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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2597
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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81.  マイマイ新子と千年の魔法
「この世界の片隅に」の衝撃的な感動から6年あまり、片渕須直監督のアニメーションの真髄は、そのさらに7年前に製作された本作の中に既に息づいていたことを、今更ながら思い知った。ある平日の深夜に気軽に鑑賞したのだが、想像以上に傑作だった。  山口県防府市の農村に生まれ育った主人公の新子と、東京から転校してきた貴伊子との出会いと育まれた友情。 共に過ごしたその日々は、一年にも満たない短い期間のできごとではあるけれど、深く、瑞々しく描き出される。 不可思議ながらも安らぐアニメ世界。澄み渡るように深い情感と、膨大な時間を超えた邂逅が、ちょっと味わったことの無い感動を生んでいる。  何やらファンタジックなタイトルではあるけれど、実際に描き出されるできごとは、実は決して特別なものではない。 この時代の日本のどこにでも存在していたであろう少年少女たちの他愛もない日々と、時代がもたらす普遍的な悲しみや苦労、そしてすべての子供たちが一度は巡らせたであろう“空想”によって、本作の物語は紡がれている。  ただ、描かれるできごとが普遍的であるからこそ、本作は形容しがたい情感を生み出しているのだと思える。 決して誰もが裕福ではない時代の中で、子どもたちは時に寂しさや悲しさを覚えつつも、それでも笑って、明日もまた会う“約束”をする。 その一日一日の積み重ねが、間違いなく「今」に繋がっているということを、千年という膨大な時の流れを引用しつつ、本作は雄弁に物語っている。  それはまさに「この世界の片隅に」で描かれた“すずさん”の人生模様に通じるアプローチだった。 そして、“すずさん”が生き抜き、命を継いだその先に、本作の時代と少女たちの人生が存在するのだということを“空想”すると、より一層芳醇な感慨を覚えた。   空想する喜びを既に知っていた新子は、生活の傍らにあった「現実」の悲しみを知る。 現実の悲しみを既に知っていた貴伊子は、新たな環境の中で「空想」する喜びを知る。 そこには時代に対する真摯な視点と共に、少女たちの成長に対する慈愛が満ち溢れていたように思う。  エンディング、コトリンゴが奏でる楽曲に包み込まれながら、「ああ、いい映画だ」と確信した。
[インターネット(邦画)] 9点(2023-01-30 23:14:22)
82.  THE FIRST SLAM DUNK 《ネタバレ》 
実際に映画鑑賞に至るまで、正直懐疑的だったことは否めない。 「完成」されている原作漫画を四半世紀以上経過した今(1996年連載終了、え、マジ?)、敢えてアニメーション化することの意義があるのだろうかと思ったし、原作者本人の手によってそれを侵害するようなことになれば、悲劇でしか無いと思った。  が、鑑賞し終えた今となっては、多大な満足感とともにこう断言したい。 紛れもない、完全な、「漫画の映画化」だった、と。  それはかつてのTVアニメシリーズでは遠く到達する余地も無かった領域だった。 桜木花道の跳躍、流川楓の孤高、宮城リョータの疾走、三井寿の撃手、赤木剛憲の迫力……、「SLAM DUNK」という漫画世界の中心で描きぬかれた“バスケットマン”たちの一コマ一コマの“躍動”を、まさしくコマとコマとの間を無数の描写で埋め、繋ぎ合わせ、動かす(Animation)という崇高な試み。 敢えて語弊を恐れずに言うならば、この映画作品に映し出されたものは、いわゆるアニメーションではなく、稀代の“漫画家”が己のエゴイズムを貫き通した先に到達した漫画作品としての極地だったのではないかと思える。  「THE FIRST」と銘打ち、まさかの“切り込み隊長”のバックボーンを描いた本作。 殆どすべての原作ファンにとって、そのストーリーテリングは、是非はともかく驚きであったことは間違いないだろう。 賛否が大きく分かれていることからも明らかなように、その追加要素が雑音として響いてしまったファンも少なくないのだろうと思う。  ただ、個人的には、この加えられた物語こそが、連載終了から四半世紀経った今、井上雄彦が描き出したかった物語であり、「SLAM DUNK」という漫画をもう一度クリエイトする理由に他ならなかったのだと思う。 例えばもっとシンプルに「山王戦」のその激闘のみを精巧に描き出した方が、特に原作ファンのエモーションは更に高まったのかもしれない。 でもそれでは、井上雄彦本人が監督・脚本を担ってまで本作に挑む価値を見い出せなかったのだろうし、そもそもこの企画自体生まれていなかったのだろう。  井上雄彦は、時代と価値観の変化と混迷の中で、「バガボンド」、「リアル」という彼にとってのライフワークとも言える作品を、その終着点を追い求めるかのように描き続けている。 漫画家という立ち位置を崩すことなく、ただひたすらにその表現力を進化させ、思想を発信し続けるクリエイターの矜持が、本作には満ち溢れていた。  そのすべてを井上雄彦自身が生み出している以上、無論これは後付などでは決してなく、原作漫画「SLAM DUNK」の研ぎ澄まされた1ピースであろう。 いや、四半世紀前から知っちゃいたけど、「天才」かよ。
[映画館(邦画)] 9点(2022-12-12 21:37:35)
83.  タイトル、拒絶
東京のど真ん中の、猥雑で、ありとあらゆる欲望に塗れた薄汚れた雑居ビルの風俗店の一室で、切なく蠢く女性たちの感情が、乱暴なまでに生々しくべっとりと描きつけられる。 その様は、果たして阿鼻叫喚の地獄絵図のように進展していくけれど、このような人間模様は、きっとこの街のそこかしこで当たり前のように繰り広げられていることに過ぎないのだろう。  格差是正だとか、ジェンダーレスだとか、サステナビリティだとか、美辞麗句を並び立てることがこの社会は大好きだけれど、実際のこの世界は、女性が一人生きていくにはあまりにも息苦しくて、あまりにも醜い。  出張風俗店の息苦しい待機部屋を燃やしたって、憎い男性店長を刺したって、たとえこの街がドカンと爆発したって、明るい未来なんて見えるはずもない。 モラハラやDVに耐え忍んで、ほんの小さな愛にしがみついてみたところで、その次の曲がり角では理不尽で卑劣な暴力の餌食になるかもしれない。  なんて過酷。なんて醜悪。  それでも、それなのにだ、雑居ビルの屋上から見える狭い空の燃えるような夕焼けを見て、思わずお腹がすいてくる。なんて切ないんだろう。なんて悲しいんだろう。   「伊藤沙莉」目当てで鑑賞して、やっぱり伊藤沙莉が素晴らしかった。 