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やましんの巻さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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コメント数 731
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自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


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人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


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1.  J・エドガー 《ネタバレ》 
自分の自叙伝を口述筆記させる冒頭に始まって、この映画は、FBI長官だったエドガー自身が語る歴史的な「事実」と、彼が決して語ろうとしなかった人生の「真実」とを合わせて描き出す。たぶん脚本家としては、この20世紀アメリカを代表する人物のひとりの、その“虚実”の皮膜をこそ浮き彫りにしたかったんだろう。そんな「事実」の“嘘”をそれこそ露悪的なまでに暴き立て、「真実」の“醜悪さ”を白日のもとにさらすことで、「J・エドガー」という人物の〈実像〉に迫り得るのだと。  けれどイーストウッドは、主人公の、そこにある虚や実などほとんど関心がないかのようなのだ。エドガーによるFBI創立や発展にいたる「事実」も、母親の抑圧的な愛情ゆえの複雑な内面や、かたくなに認めまいとしたホモセクシュアルな性向という「真実」も、ただ映像において“等価[フラット]”なものとして見せてしまう。その結果、ひとりの人物像を通して現代アメリカ史を物語る叙事的な「歴史映画」としても、偶像視された人物像のその特異な人間性を追った「伝記映画」としても、どこか曖昧な印象を与えることになったのは否めないだろう。  そう、いつの世でも精いっぱいの虚勢をはって生きざるを得なかった主人公の生きざま、その卑小な生を、映画は否定も肯定もせず、ただそのものとして映し出す。だがそれにより、観客はいつしかそんな“みじめさ”こそがこの男にとって生の所与であり、ひとつの過酷な「運命」、あるいは絶望というかたちでしかあがらえない「原罪」であることに思い至るだろう。その時、エドガーもまた極めて「イーストウッド的」な人物に他ならないのだと。  その上で、前作の『ヒア アフター』がそうであったように、イーストウッドはここでも「救済」を用意する。それは、生涯にわたって彼を支え続けその死後も彼を守り抜いた個人秘書ヘレンと、副長官クライドという2人の“守護天使(!)”の存在だ。とりわけクライドとのそれは、男同士の“老いらくの恋”という以上に穏やかさと慰安に満ちたものとして、とりわけ感動的だ。なるほど、エドガーの人生は哀れでみじめなものだった。が、そのラストに流されたクライドの涙と、ヘレンのとった行動によって、その最期の最期で「救われる」のだーー彼はじゅうぶんこの世界で「愛されていた」のだ、と。・・・この映画が用意したその“優しさ”の、何と美しく感動的なことだろう。
[映画館(字幕)] 10点(2012-04-28 13:34:56)(良:3票)
2.  地獄の女スーパーコップ<OV> 《ネタバレ》 
先ほど、『小さな恋のメロディ』のコメントを書いてたら、この映画のことを思い出した(理由は・・・問わないでください・笑)。正直なところ、確かに見事なくらいツマラナイ映画なんだけれど、同じトレーシー・ローズ主演=チャールズ・T・カンガニス監督のコンビによる『クライム・To・ダイ』なんかも見るにつけ、ちょっとした興趣をそそられなくもない。というのも、本作にしろ『クライム~』にしろ、とにかく“男”がどこまでも貶められ、唾棄され、挙げ句の果てに惨めな最期を迎えることで共通しているのだ。  この映画では、ローズ嬢が演じるタフな女刑事(には全然見えないけれど、おちょぼ口をトンがらせて精いっぱいタフぶってます。愛おしいです)をめぐって男ふたりがさやあてを繰り広げるのだけれど、いずれもが終盤あっさりと殺されてしまう! その唐突さは、ドラマの意外性を狙ったというより、どこか“男性憎悪(!)”めいた異様さを感じさせるんである(そのあたりは、もう1本の『クライム・To・ダイ』でさらに過激かつ徹底して表面化している)。そこに、元ハードコア・ポルノ女優であるローズ嬢と、同じくポルノ映画監督だったカンガニスにおける一種の“意趣返し”を見てとることはできないだろうか。  女性を商品(=モノ)化し「消費」することで成立するハードコア・ポルノ出身の女優と監督のコンビが、今度は男どもを単なる「消耗品」扱いする映画を撮る。そのことに、彼らは間違いなく自覚的だ。それはまるで、ご立派ぶっているものの、ひと皮むけば同じような“女性嫌い[ミソジニー]”な社会的伝統を暗に通底させた「アメリカ映画」への、最底辺からの皮肉であり批判であり嘲笑とすら思えなくもない。オマエらの撮る映画にしても、オレたちと結局同じじゃないか、と。そう考える時、この単なるC級アクション映画は、過激な「フェミニズム的」作品とも、メジャー作品への痛烈なアンチテーゼとも見えてくるだろう。  ・・・と、かつてトレーシー・ローズを愛した者としては、無理やりでも理屈をこねまわして、本作を前に感涙にむせぶのであります(笑)。   (点数はあくまでも個人的な思い入れゆえのものです。念の為。)  《追記》 とは言え、やはり「8」はないかな・・・と1日たって反省&自粛し、泣く泣く「5」ということで。スミマセン!
