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1.  犬神家の一族(1976)
推理小説の映画化は、どうしても言葉に頼る部分が多くなり成功しづらいのだが、崑さんはそれを逆手にとって会話の場面で面白がらせる。前作『吾輩は猫である』がそうだった。いわばサロンの仲間うちの会話で成り立っているような原作から、会話のリズムと画面を顔で埋める映像で楽しめる映画にしてしまった。その延長にこの金田一シリーズが出来たのだろう。解決篇の部分が推理ものにとっては鬼門で、どうしても説明になってしまう。そこが本シリーズでは面白い。事件のフラッシュバックを挿入する勘どころ、言い募りあう人物を時間を少しずつずらして短いカットでつないでいく緊迫、顔の部分アップを折り込んだり、コラージュを楽しんで作っている。そして崑の終生のモチーフである女のドラマにもなっていた。本シリーズは『男はつらいよ』とは別のスタイルで、当時の大女優名鑑になった。シリーズを通しての脇役チームとなる俳優たちの顔を見るのも楽しく(本シリーズの坂口良子は忘れがたい)、それにしてもつい最近の映画と思っていたのにずいぶん多くの役者が故人になってしまっているものだ。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2013-11-17 09:34:15)
2.  生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言
カバーかけたまま走り出す車のイキのよさで乗せ、次第に原発に集中していく。原発ジプシーと呼ばれるワタリの労働者の問題。30年前の映画だ。今も現場で働く人たちがマスコミに登場してこない気味悪さが続いている(欧米だったら英雄視されるだろう事故始末をしている彼らが、日本では顔が映るとモザイクがかかったりする)。廃液漏れなんてまさに今直面してるわけだ。飲み屋でビール瓶をボーボー吹くので彼らの不安が伝わる。浜での宴会で、今まで出会った人の名前を並べ立てる声が、呪文のような効果を出す。あれは題名になっている党の党員名簿でもあるのか。なら政治的な映画かというと、原田芳雄が白いのかぶっていれば、宗教的な気配が漂う。天気雨ってのも宗教的だし。「弱いものは助け合うべきだが、その弱さゆえに仲間を裏切ってしまうこともある、でもその疚しさを持続させれば、いつか弱いもの同士の連帯が可能なのではないか」といったメッセージが浮かぶが、これは政治的なのか宗教的なのか。甘いと言われればそうだが、その切実さが迫ってくるので、つい「あふれる情熱、みなぎる若さ」と叫んでしまうのであった。
[映画館(邦画)] 8点(2013-09-10 10:00:18)
3.  稲妻(1952)
次女の保険金に当然のようにたかり、下卑た男は出入りし、長男は頼りない。末娘高峰は兄のすね毛にさえ嫌悪を感じる、そういう一家のネットリ感を丹念に丹念に描いていく。どうしてそれが不特定多数の客の鑑賞の対象となる映画作品になるのだろう。次姉の死んだ亭主の妾のところに談判にいくエピソード。川や小さな橋のたたずまいが懐かしいということもあるが、この二人の味も素っ気もない会話もいいんだよ。ねちねち反撥し合いながら一つの共同体を作ってしまっている家族というものの、肯定でも否定でもない描写。これの対比として下宿人だった女性がいた。あまり深く立ち入って描かれてはいなかったけど、一人でやっていく厳しさと爽やかさが置かれる。あと下宿先の兄妹の睦まじさ(夜、光が漏れているさま)も、比較としてある。でも彼らは主人公の家族のネットリのリアリティを高めるために、デッサンされただけなのかもしれない。これらを倫理的判断を下さずにただ並置していく。普通の映画だったらちゃんと次女が見つかるところまで責任持つだろうが、成瀬はそんな分かりきったところにこだわらない。作中の言葉を使えば「ずるずるべったり」の、糸を引いてるネバネバを、なぜか不潔感なく描ききった映画ということだ。大人になった高峰秀子の戦後の成瀬作品はまた車掌さんから再スタートし、日本映画の黄金時代を築いていく。
[映画館(邦画)] 8点(2012-10-16 09:41:21)
4.  イタリア麦の帽子
