏見を大いに孕んだ無責任な情報を仕入れること自体が、浅はかで、愚かであることは、きっと誰しも心の中では分かっている。 だけれども、人間は「知りたい」という欲望には勝てない。そういう生き物だからだ。もし人間にその欲望が無ければ、この社会の発展は無かっただろう。 だからこそ、twitterをはじめとするSNSにより、個々人が全世界に向けて極めてカンタンに情報を発信できるようになってしまったことは、人間の根幹となる欲望を丸裸にし、あまりに無防備な状態を生み出してしまっているのだと思う。  この映画は、一つの惨殺事件を発端として、この時代ならではのメディア批判を表面に描き出しつつ、欲望に裏打ちされた人間の弱さとおぞましさを大衆的に描き出すことに成功している。 特筆すべきはこの「大衆的」ということで、決して完成度は高くなく、高尚な描かれ方もされていないことが重要なのだと思える。 この映画から伝わってくる独特の軽薄な空気感、それは「ワイドショー」そのものだ。 劇中でも、「ミ○ネ屋」を彷彿とさせる(と言うよりもそのものの)ワイドショー番組が描かれるが、そのシーンのみではなく、この映画全体が一つのワイドショーとして、意図的な悪意に満ちた軽薄さで描き出されているように感じた。  配役も実にハマっている。 愚かな狂言回しのごとく立ち回る契約社員のTVディレクターに綾野剛。 この人気俳優は、こういう浅いのか深いのか定かではないという意味で底の見えない人間を演じるが巧い。 映画のファーストカットで惨殺体で登場するのは菜々緒。誰もが認める美人OL役を、類稀な美貌と、骨の髄から漂ってくるような悪女臭を存分に活かして好演している。このモデル出身の女優は、誰もが鼻につく印象を逆に売りにして、このところすっかり悪女役の地位を確立している。コレはコレで大したものだと思う。 また蓮佛美沙子、貫地谷しほりら実力派若手女優の配役も的確だった。  そして何と言っても、井上真央。 物語上で描き出される通りに地味で薄幸な“悲劇のヒロイン”を、大衆の想像上の犯行シーンも含めて見事に演じきっている。 印象的だったのは、この「城野美姫」という主人公が子供の頃から孕み続ける「闇」を、どの登場シーンにおいても表現できていたことだ。 物語上、「城野美姫」は“悲劇のヒロイン”として描き出されているように見える。 ただし、だ。実は事の真相は誰にも分からない。「真相」のようなものも、結局は浅はかなワイドショーで伝えられただけにすぎない。 特にこの主人公の「思惑」については、描き出された顛末以上の屈折した何かが、心の闇として見え隠れして見えた。  ラストシーンで、ヒロインは、打ちひしがれるTVディレクターに対して、「いいことがありますよ」と微笑む。 一見、「救い」のようなこのラストシーンを、額面通りに受け取ることが出来なかった。そこにこの映画が伝える本当のおぞましさが存在するように感じた。  それでも僕らはワイドショーの情報に好奇の眼差しを向け、twitterのつぶやきに踊らされ続けてしまうのだろうか。
[インターネット(字幕)] 7点(2017-01-29 10:05:43)
11.  シン・ゴジラ
「恐怖」が東京を破壊し尽くす。 吐き出された熱焔が街を焼き、四方八方に放出された無慈悲な熱線は人類の英知を尽く無に帰していく。 暗闇の中で、「恐怖」それのみが美しく妖しく光を放っている。その光景はまさに「絶望」そのものだった。 その神々しいまでに絶対的な「恐怖」を目の当たりにして、思わず「嗚呼」と心底落胆し、絶望感に沈んだ。 純粋な恐れに只々慄き、心がへし折られそうになりつつ、それと同時に、人智を超えた「恐怖」と「絶望感」に恍惚となっていることに気づいた。 恐怖と絶望の中に、安堵と歓喜が渦巻きつつ、「これがゴジラだ」と、噛み締めるように思った。   これまでのゴジラ映画全28作品(+ハリウッド版2作)総てを鑑賞して、「シン・ゴジラ」を観た。 