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1.  西部戦線異状なし(1930) 《ネタバレ》 
ドイツの話だから自由に軍隊批判を出来た、ってことより、やっぱりこれ当時の世界的ベストセラーの映画化ってことで描けたんでしょう(日本ではこの映画より先に斎藤寅次郎が『全部精神異状あり』なんてパロディを作ってる)。ペンタゴンから文句言われても、原作があるんだから仕方ない、って言える。エピソード集の形をとって、反軍のメッセージが込められたシークエンスが展開し、群像ものとしても見られる。長靴が兵士の死を渡っていくエピソードなんかいい。塹壕の中で初めて敵を殺した兵士のヒステリックに赦しを請う態度から、翌朝「戦争とはこういうものなのさ」と“正しい兵士”へ“成長”していってしまう怖さ。そして突撃シーンの壮絶、無駄に死んでいくことがただただ強調され、勇敢さは微塵も感じられない。煽り立てている教師のところに戻って訴えるシーンなぞいいのだが、この映画が作られた後にも、原作の国と映画化の国とで第二次世界大戦が起こり、さらに朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争、その他その他が繰り返し起こっていることの脱力のほうが、重い。戦争は嫌だなあ、という不快感は万国民共通のはずなのに、それがちょっと「国のメンツ」を突つかれると、たちまち「戦争やむなし」の大合唱になってしまうんだ。/確認のため年を調べたら、原作の発表が1929年で、斎藤の映画と同年だ。原作発表すぐに翻訳が行なわれ、すぐにパロディが作られたのか。それとも話題作ということで題名がまず伝わり、それだけで一本のパロディ映画を作ってしまったと考えたほうが、当時の活力あった邦画界にふさわしいな。
[映画館(字幕)] 9点(2012-09-04 12:35:06)
2.  関の彌太ッぺ(1963) 《ネタバレ》 
長谷川伸の名作のうち本作は、時を置いて主人公が「すさむ」パターンが「一本刀土俵入」と共通しており、その「すさみ」のために思い出してもらえないほど人相が変わっているという話のツボも一緒。長谷川伸の一番お得意の展開なのだろう。本映画の場合、ちょうど錦ちゃん自身が、前期の明朗な役柄から後期のニヒルな役柄に移る時期と重なったことで、すさむ前とすさむ後と、どちらも無理なく演じられた。基調にあるのは、どうせヤクザもの、という「かたぎ」に対する疚しさ。それは甘えの裏返しかもしれないが、その「すさみ」のなかに「真情」を光らせる。彼の目に映るかたぎのなごやかな家庭は、いつも額縁に入ったように垣根の向こうに見えてくる。曇天の墓参りの場や暮れ六つの鐘が鳴り渡るラストシーンなどロケも美しい(あれ七つ鳴っているのを今回発見した、最後のひとつは弔鐘なのか)。あるいは妹について知らされている岩崎加根子との場で、ゆっくりゆっくり近寄っていくカメラ。それと本作で大事なのは木村功で、気のいい小悪党の悲しみを演じて非の打ちどころがない。前半の屈託のなさが、後半の自分の恋情に突き動かされる弱さに自然につながっている。結婚してかたぎになろうとしている。そのために亭主には頭を下げ、ならぬとなれば一度は引き下がろうと旅支度までしている。やくざものとかたぎとの敷居の高さに阻まれた絶望が荒れさせたのだ(この作品で敷居を越境できたのは、けっきょく悪党の娘からかたぎの娘となったお小夜だけで、弥太郎は、悪の川にさらわれてそのまま苦海へと越境できずに流れ去った妹の代理として、自ら川から救い上げたお小夜の越境だけはなんとしても守ろうとしたのだ)。木村功の最期は「いっそ尊敬するアニイにどうにかしてほしい」と願ったゆえのものなのか。かたぎでない者はみな自死のように、それぞれの死に場所へ向かっていく。この「すさむ」ことの美意識は現実世界では危険なものでもあるが、それをスクリーンという額縁の中でぎりぎりまで磨き尽くした本作の成果には、ただただうっとりさせられる。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2011-05-21 09:58:15)(良:3票)
