Menu
 > レビュワー
 > なんのかんの さんの口コミ一覧。6ページ目
なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2336
性別

表示切替メニュー
レビュー関連 レビュー表示
レビュー表示(投票数)
その他レビュー表示
その他投稿関連 名セリフ・名シーン・小ネタ表示
キャスト・スタッフ名言表示
あらすじ・プロフィール表示
統計関連 製作国別レビュー統計
年代別レビュー統計
好みチェック 好みが近いレビュワー一覧
好みが近いレビュワーより抜粋したお勧め作品一覧
要望関連 作品新規登録 / 変更 要望表示
人物新規登録 / 変更 要望表示
(登録済)作品新規登録表示
(登録済)人物新規登録表示
予約データ 表示
評価順12345678
投稿日付順12345678
変更日付順12345678
>> カレンダー表示
>> 通常表示
101.  アルファヴィル
フランスってのは機知の国なんだなあ、とつくづく思う。「コインをどうぞ」で「メルシー」というプラスチック板が出てくるのとか、プールでの処刑、女性がハリウッドミュージカル映画の一場面のように順に飛び込んで死体を引き上げるのが実におかしい。全編スパイ映画のパロディで、車の追っかけやったり、何よりも音楽がおかしい。不安そうなジャーンというのをやたら鳴らす。ストーリーとしては、論理的であることに徹してすべての未来を必然としてしまう社会らしく(安部公房の「第四間氷期」みたい)、反論理的行為の罪というのがあったりする、それに対する自由意志の反抗といったものらしいが、ここはフランスらしい機知とアメリカ映画へのある種の憧れを楽しめばいいのではと割り切って楽しんだ、それでいいんでしょ。
[映画館(字幕)] 7点(2009-11-30 12:04:39)
102.  青い鳥(2008) 《ネタバレ》 
主人公の先生がドモるのは、原作がそうなんだろうし、物語としての意味もよく分かるが、映画としても効果を挙げていた。教室を沈黙・静寂が覆い、生徒らは先生の次の言葉を十分待ち受けてから聴く。そして先生はひどくゆっくりとしゃべる。教室のシーンはどれもいい。最初、先生が座席表と教室を照らし合わせて眺め回す、その静寂、つかえつかえしゃべり出す、そしていじめられて転校していった野口君の机を日直に持ってこさせる、その戸惑いの沈黙、「野口君お帰り」の先生の言葉で沈黙はさらに深まり、罰せられているのではないか、という反発の沈黙に変転していく。ここらへんのじっくり静寂を含ませた丁寧な演出が見事だった。その反発が机を雨ざらしにする形で表われたあとの教室での出来事の間も、ほとんど声が発せられない、もちろん音楽もない。教科書を机に叩きつける音までの間、静寂だけが鳴り響いている。“沈黙恐怖症”になってしまったテレビではまず味わえない緊張だ。先生は机を戻した意味を最初に生徒に説明するべきじゃないのか、とも思うが、先生に最小限の言葉しかしゃべらせないという映画のルールを作ったのだから、自分で分からせる教育として、これでもいいかとも思う。どっちにしろ東京都の教育委員会なら即座に追放されている先生だろう。野口君の幻影が現われる場のカーテンのゆらぎ。その後の先生と園部君との対話が本作の核心で、建て前の教育を批判したんだから建て前の結論は付けられない、といった作者の意気込みと緊張が感じられるセリフの応酬だった(ここでちょっと音楽が入るが許せる範囲内)。かつて『リリイ・シュシュ』で生徒だった伊藤歩が先生になってるのには、感慨深いものがある。いじめの問題は、こんなにも長く続いているのだ。
[DVD(邦画)] 8点(2009-11-16 12:07:58)(良:1票)
103.  嵐ケ丘(1939)