世界の映画史上においても大傑作である1954年の第一作「ゴジラ」を再鑑賞した時に感じたことは、60年という年月を経ても色褪せない恐怖感の見事さと共に、1954年当時リアルタイムで「ゴジラ」を体感した“日本人”が、等しく各々の胸の内に孕んだであろう「畏怖」に対しての「羨望」だった。  未知なる巨大生物に対しての畏怖、それにより生活が人生が文字通り崩壊していくことに対しての畏怖、そしてその発端は我々人類の所業そのものにあり、突如として繰り広げられているこの大惨事自体が、総てを超越した何ものかによる“戒め”であろうという畏怖。 映画を観終わった後も決して拭い去れなかったであろう「恐怖」と「高揚」が直結した幸福な映画体験を想像して、羨ましくて仕方なかった。  1954年と全く同じ映画体験をすることは、時代も世界も移ろった現在においてもはや不可能だ。 しかし、2016年、60年前と同じ類いの映画体験を出来得る“機会”を、我々日本人はついに得たのだと思う。 それが、この「シン・ゴジラ」という映画なのだと僕は思う。   この映画が、「3.11」そして「福島」を経たからこそ生み出された作品であることは疑う余地もない。 それは、1954年の「ゴジラ」が、「戦争」と「広島・長崎」を経て生まれた背景と重なる。 それは即ち、ゴジラという大怪獣が、人類自らによる“過ち”と“悔恨”の象徴として描き出されていることに他ならないと思う。 ゴジラは、人類(日本人)にとって究極の恐怖と絶望であると同時に、合わせ鏡の如く存在する己の姿そのものだ。  自らの「業」が生み出してしまった「災厄」に、どう対峙するのか。それが、ゴジラ映画にあるべきテーマ性だと思う。   “初代ゴジラ”は、一人の天才科学者が己の命と引き換えに死滅させた。 そして残された人々が、静かになった海を前に、「人類が核実験を続ける限り、第二、第三のゴジラが現れるかもしれない」と警鐘を噛み締めて終幕する。  “シン・ゴジラ”における顛末は、“初代”と似通っているようで、実際は大いに異なる。 前述した通り、60年という年月が経ち、時代と世界が移ろった現在において、同じ帰着に至らないのは当然だと思う。  “初代”に対して逆流するように“シン・ゴジラ”は、一人の天才科学者が己の命と引き換えに誕生させたと言っていい。 そして、対峙せざるを得なくなった危機と恐怖と絶望を、人類自らが乗り越えなければならない対象=現実として真正面から見据え、必ずしもすぐさまそれに完璧に打ち勝つことは出来なくとも、共存し、対峙し続けなければならないという「覚悟」を、映画世界の内外の“日本社会”に、問答無用に植え付けてくる。  外洋へ追い出すこともしない、火山に蓋をして閉じ込めることもしない、そして消し去ることもしない。 1954年「ゴジラ」を含めた全28作のどのゴジラ映画とも異なる終幕。 当然ながらそこには、怪獣映画としての王道的なカタルシスは無い。 「作戦」を成功させた劇中の日本人たちが起こしたアクションは、ただ“一息”をついただけだった。  ただし、この帰着こそが、今、この国で、新しい“ゴジラ映画”が生み出されたことの「真価」だと思える。 「恐怖」の対象が、己の分身そのものである以上、我々は、それを見据え続けるしかない。    劇場公開直後に鑑賞して、ほぼ一ヶ月間、このレビューを纏めることが出来なかった。 その間、他の映画を全く観たいと思えず、通算3度映画館に足を運んだ。こんなことは初めてだった。 それでもまだまだ書き連ねられていないことは多い。きっとこの後もこのレビューは何度も書き換えられることだろう。  「凄い映画だ」 本当はこの一言で充分だ。
[映画館(邦画)] 10点(2016-07-31 23:32:28)(良:3票)
12.  進撃の巨人 ATTACK ON TITAN