3.  セブン 《ネタバレ》 
ちょうどこれを見たのがオウム真理教事件の余熱まだ冷めやらぬころで、ケヴィン・スペイシーがオウムの“科学技術省長官”村井秀夫(路上で殺された人)にすごく似て見えた。なんか口もとがそっくりだし、とにかく雰囲気、彼らがかもす気味悪さが根元的に共通していた。当時やたらにテレビに登場したオウム関係者は、教祖も含めてほとんど俗物に見えたが、村井氏だけはもう完全にどっかにイッチゃってる感じがあった。あの現実を否定しきったものの安定が、この犯人にもある。この映画がいいのは、犯人と刑事のモーガン・フリーマンが鏡像関係になっていることで、どっちも現実のひどさにうんざりしていて、その結果、犯人は中世的な裁き手になろうとし、刑事は退職して現実と関わらなくしようとしている。紙一重なのだ。その設定に、ただの殺人狂もの映画と違ってリアルな怖さがあった。おそらく現実にうんざりしたことのない人なんていないだろうし、ならばちょっとした揺れで、自分を裁き手の安定した位置に置いてしまいたくなることも起こるかも知れない。実際村井秀夫という実例がちょっと前の日本にもあったのだ。その怖さ。映画としては、犯行シーンを描かないことで阿鼻叫喚ホラーにしてしまわなかったのが賢明で、ずっと降っていた陰気な雨がやみ、光り輝く中で七つの大罪の壁画が犯人の予定通りに完成するってのも、決まっている。
[映画館(字幕)] 9点(2009-09-11 12:06:20)(良:1票)
4.  戦火のかなた
ほとんどのエピソードについて言えることだが、言語の複数性、各国語が交わされ通じにくい状況が描かれる。米兵とシチリア娘のほそぼそとコミュニケートが取れていた状況に、不意の銃弾のショックが来る。さらにジョーのために銃を取った娘が独軍に殺され、しかも米兵にはジョーを殺したと思われてしまう。すべての理解から遮断されて、崖下に落とされている一個の死体の孤絶。戦争の残酷さをこれからこういう切り口で見せていくぞ、という姿勢を第一話から明らかにする。少年と黒人兵、社会の弱者同士がかろうじて話し合うが、連帯のような深いつながりには至れない。英会話教本を読む娘も同じ。映像が張り詰めているのは、フィレンツェの市街戦。影がくっきりと浮かび、煙もなく人影もほとんど見えない世界で、ロープに引かれた台車だけが、街角と街角を細くつなげている。修道院で泊まることになった従軍司祭のなかに、ユダヤ教やプロテスタントがいることを知っておろおろするユーモア。ロッセリーニの後の世界につながっていくテーマだ。ここでは缶詰の文化と500年の修道院とがコミュニケートする。そしてラストで、穏やかな川の流れに残酷な死を畳み込んでいく。これまでいくつかのコミュニケーションの可能性の情景を綴っていったラストに、戦争とはつまりコミュニケーションの可能性の放棄なんだ、ということを文鎮のようにドンと重く置く。
[映画館(字幕)] 8点(2013-09-28 09:35:02)
5.  戦場のメリークリスマス
ここに登場する兵士たちは、みなヨソモノなんだ。侵略者と被侵略者という分かりやすい関係ではない。兵隊としてジャワに派遣されたものたち。カルチャーショックってのは、ヨソモノがほかの生活圏へ行って起こすのが普通だが、誰も土地に結びついた生活をしていない。日本側も英国側も、同じ無重力状態でカルチャーショックを起こす純粋実験をしているようなもの。自分の土地は遠くにある。朝鮮人兵の処刑のエピソード。日本式のハラキリで自決を迫られるということで二重に屈折した屈辱があり、そこで遠くの母国の言葉で「アイゴー」と叫ぶ悲痛さが増す。それに対してオランダ兵が自殺するのは、自分に親切にしてくれた彼に対する申し訳なさといった個人的な殉死のようなもの。