人のちょっとした傷を描くのがいい。靴が合わない、手袋の片一方がない。妻にしょっちゅうネクタイの緩みを注意される、なんてのが傑作で、もうビクビクしちゃって条件反射的に首元に手がいくようになっちゃうの。悪夢の世界ということではキートンと同じだけど、質が違う。キートンの悪夢は荒々しく襲いかかってくるが、こちらは直接暴力の被害は受けない。あちらは第三者の目から見れば、ああ大変なことになってるなあ、と同情される状態なのに対し、こちらは孤独。絶望的なのだが場を取り繕おうと懸命なわけ。キートンが「恐怖の悪夢」であるのに対して、クレールは「不安の悪夢」と言えるかもしれない。当人に何の落ち度もないのだから不条理の悪夢には違いないんだけど、「関係」の形で出てくるので、キートンの悪夢が比較的サッパリしているようには行かない。粘つく。これがクレールコメディの特徴だろう。フランス映画の粋はしっかりあり、最後はピタリと収まる。絶品である。
[映画館(字幕)] 8点(2012-07-25 10:16:38)
5.  意志の勝利
演説と行進と整列。繰り返し繰り返し所属することの悦びを歌い上げ、今あなたが所属している党/ドイツという国家の確実性・正統性を保証してくれる。この時代のこの国に生まれたことは何と幸運なんだろう。大人数を捉えるときは俯瞰でその秩序正しさを描き、ヒットラーを初め指導者たちを捉えるときはやや下から見上げ偉大さを強調する。演説者を横移動でゆっくり撮るのは、ありがたい仏像を拝むときの気持ちに似通った効果を狙っているのかもしれない。ヒットラーはしばしば逆光で捉えられ、彼の黒髪があたかも純粋なアーリア民族の(彼が夢見た)金髪であるかのような錯覚を与える。ショーというものの力を最も有効に使った権力者だけのことはある。モンタージュによる作為、反復の陶酔、映像の力をフルに生かした点でプロパガンダ映像史上の一つの頂点であり、後世にも影響を残した。拍手が鳴り止まぬ熱狂を司会者の困惑で描くうまさなんて、以後の劇映画でも目にした気がする。これ東京の有楽町そごうデパート7階だったかに短期間存在した「映像カルチャーホール」ってんで見たんだけど、500円で海外のドキュメンタリーの名作を見られるいいところだった(いまはデパートそのものもない)。映画史の本に載ってるような英国サイレント期の傑作を、ここでずいぶん見られた。あれどこが運営してたのか、あれらのフィルムは今どうなっているのか、ほとんど日本語字幕が付いてたし、無駄なく活用されていればいいんだけど。
[映画館(字幕)] 8点(2012-06-23 09:45:48)
6.  石中先生行状記(1950)
これは「成瀬的」というもののイメージをことごとく裏切りつつ、それでも観終わってみれば、やはり成瀬の映画を観た、という気分にさせてくれる不思議な作品である。まず成瀬的「うじうじ」がなく、「朗らか」である(多くの作品ではそのうじうじぶりがたまらなくいいんだけど)。これはまあ原作のせいかもしれない。次に狭い「下町の路地」を得意とするのに、これはいたって「牧歌的」。道を撮ると印象的なのは同じだが。そして「中年」の話で多くの名作を残しているのに、これは「若者」。若山セツ子と三船敏郎(当時は若者なのだ)の第三話など、愛すべき作品。でもみずみずしさがあまりほとばしらないところが、なんか成瀬らしい。加えて達者な役者たち。欲もあり人もよし、というところは進藤英太郎以外に考えられず、藤原釜足と中村是好のコズルサを出す会話の妙には堪能させられた。最終話の囲炉裏を囲むシーン、健康そのものの若山セツ子とブスッとしている三船敏郎の対比、それまで若い娘のいなかった家庭のこれまでを想像させてくれる(若山が『青い山脈』の自分のシーンを観ているなんて、似合わぬジョークもやっている)。成瀬の代表作ではないかも知れないが、こういう明朗・牧歌的・若者の作品もあるって嬉しい。
[映画館(邦画)] 8点(2010-09-24 09:53:03)
7.  生きる
前半一人称、後半三人称、という仕組みは、たとえば死の直前を目撃した警察官が「とても楽しそうでした」というところで生きてくる。動き回る前半、室内ドラマの後半という対比は、後に引っ繰り返されて『天国と地獄』になるわけだ。黒澤作品で初めて主人公が死ぬ、ということでも重要な映画だし、立派な出来のフィルムだが、社会批評性の濃さが今となるとちょっともたれる。たしかに今でも社会はこのように、いや、もっと悪化してシステムに組み込まれているだろうし、助役が自分の名誉にしそれを下っ端がおだてるあたりの痛烈さは見事なんだけど、この映画で一番普遍性を持ち続けているところは、案外「初老の男の若い娘への傾斜」の部分かも知れない。その切実さと気味悪さがじっくりと迫るのだ。後に『どですかでん』でも養女にいたずらする父さんが出てくるが、ストイックな黒澤さんのなかにあるドロッとしたものを垣間見てしまったような感じがある。小田切は聖女的なものではない、主人公に再生の一言をハッピーバースディの歌をバックに投げるが、あとはもう登場しない。あの二人がもうしばらく付き合い続けたらどうなったか、という興味が少し残る。帽子がパリッとし、ラストで公園の土にまみれる、という小道具の使い方。ドンチャン騒ぎのあと老人の歌声が聞こえてくる不気味な感じ、ああいうとこはうまいなあ。