[ビデオ(字幕)] 5点(2011-07-23 18:08:18)
3.  しあわせのかおり 《ネタバレ》 
映画の冒頭、ガスコンロに火がつく「ボッ」という音にはじまって、食材を炒める、揚げる、煮る、蒸すといった音が、調理する光景とともにーーいや、それ以上に音こそが強調されてぼくたち観客をとらえる。そしてその中華鍋をおたまで攪拌する音、中華包丁で刻む音の、何というリズミカルな響き・・・。そんな音たちの連なりの果てに、眼にも鮮やかで艶やかな料理が画面いっぱいに映し出されるのだ。  そう、料理を創ること・食べることが半分近くを占めているこの映画は、そういった「料理」を“音”によって表象する。いかに見事な音を奏でるか、それが料理それ自体の映像に、官能的なまでの〈美味しさ〉を与えることになるというわけなのである。・・・結局のところ映像は、料理の味も匂いも伝えることができない。けれどその官能性を、一種の「音楽」として聴かせることは可能だろう。音が創り出され、そのリズムやハーモニーが結果として料理を、その〈美味しさ〉を産み出す。本作が単なる「グルメ映画」と一線を画すのは、これがむしろ“音と音の響きあう”映画、まさしく「音楽映画」であるからにちがいない。  たとえば、藤竜也が演じる料理人の王さんは、その「音楽」を見事に奏でることで「名人」であることを体現し、我々を納得させるのだし、中谷美紀による主人公は、はじめはたどたどしかった“音”が徐々に「音楽」となっていくことで、料理人としての成長を実感させる。・・・クライマックスとなる食事会。それぞれ夫を亡くしたシングルマザーと妻と娘に先立たれた孤独な料理人であるふたりが、二人三脚で“ひとつの「音楽」”を創り出す料理場面は、中華鍋をふるう所作ひとつをとっても、これが一種の“ミュージカル映画”でもありうることをぼくたちにハッキリと見せつけてくれるだろう(その食事会の終わりに歌われる「ホーム・スウィートホーム」は、だからそういったふたりが奏でる「音楽」への“返歌”としてあったのだ)。  まるでホウ・シャオシエン監督の『戯夢人生』や『フラワーズ・オブ・シャンハイ』のような、沈黙と、ひとつの乾杯で締めくくられる長いワンカットのラストまで、この一見つつましい、およそオリジナリティを主張しないかのような「地味」な映画が、実は最近の日本映画のなかでも最も「滋味」豊かなものであること。そのことこそを、ぼくは高く、高く評価したいと思う。
[試写会(邦画)] 10点(2010-09-01 17:59:32)(良:1票)
4.  心臓が凍る瞬間(とき)<TVM>
とにかく我が最愛のジェニファー・ルービン様が出演しているだけで、しかもニューロティックなキレまくり演技に感涙。映画も、B級スリラーでありながらどこか『ベティ・ブルー』していて、「精神異常であるのはわかっていても、俺のことを“好き”と言ってくれたのは彼女だけだったんだ。俺はそんなアイツのためなら何だってする!」というディラン・マクダーモットにナミダ…。彼とル-ビン様の「ニューロティックな“ボニーとクライド”ぶり」は、ベネックスのご本家よりもある意味哀しく忘れ難いものがある。ジェニファーと言えばコネリーよりルービンな世の皆様(果たしてどれくらい存在するのか…)なら、彼女の出演作のなかでも最高傑作のひとつという小生にきっとご賛同いただけるハズ!  どなたか、「JR友の会(って、何か鉄道マニアの会みたいだな…)」を創りませんか? 《追記》久しぶりにビデオで再見。やっぱりこれ、低予算のTV映画風でありながら実に良くできた小さな“大傑作”だと再確認しました。ジェニファー・ルービンの“壊れっぷり”と、それゆえの倒錯的美しさにウットリ・・・。誰もあまり見てくれない(というか、コメント書いてくれない)んで、ええいっ! と、点数を「8」から「10」にしちゃいます。個人的には当然の満点映画なんで。
[ビデオ(字幕)] 10点(2009-06-13 12:56:58)
5.  死霊の盆踊り 《ネタバレ》 