それを日本兵は公的なものと見て礼を尽くそうとする。するとそれを英国側は個人に対する侮辱と取って引き上げようとする。ここらへんの二転三転する考え方のズレが面白く、それも自国の風土から離されているためにかえって「自国民の考え方に忠実であろうとする」純粋実験の場となってしまった結果なのかもしれない。そういった緊迫に満ちた映画で、そのゴツゴツとした手触りが大島ならではのものだった。一番美しいなと思ったシーンは、隊列を組んでほかの土地へ出ていく兵士たちのなかに、ロレンスがハラを探して、黙って見送るとこ。あとでの再会シーンよりもあそこでジーンとした。それと大島作品で重要な歌のシーン。俘虜たちはしばしば抗議をこめて歌い、想い出の中では弟が歌う。戦争と対照的な個人的・内省的なものとして歌があり、また団結の象徴としても歌がある。そしてテーマ曲、静かなガムランを思わせるメロディが土地の精霊のように、このヨソモノたちの間を埋めていくように・あるいは分離していくように、漂い流れていく。
[映画館(字幕)] 8点(2012-08-12 09:52:12)
6.  切腹 《ネタバレ》 
これはいま観ると、正社員の職を得た者と派遣労働者の話に重なって実に生々しい。ほんのちょっとした運命の違いで生じた格差が、段上の命じる者と庭で腹を切る者とにまで広がっていったことが、怖く迫ってくる。立場が逆転していてもおかしくなかった。そういう苛烈な武士の社会と似たようなものが、現在でもあるんだろう。これのとりわけ前半はシナリオの名品であり、二人の切腹志願者の物語が反復しつつ並行し、千々岩のうちひしがれぶりと津雲の不敵さが対照され、後者がどんどん謎として膨らんでくる興味。追い詰める側が追い詰められていく展開の妙味。シナリオの力でこれだけグイグイ引っ張っていく映画は、あんまりない。後半ちょっと説明的で弱くなるが、しかしあそこらへんをちゃんとやっておかないと、千々岩が「武士として有るまじきさもしい行為」に及んだことを十分説得させられず、話の骨が崩れてしまう。津雲が語っている庭はゆっくりと陽が傾き、やがて風も吹き出す。あんなに武士の哀しさを語った津雲も、やはり刀でしか決着をつけられないところが痛ましい。竹光を嘲った井伊家が、最後には「武士の魂」の刀ではなく「卑怯な」飛び道具を持ち出してくる。儀式としての切腹は限りなくグロテスクだが、鉄砲で撃たれる前の腹切りは、美しくはないがグロテスクではない。あれはあくまで乱戦の延長であって意地の発露だった。でも井伊家の下級侍にとっては、秋葉原事件のようなとばっちりだったなあ。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2011-12-07 10:44:17)(良:1票)
7.  戦場にかける橋 《ネタバレ》 
川の小さな滝のところで銃撃が起こると鳥がいっせいに飛び立つ。その銃声に驚かされて飛び立ったというより、血で汚された地を嫌って空へ向かった、って感じ。無数の鳥の影がジャングルや川面を走り巡る。この映画では最初から鳥の視点が批評的に地上の愚かな戦争を眺めていて、ラストむなしさが広がるクワイ河をしだいに鳥の視線になってカメラが上昇していく。脱走しヘトヘトになってたどり着いた地でW・ホールデンは、まず自分を監視している鳥に怯えるが(倒れた彼の上を鳥の影が通り過ぎていく凶々しさ)、やがてそれは凧の鳥に変わる。狂った地上を鋭く監視する鳥から、子どもの遊び道具となっている鳥へ。狂気の地からマトモな暮らしのある地へとたどり着いたことが、鳥の裏表で示された。その女こどもが暮らすマトモの地から狂気の地へ戻っていくときに女たちが付き添うのは、彼らの作戦が男たちの狂気に呑み込まれないよう、少しでもマトモな世界の空気を注入しようとしているのだろうか。この映画は英日米の軍人気質の違いを見せてはいるが、主人公はあくまでもアレック・ギネスだ。軍人としてどうあるべきか、をまず第一に考える精神主義者。