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441.  日本解放戦線・三里塚の夏
シリーズ第1作。測量を急ぐ公団側と農民・学生との攻防が描かれる。この映画で強く印象されるのは、人々の顔であり手であり、TVのニュースだと共感的であれ批判的であれ無個性の集団となってしまう反対派農民たちが、それぞれ一人の人間として存在していることへの、作者の賛美・驚嘆である。始まってすぐの両者の衝突のエピソード、この映画はその激しくぶつかっている場面ではなく、農民たちの作戦本部をまず捉える。無線機によっていちいち報告される現場の状況、それを私たちは拡げられた手書きの地図を頼りに聞かされ、現場を遠くから想像しなければならない。そしてカメラがしばしば注目するのは農民たちの「手」、膝をいじったりタバコを揉みほぐしたり、落ちつかなげに動いている手である。現場に出て石を投げている手でもなく、もちろん農機具を動かしている手でもない。そういった明確な役割にたどり着けないで所在なげに行き場を失っている手の印象がまずある。そういう手を持った人間がその人ただ一人だけ存在している、という当たり前の事実が驚きのように伝わってくる。映画は「顔」にも執着する。農民たちがしばしば繰り広げる仲間同士の会話、内容は正直言って硬直しすぎて非個性的なアジテーションまがいのことが多い。しかしカメラは顔をアップで捉える。同時録音でないので口と声は合わないのだけれど、そのことがかえって時間が蓄積しているような不思議な効果をあげ、いやおうなく言葉より顔への注意を高めていく。しゃべっている言葉よりしゃべっている人間が強く意識される。農業とは集団主義の世界で、私はついそういう閉じた村社会に否定的な気持ちを持ちがちなのだが、しかしそういう人間関係の中でしか農業という大仕掛けな作業は成り立ち得ないのかも知れず、だとすると都市の人間よりも個人が個人である場面には敏感なのかも知れない。手と顔のこの映画は、それの輝きだけを捉えているわけではなく、手錠が掛けられる手のアップもフィルムに収められているし、機動隊員たちがカメラからそらし続ける顔のアップも、ねちっこく写している。個人が個人であり続けることの危うさも意識しているからこそ、人間の集団の中から立ち現われてくる個人の大きさに作者は心から感嘆できるのではないか。
[映画館(邦画)] 8点(2010-01-17 12:14:25)(良:1票)
442.  ぐるりのこと。
一方に20世紀末の世間を騒がせた事件史があり、一方に無名の夫婦の歴史がある。でもこうして裁判所での事件を並べてみると、個性的に見えたそれぞれが同じ「社会からの逃走」という病いの別の症状の現われに見えてくる。また、妻の母に認められるまでの夫婦史を眺めていると、世の夫婦というものは同じようでいてそれぞれの特殊を生きてるんだな、と思わされる。普遍と特殊がスルリスルリと交替しあっているような世界観。それらを貫いているのは「人生から逃げない」ということ。別に歯を食いしばって抗うことでなく、柔軟に、しかし逃げないということの大切さ、そんなテーマの周辺を回っていたような気がする。「とにかく面倒なことからは逃げよ」という人生訓を守って生きてきた者にとっては、粛然とさせられる。法廷スケッチという一日だけ有効な絵と、寺の天井画という永く残る絵、でもそれらが等価に支えあって夫婦になっており、また社会が成り立っている、そんなことを見ながら考えていた。夫婦のいさかいなど、長回しで場の雰囲気をそっくり捉えるところが、うまさ。ただ親戚連中は、時代の変化を見せるために動員されたような感じで薄っぺらい。それと天井画ってのがやや唐突だったような。
[DVD(邦画)] 6点(2009-05-29 12:07:23)(良:1票)
443.  驟雨 《ネタバレ》 
