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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  ボクたちはみんな大人になれなかった
昨年(2021年)暮れにティザームービーを観た時点で、“予感”はあった。 ただそれ故になかなか観られず、Netflixのマイリストに入ったまま数ヶ月。ようやく鑑賞。 結論として、“予感”の通りに、少なくとも自分にとっては「特別」にならざるを得ない映画だった。  40代半ばの主人公が辿ってきた二十数年間を遡ってつぶさに描き出された映画世界は、同じ年代、同じ時代を過ごしてきた者として、まさにタイムスリップしたような感覚に包み込まれる。 僕自身は、東京という街でずっと暮らしてきたわけでもなく、二十歳前後の数年間をあの街で過ごしただけだけれど、それでも、この映画の主人公と同じ時代にあの場所で感じた空気感を思い出し、希望、欲望、羨望、絶望、あらゆる感情をひっくるめた感覚が蘇ってくるようだった。  実際は、「絶望」なんて感じるよりも前に、僕は夢半ばであの場所から去ってしまったが、「もし」あのまま憧れと願望にしがみつき、留まっていたならば……と考えると、主人公が辿った人生模様とどこか重なるようで、正直心が乱れて落ち着かなかった。  映画を彩る環境や美術や衣装、小道具に至るまで、映し出される画面のディティールを追っていくだけでも懐かしく、感慨深い。 安いラブホテルを探した夜、シネマライズの行列、「スワロウテイル」のポスター、浅野忠信が表紙の雑誌「H」、“グリコ”の娘の娼婦役と歌声、野猿、BiSH……、この映画世界の「時代」に散りばめられたすべてが、堪らなくエモーショナルだった。   つらつらと懐古的なことを並べると、世代的にドンピシャの40代のおじさんがノスタルジーに浸るだけの映画のようにも聞こえてしまいそうだが、そうではない。(と思う) 本作は、「普通の人生」という普遍的な概念の中で、思い悩み、時にもがき、時に抗うすべての人間のための映画だったと思う。  人間誰しも「フツー」というフレーズに少なからず拒否感や嫌悪感を覚える時期があるものだ。 「自分は他人とは違う」「何かができるはず」「こんなはずじゃなかった」と、焦りや後悔は、人生を通じて常に付き纏う。 でも、結果的に、ほぼすべての人は、フツーに人生を送り、フツーにその終着を迎える。 そこには、諦めもあれば、妥協もあるだろう。そして、悲劇にもなろうし、幸福でもあろうと思う。 それが即ち「人生」だ。  気が付けば46歳になっていた主人公が、コロナ禍で静まり返る深夜の東京の街で、ふと昔を振り返り、そして気づいたことは、「フツー」であることを、無意識的に恐れ、拒絶し、ないがしろにし続けてきた反面、実は知らず識らずの内に受け入れてしまっていた「現実」と、見過ごしていたその「真価」だったのだろう。 ラストシーンで主人公が発する「ホント、フツーだわ」という言葉には、過ぎ去ってしまった時間に対する後悔、「フツー」を直視することを避け続けてしまったことへの悔恨、そして、それらと同時に確実に存在していた自らの“フツーの人生”の“フツーの輝き”を愛おしむ思いに溢れていた。   「ホント、フツーだなあと思って」と悲しげに背を向けた最後の夜の彼女。 「うれしい時、悲しい気持ちになる」と涙を浮かべた最初の夜の彼女。 そこに、主人公が若かりし日に汲み取りきれなかった何かがあったのかもしれないし、無かったのかもしれない。  ボクたちはみんな大人に“なれなかった”のか、“ならなかった”のか、“なってしまった”のか、それとも……。鑑賞者一人ひとりの人生とその時の心情によって、その末尾は変わり続ける。
[インターネット(邦画)] 10点(2022-05-07 00:34:48)(良:1票)
2.  ボーダーライン: ソルジャーズ・デイ