あの絶妙なビジュアル、表情の作り方、そして声質、この女優の演技とそのたたずまいは、文字通りに味わい深く、どんなに他愛もないシーンであっても観ていて飽くことがない。  そして伊藤沙莉演じる主人公を翻弄し続ける風俗嬢の面々を演じた女優たちもみな素晴らしかった。 ベテラン嬢を演じた片岡礼子以外は、本作の撮影時点ではそれほど名の通っていない若手女優ばかりだったと思うが、表情や立ち振る舞いの実在感がことごとくリアルで、殆どデリヘル店の一室で展開されるこの映画の小さな空間を見事に彩っていたと思う。(特に劇中バチバチにやり合う恒松祐里と佐津川愛美は、この一年間の朝ドラ出演で知った女優だっただけに、そのギャップが印象的だった)   自分のしょうもない人生にドラマなんて期待しないし、そんなものにタイトルを付けるなんて反吐が出る。 無記名の大学ノートに、日々の“つらみ”をただ刻みつけるかのように、無理やり笑って、無理やり泣いて、ゴミ溜めのような今日を、彼女たちは生きていく。 そんな決して綺麗事ではない女性たちの生き様が、時にどうしもようなく、美しい。
[インターネット(邦画)] 9点(2022-12-10 00:08:01)
84.  ブレット・トレイン
“ニッポン”は、世界中の外国人にとって、我々日本人が思っている以上に、唯一無二の「娯楽」の塊なんだと思う。 サムライ、ニンジャ、フジサン、アニメ、コスプレ、そしてシンカンセン。時代を越えて積み重ねられたその累々とした娯楽要素こそが、この国を愛する多くの外国人が求めるモノであり、憧れなのだ。  長年、そういった“ニッポン”を愛する外国人が生み出す映画を観ていると、日本人が見せたい“JAPAN”と、外国人が見たい“ニッポン”とでは、そもそものベクトルが異なるということをつくづく感じる。 昔は、そんな“トンデモ”日本描写に対して鼻白むことも多かったけれど、今は、逆輸入の新しい娯楽性として純粋に楽しめるようになったし、それほどまでこの国を愛してくれている海外クリエイターたちに感謝を覚えるようになった。 そう、そこにあったのは、日本文化に対する「無理解」ではなく、圧倒的な「愛」だったのだ。  結論を言うと、本作「ブレット・トレイン」(a.k.a「弾丸列車」)は、想像を遥かに超えた“トンデモバカ映画”だったが、紛れもなく日本がルーツのこの作品は、日本人にとっても圧倒的娯楽だった。 ずばり、エンターテイメント大作として“ケッサク”である。   私は伊坂幸太郎の小説のファンなので、原作「マリアビートル」も既読。 というよりも、ブラッド・ピット主演で映画化という情報を聞き入れてから、一年ほど前に読んだ。 伊坂幸太郎らしい軽妙さと人生観を孕んだ楽しい娯楽小説で、読了時点から本作を鑑賞するのが楽しみだった。 小説のストーリーラインを忠実に映画化しているというわけでは勿論なく、ハリウッド映画化にあたって文字通り大いに「脱線」していることは間違いない。 でも、その「脱線」こそが、ハリウッド映画化の意義であり、ブラッド・ピットが主人公を演じ、デビッド・リーチ監督がクリエイトすることによる付加価値だろう。  小説の語り口と比較すると、全く別のお話のようにも見えるかもしれないが、原作が描くテーマや精神性は、荒唐無稽の映画世界の中でもしっかりと反映されている。 疾走する高速列車の中で、登場人物たちの「悪運」と「幸運」が、絡み合い、鬩ぎ合い、運命を切り開いていく。 殺し屋たちが織りなすその群像劇そのものは、非現実なファンタジーだけれど、現実世界であってもおびただしい人間たちの悪運と幸運が入り混じっていることには変わりなく、その一つ一つの結果が「人生」であるということ。 理不尽な状況下の中で、悪運を撒き散らしながらも、自身の信念を持って存在し続ける主人公の姿こそが、今この世界で「生きる」ということの本質なのかもしれない。   ともあれ、ちょっと珍しいくらいに嬉々として娯楽映画の主人公に扮するブラッド・ピットを堪能しつつ、“トンデモ”が止まらない本作の暴走ぶりを楽しむのがよろしかろう。 本作の舞台となる“弾丸列車”の名称は「ゆかり」。 そう、ほっかほかの“白飯”に、極彩色豊かな“ふりかけ”をたっぷりかけて味わうつもりで。
[映画館(字幕)] 9点(2022-09-17 22:15:49)(笑:1票) (良:3票)
85.  浅草キッド
昭和56年生まれの僕は、ビートたけしが“漫才師”だった時代を知らない。 僕自身、物心がつくかつかないかの頃、テレビで活躍していた彼の姿は“タケちゃんマン”だった。 分別がつき始めた頃には彼は毒舌家のパーソナリティとして既に芸能界のトップに君臨していたし、映画鑑賞が趣味となった頃には“北野武”という押しも押されもせぬ日本を代表する映画監督になっていた。  もちろん、古い映像でツービートの漫才を見たことはあったし、無名時代にストリップショーの幕間コントに出演していたということは知っていたけれど、僕らの世代にとってそれらはもはや「伝説」の類だった。 (「ちびまる子ちゃん」でお笑い好きのキャラクター“野口さん”がフランス座の前で無名のたけしにサインをもらうエピソードが印象深い)  そういうわけで、この映画は、この国の芸能界の“生きる伝説”ビートたけしの「誕生秘話」として極めて興味深く、青春映画として、そして伝記映画として紛れもなく傑作だったとまず言いたい。 正直、劇団ひとり監督をなめていた。 彼の芸人としての趣味趣向ど真ん中の題材とはいえ、これほどまで骨格のしっかりした良質な作品を作り上げるとは、只々脱帽だ。  浅草のストリップ劇場「フランス座」を舞台にした人間模様、そして芸人師弟の物語は、決して奇をてらうことなく王道的だった。 そこには、この国の誰もが知る芸能におけるスーパースターの誕生を描くことに対する気概と敬意が表れていたと思える。 「伝説」を映画として描き出すに当たって、余計な創作やデフォルメは不要であり、ありのままの“ビートたけし”をそこに存在させることができたならば、面白くなるに決まっている。 それが、ひとり監督の信念であり、勝算だったのではないか。  そして、その思惑は見事に結実している。 決して大袈裟なストーリーテリングをするわけでもなく、未読だが、おそらくは小説「浅草キッド」に沿った物語展開の中で、若き見習い芸人“タケ”が、“ビートたけし”へと成り上がっていく。  この映画を成立させているのは、やはり“ビートたけし”を文字通り体現した柳楽優弥だと思う。 松村邦洋からかなり綿密な指導を受けたようだが、当然ながら俳優としてモノマネという領域を超越し、“憑依”という言葉が相応しい圧巻の演技を見せてくれた。 前述の通り、僕自身は若い頃のビートたけしを見たことはないが、「ああ、これはたけしだ」と驚くほどに腹に落ちた。  W主演としてビートたけしの師匠・深見千三郎を演じた大泉洋も、もはや名優という冠を疑わせない安定感と存在感を見せている。 門脇麦、鈴木保奈美ら女優陣が表現した“生き様”もとてもドラマティックで素晴らしかった。 また、触れないわけにはいかないのが、ビートきよしを演じたナイツ土屋伸之の名演+名漫才。現役世代トップの漫才師としての技量と自然な佇まいが見事だった。  そしてそれら芸達者な演者たちの能力をちゃんと引き出し、王道的な映画世界の中に着実に落とし込んでみせた劇団ひとり監督の手腕は、やはり本物だと思うのだ。