[映画館(邦画)] 8点(2009-11-18 12:04:54)
8.  いのちの食べかた 《ネタバレ》 
おそらくワンシーンだけ取り出せば、企業PR映画にも使えそうな映像。「我が社はこのように完全オートメーションで、清潔に食品を提供しています」って感じで。でもそれがこれだけ連なると、ちょっとグロテスクな様相を帯びてくる。ドキュメンタリーの面白さだ。大量消費社会と頭では理解していたつもりでも、その大量ぶりのハンパじゃなさ、それに驚いておくことも無意味ではないだろう。コッココッコやっていた鶏たちが機械に吸い取られ、どんどん処理されて、吊るされたまま“製品”になっていく。ベルトコンベアーのヒヨコなんか、コントのワンシーンみたい。木を揺すって実を落とす機械も、なんか笑えた。そう、専門化した珍しい機械の数々も見どころで、ここらへんはSF映画の世界だった。牛の乳搾り用メリーゴーランド、牛のエサ噴射機、惑星探査機のように両腕を広げていく畑の農機、無駄のない豚や魚の内臓摘出装置、エレベーターでの長い長い降下後、地下深くに広がる岩塩採掘場のシーなんか、あそこだけ見せられたら絶対にSFだ。食卓の向こうにSFが広がっていたとは知らなかった。屠殺機で静かに殺される牛、抵抗する牛、個性のあったどれもが、処理されれば同じ肉塊になっていく。考えてみればこの映画、よくテレビの自然もの番組なんかで目にするチータの狩りのシーン、あれの人間版なんだな。あの必死の迫力、食うか食われるかの緊張から、なんと我々は遠くまで来ているんだろう、という感慨が湧く。シンメトリーで捉えた透視画法の無機的な構図が静かに続き、その中で有機物が食製品へと変えられていく。でもそれはチータの狩りと本質的には全然違っていないはずなのだ。まったく言葉に寄りかからず、目で追跡する92分間は、映画の基本の驚きを改めて体験する新鮮な時間に満ちていた。
[DVD(字幕なし「原語」)] 8点(2009-06-09 12:14:09)(良:2票)
9.  いつも2人で
「ああここ来たことある」と不意に思い当たり、つられて当時の自分の周辺までまざまざと思い出されることがある。このシナリオはその感じからヒントを得て膨らませてみたのでは。ヨーロッパを車で移動中の現在の夫婦と並んで過去の彼ら、出会いのとき・アツアツのとき・危機のときの彼らも、ときに追い越したり追い越されたりしながら駅伝のように走っている。その楽しさ。これって広い意味での「意識の流れ」の話に分類されるんじゃないか。A・レネが小難しく『去年マリエンバートで』を作ったのとは違い、S・ドーネンはミュージカル監督の才を生かして洒脱にこしらえた。あちらは小説家ロブ・グリエによる脚本だったが、こちらは間違いなく映画の台本だ(フレデリック・ラファエルって人)。意識の流れって映画向きなんだ。記憶とか妄想の具体化って映画の得意分野。カットが代わると違う世界・違う時代に飛び込んでいるスリルを存分に生かし、過去の記憶に引きずられがちの夫婦の意識の流れを描いた。黒澤明は「映画はカットとカットの間にある」と言ったが、本作なんかその例証。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2013-12-17 09:52:24)
10.  いつか読書する日
リアリズムのようでいて、どこかそうでない方向へ逸れていく。玄関先で待っていて、毎朝牛乳一本を目の前で飲み干すじいさん。カレー小僧の伝説。日常からはみ出していくボケ老人と、養育放棄された子ども。などなどが世界を変な方向に広げている。岸部一徳は劇的な死を遂げた父のせいで「絶対に平凡に生きてやる、必死になってそうしてきた」と言う。必死に平凡たろうとしてきたキャラクター。ついに田中裕子が「カイタ!」と名前で呼びかける瞬間のスリル。あるいは妻の死後訪れて、学生時代のような口ぶりで「ちょっとつきあってくんない」と言うあたり。「死ねと言うなら死にます」も。中年の抑えられていたセリフのいちいちが味わい。メロドラマこそ平凡のなかの必死なんだな。タイガースのメンバー仲間岸部は、撮影の合間にジュリーの妻・田中に「沢田君、元気?」とか挨拶したわけ?
