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鉄腕麗人さんのレビューページ[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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601.  パルプ・フィクション
監督第2作目にして、クエンティン・タランティーノという固有名詞を世界的なものにしてみせたこの映画の威力はやはり凄まじい。台詞、音楽、カメラワークとすべてがハイセンスというものの極みと言える映画であるが、時代が移り変われば、この映画もいつかはオールディーとなるであろう。しかし、作品の「カッコ良さ」というものは、いつまでも色あせることがないだろう。「カッコイイ映画」などと簡単に言ってしまいがちだが、本当にその言葉がふさわしいのはこの映画をおいて他にない。そんなことはありえないが、この先もしタランティーノが駄作ばかり作り続けても、人々はいつまでも彼の作品に期待するだろう。「パルプ・フィクション」が存在する限り。
10点(2003-11-08 01:29:50)(良:1票)
602.  ポリス・ストーリー3
最近の作品はほとんど観ていないけれど、ジャッキー・チェンの映画もそれなりには観ている。  個人的に一番好きな“ジャッキー映画”は、この「ポリス・ストーリー3」だ。  何よりも、ジャッキー・チェンが一番元気の良い時期の映画だし、この後のハリウッド進出作品にはない“香港臭”がたまらない。(まあ作中の舞台は中国本土や東南アジア諸国なんだが)  やはりジャッキーは、香港が似合う。  香港映画界の独特のユーモアの中で繰り広げられるジャッキーアクションは、「アクション映画界のチャップリン」とも言いたくなる程、完成されていて何度観ても素晴らしい。  加えて、ジャッキーのパートナーとしてミシェル・ヨーが卓越した女流アクションを見せてくれるのも、この映画の魅力だ。  ジャッキー・チェンとミシェル・ヨーのWアクションのコンビネーションは、このシリーズ作きっての見所とも言える。  相変わらず唐突に終わる香港映画らしい「終劇」と、エンディングロールのNGシーンも、久々に堪能した。  ただ今回はBS放送の字幕で観たのだが、ジャッキー映画だけは吹き替え版の方がしっくりくるような感じがした。 
[CS・衛星(字幕)] 8点(2003-09-29 13:42:27)(良:1票)
603.  ドラゴン・タトゥーの女
決して「駄作」だとは思わない。しかし「傑作」と呼称するには明らかに何かが足りない。流れ始めたエンドロールを見据えながらそういう印象を覚えずにいられなかった。  まず期待に及ばなかったのは、ストーリーの顛末だ。 イントロダクションの段階では、斬新なミステリー展開を期待したが、実際繰り広げられたミステリーは想定外に古典的だった。そのありふれたプロットに、拍子抜けしてしまったことは否めない。 そして、仰々しくミステリーの風呂敷を広げた割には、明かされた「真相」は“ありきたり”の範疇を出ず、驚きに欠けていたと思う。  また、主人公二人を始めとするキャラクター描写にも物足りなさを感じた。 ダニエル・クレイグとルーニー・マーラの主人公コンビが醸し出す雰囲気は非常に良く、滲み出る二人の空気感だけで、言葉にならない期待感が膨らんだと言っても過言ではない。 彼らはとても“頑張っていた”と思う。ただそれが、そのまま「もの凄く良い演技」という印象には直結しなかった。 それはやはり、人間描写そのものの薄さにあると思う。彼らのバックボーンを含めた人物描写が希薄なので、行動原理に理解が及ばず、すんなりと感情移入出来なかったことが致命的だったと思う。 特にルーニー・マーラ演じるリスベットというキャラクターは、その風貌から言動まですべてがエキセントリックで印象的だったけれど、彼女が現在に至る経緯や成長過程があまりに明確にされないので、人間味を感じることが出来なかった。 ルーニー・マーラは、見事な役づくりとそれに伴うパフォーマンスを見せたと思うが、そういう人物描写の薄さからキャラクターとして「好き」になるには至らず、単なるエキセントリックガールに映ってしまったことは残念だ。  監督の卓越した映画術によって、全編通してしっかりと作られていることは分かる。しかし、何かしらの「特別感」がこの映画からは伝わってこなかった。  今作は三部作の原作の第一章であり、映画としても三部作構成で企画されている。今作で乗り切れなかった分、続編での挽回に期待したい。  それにしても、あの“モザイク”は無い。「20年前のAVかよ」と思わず突っ込みを入れたくなり、大いに興が冷めてしまった。無名女優が己の未来を切り開こうと、体を張って熱い演技を見せているのだから、そのあたりをちゃんと汲んだ映像処理をしてほしい……。
[映画館(字幕)] 5点(2012-02-14 11:17:53)(良:1票)
604.  ノマドランド