[インターネット(邦画)] 9点(2021-12-15 22:14:30)(良:2票)
86.  GODZILLA 星を喰う者
愚かで傲慢な“旧時代”の人類は、「存続(=勝利)」し続ける限り、憎しみと虚栄を捨て去ることができない。 絶対的な「畏怖」の対象と、それがもたらした「新しい世界」を目の当たりにして、旧時代の英雄は、自ら“憎しみの螺旋”を断ち切るために飛び立つ。 三度、あまりにも強大な宿敵と対峙し、憎しみと怒りをぶつける彼が見せた“最期の安堵”。それは、自分が本当に”滅ぼすべきもの”が何だったのかということに到達した儚くも、勇ましい帰着だった。   というわけで、れっきとした“ゴジラファン”でありながら、世評の悪さから鑑賞を先延ばしにし続けてきたこの長編アニメ版「GODZILLA」トリロジーを一気に完走。 各レビューサイトとも、世評はやはり「否定」の嵐だったが、僕自身は、この三部作を通じて、想定外の世界観の深さと、ストーリーテリングの振り切り方に驚き、感動したと言っていい。  ハリウッド版含め30作以上に及ぶ玉石混交の「ゴジラ」映画全シリーズ作品を根底に敷き詰め、まるで原作版「風の谷のナウシカ」のような人類文明終末の虚無感と運命への抗い、そして、永井豪の「デビルマン」のクライマックスを彷彿とさせる人間の本質的な「業」がもたらす罪と罰の様相が、豪胆なストーリーテリングの中で展開されていたと思う。 無論、今作が、過去のゴジラ映画シリーズ随一の映画だとか、上に挙げた伝説的漫画作品に匹敵する作品だとは決して言えないけれど、そういった偉大な過去作に対する明確なリスペクトを掲げつつ、この製作チームが目指した高みは、素晴らしくチャレンジングで、間違いなくエキサイティングだった。  大多数からの“拒否感”は認める。だが僕は、ゴジラ映画ファンのはしくれとして、過去の全30作を鑑賞してきたことを踏まえて、敢えて全方位的に「肯定」したい。  日本の映画史、そして世界の特撮映画史に燦然と輝くゴジラ映画シリーズだが、控えめ言ってその7割以上は「駄作」である。 特に、このトリロジーの直接的な原作とも言える1964年「三大怪獣 地球最大の決戦」をはじめ、以降の昭和時代に製作された各作品は極めて陳腐で子供だましのものが圧倒的に多い。 ただ、そういう駄作群も含めて、長きに渡り世界中の映画ファンに愛され続けているのが、「ゴジラ」という歴史であり、魅力であろう。「三大怪獣 地球最大の決戦」にしても、ゴジラ・モスラ・ラドンのまるっきり“コント”のような共闘の滑稽さに呆れつつも、キングギドラ登場のインパクトと精巧さには惚れ惚れする。そういうアンビバレントな感覚を堪能することこそが醍醐味だと思う。  このトリロジーの諸々の強引な設定や中二病的なストーリー展開に対して鼻白み、批判する評が多いようだが、個人的には、そういう部分こそが特撮映画っぽさ、ゴジラ映画っぽさでもあり、全くもって許容範囲だった。 むしろ、そのある意味伝統的なチープさを取り込みつつ、最新のSFアニメとして最大限増幅し、振り切ってみせていることが、ファンとして高揚感を高められた最大の要因だったと言える。  ゴジラ映画としても、アニメーション映画としても、歪だし、独善的な映画であることは否定しない。ただそれ故に印象的で忘れ難き作品になっていることは間違いない。  ただ……、“モスラ”はちゃんと孵化させて、ゴジラ、ギドラと同様に圧倒的なアニメーションで見せて欲しかった。 アレンジされた「モスラの歌」が双子姉妹によって奏でられるのを今か今かと心待ちにしていたのだけれども。
[インターネット(邦画)] 9点(2021-01-22 23:43:40)
87.  永い言い訳
「後悔先に立たず」とは言うけれど、何かが起きて、すぐさま後悔できたのなら、それはまだ健全で幸福なことなのかもしれない。 後悔すらもすぐにできなくて、永い時間と、永い言い訳を要する。人間の人生なんてものは、往々にして無様で、愚かだ。 そんな“愚かさ”を肯定するつもりはないけれど、その有様を、辛辣に、そして優しく描き出したこの映画は、間違いなく傑作だと思えた。  主人公の男(本木雅弘)は、“自己憐憫”をこじらせ抜いており、ファーストシーンから只々“言い訳がましい”。 その男の髪の毛を、慣れた手付きでカットする美容師の妻(深津絵里)。 彼女の表情は、呆れているようにも、嘆いているようにも、嫌気が差しているようにも見えるし、それでもこの駄目な男のことを愛しているようにも見えなくはない。  妻は手早くカットを済ませ、親友とのバス旅行に出かける。その一方で、夫は不倫相手を家に呼び寄せる。 そして、ふと悲劇が起きる。  冒頭のその一連のシーンを観るにつけ、この映画が良作であろうこと明らかだった。 西川美和の監督作を観るのは、「夢売るふたり」を観て以来7年ぶりだったが、彼女の作品世界が益々成熟していることは明白で、「これは覚悟して観なければ」と姿勢を正した。  とはいえ、描き出されるストーリーラインは有り触れたものであり、主人公をはじめ登場人物たちの造形も、極めて類型的なものだと言えよう。 有り触れたストーリーに、類型的な人物描写、だからこそ紡ぎ出される感情の“容赦無さ”が殊更に突き刺さる。  本木雅弘演じる主人公の「行為」は勿論擁護できないし、妻の死後に訪れた“父子”との出会いによる“輝いているような”日々も、彼の自己憐憫の延長線上の「逃避」であることは否定できない。(池松壮亮演じるマネージャーは尖すぎるぞ……)  けれど、自己憐憫であれ、逃避であれ、その時間が、誰かの救いとなり、何かしらの“気づき”に至らしめたことも明白な事実だ。 ひどく痛々しくて、極めて愚かしいけれど、そういうことも含めて「生きる」ということだということは、この世界の誰しもが否定できないことだろう。     僕自身、主人公の人間性を肯定できないと言いつつも、バッサリと断罪することもできず、どこか彼の心情に寄り添ってしまうのは、他ならぬ自分自身が、弱く、愚かな男の一人であることの証明だ。 そんな一鑑賞者の“男”の心情にまで踏み込み、掻き乱し、より一層に背筋を正させるこの監督の「視線」は、つくづく“厳しい慈愛”に満ち溢れている。  西川美和監督の力量もさることながら、出演する俳優陣が、みな素晴らしい。 主演の本木雅弘は、各シーンにおいて「ああ、これは駄目な男(人間)だ」と観る者に確信させる絶妙な表情を見せつけ、主人公の心の機微を表現しきっている。 主人公と同じく、男やもめとなった父親を演じた竹原ピストルは、独特な風貌とフレッシュな間合いで、主人公と正反対のキャラクターを好演していた。 黒木華、池松壮亮、山田真歩ら脇を固める俳優陣、そしてストーリーの核となる幼い兄妹を演じた子役たちにも、隙が無かった。  そして、夫役である本木雅弘とはほぼワンシーンの共演ながら、その短い出演時間で、全編通して“妻”の存在感を保ち続けた深津絵里も無論素晴らしかった。  命を落とした妻の映像的な描写は、その後のシークエンスにおいて回想シーンすら挟まれず、主人公の想像上のワンシーンとラストの写真のみの登場に留められている。 それでも、彼女は夫の心に居続け、後悔すらもできなかった男の心情に「風穴」を開ける。  すべてを見通していたのだろう妻の“未送信メール”を目の当たりにして、それでも彼女は夫を愛していた………なんて思いたいのはやまやまだけれど、そんなものは情けない男の“エゴ”に過ぎない。  “永い言い訳”を言い終えた夫は、出かける妻に言われたとおり、粛々と「後片付け」をしながら、気がつくのが遅すぎた「愛」を只々悔やむのだ。
