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鉄腕麗人さんのレビューページ[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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321.  ミスター・ノーバディ
土曜日の深夜にこの映画を観た。 映画を観終わり、エンドロールが終わっても、しばし呆然とした。 そして、それほど眠気は無かったが、すぐに眠ることにした。 いつもならば、映画鑑賞をした後はすぐにレビューの文章を綴るのだけれど、この映画の感想を綴るには、とてもじゃないが一日使い古した深夜の思考回路ではおぼつかないと思えた。 それに、一旦眠りに就き、一晩夢見の中でこの映画の余韻に浸りたいと思った。   「死」がなくなった新世界、世界で最後の「死」を迎える老人が118歳の誕生日に自身の人生を顧みる。  あの日、あの時、ああすれば良かった……。という思いは、人生という限られた「時間」を生きゆくすべての人間が思い巡らせることだろう。 自分の人生はただ一つだが、実は同時に「選択」の数だけ無限のパラレルワールドが存在し、それと同じ数だけの人生が存在するということが、あまりに美しいビジュアルの中で表現される。   「選択をしなければ、すべての可能性が残る」 と、人生において最初の「選択」を迫られた少年時代の主人公が語る。  映画は展開し、無限のような広がりを見せた果てに、その少年時代の台詞に帰結する。 死を目前にした老人が“過去の記憶”を辿っていく物語に見えていた映画世界が、その瞬間から、9歳の少年が自らの「選択」による“未来”とそれに伴う“可能性”を辿った物語に転ずる。  それまでに脳内に注ぎ込まれていた膨大で不可思議なイメージが、一瞬で整合した感覚を覚えた。  この映画のすべてを自分自身が正確に把握し理解しているとは思わないが、圧倒的に凄い映画であることは間違いないと思った。 「人間」の営みそのものを宇宙的視野の中で捉え、見事としか言いようがないビジュアルで表現した世界観は、スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」を彷彿とさせる深遠さと崇高さを備えていた。 そして、この映画が表現する「概念」そのものは、手塚治虫の傑作短編集「空気の底」の映像化を見ているようだった。  決して万人に受け入れられる映画ではないだろうし、個々人の精神状態次第で酷く退屈な映画になり得る作品だと思う。 ただ僕は、自分自身が己の人生を通して考え続けているあらゆる要素が溢れているこの映画から目線を外すことが出来なかった。  敢えてもう一度言う。凄い映画だ。人生を通して何度も観たい。
[DVD(字幕)] 10点(2011-11-27 01:37:41)(良:1票)
322.  すばらしき世界 《ネタバレ》 
この映画に登場する人物のほぼ全員は、主人公・三上正夫に対して、悪意や敵意を示して接することはない。 むしろ皆が、偽りなき「善意」をもって彼に接し、本気で彼の助けになろうとしている。 そして、三上自身も、その善意に対し感謝をもって受け止め、“更生”することで応えようと、懸命に努力している。 その様は、「やさしい世界」と表現できようし、この映画のタイトルが示す通り、「すばらしき世界」だと言えるだろう。  でも、それでも、この世界はあまりにも生きづらい。 その、ありのままの「残酷」を、この映画は潔くさらりと描きつける。 西川美和という映画監督が表現するその世界は、いつも、とても優しく、そしてあまりに厳しい。   僕自身、ようやくと言うべきか、早くもと言うべきか、兎にも角にも40年の人生を生きてきた。 平穏な家庭に育ち、平穏な成長を経て、そして自らも平穏な家庭を持っている。 決してお金持ちではないし、生活や仕事において不満やストレスが全く無いことはないけれど、今のところは「幸福」と言うべき人生だと思う。  だがしかし、だ。 その平穏という幸福を自認し噛み締めつつも、僕自身この世界における“生きづらさ”を否定できない。 人並みにアイデンティティが芽生えた少年時代から、40歳を目前にした現在に至るまで、「生きやすい」と感じたことは、実はただの一度も無いかもしれない。 人の些細な言動に傷つき怒り鬱積を募らせ、僕自身も“本音”を吐き出す程に周囲の人間を困らせたり、怒らせたり、傷つけたりしてしまっている。 どんな物事も思ったとおりになんて進まないし、「失敗」に至るための「行動」すらできていないことが殆どだ。 自分自身の幸福度に関わらず、人生は失望と苦悩の連続で、この世界はとても生きづらいもの。 それが、殆ど無意識下で辿り着いていた、現時点での僕の人生観だったと思う。  そしてそれは、この世界に生きるすべての人たちに共通する感情なのではないかと思う。 そういった個人の閉塞感を、この世界の一人ひとりが持たざる得ないため、その負の感情は縦横無尽に連鎖し、社会全体が閉塞感に包まれているように感じる。  