近年、インターネット環境の普及、発達に伴い、「時間と場所にとらわれず働く」というスタイルを表す言葉として「ノマドワーカー」というフレーズが市民権を得ている。 ただ、今作「ノマドランド」が表す「ノマド」とは、そんな昨今の先進的なワークスタイルを華やかに描くものでは当然ない。 この映画は、現代のアメリカ社会の“ひずみ”の中で、行き場を失い、それでも存在し、必死に生き抜こうとしている人々の生々しい様を、圧倒的なリアリティと説得力で描きつけた力作だった。  自らの人生に打ちのめされ、世知辛い社会から追いやられた人たち(=ノマド)、その多くは高齢者だ。 住処も、財産も、健康も、機会も、急速に先細り喪失していく中で、彼らは期間労働者として、アメリカ各地を転々とする生活を送り続ける。 その生活の様は、「ノマド」の本来の意味である「遊牧民」や「放浪者」という印象がやはり強く、人生の黄昏に、流浪の生活を送らざるを得ない高齢者たちの姿は、率直に身につまされる。  ただし、今作は、そんな現代社会の中で、或る意味“蚊帳の外”に追いやれている彼らに対して、ただ単純に同情を誘ったり、社会システムの是非について安直に問うような作品ではなかった。  本質的な意味合いの“ノマドワーカー”として流浪する高齢者たちの姿は、無論悲壮感に溢れ、とてもじゃないが安閑として見てはいられない。いつ何時吹き消されてしまうかもわからないようなか細い蠟燭の火を、消えないように消えないように必死に灯し続けているように見える。 でも、その生活、その生き方自体は、それぞれ苦慮の果てではあろうが、彼らが選び取った「道程」であることを、理解し、直視すべきであろう。  フランシス・マクドーマンド演じる主人公も、最愛の夫に先立たれた挙句、企業城下町として栄えた居住地が企業の倒産により街ごと消失してしまったという憂き目にあったとはいえ、人生の岐路において他の“選択肢”があったことは明確に描かれている。 ふと遭遇したかつての隣人は敬意と共に手助けを進言してくれていたし、“普通”の結婚生活をしている姉も心から妹のことを心配しているし、道中で知り合った同じノマドの老紳士は彼女のことを好いてくれていた。 主人公は、教養もあり、人徳もある魅力的な人間であり、彼女が、流浪の生活から抜け出すための“きっかけ”は、全編通して散りばめられていたと言っていい。  それでも、彼女がノマドの生活を脱却することは、ついに最後の最後まで明確には描かれなかった。 それは、彼女が人生の黄昏に自らの手からこぼれ落ちてしまったものが、決して物質的なものではなく、精神的な拠り所だったことに他ならない。 そしてそれは、この映画に登場するリアルなノマドの高齢者たちの表情や人生模様からも如実に伝わってくる。  “ノマドランド”に集積し、充満し、やがて儚く霧散していく彼らの存在は、この世界全体が慢性的に孕む「喪失感」そのものだったのだと思った。     僕自身、人生40年、まだまだ若いつもりだけれど、この先の“生き方”というものを最近よく考える。それは10代、20代の頃の青臭いものとは明確に異なっているように思う。  その先にあるものが「死」であることは間違いない。 それでは、僕はこの先、死ぬために生きるのか、生きるから死ぬのか。 40代を経て、50代、60代、さらにその先の道程で、その感覚はより現実的な人生観と共に変わり続けるのだろう。  その感覚の変化そのものが、まさに「流浪」であり、すなわち「人生」なのかもしれないな。と、今は思う。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-09-11 09:28:27)(良:1票)
605.  地球爆破作戦 《ネタバレ》 
往年の外国映画、特に娯楽映画においては、その「邦題」に惑わされることが多い。  「地球爆破作戦」とタイトルを掲げ、粗筋に「コンピューターの暴走に対峙する人類の姿を描く」なんてあれば、当然、地球滅亡に向けて暴走し始めたコンピューターを人類が必死に防ぎ切る話なのだろうと思ってしまう。  が、この邦題はまず無視しなければならない。 実際は、「平和」を大義名分とした“国防”のために構築されたコンピューターが想定外に進化し、「平和」を純粋に実現するために、全人類を己の完全支配下に従えようとプログラミングが暴走するというストーリー展開だ。 根本となるその発想が、数多の映画でよくある“コンピューターの反乱”とは明らかに異なっていて、面白い。  冒頭、超巨大なコンピュータールームにて、主人公がシステムを起動させる。 CGなんて普及していない時代の映画である。レトロな美術セットによるコンピューター機器のビジュアルには、チープさを感じる反面、逆に独特の雰囲気があり、“マシーン”の恐ろしさを感じさせる。  もちろんSF映画なので、すべてが現実的なわけではなく、そもそもの設定が突飛である。  ただし、支配力を強めるコンピューターに抗う人類の無力さ、そして娯楽映画の定番を覆すブラックな顛末には、ゾッとするようなリアリティがあり、それがこの映画自体の面白味に直結している。  今日現在に至るまで、人類の進歩は、そのまま科学技術の浸食であると言える。 生活は日々便利になっていくが、いつの時代もそこには、“転覆”の恐怖が表裏一体で存在する。  そして、コンピューターに支配されていない「現実」が、決して「平和」な世界になっていないことも事実。  映画のラスト、人類の支配を成したコンピューターは、主人公らの絶望感をよそに「これで平和な世界となる」と高らかに宣言する。 その宣言に対して、主人公は最後の最後まで必死に抵抗し、「否定」をする。 が、その「否定」が必ずしも正しくないことを、主人公自身が心理の奥底で感じている。  その矛盾こそが、人類の存在価値そのものを脅かす恐怖であろう。  このクラッシックなSF映画は、そういう恐ろしさを40年経った今も雄弁に語っている。
[DVD(字幕)] 8点(2010-11-04 12:29:53)(良:1票)
606.  NOPE/ノープ 《ネタバレ》 