[インターネット(邦画)] 9点(2020-03-07 23:56:16)(良:2票)
88.  ラストレター(2020) 《ネタバレ》 
遅すぎた邂逅は、それでも何かを癒し、未来を生む。 いびつで、拙く、寓話のように非現実的だけれど、それは僕自身が「Love Letter」から25年来、愛し続けた世界観そのものであり、“優しい嘘”は、あの時と変わらずに心を揺らした。   僕が中学生の頃、「スワロウテイル」を観て、岩井俊二という映画監督の存在を初めて知った。 「映画」というものを自身の趣味として積極的に観始めたばかりの頃で、見識が浅い子供だった僕は、映し出されている映画世界のどこまでが現実で、どこからが非現実なのか、その境界線を判別できなくて、大きな戸惑い共に衝撃を受けた。  無論それは、あの“イェン・タウン”という異世界に対してリアリティを感じたというわけではなく、エキセントリックな「寓話」として映し出された空間に妙な生々しさと、現実世界と地続きの真理めいたものを感じたからだと思う。 以来僕は、二十数年に渡り、この映画監督が生み出す“世界”の虜になり、憧れ続けてきた。  時間は瞬く間に過ぎ去り、中学生の男子は、アラフォーのおじさんになった。  2016年の「リップヴァンウィンクルの花嫁」以来4年ぶりの最新作に対しては、少々気が引けていた部分があった。 「Love Letter」の二番煎じとまでは言わないまでも、何となく懐古的な雰囲気を携えたイントロダクションに懸念を感じていたこともあるが、何よりも僕自身が、“ラブストーリー”というものに対して、とんと縁遠くなってしまっていたことの影響が大きい。  四十路前のおじさんになってしまった自分が、中学生時代から憧れ続けてきた映画監督が新たに生み出したラブストーリーを目の当たりにして、照れずに、素直に受け入れることができるだろうか。そういう「危惧」が無意識下にあったように思う。  でも、そんな危惧や懸念は、序盤の何気ないシークエンスに触れた途端に消え去っていった。 少年少女たちの他愛もない台詞回し、どこか無防備な役者たちの自然体の演技、ただひたすらに美しい映像世界、ファーストカットからの一つ一つに対して、「ああ、岩井俊二の映画だな」とストンと腹に落ちる感覚を覚えた。  松たか子、福山雅治が演じる主人公たちは、奇しくも高校卒業から二十数年を経た“おばさん”、“おじさん”。 この上なくセンチメンタルで、ロマンティックなラブストーリーであることは間違いないけれど、この映画は、まさに「Love Letter」から25年が経った“僕たち”のための作品だった。  二十数年の年月は、劇中の登場人物たちにとっても、現実世界の僕たちにとっても、同じように長く、一口で語れるものではない。 色々なものを失い、色々なものを得るには充分な時間であろう。  過ぎ去った時間のあまりにも眩い「光」を愛するあまりに、逆にその呪縛から抜け出せずにいた売れない小説家の男。 不意に訪れた邂逅により、彼が突き付けられた“現実”はあまりにも厳しく、尽きせぬ悔恨と共に容赦なく「闇」の中に突き落とされる。  けれど、その邂逅は、男を呪縛から解き放ち、「闇」の中から新しい「光」へと導いてもいく。  “幻影”のように美しく光り輝く二人の少女に対峙した彼は、決して取り戻すことができない時間の無情さを痛感したと同時に、悔恨も、贖罪も、悲しみも、感謝も、すべてひっくるめて歩むべき「未来」を見出したのだろう。   “信奉者”としての贔屓目は多分にあろうとは思う。 ただ、岩井俊二の映画作品と共に、僕は僕なりに、二十数年の“紆余曲折”を経てきたわけで。 その上で得られたこの新たな感動を否定することなどできやしない。
[映画館(邦画)] 9点(2020-01-18 23:31:44)(良:1票)
89.  IDOL-あゝ無情-
まさにちょうど一年前に、「BiSH」という“アイドルグループ”を知り、瞬く間にドハマりし、虜になった。 そしてYou TubeやTwitterをフル回転して彼女たちのことを掘り起こしていく過程の中で、必然的に所属事務所である「WACK」を知り、その社長兼プロデューサーを務める「渡辺淳之介」という人物のことを知った。  BiSHは勿論、同じくWACKに所属する他のアーティストも、皆アイドルとしても、女性シンガーとしてもエモーショナルで、それぞれのパフォーマンスを見漁り、聴き漁った。 僕にとって、この一年は「WACKの一年」と言ってしまって過言ではなく、その一年の締めくくりとしてこのドキュメンタリー映画を劇場鑑賞したことは、中々相応しい体験だったと言えよう。  この作品は、或るアイドルオーディションの一部始終(の中のほんの一部)を映し出したドキュメンタリーであり、アイドルを夢見る女性たちの“烈しい”軌跡が描き出されている。 が、しかし、実はこの作品の焦点は、オーディションに挑む参加者たちには当たっていない。彼女たちの“夢追い物語”が主題ではないのだ。  それでは、オーディションと並行して繰り広げられるWACK所属グループ「BiS」の“解散劇”が今作の主題だろうか。 確かに、本来“主役”であるべきオーディション参加者をよそに、カメラの中心には、解散の瀬戸際で苦悩し泣き叫ぶBiSのメンバーたちが常に映し出されている。 憔悴するアヤ・エイトプリンス、懇願するムロ・パナコ、止めどない彼女たちの涙と苦悶の表情が、このアイドルドキュメンタリーのハイライトであることは間違いない。 でも、その彼女たちの姿、言動すらも、この作品のメインテーマの一つのファクターに過ぎなかった。  すべては今作のタイトルに表れている。 「IDOL-あゝ無情-」、他の誰よりもこの感情を覚え続け、時に呑み込み、時に吐露し続けてきた人物の苦悩こそが、今作の主題だ。 その昔、初めて担当し育て上げたアイドルグループを売れさすことができずに、解散となった事実と無念を今なお抱え続け、それでもアイドルを生み出し続ける男。 事務所の社長としての重責と、生みの親としての愛情の狭間で、彼はこの映画の中で、終始怒り、失望し続ける。 誰よりも「悪者」になっているその男が、誰よりも彼女たちを愛していることは明らかだ。  その男は、これからも少女たちの“夢”を生み、育み、壊し、ひたすらに進んでいく。 なんて悲しい、なんて虚しい。 まさしく「無情」そのものだけれど、その闇が深まるほど、表裏一体の光はより一層に眩しく輝くことを彼は知っている。 その光がほんの一瞬の儚きものだったとしても、彼はそれを追い求めることを躊躇わない。