これはもうあちらの『忠臣蔵』というか、いろんな版があり、このほかにブニュエルの、吉田喜重の、J・ビノシュのヒロインで坂本龍一が音楽やったの、を観てるが(リヴェットのは未見)、どれも独自の趣向を凝らして面白いけど、何か物足りないのも事実。これ、映画よりも連続ドラマに向いてる話なんじゃないかなあ。ヒースクリフの帰還までにモッタイをつけたいところが、映画だとそれが出来ず、キャシーとヒースクリフの愛憎のごちゃごちゃをこちらでほぐして味わう時間が足りない。キャシーがただのヒステリーに見えてきてしまう。時間を強制されたくないストーリーってこと。それでも多くの名だたる監督たちを魅了してしまう魔が、この小説にはあるんだ。この戦前白黒のワイラー版が余分な解釈のない分、基本の位置を確保していて見応えがある。私はヒースクリフなのよ、って叫ぶあたりはやはりコワい。ロウソクのゆらぎで盗み聞きしていたヒースクリフの退場を知る、なんて演出。
[映画館(字幕)] 7点(2009-11-05 12:02:27)(良:1票)
104.  暗殺者 《ネタバレ》 
追っかけて撃って、っていう何ら新工夫のない活劇だけど、バンデラスの狂気がいいので許せる。憧れのあまりクレイジーになってる男。ヒロインはコンピューターおたくハッカーで下の階を覗いている。非日常を楽しむ映画ってことで割り切ればいいんだろうけど、日常を生きている人たちが無造作に殺されていくだけってのは、「そういうもんじゃないだろが」とも思う。てめえの巻き添えで死んだ階下の若夫婦のことを忘れて、ハッカーで得た大金抱えてハッピーエンドじゃ後味悪いぜ。それとこういうのの主人公ってよく「泰然自若」としてるけど、あとで考えるとかなり危ないってとこあるんだよな。おまえに俺は撃てねえぜ、っていう自信がどこから来るのかが分からない場面がある。結局こいつはシナリオに頼ってるから自信満々なんだ、ってことになって、すると、まあ馬鹿馬鹿しくなっちゃうんだな。
[映画館(字幕)] 6点(2009-11-04 11:57:49)(良:1票)
105.  嵐の孤児
おそらく数年前のロシア革命がダブっているだろうことは否めない。貴族の暴虐がまずあり(腕に鉛・馬車が子どもを轢く・頽廃パーティ)、それを踏まえて人民裁判の恐ろしさがまたある。とどちらにも偏らない姿勢を取っているのが、うまく逃げたな、という印象にもなってしまう。前半では「うん、貴族は悪い」と思い、後半になると「君の気持ちは分かるが、これはやり過ぎだよ」と、観ているほうの気持ちがきれいに切り替われて、何らかの統合、と言うか、暴虐と民衆とのより良い戦い方を目指さそうとはしない。まあそこがアメリカ映画の限界というか、良さでもあるんだけど。ただただすれ違ってしまうことの哀しさを歌う、その語り口だけを洗練させていく。やっと会えると逮捕されたりして、もう悲痛きわまりなく、メロドラマの語り口というものは、グリフィスで(とりわけ『東への道』で)おおかた定まり、あとはほとんど進化する必要がなかったのだなあ。
[映画館(字幕)] 7点(2009-10-23 11:58:33)
106.  愛に迷った時
ラッセ・ハルストレムって名前にまだ貫禄があったころの作品で、両親役がロバート・デュヴァルにジーナ・ローランズと固めてあり、これでヒロインを無名の新人がやってたら、もしかすると小味なホームドラマの輪郭がはっきりしたかも知れない。なのに、ジュリア・ロバーツが入ることで、こっちの気構えが不安定になってしまった。スターが出ることでヘンになってしまう映画というものもある。父親の物語なんかもっと展開してもいいのに、それぞれの登場人物に平均的にドラマを配分して、けっきょく定型どまりになってしまった。かえって独自の物語を持たなかった妹が一番印象に残るというのも皮肉。
[映画館(字幕)] 6点(2009-10-07 11:58:48)(良:1票)
107.  アメリカン・プレジデント