・・・たぶん作り手たちの主眼は、まだ当時メジャーの作品では御法度だった女性のハダカを、これでもかこれでもかとスクリーンに映し出すこと、それに尽きるものだったはずだ。その点では、堂々10名ものダンサーを次々と“競艶”させる大サービスぶりこそ、彼らが考える本作の「商品的価値」だった。つまりこれは、あくまで「プレイボーイ」誌なんかの映像版、“動くヌード・グラビア”のはずだった。  ただこの映画は、単なるストリップショーのライブをフィルムにおさめるのではなく、あくまで“劇映画”としての体裁をとってしまう。それゆえ「ハダカを見せる」だけ以上の付加(負加?)価値を求められることになり、そっち方面でのあまりの低レベルぶりが、本作を「史上最低の駄作」ということで、良くも悪くもカルト化させてしまったのだった。しかし、どうしてただのストリップ映画が「ホラー」(と、言えるならだが・・・)であらねばならなかったのか? そこにぼくは、原作・脚本・共同製作エド・ウッドの映画への“愛”を見たく思うのだ。  映画の冒頭近く、三流小説家の男が婚約者に「他は全然ダメだけど、ホラー小説だけは売れるんだ」と自嘲気味(にしては、ちょっと得意気)に語る。あきらかにあれは、ウッド自身の投影であり、彼の心の声だろう。そしてウッド映画のお馴染みクリスウェルが口にする大仰でバカバカしい(だが、いたって大真面目な)与太からもまた、ウッドの「ホラー」ジャンルへの自負やら思い入れが伝わってくるじゃないか。ここに欠けているのは、そういう「(ホラー)映画への愛」を表現するための演出であり、スタッフであり、役者たちであるだろう。逆に言うなら、ここには「愛」(と、女のハダカ)だけがあって他には何もないのである・・・。  それでもぼくは、ここでのブーイングと失笑の嵐(と、一部の“倒錯”した絶賛)にもかかわらず、この作品の徹底した「無意味さ」と、それゆえ透けて見える「エド・ウッド魂(!)」に、ひそかなエールをおくることにしよう。【はちーご=】さんも書かれていたと思うけれど、あの政治的・社会的に混沌とした1960年代半ばにあって、ここまで「無意味」に徹しきれることもひとつのラディカルさに他ならないのだし。だから、点数は「0」でも、個人的には「10」です。あしからず。
[ビデオ(字幕)] 0点(2009-05-25 17:13:51)(良:5票)
6.  16ブロック
ニューヨーク市警の刑事で、どうやら離婚経験者である主人公。それを演じるのがブルース・ウィリスとくれば、誰だって『ダイ・ハード』シリーズを思い浮かべるだろう。事実この映画には、今は酒におぼれる自暴自棄な日々を送るジョン・マクレーン刑事の“後日談”めいた雰囲気がある。これを、シリアスに撮られた『ダイ・ハード4』だとすら言っていいかもしれない。  しかしあのシリーズが、<刑事もの>というジャンルを超えて、どんどん「見せ物(スペクタクル)性」をエスカレートさせていったのに対し、『16ブロック』は、あくまで<刑事もの>というジャンルにとどまり続ける。警察内部の腐敗や、護送中に心の絆がうまれる犯人と主人公の刑事といった、この手の映画の約束事というか定石を律儀なまでに踏襲していくのである。  それゆえこの映画は、一見すると地味で派手さに欠けた「普通」の映画、ひと昔もふた昔も前によくあった感じのありふれた映画にすぎないようにも思える。けれど、けれどそれは、作り手であるドナー監督自身によって意図的に選びとられたスタイルであり“戦略”に他ならない。わざと色調をおさえたトーンの荒い画面にしても、まさしく1970年代の映画のようなテイストをめざされたものであるだろう。ドナー監督は、あえて<ジャンル>に忠実というか自覚的な映画を撮ろうとした。何故か? たぶん<ジャンル>こそが、“映画が「映画」として成立する規範”であると、彼は信じているからだ。  CGの登場、あるいはルーカス=スピルバーグの登場によって、映画は<ジャンル>を逸脱することによる新たな「見せ物性(スペクタクル)」を開拓してきた。しかし一方でそれが、なんでもありの、「今まで見たことのない映像」を競うことの自堕落な増長を招いたことも確かだろう。だからドナーは、CGによる見せ場も、非現実的なアクションも禁欲(あの『リーサル・ウェポン』の監督が、だ)することで、あえて<ジャンル>への意識に満ち満ちた本作を撮った。映画そのものを、「アメリカ映画(!)」を“とりもどす”ために。そのことが、かろうじて「1970年代の(アメリカ)映画」にふれることができた年代の観客にとって、何より感動的なことなのだった。  そう、映画なんて、たとえば小道具に“小型ボイスレコーダー”ひとつあれば、充分なのだ・・・   
[映画館(字幕)] 10点(2007-08-27 17:43:35)(良:3票)
7.  シンデレラマン
