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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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41.  ゴールデンスランバー(2009) 《ネタバレ》 
最初のうちはかなりワクワクした。巻き込まれていくあたりの緩から急への展開。少し無理があるかな、と思うところがあっても、とりあえずリアリズムの線で見ていられたけど、ショットガン撃つ刑事やら通り魔君やらが絡んでくると、ファンタジーの線に近くなって、もうちょっとリアリズムの地平で踏ん張ってもらいたかった。こういう話ならば、そうでないと締まるところが締まらない(事件後すぐに容疑者を、市民の視線がある住宅地で警察が普通持ってない武器で殺しちゃ、オズワルドにも仕立て切れないんじゃないか)。いや、あの二人の演技はいいのよ。浜田岳はもちろん、不気味に上機嫌な永島敏行もそこだけ取り上げれば印象に残るキャラクターになってるんだけど、全体から見ると「邪魔」って気がした。そういった夾雑物が多すぎ。それは映画を活気づかせるより、主人公の「追い詰められぶり」を薄めてしまっている。まあつまりこれ、巻き込まれ型サスペンスっつうより、ほろニガ青春回顧もののほうに比重がいってる、ってことなんだろう。テレビレポーターが、主人公の「正義の味方」のときの画像に「そう言えば人を見下したような表情をしていたのが印象的でしたね」とかいうコメントを入れてたのが、実にアリソー。終わって冒頭を見直したら、ちゃんと子どもが母親に、ある仕種をしていた(あの階で彼がエレベーターから降りたことを竹内結子はどうやって確認したのか知りたかったんだけど、そもそもあの夫婦、彼がハンコを確認しているわずかの時間で、グルッと回っただけですぐにエスカレーターで降りてたが、あれはエレベーターがあの階止まりだった可能性を示唆する行動であって、ならまあ納得できるが、しかしエレベーター停止シーンで耳を澄ますと「3階です、下へまいります」のアナウンスが聞こえ、また竹内結子はエレベーターに乗ったさい新たにボタンを押していたのだから、すでに屋上から乗っていた彼はより下の階のランプを点灯させていたはずである、しかし点灯している階は彼女が押した左上隅の一つのみにしか見えず…。あ、そうそう、リアリズムじゃないのね、ファンタジー、ファンタジー…)。
[DVD(邦画)] 6点(2011-01-31 10:36:00)
42.  怖がる人々
まず「箱の中」。なんかつい撮影状況を想像するほうで楽しんでしまうところがあって、映画として楽しめたかは微妙。警備員の声は届くが、こっちの声は聞こえてない、という状況。「吉備津の釜」。記憶が立ち上がってくる気配がいい。オチがついてかえってつまらなくなってしまう例。「乗越駅の刑罰」。斉藤晴彦はミスキャストだったが、萩原流行は意外と気にならなかった。花王おさむがいい。不当な非難じゃないんだよね。こっちにもちょっと疚しさがあって、これがあると身に沁みる度合いが深まる。たとえば『激突!』がそうだったように。身内までも糾弾に加わってくる。杉山とく子もいい。「火焔つつじ」。ここでは脅かすものが登場しない。女の嫉妬なんだけど。なかなか開かない雨戸の外にある。二人のときに長回しって効果があるみたい。「五郎八航空」。最後は笑いで締める。理解しがたい状況もの。じっくり怖がらせてくれる一本の映画の方が好きだけど、いろんな「怖い」のパターンがある、という索引の面白さを見せるオムニバスだった。
[映画館(邦画)] 6点(2010-12-27 14:46:46)
43.  腰弁頑張れ
成瀬が第二の小津と言われたのは、あくまで小市民の哀歓という題材によるのであって、フィルムはもう完全に異質。窓から室内を見たり、保険の話を妻としている時にその話題の家族のインサートカットがナウく入ってきたり、表現主義風のところなんかネガまで使っている。病室のシーン、ぽたんぽたん手術皿に水がしたたってそこで蝿が溺れかけているなんてナーヴァスに迫ったかと思うと、逆光で母がうろうろしているとこの光と闇の美しいこと。こういったものは全部小津にはない。そして成瀬の特徴とも言えるトボトボ歩きがある。画面の右上に向ってやや俯瞰気味で少年がトボトボと歩いていく。この情感は成瀬独自のもので、この現存最古のフィルムにも「成瀬ウォーク」が確認できたのは嬉しい(同年に作られた『ねえ興奮しちゃいやよ』ってののフィルム、どっかから出てこないかなあ)。外界が目に入らぬ人物と、その人物をそっくり包み込んでいる外界、どこへ行こうという歩行ではなく、自分自身を稀薄に溶かしてしまおうとしているような歩行。これが本当にいいんだなあ。PCLに移る前から、松竹の習作時代から、もう成瀬はナルセだったのだ。