キャプラを意識してることは、中でその名が触れられてることでも確か。公と私の折り合いというのは、キャプラに限らず常にアメリカ映画のテーマだったわけで、「公」に浸されそうになる「私」を擁護する、けっして「滅私奉公」が出てこない健全さがいい。こういうの見ると、あちらの大統領ってのは日本の首相とは違うな、と感じる。半分「象徴」が入ってるみたい。話の中心点の置き所は間違っていないけど、展開がややギクシャク。やはりすぐに大統領が彼女をパーティに連れ出すってのは無理がある。どうしたって政治的判断の葛藤があるはずで、まあそこは設定としてクリアするとしても、彼女に夫なり恋人なりがいるかも知れないと一度も考えないのは傲慢に見える。冒頭の大統領がてきぱきと指示していくところは、長回しのワンカットで見たかった。アネット・ベニングって一見清楚で、でもよく見ると危なそう、ってとこがけっこう好きなの。マーチン・シーン、マイケル・J・フォックス、リチャード・ドレイファスと、代表作後パッとしなかった男優を集めて脇を固めてる。
[映画館(字幕)] 6点(2009-09-10 11:56:28)
108.  歩いても 歩いても
このシナリオは、そうとう手間が掛かってるんじゃないか。さりげない言葉の採集に時間を掛け、それの構築にも時間を掛けていそう。それだけの成果が上がっている。大勢の中で言われた言葉へのこだわり・言い返せなかった文句が、二人になったときに不意にこぼれるのが、ザクッザクッと映画に刻みを入れて、表面では何も起こらない時間に確かな手触りを与えている。そのくすぶってる場所としての家族。「おばあちゃんちじゃないぞ、俺が建てた家だ」とか「それ(トウモロコシで気の利いたこと)を言ったのは兄貴じゃなくて俺」とか。その遅れて言い返せた言葉とは別に、“ちょっと間に合わなかった”言葉も山のようにあり、でもそこにこそ一回限りの家族の会話の味が、後悔が懐かしさに変質しつつ隠されている。あるいは墓参りの帰り、暗黙の了解のように二組の母子に自然に分かれ、どっちも他方の前では交わせない会話が紡がれる、そのスリル。不意に顔を覗かせる残酷さと怖さ。「隠れて聴く曲ぐらい誰にだってありますよ」と妻の夏川結衣にあんな含み笑い顔で言われた日には、夫たるもの気になって仕方がないでしょうなあ。こっちの「普通であること」と人の「普通でないこと」がときに重なりあい、するとその場の時間が急にボッテリと厚みを増す。「普通」を形作っているものの裏には、なんとたくさんの折れ曲がった思いが複雑に絡み合っていることか。最近の日本映画でこれだけ詰まってる時間を味わった作品はなかった。原田芳雄はおそらくまだかくしゃくとした老年を描くために起用されたのだろうが、かつての無頼を演じてたイメージが残ってて、たしかに夫婦の過去を思えば似合ってはいるのだが、現在の父としてはもう少し固いぐらいの実直さを出せる役者でもよかったかも知れない(「“すばる”は演歌じゃありませんよ」の語り口は絶品だったけど)。それとラストが付いたことで、見ているほうがその後を自由に想像する楽しみはなくなってしまった。でも傑作です。
[DVD(邦画)] 9点(2009-08-31 12:15:54)(良:2票)
109.  アントニオ・ダス・モルテス 《ネタバレ》 
教師・牧師らが途中までよく分からなかったし、状況も十分把握していたとは言えないので、つまり「良くわかんなかった映画」の部類に入るのだが、しかし不思議な面白さのある作品だったなあ。こういう作品がすでにあったとすると、アンゲロプロスの評価は少し割り引いといたほうがいいのかもしれない。伝説と現実の混交、幻想とリアリズムの隣り合わせ、といった南米文学でも見られる特徴に加え、心理の排除、技法的には音楽効果(儀式のスタイル)の重視、長回し、などなど。ギリシャとブラジルというかけ離れた土地で似たような世界が作られている。ブラジルにもギリシャに劣らぬ古い南米文化の蓄積があるわけだ。ストーリーだけを取り出してしまうと単純で、政府のイヌだった殺し屋が民衆の一員としての己れを自覚し、雇い主を殺すというもの。ちょっと設定を変えれば、そのまま日本の任侠映画にもなる。ここに伝説的な要素を加味し、逆に現実の政治状況を重ね合わせている。これどうも現代の話らしいんだ。アントニオのセリフに「神が世界を作り、悪魔が柵を作った」ってのがあった。