どんなに食うに困っても、子供が食べ物を盗んだら叱ってそれを返しにいく。妻や子供との約束は、たとえ物乞いをしてでも守り抜こうとする。妻子のため、それ以上に親友であるプロモーターのために、命がけの試合に臨もうとする…。  ロン・ハワードの映画は、いつでも〈道徳的〉だ。どんなに混乱し、汚辱にまみれた社会や世界にあろうとも、彼の映画の登場人物たちは、自分のため、愛する者たちのため、信じることのため、懸命にひたむきに生きよう、生き続けようとする。そしてその生きざまは、最後には必ず「報われる」のだ。それを、キレイごとに過ぎるだの、甘いだの、だから面白くないだのと批判したり嘲笑するのはたやすいだろう。けれど、父親が「約束する。決してお前たちをよそにはやらない」と言ったとき、それまで心の奥底に“捨てられる”不安を隠していた子供が父の腕に顔を埋めて泣くシーンの美しさは、常に〈道徳的〉であろうとする者たちだからこそではないか。その美しさをにすら何も感じず、あざ笑う向きがあるのなら、ぼくはその狭量さこそを不幸に思う。…「キレイごと」を信じなくなったときから、この世の中はこんなにも生き難いものになってしまったのではなかったか?   そしてロン・ハワードは、決して登場人物の内面や感情を大げさに、分かりやすく描こうとはしない。彼はきっと映画というものが、ひとつの微笑、ひと粒の涙、まなざし、沈黙、…そういったほんのちょっとしたしぐさや表情をていねいにすくい取ることだと信じている。もちろん迫力あるボクシングシーンなどの見せ場(スペクタクル)も用意しつつ、どのように撮れば人物たちの心の機微が映し出せるのかに全力を尽くす(だから、彼の映画に出演する役者たちは誰もがあれほど魅力的なのだ)。カメラの位置も、照明も、美術も、すべてがその一点において最も的確であるように“演出”されているのだ。それが、ハワードにとって、映画を撮る〈倫理〉だ。彼は決して映像の「詩人」ではないだろう。けれど間違いなく、ドラマにおける最良の「演出家」である。  物語における〈道徳〉と、映画における〈倫理〉を決して見失わないこと。そこからうまれた本作が現代にあって「最高の映画」であることを、ぼくは確信している。
[映画館(字幕)] 10点(2005-10-05 13:25:19)(良:2票)
8.  地獄のハイウェイ
『ミスティック・リバー』や『L.A.コンフィデンシャル』、世間的には評価イマイチなれど、小生にはこれまた見ン事な“仕事”ぶりであると確信する『ポストマン』と、小説の映画用翻案にかけては当代きっての才人ブライアン・ヘルゲランド。でも、自分で監督すれば『ペイバック』に『ロック・ユー!』と、なぜかオフビートな「怪作」を嬉々として撮る、このキテレツな男の初期シナリオ作品です。で、案の定というか、いかにもB級ホラー風の原題・邦題とは裏腹のハチャメチャなコミカル・ファンタジー! ハネムーンの途中、真夜中のハイウェイで地獄から来た警官に新妻をさらわれた男の冒険が、テレビのバラエティ番組のコントみたいな感じでゆる~く描かれるというもの。主人公は彼女を救出すべく地獄に向かうのだけど、そこはどうみてもアリゾナあたりの砂漠。そんな中に、いきなりヒットラーが登場したりする脈絡のなさはほとんどアメリカン・コミックの世界だけど、様々な「都市伝説(フォークロア)」を飽きることなく産み出すアメリカの「社会心理学」的というか、精神的土壌(!)のカリカチュアをめざそうとしたフシが、随所に窺えるあたりやっぱりヘルゲランド節(つまり、こういう“深読み”ができるってことが)であります。重要なわき役でリチャード・ファーンスワースが出演していたり、主演であるロブ・ロウの弟のチャド・ロウも、クリスティ・スワンソン(キュート!)も、本作のC調なノリにぴったりで悪くない。これでもう少し監督に、脚本のオフビートなセンスを活かす腕があれば…と惜しまれるものの、深夜放送でひょいと出会えたなら、それなりに楽しめるのではありますまいか。《追記》あ、あのヒロインは恋人で、まだ結婚してませんでしたか…。ともあれ、久しぶりに見直してみたくなりましたよ。【なにわ君】さん、感謝! です。
[地上波(吹替)] 6点(2005-05-10 19:07:37)
9.  新ドイツ零年