[映画館(邦画)] 7点(2010-11-06 16:01:09)(良:1票)
44.  コンチネンタル
なかなかウキウキしたダンスを見せない。アステアが最初にタップを踏むのは、自分がダンサーであることをレストランで証明するためのもので、いやいや踊る。いつものミュージカルの、ウキウキした気分から自然に身体が動き出す、というのの逆という趣向。ロジャースのほうも、最初はスカートをはさまれ身動きできない状態で登場する。アステアは着替えるときにウキウキ気分をちょっと出すが、前半はおおむねタメてタメて、二人の心が通じ合う「ナイト・アンド・デイ」までもたせる。こういう愛の確認場面ではタップではなく、組んで踊る優美なダンス、というのが決まり(しかもその前に、同じ場で若者たちの群舞を入れて、こっちのしっとり感を強調)。こういうときはテーブルを乗り越えたりしないの。どちらかというと、ミュージカル映画では、タップやテーブル乗り越えたりする振り付けのほうが見せ場なんだけど、こういう愛の確認の場では、それやっちゃいけないことになっている。前半でタメていたおかげで、解放感。愛の表現として、向かい合うことと追いかけることを同時に踊ると、回転のダンスになるのだろう。この映画では回転のモチーフが繰り返され、回転扉やレコードの上の紙人形の回転へと広がっている。後半の見せ場「コンチネンタル」も、部屋に閉じ込められそうになって抜け出してのダンスということで、やはり解放感が満ちる。この「コンチネンタル」、タップリで見事ではあるが、音楽は切れずに続いているのに、群舞のほうは画面が編集されててつながらない振り付けになってたりして、ちょっとつまずく。ラストの二人はもうしっとりの愛ではなくウキウキ気分の愛だから、テーブルに乗ったりして踊ってもOK。
[映画館(字幕なし「原語」)] 7点(2010-10-09 09:46:04)
45.  恋する女たち(1986)
学園もの、初恋もの。こういうのは最初は己れの周辺の話として観ていたものだが、やがてある段階から「最近の若い子たちはこんな感じなのかねえ」という気分で観るようになっているのに気づき、シミジミさせられる。この時代ぐらいになると、もう親の呪縛からは完全に解かれていて、その世代だけの物語となる。そのぶん大人の絡むシーンはだいたい不調。現実の反映なのか、理想としてなのかはよく分からないけど。見つめるだけの禁欲的な憧れの世界。オタカさんは窓から野球少年を見つめ、少年は図書室でオタカさんを見つめ。喋れば思いばかりが先に立ち、口がまわらなくなり、あるいは心が後ろに引っ込んで、字幕となって悪態をつく。学園の青春は不変です。「野球好きなの?」「ヤクルト」「飲み物のこと言ってんじゃないのよ」「!?」で思いがばれちゃうなんてとこ、おかしかった。自分の思いを隠そうとするヒロインてのが、不変の味わいなんだろうなあ。地方都市のなんかシマッテない感じが良い。
[映画館(邦画)] 6点(2010-08-08 10:40:11)
46.  こうのとり、たちずさんで 《ネタバレ》 
硬質な、ドキュメンタリー的な画面の中で、登場人物が不意に詩を語り出す。国境に立つ兵士が点呼の中で川の流れについて語り、議会で政治家が雨音の背後から聞こえる音楽について語り出す。政治に追いつめられた人々が魂の中から語り出す言葉は、詩にならざるを得ないのか。ところがこの映画の重要な場面になってくると、その詩さえ消え失せてしまう。レポーターが娘に出会うバーでは、視線だけが交わされる。川越しの結婚式の場面では、向かい合う視線と伸ばされる手だけ。この作者はもう会話を信じていないのだ。詩の言葉はあっても会話は失われている。言葉の代わりにコミュニケーションの役割を担わされた視線と手は、しかし両者の距離を強調していく。マストロヤンニとモローが市場の橋の上で向かい合うとき、二人の間には見えない国境線が引かれているようだ。