「面白え」と、飾りのない満足感がじわじわと滲み出てくる。 善悪の境界線など遠く通り越して、虚無的な憎しみの螺旋の中で争う様には、この世界の愚かさの極みが溢れかえっていた。 この映画世界で描かれていることが、どれだけリアルに近いのかは判別できないが、おそらく現実にはもっと陰惨で、絶望的な事実が、無慈悲に渦巻いているのではないかと思う。 現実世界の闇を根底に据え、その闇の中で生きざるを得ない人間たちの苦闘を、前作同様映画的な娯楽性もしっかりと加味しながら描き出す見事な映画だ。  前作「ボーダーライン」をようやく鑑賞した翌日に、公開中のこの続編を観たが、立て続けに観たことで、より一層二作の連なりと、描き出される「視点」の明確な違いを顕著に感じることができたと思える。 前作では、エミリー・ブラント演じる主人公を敢えて“部外者”の立ち位置のままストーリー展開をさせることで、正義と悪、この世界の光と闇の境界線を如実に表していた。 この続編では主人公の視点を、“部外者”から“当事者”にチェンジすることで、前作で朧気にだったこの世界の闇の本質がよりくっきりと映し出される。 同時に、前作では正義と悪の両者をコントロールしているように見えた“当事者”であるCIAエージェントらも、実のところ極めて混沌とした血みどろの境界線上を進まざるを得ない状況であることが描き出され、行き場のない絶望感を叩きつけられる。  キャストにおいては、前作に続きベニチオ・デル・トロの存在感が圧倒的だ。 前作においても、実は物語の真の主人公はベニチオ・デル・トロが演じるアレハンドロだったわけだが、このキャラクターが抱える憎しみと怒りと悲しみを全身で体現する演技が素晴らしい。 これ以上ない嵌り役を完璧に演じきっていることで、彼は名優として一つの高みに登ったと思える。  脚本を担うテイラー・シェリダンによると、どうやら三部作構想のようである。 文字通り死の淵から甦った“Sicario=殺し屋”は、果てしない憎しみの螺旋に終着を見いだせるのか。 完結編の製作を心して待ちたい。
[映画館(字幕)] 9点(2019-01-13 21:15:35)
3.  ボーダーライン(2015)
公開時から観よう観ようと思いつつタイミングを逃してしまい、各種配信サービスにおいてもウォッチリストに必ず入れながら観られていなかった今作を、続編公開のタイミングでようやく鑑賞。 評判通りに物凄く面白かった。さっさと観ておけば良かったと只々後悔。  この映画を一言で表現するならば、「闇の淵」という感じだろうか。 邦題「ボーダーライン」が表す通り、エミリー・ブラント演じる主人公は、メキシコ麻薬カルテルを枢軸とした巨悪と、そこに渦巻く絶望的な「闇」に呑み込まれるか否かの“境界線上”に立たされる。 FBI捜査官の主人公は、得体の知れない強大な闇の一端に触れ、覗き込もうとする程に、その深さに絶望し、自らが信じ命を懸けててきた「正義」がいかに表層的なものだったかということを突きつけられる。  エミリー・ブラントは、“こちら側”の代表として、この世界の“向こう側”に巣食う悪の理を目の当たりにするFBI捜査官を熱演している。相変わらず、この女優は芯の強い女性像を演じきることに長けていて、今作においても魅力的な人物像を体現している。 ただし、この映画が面白い最大のポイントは、その主演女優が演じる魅力的な主人公が、ストーリーテリングの中心に存在していないということだ。 主人公は終始、知り得なかった別世界の闇の存在を感じ続けはするけれど、結果的にその深層に入り込むことを許されない。あくまでも“部外者”のまま、物語は進行し、終幕する。 では、この映画世界の真の主人公は誰であり、真の闇の中で生き続けている人物は誰だったのか。その巧みな映画的構図と、研ぎ澄まされたストーリーテリングが、上質なリアリティとエンターテイメント性を生み出しており、圧巻だった。 ドゥニ・ヴィルヌーブ監督による、絶望的なまでに美しく、神々しい映像感覚と音楽も素晴らしかった。  原題「Sicario」はスペイン語で「殺し屋」の意。 闇の淵に主人公を置き去りにし、一つの目的を果たした“殺し屋”は、闇の更に奥深くに突き進んでいく。
[インターネット(字幕)] 9点(2019-01-12 23:58:25)
4.  ボヘミアン・ラプソディ