ダラケていく自軍の兵士を見ることより、敵に協力しても誇りを持ってイキイキすべきだ、と考える。精神主義者として敵であるサイトーのほうに近しいものを感じてしまっている。橋の完成のためにはついに自軍の傷病兵まで繰り出そうとするあたりのノメリ込みの凄味。あからさまな狂気の描写でないだけに、彼の心に「まったく屈折のないこと」が怖く迫ってくる。「立派な軍人」というもののあるべき姿を煮詰めていくと、この狂気に必然的に行き着くだろうというところが一番怖い。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2011-11-19 10:26:47)
8.  セリーヌとジュリーは舟でゆく
初めはスタッフもキャストも手探りで動き回ってる感じ。フィルムを自由に遊ばせて何かが面白く動き出すまで待ち伏せしている感じ。映画を商品として観客に提示するなら、そういう部分はカットして完成した部分だけを盛り付けるのが料理人の倫理であろう。でもこの監督は完成に向けられた時間にこそ映画本来の時間があると思い込んでいる(『諍い女』)。彼はスキヤキ屋なのだ。すでに焼けた肉ではなく目の前で焼けていく肉を味わってもらおうというのだ。これは一種の冒険であり、下手するとその実験性だけが評価されて映画としては退屈、となってしまいかねないものでもある。実際『北の橋』は、とうとう肉が焼けずに終わってしまった感じ。しかし『地に堕ちた愛』や本作では成功した。とりわけ本作。ただただフィルムが回って主人公たちの閉じた世界が紹介されていると思ってたら、いつのまにか冒険に入っている。アメリカ映画から見ればメリハリがなさすぎるが、それだけ冒険に入り込んでいくときの「アレレ」感は新鮮。いつのまにか世界が不思議の国に飲み込まれていたという感覚。そしてさかさリンゴ屋敷が楽しい。断片として現われるいくつかの幻視、階段やドアでの意味ありげな出入り、さかさの人形、倒れる女、などが繰り返され次第にストーリーを構成していくジグソーパズル。ヒロインが交互に幻視を見るのだが、そのつど幻視を見る担当者が看護婦役になって登場してくる。まったく同じカメラ位置で同じシーンが繰り返され、看護婦役だけが違ってくる二人一役のおかしさ(ブニュエルが『欲望のあいまいな対象』を撮っていたのもこの頃か)。さらにどうも少女の危難が分かってくると、現実の二人は助けに入り込んでいく。ここらへんのスリルは『裏窓』でG・ケリーが眺めるだけの存在だった筈のアパートへ入り込んでいくスリルを思い出させる。この映画の楽しさは純粋に遊びとしてのものだが、ラスト、幻の登場人物たちが幽霊メイクのまま舟で滑り抜けていくシーンのゾクゾクッとする感じは、映画全体の薄く透明な脆さと敏感に共鳴しあっていた。サイレント時代だったら遊びに徹することが充実になっていたのに、今ではニヒリズムが立ち込めてしまう。この衰弱は社会の責任なのか映画の責任なのか。現代で遊び続けようと決意することは、亡霊たちに魅入られながらの衰弱を受け入れることに外ならず、そこに本作の凄味が感じられるようなのだ。
[映画館(字幕)] 8点(2011-10-16 10:03:11)(良:1票)
9.  1900年
ギリシャ悲劇から派生したようなアンゲロプロスの『アレクサンダー大王』を観た年だったので、こちらはイタリアオペラ、何かと比較してしまった。あちらが集団の力学としての歴史という視点だったのに対し、こちらはオーソドックスな個人のドラマの集積としての歴史。当然あちらのロングとこちらのアップの対比もあり、顔のアップはおのずと演技のオペラ的誇張を伴う。メリハリがつくという利点と、パターン化されるという欠点が、こちらにはあった。本作で一番生き生きしてたのは、ファシスト夫婦だったろう。逆説的に言えばこの二人が最も非政治的な存在で、オペラの悪役のような感じ。そういう大衆劇化された歴史の面白さはあったが、物足りなかったのも事実。