人々はなぜ引き離されたのか。一方が逃げ、一方がとどまったからだ。マストロヤンニは逃げ、モローはとどまった。花嫁は逃げ、花婿はとどまった。しかし逃げた者が自由になったわけではない。逃げ出した場所にはまた別の牢獄が待っている。永遠に繰り返されるだろう脱出の後に、無数の国境線が引き直され、出会えなくなる人々の沈黙だけが堆積していく。そして詩となった言葉はさらに沈黙へ傾斜し、映画はリアリズムから伝説に入っていく。「アレクサンダー大王」は群衆の中に消滅し、「シテール島」の老夫婦は漂い消え、本作の政治家も、幾人もの目撃者たちの中に分裂しながら、伝説の人物になっていく。ならばこの映画は敗北主義に浸されたフィルムなのだろうか。いや、タコの話を聞かされた少年に託されたかすかな希望がある。そして「黄色い人」がいる。アンゲロプロスの沈んだ世界に登場する原色の黄色は、前作でも目を引いたが、この作品でとうとう重要な役を割り振られた。危険な仕事に従事する移民労働者、戸籍も国籍もなく、アイデンティティからも追放されたような人々、顔さえ定かでない究極の自由へ漂い出した人々。言葉だけでなく視線も手も封じられ、しかしそういう彼らがどこかとどこかの間に電線を繫げようとしている。ぎりぎりのメランコリーの果てに監督がたどり着いた希望。国家というものが無効になった先へ張られていく電線。その背後の空には、おそらくこの映画で初めてだろう、厚い雲を割ってかすかではあるが青空が見えかけている。
[映画館(字幕)] 8点(2010-07-01 12:14:46)(良:1票)
47.  絞死刑
前半の面白さだけだったら、ためらわず大島最高作と断定してしまうんだけど、後半抽象論になって浮いてしまうのが不満。外に出ての妄想シーンまではいいと思うんだけど、「姉」が見える見えない以後の展開は、映画よりも剥き出しのシナリオ文学って感じで。いかにも60年代末という時代を反映はしている。これ音の効果もいいんだ。ぶるぶる震えるときの手錠のカチャカチャやら、生きているということの鼓動、朝鮮人部落の声、など。あの姉の演説にRが、どうもしっくりこない、と不同意を示すとこに誠実さがある。ドアの外の国家がまぶしく輝いているところは、やはり迫力がある。特定の代表者があるわけでなく、国家とは一つの状況だということか、けっきょくRも妄想の世界へ消えてしまったという意味なのか、あるいはこちら側がひとつの妄想の体系だと言っているのか。など理屈をいろいろこねる楽しみはあるが、前半のブラックユーモアで押し通してもらいたかったなあ。
[映画館(邦画)] 7点(2010-06-15 11:58:42)
48.  ゴジラVSスペースゴジラ
どうも製作者サイドがこちらの希望を分かってくれてないという、身をよじるようなじれったさを感じた。まずいろいろ出しすぎ。タイトルの二頭に(“頭”でいいのか)、こちらにロボットモゲラ、それにベビーゴジラとミニモスラ。怪獣が多ければ多いほどサービスと思われているようなのが悔しい。出すぎると集中性に欠ける。さらによくわかんない悪漢も混ぜて、しかし庶民がいない。自衛隊的なものはあくまで脇に回るべきなんじゃないか。怪獣と庶民とが向き合わない。それに怪獣はあくまで庶民が暮らす街で仕事をしてもらいたい。宇宙空間なんて誰も望んでいない(それにしてもずいぶん密な宇宙だった)。スケールを広げて宇宙、ってのがサービスだと思われているのが悔しい。あの結晶が福岡の街に生えるイメージなんか、新しいものに膨らませられそうな芽を感じたものだが、そういう新ネタを膨らますだけの余裕がもうこの頃にはなくなっていたんだなあ。そういえば宇宙怪獣ドゴラも北九州だった、福岡県てのは宇宙となにかフィルムコミッションの協定でも結んでいるのか。怪獣が街を破壊する態度が、いかにも破壊だけが目的となっている。『モスラ』はちゃんと独自の目的があって東京タワーを倒した。とにかくビルを壊しとけばいいんだろ、と思われているようで悔しい。たとえば建物を慎重によけて進む律儀な怪獣ってのだっていてもいいのに。まあ、つまんないだろうけどね。
[映画館(邦画)] 5点(2010-06-12 11:58:12)
49.  コミック雑誌なんかいらない! 《ネタバレ》 