[DVD(邦画)] 7点(2013-10-07 09:51:12)
11.  イワン雷帝
いわゆる舞台劇調ってやつで、役者は大見得を切るし、全体押し付けがましい。その「押し付けがましさ」を映画としてギリギリまで肯定してみる、と決意したような作品。だからかえって映画的なはずの戦闘シーンや群衆シーンのスペクタクル場面のほうが精彩を欠く。人物が臭い芝居をしている顔のアップのほうが酔える。横目に盗み見たり、にらみ合ったり、ほんと歌舞伎。ヤアヤアヤアという感じ。そういう押し付けがましさが得た力強さを、もう制御できないぐらいに煮え立たせている爽快感がある。娘が毒杯を口にするあたりの緊迫。思わず掛け声をかけたくなります。第二部にはいっては大司教が芝居仕立てでイワンをいさめようとするとこや、ラストの暗殺など、いい。演劇の儀式性を感じた。こういう方向にリアリズム離れをしようとする流れがあったんだな、と知るのは嬉しい。これをズーッと延長していくと、案外パラジャーノフなんかにつながるのかな? 権力とは何ぞや、いうテーマもあるんだけど、何しろ未完成作品なので、触れないでおくのが誠実でしょう。
[映画館(字幕)] 7点(2013-07-26 10:34:52)
12.  怒りの河 《ネタバレ》 
西部開拓史の情景が網羅されている。幌馬車の旅、外輪船のゆったりとした航行、馬が川辺を走る水しぶき、あるいは、ポーカーテーブルや酒場での不意の銃撃、インディアンの襲撃を予想させる鳥の鳴き真似。つくづく西部劇ってのはあの国の神話なんだと思う。旧約聖書的な、家畜も連れての新天地を求める旅になぞらえていて、自分たちが原住民を迫害しているなんてちっとも考えてない。「改心したならず者」が「改心しそこなったならず者」を懲らしめる世界観が貫いていく。立ち直る側には農業のコミューン(地道)があり、立ち直らなかった側にはゴールドラッシュの誘惑(軽佻)がある。映画見てる間は、この旧約聖書的世界観を受け入れておこう。このコールの内心が不明なあたりがドラマとしての緊張になっている。そもそも首を吊られそうになっていたコールを主人公が救ってドラマが動き出す。その後主人公の危機を救ってくれたかと思うと変にふてぶてしかったり、この男は改心したのかどうか、というJ・スチュアートの内面の期待と疑念が交錯するドラマになっているわけだ。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2013-05-31 09:46:14)
13.  いばら姫またはねむり姫
岸田今日子の奇妙な童話が原作。「眠りの森の美女」の新解釈もの。情熱に突き動かされて、うつろになってしまうってところが監督の好きな女性像なんだ。息を荒げている人形ってのがけっこうエロティック。つまりこの人は人形にふさわしくない「過剰な情熱に翻弄される女性」ってのが好きなのよね。それを無表情な人形のなかに封じ込めることに、妖しい悦びを感じてしまう人らしい。けっこう不健全なんだ。そもそも人形を動かして悦びを得る「人形アニメーター」ってのに、変態の要素があるんだが、子どもの遊び初めは、だいたい手で持って動かす人形遊びなのではないか。人形とは、ただ眺めるものでなく、「動かないはずのものを動かす(アニメートそのもの)」悦びの最初の道具なのだろう。変態の目覚めとして。
[映画館(邦画)] 7点(2013-05-20 09:55:47)
14.  いとこ同志 《ネタバレ》 
うまくいく奴とうまくいかない奴の話。うまくいく奴にとっては何でもないことが、うまくいかない奴にとっては大障害であったりする。それぞれの人生ってことで、しょうがないの。“ヌーベルバーグ”と構えていた想像よりは、しみじみしたいい映画でした。まじめ男が初めて思い切った行動に出たのは(ロシアンルーレット)不発に終わり、彼の命は「うまくいく奴」の遊戯の中に終えられてしまう。このバックに延々とワーグナーが流れることで、つまらん事故が荘重な運命悲劇の様相を帯びるんだ。神話のなかの兄弟の相克って感じで。なぜピストルに弾が入っていたのかを理解していく長回しが素晴らしい。