この映画で西川美和監督が、社会に爪弾きにされた前科者の男の目線を通じて描き出したことは、決して一部の限られた人間の人生観ではなく、この世界の住人一人ひとりが共有せざるを得ない“痛み”と一抹の“歓び”だったのだと思う。  確かに、この世界はすばらしい。 美しい光に満ち溢れているし、エキサイティングで、エモーショナルで、ただ一つの命をまっとうするに相応しいものだ。少なくとも僕はそう信じている。  そんな世界の中で、人は皆、誰かに対して優しくありたいし、誰しも本当は「罪」など犯したくはない。 それでも、結果として「罪」が生まれることを避けられないし、すべての人が無垢な「善意」のみで生きられるほど、人間は強くない。 この映画の登場人物たちは皆優しい人間だと思うけれど、主人公に対する「善意」の奥底には、それぞれ一欠片の「傲慢」が見え隠れする。 取材をするTVディレクターも、身元引受人の弁護士とその妻も、スーパーの店長も、役所のケースワーカーも、ヤクザの老組長も、心からの善意で主人公を助けているけれど、同時にその心の奥底では彼のことをどこか見下し、自分の優位性を感じていることを否定できない。  無論、だからと言って、彼らを否定する余地などはどこにもない。 彼ら自身も、この生きづらい世界の中で、自分の心の中で折り合いをつけながら、必死に生きているに過ぎないのだから。   自分の感情に対して「正直」に生きることしかできない主人公は、それ故に少年時代から悪事と罪を重ね、人生の大半を刑務所内で過ごしてきた。 理由がどうであれ、犯した罪は擁護できないけれど、誰にとっても生きづらいこの世界が、益々彼を追い詰め、ついには自分自身で、文字通り心を押し殺さざるを得なくなっていく様を目の当たりにして、悲痛を通り越して心を掻きむしられた。 それは、単なる暴力による報復などとは、比べ物にならないくらいに残酷な業苦を見ているようだった。  ラストの帰り道、どこか都合よくかかってきたように見える元妻からの電話による多幸感は、果たして「現実」だったのだろうか。 そして、とある人物から貰った秋桜を握りしめ、最期の時を迎えた主人公の心に去来していた感情は、如何なるものだったのだろうか、救済だったろうか、贖罪だったろうか、悔恨だったろうか。 僕自身、様々な感情が渦巻き、鑑賞後数日が経つがうまく整理がつかない。  空が広く見えた。 人間は、この「すばらしき世界」で、ただそれのみを唯一の“救い”とすべきなのか。
[映画館(邦画)] 10点(2021-03-01 12:30:15)(良:1票)
323.  バッドボーイズ(1995)
アクション大作として人気が高く、続編も公開される今作であるが、個人的にはそれほどの面白さを感じなかった。ウィル・スミスとマーティン・ローレンスの掛け合いは愉快な部分もあるが、かみ合っているという感じはなかった。アクションシーンにも目を引くほどの派手さはなく、全体的に中途半端な仕上がりに終始していた。
4点(2003-10-17 14:04:24)(良:1票)
324.  人のセックスを笑うな
そもそも映画の評価など"個人的な価値観”の極みだと思っているので、この映画の場合、永作博美は悪戯な笑みが魅力的すぎて、蒼井優は久々に脇役ならではの素敵な存在感を放っていて、それだけでもう満足してしまうというもの。  全編通したまったりとした空気感の中で、息づくそれぞれの何気ないロマンスをぼやっと眺めているだけで、この映画は成立していると思う。 ただ、そういう雰囲気を楽しむ作品としては、少々尺が長い気もする。 ストーリー自体に特別な抑揚はないのだから、もう少しさらっとまとめてくれた方が、もっと心地よい余韻が残ったと思う。  あと主人公である永作博美演じるユリの人間性を終盤もう少し描いて欲しかった。 ミステリアスで魅力的な美術講師としての存在感はとても素晴らしかったけど、結局彼女はどういう人間なのか?という部分が曖昧なままで、その心象風景が見えてこなかったのは残念だし、そういう部分が思ったよりも感情が揺れなかった原因だと思う。 終盤の露出が減り、最終的に蒼井優に食われてしまった感がある。その辺りの切替えが監督の狙いかどうかは分からないが、この作品の場合は永作博美の「存在」を最後まで押し通すべきではなかったかと思う。
[映画館(邦画)] 6点(2008-03-22 16:44:51)(良:1票)
325.  モダン・タイムス