とにかく内田裕也が芸能レポーターやってるってだけでおかしい。内田裕也一人でもおかしい、芸能レポーターってものもそもそもおかしい、そのおかしさは異質のものだったんだけど、それが重なるとまた第三のおかしさが生まれてくる。「深く静かに愛が潜行しているものと思われます」なんてレポートのおかしさが、内田が言ってることでさらにおかしくなる。後半、御巣鷹山で啓示を受けて、まともなジャーナリストへと目を開いてしまうんだけど、これどうかなあ。面白さは減じてしまったが、同時進行製作としてこうなってしまったって感じで納得できもする。マジメな人だから。三浦和義のシークエンスが一番いい。逮捕シーンも収められたことで、さらにこの三浦さんて人のホントかウソか分からない・いかにもテレビ的なところが、ナマナマしく記録できた。一和会のとこに行ったときは、裕也さんちょっとビビッてたんじゃないの。「カメラちゃんと撮ってるか」も良かった。あらゆる劇映画は時代の記録映画である、という真理を、最初から中に組み込んだ作品。
[映画館(邦画)] 7点(2010-06-04 12:02:15)
50.  告発
この監督、長回しが好きみたい。あるいはカメラマンの趣味か。最初の弁護士事務所へ駆けつけるとこ、階段上って上司と会うまでを一気にいく。さらに面白いのは、牢のまわりをぐるぐる回り、ときに中に入り込んだり出たりする(スタッフが牢の一面をあわてて外したりはめたりしてるんだろうね、『ロープ』みたいに)。法廷でもくねくねカメラが歩き回った。まあ画面として退屈になりそうなとこだから、動き回ったってだけのことかも知れないが、楽しいことは楽しい。典型的なアメリカの「正義を行なう勇気」ものなんだけど、飽きずに感動してしまうのは、こういう風土が日本にはないからなんだろう。どんな国家にも地下牢は生まれてしまうのであり、問題はそれを暴く勇気の有無なんだよなあ。こういう話で弱いのは、ワルモン役の演技パターンが決まってしまうこと。G・オールドマンいい役者なんだけど、やっぱ「ナチ型」になってしまう。本当に怖いのは、「どうして私の言うことが分かってくれない」と泣きながら、心の底から真人間に立ち直らせようとしてする善意の拷問なのではないか。
[映画館(字幕)] 7点(2010-04-29 11:57:47)(良:1票)
51.  恋人までの距離(ディスタンス)
会話する二人の自然さの引き出しかたにこそ映画の命がある、っていう姿勢。ちょっとした反応なんか、どこまでが監督の指示なのか分からないけど、素晴らしい。他人だった二人がどこか探り合いながら親しんでいく経過、これほどドラマチックなものはないと監督は確信している。喋っている言葉より、そこにある空気をこそ映画ならば捉えたい、と。「時は流れ去る」というテーマが底にずっとあって、時間をいとおしみ出したときに静かにナガシのウィンナワルツが流れ込んでくるあたり、時というものをハッと意識させられる。駅で今日の日付けが6月16日と分かる。これはジョイスの「ユリシーズ」の日ではないか。あのダブリンをウィーンに移して街歩きをやらせたという趣向なのか。そして泣けるのが、二人が歩き回った場所のそれぞれの朝を捉えたカット、これがいい。最後にヒロインは徹夜の後の眠りに入っていく。実に自然ななんの感情もない純粋な眠りに見えるのが、またいい。
[映画館(字幕)] 8点(2010-02-25 12:07:50)(良:3票)
52.  GONIN 《ネタバレ》 
バッティングセンターで始まるからというわけでもないだろうが、すぐ殴る。暴力が溜められない。暴力が瀰漫している。単純に言えば殺伐としている。撮りたかったいくつかのシーンはあったのだろう。竹中直人が帰宅した家、子どもがピアノへゆっくりと歩き、閉じられたドアの向こうに一瞬倒れている姿がうつる。かすかに見える風呂場の血。あるいはレストランでふと客がいなくなっている根津甚八のシーン。ただそれらがストーリーのツボにはまってるかというとそうでもない。アクション映画の話は単純なほうがいいとは思うんだけど、それはこういうこととは違うんだなあ。片目の殺し屋ってのは、ピストルだと難しいんじゃないか。鶴見辰吾にちょっと凄味。五人組が結びつくところに説得力が感じられなかった。
[映画館(邦画)] 5点(2010-02-05 11:58:17)
53.  河内山宗俊