[映画館(字幕)] 7点(2013-03-11 09:45:39)
15.  生きてゐる孫六
この監督は基本的にバタ臭いところがあるが、これなんか戦争中の作品なのに骨組みはすごくアチラ風で、込み入っていた人々が、ラストでパタパタと片付いていくウェルメイドな手際の良さが見事。立派な青年や将校たちにリアリティが欠けるのは、時代がら仕方なかろう。陰気な家と青白きインテリの描写がいいんだ。婆さんの鉦の音が神経を逆なでするようにチンチンと持続する効果。あの戦時下、「お国のために」で良いものもずいぶん失われたが、なかなか壊れなかった旧弊なものも壊すことが出来た。木下さんはそっちの気分に寄ってる人だったろう。戦後の『遠い雲』などでも、古い家の厭らしさは繰り返しテーマとされる。あの戦争に対する肯定否定以前に、旧弊なものへの反発が一番根っこにあったモダンボーイだったのだと思う。監督二作目だがこれが初のオリジナルシナリオ。彼の得意な地方舞台のコメディだ。土地の由来を描く冒頭の戦国時代の合戦シーンはずいぶん金掛けてたようだが、ああいう勇壮なシーンがあると国威発揚の特別予算でも当局から付いたのかな。武田信玄も出てくる(ドラマそのものはあくまで現代劇よ)。数少ない彼の時代劇映画の『笛吹川』にも、先代の勘三郎が武田信玄で出てたっけ。
[映画館(邦画)] 7点(2013-01-18 10:02:18)
16.  鰯雲
成瀬のフィルモグラフィーにはときどき変種が紛れ込んでいて、おやっとさせられる。戦前にはプロレタリア作家徳永直の『はたらく一家』を映画化しており、その「おやっ」という違和感を成瀬の世界にしていく面白さがあった。ときに「合わないだろう」という脚本家と平気で組んで(会社の方針には逆らわない主義なのか)、菊島隆三脚本の『女が階段を上がるとき』を代表作にしてしまう。あと「合わないだろう」は、本作と『コタンの口笛』の橋本忍だ。どちらも原作ものだが、こっちは農民文学の人。都市の近郊農家の難しさとか、若い世代の農業離れの問題とか、成瀬的とは言えないテーマである。そのなかから「滅ぶものの唄」を引き出していく。鴈治郎が淡島千景に「みんなあんたの言ったとおりになる」とぼやくあたり、農民文学のなかから成瀬的なものが匂いたつ。土地の相続の問題、土地を平等に子どもに分割していったら、農業ってものが成り立たなくなっていってしまう、というけっこうシビアな問題も見据えている。「自分の生き方が現代と合わなくなってきている、でもそういう生きるしか道がない」というこの時代の農業従事者の苦衷が、成瀬的に、ということは半分諦めながら、しみじみと伝わってくるのだ。
[映画館(邦画)] 7点(2012-11-18 09:21:46)
17.  E.T. 《ネタバレ》 
前半家庭内の部分がいい。ボールが投げ返されてきたり、ママといろいろすれ違ったり、たんすの中でぬいぐるみ人形と一緒に隠れてるのなんか最高。でもエリオットが学校に行って、E.T.との心の交感があらわになってくると、映画に不純なものが混じってくるようで、新鮮さが失われていく。心理学的な解釈が入り込んでくるというか、『未知との遭遇』までは感じられた「新しいもの」の感触が遠のいた。あっちにはあった臨場感が薄れてしまった。科学者たちが『未知…』ではこちら側の人間だったのが、これではあちら側に回ってしまって、大人が均一のノッペリした存在になってしまったからだろうか。子どもっぽい大人と、子どもとでの違いなのだろうか。いえね、けっして悪い映画じゃなくて、自転車が飛ぶときの爽快感はやっぱり見事だし(『ダンボ』?)、「人を見たら泥棒と思え」という話より「よその人には親切にしましょう」って話のほうが気持ちいいし、そういうのが甘い理想だとは思わないんだけど、なんちゅうか、以後もスピルバーグ映画にときどき現われてくる「子どもへの過剰な擬態」が、初めて気になった作品ではあった。