これ同時代の評価は低く、いや後世でも1979年にフィルムセンターで成瀬巳喜男特集やったときは、『浮雲』の次は『流れる』まで飛ばされてしまった。その後見る機会があって、そしたらこれいいじゃないか、なによりも私には好みの映画だったし、成瀬にしか撮れない種類の傑作だと思う。『めし』の二番煎じみたいってことで損してるのかなあ。倦怠期の夫婦。幻滅にももう慣れてきて、ちょっとスネあっているような夫婦の日常。姪や隣の新婚夫婦(パジャマ着てる新世代)と対比される。亭主にはリストラの可能性があり、不機嫌に不安も加わる。そういった話なら気が滅入るのではないかと言うとそうではなく、自分たちの生活を苦笑を持って眺めることで、おそらく同時代の観客にとってのちゃんとした娯楽になっていたのだろう。こういう作品が娯楽として通用していた邦画黄金時代の我ら日本人の品格の高さは、自慢してもよかろう。またこの人の映画は時代の記録としても優れていて、雨が降ると道がぬかるみ駅まで長靴を持ってお迎えに行かねばならない、なんていう当時の普通の暮らしがしっかり映像にとどめられている。
[映画館(邦画)] 8点(2008-12-02 12:15:47)(良:1票)
444.  南極料理人 《ネタバレ》 
ちょっと『刑務所の中』を思った。ルポルタージュ的作りもそうだが、「拘束された男たちのかすかな自由を求めての退屈消化の日々」といった内容も似ている。エピソードの並列になるので、一本の物語としての印象は弱まってしまうが、面白いエピソードは面白い。南極に行くことになった経過をササッと描いた部分、強引な「おめでとう」に対して「家族と、相談させてください」と反復する場は笑った。中盤はダレ気味で、このままいくと低評価になるかというとこで、屋根の上に上げるべき娘の歯を地球の奥深くに落としてしまうエピソードがいい。家庭的なものが非家庭的・極地的な穴に吸い込まれ、ベトベトのカラアゲという着地点にきれいに決まり、ノスタルジーがやるせなく立ちのぼってくる。ラーメンの話もいい。家族と離れ、男だけで暮らしている若干切なさの混じった滑稽。画面の中の体操の、女性のかすかな背中におおーっとどよめきが起こる。逆に自分たちも画面の中に納まり、ぎごちなく家族に姿を見せる。日常から遠く離れた極地での日常的な調理という視点が、遠く離れた二つの世界を暖かくつないでいる。観終わって伊勢海老のフライは食べたくならないが、ラーメンは食べたくなった。
[DVD(邦画)] 7点(2010-05-13 12:01:26)(良:1票)
445.  ロルナの祈り 《ネタバレ》 
2度驚かされる。「ああ、そういう話か」と映画の輪郭が大体つかめた気になった中盤でうっちゃられ、一回り大きな話になり、それで安心しているともう一度うっちゃられ、さらに話が深まる。見事。まずヤク中の男、部屋に閉じ込めてくれと自分で哀願する痛ましさ、しかし痛ましさと同時に、何の価値もない男だな、という冷たい目で我々も見てしまう。「人間やめますか」というコピーがかつてあったが、もうホントそういう感じ。しかしだんだん、そのどうしようもない男の、「やがてヤクで死んでいくだろう」というところに価値を見ている組織があらわになってくる。究極の貧困ビジネスというか、すさまじい。すると彼のどうしても女を殴れない気の弱さや、必要なお金しか取らない律儀さがしみてくる。いい奴じゃないか。対するヒロインの心の変化も、仏頂面を変えないところがいい。そこで予想されたロマンチックな展開を唐突にくつがえして、後半。ヒロインにも、組織にとっては男と同じ「道具としての価値」以上のものはなく、苛酷な展開になっていく。そこで彼女は「母という価値」にすがるわけだ。それも一ひねりされていて、彼女のすがる切なさがよりしみてくる。狭いほうへ狭いほうへと逃げていく彼女、解放と呼ぶにはあまりに痛ましい解放。暗い結末ではあるが、彼女の行動自体がかすかな希望となっていた。いつもと違い、あまりカメラを振り回さないでくれたのが何より嬉しい。