主人公のレミー・コーション(主演のエディ・コンスタンチーヌは、ゴダールの『アルファヴィル』でもこの“レミー・コーション”役を演じている。そこでは「探偵」として、だったが)は、東ドイツに何十年も潜伏していた西側のスパイ。しかし社会主義体制が崩壊し、東西ドイツが統一されたことで自らの「存在理由」を喪い、かつて自分が属していた[場所(=世界)]へ戻ろうとする…。  この映画を見て、まず何よりも鮮烈に印象づけられるもの。それは、主人公の「孤独」の深さだろう。かつて『アルファヴィル』において、「言葉=思考」を人々から奪い絶対的服従を強いる全体主義世界を破壊し、アンナ・カリーナ扮するヒロインとともにさっそうと車で画面から消え去っていったレミー・コーション。その“英雄”がここでは、まったく役立たずの老スパイとして登場する。しかも、その任を解かれた今となっては、彼という「存在」はまったくの無に等しい。これまでの何十年かが、ベルリンの壁が消え去ったのと同時に“零”となってしまった。もはや彼は何者でもなく、何物も持ってはいない。その深い、深い「孤独」こそが、本作のトーンを決定している。  実際、この映画は1980年代以降のゴダール作品にあって、最も沈鬱で、内省的で、夢想的だ。レミー・コーションの独白(モノローグ)は、そこで何が語られているかではなく、その言葉がどこへも行きつかず、誰によっても受け止められないことの悲哀によってこそ「意味」を持つだろう。彼は、車ではなく徒歩によって移動する。おぼつかない足どりで、凍った湖を渡り、息をきらして道ばたにへたり込む。その歩みに過去の映画の断片や歴史的映像がコラージュされる時、映画は、この老いた男こそがドイツの、ひいては西欧の「歴史」そのものの[アレゴリー(寓意)]であると観客に示そうとしているのだ。東西ドイツの統一に湧く当時にあって、そっと西欧の“黄昏”を奏でるゴダール。だからタイトルの「零年」とは、“終わりの始まり”を意味するのに違いない。  そしてそういったこと以上に、ここにはゴダール自身の心情が、その「孤独」が、これまでにないほど吐露されているのだと思う。…映画の中で、「帝国は唯一であることをめざし、人は二人でいることを夢見る」というような台詞があった。「孤独」を定義するのに、これほど美しい言葉をぼくは知らない。
[映画館(字幕)] 10点(2005-04-01 13:04:34)(良:3票)
10.  市民ケーン
映画に「革命」を起こしたと言われる本作ですが、ここのレビューでは結構シビアなコメント&点数の方も多いですね…。確かに60年以上前の作品を今初めてみる時、ぼくたちはいろんな情報だの先入観だのにとらわれすぎて、逆に作品そのものが見えにくくなっているかもしれない。だから「どこが映画史上の最高傑作やねん!」と反発したり、「古臭いだけじゃん」と思ったり、「やっぱりパンフォーカスの映像や、ち密な構成など、古典的名作はスゴイっ!」と知識の後追いで満足したり…と、ちょっと映画そのものから離れて評価が下されすぎるんでしょうね。(それにしても、ざっと他の方のレビューを拝見していたら、途中になにか論争めいたコメントがチラホラ…。何があったのかなあ。その「発端」となったコメントは削除されたんでしょうか? なら、ちょっと残念な気も…)。あ、前置きがいささか長くなりました。ぼく個人は、「今見ても十分に面白いやん!」と、そのたたみかけるようなテンポとハッタリ度満点なセット、若きウェルズの堂々たるカリスマ的演技に、感心させられました。ただ、オーソン・ウェルズ作品としては、『オセロ』や『黒い罠』の方こそを圧倒的に評価する者なので…。いやぁ~、映画(の評価)って本当にムツカシイですねっ! 《追記》蛇足めいて恐縮ですが、この作品でウェルズが駆使した映像手法は、例えば「パンフォーカス」にしても決して彼の「独創」ではありません。すでにジョン・フォードやウィリアム・ワイラーといった監督が、部分的にしろ本作以前に試みていたいたものです。ウェルズは、それらの作品の撮影監督だったグレッグ・トーランドを起用することで、先人たちの手法をより徹底化した。そういった意味において、ウェルズの「天才」をやみくもに賞賛するんじゃなく、この「若く才能にあふれ野心的な」新人監督にふさわしいデビュー作だとぼくは評価したい。そして、これが「映画史上の最高傑作」とおっしゃるぶんには異論はなくても、ウェルズが「これ1作のみ」みたいに言われる向きには断固反論したいです。ウェルズは、本作の後にも素晴らしい映画を撮った。ある意味、このデビュー作以上に真に「天才的」な映画だって何本もあるんだ…と。 彼のキャリアは、この1本で「終わった」わけじゃない。そういった意味も込めて、ぼくは「8」評価にしました。
8点(2004-10-04 16:51:58)(良:5票)
11.  少年(1969)