恐怖映画が苦手なので、気鋭のジョーダン・ピール監督の最新作として話題性と評判を各方面から聞き及びつつも、なかなか鑑賞に至れなかった。が、この類の作品は、経年するほどネタバレ要素も含めて面白みが軽減してしまうものなので、意を決して鑑賞した。 苦手な恐怖映画として身構えて見進めたけれど、そんな苦手意識を一蹴するとびきり“ヘンな映画”だった。  この手のスリラーは、恐怖の対象として登場する「?」の正体があらわになるまでが、ある意味映画の推進力が及びピークであり、その正体が明らかになった時点で一気に興ざめすることも避けられない。 だがしかし、本作はそんなジャンル映画の宿命すらも織り込んだ上で、大仰で馬鹿げた展開を堂々と貫き通している。おかしな映画ではあるが、それは映画を知り尽くした者のクリエイティブだと思えた。  ジョーダン・ピール監督作「ゲット・アウト(2017)」でも主演したダニエル・カルーヤのギョロッとした目の演技が終始印象的で、彼の周辺に巻き起こる不穏な現象に対するめくるめく様々な感情が巧みに表現されていた。 またその目の演技による、見る、見られるの描写は、本作のテーマである「見せ物」という娯楽への功罪にも繋がっていた。 ティム・バートンの「エド・ウッド」の劇中で、「ハリウッドは人を噛んで吐き捨てる」という台詞があった。本作において、未確認飛行物体が吐き捨てた5セント硬貨によって亡くなった主人公の父の悲運は、まさにその台詞を象徴する描写であり、この映画は全編通して、ハリウッド、ひいてはショービジネス全体の罪と罰を描き出しているのだと思える。  兎にも角にも、奇妙なスリラー映画として中盤までを牽引しつつも、そこまでの恐怖感をいい意味でひっくり返すかのごとくSFモンスターパニック映画へ急旋回する本作のストーリーテリングは極めて独特で、やっぱり“ヘンな映画”と結論づけるのがふさわしい。  決戦前夜の食卓に並ぶ缶ビールがなぜかキリンビールの“一番搾り”であったことも謎すぎたが、これは単にプロデューサーと監督が“一番搾り”好きということだったらしい。 そんな意味のないディティールに何か不穏さや意図を感じせるこも、本作が噛みごたえがある映画であることの証明だろう。
[インターネット(字幕)] 8点(2023-05-27 23:45:39)(良:1票)
607.  テッド
二日酔いが地味に残る日曜日の午前中。 朝からの降雨も手伝い、食事を買いにコンビニに出かけることも億劫だったので、午前10時から宅配ピザを頼んだ。ペプシコーラを飲みながらダラダラとこの映画を観た。 映画は評判通りにしょうもなくて、その“体勢”で観るのに相応しかった。 この映画にとってその評は、とても的確な褒め言葉だと思う。  ストーリーは想像以上にくだらなくて、繰り広げられる殆ど「悪態」に近いブラックユーモアは、必ずしも笑いの連続というわけではない。 素直な可笑しさが思ったよりも少ないのは、文化の違いによるものかと思ったが、実際はアメリカ本国でも失笑の連続だったようだ。  すなわちこの映画は、決して完成させれたユーモアを楽しむ類いのコメディ映画ではなく、つくり手があまりに個人的な趣向を全面的に押し付けてくる粗くゆるいコメディ映画なのだと思う。 失笑はおろか怒りさえ禁じ得なかった人も少なくなかったろうけれど、そのようにある意味意識的に「間口」を狭めたことも、つくり手のねらいだったろうと思える。  笑いたきゃ笑え、怒りたきゃ怒れ。そういう“開き直り”の精神が、この映画には満ち溢れているように見える。  こういうある種の危険性も孕んでいる馬鹿馬鹿しい映画にも、しっかりとスター俳優が揃い、大物ゲストが顔を出すあたりに、やはりアメリカという国の文化の豊かさを感じる。  ただひとつ言っておきたいのは、この映画において、まさしく「奇跡」と呼べるキャラクターは、しゃべるクマのぬいぐるみ“テッド”などではないということ。  世界中のボンクラ男子にとって「女神」としか言い様がない、ミラ・クニス演じる“ローリー”こそ、完全なる空想の産物であり、もし存在するならそれは「奇跡」としか言い様がない。  強烈なぬいぐるみ以上に、希少なヒロインに萌えた。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2014-11-09 14:02:46)(良:1票)
608.  ゴジラvsコング 《ネタバレ》 
今作は、或る意味、正統で真っ当な1962年の東宝映画「キングコング対ゴジラ」のハリウッド映画化と言えるだろう。  思い起こしてみれば、“モンスターバース”と銘打たれたこのハリウッド版“GODZILLA”シリーズは、“アメリカ”という国ででゴジラ映画を愛し続けてくれた映画人たちが、その“オタク魂”を遺憾なく発揮し続けたシリーズとも言える。 だからこそ僕は、これまでのシリーズ作において、“核の取り扱い”の一点において拭い去れない「嫌悪感」を示しつつも、製作陣のゴジラ映画やそれに付随する数々の特撮映画に対する「愛」を感じずにはいられなかったし、本多猪四郎や円谷英二、伊福部昭ら、東宝特撮映画のクリエイター達に対する尊敬の念に裏打ちされた映像世界に圧倒されたことを否定できなかった。  そういう意味で捉えるならば、この最新作もとい“モンスターバース”の一つの終着作とも言える今作も、ゴジラ映画や東宝特撮映画に対する「愛」に溢れた映画だと言えるだろう。  ただし、だ。今作の場合、その表現方法が、あまりにも「馬鹿」過ぎた。 その“馬鹿さ加減”も含めて、1962年の「キングコング対ゴジラ」だと言われれば、全くその通りなのだけれど、ただただひたすらに、その馬鹿さ加減のみが、地球3周くらい回って勢いがついた挙げ句にひっくり返って、無様にのたうち回っているようだった。  SF映画や怪獣映画として、“ストーリー”と呼べるものはまるで無く、「馬鹿」といか言いようがない登場人物たちが織りなす行きあたりばったりなストーリー展開が延々と続く印象を覚えた。 ゴジラとキングコングの文字通りの「肉弾戦」のビジュアルは流石に凄まじかったけれど、本当にどうかしていると思えるくらいにストーリー的な上手さやドラマ性が皆無なので、決戦描写が激しくなればなるほどに、どこか鼻白んでしまった。  