[映画館(邦画)] 9点(2019-12-18 14:14:24)
90.  天気の子
梅雨明けした週末、それに合わせるように封切りされていた本作を観に行く。 正直なところ“期待”は半々といったところだった。 新海誠監督の前作「君の名は。」はちょっと異常なレベルの社会的大ヒットとなり、これを受けての次作は、否が応でも注目を集めることは必至で、それは「独善的」なこのアニメーション監督の作風にいい意味でも悪い意味でも影響を与えるだろうと思えた。 案の定、公開前からちょっと節操がないくらいの企業タイアップの乱れ打ちが目立ち、注目度と製作資金の潤沢さを感じる反面、あらゆるしがらみに覆われた相当に自由の利かない映画製作になったのではないかと危惧していた。  酷評も辞さない構えで鑑賞に至ったのだけれど、その危惧は全くの杞憂だった。 善し悪しはまず別としても、そこで繰り広げられたのは、前作以上、いや過去作のどれよりも“独善的”で“独りよがり”な新海誠監督の「セカイ観」全開の映画世界だった。 危惧された不自由さはむしろ皆無だったと言っていい。美しすぎる精巧なアニメーションは無論健在だが、その美しさと表裏一体の生々しくリアルな描写が観る者の心情をじわじわと抉ってくる。 現実の具体的な企業名や商品名が作中の至るところで映し出され、「現実感」を効果的に演出していた。そう、節操なく思われた企業タイアップだったが、監督と製作陣はそれを最大限に活かし、アニメ世界の重要なファクターとして表現してみせている。  タイトル「天気の子」が表すとおり、この国のあらゆる「天気」を表現したアニメーションはあまりにも美しく、それだけでこの映画の価値は揺るがないとすら思える。 しかし、この映画で表された美しさは、いびつで残酷だ。 主人公の少年少女たちは、この美しい世界の“底”で、文字通りに生命をすり減らしながら、喜びと希望を見出そうと奔走する。 それは決して安直な綺麗事ではなく、心身ともに追い詰めされた彼らがギリギリのところで保とうとした生きる「意味」だった。  この映画が描き出したストーリーテリング、そして主人公たちの帰着に対して、受け入れられない人は多いだろう。 彼らの「選択」は極めて破滅的な行為であることは間違いなく、想像よりもずっとカオスで狂気的な映画である。  セカイの“しくみ”も“理り”も関係ない。 彼らは、あまりにも無責任に、あまりにも独善的に、そして「確信」をもって、「大丈夫だ」と言い切る。 ならば、それがすべてだ。 世紀の“わがまま”を押し通す、若い生命の猛々しさと瑞々しさ、最高密度の「青臭さ」に、少なくとも僕は、涙が止まらなかった。  梅雨明けのタイミングで観に行って、なんと“梅雨明けしない”顛末には面食らったが、今、この国の夏に観なければ、あまりに勿体ない映画だ。
[映画館(邦画)] 9点(2019-07-26 23:22:01)(良:2票)
91.  ちはやふる 結び
結論から言うと、この映画は、青春映画としても、スポ根映画としても、漫画の実写化作品としても、確固たる「傑作」として、文字通りに“結んでいる”。 既定路線的に若手俳優たちをキャスティングした人気漫画の映画化企画が乱立し、お世辞にも良作とは言い難い作品が並ぶ中において、今作(三部作)が築き上げたクオリティーとエモーションは、ちょっと奇跡的と言っていい。  この映画が成功した要因はいくつもあるが、先ず挙げられるのは「競技かるた」という競技に対する真摯な姿勢だろう。 ニュースの一トピックスとして名人・クイーン戦の模様を伝え聞いたことはあるけれど、いまひとつ一般的な馴染みの無いこの競技に対して、決して表面的な要素をなぞるのではなく、その本質に存在する文化的な歴史や価値、スポーツとしてのシビアさや奥深さまで、しっかりと表現することに挑んでいる。 無論それは、原作漫画自体がきっちりと踏んでいるアプローチなのだろうが、見た目の迫力や俳優たちの美麗さに依存するのではなく、「競技かるた」と「百人一首」が持つディープな世界観に踏み込んで見せたことが、この映画の質を上げたポイントだと思う。  そして、そういった映画的なアプローチに呼応した若い俳優たちがみな素晴らしかった。 広瀬すずのヒロインとしての存在感は三作目にしてもはや言わずもがなだろう。 主人公「綾瀬千早」の「天性」こそが、この物語の肝であり、それを映画の中のキャラクターに感じることができなければ立ち行かなかったことは明白だ。 広瀬すずは、文字通り頭のてっぺんから指の先、更にはその先の弾いたかるた札に至るまで、一挙手一投足の総てでその「天性」を演じきり、体現(=アクション)して見せている。 正直なところ、その主演女優の“アクション”を見ているだけで、この青春映画は成立しているとさえ思える。 その主演女優の存在感に負けず劣らず、周囲のキャラクターを演じた俳優たちもみな魅力的だったと思う。   この「結び」は、「上の句」「下の句」で描き出された「競技かるた」と「百人一首」の何たるかを根底に敷き詰め、更に人生を通じてこの「勝負」に傾倒する登場人物たちの人生観や、彼らの鋭敏な肌感覚まで引き出し、映し出していく。 そうして主人公たちの“視線”を通じて、物語を「未来」へと導いていく。 それはまさに「百人一首」という文化そのものが、千年に渡って連綿と継いできた真髄に他ならず、この作品に相応しい帰着だった。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2019-03-21 18:33:56)(良:1票)
92.  未来のミライ