チャールズ・チャップリンの映画を初めて観た。 と言うと、映画ファンとしての見識を我ながら疑ってしまうが、事実なので致し方ない。 自分自身、何らかの作品は観ていた“つもり”になっていた。 が、どうやらその曖昧な記憶は、数々の映画において“引用”されるチャップリンの映像によって刷り込まれていたものらしい。 言い換えれば、それくらいチャールズ・チャップリンという映画人は、世界中の映画ファンの記憶の中に最初から埋め込まれているような存在なのだと思う。  そうなると、初めて観るチャップリン映画を何にすれば良いのか?ということを悩まざるを得なかったが、何となく感覚的にこの「モダン・タイムス」を選んだ。 常に揺れ動く社会において、「仕事」とは何なのか?「働く」とは何なのか?ということをひたすらに描いた今作は、今まさに「仕事」に対して思い悩む日々を過ごす自分にとって相応しく、運命じみたものを感じた。  資本主義社会の中で、文字通り機械的に働き続ける男の姿を発端として、世知辛い世の中を風刺した今作。 働けども働けども光明が差してこない厳しさを、チャールズ・チャップリンによって笑い飛ばすこの映画は、きっと公開以来現在に至るまで世界中の“働く人々”に様々な影響を与えてきたことだろう。  素晴らしいと思うのは、人間味が薄れた厳しい社会情勢を下敷きに物語を展開させつつも、この映画は決してそのすべてを否定しようとはしてないことだ。 主人公の言動が終始一貫表しているように、たとえ世の中がどんな状況であろうとも、それでも人は働かなければならないし、働けるということに喜びを感じなければならないということを、きちんとこの映画は伝えている。  だからこそ、主人公は常に前を向いていられるし、ヒロインが打ちひしがれるラストでも、“スマイル”を促し彼女の手を引いて進み出せるのだ。 辛い世の中だからこそ、すべてを否定するのではなく、肯定すべき部分に目を向けなければならない。 この映画が長きに渡り世界中の人々に愛されているのは、そういった“力強さ”に溢れているからだと思う。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2013-02-17 01:48:23)(良:1票)
326.  ボビー
恥ずかしい話だが、映画の終盤までこの作品に核心である“ケネディ”は“JFK”のことだと勘違いしていた。ほんとに無知さが情けない。 でも、その無知がこの映画の終着点までの道程における「深み」を、固定観念なく染み渡るように感じることが要因になったとも思う。  つまりは、スバラシイ映画である。  1968年、泥沼化したベトナム戦争、混迷を極めるアメリカ、残された最後の希望、アメリカ大統領候補ロバート・F・ケネディの暗殺。 アメリカ史上に残る血塗られた悲劇の日、現場となったアンバサダーホテルに集った人種もステータスもバラバラな22人の「視点」と「感情」をグランドホテルスタイルで巧みに切り取っていく。  この悲劇の事実を知らなかったので、描かれた「顛末」の衝撃は殊更に大きかった。 そして同時に、この映画を22という多種多様なアンサンブルによって描いたことの意味を知った。  それぞれが描いた「希望」がついえたその瞬間、彼らは何を見て、何を思ったのか。 きっとそれは22人の視点以上に複雑で、混沌と共に混ざり合う。  ついえた希望に反して、今なおついえることのない愚かしい悲劇の数々。 それは、アメリカという絶対的な大国に課された恒久的な「業」なんだと思う。 それは、凄まじく辛く、堪え難い。 が、しかし、諦めることは許されない。どこまでも続く悲劇を、どこまでも乗り越えていくしか、人類に未来はない。
[DVD(字幕)] 9点(2007-08-05 23:26:42)(良:1票)
327.  ドライブ・アングリー3D
この映画をクソ真面目に「否定」することしか出来ない人は、映画ファンとして勉強不足だと言わざるを得ない。 なぜならば、これこそが、もはや一つのジャンル映画として確立しつつある、“ニコラス・ケイジ映画”なのだから。  勿論、端から「期待」なんて言葉は持たずに某動画配信サービスで鑑賞を始めた。 すると、序盤から想定外の“おかしな”テンションの高さに、ニヤリとしてしまった。 「あれ?これはもしかしたら中々の馬鹿映画かもしれない」と、別の意味の「期待」が膨らんできた。  ニコラス・ケイジ演じる主人公が、ショットガン片手に問答無用に暴れまくる。 その凶暴さは、明らかに常軌を逸していて、この主人公が“フツーの人”ではないことは容易に理解できる。 どうやらその凶暴さの動機は、愛する娘を謎のカルト教団に殺され、残された孫娘を救い出すため……ということらしいが、はっきり言ってそれに見合った悲愴感など全く漂わせずに、襲来する悪漢を蹴散らし、行きずりの女とのセックスに興じる様は、ニコレス・ケイジ史上に残る無頼漢ぶりかもしれない。  その主人公の無頼漢ぶりに“悪ノリ”するかのように、映画の核心となると或る「設定」が明らかになり、「暴走」は益々激しさを増し、それと同時にストーリーは益々どうでもよくなってくる。  主人公のキャラクター性も良いが、それを上回るくらいに脇のキャラクター達も立っている。 アンバー・ハード演じるヒロインは、絶妙なビッチ感を漂わせつつ、ダイナーのウェイトレスを好演していた。 そして何と言っても、ウィリアム・フィクトナー演じる「監査役」が最高だった。得体の知れない独特のキャラクター性が、映画の重要なアクセントになっていたことは間違いなく、娯楽性を高める要因となっていたと思う。  物理的におかしな激しさを見せる銃撃戦とカーアクションに眉を潜めてしまったら負けだ。 映画全体の馬鹿馬鹿しさに対して、ストレートに「馬鹿だ!」と大笑いできた者の勝ち。 それが、“ニコラス・ケイジ映画”を楽しむための鉄則だろう。