いつになくハイテンションな役づくりでキャラクターに挑んでいるらしい石原さとみが、「こんなの初めてーーーー!!」と絶叫する予告編を観て初めてこの作品に対しての食指が動いた。 脇役を演じる女優の台詞一つが気になって、映画館まで足を運んだことは記憶に無い。まあこういう“きっかけ”もあって良いと思う。  原作は“ほぼ”未読。話題の漫画として売れ始めていた頃に、一度第一巻を手に取ったが、絵柄の趣味と展開の稚拙さがあまりにも合わなくてすぐに読み進めるのを止めてしまった。 不気味な巨人の群れが人間を襲う描写とストーリーテリングは、斬新な表現だとは思ったが、そんなに騒ぎ立てる程のものとは思えなかった。 以来、益々拡大していったブームをスルーしたまま、今作の鑑賞に至った。  原作のストーリー展開を知らない分、対比による不満を避けられたことは、ある意味幸運だったと思う。 日本特有の“特撮映画”として楽しめる要素は充分にあったと思う。 特にこの“前編”のクライマックスである“ある展開”は、原作を読んでいなかったからこそ素直に楽しめた。 原作の持つ雰囲気とはテイストが大いに異なってはいたが、特撮で映し出された巨人は、善し悪しは別にして禍々しさは際立っており、それなりの恐怖感を醸し出せてはいた。 そもそも“特撮映画”を観るつもりで映画館に足を運んだ者として、最低限の満足感を得られたことは間違いない。  ただし、やはりその他の大部分においては、とてもじゃないが一つの映画作品として褒められたものではない要素が多すぎた。 冒頭のシーンを筆頭にドラマパートは総じて、演出面、演技面両面において稚拙過ぎる。 どんなにスペクタクルシーンで力を入れようとも、人物描写がこれ程までにお粗末では、結局白けてしまう。 今作は“前編”とはいえ、ストーリー展開的にも腑に落ちない点は多く、一々突っ込むことすら馬鹿らしくなることも否めない。  どう転んだとしても結局「批判」は避けられなかった難しい企画であることは間違いなく、それでも日本映画としてこの映画化に挑戦した意義と価値は確実にあったことは認める。 少なからず「後篇を観たい」という気持ちを持たせただけでも、良しとすべきだろう。  「後篇」にも期待はしたい。 でも、おそらくそれを観た後には、「やっぱり、大人しくギレルモ・デル・トロ監督あたりに権利を譲渡すりゃあよかったのに」とか思ってしまうのだろうな……。
[映画館(邦画)] 4点(2015-08-07 23:26:18)
13.  終戦のエンペラー
69回目の終戦記念日に、この映画を観たことには、意味があったと思える。 つくづく思うことは、やはりこの国の人々は、自国での「戦争」のことを知らな過ぎるんではないかということだ。 知らないというよりも、目を背け続けていると言う方が正しいかもしれない。 戦争体験者も、未経験者も、まるで持って生まれた「体質」が無意識にそうさせているように、言及し、追求することを避け続けているように思える。 それは、時間の経過と共に、より一層に“語り継ぐ”ということの重要性が叫ばれている今となってもだ。 体験としての悲劇が語られる場合はまだ多い。しかし、なぜあの戦争が起こったのか、なぜあの戦争が終わったのか。その核心的な部分については、まだまだひた隠しにされている「事実」が多過ぎるように思わざるを得ない。  それが、この映画の主題としても描かれる、日本人の性質に直結するものかどうかということも興味深いし、一つの可能性として描かれる「史実」もとても興味深かった。  昭和天皇とマッカーサー元帥並ぶあまりに有名な一枚の写真。 あの不穏さと互いの所在なさを感じる歴史的な写真の裏に隠された事実は何だったのだろうか。 日本という国にとって、マッカーサーとはどういう人間だったのか。 日本人という民にとって、天皇“裕仁”とはどういう人間だったのか。  この映画で描かれている物語が総て真実だとは思わない。 しかし、この国が守り続けた美徳も、それに伴う愚かさも、その描かれ方は、決して過剰なわけではなく、確かな一側面を描いていると思える。  そういう意味で、この映画の演出、俳優たち演技は、それぞれ真っ当だったと思う。 ストーリーテリングや編集に稚拙さを感じることは禁じ得ない。 でも、多くの人が“タブー”として目を背けがちである事実を、アメリカと日本の人々が供託して追求したことの価値は高いと思う。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2014-08-16 00:23:38)(良:1票)