子どもが育つということは、ただその事実のみであまりにもドラマティックだ。 それは、どんな形であれ、子どもを育てた経験がある人、もしくはその真っ最中の人ならば尚の事、身に沁みて感じることだろう。 ただ、そのドラマは普遍的であるからこそ、映画表現としてそのまま描くばかりでは、退屈なものになってしまうことは避けられない。今作の序盤はまさにそんな感じだった。  「あ、やっちまったか?」と、序盤から中盤、いや終盤近くまで正直思った。 個人的に、細田守監督の前作「バケモノの子」の満足度が、それまでの過去作と比較すると随分と下回っていたこともあり、今作については鑑賞前の危惧が大いにあった。 予告編等のインフォメーションを見ても、今ひとつ「面白そう」だとは思えなかった。タイトルやキャラクターの台詞から、なんとなくありきたりなストーリーラインを思い浮かべてしまっていたのだと思う。 そんな思いの中で展開されたものが、想像以上に間延びした幼児の成長譚だったものだから、「危惧が的中したのだ」と意気消沈してしまったことは否定できない。  しかし、だ。この作品は、終盤にある種「異様」とも言える転じ方を見せる。 即ち、退屈と困惑からの、カオスとエモーション。 アニメーションは秀麗ではあるけれど間延びし、ありのままの幼児像に少なからずの不快感すら覚え始めていたそれまでのストーリーテリングが、時空と概念を超えて“ファミリー・ツリー”として集約され、眼の前がぱっと明るくなり何かしらが覚醒したような感覚に包み込まれる。 気がつけば、抱えていたはずのフラストレーションは霧散し、特異な充足感を感じていた。  冒頭から山下達郎の爽やかなテーマソングが流れ、いかにもなファミリームービー的な導入で始まる映画ではあったが、今作は決して万人受けするアニメ映画ではないだろう。少なくとも、大いに困惑し、最終的に腑に落ちない点も多々あると思う。 しかし、この映画が語るものが「家族」であることはやはり間違いなく、その主題を“根幹”に据え、「子が育ち、命を継いでいくこと」の意味と価値を示したこのいびつなアニメ映画は、結局のところこの季節に相応しい。 やっぱり、細田守のアニメーションは、夏がよく似合うと思える。  我が家の娘と息子も、笑いながら、泣きながら、文字通りすくすくと成長している。 その日々が、「未来」につながり、ファミリー・ツリーの枝葉を伸ばしていくのだと思うと、胸を熱くせずにはいられない。 うちも庭先に何か木を植えようか、と思うのだ。
[映画館(字幕)] 9点(2018-08-03 23:36:18)(良:1票)
93.  映画ドラえもん のび太の恐竜2006
休日の昼間、子どもたちとの暇つぶしに鑑賞。WOWOWの特集放映を録り溜めていることもあり、ドラえもん映画鑑賞が日課になりつつある。 声優陣の切り替わり前の“旧ドラえもん”体制での作品群については、子供の頃からほぼリアルタイムで観ていたので、自分の子どもたちにもその面白さを知ってもらおうと、精力的に再鑑賞をしている。 一方で、新声優陣でのドラえもん映画については、“F先生”の「大長編ドラえもん」が原作でないことによるストーリーの稚拙さに満足しきれないことが多いため、“うたた寝上等”で気軽に観ていた。  ぐだぐだと何が言いたいかというと、要するに今作を「ナメていた」のだ。 12年も前に、これほど良質なドラえもん映画が創り出されていたとは。 正直言って、この映画はドラえもん映画としてはもとより、アニメ映画として確固たる「傑作」の部類だと思う。   よくよく考えれば当然のことである。 今作は、れっきとした“F先生”原作のドラえもん映画の記念すべき第一弾「のび太の恐竜」のリメイクなのだから、ストーリーテリングにおいては一定以上のクオリティが確保されている。そこに最新のアニメーション表現が加われば、そりゃあエキサイティングな映画になる可能性は充分にあったわけだ。 そういう可能性をまったく考えず、声優陣が変わったことによる安直な“食わず嫌い”と、「もう大人だから」という意味のないレッテルを自分自身に貼り付けて、今作を今の今まで観ていなかったことは、一ドラえもんファンとしてまったくもって恥ずべきことだった。  このドラえもん映画は、想像以上に真摯に原作(大長編ドラえもん)とオリジナル映画に向き合い、リスペクトをし、ただストーリーラインを踏襲するだけではなく、時代に相応しい新たな解釈や、最新の学術に即した恐竜の生態、そしてラストの描写の改変に挑んだ意欲的なリメイクだった。  特に、ラストの改変は素晴らしい。 原作漫画も含め、オリジナルでは、クライマックス後の物語の収束はほぼ“タイムパトロール”に委ねてしまっている。 勿論それは、限られた“ページ数”の中で、大スペクタクルを収めるためのF先生ならではの巧みさだったわけだが、今作はその部分の改変に、リメイクすることの「意義」を見出している。 悪党である恐竜ハンターたちを撃退しすべてが解決しても、のび太たちは「目的」に向かって歩き続ける。そしてついに、自分たちの努力のみで目的地に辿り着く。 この描写が加わったことで、この大冒険を経たことで彼らにもたらされた「成長」が浮き彫りになる。のび太が育てた首長竜“ピー助”が「成体」として育った様を丁寧に描いていることからもそれは明らかだ。  少年と異形の者との交流、“行って帰ってくる”というすべての物語の原型を敷いた冒険譚、それらすべてをひっくるめた「成長譚」としてのジュブナイル性が、「のび太の恐竜」という物語に新たな価値を生んでいる。  その他、意欲的なアニメーション表現についても枚挙にいとまがない。 部屋のサイズ感のリアルさ、超空間を漂う涙、時に敢えて“いびつ”に表現されるキャラクターの輪郭線、それらは一寸「違和感」にも感じたが、「ドラえもん映画」という枠組にありながら、それを越えんばかりの「独自性」を追求した成果として賞賛すべきだと思う。   子どもたちと共に鑑賞したその日の夜、一人再鑑賞に至った。 昼間は抑えていた涙を拭ったことは言うまでもない。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2018-04-28 21:09:57)(良:3票)
94.  夜明け告げるルーのうた
少年と“異形の者”との邂逅と成長を紡いだストーリーは極めて有り触れている。その語り口自体も、とても稚拙で雑多だ。 映画全体が、綻びだらけで、決して「完璧」とは言い難い。 だけれども、涙が溢れて仕方がなかった。  特異なアニメーションが表現する多幸感と快感が、「音」のように、「水」のように、「光」のように、自由気ままな「形」で押し寄せてくる。 なんて自由!なんてアメージング!と、思わず叫びたくなった。  湯浅政明監督による“自由闊達”なアニメーションが、稚拙で綻びだらけのストーリーを繋ぎとめ、むしろそれこそがこの映画に相応しい物語性だと確信させる。 人間と人魚の交流を描いた物語なんて、それこそアンデルセンの「人魚姫」から、今年のアカデミー賞作品「シェイプ・オブ・ウォーター」に至るまで、世界中で何百通りも描かれてきたプロットだ。 そこにティーンエイジャーの成長端としてのジュブナイル性も加わった日にゃ、ストーリーの経路と行き着く着地点は目に見えている。 実際、紡ぎ出されたストーリーそのものに驚きは殆ど無い。 にも関わらず、観る者の心を掴まえて離さないこの映画の表現力、即ち、湯浅監督のアニメーション力は常軌を逸している。  と、この手の映画は言葉で語れば語るほど野暮になる。 要は、眼前に広がる「音」と「水」と「光」のイマジネーションの果てしなさを、感じられるかどうか。良い悪いではなく、それを感じられることができたなら、それはとてもハッピーなことだ。  僕としては、ハッピーな映画体験だっただけに、公開規模が小さくて、映画館で観られなかったことが一年越しで口惜しい。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2018-04-22 20:28:52)