少年時代が一番いい。地主と小作の友情ってのに無理がないし、とにかく風景が美しい。オルモが食堂でレオに呼ばれて、一族の構成員であることを確認されるシーンが特に素晴らしい。農民たちはこう団結しこう生きているのだ、って。忘れてならないのが、エンニオ・モリコーネの音楽。労働歌というか革命歌というか、そんな本来暑苦しかるべき・握り拳が似合いそうな曲想を、歴史の霧を通して一度ナマナマしさを濾過したような響きがあり、懐かしがっているように、時代遅れとなったメロディを哀惜しているように、染み入ってくる。名曲が多い彼の仕事の中でも、とりわけ忘れ難い名品だろう。
[映画館(字幕)] 7点(2012-05-10 09:57:19)
10.  1492/コロンブス 《ネタバレ》 
原題は「楽園の征服」。多数の合意のもとに歴史が変わったことはない、ってなことをアタマでコロンブスが言ってた。先を行くものの不幸と栄光。ラストでコロンブスが財務長官に「私とあなたは決定的に違う、I did,you didn't」って言う。コロンブスは未知の世界を憧れたんだけど、そこも見つけるそばから既知の秩序なり習慣なりが素早く浸食していってしまう。けっきょくスペインの延長された領土になってしまう幻滅。大陸発見五百年記念のフィルムだが、ただの“ご祝儀映画”で終わらせず、一応しっかりしたテーマを据えてあるのは偉い。スペインでは顔を背けた処刑をここでは自分で執行しなければならなくなる(全体『アラビアのロレンス』を手本にしてなかったか? 意識してはいただろう)。歴史上の人物ということでまったくの創作人物のようには個性を付けられないもどかしさ・彫りの浅さみたいなものは感じられたけど、いいほうじゃないか。女王に歳を聞き返すあたり面白い。
[映画館(字幕)] 7点(2012-01-15 10:17:19)
11.  世界の全ての記憶
『マリエンバート』へ向けた練習のような習作。ひたすら移動し続けるカメラ、記憶の詰まっている迷宮として図書館を捉える。後半は、新刊が棚に置かれるまで、という文化映画的なのだが、台車の移動、エレベーターの上昇、係りの人がボーっと立ってたりして、かなり意図的な演出がなされていると見た。無表情の人々。移動し続けるってことは、立ち止まって対象を一点に絞らない意志の表明であり、観察ではなく観賞ってことなのか。これから何かを発見していこうとしている気分、というか。図書館好きにとっては、裏側が見えて文化映画としても面白かった。思えばこの手の記録は映画の初期からドキュメンタリーの基本で、たとえば英国の『夜行郵便列車』なんてのは、手紙が私たちの手に届くまでの夜の旅を見せてくれたし、普段の生活を支えている(しかし滅多に目にすることの出来ない特殊な)仕事場を、覗かせてくれる興味ってのが、ドキュメントの基本中の基本なんだな。
[映画館(字幕)] 7点(2010-12-26 19:35:23)
12.  戦場でワルツを
アニメ技術のことはよく分からないんだけど、不思議な動きをする。東南アジアの影絵のような、関節だけ留めてある人体パーツを動かしているような、でも滑らかという動き。口の動きも変にリアルで、全体新鮮な世界だった。その影絵的な感じが、記憶を探るストーリーとうまくマッチしている。話としては、ベトナム後のアメリカ映画のあのトーン。生き残ったものの後ろめたさと、心の傷。戦車の中にいるときの万能感と外に出たときの無力感、とか、カメラ越しでなくなったときの戦場の生々しさ、など兵士の証言が痛々しい。悪い映画ではなく、こういう兵士個人の心の記録が積み重なって大きな証言になればいいと、心から思う。でもかつてのアメリカもあれだけ「心の傷映画」が作られながら、ひとたび同時テロが起こると「やっつけろ」の大合唱に呑み込まれていった。個人の「私」の証言は、ひとたび「われわれ」の怒号が起こると、あっという間に掻き消されてしまう。正直、あんまり希望は持てなくなっている。もひとつこの作品が弱いのは、虐殺の本体をファランヘ党という極右組織だけに押しつけている感じがあって、もちろん黙認したイスラエル軍も非難はしているが、ちょっと逃げ腰。でも常時戦時下のあの国でこれだけ言うのも、大変だったろうとは思う。ワルシャワ・ゲットーの記憶を、イスラエルの免罪符としてでなく持ち出したのだから、そこからもひとつ、人間集団が狂う普遍的な分析にまでいってほしかった。