[映画館(字幕)] 7点(2012-06-01 09:58:46)
18.  イースター・パレード
ミュージカルシーンとしては、冒頭のおもちゃ屋とか、ステッキ持ってのスローモーションとか(ステッキの回転が美しい)、アステア一人の場に見どころ多し。それにしてもこの人は燕尾服が似合う。二人が成功を収めた乞食のダンスは、それほどだったかしら。かえって最初の下手なときのほうが、見事な芸になっていて堪能できた。首を絞めちゃったり、腕のヒラヒラでアステアの顔隠しちゃったり、止まるきっかけが分からなくなっちゃったり。戦前のロジャースとの『有頂天時代』でも、アステアがわざと素人のふりをする、ってのがあったけど、こういうのがミュージカルのひとつのパターンとしてあるな。別れた相棒を見返してやるつもりがいつのまにか…、若い男への恋心もいつのまにか…、と主人公同士の愛が育っていく展開。ラストが贅沢で、ほんのわずかなシーンのために時代を再現しきっている。CGでない時代。邦画だと、こういう場面を作ると「金かけたからじっくり見てってください」と、長々と未練たらしく映すが、サラッと見せて幕にしちゃうのがイキ。
[映画館(字幕)] 7点(2011-09-07 10:12:44)(良:2票)
19.  錨を上げて
ケリーの調子のよさ・プレイボーイ風とシナトラの弱気との対比。そしてアメリカ映画は、調子のよさのほうを最終的には肯定していく。くよくよするシナトラはあくまで脇。全体を覆うのはなぜかラテンの雰囲気で、「ジェラシー」あたりから入り込んできたのか。とにかくラテンは調子がいいから。話的にはもつれる四人の心の動きが見どころになってる。ミュージカルとしては、姫と山賊のナンバー。俯瞰で窓辺から見下ろす姫の視線で始まって、ラテン風の踊りがあり大袈裟に跳んだり滑り降りたりして現実の二人の抱擁に至る、っての。去ったあとの赤い床に赤い花。この時代のギトギトしたカラーがなぜかいいんだ。真赤な唇に真っ白な歯。そして真赤な花。あくまで人工の色彩で、世界全体のリアリズム離れをうまく誘ってくれてる。普段のようだが普段じゃない世界。おっと忘れてならないのは、やや強引な挿話で、「トムとジェリー」のジェリーとタップダンスするとこ。手をつないでいるところでは、ちょっとジェリーの腕が伸びすぎちゃってた。二人並んで踊るってのが基本なんだろうな。重なるとき美しいから。
[映画館(字幕)] 7点(2011-08-17 10:08:18)
20.  一年の九日
『野獣たちのバラード』の監督。原子物理学者が放射線に汚染されつつ戦う姿に感動せよ、というのがおそらく当時のソ連の公式の見方。それを越えた味わいとして、興奮の瞬間とそのあとの倦怠、ってのがある。実験の高揚、秒読みとオシログラフ、しかしそれも繰り返されていくうちに、日常の背景音になってしまう。ラジオを聞きつつ、タバコをくゆらしつつ。結婚もそう。放射線を浴びてることを知って、ある種の献身的高揚から結婚するリョーリャ。その高揚も、しだいに日常の中に溶けていってしまう。どんな興奮も倦怠に移ろっていってしまう。あっさりとしたセットの空白が印象的。研究所と対比されるのが、いかにもロシア的な田舎で雲がすごい。ラスト近く、病みながら研究所へ歩き出すシーン、ここにあるのは倦怠の対極の充実。驚いて立ち止まる仲間たちを、後退移動で眺めつつカメラは上昇していく。科学における悲観論と楽観論の戦い、と見るか。あるいは大衆論もあるか(「馬鹿は間違わない」でしたっけ?)。とにかくソ連の映画は言いたいことを率直に言えない環境で作られてるから、味わいも複雑になる。これを観たときは「チェルノブイリを知ってから見ると複雑」とノートしているが、フクシマを知った今、見直してみたい。
[映画館(字幕)] 7点(2011-08-12 09:51:06)(良:1票)
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