[映画館(字幕)] 7点(2009-08-26 12:03:47)
110.  青空娘
シンデレラ物語を日本に移した、まあどってことない話なんだけど、そういう物語を借りてある生き生きとした瞬間を描きたかったってことなんだろう。随所に増村タッチが見られ、湿っぽくなっても仕方のないところでも、しっかり除湿されている。この人らしさを感じたのは、たとえば東京駅に着いた若尾文子の周囲の喧騒を、あおり気味に捉えたスケッチ。あるいはピンポン大会でのワンカット、顔つき合わせて、しかし無感情に人々がしゃべるとこ。セリフの内容がそれほどストーリーにとって重要なわけじゃなく、画面の中に顔が詰まり、言葉が詰まっている、そのギューギューしている感じの楽しさが眼目。先生の菅原謙ニが赤電話かけてくるカット、ぎっしり赤電話を詰めて、手前のおばさんにも思いっきりしゃべらせる。この過剰に詰まって沸き立つ感じが、もうデビュー2作目で完全に独自のものになっている。靴を絡めたのは、やはりシンデレラを意識してのことなんだろうなあ。
[映画館(邦画)] 7点(2009-08-19 11:59:05)(良:3票)
111.  あにいもうと(1953)
京マチ子という非成瀬的な女優を起用し、ドラマとしても感情をあらわにする場面が多く、しかしそれでも登場人物がゴロリと横になっていると、なんとなく成瀬の空気が満ちてくるから不思議なものだ(小津の登場人物はまずゴロリとならない)。ケンカをしつつ別れきれない不貞腐れた男女ってとこが、たとえそれが恋愛関係のない兄妹であっても、やっぱり成瀬のモチーフだからだろう。ラストで京が怒るのも、外の人船越英二に対して、身内の兄がみっともないことをしてくれた、と家の側に立っているから怒るのであって、兄と別れきれていない証拠。つまり、兄妹ゲンカは仲良しの証拠ってやつだ。兄にとって成長する妹ってのは、それだけでもう堕落と見えてしまうのだろうなあ。帰りのバスで学生がまんじゅうをパクつくのは、原作のものか水木洋子のものか知らないけど、実に辛辣。帰省の久我美子が堀雄二の家を避け遠回りしてくるような描写の細やかさ。なぜかドラマにおいて理想とされる姿は常に末娘によって象徴されるってのが、古今東西を通じ定型になっている。あの駅は登戸なのか。
[映画館(邦画)] 7点(2009-08-15 11:56:43)(良:1票)
112.  愛のめぐりあい
アノトニオーニの世界の特徴って、私にはまず「不必要に広すぎる感じ」なの。からっぽな感じ。十分に埋まりきっていない空間。これ実際はほとんどをヴェンダースが監督してるって話も聞いたけど、「アントニオーニ的不必要な広さ」をしばしば感じた。車と自転車が並行してやってきて、車が向こうへ去っていく、右手に柱廊、この奥深い感じ。あるいは第2話のアタマの浜辺の小公園の広さ、そこを吹きすぎる風、砂の流れ、港町のたたずまい。第3話でのからっぽになっている部屋、そこからの街の風景。最終話も教会のある街のたたずまいと教会のだだっ広さ。話もいつものようにコミュニケーションの問題のまわりを巡っていて、触れ合わないこととか不確かな対象への愛とか、またイタリアの監督はどうしてもカトリックの問題が登場してしまう。こうした焦点を定めるのが難しいいつも以上に茫漠とした物語でちょっとつらかったけど、街のたたずまいとその広さという映像の枠を設定することで、独自の世界にしてしまう監督ではあった。