[DVD(吹替)] 7点(2010-12-10 10:42:31)(良:1票)
13.  全身小説家
奥崎謙三もそうだったけど、この監督は対象とする相手に、あんまり「お近づきになりたくない人」を選ぶ。どこか精神主義の匂いのする人。文学伝習所の、宗教組織というかハレムのような空気が苦手だったし、とにかくこういう「意志」の人って疲れる。井上光晴がコウルサイ小男に「出ていけ」と怒鳴ったりする(埴谷雄高がボソボソと「出ていくことはない」とつぶやくのが傑作)。文学組織というより「井上教」という宗教団体みたいで、教祖に、君は耳がきれいだね、と言われておばあさんが感激したりしている。こういう不可思議な世界を前半でミッチリ展開したあと、この強い作家に、弱さが寄り添って見えてきて、映画は俄然身近になった。「うそつきみっちゃん」があばかれていくスリル。映画としてもフィクションを織り交ぜていた仕掛けが生きてくる。現実は癌である。しかしその周囲に嘘が振りまかれる。だいぶいいようです、という医者の気休め。特効薬を売り込む「燃える赤ひげ軍団」いう男のうさんくささ、それへのリアクションの瀬戸内寂聴のナントモ言えん表情(癌死をめぐる厳粛なドキュメンタリーなのに、ここで場内は爆笑)。ああいったものが癌という生々しい現実の周りに付着してきてしまう。小説家という、虚構を構築する仕事をしている者の周囲で、本当と嘘が絡まりあい、しかし癌という現実だけは確実に進行していく、そういう世界観。もっともリアルだったのは、摘出される肝臓。そうか原一男は『海と毒薬』の助監督だったんだ。そして熊井啓の出世作が井上光晴の『地の群れ』だったことも思い合わせると、なにか一つの大きな円環が見えてくる気もする。作家は正月の客を送り出したあと、階段をゆっくり昇天していった。ここは感動的。
[映画館(邦画)] 7点(2010-08-25 09:58:22)
14.  接吻 (2006) 《ネタバレ》 
ヒロインのキャラクターが、私にはもひとつ焦点が絞りきれなかった。一種の片想い物語だ。ブラウン管ごしに一目惚れし、法廷へ、そこで声を聴き、さらに接見ガラスごし、そして抱擁に至る、と順々に接近していくドラマ。近づくにつれて男に対する幻想が高まり、そして幻滅も高まる。世間に対する共犯を夢見るまでの孤独の物語という流れは一貫しているし、サスペンスドラマとしては充分楽しめたが、ときどき彼女の振舞いにつまずいてしまう。たとえばテレビクルーに見せた笑い、かつて男が見せた笑いを反復しているわけだが、男のふてくされたキャラクターと彼女の一途なキャラクターは対極な訳で、またそこがドラマの緊張にもなってたんだけど、ああいう笑いは、馬鹿にしているからこそ世間に対しては見せないのではないだろうか。男のふてくされぶりを一途に反復したってことなのかなあ。あるいは弁護士に「やり場のない怒り」なんて世間に流布している陳腐な言葉を吐くところも、彼女のイメージをしぼませてしまう。自分も世間の一部なんだというおぞましい認識をあわせ持っていれば、こんな言葉は使わなかっただろうし、彼女の世間への嫌悪をさらに深く示せただろう。もちろんこれは小池栄子の責任ではない。彼女は、かつて西田敏行とビールのコマーシャルやったときなんかすごく良かった、こういう感性を映画ではまだ生かしきってないんじゃないかと思ったものだ。あれとこれとで彼女の幅の広さも分かったことだし、今後のご活躍をお祈りしております。
[DVD(邦画)] 7点(2009-05-14 12:10:53)(良:1票)