強い者が弱い者を虐待・搾取し、虐待・搾取された者は自分より弱い者を虐待・搾取し…。延々と繰り返されるこの関係性が《権力》の構図だとするなら、その最底辺に「少年」がいる。  親に「当り屋」を強要され、逃げ出して故郷の祖母のところへ行こうにもお金がなくなり、見知らぬ町でひとりぼっちで泣く少年。自分が稼いだお金なのに、父親から「好きなものを食え」と言われても一番安いメニューをおずおずと選ぶ少年。いじめられている子に声をかけようとしたら、その子に、大切にしていたジャイアンツの野球帽を泥水に叩き付けられた少年。幼い弟に、「いつかアンドロメダ星人がやって来て、ぼくたちを地球から連れていってくれるんだ」と何度も何度も語りつづける少年。…  大島監督がこの作品に託した「国家」と「権力」という観念的なテーマ以上に、あまりにも理不尽な“受難”を受け続ける少年の心の痛みが、見る者の心にも突き刺さる。それは「いじめ」や親の虐待といった、今日なお切実な問題をぼくたちの前に突きつけてくるだろう。が、何よりもこの少年のつらさや悲しみの深さが(↓の方も書かれている通り、少年を演じる子役のあの眼差し…)、ストレートにぼくたちの心を撃つことで、単なる「問題提起」だけではない切実さを与えるのだ。  ぼくは見るたび、この映画の中の少年に涙する。しかし、それは決して同情や憐憫からじゃない。この映画を見ている間、ぼくは「少年」そのものになっている。そう、あの少年は「ぼく自身」だ。だから少年が泣く時、ぼくも泣く。少年がこの世界に押しつぶされそうになるのをひとりで耐えている時、彼の代わりにぼくが涙を流す。…『少年』は、ぼく自身の「物語」となるのだ。 それは、たぶん、間違いなく、あなたにとっても。
10点(2004-07-28 15:11:46)(良:1票)
12.  地獄の処刑コップ/復讐の銃弾
この前、ビデオを整理していたら、以前に録画していたのを発見。で、あらためて拝見すると…。冒頭、いきなり至近距離からの2丁拳銃対軽マシンガンの大銃撃戦にはじまって、跳ぶは燃えるは爆発するは、もろジョン・ウー製香港ノワールのパクリまくり! もう、ほとんどカット割りに至るまで真似しちゃってます。さらに、主人公が殺された親友の仇を取るためトンデモな(とはいえ、『ショーシャンクの空に』とどっこいどっこいの)刑務所に潜入してからのあれこれも、ジャン=クロード・ヴァン・ダムの『ブルージーン・コップ』をいただいちゃってるし。ほんと、よぉやるわ…と違う意味で感心してしまいます。確かに猿真似としちゃそれなりに達者だし、たぶん監督あたりがジョン・ウーの『新・男たちの挽歌/ハードボイルド』のビデオを一生懸命リピートしながら絵コンテ描いてる姿が浮かんでくるあたり、微笑ましいものが感じられなくもない。けれど、もしこの映画をカネ払って見たとしたら…。作り手が自分(たち)の映画にいささかの思い入れも矜持も感じられない作品は、この手のB級映画を追っかけているファンにとってもひたすらムナシイものだと、あらためて痛感した次第です。
5点(2004-06-17 10:44:40)
13.  ジョアンナ 《ネタバレ》 
サイケでアナーキーでレボリューションでフリー(・セックス)な、1960年代スウィンギング・ロンドンにやって来た女の子が繰り広げる、“本当の「自分」と「愛」探し”。…なんて言うと、何だか当時のありがちな〈トンでる若者(笑)の無軌道な青春像〉を描いたシロモノと受け取られかねないなあ。でも、主人公のジョアンナは、たとえばロンドンという“不思議の国”に迷い込んだアリスのようでいて、実のところ、彼女の方が「ワンダー」なんだ。階級も、人種も、何もかもを超えて、すべてを受け入れるジョアンナ。恋人の黒人青年が殺人を犯しても、彼の子どもを宿した彼女はそれすら受け入れるんだから。そんなジョアンナを優しく見守るかのような映画の眼差しに、いつしか観客のぼくたちの眼差しが同化してしまう。このブッとんでいる“自然体”な女の子を、限りなく愛しく慈しんでいる自分に気づくんだ。…確かに、「好き・嫌い」がハッキリ分かれるタイプの映画かもしれない。けれど、素ッ晴らしいナンバーの数々(そう、これは一風変わったミュージカルとしても見ることができる)や、映像以上に音にこだわり、様々なサウンドトラックをコラージュしてみせる演出の「才気」も微笑ましい、これは心から愛すべき1本であります。少なくとも、ぼくの中では未だ「彼女」は輝き、生き続けている。…ジョアンナ、まだトンでるかい!