[DVD(字幕)] 8点(2010-03-05 12:08:14)(良:1票)
446.  大阪物語(1999) 《ネタバレ》 
沢田研二が舞台で「夫婦善哉」やったときはちょっと驚いたが、そうだ、もう映画では“無能=スカタン”の役やってたんだ。さらにさかのぼれば『男はつらいよ』で動物園の気弱な飼育係をやったとこにまでつながるかもしれない。大阪には“しょうもない男の系譜”ってのが、近松以来ずっと最近の町田康(これに出演している)に至るまで、文化として継承されていて、それを自慢さえしている。これの沢田、女癖が悪く賭け事に手を出しては失敗し、「芸人は何でも知ってコヤシにせにゃあかんのや」と春団治みたいなこと言って「あんたそないなたいそうな芸かいな」と言われると、エヘラエヘラ笑ってしまう。別れた女房と腹ふくれた愛人とみんなでクリスマスパーティやって、「ええクリスマスやなあ」と悦に入っている。でも娘に「父ちゃんカスか」と問うと「カスや」ときっぱり返され、するとメゲて失踪する。娘が尋ね歩くと、なぜか誰にでも愛されている…。もうこの父ちゃんのスカタンぶりだけで嬉しかった。後段、トオル君が出てくるとつまんなくなる。少女の成長物語には男の子がなくちゃならないとでも言うのか。
[映画館(邦画)] 7点(2008-12-12 12:19:09)(良:1票)
447.  ジュラシック・パーク
この映画の怖さのポイントは「舞台がテーマパーク」という設定だと思う。かつてのモンスターものは、怪獣たちが日常生活に闖入し蹂躙していくのが定番だった。私たちは、日常生活が破壊される恐怖と、日常生活が破壊される快感を同時に味わえた。私たちが私たちの世界に怪獣を迎え入れていた。しかし本作では、私たちが恐竜の世界に入っていく。もちろんこれは初めてのことではなく『ロストワールド』も『キングコング』もあったわけだが、それは「探検」の物語だった。だがこれは「探検ごっこ」である。この「ごっこ」の部分にとても現代性が感じられる。完全に制御されたスリルの場としての遊園地、日常と冒険とが奇妙にねじくれながら絡み合っている場としての遊園地、どんな危険も「ごっこ」の中で牙を抜かれてしまっていたはずのところで、不意に危険と私たちの境の網が破られてしまう。最初の襲撃のシークエンスが白眉だろう。テーマパークに入っていくときの浮き浮きした気分をたっぷり描き、おとなしい草食恐竜だけを見せて、肉食の方は気配だけに抑える。そして素早く「ごっこ」の部分を抜き去ってしまう。ヤギが消えていたり、コップの水が振動で揺れたりのスピルバーグお手のものの演出。しかし何よりも主人公たちが剥き出しにされている感覚、心理的に恐怖にじかに晒されている感覚が怖い。人類はひ弱だが知恵がある、という我々最大の自信が、つまるところ金網一枚だけで支えられていた程度のものだった、という発見が怖いのだ。
[映画館(字幕)] 8点(2010-02-07 12:07:14)(良:1票)
448.  花様年華
メロドラマとしての格調の高さは大したものだ。狭さを意識した画面、その息をひそめている感じがいい。新聞社の無表情な大時計、赤いカーテンの揺れる廊下、と舞台もふさわしい。下の屋台へポットを持っての往復で、ちらちらと意識しあう男女。そのかすかな空気の揺れのようなものがメロドラマの味わい。ここぞというときに入ってくる憂鬱なワルツ、あるいはキサス・キサス・キサス。連れ合いが不倫をしている二人は、意地でも関係を結ばない。それが全編に緊張をはらませている。時代や社会やあるいは女の生き方についての思索など、余計なものを排除して純粋な織物を織りあげたって感じ。だからこそラストのカンボジアが引っかかる。あの時代の新聞社を舞台にしながらベトナム戦争に触れずに綴ってきて、ラストで竹の文化圏から石の文化圏のカンボジアに跳ぶあの画面の質感の急変、分からないからこそ、すごく引っかかる。