[映画館(字幕)] 5点(2009-07-27 12:00:27)(良:1票)
113.  明日天気になあれ 《ネタバレ》 
別にこれ島津の代表作というほどのものではない教育映画なのだが、小桜葉子の少女時代が見られたということだけで忘れ難い作品。拾った二匹の子犬を二つの家庭の子どもが競って育てる話。一方は飯田蝶子が母親の庶民派。職人肌のオヤジが「うまそうな犬だなあ」などと子どもをからかう、そんな雰囲気。それと中流家庭で育てたのとで、体格やら知能やらをツケヒゲの審判官が、丘の上で風に吹かれながら判定していく。それは引き分けとなり後日最終試験として競争させたときに、犬が上流階級の親犬と出会ってめでたしめでたし。上流階級の家でご馳走になる、という結末。この結末の付け方に時代を感じた以外は、素直に流れを楽しめるよい映画であった。丘のある風景が児童映画に似合う。で上流階級の女の子が小桜葉子なのだ。子犬を捨てられて寂しくブランコに揺られてるところなんかすごくかわいいの、あの時代にしては現代風のかわいさ。私なんかは、テレビで美容体操してたオバサンといううっすらとした記憶しかなかったので驚いた。当時の少女役の一番人気は高尾光子なんだけど、これが現代から見ると、ちょっと古めの日本調少女、やがて人気は高峰秀子に移るが、この小桜の、時代に早すぎたモダンな美少女ぶりも記憶にとどめてやりたいと思った。ただこのあと十年もしないうちに加山雄三の母になってるわけで、上原謙許すまじ、という思いもフツフツとよぎった(上原葉子としての彼女は小津の『お茶漬の味』でちょっと見られます)。
[映画館(邦画)] 6点(2009-07-14 12:10:55)
114.  新しき土 《ネタバレ》 
桜のタヲヤメぶりと、活火山のマスラヲぶりを順に見せて、これぞ日本。そういうアイテムの一つとして「侍の娘」ってのもあるわけだ。日本とヨーロッパの分かりやすい混淆。ジャズが流れる酒場に、新内流しのような女を立たせて三味線を響かせる。洋酒と日本酒。この分かりやすさがちょっと気持ち悪いけど、一番気持ち悪いのが話の本筋。小杉勇はヨーロッパの自由主義を捨て、妹のような娘と結婚し、満洲の開拓民になる、という展開に、作者が意図してなくても、時代のグロテスクがハッキリと記録されていたのではないか。国粋ということを煮詰めていけば、外部への絶対的な拒否になり、それはついには近親相姦的な歪みを抱えることになる。妹のような娘と結婚するのは、国粋の必然なのだ。もっとも山岳映画人の興味をひいたのは、同盟国としてよりも火山国としての日本だった。地震のある国。心理的背景はどうであれ、原節子と小杉勇の山のシーンは充実しており、「侍の娘の矜持」なんていう取ってつけたような解釈を越えた力が、画面にみなぎっていたように思う。
[映画館(邦画)] 6点(2009-07-05 12:02:32)
115.  ある機関助士 《ネタバレ》 
映画としてのヤマは後半、3分の遅れを取戻しつつの上り急行で、ダイヤを乱さずに上野に行けるかという設定(厳密に言えばヤラセなのだが、労働内容の記録として私はドキュメントの範囲内だと思う)。夕刻迫りやがて夜の訪れ、と時間も緊迫感を盛り上げ、ひたすら疾走する映像で押さえていく。飛んでいくホーム。青信号へのズームアップ。ピリピリとした緊張が伝わってくる合い間に、ふっと車掌の背中越しに捉えた客車のカットが入り、到着までくつろいでいる乗客が対比される。このくつろぎを機関士の緊張が支えているわけだ。東京に近づくにつれ、ネオンが輝き出し、飛び去るホームの人数も増えていく。映画が誕生して以来、幾多の汽車が観客を興奮させてきたが、これなんか本当に疾走の充実が味わえる。