[インターネット(字幕)] 6点(2013-11-13 22:41:32)(良:1票)
328.  七つの会議
現在、「半沢直樹」の第2シーズンにハマり中。 過剰なまでに“舞台調”の大仰な演出にはもはや笑ってしまうが、その振り切った表現も含めて、あのドラマの娯楽性であろうし、あれくらい臆面もなく勧善懲悪を描ききってくれるからこそ、カタルシスは高まるというものだ。  「倍返し」の流行語も生んだ2013年の「半沢直樹」第1シーズンの社会的ヒット以降、作者・池井戸潤の原作は、ありとあらゆる作品が映像化されてきた。 すべての作品を観てきたわけではないけれど、どの作品も、日々声に出すことができないこの国の社会の鬱積や理不尽に対して、作品の主人公たちが痛快に立ち回ってくれることが、多くの日本人にとって高揚感となり活力となっていることは想像に難くない。  現代社会における「時代劇」という寸評も、言い得て妙であり、それは江戸時代の人々が「歌舞伎」や「講談」に興じた風景と似通っているようにも思える。  今作「七つの会議」の原作は、この映画化作品が劇場公開されるタイミングで読んでいた。 中堅電機メーカー社内で巻き起こる「小市民」たちの葛藤と鍔迫り合いが実に生々しく描かれていた。 主人公・八角民夫も含めて、登場する人物が皆この社会のどこにでも存在する「小市民」だからこそ、おそらくこの国のすべての「会社員」は身につまされる事だろうと思った。無論、自分自身を含めて。  この映画化作品も、原作のイメージを損なうこと無く、概ね忠実に仕上がっていると思う。 まさに“池井戸ドラマオールスター”といって過言ではない勢揃いのキャスティングが、まず楽しい。 出演はしていないけれど、「半沢直樹」の堺雅人や、「下町ロケット」の阿部寛が登場してきても不思議じゃない世界観は、まるで一つのユニバースを構築しているようだった。  主演は野村萬斎。原作においても“変人的”に描き出される主人公像を、更に過剰な演技プランで強烈に表現しており、この稀代の能楽師がキャスティングされたことの意味を見せつけている。  「半沢直樹」においても、歌舞伎役者や落語家などの有名所が数多くキャスティングされているが、池井戸原作を映像化するに当たっては、前述の“時代劇性”も含めて、やはり古典芸能との相性が良いのだろう。 (今や飛ぶ鳥を落とす勢いの講談師・神田伯山が何かの作品でキャスティングされるのも時間の問題だろうな)  原作小説の段階から現実感のない破天荒ぶりを見せる主人公だったが、それを野村萬斎が演じることで、更に現実感は無くなっている。 ただ、その様相は、もはやこの社会原理の善悪を問う“メフィストフェレス”のようでもあり、ラストの滔々と語るモノローグも含めて、ずばり悪魔的であった。  「半沢直樹」や「下町ロケット」のように分かりやすく英雄的な主人公が不在の作品なので、より生々しい分、分かりやすいカタルシスは得られない。 結果として、非常にモヤモヤしたものを抱えつつ、今自分自身が身を置く社会や会社の風景を訝しく眺める羽目になるだろう。  原作小説のように章立ての構成になっていないので、「七つの会議」というタイトルについては正直意味不明なことになっていたな。
[インターネット(邦画)] 6点(2020-09-04 23:10:21)(良:1票)
329.  天空の城ラピュタ
今までに私はこの映画を何度観たのだろう。しばしばよく観た映画を「もう何十回も観た」などと多少おおげさに言ったりするけど、この映画は誇張なく「何十回」と観ているだろう。それでもなお、色あせることなく観たくなる。「深遠」という言葉さえ、この映画の前では陳腐な表現に思える。明らかに人の手による創造物であるが、この作品はひとつの人生である。
10点(2003-10-21 12:35:36)(良:1票)
330.  チャーリーとチョコレート工場
工場を巡る途中、主人公の少年が言う「チョコレートの美味しさは理屈じゃない」というセリフが、そのままこの映画全体を表現している。と、思う。 奇想天外なチョコレート工場と工場主、その世界の愉快さの前に理屈など意味を持たない。ただ単に“楽しい!”というほか何もないのだ。 そして、こういう映画におけるティム・バートンの支配力はもう尋常じゃない。完璧以上に完璧にその世界観を作り上げる。更にそこに、ジョニー・デップが加わった時、もう言葉などが入り込む余地は何処にもないのだ。もう“ひたすらに楽しい!”そう言う以外に何が必要か。 板チョコを手に映画館に入れば、尚更に楽しいと思う。
[映画館(字幕)] 9点(2005-09-16 02:29:07)(良:1票)
331.  MIND GAME マインド・ゲーム(2004)