[映画館(字幕)] 8点(2008-08-12 10:52:15)(良:1票)
449.  熱いトタン屋根の猫 《ネタバレ》 
近代演劇以前は、登場人物が観客へ向けて堂々とモノローグしたり、日本の歌舞伎では義太夫が内面を語ったりと、いろいろな表現手段があったが、そういうのはリアリズムに反して不自然と言うことなのか、イプセン以後はすべてを会話の中に封じ込めるようになった。それでどうなったかというと、別の不自然が生まれたわけだ。「普通言わないだろ」ということまで会話に盛り込まれる。演劇としてのドラマチックな効果を生むのは、熱のある会話=ののしり合いになっていく。すぐ激する、怒鳴る。これが近代演劇の弱点、と私は思っている。でもそういう演劇のののしり合いの迫力はやはり作品の勘所だから見事で、本映画でもそれを味わえる。とりわけ「心穏やかでない美女」というのはなぜか見るに心地よく、E・テイラーの形相を眺めているだけでうっとり出来る。映画として面白いとは言えない作品だが、E・テイラーに怒鳴られる快感は十分味わえた(君はそう怒鳴ってるけど、けっきょく僕のことが好きだから怒ってるのさ、と勝手にこちらのモノローグを入れて画面のE・Tを直視するのがコツ。ちょっと彼女の目線が左にズレるのが惜しい)。 ラストの収まり方がつまんない。あれじゃ兄夫婦だけが悪役になって見えてしまい(とりわけ兄嫁)、なんか全体の構図がスッキリし過ぎちゃあないか。せっかくあれだけののしり合ったのに、という物足りないさ。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2012-01-01 10:35:35)(良:1票)
450.  告白(2010) 《ネタバレ》 
ストーリーの展開に無理が目立ち(とりわけ後半グズグズ)、また口当たりのいい映像の流れには飽きが来て、正直観ている間は低評価。でもラストの松たか子の「なーんてね」のセリフで、これはこれで今の時代の嫌な一面を突いてるな、とは思った。映画に蔓延してるのは「とりあえず小馬鹿にする態度」。いじめの本質かどうかは分からないけど「小馬鹿にする」ってのは重要な要素だろう。茶化す、ってことでもある。真剣なもの(それはときに暑苦しくもある)を避けて、クールであろうとする。クールに見えようとする。そのためには他人にとって切実なものまでを、小馬鹿にする。それは生々しいものから逃げたい臆病の変形なんだけど、現代はその必死に冷笑する気分が過飽和状態になっていて、それがあちこちで「いじめ」として結晶してるんじゃないか、そんなことを思った。そして娘の死への復讐という真剣な思いを完成させるためには、最後に「なーんてね」という小馬鹿にする言葉がトドメになる。しょせんエンタテイメント作品ではあるが、でもだからこそ、これが決めゼリフとしてぴたりハマったのが、現代の状況を射抜いていた(かつて「なんちゃってオジサン」という都市伝説があったけど、あれはまだ愛嬌があったな)。登場する全員が救いようなく壊れていく。暗い雲だけが動いていく。
[DVD(邦画)] 6点(2011-08-03 10:04:12)(良:1票)
451.  ワイルドバンチ