14.  地獄でなぜ悪い
いやあ狂ってる。「サイアク」な映画だ。でもだからこそ「サイコー」過ぎる。  こんなにも悪趣味極まりなく、とっ散らかった馬鹿映画なのに、目柱が熱くなっている自分に笑ってしまった。 自分自身がこの映画を楽しめる「馬鹿」だということに、幸福感を覚えた。  事実や現実という言葉ばかりが重要視される世の中。「虚像」というレッテルを貼られたものは、社会から一方的に排除される。 偽ることは褒められたことではない。でも、本当に真実だけを見ることばかりが正しいのか。 つくられた世界を愛しては駄目なのか。 この世そのものが、“作り物”で埋め尽くされた地獄なんじゃないのか。  作り物でなぜ悪い?地獄でなぜ悪い?  もうそれは理屈じゃない。馬鹿と蔑まれようが、社会から排除されようが、その思いを貫き通したいすべての人々の、まるで怨念のように揺るがない信念だ。 その思いを「映画」という宝箱にぶち込み、撹拌し、無様な型で捻り出したこの映画を、愛さずになんていられない。  ミツコ(二階堂ふみ)の魔性と、平田(長谷川博己)の狂気を思い出しつつ、公次(星野源)の主題歌が延々とリフレインする。 しばらくはそういう日々が続きそうだ。
[DVD(邦画)] 10点(2014-03-30 16:43:42)
15.  人類資金
「青臭い」  映画のラストで、“悪役”のヴィンセント・ギャロが、悔しさと憎しみを滲ませながら言うのだが、映画の脈絡に反して、正直、彼の台詞は正しくて、その一言に尽きる。 現実社会に即した経済サスペンスとして描かれてはいるが、映画としては、青臭い表現と青臭い帰着を見せる稚拙な映画だと言わざるを得ない。  原作は未読。元々の物語はもう少し骨格がしっかりしているのかもしれないが、映画化の脚本にも監督の阪本順治と共に、原作者の福井晴敏が名を連ねていたので、概ねこういう話なのだろう。  世界を股にかけて陰謀と真実を追究する大規模なサスペンスが描きたかったのだろうけれど、娯楽としての表現力の部分で、圧倒的に力の無さを感じた。 画的な迫力の無さにおいては、製作費の限界も勿論あるのだろうけれど、それよりもそもそもの技量が足りていないように思えた。  登場するキャラクターの人物描写も根本的に希薄なため、物語に深みが出てこない。  佐藤浩市演じる主人公の詐欺師は、行動論理がいちいち曖昧で軽薄で、最終的に「こいつ何か主人公らしいことしたか?」と思ってしまう。  謎のフィクサーとして登場する香取慎吾は、ビジュアル的にそれなりの雰囲気を出してはいたけれど、行動の真意が早々に露になるので、重要人物になり得てない。  観月ありさの“回し蹴り”は意外と良かったが、やはり彼女にこの手の役を演じさせるのは無理がある。  森山未來は、キーパーソンとなる“外国人”を持ち前のパフォーマンス能力でしっかりと演じており、頑張っていたと思う。 しかし、映画の「青臭さ」は最終的に彼が演じるキャラクターに集約していってしまうので、結果的には頑張りが空回りしている印象を受けてしまった。   映画としてやりたいこと、伝えたいことは分かる。どういう類いのエンターテイメントに仕上げたいのかも想像はできる。 が、あまりに巧くなく、故にどうしようもなくダサい。  ヴィンセント・ギャロは何で出たのか?役柄的にも完全にミスキャストだったと思うが……。 
[映画館(邦画)] 2点(2013-11-10 23:02:27)(良:1票)
16.  十三人の刺客(2010)