嗚呼、なるほど。この作品は、もう「映画」という領域の範疇を超えているのだと思った。 世代も、無知も、趣向も、もはや関係ない。 この映画と、描き出された人たちのことを何も知らなくても、スクリーンを通じて目の当たりにしたものに、只々、涙が止まらなくなる。 これは、そういう映画だ。  1981年生まれの自分は、クイーンのことを殆どよく知らないと言っていい。 もちろん、バンド名や、フレディ・マーキュリーという固有名詞は、どこかしらで幾度も耳にしたことはあるし、幾つかの代表曲についても耳馴染みはある。 ただし、どの楽曲もフルコーラスで聴いたことは無かったし、クイーンというバンドと、フレディ・マーキュリーという人物が、「時代」にとってどれほど重要で、どんなに愛されていたかということを、認識していなかった。  今作のインフォメーションを見聞きしても、昨今立て続けに製作されているバンドの固定ファン向けの半ドキュメンタリー的な映画なのだろうと、まったく興味を惹かれなかった。 たが、国内公開からしばらく経ち、各種報道番組で特集が連発される“過熱”ぶりを見るにつけ、一映画ファンとして流石に無視できない心境になり鑑賞に至った。  そして冒頭の所感にたどり着く。想定を大いに超えて、圧巻の映画体験であったことは間違いない。 無論、大前提として、クイーンという唯一無二のバンドが実際に存在し、彼らの音楽がそのまま使用されていることが、この映画の価値の9割以上を占めていることは明らかだ。 だが、その稀有な存在性の何たるかを、映画世界の中で“再現”しきったことが、やはりあまりに奇跡的なことだったのではないかと思える。  “再現”という言葉を使ったが、それはこの映画で描き出されたことの総てが“リアル”だというわけではない。 随所において、事実とは異なる経緯だったり、人物たちの言動を創作し、巧みに散りばめている。 だがしかし、その事実に対する改変が、イコール「虚偽」ということにはならない。 それは、クイーンというバンドの存在性、そしてフレディ・マーキュリーという人間を描く映画を生み出す上で、必要不可欠な“脚色”であり、だからこそ、今作は映画としてもきっぱりと優れているのだと感じる。  時代を越えて、国境を越えて、価値観を越えて、偉大な音楽がより一層多くの人に愛されていく。 映画に限らず、音楽に限らず、「表現」を愛する者にとって、それは何よりも幸福なことで、その多幸感にまた涙が溢れ出る。
[映画館(字幕)] 9点(2018-12-15 19:46:56)
5.  ホワイトハウス・ダウン
はっきり言って「サイコー」だった。まずそれを断言したい。 久しぶりにローランド・エメリッヒ監督らしい大仰でどストレートな娯楽映画を心から堪能出来たことに、満足感を超えて幸福感すら覚える。 1996年公開の「インデペンデンス・デイ」を観て以来、誰が何と言おうと僕はこのドイツ人映画監督のファンだ。そのことを再確認出来たこともまた嬉しかった。  ホワイトハウスがテロリストに襲われ、そこに偶然居合わせた主人公が現職大統領とタッグを組みつつ絶体絶命の危機に挑むというプロット。実際に描かれるストーリーの大筋にそれ以上のひねりなどは正直無い。おそらく大抵の人が容易に予想できる大団円を迎えて映画は終幕する。  だが、「サイコー」なのだから仕方ない。ストーリーの顛末が読めようが予想通りだろうが、それでも面白いのだから何の問題もない。 僕が長らくこの大味なエンターテイメント映画ばかりを作り続ける監督が好きなのはまさにその部分で、「娯楽」の王道を貫き通した愛すべきベタ映画を見せてくれるからに他ならない。  それは言い換えれば、「俺たちが観たいアメリカ映画」を見せてくれるということだとも思う。 「インデペンデンス・デイ」と同様に、今作も紛れもない“アメリカ万歳”映画である。  自国が発端で巻き起こった世界的な危機を、世界中の誰が見ても“分かりやすい”崇高なる意地とプライドで挑み、駆逐する。 「どうだい、やっぱりこの国は凄いだろう!?最高だろう!?」と極めて直接的に訴えてくる。  その工夫の無い娯楽性、あまりに現実的ではない映画世界に対して、現実の世界情勢などを引き合いに出しつつ否定し嫌悪感すら覚える人も多々いることは理解できる。  ただし、そういう否定的感情と同時に、それでも世界中の人々がこの超大国に対して多大な“あこがれ”を抱いていることも事実。 映画を観て、空想と現実の狭間で揶揄しつつも、心の中では「こういうアメリカであってほしい」「アメリカはこうでなくちゃ」という感情が少なからず存在するのだと思う。  このドイツ人映画監督が長いフィルモグラフィーを通じて、“アメリカ万歳”の娯楽映画をひたすらに作り続けている意味は、まさにそういうことだと思える。  ともかく、小難しい感情は一旦抜き去って、馬鹿らしいアクション映画の世界にただ浸ることが、この映画に対しての正しい在り方だ。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2014-03-22 01:53:46)(良:1票)