クライマックスである香港決戦の描写や、地球空洞説を踏まえた空想科学要素は、個人的に好ましいエンターテイメント要素ではあったけれど、よくよく考えてみれば完全に「パシフィック・リム」の二番煎じでもあり、決してフレッシュではなかった。  そして今作のストーリーテリング上では“サプライズ”として登場する“メカゴジラ”も、何とも不格好でダサく、あまりにも魅力的でなかったことが傷口に塩を塗り込んでいる。 モデリングの醜悪さもさることながら、それを創り出し操っている人間が馬鹿すぎるので、メカゴジラの存在意義自体があまりにも希薄だった。 そもそも前作で登場したキングギドラの骨(DNA)をベースにしているのならば、“メカキングギドラ”でいいじゃん!と、「ゴジラVSキングギドラ(1991)」の大ファンとしては思わざるを得ない。 (そして、小栗旬の役柄の不憫さったらない……)   と、呆れて物が言えないくらいの不満を覚えながら、改めて思い知ったことは、アメリカ人にとっての「ゴジラ映画」とは、まさに今作のベースである「キングコング対ゴジラ」以降の、“怪獣プロレス”を延々と繰り広げた昭和ゴジラシリーズに尽きるのだろうということ。 彼らにとって「ゴジラ」とは、どこまでもいっても“核が生み出したヒーロー”であり、それは即ち自らが生み出したこの星の“都合のいい守護神”なのだ。  実際に、プロレスブーム全盛の昭和ゴジラシリーズが存在し、アメリカのオタクたちが愛した怪獣映画がそれらである以上、その結果生み出された映画を「否定」することはもはやお門違いなのかもしれない。 それでも、日本のゴジラ映画ファンの一人として、この映画が、馬鹿馬鹿し過ぎる作品であることは否定できないし、玉石混交のゴジラ映画シリーズの中においては、或る意味今作もその系譜に相応しい作品と言えると思う。   この「落胆」は、この国のゴジラ映画ファンとして、むしろ「安堵」と言えるものかもしれない。 「シン・ゴジラ」を特異点として、日本国内のクリエーターたちにおける“ゴジラ”に対する創造性は、「新解釈」と共に益々多様的に展開している。 アニメ映画版三部作や、今年(2021)Netflix配信されたアニメシリーズ「ゴジラ S.P」はその顕著でエキサイティングな産物だろう。  どれだけ莫大な予算や映画的人材を駆使したとしても、「ゴジラ」だけは、日本でしか描きぬくことができない。それは、この国の映画文化が最も誇るべきアイデンティティの一つなのではないかとすら思える。
[映画館(字幕)] 2点(2021-07-03 12:05:09)(良:1票)
609.  フェイズIV/戦慄!昆虫パニック 《ネタバレ》 
聞きしに勝るカルト的なSF映画だった。 ただし、決して奇をてらった“とんでも映画”というわけではなく、気が遠くなりそうに緻密な演出と撮影、そして揺るがない美意識に支えられた極めてアーティスティックな映画だった。  とある宇宙線の影響により、砂漠地帯の“蟻”に劇的な「進化」がもたらされる。 高度な知性を得た蟻とうい種が、徐々に周囲の環境を支配し、ついに人類と敵対する。 というのがこの映画の導入部。即ち“PHASE I”である。  その進化にいち早く気づいた科学者二人と蟻との攻防が描かれるわけだ。 この映画が、邦題「戦慄!昆虫パニック」というテイストの通りだったならば、良くも悪くもB級モンスター映画に仕上がっていたことだろう。 しかし、この映画の邦題は大いに見当違いであり、そんな生半可な仕上がりを許すものではなかった。  この特異な映画が描き出すものは、この世界の支配者とされる人類とそれを脅かすものとの攻防などではなく、現状の支配者が新たな支配者によって確実に速やかに取って代わられる様そのものだ。  蟻の脅威的な進化に対して、人間は必死に抵抗を試み、攻防を演じているように見える。 だが、実際はそうではない。 観察者であった筈の人間が、実際は蟻によって観察されていたことを知った瞬間、そもそもそこに攻防などという関係性は無かったのだと気づく。  この映画に映し出されていたものは、その“資格”を持った新しい支配者が世界を支配するという、あまりに自然的で、だからこそ残酷な生物の「理」だったのだと思い知った。  ついに支配を受け入れた人間の雄と雌が、禍々しく赤く灼けた太陽を臨むシーンでエンディングを迎える。 一寸それは夕陽に見え、世界の終末を感じさせる。 しかし、すぐにそれは昇る朝日だと分かる。“終末”ではなく、新しい世界の“はじまり”だったのだ。  そして「PHASE IV」というタイトルバック。参った。
[DVD(字幕)] 9点(2014-10-19 08:58:58)(良:1票)
610.  猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー) 《ネタバレ》 
「面白い映画だっとは思う」 とは、6年前のリブート第一作「創世記(ジェネシス)」を鑑賞した際の第一声だった。 このリブート第三作を観終えて、まったく同じ感想を抱いた。 リブートシリーズ通じて、三作とも極めてクオリティの高い作品揃いだったことは否定しない。  だがしかし、“オリジナル5部作”のファンとしては、このリブートの映画世界に「SF」としての魅力を殆ど感じることが出来なかった。結局その部分が、最後まで個人的に肌に合わなかった要因だった。 もはや個人的な趣向の問題に過ぎないけれど、「猿の惑星」という映画世界に求めることは、「科学的空想(SF)」の妙だ。 詰まるところ、“シーザー”という特別な存在の「英雄譚」に終始したシリーズのコンセプトそのものが、根本的な部分でカタルシスに繋がらなかった。  このリブートシリーズを絶賛する映画ファンの多くは、“シーザー”という稀代の英雄のヒーロー性を賞賛する。 でも、個人的にはその部分においても疑問符を拭えない。 