世の中のほとんどすべてのものには、“限界”がある。悲観的な響きは拭えないが、それはほぼ間違いないことだと思う。だがその中にあって、そうでないもの。“ヒトのイメージ”ただこれだけには「限界が無い」ということを改めて感じた。怒涛のごとくおし流れていくイメージの羅列に、リアルに呼吸を忘れそうになる。なんて果てしない世界をヒトは持っているのだろう。なんだかおこがましい言い方だけれど、その無限の世界を携えたヒトという生物に生まれたことを誇りに思う。自分の精神・肉体の限りに果てしなく“感じる”ことを許されているまさにこの状況に身が震える。
9点(2004-12-22 19:00:25)(良:1票)
332.  マッドマックス 怒りのデス・ロード
「マッドマックスは何日から上映開始よ?」と、父親からメールが入った。 既に上映開始の第一週目だったので、「もう始まっているよ」と返した。  公開間際になって世間の好評がビンビンと伝わってきていたので、映画館に足を運ぶべきだと思ってはいたが、実父から届いたそのメールが劇場鑑賞の“決め手”となったことは間違いなかった。   映画館に映画を観に行くということが日常となったのは、小中学生の頃に父親に連れられて行ったことがきっかけである。ただ時は経ち、父親はめっきり映画館に足を運ぶことは少なくなった。 そんな父親からのそのメールからは、彼らの世代の映画ファンにとって「マッドマックス」がいかに特別なものなのかということを強く感じることができた。  実は、僕は「マッドマックス」を観たことがなかった。 この“最新作”の直接的な元となった「マッドマックス2」は1981年公開。僕自身が生まれた年である。 曲がりなりに“映画ファン”を自負するものとして、「マッドマックス」を観たことがないということは情けない限りだと思う。  今夏(2015年)のエンターテイメント大作事情は、例年以上にリメイク&リブートを含めたシリーズ最新作の色調が濃いラインナップとなっている。 「ターミネーター」「ジュラシックパーク」「ミッション:インポッシブル」etcとそうそうたる顔ぶれの中で、“マッドマックスの最新作”という触れ込みに対しては、正直なところ食指の動きが鈍かった。 その要因としては、ずばり「世代ではない」ということが最たる理由だったと思う。 自分自身が生誕した年前後に公開された映画というものは、新しくもなければ、古過ぎもせず、映画ファンとして遡って干渉するにはとても中途半端なものである。   随分と前置きが長くなってしまったが、この映画に対して言いたいことはただ一つ。  “激アツ”  あまりにチープなことは認めるが、その一言に尽きる。 熱い!熱苦しい!いやもう凄いよ!と言わざるをえない映画の熱量に圧倒される。   終末戦争後の世紀末。荒廃し枯渇した世界に残されたものは、果てしない飢えと、狂気。 留まっても地獄、進んでも地獄、ならばどうする? 常識や倫理観など存在すらしない世界の中で繰り広げられる“生”と“死”の止めどない攻防を、ただただ目の当たりにしたという“感触”。  手放しで絶賛したい。が、“オリジナル世代”であれば、もっともっと楽しめたのではないか?という疑問符が残った。 それは、単に過去作を観たことがあるかないかということではなくて、「マッドマックス」という映画体験が、人生の中に刷り込まれているかどうか。 その“体験”の有無によって、今作の価値は大いに変わるような気がしてならない。 そのことが、映画ファンとして、なんか悔しい。
[映画館(字幕)] 9点(2015-06-26 23:37:14)(良:1票)
333.  ワイルド・スピードX3/TOKYO DRIFT
「ワイルド・スピード」シリーズは、大味で荒削りなアクション映画シリーズだが、もはやそういう安直な荒々しさが「味」になっており、結構好きである。 ただし、このパート3だけは、何故だか日本が舞台で、主要キャラクターも殆ど登場せず、シリーズの時系列からも唯一脱線していたため、完全な“番外編”としてスルーしていた。  実際、“番外編”というのはまさにその通りで、映画としての「路線」そのものが明らかに他のシリーズ作品とは異なっている。 言うなれば、想定外にオーソドックスな“ベストキッド”的映画に仕上がっていると思う。  問題児の主人公が、殆ど意味不明に日本の高校へ“強制転校”させられ、異文化社会での孤立感もそこそに、転校初日に早速“ドリフト”に邂逅する。 そこで何故か、流れ者のハンに見初められ、ドリフト技術を仕込まれていく。  正直、この映画だけ観れば、ストーリー展開のあらゆる部分に脈略がなく、入り込める余地は無いと思う。 しかし、他のシリーズ作品観た上で今作の鑑賞に至ると、一つのドラマ性が見えてくる。 無論それは、シリーズのレギュラーキャラクターであるハンの存在だ。  ヴィン・ディーゼルのチームの一員として世界各地であらゆる修羅場を乗り越えてきたハンが、何故に日本に流れ着き、ヤクザ相手の危険な仕事に手を染め、不意に出会ったアメリカ人高校生に対して運転技術を仕込もうと思ったのか。  結局、その言動の理由は明確にされぬまま、彼は悲劇的な末路を辿るわけだが、シリーズのファンとしては、やはりこの“番外編”のストーリーは気になるところだ。 そして、ラストのヴィン・ディーゼルの“弔いカメオ出演”は、意外にじんわりする。   追記。 主人公役のショーン・ブラック。どこかで聞いた名前だと思ったら、「スリング・ブレイド」の少年役かあ。昔は可愛かったのに、大きくなったというか、老けたなあ……。