往年の日本の娯楽映画が好きなので、オリジナルの「十三人の刺客(1963)」も随分前に観ていた。 娯楽映画に限ったことではないが、昔の日本映画には昨今のものにはない圧倒的なエネルギーが満ちあふれていて、作品の善し悪し以前にしっかりとした“見応え”があるものが多い。 往年の日本映画のリメイクは多々あるが、どの作品も映画作りにおけるそもそもの力強さに欠け、オリジナル作品に匹敵する映画は殆どない。  そういうことを踏まえて言いたいことは、今現在において往年の日本の娯楽映画にひけをとらないエネルギーを映画に込められる作り手は、結局、三池崇史をおいて他にいないだろうということだ。  リメイク作品としては珍しく、オリジナルを超える“強さ”を持った娯楽映画だったと思う。 バイオレンス映画を数多く撮ってきた三池崇史監督と「時代劇」の相性は非常に良いとも思った。特に今作の残酷さと泥臭さが存分に溢れた"侍映画”としてのストーリー性に、この監督ならではの暴力性と娯楽性はとても良い塩梅で合致していた。  太平の世が続く時代の中で、徐々に取り残され始めてきた"侍”たちの生き様は悲哀に溢れ、単純ではない格好良さがあった。 そして、刺客たちの標的とされる残虐な暴君には、極悪非道な言動の中に主君ならではの哲学性も持ち合わせており、一筋縄ではない悪役としてのキャラクター性があった。 主役級から脇役に至るまで、一人一人のキャラクターに味があり、群像のドラマ性が高かったことが、クライマックスの大殺陣を盛り上げた最たる要因だったと思う。  「面白かった」と一言言い放ち満足感に浸れる素晴らしい娯楽映画だ。
[DVD(字幕)] 9点(2011-10-10 03:03:04)
17.  沈まぬ太陽
日の丸親方の大企業を軸とした様々な人間の、様々な思惑、正義、悪意がめくるめく様を描いた長ーい物語。 202分にも及ぶ大長編で、内容が内容なので、とてもじゃないが気軽には観られない。数ヶ月前に録画しておいたものをようやく観ることができた。  山崎豊子の長編を渡辺謙をはじめとする映画スタッフが気合いを入れて長い長い映画に仕上げただけあって、骨太で見応えのある作品だったとは思う。 個人的に、こういうそれなりに名を馳せた多くのキャストが色々な役で登場する作品は好きなので、次々に登場する俳優陣の顔ぶれを見ているだけでも、興奮させられた。  冒頭にも記した通り、様々な人間の様々な思惑が絡み合う人間ドラマなので、最終的に「誰が正しい」ということは言えないもどかしさを、ラストシーンを観ながら感じた。 そのことが、見終わった後のカタルシスの欠如に繋がったことも否めない。  ただし、この物語はまさにそういう社会自体のもどかしさを描いたものであり、それをしっかりと表現したこの映画の方向性は決して間違っていないと思う。 そして、「フィクションだ」と濁してはいるけれど、この物語が実在の巨大企業の顛末をモチーフにして描かれていることは明らかであり、実際にどういう問題があって現状に至っているのかという「実情」がとてもリアルに理解できた。  現実に即し、安直なドラマティックを排除した実直な映画だと思う。  でも、渡辺謙演じる主人公が、自らの信念に対してあまりにも頑すぎて、その絶対的な実直さが逆に人間として共感できないなあと、個人的には思ってしまった。
[地上波(邦画)] 6点(2011-05-02 15:48:03)
18.  シーサイドモーテル
やりたいことは分かる。狙っている世界観もファーストシーンからラストシーンまでビンビンと伝わってくる。  だが、ウマくいっていない。そして、面白くはない。  山間の小汚いモーテル、海なんて何処からも見えないのに、その名も「シーサイドモーテル」。そこに集まった4組の訳あり男女。それぞれのシチュエーションの中で巻き起こる”騙し合い”。 キャストは生田斗真、麻生久美子、山田孝之、玉山鉄二、成海璃子、古田新太……と華やかさを併せ持つ曲者揃い。  「ああ、面白そうだ……」と、予告を見た段階で止めておくことが、最も幸福なのかもしれないが、もちろんそういうわけにはいかないわけで……。  何と言うか、面白く無さ過ぎて腹立たしいなんてことは全然ないのだけれど、きっぱりと面白くないと断言は出来て、その失敗の様を何故だか微笑ましく眺めてしまう。そんな映画。  それは、この映画に携わったスタッフも演者もみな決して手は抜いていないということが、ひしひしと伝わってくるからかもしれない。 