今作で、シーザーはエイプたちを導き、人間たちにその存在を認めさせ、打ち勝ち、ついに安住の地を得た。 確かに「英雄」であろう。しかしそれは、あくまでも“一部分のエイプたちにとって”である。 結局彼は、人類自身の過ちによる進化と滅亡の大渦の中で、ただただ必死に生き抜いただけのように見えてしまう。 この映画の顛末を観る限り、おそらくは、シーザーというリーダーが居なくとも、人類は勝手に退廃し、それに取って代わったエイプたちは繁栄を果たしたであろう。  この映画の主題が、“シーザー”という人類とエイプの狭間に存在した「英雄」の中で生じ渦巻いた憎しみと悲しみの葛藤であり、それが即ち我々人類に対する戒めであることは理解できるし、充分に伝えきっているとは思う。  しかしその結果として、彼が成し遂げた「功績」が、愚かな人類の自滅を横目で見て、命からがら安住の地を得たということだけでは映画的カタルシスを覚えることが出来なかった。 今作でついに旧シリーズへのブリッジを果たしたと言うけれど、オリジナル第一作でチャールトン・ヘストンが不時着するのであろう湖を映し出して終いということでは、リブート作としてはちょっと芸がないし、あまりにSF的機知に富んでいない。  “シーザーの物語”が、今作で完結したことは明らかだけれど、噂では「第四作」の企画も進んでいるとかいないとか。 ついに誕生した“猿の惑星”が、この後どういう道程を辿って成り立っていくのか。 旧シリーズが、「5部作」を通じたSF映画シリーズとして、トータル的な価値を爆発的に高めたように、この先の顛末をどう描き出すかによって、この「英雄譚」の価値も変わってくるように思う。  ラストシーンは、“コーネリアス”と“ノヴァ”が手を取り新しい時代への一歩を踏み出しているようにも見える。 「猿の惑星:新世界(ニューワールド)」(予想)への布石は着実に打てている。
[映画館(字幕)] 6点(2017-11-01 23:34:39)(良:1票)
611.  トロール 《ネタバレ》 
北欧の寓話に登場する“トロール”が、現代のノルウェーに出現してパニックを引き起こすというプロットを半笑いで見ながら、一体どんな映画だと懐疑的に鑑賞を始めた。 が、割と早々に本作の立ち位置は判明する。 ああ、なるほど、これは北欧ノルウェー産の“怪獣映画”なんだなと。  想定外に真っ当な怪獣映画であったことは、嬉しい驚きだった。 「ゴジラ」シリーズをはじめとする日本が誇る特撮映画を愛好してきた者のとしても、本作には充分に楽しみがいのある“特撮精神”の心得があり、日本の特撮に対するリスペクトも存分に感じられた。 無論、本作そのもののクリエイティブに特撮技術が用いられているわけではないけれど、きっとこの映画の制作陣は、日本の「ゴジラ」や、ハリウッドの「キングコング」を愛し、憧れているのであろうことはしっかりと伝わってくる。  そういうリスペクト精神を前提として、北欧の寓話や神話ではお馴染みの“トロール”を、未知なる巨大生物として描き出し、ノルウェー産怪獣映画に仕上げてみせたことはユニークだったし、独自性のあるエンターテイメントを生み出していたと思える。  また、個人的には、おそらく初鑑賞だと思われる“ノルウェー映画”に対する新鮮味も感じられることができた。 どこまでリアルなのか分からないが、ノルウェーの国防総司令部的な施設が洞窟を利用した秘密基地みたいな場所だったり、広大な自然環境や、公用語であるノルウェー語の響きの新鮮さだったりと、随所に垣間見える“お国柄”が、なかなか馴染みの薄い国の映画らしくで印象的だった。   ストーリーが収束する最終盤に至るまで、独特の雑多感も含めて楽しい映画だったことは間違いないし、最後の最後まで自分の中での高評価は確信されていた。 が、しかし、最終的な物語の帰着と、登場人物たちの言動の描かれ方が、ラストあまりにも残念だった。  人間のかつての蛮行や、現代の人間社会の自然破壊に起因して、目覚め、怒りの進行を展開するトロールが、太陽の光を浴びて絶命するクライマックスの展開自体は極めて良かった。 それは、「ゴジラ」や「キングコング」など、怪獣映画史の数々の傑作を踏襲するものであり、王道的とも言える描写だったと思う。 だが、それを目の当たりにした人間たちの描写があまりにもお粗末だった。 大怪獣の悲しい最期を見て、人間たちが自分たち自身の過ちを認め、悔い改めてこそ、映画的な余韻が深まるというものだが、本作のノルウェー人たちはそういう感情がほぼ皆無で軽薄に見えて仕方がない。 せめて主人公だけは、浮かれる人々の中で、悲しみに沈むなり、虚無感を感じるなりの描写で終わってほしかった。  そういう人間たちの情感も“お国柄”と言ってしまえばそうなのかもしれないが、もう少しで愛すべき怪獣映画として記憶に残りそうだっただけに、ラストの数カットのせいでそうならなかったことが、ただただ残念だ。
[インターネット(字幕)] 6点(2022-12-24 17:45:53)(良:1票)
612.  ドラえもん のび太と翼の勇者たち
テレビ版も含めて近年のドラえもん作品におけるCGの多様には大いに違和感を覚えている。藤子・F・不二雄先生亡き今、ストーリーの軽薄さに対して映像的なもので攻めようとう気概も分からないではないが、それは明らかにドラえもんの方向性としてはふさわしくないと思う。ドラえもんの存在が不滅なのは嬉しいが、今の子供たちには昔のドラえもん作品も観て欲しいと切に思う。
3点(2003-11-27 18:13:58)(良:1票)
613.  ジャンゴ 繋がれざる者