6.  ボルト
個人的に“犬好き”なので、涙腺が緩んだポイントなどは挙げればきりがない。 ブロックバスター映画顔負けの劇中映画を描いたオープニングで、主人公ボルトが飼い主の少女を綱で引いてハイウェイを激走するシーンはもとより、その前のプロローグ場面から涙腺は緩みっぱなしだった。  そんな“犬好き”を惹き付けることなんてことは、この映画にとっては朝飯前のことだったように思える。 今作において最も特徴的で素晴らしいことは、“犬を犬として描き切っていること”だと思う。 他の多くのディズニー映画と同様に、今作においても動物たちは生き生きと喋る。しかし、それはあくまで動物間でのやり取りに限られており、必要以上に擬人化はされていない。 主人公の飼い主の少女をはじめ、登場する人間からは犬は犬、猫は猫、ハムスターはハムスターとしか見えておらず、きちんとそういう描かれ方がされている。 今までもそういう設定のアニメ映画は多々あったろうが、この映画で描かれている世界観は、あくまで人間社会の中で生きる動物たちのお話であり、動物が動物らしく描かれていることが、紡ぎ出されるドラマ性をより効果的に高めている。 それは、クライマックスで主人公が愛する飼い主を救い出すシーンのちょっと驚くくらいの「地味さ」を観ても明らかだ。  娯楽映画として単純な見た目の盛り上がりの乏しさに対して不満を漏らす人もいるのかもしれないが、この映画におけるその徹底した「犬の犬らしさ」こそが、ディズニーの動物映画としては珍しいほどのリアリティ感を生んでいると思う。  この当たり前のように言っている「犬を犬らしく描き出す」というアニメ表現を、さも当然のように成し遂げているディズニー・ピクサーの圧倒的な技術力と表現力に、改めて舌を巻いた。 それぞれのキャラクターの立たせ方、伏線を生かした小気味良い展開力、脚本自体が巧いとしか言いようがなく、それがこの魔法のようなアニメーション技術によって形作られているわけだから、面白くないわけがない。  前述の通り“犬好き”で簡単に涙腺が緩んでしまうので、逆に「犬映画」は積極的に観ないし、あまり好きではなかったりもする。 だからこそ敢えて言いたい、この映画こそ史上最高の「犬映画」だと。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2012-02-29 16:12:52)(良:3票)
7.  ボビー
恥ずかしい話だが、映画の終盤までこの作品に核心である“ケネディ”は“JFK”のことだと勘違いしていた。ほんとに無知さが情けない。 でも、その無知がこの映画の終着点までの道程における「深み」を、固定観念なく染み渡るように感じることが要因になったとも思う。  つまりは、スバラシイ映画である。  1968年、泥沼化したベトナム戦争、混迷を極めるアメリカ、残された最後の希望、アメリカ大統領候補ロバート・F・ケネディの暗殺。 アメリカ史上に残る血塗られた悲劇の日、現場となったアンバサダーホテルに集った人種もステータスもバラバラな22人の「視点」と「感情」をグランドホテルスタイルで巧みに切り取っていく。  この悲劇の事実を知らなかったので、描かれた「顛末」の衝撃は殊更に大きかった。 そして同時に、この映画を22という多種多様なアンサンブルによって描いたことの意味を知った。  それぞれが描いた「希望」がついえたその瞬間、彼らは何を見て、何を思ったのか。 きっとそれは22人の視点以上に複雑で、混沌と共に混ざり合う。  ついえた希望に反して、今なおついえることのない愚かしい悲劇の数々。 それは、アメリカという絶対的な大国に課された恒久的な「業」なんだと思う。 それは、凄まじく辛く、堪え難い。 が、しかし、諦めることは許されない。どこまでも続く悲劇を、どこまでも乗り越えていくしか、人類に未来はない。