15.  ぜんぶ、フィデルのせい 《ネタバレ》 
1970年、学生運動市民運動が高まっていた政治の季節を振り返る視線、批評する目と懐かしがる目とこもごもで、ともかく余裕を持って振り返れるだけの時間がたったわけだ。批評する目に映ったのは、上滑りする熱に浮かされたような気分、父の「団結の精神」という言葉だけが力強く、けっきょく支援したチリのアジェンデ政権は強大な軍によって潰されていく。この無力感。これに対して運動では控え目に見えた母のほうが芯の強さを見せ、女性に皺寄せの来る保守的な社会と戦っていた。最後に娘アンナを動かしたのは、この母のほうだったのだろう。この少女は、単純に保守反動から革新に目覚めた、というわけではなく、変わっていくかも知れない自分というものに気がついている。そこの成長が描けたところが、1970年を今振り返る意味になっていた。演出が特別うまい映画ではなかったが、夫婦げんかを目にしたアンナが弟の手を引いて、社会に突っかかっていくように早足でズンズン街を行くシーンが印象深い。そしてなによりこの不機嫌なヒロインがよく、最近の映画では一番魅力的な少女だっただろう。やっぱり少女というものは、社会に迎合してニッコリ微笑むより、不機嫌にムッツリしていてほしい。
[DVD(字幕)] 7点(2009-04-21 12:05:14)(良:1票)
16.  全然大丈夫 《ネタバレ》 
話の枠組みはいたって古風、でも登場人物たちの造形の誇張がそれぞれの俳優たちに合っていて、私はかなり楽しめた。荒川良々の、幼稚と言われて怒る幼稚ぶり。「上から目線で…」とブツブツ拗ね、「一億兆円払え!」なんて叫ぶ。ゾンビで驚かせてそれを隠し撮りする悪趣味の持ち主だが、なんか憎めない。岡田義徳は、いい人ぶりっ子って言われるとシュンとなってしまういい人で、荒川といいコンビ。ここに劇的に不器用な木村佳乃が絡む。ティッシュペーパーの箱も開けられない人(私も不器用だが箱は開けられる、ただし最初の一枚目は必ずちぎれる)。古本屋の店番してるときの、エロ本買いにきた客との場が笑えた。当然仮想三角関係の結末は第三者田中直樹の登場となり、顔にアザのあるその人物が、コンプレックスに悩んでいる人としてでなく、ごく普通の隣人として描かれているのが、気持ちいい。荒川・岡田のゾンビメイクの対照という意味があったのかもしれないけど。欝のお父さん蟹江敬三の休業広告、マジックインキが途中で出なくなり、細く薄い鉛筆文字に変わる、それが回復すると、筆文字の葉書を寄越してくるわけだ。みんなもうちょっとだけ宙ぶらりんのままでいたいんだよな、憩いまくらなくってもいいから。
[DVD(邦画)] 7点(2009-03-02 12:19:03)(良:2票)
17.  セントラル・ステーション 《ネタバレ》 
前半で、薄情なせちがらい世を一人で生き抜いてきたドーラをしっかり描いているから、後半も甘さに溶けてしまわない。他人の街、他人の言葉を預かる代書屋、言葉なんて他人にまでちゃんと届かなくってもいいと思うまで、うんざりと他人に満ちている。かっぱらいもあれば臓器密売業者もいる。優しいお姉さんみたいのが罵り声をあげる。そういった混濁からしだいにブラジルの風景によって浄化されていき、カトリックの祭りのロウソクの波もあったなあ、この変化がロードムービーの味わい。ラスト、夜明けにドーラが旅立つ。兄弟の間で寝ていた少年が気配を察しても大声で叫ばないところ、普通の声でつぶやくようにドーラと言うところが泣ける。彼女自身の手紙、祭りのときの写真、泣ける泣ける。
[映画館(字幕)] 7点(2008-10-25 12:12:29)(良:1票)
18.  戦場のピアニスト