燃え盛る巨大な炎をバックに黒い肌のヒーローがニカッと笑う。 そこには、ありとあらゆる葛藤を超えた映画的カタルシスが満ち溢れ、「ああ僕は“映画”を観たのだ」という真っ当な満足感に包み込まれた。  正直、何をまずピックアップすべきかどうか非常に迷う。 歴史に虐げられた黒人たちのすべての怨念が凝縮し爆発したようなヒーローの存在感か、確固たる歴史的事実として存在するアメリカ奴隷制度の目を覆いたくなる残虐性か、稀代の映画作家が生み出した個性的なキャラクター達を文句の付けようも無く演じ切っている俳優たちの素晴らしさか。 どの側面から捉えても、この映画の価値は高く、揺るがない。  ただやはり、これがクエンティン・タランティーノの映画である以上、特筆すべきは「会話劇」の妙だと思う。 今なお鎮まるはずもない歴史的な“怒り”を礎にした荒ぶるバイオレンスアクションでありながら、この映画の構造の中心に存在するものは、最初から最後まで登場人物たちの「言葉」のやり取りだ。 あらゆる思惑の人間たちの対峙から生まれる会話によって、娯楽性に溢れた緊張と緩和が繰り広げられる。 それはもちろん、デビュー作以来貫き通しているタランティーノのスタイルであり、彼が映画史に残る“脚本家”でもあることの証明に他ならない。  「憎しみは何も生まない」だとか「憎しみの連鎖に終わりはない」ということを描いた映画は今とても多いし、僕自身本当にそう思わなければならないと思う。 しかし、結局そんなのは、自分自身が本当の憎しみを抱いていない者が言える綺麗事に過ぎないんじゃないかとも思う。 本当に深い憎しみや怒りは、ただ一人の人間の中で断ち切れるようなものではない。 この映画が生んだカタルシスのすべては、詰まるところそういう人間の純粋な感情に端を発している。  裁かれない悪に対して正義の鉄槌を下す。 あまりにありふれたそのプロットは、世界中の人々が映画をはじめとする愛すべき“作り物の世界”に求め、そして唯一許された「復讐」の手段なのかもしれない。  “映画”という娯楽の何が面白いのか、人々が観たい“映画”は何なのか、そういうことを誰よりも良く知っていて、誰よりも追求し続けているクエンティン・タランティーノという人間の真骨頂。 今、この時代に生きていながら、その彼の最新作を映画館で観ないのは、あまりに勿体ない。
[映画館(字幕)] 10点(2013-04-13 16:31:48)(良:1票)
614.  犬王
時代と怨念を超えた語られぬ者たちの狂騒曲。 この国が誇る最古の舞台芸術である「能楽(猿楽)」をメインフィールドにして、時代に埋もれた能楽師と名も無き琵琶法師の友情と狂気が、縦横無尽のアニメーション表現の中で描きつけられている。  まあ何と言っても、湯浅政明による変幻自在のアニメーション世界の中で、松本大洋が描き出したキャラクターたちが、自由闊達に舞い、歌い、乱れる様が凄い。 この二人のコラボレーションといえば、「ピンポン THE ANIMATION」が記憶に鮮烈に刻まれているが、松本大洋の独特な描線で生み出されたキャラクターたちを、その性質を損なうことなく躍動させることにおいて、湯浅政明のクリエイティブは極めて的確で、文字通り“息を吹き込む”ことに成功している。  原作者は別にあるようだが、時代に対する反逆心溢れる二人の主人公が、己の才能とアイデンティティを証明するために共鳴する様は、過去の松本大洋原作漫画に共通するモチーフだった。「ピンポン」の“ペコ”と“スマイル”しかり、「鉄コン筋クリート」の“クロ”と“シロ”しかり。 そういう点でも、この原作のキャラクター創造を松本大洋が担ったことはとても的確だったと思える。  “平家物語×ロックフェスティバル”とでも言うべきミュージカルアニメーションの映像世界はイマジネーションに溢れる。 時代や文化、人々の感性をも超越して混じり合ったその世界観が、独創的な「芸術」を生み出していることは間違いない。  が、しかし、その一方でエンターテイメントとしてやや“独りよがり”になってしまっている部分もなくはない。 室町の京都で“ロック”が奏でられる事自体は斬新だけれど、我々現代人にとってそれはあまりにも普遍的な音楽なわけで、その描写そのものを肝とするには物語の推進力としてやや弱さを感じてしまった。琵琶法師の主人公が路上バンドよろしく大衆を煽る様が延々と繰り広げられるシーン等、間延びしてしまったことは否めない。  本作にとって音楽描写は「主題」というべきもので不可欠なものだけれど、作品全体のストーリーテリングの中で用いるポイントをもっと絞ってよかったのではないかと思う。 代わりに、主人公たちをはじめとするキャラクターたちの心理描写をもっとディープに掘り下げた方が、音楽描写によるエモーショナルが更に高まったのではないかと思える。 そういうことを踏まえると、叶うことならば、松本大洋による漫画化作品も読んでみたくなる。  とはいえ、「異形」そのものの姿形で生まれ落ちた“犬王”を禍々しさと愛着を併せ持つキャラクターとしてクリエイトし、時代を超えた「音楽」の中で舞い踊らせ、作品内外の“観客”を魅了したことは、「見事」の一言に尽きる。
[映画館(邦画)] 8点(2022-06-05 22:37:45)(良:1票)
615.  ワイルドカード(2014)