JR西日本事故後の今だったら時間遅れと労働管理の問題に突っ込まなければならないところだが、ここでは労働ルポルタージュ的に押さえ、そのため労働の緊張とその充実を描いた傑作になった。到着後、気軽にボール投げのポーズをするあたりで、機関士にとってのくつろぎの時間が訪れたところを捉えている。水戸での仲間うちのシーンも興味深く、先輩が「飛び込み自殺は、警笛鳴らすとかえって踏ん切りつけちゃうことがあるんだよな」なんて話しているのを、後輩が横になって洗ったばかりの髪を(髪はすぐ汚れる)かき上げながら聞いているあたり、専門の職場内ならではの雰囲気がそのまま記録されている。あるいは発煙筒持って走る訓練と、その息切れ。
[映画館(邦画)] 8点(2009-06-28 12:11:26)
116.  甘い夜の果て 《ネタバレ》 
元太陽族も、いつまでも遊んでいられるわけがなく、しぶしぶデパートの店員に納まって、でも、いつかデカイことしてやるんだ、と鬱屈しながらイキがってる。そんなリアリティがあった。自分ではいっぱしのワルのつもりで狼のようにのし上がってるイメージなんだろうが、外からはバレバレで座談の笑いにされてしまう。鋳物工場社長未亡人にも嵯峨三智子にも簡単に嘘をバラされ、そして自分自身は「結婚してあげる」の嘘に引っかかって笑われる。自分がからかわれること・馬鹿にされることに過敏なのに、ここにいない年寄りを笑うことでしかその鬱屈をはらせない。別に元太陽族に限らず、いつの時代どこにでもいた若者のタイプであろう。「むしゃくしゃしたのでやった」となったりする連中のひとり。自分では成功したつもりの勝利感に酔う場所が、デパートの屋上のちゃちな観覧車ってのがお似合いか。観覧車の回転性は、無人の競輪場でオートバイでぐるぐる回るところにもあって、外に向かえないエネルギーの空回りを思わせる。太陽族のシンボルだったモーターボートも、湖上で止まってしまうし。画面の外の音が神経をいらだたせるように強調されて入ってくるのが、効果的。
[映画館(邦画)] 7点(2009-06-26 12:01:20)
117.  阿部一族(1938)
これは原作の謎でもあるのだけど、何を否定し何を肯定してるのかが、簡単には割り切れない話だ。たしかに侍の世界の馬鹿馬鹿しさは描かれているが、その馬鹿馬鹿しさをより高い目で肯定しているようにもとれる。冒頭の淡々と日常の中で殉死していく者たち、腹の据わった者たちと見つつ、やはり気味悪い。悲壮な討ち死にをあっぱれと思い、また愚かだと思う。女たちの涙を批判とも見られるし、浄化とも見られる。我々日本人には、けっきょく自分たちが肯定したがってるのか否定したがってるのかよく分からない情動があり、どうもそれがせめぎ合うところが好き、という困った趣味があるようなのだ。義理と人情、とか。映画の中の言葉で言えば「情は情、義は義」。そこらへんがボヤけたまま、この国は数年後に阿部一族のように全世界に対して立て籠もったわけだ。監督は戦時中右翼団体を主宰していたくらいの人で、おそらく肯定的に彼らを見ていたのだろう。武家屋敷の美しさの見事さなど、精神性を託されているよう。縁側を渡りに見立てて、先代が自死の場へ飄然と謡いつつゆき、滅びの前に翫右衛門がそれを繰り返す。死のために親類一同が法事か何かのように集まってくる、あの気分の延長に一億玉砕の思想が生まれてくるんだなあ。そういった美しくも危ない気分が正直に表現されている映画です。
[映画館(邦画)] 7点(2009-06-11 12:08:21)
118.  穴(1957) 《ネタバレ》 