[地上波(吹替)] 5点(2013-07-08 23:54:59)(良:1票)
334.  金環蝕(1975)
報道番組では連日のように国内政治の「弱体化」とそれに伴う社会情勢の不安定さが伝えられている。 「弱体化」と言うが、ならば過去の政治が今と比べて優れていたのかと言うと、決してそんなことはないだろう。 戦後の混乱からたとえ強引にでも劇的な復興を成したことは認める。ただその内幕では、真っ黒な混沌が渦巻き、幾重にも膿が蓄積され続けたのだろう。 その深くこびりついた膨大な膿が、時代が変わりゆく今になって徐々に表面化している。 詰まりは、この国の政治は「弱体化」しているのではなく、元々それほど強大な力なんてなくて、長きに渡って覆い隠してきた混沌が目に見えるようになった今、一体どうすれば良いのか分からない状態なのだと思う。  そういうことを、この映画で一部始終描かれる数十年前の日本政治の混沌の様を見ていて思った。  この映画に善人は出てこない。政治の内幕を描いた物語でありながら、登場する人物は揃いも揃って“悪い奴ら”ばかりである。 各々が「甘い汁」を吸おうと躍起になり、それらの行為に良心の呵責などは微塵も無い。当然、善が勝るというようなカタルシスは得られない。だから怖い。  悪行が公然とまかり通り、混沌は闇の中に埋められた。この国には、そんな時代が確実にあって、その上に今の社会が成立している。もちろん、その名残は方々で残っているだろう。 その現実を一般人がもっと認識し、何が善で何が悪なのか、その一つ一つを考えなければ、この国の先は無い気がする。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2010-08-19 14:42:50)(良:1票)
335.  デッドプール2 《ネタバレ》 
前作を鑑賞した際も強く感じたことだが、「反則」こそがこのヒーローの最大の魅力であろう。 バラバラになっても再生するという不死身の肉体そのものがもはや反則的だが、それ以上に、「第4の壁突破」というメタ構造を自由闊達に行き来する独自のキャラクター性こそが、この赤マスクの最強の「武器」であることは言うまでもない。 そして、その要素を、原作キャラクターの枠すらも超えて最大限活かし尽くせるライアン・レイノルズをキャスティングできたことが、この映画シリーズの揺るがない成功要因だと思う。  ハリウッド俳優の地位は確立しつつも、いまひとつ作品に恵まれず、演技パフォーマンスの出来に関わらず嘲笑の的にされてきたライアン・レイノルズという俳優のキャリアそのものを、レイノルズ本人が自ら笑いものにし、文字通り“ぶっ殺す”様が、今作の稀有なエンターテイメント性のピークだ。  ライトなコメディ要素として、自らのキャリアを全否定する描写を入れているけれど、普通そんなことは容易ではない。 そういう意味では、レイノルズ本人の、俳優としての客観性と、人間としての懐の深さが表れている。 その俳優本人の魅力が、コミックキャラクターの枠を超えて溢れ出ているからこそ、ライアン・レイノルズが演じるデッドプールは世界中の映画ファンを熱狂させ得たのだと思える。  前作から引き続き、数々の“反則技”を繰り広げるデッドプールだが、今作ではついに時間すらも超越する。 その昔、スーパーマンが地球を逆回転させて時間を逆行させ、死んでしまったヒロインを救うシーンを観たとき、子供ながらに「それアリ?」とやや懐疑的に感じてしまった記憶があるが、デッドプールに対しては不思議とそういう感情は生まれなかった。  それは、彼の本当の武器が、“反則技”そのものではなく、非常識をまかり通した上で、それを味方は勿論、敵役にも、観客にも「許容」させてしまう“人間力”だからだと思う。 そりゃあ、ブラッド・ピットもマット・デイモンもバカな役でカメオ出演してくれるわけだね。
[ブルーレイ(字幕)] 7点(2018-11-24 10:47:02)(良:1票)
336.  犯人に告ぐ
かつての誘拐事件で心に傷を負った敏腕刑事が、新たに巻き起こった連続児童殺人事件を、テレビを通じて犯人と対峙する「劇場型捜査」として挑む。  原作は未読だったので、色眼鏡なく展開するストーリーに入り込むことができ、トータル的にはまずまずよく出来た映画だという印象に落ち着いた。 主人公を演じた豊川悦司は、キャラクターによく合い安定した演技を見せたと思う。笹野高史をはじめとして、脇を固める俳優陣は地味めながらも実力者揃いで味のある存在感をもって作品を支えていた。  想像するに、原作をうまくまとめて決して破綻することなく映像化しているのだと思う。ただその体裁の良さが、同時に映画作品としてやや「味が薄い」という印象に繋がっているとも思う。 「劇場型捜査」というセンセーショナルな要素を核心に据えてはいるが、このストリーのミステリー性はそれほど練り込まれたものではなく、むしろベタと言える程シンプルだ。 原作を読んでいないので想像の範疇を出ないが、この物語の本質は、真犯人特定のプロセスではなく、主人公を中心とした「劇場型捜査」に絡む群像のドラマ性にあるのではないかと思う。 そういう意味では、もう少し主人公以外の登場人物たちの人間性を深く掘り起こして欲しかったと思う。そうすれば、もう少しアクの強い映画に仕上がったのではないか。