この映画のストーリーラインが描き出したかったことは、うらぶれた人生からの脱却を実は夢見ている裏稼業の男が、不意に現れた“若者”との一夜の交流を通じて、決意と活路を見出していく物語だったのだと推察する。 なにせ、脚本は二度のアカデミー賞にも輝くウィリアム・ゴールドマンである。 きっと本来イメージしていたストーリーラインは、ラスベガスの欺瞞に満ちた輝きの中で、己の腕っ節のみで生きてきた不器用な男の哀愁と、その先に見えた真実の光だったのだろう。 そういうストーリーラインを示す描写や設定は確かに点在している。  しかし、残念ながら結果としては、この映画においてそういった芳醇なドラマ性は生まれておらず、全編通してチグハグでバランスの悪いアクション映画に終始してしまっている。  その原因が、イメージはあるものの緻密な人間描写の構築まで至ることが出来なかった老脚本家にあるのか、ドラマシーンの演出力に欠いたB級アクション映画監督にあるのか、はたまた良い意味でも悪い意味でも“筋肉バカ”である主演俳優にあるのかは定かではないが、まあ何とも残念な映画に仕上がってしまっていることは間違いない。  監督はサイモン・ウェスト。世間的にはB級アクション映画専門監督というレッテルを貼られており、その認識に間違いはないと思うけれど、個人的には1997年の「コン・エアー」以来、決して嫌いにはなれないアクション映画監督の一人である。 主演のジェイソン・ステイサムとも、「メカニック」「エクスペンタブルズ2」と、相性の良い仕事ぶりを見せてくれていただけに、今作に対してもB級アクションならではの良い意味で“雑多な娯楽性”を期待していた。 実際、アクションシーンの見応えは確かにあったと思う。 “銃”を絶対に使わないというキャラ設定を活かした主人公のアクションシーンにはキレがあり、銃を使わないからこそ生じる残虐性とそれに伴う“痛々しさ”が特徴的だったと思う。  ただし、アクションシーンに限らず総てのシーンが短絡的かつ散文的で主人公の行動原理に説得力がまるでなかった。 「主人公がどういう人間なのか」という肝心な部分が、極めて曖昧で掴みきれない。 勿論、敢えてそういう主人公造形をする作品もあるけれど、結果として本質的な魅力を欠いてしまっていることは、脚本、演出、演技の総てにおいて力量が足りていないということだろう。  詰まるところ、今作においては脚本、監督、主演俳優の“食い合わせ”が悪かったということだと思う。 全く別の座組が実現していたならば、もっと良い映画になり得た可能性はあった……かもしれない。
[インターネット(字幕)] 3点(2017-04-18 12:43:50)(良:1票)
616.  ダーク・シャドウ(2012)
ティム・バートンについては、この10年余りの作品はもれなく劇場で鑑賞している。 ただし、実のところ今作は劇場鑑賞をスルーしようかと思い始めていたところだった。 その理由は、この数年の彼の監督作品には、魅力的なイントロダクションに反して今ひとつパンチに欠け、フラストレーション過多だったこと。そして、そのことが“黄金コンビ”である筈のジョニー・デップとの実に8度目のタッグに対しても、猜疑心を生み始めていたからだ。 イントロダクションで伝えられるビジュアルを見た時点で、彼らが組んだ過去作の幾つかと似たような雰囲気の映画であることは明らかで、殊更に食指をすぼませた。  しかし、それらは完全に杞憂、取り越し苦労だった。 「なんだ面白かったじゃないか!」と静まらない高揚感を感じつつ、レイトショーの映画館を後にした。  この監督の過去作と世界観が似通っていることは間違いない。そこに“いつものように”ジョニー・デップが主演俳優として座しているわけだから、二番煎じ、三番煎じと揶揄したくなる気持ちも分からないではない。 でも、これがティム・バートンの映画である以上、それはまったくのお門違いだ。  これこそがティム・バートンという映画監督の“世界”であり、久しぶりに彼の「美学」が存分に爆発している映画だと思う。 ビジュアルのクオリティーのみが際立って、映画の根本的な世界観に欲求不満を禁じずに得なかったここ最近の作品に比べ、今作は圧倒的に振り切っている。 えげつなさも、可愛らしさも、映し出されるすべてが「ティム・バートンらしい」という表現である意味強引に納得するしかない力強さが溢れていた。  そして、こういう“この監督”の世界観に違和感なく息づけるのは、やっぱり“この俳優”しかいないと、改めて納得してしまった。  60年代の人気テレビシリーズの映画化だけに、ストーリーそのものは良い意味でも悪い意味でも“チープ”そのものだ。突っ込みどころも枚挙にいとまが無い。 けれど、そういったチープさも突っ込みどころも、この映画に映し出されるすべてのものが愛おしく思えてくる。  もはやこれは、完全に個々人の嗜好によって判別するしか無い映画世界だろうと思う。 ただ僕は、海の底で“監督の愛妻”がカッと目を見開いたその先も延々と繰り広げられるだろう、この奇妙な家族の奇々怪々な生活模様が気になって仕方が無い。
[映画館(字幕)] 8点(2012-05-31 23:32:39)(良:1票)
617.  寄生獣
最初にきっぱりと言っておくと、岩明均が描き出した漫画「寄生獣」は、僕にとって人生のバイブルだ。 初めてこの漫画を読んだとき、当時10代だった僕は、最終話における寄生生物ミギーの「心に余裕(ヒマ)がある生物 なんとすばらしい!!」という台詞に心から救われた。以来、この漫画は常に僕の人生の傍らに存在している。  というくらいのファンもとい“信奉者”なので、国内で映画化と言われても疑心しか無かったし、とてもじゃないが劇場に足を運ぶ気にもならなかった。 そうして劇場公開から4年余り経過し、某動画配信サービスのラインナップの中から“当たり屋”的なスタンスでようやく鑑賞に至った。  結果的には、言いたいことは無論尽きないが、ハードルを下げきって観た分、想像以上に無難に実写化しているとは思えた。 原作の信奉者として、改変箇所には一々違和感と拒否感を禁じ得なかったけれど、実写化する以上は一定の尺の中に収めることは避けられないことであり、あらゆる制約の中で、ストーリーテリングとキャラクター設定を整理しつつ、纏めている部分は致し方ないと思う。そして、「あ、なるほど」と少なからず感心する改変ポイントもあった。 そもそもモノローグが多い原作漫画なので、実写化にあたっては意外と話運びそのものが難しかったのではないかと思うが、キャラクターを整理・統合しつつ、破綻しない程度に改変できていたのではないか。  