[DVD(字幕)] 9点(2007-08-05 23:26:42)(良:1票)
8.  亡国のイージス
「やってくれた」 最新鋭のイージス艦から、赤い爆炎と共に闇に放たれたミサイルの様を見た時、そう思った。 それは、今まで日本の映画ファンが押し潰してきた、ある思いいに対する“答え”を見たからだ。すなわち、「日本ではエンターテイメント大作は作れない」という失望と諦めに対する答えである。 この映画は、そういう長い間の負のイメージを払拭させる力を感じさせる作品だと思う。 ただし、その“答え”は、ただハリウッドのように派手に映像を描きつければいいということではない。もっとも重要なのは、「日本人が日本人を描く」という至極当たり前の要素である。 アクション性豊かなだけな日本映画であるならば、今までにもあっただろう。 しかし、そこに映画としての力強さは無かった。それは、日本人として“日本”という国を描いてこなかったからだと思う。 例えば、1999年の韓国映画「シュリ」にあったのは、まさにそういう要素ではなかったか。韓国という国が、朝鮮民族そのものを見つめ、描いたからこそ、あの映画は世界に興奮を与えたのだと思う。 そのことを、この映画に関わるすべての“表現者”たちは、理解し、見事に体現して見せた。 
[映画館(字幕)] 9点(2005-08-01 16:20:31)
9.  暴走パニック 大激突
いやはや、なんともトンデモナイ。 大胆で、猥雑で、非常識。時代を越えた昔の映画に対して、現在の倫理観と照らし合わせることはナンセンスだと思うが、あまりに自由で、あまりに奔放でエキサイティングな映画世界には、いまや「羨望」の眼差しを向けざるを得ない。  先日鑑賞した「狂った野獣」に続いての渡瀬恒彦主演作(同年製作)だったが、やっぱりこの時代のこのスター俳優の存在感と“アクション”は唯一無二であったろうことがギンギンに伝わってくる。 80年代生まれの者としては、渡瀬恒彦という俳優を認識した頃には、すでにサスペンスドラマに多数出演する好感度の高いテレビ俳優という印象が先行しており、渡哲也の実弟という立ち位置もあり俳優としてそれほど強いインパクトを感じたことはなかった。 しかし、この時代の彼の佇まいと雰囲気は、アクの強いダークヒーローであり、あらゆるアクションシーンを自分自身でこなしたという逸話も伝説的だ。 本作においても、決して正々堂々としたヒーローではなく、姑息さや残酷さも持ち合わせた犯罪者であるというキャラクター性が、ダークヒーローとしての存在感と哀愁を際立たせている。  そしてそこに「深作欣二」という巨大な劇薬が混ざり、映し出された映画世界は娯楽の混沌と化している。 中盤、本筋と外れたところで、或る変態医師のアブノーマルプレイがじっくりと映し出された時には、思わず「一体何を見せられているんだ」と困惑し呆然としてしまったが、それすらも最終的には娯楽の混沌の一要素としてまかり通してしまう圧倒的なエンターテイメント力にひれ伏すしか無かった。  クライマックスで待ち受けていたのは、タイトル通りの大暴走と、大パニック。 主人公のみならず、川谷拓三、室田日出男ら演じるこれまたアクの強い脇役たちや、通りすがりの端役に至るまで、それぞれが孕んでいた狂気性が爆発し、泥と爆音と共に入り乱れる様はまさしく阿鼻叫喚。 この時代を生きるすべての人間たちの鬱積が撒き散らされているようだった。  現代の最新カーアクション映画の筆頭といえばご存知「ワイルド・スピード」シリーズだが、50年近く前のニッポンに“元祖ワイルド・スピード”と呼ぶに相応しい映画が存在していたことを、ハリウッドの映画人たちは知っているだろうか。 あ、クエンティン・タランティーノ以外でね。
[インターネット(邦画)] 8点(2022-04-16 00:39:11)
10.  ポーラー 狙われた暗殺者