たまたま時代の設定が過去だったというだけで、会話だけ取り出せば昭和の現代劇の様相。かえって戦後の時代劇のほうが様式性が強くなってしまっているのかも知れない。直次郎はここではそこらにいるグレかけた気弱な少年だし、三千歳とはミッちゃんと呼びあっている。金子市の中村翫右衛門が傑作で、永年留年して大学に居着いてしまっているような雰囲気のある男、しかし実は死に場所を探していた余計もののニヒリズムも持っている、というあの時代の若者像をくっきりと代表している。“市井”という言葉がこんなにも似合うセットはそうそうなく、その中の住人としては雪の舞う世界などうっとりと見惚れていられるが、余計ものの目を通すと、唯一どぶだけが奥への逃げ路として続いている圧迫も感じられる、という素晴らしい造形。古女房のやきもちという、どちらかというと喜劇の要素を転換点に、ドラマが悲劇性を帯びていくのも、時代の影か。松江邸のニセ僧道海は、設定だけが歌舞伎と同じで、全然違うドラマに仕立てて読み換えの面白さになっている。見事な傑作だが、ただ音楽がうるさく、ラストの立ち回りで「ロミオとジュリエット」が流れ出すと、やはりのけぞる。
[映画館(邦画)] 8点(2009-10-14 12:00:58)
54.  殺したのは誰だ
“玉突き事故”って言葉があるくらいで、車とビリヤードはイメージの世界では接近している。この映画、保険金詐欺の話なんだけど、車の事故とビリヤードが実際に重ねられるところがミソ。どっちも金を賭けてのぶつけっこ。ロータリーへぶつけようとして逸れるところ、あるいはぐるっとまわってもう一度迫るあたりは、完全にビリヤードと対比されている。中央に据えたカメラの回転にあわせて幾多の車が走っていくのなんかも、ビリヤード的。車が夢や憧れだった時代、犯罪と遊びがどっちも日常からの解放を夢として差し出してくれた時代だ。当時のちょっとシャレた“イカす”感じが伝わってくる。この監督作品は銀座界隈をよく記録しておいてくれてるのが嬉しく、アタマには並木座が映った。小林旭が若々しい青年だったが、デビューしたてのころだな。
[映画館(邦画)] 6点(2009-09-01 11:56:42)
55.  この自由な世界で 《ネタバレ》 
この人の映画のいいところは、スルッと社会問題の内部に入り込んでいくうまさ。不法移民就労問題なんて、日本のニュースだと、強制送還されてかわいそう、という面と、斡旋業者がさも極悪人のように逮捕されていく場面といった、外部から眺める視点しか持てない。それがちょっと内側から眺めると、複雑な力があちこちからぶつかり絡まりあっている現代の一局面として浮き上がってくる。同情と金儲けで揺れるヒロイン、金儲けと言ったって解雇されたばかりの33歳の彼女にとっては、人生最後の賭けのような気合いが入っている。金持ちのギャンブルとは違う。こういう正解のない問題を、できるだけ解に近づけようと小数点以下二桁ぐらいまで割り続けていくのがローチ作品の偉大さだった。ただ本作は、やや問題を整理し過ぎたきらいがあり、いつもに比べると小数点以下一桁ぐらいで止めてしまった感じもある。自分の手持ちの労働者のために不法移民排除を企てる、ってのは、ローチのストーリーとしては、ちょっと分かりやす過ぎる展開になってなかったか。
[DVD(字幕)] 7点(2009-07-28 11:58:45)(良:1票)
56.  この広い空のどこかに
小林正樹の代表作リストを眺めていると、最初松竹の監督だったとはとても思えないんだけど、ちゃんとこういうホームドラマも作っているのだ。シナリオは木下恵介の妹の楠田芳子。川崎の酒屋。かわいい嫁さんが似合う久我美子。高峰秀子は松竹の明るい木下系の役でなく、東宝成瀬系の陰気を引きずっている。ここらへん監督が後年東宝でいくつか映画を撮ることになる予感か。まさか。商店街と土手が一緒にある場所を日本映画はとくに好んだ。戦災で脚を傷めた高峰がしばしば訪れる。とても絵になる。商店街という人間関係の濃密な場と、土手というそこからの息抜きの逃げ場があることで、ダイアローグ的な展開とモノローグ的な展開とを整理しやすいのかも知れない。ホームドラマのテーマは、「一人一人はいい人なんだけど、うまくいかないのよね家庭って」ってところに集約され、それがやがて時の流れとともに溶け合っていくのを肯定的に捉えるのが定番、もひとつ掘り下げがないのがもどかしい。二階では若夫婦がラ・クンパルシータを踊り、階下では陰気に姑と妹、それぞれにお菓子の缶がある、なんて描写。脚の悪い高峰が、手の指のなくなった男の縁談が来て傷つくところなんかは、ハッとさせる。後年の小林監督の社会性も、ちゃんとこうした庶民生活のささやかな残酷のスケッチという基礎があるからしっかりしていたのだ(なのになぜか場内で笑いが起こったのが分からない)。またこの映画、かつての酒屋の店先というものの記録にもなっている。屋根の上の物干し場とか。当時の多摩川のボート場も記録されている。