終盤の四人並んでの道行きは、まさに仁侠映画のそれと同じ情動でシビレはするんだけど、なんかそれまでの彼らとうまくつながって感じられない。列車強盗の際の、いい歳をしたオジサンたちがいたずらっ子っぽく楽しんでやってる感じが(ここはとてもいい)、突然悲壮のオトコになってしまう。オジサンたちの心の底で育っていた「自由な時代の終焉への哀しみ」が、ラストで爆発したと見るべきなんだろうか。あの変化こそが眼目なんだろうか。最初の強盗のあと、怪我した手下を楽にしてやったパイク、今回はエンジェルの仇を命を捨ててまで討つ。たしかにマパッチ将軍(『真珠』の監督エミリオ・フェルナンデス)は憎々しいが、それだけ発作的行動のような「短慮」感も漂ってしまう。ずっと跡を追ってきたR・ライアン、この旧友がどう絡むかと思っていると、いわば詠嘆役で、作品がまとまりはするが、これだけのためにずっと追ってきたのかと肩透かし感もある。西部劇の時代が車や機関銃が登場して来てもう終わりのころを、囚人が捕り手になったり死人のブーツを盗み合うような乱世として捉えている。陽気なメキシコ音楽を背景にしていることの効果。役者はみんないい。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2013-08-09 09:50:27)(良:1票)
452.  鍵(1959)
心理ゲームに焦点が当てられた原作に比べ、これはややマジになってしまっているのではないか。たとえば仲代達矢が現像して、ややっこれは、と目を剥いて驚くのはどうだろう。あれがあると全く無関係にポラロイドカメラを提供したことになり、ゲームの幅が狭まってしまう。表と裏とを際限なくひっくり返し続けるような、本心を見せない陰気な遊びの味わいが薄れた。竹林のざわめき、瓦屋根、不意のストップモーション、暗い部屋、横からの光による影、といった崑お得意のショットには堪能。長調と短調を同時に鳴らしているような、芥川也寸志の音楽。
[映画館(邦画)] 7点(2007-12-14 12:22:59)(良:1票)
453.  女が階段を上る時 《ネタバレ》 
高峰秀子は、木下作品で明るくしっかり、成瀬作品で暗く不貞腐れ、と松竹と東宝で昼と夜を繰り返してたって印象があるが、今度「自薦十三作」で何を選んだか興味があった。そしたら断然「夜」の成瀬の勝ち。木下作品で選ばれたのは『二十四の瞳』一本だけで、ほかの作品のコメントでも、『喜びも悲しみも幾年月』は「演ってて面白くなかった、優等生すぎて」とか『永遠の人』は「脚本があんまり陳腐なんで」など、まるで成瀬映画の登場人物のようにグダグダ言ってる。もちろんこのコメントは演技者としての評価なわけだけど、高峰が木下作品の役にあまり満足していなかったのが分かって面白い(一観客としては木下の高峰も好きよ)。で成瀬作品で選ばれたのが三本、つねづね思い入れをエッセイなどで語っている『放浪記』と、公的な最良作『浮雲』の二編と本作。ちょっと意外な気もしたが、これでは彼女が“衣装”でスタッフに名を連ねており、そんな点でも思い入れが深いのかも知れない。いかにも成瀬的な、すがれ気味のバーの雇われマダムの話だが、脚本が黒澤映画の菊島隆三で(たぶんこれ一回きりだと思うが)どうもいつもと違うゴワゴワした手触りになっている。そのせいかどうか、高峰を含む女優陣よりまわりの男優たちの適材適所ぶりが光った。常連客の関西の実業家中村鴈治郎、銀行の支店長森雅之、こういったいかにも銀座のバーに出没しそうな男に混じって、加東大介が場違いの客として誠実そうにニコニコしている。また彼女の実家が佃島で、銀座の近くでありながらひなびた感じが漂い、そこにうだつの上がらない兄の織田政雄がピタリとはまる。ヒロインが病んだとき佃島に見舞いに来るのは、森ではなくその風景にピタリとはまる加東の方。加東はさらにひなびた、上流の千住のお化けエントツの近くに住んでいることもあとで分かる。子どもの三輪車がうるさく回るそのお化けエントツの見える荒涼としたシーンは、シュールな美しさが漂った。こう男優たちが東京の地理にふさわしく配置されているのが面白く、そういった非銀座的な男が絡むシーンが光るので、単なる風俗映画に閉じてしまっていない。
[DVD(邦画)] 7点(2010-05-28 12:14:23)(良:1票)
454.  ウエスト・サイド物語(1961) 《ネタバレ》 