[DVD(邦画)] 7点(2008-03-22 03:12:43)(良:1票)
337.  ホビット/思いがけない冒険
 「壮大」というよりは「膨大」な映像の“物量”に気圧された。 それがそのままエンターテイメント大作の質としてのパワーに直結して感じられたなら良かったのだけれど、鑑賞日は三が日の最終日、年末年始の疲労の蓄積がピークに達した状況では、正直呆然と眺めるしかなかった。 コンディションを整えられていなかったことに対しての自責を感じつつも、"見慣れた”映画世界に「退屈」を感じてしまったことは否めない。    「ロード・オブ・ザ・リング」(以下「LOTR」)三部作が映画史に燦然と残るファンタジー映画の傑作であることは間違いないと思っている。  その“前日譚”を同じピーター・ジャクソンが描き出すということに対しては、大いなる期待と同時に、「二番煎じにならないのか?」という危惧はどうしたって拭いされなかった。  結果として言えることは、やはり危惧した通り、何だか見慣れた映画世界がまた一からスタートしたのだなという印象に帰結してしまったということだ。  世界観の作り込みは当然ながらもの凄い。ただし、そこに前三部作を超越した何か“新しいスゴさ”があるかというと、そういうものは感じられなかった。 ガンダルフをはじめとしてお馴染みのキャラクターが登場するシーンは、かつての高揚感が彷彿とされ確かにアガる。ただそのアガり方も、あくまでスピンオフ的な盛り上がりに過ぎず、「前日譚」である以上「LOTR」を越える程の物語性は望めまいという固定概念が先行するため、今ひとつ高揚感に浸ることが出来ない。  またキャスティングの地味さも厳しい。俳優の名前で客を呼ぶタイプのエンターテイメント作品ではないということは分かっているが、新キャラクターの殆どが無名俳優ばかりで印象が薄いので、登場人物の多さがただの雑多さに繋がってしまっている。 たとえ現時点での知名度は低くとも、たとえばヴィゴ・モーテンセンやオーランド・ブルームクラスの実力やスター性を備えた俳優を起用してほしかったところだろう。  とはいえ新たな“三部作”は始まったばかり。顧みてみれば、「LOTR」の一作目を初めて観た時の印象もそれほど良くはなく、二作目、三作目の盛り上がり方で一気にシリーズ全体が昇華していった。 とりあえず前三部作を観直しつつ、次作「スマウグの荒らし場」の公開をじっくり待つことにしよう。
[映画館(字幕)] 6点(2013-01-03 22:24:53)(良:1票)
338.  search #サーチ2
インターネット配信による新作映画の視聴がどれだけ普及しようとも、映画は劇場のスクリーンで観るべきで、それが幸福な映画体験をもたらす信じていることに変わりはない。けれど、前作「search サーチ」に続き本シリーズだけは、映画館ではなく自宅で、しかも自室のPCのモニターで鑑賞することが、特異な映画体験をもたらすと思う。  前作に続き、主人公が駆使するラップトップPCやスマートフォンやスマートウォッチの画面を、ほぼ全編に渡って映し出し、ストーリー展開が繰り広げられることでサスペンスが加速していく。 自分のPCでこの映画を観ていると、あたかも主人公のPCモニターをそのままハッキングして観ているような感覚に陥り、この映画特有の“臨場感”が増していく。  更に本作では、ある人物が実際に主人公のモニターをハッキングしているくだりがあったり、前作や本作の顛末がドラマ化されたらしいNetflix作品を主人公が観ていたりして、まるで二重三重に映し出される合わせ鏡のように、現実と映画世界、更にその先のドラマ世界が果てしなく繋がっているような感覚を覚える。  各種インターネットデバイスや、SNS、様々なインターネットサービスを駆使して、18歳の主人公は、母親の失踪と、その裏に隠された真実を追求していく。 前述の特異な映画的手法が功を奏して、主人公と同じ目線で、我々観客も不安を掻き立てられ、たどり着く真相に驚くことができる。  序盤から中盤の展開的には、成功した前作の二番煎じのようにも見えがちだけれど、用意されていた顛末には、前作とは異なるテーマ性がしっかりと備わっており、“パート2”として相応しい出来栄えだったと思う。  まあよくよく考えてみたならば、主人公の母親は、もう18歳になる娘に対して事前にしっかりと“自分たちのこと”を説明しておくべきだと思うし、それが新しい恋人との再婚間近というタイミングであれば尚更だろう。 (そもそもこの母親は男を見る目が無さ過ぎるというのは野暮なので言わないが……)  この手のシチュエーションスリラー特有の強引なストーリーテリングは否定できないが、日常的にGoogleアカウントで様々なサービスを利用している現代人としては、危機管理の必要性を感じずにはいられない映画だった。 定期的なパスワード変更は大事だけれど、いざという時に近親者にも見当がつかないのも危ういな。