まずは、マッツ・ミケルセンの“佇まい”一発で、ノックアウトは必至だ。 これまでも出演作を幾つか観てきたつもりだったが、どうやら私は、彼の本当の魅力を理解していなかったらしい。 「北欧の至宝」と称されるその俳優としての存在感は、通り一遍な男前感やダンディズムでは収まりきらない「異質」なものを感じた。 それはもはや変質的と言っても過言ではなく、その特異な雰囲気が、今作の引退間際の最強暗殺者“ブラックカイザー”役と奇跡的なマッチングを見せていたと思う。   会社組織化された暗殺者集団という馬鹿みたいな設定(好き)や、引退予定の伝説的暗殺者に集団で襲いかかるという展開に対しては、言わずもがなキアヌ・リーブスの「ジョン・ウィック」が頭に浮かぶ。 主人公のキャラクター性や、対峙する暗殺者集団のエキセントリックさ、諸々の小ネタに至るまで、「ジョン・ウィック」との類似点は多く、下手を打てば「二番煎じ」と揶揄されることは避けられなかっただろう。   しかし、確かに「ジョン・ウィック」をはじめとするこの手のジャンル映画と似通っている作品ではあるけれど、同時に圧倒的な独創性も揺るがない娯楽映画だったと断言したい。   主演俳優の稀有な特異性に牽引されるかのように、映画そのものが少々、いや随分と常軌を逸している。 バイオレンスアクションとハードボイルド、そしてブラックユーモア、それらがミックスされた破綻気味なアンバランス感が、オリジナリティを創出している。   そして、やはり何と言っても主人公“ブラックカイザー”ことダンカン・ヴィスラのキャラクター性が抜群だった。 圧倒的に強く、全身からほとばしる男の色香は、言うまでもなく魅力的。 その一方で、ただ渋くて格好良いだけではなく、悪夢にうなされ飼い始めたばかりの愛犬を撃ち殺してしまったり、渋ってた割には小学生相手にドヤ顔で世界を股にかけた暗殺講座を繰り広げちゃったり、とっくにハニートラップであることは気付いているにも関わらずギリギリの瞬間までヤルことはヤッちゃったり……。 “ジョン・ウィック”もどこか頭のネジが抜け落ちている男だが、それ以上にこの人も何本もネジがぶっ飛んでしまっていることは明らかだ。   ストーリーの収束の仕方も的確であり、忘れがたきエンターテイメントを堪能した充足感と、まだまだこのイカれた殺し屋の暗躍を観たいぞ!という期待感に包まれる。 ここまで似通ったキャラクター性と世界観であれば、「ジョン・ウィックVSダンカン・ヴィスラ」という夢の競演を妄想してしまうな。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-04-04 17:16:01)(良:1票)
11.  ぼくの名前はズッキーニ
“ズッキーニ”のぼんやりとした表情が、だんだんと我が息子のぼんやり顔に見えてきて、彼の一つ一つの言動に涙腺を緩ませずにはいられなかった。 ストップモーションアニメは好んでよく鑑賞するが、評価の高い作品であっても、案外鑑賞後の個人的な“好み”が分かれることが多い。 クレイアニメのアーティスティックな精巧さや、アニメーションとしてのクオリティの高さに感嘆することは多いが、だからといってそこで息づくキャラクターたちにちゃんと感情移入できるかどうかは別問題。  ただ、今作においては、主人公“ズッキーニ”が只々愛らしく、その憂いに溢れた瞳に冒頭から引き込まれた。 66分と尺が短いこともあり、物語の冒頭から主人公のあまりに過酷な運命が突きつけられる。 起こってしまったことよりも、それによって彼が抱えた心の傷を思うと、とても不憫で、悲しい。 ズッキーニは終始ぼんやり顔で、感情の起伏をわかりやすく表情には表さないけれど、彼が心の中で大切にする両親への思いは最初から最後まで決して揺るがない。 時に感情をさらけ出す理由も、常に両親に対する大切な思いを蔑ろにされたからであり、その彼の心情を思うとまた切ない。  主人公に限らず、親に対する思いは、この作品に登場する孤児院の子どもたち全員に共通するものである。 自分を不遇に至らしめている両親に対して怒り、憎んではいるけれど、やはり彼らは親を愛さずにはいられない。 主人公のみならず、彼ら一人ひとりのそういう心情を慮ると事程左様に切なくて、涙が溢れた。  尺の短さがシンプルなストーリーラインとなり、極めてストレートな感動を紡ぎ出しているのだと思うが、主人公ズッキーニは勿論、キャラクターの一人ひとりがとても魅力的で情感に溢れているので、もっと彼らの物語を深堀りして観てみたかったとは思う。 “シモン”ら孤児たちのその後や、警察官“レイモン”の過去など、まだまだ描き出すべき物語が詰まった良作だ。