欠点を先に言っちゃうと、後半、踊りのボルテージが下がること。ストーリー上、群舞しづらくなってて仕方なくはあるんだけど、前半の圧倒的な迫力があったもんだから、冷える。そのかわりアニタが泣かせてくれるけど(自分の恋人を殺した男を助けに行くとこなんか、長谷川伸っぽい)。この映画、音楽もいいけど、踊りだよね。個人の至芸より群舞の迫力にミュージカル映画の活路を探っている。「ことば」を「ダンス」に置き換えて説明するだけじゃなく、もっと多面性を持った表現になっている。ファーストシーンなんか、たしかに踊りによる会話なんだけど、それ以上の雄弁さがあるでしょ。シャーク団がフィンガースナップを始めるところなんか、あのやろう、とか、こんちきしょう、とか言うより、ずっと「語って」いる。和解させようというダンスパーティで、パートナーをやっぱり自分の団から選んですぐマンボに移る気合い。ここは何度見てもゾクゾクさせられる。後半で唯一の群舞の見せ場「クール」は、直接には窓から「うるさいぞ」と叫んだおじさんに向けられた歌だったんだね。ガレージの中で頭を冷やしてからまた外に出て「パォ」ってやるわけ。そのときカメラは窓の位置にある。個人の恋をタップで表現するより、集団の鬱屈をフィンガースナップで描く時代になってしまったわけだ。
[映画館(字幕)] 9点(2009-09-18 12:01:49)(良:1票)
455.  緋牡丹博徒 お竜参上
たぶん私は仁侠映画は、その時代色を楽しめるところも好きなんだろう。街のさざめきなどの気配、丁寧な小道具、そういったところにうっとりしてしまう。ああいった小道具を適宜に配置できる能力は、ちゃんと伝わっているのだろうか。本作最後には凌雲閣が登場する。画面の特徴では、手前に何かがあるカットが多い。つまり奥のほうで捉えるのが好きみたい。手前に娘、その奥で顔をもたげてくるお竜、この二つの顔の重なり合い。悪玉がアラカンにイチャモンつけるときの奥のお竜。あるいは娘との再会シーンの据えっぱなしの長回し、奥のお竜がハッとして前面に出てくるの。仁侠映画はワイドの画面を一番生かせたジャンルだと思っているんだけど、それは相対する距離を十分に取れるところ、横に広がる儀式の場や賭場のシーンで、舞台のような広さがちょうど合っている。でもこういった奥への展開も合わせ持っているから、さらに画面が豊かになってるんだな。今戸橋のシーンでも、画面の右手に橋を大きく埋めて、左の隅っこで二人を立たせる。するとそこに密やかさも加わってくる。倒れたアラカンのずっと向こうを傘を差したのが通り過ぎていく。この「奥」の感じと、ぐっと手前でほとんど人物の足元からあおる感じとが対比される。とにかくワイドの画面に無駄が全然感じられない。加藤泰お気に入りの任田順好は「役を降ろされた女優」の役で、例のごとく怨みの人を好演。若山富三郎は好きな役者だが、このシリーズでの熊虎については判断留保。安部徹はホントきたない野郎だ。
[映画館(邦画)] 8点(2010-10-02 10:15:47)(良:1票)
456.  水俣 患者さんとその世界
胎児性の患者さんがこちらを振り向くところからラストまでは、とりわけ凄い。私たちはいままで水俣病を知っているつもりになっていたけど、それはたとえば支援団体の膜越しだったりした。その膜を破って、じかに水俣病に触れ得たという実感がある。このドキュメンタリーだって「支援団体」とさして違わないはずなのに、距離感が違うのだろうか。患者にこちらの眼=カメラをいじるに任せているカット、やっと患者と触れ得たという感動がたしかにあった。漁民の生活を丹念に描いたことも大きい。味噌とバターでの餌づくり、蛸採りの美しい水中撮影。自然と一体となった生活があったのだ。それをずっと続けていけたと言うのは理想論すぎるけど、そういった生活への懐かしさや憧れは、やはり暮らしの方向を考える上で大事なのではないか。