キャスティングを含め、俳優陣も概ね良かったと思う。 特に、主人公“泉新一”役の染谷将太、キーパーソン“田宮良子”役の深津絵里については、ビジュアル的にも表現的にも原作キャラと合致しているというわけではなかったけれど、それぞれが独自の演技プランで的確な役作りをしていたと思える。 一部酷評も目にしたが、“島田秀雄”を演じた東出昌大も、この俳優特有の“棒演技”感が絶妙にマッチしており、原作の“島田秀雄”というよりは、寄生生物キャラ全体に共通する作り物のようなおぞましい無機質感を体現できていた。  と、溜飲を下げる一方で、根本的な演出面では稚拙さが際立っていたと思う。 ストーリーテリング自体は整理できていたけれど、その分、一つ一つの描写がとても薄っぺらい。 俳優陣はそれぞれ頑張っていたが、感情を揺さぶられるほどの情感を引き出すには至っておらず、これはすべて監督の演出力の無さに起因すると思わざるを得ない。 「混じった瞳」「火傷の手」など、キーポイントとなるカットをしっかりと押さえるだけでも、印象は随分変わったはずだ。せっかく原作という“絵コンテ”が存在するのに、そういう画作りの不味さが際立ってしまっているのは残念だ。  あとは「みんなの生命を守らなければ」ではなく、「みんなの生命を守らねば」だ!だとか、細かすぎる難クセは枚挙にいとまがないが、「後編」も不安半分、期待半分で観てみようと思う。 浅野忠信の「後藤」には期待している。
[インターネット(邦画)] 6点(2019-02-09 23:50:40)(良:1票)
618.  ギャングスター・ナンバー1
鑑賞前に「時計じかけのオレンジ」のマルコム・マクダウェルのクレジットを見て、てっきり若きギャングスターを演じているのが彼だとばかり思い込んでしまった。冷静に考えれば、「時計じかけ~」はもう30年以上前の作品なわけで、そんなことはありえるわけがないのだが、若きギャングスターを演じたポール・ベタニーの風貌は「時計じかけ~」のアレックスそのものに見えたのは私だけだろうか。特にベタニーがステーキを食べるシーンがあるが、その口の動きはまさにアレックスのそれだった。まあとにかく、これほど似ていればギャングスターの役だけ現在と30年後の俳優が違うことも納得できるわけで…。あ、そうか、何よりも先にマルコム・マクダウェルのキャスティングが決まっていたわけか。作品自体の評としては、若きギャングスターの惨殺シーンがくどい感はあったが、全体的なセンスの良さと、老いたギャングスターの苦悩に満ちたラストシーンで巧くまとめ上げている。
7点(2004-01-28 15:54:38)(良:1票)
619.  ドント・ルック・アップ
こんなにも笑えないブラックコメディは初めてかもしれない。 「今」この瞬間の世界の実態を詰め込んだような強烈な社会風刺と、世界の終末。 登場人物たちと、彼らが織りなす社会の滑稽さが極まるほどに、“笑う”余裕などなくなり、胸糞悪さを超えて、もはや恐怖を感じてくる。 それは即ち、この映画の風刺が、決して過度にデフォルメされた描写ではないことに他ならない。  世界の危機よりも自身の保身を案じる米国大統領、タレントのスキャンダルに興じ科学者の訴えを無下にする報道番組、世界の決断をも牛耳る巨大IT企業、そして、自らで考え判断することを放棄してしまっているすべての大衆……。 それはまさしく、可笑しさと、愚かさと、悍ましさが共存する、この「地球」と「人間」の姿そのものだった。  ハリウッドのトップ・オブ・トップのオールスターキャストが、この壮大な風刺映画を強烈に彩っている。 主演のレオナルド・ディカプリオ、ジェニファー・ローレンスをはじめとして、そうそうたる面々が、馬鹿な人間像を嬉々として演じきっている。 メリル・ストリープ、ケイト・ブランシェット、マーク・ライランスら押しも押されもせぬ名優たちが揃いも揃って人間の愚の骨頂を表現するさまは、この映画の品質と娯楽性を高めると同時に、決して看過できない危機感を如実に創出していたと思う。(惜しげもなく全裸シーンを披露する72歳の大女優には脱帽!)  Netflix配信映画として全世界同時公開された今作は、あらゆる意味でこの「時代」に相応しい作品だった。 不都合な真実、面倒な現実から目を反らして、どこかの誰かの思惑に取り込まれていることを、無意識レベルで甘受してしまっているこの世界。 まるで藤子・F・不二雄のSF短編漫画のような手軽さと、それと相反する多層的な面白さと辛辣さが満ちていた。 タイトルバックで映し出されるジェニファー・ローレンスの嘔吐カットで表されている通り、時に吐き気をもよおすほどの醜悪さも感じるブラックコメディだったが、この映画の在り方は圧倒的に正しい。  これが地球、最高で最悪。
[インターネット(字幕)] 9点(2021-12-31 14:57:37)(良:1票)
620.  深呼吸の必要
「言いたくないことは、言わなくていい」 お互いのことをほとんど知らない中での生活。それはその事実だけを見れば、現実の冷たい社会と同じことかもしれない。でも、もちろんそれは根本的に異なる。“平良家のルール”は、人と人とを隔てるためではなく、人に対する深い想いから存在することだ。だからこそ、赤の他人だったそれぞれが紛れもないひとつのファミリーへと成り得るのだ。 とてもありきたりで、シンプルなストーリーである。主人公のキャラクターの薄さなど詰めるべき部分は確かにある。しかし、あの空と海に囲まれた時間そのものに、ストーリーという概念に縛られない解放感があったと思う。
[DVD(字幕)] 6点(2005-06-24 03:08:52)(良:1票)

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