[インターネット(字幕)] 8点(2019-12-19 22:22:01)
12.  僕らはみんな生きている
くたくたに疲れた出張帰りの機内で、ひっさしぶりにこの映画を観た。 バブル期の日本映画独特の滑稽な欺瞞に溢れてはいるのだけれど、無性に胸に迫るものがあった。 曲がりなりにも“日本のサラリーマン”を10年続けてきて、彼らの悲哀としぶとさが身に染みる。  真田広之、山崎努、岸部一徳、嶋田久作という存在感たっぷりの4人の演者が、海外赴任のサラリーマンのある種の軽薄さと狡猾さと哀愁を体現している。 4人が織りなす文字通りの“サバイバル”である処世術の様が時に笑えて、時に笑えない。   発展途上国の内戦に巻き込まれた主人公たちが映画の中で繰り返し叫ぶ。  「私たちは、日本のサリーマンです!」  それは、はじめは銃撃戦をすり抜けるための「逃げ口上」であった。 それがストーリー展開に伴い、自分と日本の企業文化に対する「怒り」となり、終いには「誇り」として高らかに宣言される。   ぶっとんだコメディのように見えるけれど、今の時代でも星の数ほどの“日本のサラリーマン”が、世界のあちこちで汗を流し続けていることだろう。
[ビデオ(邦画)] 8点(2017-08-27 00:58:22)(良:1票)
13.  ボーイズ・オン・ザ・ラン
無様な男と、無様な女、そのありのままの「無様さ」を“綺麗ごと”なんて完全無視して描きつけた“ヘン”な青春映画だった。  主人公は玩具メーカーのうだつが上がらない29歳の営業マン。援交相手の醜女に逆切れされ、憧れの同僚とはいい感じになりつつも、肝心なところで大失態を繰り返し、挙げ句ライバル営業マンに寝取られる始末……。 最初から最後まで汚れまくりで、良いことなんてほとんどない。  実は、自分自身29歳の営業マン。仕事の合間にネクタイを締めたままこの映画を観ていた。 “イタイ”主人公の姿に笑いつつ、キワドいリアリティが突き刺さってきた。  自分がものに出来なかった女の仇を討つため、軟弱な主人公は“ブチ切れ”、鍛え上げ、「タクシードライバー」のトラヴィスと化す。  普通の青春映画であれば、主人公の「達成」をもって爽快感を導き出すのだろうけれど、普通の青春映画ではない今作は、それすらも許さない。 主人公が終始「無様」なまま、この映画は終焉する。  映画を観終わり、再び仕事に戻るため、土砂降りの中を営業車で走った。 けれど、僕の心は何故か晴れ晴れとしていた。 それは、この映画が無様で阿呆でしょうもないけれど、確かな「勇気」に溢れているからだと思う。  主人公は何も達成しない。ただただ己の小さな自分の人生を走る。その様は決して格好良くないし、転びまくる。でもその目を背けたくなる程に痛々しい等身大の姿は、問答無用に胸に迫る。
[DVD(邦画)] 8点(2010-10-10 02:03:50)(良:3票)
14.  ボーン・スプレマシー
前作「ボーン・アイデンティティ」は、演技派のマット・デイモンがリアルなアクションシーンをこなし、ヨーロッパを舞台にしたスタイリッシュな映像が秀でたアクション映画だった。悪くない映画だったけど、スパイ映画としては“展開力”に今ひとつパンチがなくて、それほど印象が強い作品ではなかった。 なので、続けて製作された続編に対しても、興味は薄く、公開から6年が経過してようやく観た。ようやく観た理由は、ある雑誌の企画上のランキングで、このシリーズの続編2作品が揃ってランクインされていたからだ。  アクション映画において6年という年月は“劣化”を覚悟しなければならない期間だと思う。 しかし、今作にはそういった安直な劣化は微塵も感じなかった。むしろ作品の隅々までが洗練されていて、新しいと感じた。  主人公に対する追走劇が世界を股にかけて展開される様は、前作から引き継がれた魅力だが、その各国での各シーンがより研ぎすまされ、それぞれの場面が完成されている。 映画の展開によって変わっていく雰囲気が、各都市のシーンでマッチし、ロケーションそのものが主人公の心情を表しているかのようだった。 世界各国各都市での撮影を売りにしたアクション映画は多々あるが、各シーンにおいて、その都市で撮影を行う”意味”を持たせ、それを如実に表現する映画は少ない。  そういった映画作りに対するきめ細かさが、用意されたプロット以上にこの作品の面白味を高めていると思う。  すぐに続編が観たい。第三作目を一緒にレンタルしなかったことを悔やんだ。