あるいは患者のためにオルガンやステレオなど家に似合わないハイカラな物が置かれている光景もジーンとさせる。親の贖罪の気持ちがそこに凝縮している。水銀を食べさせたのは親の責任ではないのに、その申し訳なさはこういう形でしか表せないのだ。スピーカーの振動を手で感じている耳の聞こえない弟。けっきょく優れたドキュメンタリーとは、当事者との距離を正確に知っているということだろう。患者とその家族との苦痛に触れられないということで、観客もチッソと同じ側についている。その認識が安易な同情や哀れみを禁じていて、知らず知らず観客はより積極的に患者の側に身を乗り出さざるを得なくなる。限りなく近づこうと想像力を使役させなければならなくなる。だからたとえば総会で支援団体の人が壇上に上がってきた行為などは浮わついて見えてきてしまうのだ。患者たちの御詠歌の迫力には、薄っぺらな行為は吹き飛んでしまう。伝染病かもしれないと思われて子どもを引き離されたエピソードや、町の発展を妨げるものとして排斥された動きなど、これまでに描かれてきた細かい棘の数々がここで裏返され、あの御詠歌になってごうごうと唸り立てているのだ。
[映画館(邦画)] 9点(2012-01-28 12:40:09)(良:1票)
457.  ブロンクス物語/愛につつまれた街 《ネタバレ》 
勝手に、もっと神経質っぽいものを想像してたんだけど、アタタカイのね。なにしろ「心から笑ってない笑顔」をやらせると天下一品の俳優だから、サイコパス系の映画でも作るのかと思ってた。つまりそういうふうに見られることがやで、「本当は僕ってほのぼのした人なんだよ」とアピールしたかったのかも知れない、泣いた赤鬼みたいに。映像のリズムと音楽をシンクロさせて楽しんだりしている。ヤクザもんとカタギとの、二人の「父」のもとで育つ少年の話。別に「悪」と「善」という分けかたではない。ソニーも少年をヤクザもんに育てようとしているのではなく、彼なりの「教育」で筋を通している。ここらへんカタギもんのデ・ニーロに一目置いているわけ。ほんとのチンピラと付き合おうとすると忠告するし。「好かれることと怖れられることとどちらかを選べというなら、怖れられるほうを選ぶ。持続するから」と。実の父のほうは「才能を無駄にするな」という。こういう環境の中で息子を育てるのは大変なことなんだ、と思う一方、どんな環境でもその地ならではの教育があるってこと。黒人ガールとの恋愛は、イマイチ不燃焼。ニガーと言ってしまったあと、もうワンクッション和解との間にほしい。とはいえ、教育を巡る映画として秀逸。
[映画館(字幕)] 7点(2010-08-24 09:53:24)(良:1票)
458.  ミス・ポター
どっちかっていうと威勢のいい啖呵が似合うレニー・ゼルウィガーが控えめに微笑む役、いつも精神を半分病んでるようなエミリー・ワトソン(太め)が頼りがいのある姐御役、この入れ替えたような配役が新鮮で成功していた。ダーティな言葉が一つも聞かれず、落ち着いた室内に緑したたる風景と眼にも優しく、時々こういう映画を見るとホッとする。どうかと思ったアニメの使用も悲嘆にくれる場面で生きた。礼儀正しい恋愛(乳母の監視付き)が可能だった時代。しょせんいいとこのお嬢さんの道楽、と突っ込みを入れたくなるかと思ってたが、ならなかった。いいとこのお嬢さんにはいいとこのお嬢さんなりの苦労があるらしいし、個人にできる範囲内で彼女は頑張った、それを、よしよし、とメデてあげようじゃないか、って気になる。こういう素直な映画は素直に見たくなる。
[DVD(字幕)] 7点(2008-05-28 12:12:45)(良:1票)
459.  宮本武蔵 巌流島の決斗