[インターネット(字幕)] 7点(2023-11-04 23:41:59)(良:1票)
339.  アイリッシュマン
一言、凄い。 「映画」という“表現”と“歴史”が内包する「過去」と「現在」と「未来」を濃縮したような凄い映画だった。 この映画の“凄さ”は幾層に折り重なっていて、とてもじゃないが一度の鑑賞のみで語り尽くすのは困難に思う。  マーティン・スコセッシ監督が、自身のフィルモグラフィーにおける盟友(+名優)たちを集めて、ある種“懐古的”に製作されたギャング映画かと思っていた。 無論、その想像通りに、老いたデ・ニーロがスコセッシ作品で再びギャング役を演じるだけだったとしても、映画ファンとしての興奮は揺るがず、きっと良作になっていたに違いない。 だがしかし、この映画作品が孕むテーマとクオリティは、そんな安直な想像を容易に飛び越えて、遥かに高尚で、圧倒的に面白い映画の境地を見せてくる。  “マーティン・スコセッシの新作で老いたロバート・デ・ニーロがギャング役を演じている” そのこと自体に間違いは無い。が、そこに映し出されたものは、決して単なる懐古主義などでは留まるわけもない“新しい映画表現”そのものだった。  CG技術によって俳優の実年齢を大幅に変えて若返らせたり、老け込ませたりする“映像処理”の手法自体はもはや珍しくもなんともないことだけれど、今作のそれは、“映像処理”などという表面的な範疇を遥かに超えて、監督の演出と、俳優の演技に密接にリンクする「表現」として昇華されている。 そこで感じられたものは、ビジュアル的に違和感が有るとか無いとかのレベルではない。 稀代の名優たちが、スコセッシ監督が言うところの「CGによるメイク」を施されることにより、それぞれのキャラクターの人生を圧倒的な演技力で表現しきっていることに他ならない。  きっと、この映画を観た若い俳優たちは、驚きと共に、“恐れ”と“喜び”で、震え上がったに違いない。 なぜなら、避けられぬ老いと共に、一線から引いていたに見えた偉大な名優たちが、映画の新しい表現方法により再び新たな可能性を得たことを目の当たりにしてしまったのだから。 それは俳優としての機会損失の危機であると同時に、映画史の過去と未来が現在進行系で入り交じる、より多様性を孕んだ新しいキャスティング時代の幕開けに他ならないと思える。  そしてこの新しい映画表現が「実現」したフィールドが、「Netflix」という新時代のメディアであることも、当然ながら看過できない。 今の時代、通常の映画興行では“3時間半”に及ぶ長尺で、“ギャング映画”を製作し、公開するなんてことはほぼ不可能だろう。 巨額の製作費的にも、観客側のニーズ的にも、インターネットによる世界同時配信だからこそ成立した映画企画だったことは明らかで、この作品の“勝利”をきっかけとして、世界の映画人たちの“軸足”は益々変遷していくに違いない。  映画ファンの一人として、映画を「映画館」で鑑賞することの幸福は決して揺るがない、と思いたいけれど、本当に面白い映画を観ることができる「場所」が変わってしまうのならば、僕たち観客も“軸足”を変えざるを得ないだろう。
[インターネット(字幕)] 9点(2020-01-03 00:51:38)(良:1票)
340.  バットマン ビギンズ
“バットマン”がその他のアメコミヒーローに対し明らかに異質であることが一つある。そうそれは、バットマンは“超人”ではないということだ。極限まで鍛錬はしているのだろうが、ヒーローとしての活躍はありとあらゆるアイテムによるところが大きい。そうなってくると益々重要になってくるのが、彼が超が付くほどの大富豪であるということである。そのキャラクター性のおかげで明らかに高級そうな様々なアイテムに不自由しないのもうなずけるというものだ。ではなぜ、そんな大富豪が夜な夜な闇に紛れ、己の身を呈してまでヒーローに徹する必要があるのか?しかもご丁寧にコウモリのコスプレまでして…。 と、つらつらと考えていくと、いくらダークヒーローだと言っても、これほどまでにその“出生”と“理由”自体が闇に紛れてきたヒーローはいない。近年のヒーロー映画ブームの流れの中で製作された作品であることは間違いないが、この“誕生秘話物語”はまさに描かれるべきして生み出されたと思う。 これまでのシリーズ作品とは一線を画し、ひたすらにダークに、ひたすらにブルース・ウェインの精神の底へ底へと掘り進んでいく映画世界、ストーリーが素晴らしい。その反面、バットマンという稀代のヒーローが持つ類まれな“高揚感”もしっかりと表現され、ストーリーの深さ同様、奥深い娯楽性を携えたヒーロー映画が完成した。
[映画館(字幕)] 8点(2005-06-19 02:07:34)(良:1票)

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