95.  夜は短し歩けよ乙女
「“偽電気ブラン”を飲みたい」 22時過ぎ。歌舞伎町の映画館で今作を観終えて、そのまま“偽電気ブラン”を求めて当てもなく彷徨い歩きたくなった。 10年前に森見登美彦の原作小説を読んだ時とまったく同じ「衝動」を駆り立てた時点で、この映画化は大成功だと思えた。  大変な満足感を覚えた反面、この映画の面白さを言葉にしようとすると、どれも陳腐な表現になり纏まらないことに苦慮した。 幾晩かを越えて、その理由がようやく分かった。 「先輩」と「黒髪の乙女」のめくるめく“一夜”を描き出したこのアニメーション映画が繰り広げるあまりにも自由気ままなイマジネーションとアバンギャルドな世界観は、まさに一夜で見た「夢」の如き体験だったからだ。  僕は“色付きの夢”をわりとよく見る。 印象的でエモーショナルな夢から目覚めることもしばしばあり、「ああ、昨夜見た夢を映画化すれば大傑作になるかもしれないぞ」と一寸思う。 しかし、次の瞬間、その夢を言語化しようとするととても陳腐で他愛のないものとして表れ、大変がっかりする。 またはそういった夢の中で、とても魅力的な女性に出会い恋に落ちることもある。当然ながら夢から覚めた時点で、その恋も終わり、失恋したような感覚が一日中残ることもある。  「夢をエンターテイメントとして具現化することはできない」というのが、個人的な結論だった。 しかし、この映画は、僕のその持論を呆れるくらいの自由闊達さで一蹴してくれた。  これほどまでに自由で、勝手気ままなご都合主義的で、自己陶酔的で、馬鹿馬鹿しくて破茶目茶でありながら、何とも楽しくエモーショナルで稀有なエンターテイメントとして完成していることに、愉悦を越えて嫉妬すら感じる。  人生は短い。夜は短い。  それはまったくその通りだけれど、「一夜」を四季を駆け抜ける一年間のように濃密な時間にするかしないかは、本人の歩き方次第。 ならば、許される限り長く、愉快に歩かなければ、勿体無いというもの。
[映画館(邦画)] 9点(2017-04-19 09:24:05)
96.  ワイルド・スピード/SKY MISSION
「別れなんてない」 そう言い残して一人走り去るドミニク。そんな彼を追ってきて、真っ白のスープラでいつものように横に並んだブライアンの姿は、果たして現実だったのだろうか、幻影だったのだろうか。 「さよならも言わずに行くのか?」と笑顔を見せるブライアンに対してのドミニクの表情には、喜びと悲しみが等しく入り交じっているように見えた。  シリーズ7作目。 当然ながら“一見さんお断り”の今作を、封切り早々に観に行く“ファン”としては、とてもじゃないが、ラストのシークエンスを涙なしでは観られなかった。  とはいえ、この映画は「ワイルド・スピード」である。映画の9割以上は、突っ込むことが馬鹿らしく思えるくらいに大味なストーリーテリングと、大仰なアクションシーンのひたすらな連続である。 ただし、その「大味」と「大仰」は、このシリーズが7作品を通じて培った娯楽性の“境地”であり、否定の余地は微塵もない。  一介のストリートレーサーだった主人公とその一味が、シリーズを追うごとにアクションヒーロー化し、ついには某スパイアクション映画を彷彿とさせるほどの極秘任務を担う。 フツーなら“あり得ない!”と一蹴されるべきプロットを、堂々とまかり通してしまう。それを成すものは、このアクション映画シリーズが導き出した奇跡的なエンターテイメント性に他ならないと思う。  この「7」は、あらゆる側面で「奇跡」そのものだ。  前作のラストで突如登場したジェイソン・ステイサムを最恐の悪役に配し、ヴィン・ディーゼル、そしてドウェイン・ジョンソンと、あまりに“肉厚”な肉弾戦を繰り広げる。 “アクションスター”というステイタスの価値が低迷して久しいが、それでも“現役”トップスターである三者の揃い踏みは、あまりに豪華だ。  また、ミシェル・ロドリゲス好きとしては、前作のジーナ・カラーノ戦に続き、またしてもプロ格闘家ロンダ・ラウジーとの“連戦”はたまらなかった。  そしてもちろん、最後に言及したいのは、ポール・ウォーカーだ。 俳優の死は、いかなる時も映画ファンにとって不幸以外の何ものでもない。 今作のクランクアップ前に急逝したもう一人の主演俳優の死は、あまりに大きな損失だった。 ただ、彼の死が、この映画に特別な意味と価値を与えたこともまた事実であろう。  ド派手なカーアクションの追求の果てに、今作ではついに自動車が“空を飛ぶ”。 「SKY MISSION」は後付の邦題ではあるが、今作の主題であるその要素は、天国へと旅立った主演俳優の姿に重なってくる。   映画は、総合芸術であり総合娯楽だ。 その「総合」という言葉には、そこに携わった人間の“人生”そのものも含まれるのだと思う。 一人のスター俳優の生き様と共に、今シリーズはこの先も愛され続けるだろう。 今宵は、ポール・ウォーカーの冥福を改めて祈りたい。 もちろん献杯は“コロナビール”で。
[映画館(字幕)] 9点(2015-04-25 23:45:00)(良:4票)
97.  百円の恋
「最高」だ。何が?って、「安藤サクラ」に決まってる。  “どん底”が住処の女。ヤケクソで始めた一人暮らしから、悲惨な処女喪失と失恋が更に追い打ちをかける。 鬱積という鬱積に呑み込まれそうになったとき、彼女はそれを振り払うように、ひたすらに拳を振るい始める。 振るう拳の速度が上がるほどに、彼女は生気を取り戻し、美しくなっていくようだった。  見紛うことなき“サイテー”の状態からの、ささやかだけれど格好良すぎる“ワンス・アゲイン”。 こんな「女性像」を体現出来るのは、いまやこの女優をおいて他にいるわけがない!と、心底納得させられる。  2年前に「愛のむきだし」と「サイタマノラッパー2」を観て以来、安藤サクラという女優の“本物感”はひしひしと感じていたけれど、どうやらここにきてこの女優はとんでもない領域に達してきているようだ。 爆笑問題の太田光が激賞していたように、「バケモノ」という表現が相応しい。  “汚れる”ことが出来る良い女優は他にも沢山いる。 でも、醜いまでに汚れると同時に、可笑しさと、愛くるしさと、格好良さ、さらにはエロティシズムまでも孕ませることが出来る女優は唯一無二だ。 今作ではその上に、驚愕の身体能力まで見せつけてくる。その存在感は他のどの女優にも当てはまらない。まさに「バケモノ」だ。  この映画は、キャッチコピーの通りに呆れる程に痛い恋愛映画であり、遅すぎる青春映画であり、過去最高級のボクシング映画である。 ただ、それらを全部ひっくるめて、最高の“安藤サクラ映画”と表すのが最も相応しかろう。
[映画館(邦画)] 9点(2015-01-17 21:38:46)(良:2票)