片岡千恵蔵が特別出演しているのは、戦後の大友柳太朗の『丹下左膳』に大河内伝次郎がゲスト出演していたようなもので、戦前の武蔵役者に対する敬意の表明だろう。うるわしい。本作を一本の映画として見ると、いささか散らかっていて弱いが、あくまで大長編の結末として見るのが礼儀(歌舞伎で「仮名手本忠臣蔵」の通しを上演するとき、芝居として見どころがないのは分かっていても最後に討ち入りの幕を入れないと落ち着かないようなものか)。第三部で五条の大橋に主要人物たちが集まってくるのにはけっこうワクワクさせられたものだが、今回おばば・又八・朱実・おつうらが、都合よく出会うのは、さすがにもうワクワクとはいかなかった。解散の前に全員集合させられている遠足の児童のよう。ドラマ決着の前に厄介払いしているようで、これまで全国をあちこち回らされていた彼らが可哀想。そもそも彼らが必要だったのは序盤だけで、すぐに厄介ものにされてしまっていた。新聞連載小説の原作ものの難しいところだろう。石仏を刻んでいた盲目の河原崎長一郎だけ、筋を通してもらえた。武蔵の精神主義に疑問を呈するエンディングになっているのが、吐夢さんの筋を通したところ。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2013-07-07 08:48:55)(良:1票)
460.  ブンミおじさんの森 《ネタバレ》 
夏の夜の感じ。背後では虫の声が続き、夕涼みをしている部屋でぼそぼそと語り合う親族一同。そこにふんわりともう一人、すでに亡くなった親族が現われてきてもおかしくないような夜。一年中こういう夏の夜の感じが続いているのなら、さらに毛むくじゃらの猿の精霊となったせがれも、階段をゆっくり上がって来ることがあるかも知れない。ちょっとは驚くが、あとはすんなり状況を受け入れて会話は続いていく。「ずいぶん毛が伸びたのね」。すると次に美貌を失った王女さま(?)と輿かつぎの若者の悲恋っぽい話になり、それを見守るナマズが慰めたりする鏡花にでもありそうな世界に唐突に切り替わる。バックの滝が美しいが、こちら観客はその展開にただ呆然とする。するとさきのブンミさんの話に戻って幽霊との洞窟探検になり、分かりやすく判断すれば亡妻に死の国へ導かれたような図だが、そういうおどろおどろしさはない。いたって淡々とブンミさん死んで、淡々と葬儀に移り、画面では香典の金勘定をやってる。王女さまのおとぎ話の対極のような世界。お寺が怖くて睡眠不足だった坊さんはシャワーを浴びTシャツに着替え(坊さんがシャワー使ってる光景なんてたぶん人生でこれ一回見るきりだろうが、だからってなぜこう丹念に見せられるのか)、さて飯でも食うか、と出かけるところで最後のサプライズが来、観てるものの呆然を残して映画は終わる。ついついこちらは「アジア映画」というものを「素朴な良さがある」「癒しの」世界という心構えで観てしまっていた。題名もなんかそれっぽいし。ところが前衛映画ってやつだった。エピソードのひとつひとつは奇譚として面白いんだけど、それがどう関係しているのかが分からない(前世ってこと?)。もうちょっとヒントくれてたら心穏やかに観られたのに。アジアの映画も、そう「癒し」ばかりじゃなく、むかし見たバングラデシュの『車輪』っていうのは、行き倒れの死体を遺族の村に運ぶように頼まれた男の話で、なかなか目的地の村にたどり着けず(村の名前を間違えていたり、結婚式をやっていて不吉だと追い返されたり)、しだいに死体には蝿もたかり、死者の幽霊が「俺の村を見つけられるかな」とからかってきたりと、なんかブニュエルを思わせるような傑作だった。アジア映画が、「癒し」「素朴」の方向で享受される時代はとっくに終わっていたことを悟らされるこの『ブンミおじさん』ではあった。
[DVD(字幕)] 6点(2012-05-26 10:23:21)(良:1票)

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