9点(2004-04-06 19:31:46)
14.  島の女
最初の方のシーンで、海から上がったソフィア・ローレンがその豊満すぎる肉体にピッチリと服をまといつかせ、あまつさえ乳首が立っているままでご登場となられた時、幼少時の小生はドキドキと我を忘れたものでした。改めて見直すと、才人ジーン・ネグレスコ監督にしちゃストーリーの退屈さを救いきれなかった感じだけど、ローレン様はやはり圧倒的で、彼女の歌う主題歌も、オジサンとなった小生をあの性春…もとい、青春時代に連れ戻してくれました。エーゲ海がどんなに美しかろうと、ミロのヴィーナスがどんなに端正な美を誇ろうと、若き日のソフィア・ローレンの前じゃ霞む霞む! 《追記》↑へちょちょさん、そうだったんですか。あれ、口パクでローレンが歌ってんじゃなかったんすか…。ガッカリしたんでついでに点数も下げようかと思ったものの、あの爆裂バディがまたもまぶたにチラついて(笑)、やっぱりこのままにしときます。それに、「海底の宝探しもの」としちゃ、やっぱりそれなりに「スタンダード」ですものね。
6点(2004-03-15 17:44:35)(笑:1票)
15.  6デイズ/7ナイツ
とっくにコメントしているつもりだったのに、漏れていたようであらためて…。ぼく的にはぜんっぜん悪くない、むしろ近年のハリソン・フォード作品じゃ上出来の部類なんじゃないかと思いますね。ここまで二枚目半に徹したハリソン君はチャーミングだったし、アン・ヘッシュは、睡眠薬でラリッた場面が超ラブリーだったし。これはあくまでアクション映画や冒険映画じゃなく、ロマンチック・コメディであって、そう考えると、あの悪党たちのマヌケぶりも、ヘッシュのボーイフレンドが島のオンナにメロメロになるあたりも、ひとつの”セオリー(お約束)”として納得できませんか? …まあ、映画の見方はそれぞれですが、ぼくは断固この映画の味方です! 《追記》TV放映でまたもレビュ-数が増えたものの、悪評だらけ! TV版は見ていませんが、何だかあまりにクヤシイので、点数上げますっ!! 何度でも繰り返すけれど、無人島に犬猿の仲なカップルが流れ着くと言った、往年のコメディ映画のパターンを踏襲しながら、ここまでファニーで「おとなのおとぎ話」風にまとめた映画のセンスを、ぼくは高く高く買う。誰が何と言っても、買いまくるっ! ハリソン、コメディセンスあるやんけ! アン・ヘッシュ、米国版“プッツン”女優なれど、めちゃイケてるやんけ!