「タランティーノばりに面白い映画を作ろう!」とそれぞれが頑張っているのだけれど、噛み合っていないというか、そもそも話が面白くないというか。  無意味にハイテンションな演出なので、舞台で各部屋のセットを立体的に組んで演れば、結構面白い舞台になるかもしれない。と、可哀想なのでフォローしてみる……。  まあ、いいよ。こういう映画もあって良いよ。   P.S.「手紙」の後にこの映画を観た。山田孝之&玉山鉄二の役柄のギャップは、楽しみがいがあった。そういう要素も、映画の醍醐味だと思う。
[DVD(邦画)] 5点(2010-12-25 02:10:49)
19.  仁義なき戦い 広島死闘篇
シリーズの順番を違えて、第三弾「代理戦争」を観た直後に、第二弾である今作を観た分、余計に特徴的な個々人の人間描写が鮮烈に印象に残った。  何と言っても配役が凄い。 シリーズの主人公である菅原文太演じる広能昌三を脇に配し、北大路欣也、梶芽衣子、千葉真一がそれぞれ濃すぎるほどの芝居を見せつけてくれる。 それぞれが決して魅力的なキャラクターというわけではないのだけれど、台詞を発する一つ一つの息づかいや、ぎらつくような目つきに、目が離せなくなる。 特に千葉真一演じる暴徒のキレっぷりは圧倒的だった。文字通り男の血と汗がたぎる映画世界の中にあって、梶芽衣子の色香も極上。  それにしても、深作欣二が生み出した同シリーズは、オリジナル全5作品がたった2年間の間に立て続けに公開されたことに驚く。 これほどまでに濃い映画を、これほどまでに濃いキャストをもってして連発した当時の日本映画界のエネルギーは、とても今の映画界の裁量でははかれないだろう。  つくづくあらゆる面において、「圧巻」の一言に尽きる映画だと思う。
[DVD(邦画)] 8点(2010-09-12 19:52:01)
20.  仁義なき戦い 代理戦争
現在(2010.9)放映されている某ビール会社のCMで、御年77歳の菅原文太が、物凄い風格を携えて立ち飲み屋でビールを飲んでいる。 ただのCMだが、菅原文太という大俳優のスター性を改めて感じた。それと同時に、昭和の日本映画史を彩ったスター俳優も、自然の摂理の中で徐々に少なくなってしまったことに一抹の淋しさを覚える。  そんな思いもあって、菅原文太の映画を観たくなった。彼の代表作と言えば、一にも二にも「仁義なき戦い」だろう。数年前に第一作目を観て、その溢れ出る映画のエネルギーに圧倒された。  番外編と評される第二作目を飛ばして、深作監督作品のシリーズ中、最も評価の高い第三作目の今作を観た。  「代理戦争」という副題が表す通り、やくざの組織対組織の思惑がぶつかり合う”かけひき”の様が色濃く描かれた作品だった。 菅原文太演じる広能昌三も、やくざ組織の中の愚かしい欲望の乱立の中で鬱積する場面が多く、一作目のような強大なエネルギーとインパクトは得られなかった。 やくざ映画らしい抗争シーンは何度か挟み込まれるが、トータルすると、どこの世界でもあり得る“政治劇”を観ているような印象を持った。  菅原文太の憤りが溢れる苦悩の表情で映画は終わってしまうので、観ている方もカタルシスが満たされぬまま苦悶してしまう。  どうしてこの作品がシリーズ中、最高評価を得ているのかは理解出来なかったが、シリーズを転換させていくための作品としては重要な人間模様を描いていると思う。  そして、単純に血で血を洗いのし上がっていく様だけを描かず、今作で描き出されたようなやくざ社会の中での“政治”の様や、盃の取り交わしと裏切りが表裏一体であるこの世界の異様なまでの愚かしさまでを、徹底して描き連ねたことが、この映画の孤高の価値に繋がっていると思った。  飛ばしてしまった第二作目も含め、この際、全シリーズ作品を観てみようと思う。
[DVD(邦画)] 6点(2010-09-10 16:25:37)
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