[映画館(邦画)] 6点(2009-07-04 12:08:14)
57.  午後の遺言状
俳優にそれぞれ彼らの実人生を投影しているのがミソで、俳優だったり、能役者だったり、不倫の恋だったりをダブらせてる。脱獄囚とのやりとりのあたりからベテランシナリオ作家の弾みが感じられ、あのファルスのタッチをラストまで維持できなかったかなあ。新藤兼人は、日本映画黄金期に、多くの重要な監督たちにせっせとシナリオを提供していたことはもっと評価されていいと思っているのだけど、そういう他人に提供したシナリオのほうが自分の監督作のよりも肩に力がはいらず、映画作法としての純度の高さを感じることが多かった。この作品で、初めて自分の映画のシナリオで、そういった“軽み”を描けたのではないかな。表彰式のシーン、あるいは杉村・乙羽のやりとりの場など。背景を若々しい新緑が埋め、そこで老人が老人を使って描く老年の世界という貴重な映画が展開している。
[映画館(邦画)] 7点(2009-06-27 11:55:02)
58.  告発のとき 《ネタバレ》 
良くも悪くもハリウッド映画は明瞭な世界を提示してくれるものだったが、最近はなにかモヤモヤとしてスッキリしないまま終わる傾向がある。現実の複雑さにまともに向かい合えばそうなるわけだけど、ただ溜め息をついてるだけじゃないか、という気にもなる。この映画も構造は至ってハリウッド的で、反発し合っていた師匠と弟子が協力して結果を出す、というパターンの変奏。昔だったらもっと晴れ晴れしいラストになれたのに、現在のアメリカはそれを許してくれない。ドラマは、せがれが壊れていく過程を発見していく父の旅という形になる。善良なせがれが悪い敵に殺される、という形の反戦映画ならそれなりに浄化の気分になれるが、もうアメリカはそんな無垢な自画像を持てなくなっている。それを父親は受け入れていかなければならない。ただ救助信号としての国旗を掲げることしかできない。この圧倒的な無力感が、現在のアメリカの率直な自画像なのだろうか。
[DVD(字幕)] 6点(2009-04-12 12:02:57)(良:2票)
59.  コーカサスの虜 《ネタバレ》 
個人が、その個人以外の要件で裁かれることへの絶対的ないらだち。全編緊張していた映画ではなかったが、ラストでこのいらだちに至るテーマがキューッと絞られていくところが見事で、こういう映画は印象強い。少女が鍵を渡し逃がそうとしてくれるが「それでは君が罰せられる」と言って虜の青年はうずくまる。個人と個人の対話。その彼を長老は逃がしてやる。これも個人と個人の交渉。そこにヌッと個人を識別する能力のない近代兵器がバランバランと現われてくる。この凶々しさと言ったらない。なにやら牧歌的ですらあった戦争に、不意に現代が顔を出し、この個人の顔を失った時代がとても悪い時代であることを証明する。ひなびたワルツが、その悪い時代に滅ぼされた何かを弔い続ける。
[映画館(字幕)] 7点(2009-04-08 12:00:41)(良:2票)
60.  恋におぼれて 《ネタバレ》 
天文学者の恋。望遠鏡→覗く人、とつながっている。『裏窓』の構造をコメディにしたような設定。最初不鮮明な映像が壁を白く塗っていくにしたがって鮮明になっていくとこは、なかなか映画的なスリルだった。男のほうは未練たらたら、女はひたすら復讐に燃えている。アパートに忍び込んだときも、男は匂いを嗅いでトホホしてるし。猿に口紅つけさせたり香水の水鉄砲したりと、陰湿な仕掛けが楽しい。壁の映像に二人で並んでフキカエをする楽しさ。一緒に並んで映像を見ていると、心が通じ合ってきてしまうものなのだ。作戦が成功していくとこを、実際に見せないで、オバアチャンが聞いた“ラジオドラマ”として伝えるシャレっ気。終盤にもう一つ鮮やかな場面があればもっと良かった。骨折にジンマシンと弱り目のタタミ込みはいい。
[映画館(字幕)] 7点(2009-03-25 12:11:33)
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