京マチ子って『羅生門』の時からして、すでに貫禄。森雅之と互角に渡り合い、三船敏郎をあるいは凌駕していたかもしれない。身体も貫禄充分。で、普通なら“貫禄”ってものと“キュート”ってものとは、対極にあるはずなのだが、この映画の京マチ子は実にキュートなのだ。彼女がこんなにかわいく見える映画は珍しい。七変化を見せるんだけど、化粧の濃い娘になったり、田舎ものになったり、それが何と言ったらいいか、その変装の“うまくなさ”がかわいいの。やっぱり女性映画の監督なんだな。彼女が船越英二を頼ってしまうあたりがサスペンスになってて、キュートぶりが生きている。銀行のひそひそ話・ルポに怒る刑事・クビになった京マチ子とバラバラに始めて、つながっていくあたりに監督ならではの才気。ラストもみなが早口にしゃべりまくり、娘がボソッと「あー、たいくつ」というリズム感が、監督のタッチだった。このころでも繁華街のデパートのすぐ裏あたりに、まだ焼け跡のような空き地が広がっていたんだなあ、戦争終わって干支が一巡りしてるのに。
[映画館(邦画)] 7点(2009-05-15 12:18:22)
119.  ある貴婦人の肖像 《ネタバレ》 
登場するほとんどの男性に愛されながら、唯一愛のない男と結婚するヒロイン、イザベル。求婚を断わっても、そのかわりに何かしたいことがあったわけでなく、ただ結婚という拘束から自由でありたかった、という女性だから、マルコヴィッチの、非生活者・趣味人といったタイプが魅力的に見えたのだろう。そもそも19世紀の女性に「何かしたいこと」なんて有り得なかっただろうし。彼に惹かれたということは彼女の自由願望もそう健全なものではなく、どこか現実の人間関係のわずらわしさから逃走する手段めいたものがあったのだろう。愛がなかったからこそ安心して結婚できた。ここに陽光を巡るモチーフが映画としては絡んできて、光を遮断する日傘、日に当たらないようにさせられる娘、といった展開になる。ヨーロッパの闇とアメリカの光の結婚。ヨーロッパの闇に逃げ込んだ光が、それでも愛に向かい合おうとするエンディングと思えばいいのかな。なぜかこのころH・ジェイムズの代表作が3つほど続けて映画化されたけど、「ねじの回転」を映画化した昔の『回転』を越えられなかった。光と影は美しいが、へんにカメラを斜めにしたりするのはいただけない。シェリー・ウィンタースは懐かしく、シェリー・デュヴァルはすっかりおばさんになってた、というのが見た当時の印象。
[映画館(字幕)] 6点(2009-05-12 12:13:09)
120.  アフタースクール 《ネタバレ》 
この人の映画は、左脳をフルに使わされる。最近は、右脳全開の映画のほうが“映画的”ということで評価されがちだが、我々は左脳も持っているのだから、こういうシナリオに手間をかけた作品も堪能したい。脳にギリギリ一杯までハテナを詰め込まれて、それが後半消化されていく心地よさは、右脳映画では味わえないものだ。冒頭、新婚夫婦の生活スケッチのように見せて、なんだか分からない山本圭をうろつかせる(この監督のことだから義父ということはないだろうと確信)。これいったい誰なのよ、とちゃんと引っ掛かるようにしてあり、その後、どんどん引っ掛かりが脳に堆積していくわけだ。田畑智子はキャバレーの売れっ子には見えないなあ、とか(ラストの彼女のかわいかったこと)。さあ騙してもらおうか、でも簡単には騙されないぞ、という気持ちでこちらは見ているわけで、その気持ちに挑んだり迎合したりする、作者の呼吸のよさが醍醐味。そして全体としてトリックのためのトリックで終わってしまわず、“得にならないこと”をする主人公たちの、単に権力の犬になったわけではない気持ちのよさが描かれ、そこで『アフタースクール』(放課後=卒業後)という題も暖かく決まっている。
[DVD(邦画)] 8点(2009-04-05 11:56:59)(良:2票)
000.00%
100.00%
200.00%
320.09%
4331.41%
52279.72%
691439.13%
773931.64%
834314.68%
9682.91%
10100.43%

全部

■ ヘルプ
© 1997 JTNEWS