98.  劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [後編] 永遠の物語 《ネタバレ》 
どこかで予感していたことではあったけれど、この「劇場版」と銘打たれた“総集編”のクライマックスを観ながら、一つの「後悔」を感じずにはいられなかった。 それは勿論、このアニメのテレビシリーズ本編を先に観なかったことへの後悔だ。 結果的に、“総集編”だからという違和感はそれほど感じなかったけれど、やはりカットがないシリーズ本編をじっくり観るべきだったと思わずにはいられなかった。  というわけで、「前編」を観終わった時点で感じていた期待感の通りに、表面的なルックに対しての嫌悪感は早々に転じ、極めて興味深いテーマ性と、作品としての新しい価値観に溢れた秀逸なアニメーションだったと思う。 今更ながら、多くのオトナたちがこの“魔法少女アニメ”にハマった理由が納得できた。 この手のアニメ作品に造詣が浅い者ほど、その衝撃は大きく、ちょっと忘れられない新鮮な印象を抱いたことだろう。  “正義の味方”として存在する者が、「希望」を頂き続けることによって自らのインサイドに潜む「闇」を深めるという業苦。 その描写は、あまりに残酷で辛辣過ぎるけれど、「正義」の名の下に「奇跡」を司るということの本質はそういうことで、「真理」なのだと思えた。 そして、その「真理」を認め踏まえた上で、それでも「愛と勇気」を貫き、世界と現在過去未来総ての魔法少女たちの存在性そのもの守ってみせた主人公の壮大な慈愛に心が震えた。  「希望」と「正義」を志したキャラクターのすべてがハッピーエンドに至るわけではない。むしろ、魔法少女たちは終わりのない戦いをこれからも強いられ続ける。それこそ「永遠」に。 最後まで非常に厳しい悲壮感をこの作品は突きつけてくる。 ただしそこには彼女たちの悲壮感と共に、自らの運命と宿命を受け入れた覚悟とプライドが満ち溢れいた。 年齢とか性別とか趣向とか、知らず知らずのうちに縛られている価値観を一蹴する“熱い”作品だ。 
[CS・衛星(邦画)] 9点(2014-12-30 18:41:56)
99.  遥かなる山の呼び声
“心が洗われる”とはこういうことか。と、思った。 北海道の雄大な自然の中で、人間が人間として“生きる”ことの難しさと、厳しさ、そしてそれらがあるからこそ見いだされる素晴らしさが、決して仰々しくなく少しずつ滲み出るように映し出される。 冬の厳しさが残る春、短いからこそかけがえのない夏、実りの秋、そして再び訪れる厳冬。四季の移ろいとともに描き出された一人の男と母息子の物語に、一言「いい」としか言いようがなかった。  必要以上に故人を美化する気はないけれど、死してなお銀幕の世界に生き続け、後世に至るまで愛され続けることこそが映画スターの究極の価値だと思う。そして、高倉健という人は、その価値に相応しい人物であったことを改めて感じ入る。  今作は高倉健主演映画ではあるが、同時に倍賞千恵子の主演映画でもあったと思う。 日に焼け泥にまみれながら一人息子と共に生きていく母親役の倍長千恵子からは、内に秘めた強さと脆さが同時に伝わってきて、切なく美しかった。  愛する人の死を経て、母子二人文字通り寄り添うように必死に生きていく姿は、映画の題材としてはあまりにありふれている筈だけれど、時代を越えて愛されるに相応しいドラマ性に満ちていた。 何気ない食事シーンや会話の中から、この母子が抱える悲しみと慈愛がじんわりと伝わってくる。 色々な国の映画を観てきているが、やはりこういった「表現」は日本映画ならではのものだと思うし、その一つの頂点に立つのが山田洋次という映画監督だと思う。  そして、この映画においてもう一つ特筆せずにはいられないのは、ハナ肇の最高の脇役ぶりだ。 ハナ肇が演じる「虻田太郎」というキャラクターは完全なる脇役であるけれど、序盤は「悪役」として登場し、「コメディリリーフ」となり、最後には「最も愛すべき存在」となってこの映画において無くてはならない存在感を見せてくれる。この人もまた日本映画史に残り続ける名脇役なのだと思い知った。  高倉健演じる主人公は、ついに最後まで母子の家で寝ることはなかった。 それでも一夏の共生によってこの3人の間に生まれた絆に、自分でも驚くくらい素直に涙が溢れた。 「幸福の黄色いハンカチ」と同様に、この先自分自身が歳を重ねつつ繰り返し観るほどに“深まる”映画だろう。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2014-12-14 01:37:37)
100.  紙の月 《ネタバレ》 
鑑賞を終えて、映画館施設内のATMで一万円を下ろした。 その一万円札をしげしげと見ながら、“彼女”の罪と罰について思いを巡らせた。  この映画の主人公が、犯した罪とは何か。そしてその代償として与えられた罰とはなんだったか。 巨額の「横領」という明確な罪が描かれていながら、果たして本当に彼女が犯した罪はそれだったのかと確信が持てなくなる。 言い換えれば、「横領」という罪に伴う「嘘」と「偽り」そのものが、彼女にとっての「罰」だったのではなかったか。  彼女の「罪」は、たった一枚の一万円札から始まる。ただしそれは、ただの目に見える“きっかけ”に過ぎない。 他人の一万円に手をつけてしまうずうっと前から、彼女は、この世界の“虚構”に対するジレンマを孕み続け、一線を越えてしまう必然性を秘めていた。 彼女にとっては、この世界にまかり通っている虚構を受け入れ、普通に生きていくこと自体が、「罰」だったのかもしれない。  その「罰」に相応しい「罪」を後追いしてしまったと捉えることは、確固たる犯罪者である彼女を庇護しすぎなのかもしれない。 けれど、欲望を追い求めるというよりも、むしろ盲目的に一線を越えていく彼女の姿には、表面的な快楽と悦楽に包まれた業苦が露わになっていた。   主人公は、越えてはならない“ボーダーライン”を次々に越えていく。時にその描写は少々唐突に見えるかもしれない。 けれど、実際、“一線を越えてしまう”という事象において、明確な意思なんて存在しないのだと思う。 唐突な流れの変化と、衝動、そしてただ残る結果。“一線を越える”というのはただそれだけのことだ。だからそこには明確な理由なんて実は無い。   「あなたはここまで」と、言い切られ、彼女はまたひとつ“一線を越える”。 まさか、この映画の結末が、こんな爽快感に包まれるなんて、ちょっと信じられなかった。   「罪」と「罰」を同時に経たからこそ、彼女に「贖罪」は必要なかったと僕は思う……いや、違うな。 やはり彼女にとっては、どこに居ようと、この世界で生き続けることこそが、贖罪なのかもしれない。
[映画館(字幕)] 9点(2014-11-23 10:19:40)(良:1票)
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