万人共有の熱い記憶と思われていたものも、時がたつと冷たい歴史記述になっていく。その熱量を少しでもとどめておきたい、という強い意思が感じられた。ナチ下のユダヤ人の生活を再現し記録する意思。じわりじわりと追いつめられ追い立てられていったその細部。踊れと命じられる屈辱。あるいは気まぐれの処刑、6人を撃ち、7人目の前に弾を込めなおすわずかの時間の、もしや、という一瞬の期待も描く。さらに「立て」に応じられなかった車椅子の老人の末路。一つ一つのエピソードが重い。主人公は窓から見ている。ユダヤ人やポーランド人の蜂起も、窓から見下ろすだけで参加はしない。見る人に徹していただけに、外へ出ていったときの、なにか剥き出しなるような怖さが特別だ。『裏窓』のすぐれた応用になっている。遠く上から見ていた殺された女性の死体と向かい合うように伏し、死人の振りをしてドイツ兵をやり過ごす場の生々しさ。映画の前半は、集合場所や貨車など、高密度で人々が画面を埋めていた。後半は一転して無人の世界、世界そのものの廃墟のような光景、その落差がなによりも雄弁だ。
[映画館(字幕)] 7点(2008-05-21 12:16:14)
19.  選挙 《ネタバレ》 
候補者本人は、体育会系の世界だ、と言ってて、たしかに路上パフォーマンスの日々なんだけど、なんか私は、選挙道という家元制度の世界を感じたな。もうすべてにわたって型が出来てるの。街宣車では3秒に1回名前を言え、とか、握手をするときは最後に相手の目を見てしっかり握り締めろ、とか(これなんかもう日本舞踊の所作ごと)、妻と言ってはいけない、家内と言え、とか(「家内がおっかないもんで」というダジャレを講演会で使える)、家元である党が決めたその型に乗り、候補者はただ印象の好さをアピールするだけで運ばれていく。言うことは「改革に取り組む」と「小泉自民党」と名前のみ。通勤時の朝、駅前に並んで「いってらっしゃいませ」と次々に頭を下げるのは、まさに歌舞伎のつらね、いっそ割りぜりふにしてくれたらもっと良かっただろう。完全に家元主導で、だから候補者も「ここまで面倒見てもらってるんだから、造反なんてとんでもないことなんだよ」と釘を刺されている。けっきょく候補者が一番気にしてるのは、有権者よりも党や地域のボスたちなんだな。選挙の時の電話戦術って反発を招きこそすれ効果あるのかなあ、と昔から不思議に思ってた。もしかして対立候補が嫌がらせで名前をかたって電話かけてるんじゃないか、と疑いさえした。でもこれ見て分かった。あれ、事務所を活気づけ、ボスたちにちゃんとやってますよとアピールするためにやってたんだな。だから一方的に電話をかけられる有権者の迷惑なんて関係ないんだ。そもそも平気で騒音まきちらす街宣車ってのが、それなんだし。とにかくこの映画、いろいろ裏が分かって面白かった。事務所でのおばさんたちの自然な会話も楽しく、公明新聞タダでいいからってとらされちゃって、とか、共産党に場所貸したら党本部から叱られちゃって、とか、カメラが全然意識されないまでに溶け込んでいる成果だろう。気のふれた女の人が事務所の前でニコニコ笑ってる、なんてのも(画面には出てこないけど)、なんか選挙の躁病的な賑わいにふさわしいエピソード。
[DVD(邦画)] 7点(2008-04-08 12:27:14)
20.  世界の中心で、愛をさけぶ
これは流行に乗って原作読んでたんで、脚色とはこうやるものか、と随所で思った。エピソードをうまくあっちとこっちをつなげたり、生き生きさせている。人物の来歴に手を加えたり(アキが弔辞読む先生とか)、いろいろの加工の跡を見るのが楽しかった。原作のネタをあちこち動かして、シナリオライターが自分の世界にしていく。編曲の楽しみと言うより、コラージュ現代美術みたいな感じ。たぶん原作より締まった。そして反復される台風の空港、長回し。ヘンデルにヒントを得たと思われる音楽が流れている。
[DVD(邦画)] 6点(2014-03-12 10:13:59)
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52279.72%
691439.13%
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