9点(2004-02-09 15:20:48)(笑:1票)
16.  ショーシャンクの空に
フランク・ダラボン監督の映画は、その後の『グリーンマイル』も『マジェスティック』でもそうだけれど、あくまで「面白い物語をよりいっそう面白く物語る」という姿勢に貫かれている。そういう「ストーリーテラー」の代表が、例えばデイヴィッド・リーンなんだろうけど、リーンが用いる“神の視点”というか、はるかな高みからすべてを見下ろすような眼差しではなく、あくまで主人公や他の人物たちを「昔むかし、こういう奴がいてね…」風のパーソナルな語り口で語りかける。だからこそ、その映画には良い意味での「ホラ話(それはアメリカ文学の伝統でもある)」的な調子、さらには「寓話」的な調子を帯びるんでしょう(彼が好むナレーションも、そのへんに理由があるのでは)。さらにダラボンは、物語をあくまで視覚的に語ることができる。映像がストーリーの単なる“手段”に堕していない。このあたりも、大いに評価されていい。彼はたぶん天才的な映画監督というんじゃない、腕の確かな物語作家というあたりに位置付けられる監督さんでしょう。けれど、こういう監督こそが真の「アメリカ映画」の担い手だったし、これからもそうであってほしい。まあ、あまりに過大評価しすぎるのもどうか…と思いますが、なあに、本国アメリカじゃまだまだ毀誉褒貶の激しいダラボンに、遠く極東からエールを送るのはやっぱり“善い”行いです。がんばれ、ダラボン!
8点(2004-01-14 19:24:05)
17.  静かなる男
作品的評価をひとまず置くなら、ジョン・フォード監督の作品中でも最も好きな映画。緑、緑、また緑の風景の中、愛すべき人物ばかりが登場して、酒にケンカに明け暮れるこの映画の中のアイルランドは、まさに本物のユートピアじゃないか。有名な延々と繰り広げられる殴り合いシーンも、野を越え山を越え、酒場でお互いひと休みして、また再開…といった、おおらかにしてユーモラスな名場面。何回見ても、あまりの幸福感に思わず嬉しナミダがにじんでしまう、本当に本当に本当に愛すべき映画です。ハレルヤ!
10点(2003-11-17 10:35:15)(良:4票)
18.  史上最大の作戦
『プライベート・ライアン』を見せられてしまった現在の我々には、どうしてもこの映画で描かれるノルマンディー上陸作戦の一部始終が、緊迫感とリアリティ不足に思えてしまうのは仕方がない。でも、戦争映画というより、”20世紀の歴史のある瞬間の再現”というエピック(歴史もの)としては、連合国ードイツ双方の視点をそれなりに公平さをもって捉えているんじゃないでしょうか。それに、海岸線を兵士たちがうじゃうじゃ上陸するのを戦闘機からワンカットで撮ったシーンは、忘れ難い素場らしさ。戦争を賛美も非難もしない、まるでメッセージ性のないスタンスも、「ドラマのなさ」として否定する向きもあるでしょうが、スピルバーグ的あざとさの方こそにヘキエキさせられた者としてはずっと好ましいです。声高に、あるいはセンチメンタルに反戦を訴えるのは簡単だし、どんな戦争であれ肯定するのは論外だけど、この映画のような、一見アメリカを中心とした勝者の自画自賛に見えて、あくまで「再現=記録」に徹しようとするニュートラルさこそが実は難しいのだから。
8点(2003-11-13 21:25:16)(良:1票)
19.  死刑執行人もまた死す
戦時下に作られた反ナチ・プロパガンダ映画なんだけど、それ以上に、何か異様な「悪夢」めいた雰囲気に包まれた群集劇といった趣き。ナチの司令官を暗殺したチェコのレジスタンスと、その報復のために市民が犠牲になる…という暗澹たる図式はもちろん、ハイキーなモノクロ映像とめまぐるしい編集が迷宮めいた印象を与えるためか? そういう中でもチェコ市民の勇気が称えられてはいるけれど、同じフリッツ・ラングがドイツ時代に撮った無声映画『メトロポリス』の群集シーンと同じ”誇張”と”様式化”が働いているようで、それがシュールな印象を与えているんでしょう…あそこまで表現主義的とまでは言えないとしても。で、個人的にこういうオブッセショナル(偏執的)な感触が生理的にダメなんで、いかに「名作」と言われてもちょっとツライ。ベルトルト・ブレヒト(『三文オペラ』!)が脚本に関わったことへの敬意を含め、実に興味深くはあったんですけどね。
7点(2003-11-13 12:03:09)(良:1票)
20.  四月物語
「映画」として見たなら今イチ作り込み不足か…とも思わせるけれど、松たか子の「プロモーション作品」だと思えば、まあまあ満足できる(だって、ここでの彼女って、純で一途な”カントリーガール”という、男子にとって最も愛すべきキャラでしょ?)。ただ、岩井俊二って、つくづく「男の子」的視点と感性を映像に昇華するのが巧いなあ。それが最も素直に出た作品だとは言えるでしょう。同じシチュエーションでありながら、黒沢清監督の『ドレミファ娘の血が騒ぐ』とは180度大違い。見比べてみるのも面白いっすよ(笑)
5点(2003-11-13 11:08:26)
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