[DVD(字幕)] 8点(2010-04-07 16:37:21)(良:1票)
15.  ボウリング・フォー・コロンバイン
飛び交う情報の中で、もはやぼくたちはどれを信用するべきか分からない。それが今現在の全世界中での混沌に直結すると思う。アメリカを愛し、アメリカを憎み、アメリカを軽蔑し、アメリカが大好きなこのひとりのアメリカ人が作り出したドキュメンタリーは、核心であると同時にそれすらもただひとつの「意見」に過ぎないのかもしれない。だから、この映画を観たことのみで「反銃社会!」、「反アメリカ!」と言うことは非常に安易で愚かであるし、作り手も決してそんなことを望んでいるわけではないと思う。必要なのは、ただ単に「まず知ること」だ。外国でどんなにショッキングな事件が起きても、所詮多くの人たちにとっては日々のニュースの一片にすぎない。もちろんその一つ一つを己の身をもって感じろというのは無理なことだ。しかし、もう少しぼくたちは、自分たちのまわりを覆い尽くしている混沌を見つめるべきではないか。そのためのひとつの術として、このドキュメンタリー映画は非常に有意義に存在すると思う。
[DVD(字幕)] 8点(2004-07-31 08:14:55)(良:1票)
16.  ポストマン・ブルース
面白い映画がないからと言って俳優から監督に転向しただけあって、SABU監督によるこの映画はただならぬ面白さに溢れている。ヤクザを巻き込み、警察を巻き込み、殺し屋を巻き込む郵便配達員の暴力的なまでの疾走は、そのままこの映画自体のエネルギーへと直結する。圧倒的なまでのストーリー展開にもはや言葉はいらない。
[ビデオ(邦画)] 8点(2003-12-05 23:13:34)
17.  ボディガード(1992)
ベタなストーリーだろうがなんだろうがヒット作にしてしまうのが、スターたる所以であり、スター性というものであるんだと思う。そしてケビン・コスナーには紛れもなくそのスター性があった。ホイットニー・ヒューストンの出演も話題になった今作であるが、コスナーのワンマン映画と言ってもいいと思う。それくらいこの映画のケビン・コスナーは格好良かった。
8点(2003-10-11 15:31:17)
18.  ポリス・ストーリー3
最近の作品はほとんど観ていないけれど、ジャッキー・チェンの映画もそれなりには観ている。  個人的に一番好きな“ジャッキー映画”は、この「ポリス・ストーリー3」だ。  何よりも、ジャッキー・チェンが一番元気の良い時期の映画だし、この後のハリウッド進出作品にはない“香港臭”がたまらない。(まあ作中の舞台は中国本土や東南アジア諸国なんだが)  やはりジャッキーは、香港が似合う。  香港映画界の独特のユーモアの中で繰り広げられるジャッキーアクションは、「アクション映画界のチャップリン」とも言いたくなる程、完成されていて何度観ても素晴らしい。  加えて、ジャッキーのパートナーとしてミシェル・ヨーが卓越した女流アクションを見せてくれるのも、この映画の魅力だ。  ジャッキー・チェンとミシェル・ヨーのWアクションのコンビネーションは、このシリーズ作きっての見所とも言える。  相変わらず唐突に終わる香港映画らしい「終劇」と、エンディングロールのNGシーンも、久々に堪能した。  ただ今回はBS放送の字幕で観たのだが、ジャッキー映画だけは吹き替え版の方がしっくりくるような感じがした。 
[CS・衛星(字幕)] 8点(2003-09-29 13:42:27)(良:1票)
19.  ポリス・ストーリー/香港国際警察
ジャッキー・チェンの代表作とも言っていいシリーズ第一作。アクションもキャラクターのノリもこのシリーズが一番ジャッキーらしくある意味安心して観ていられる。奥さん役のマギー・チャンの存在も楽しい。
8点(2003-09-29 13:30:07)
20.  ポリスアカデミー
この手のシリーズもののコメディ映画は愛着を持ってしまったらどうしようもなく好きになってしまうものです。幼少の頃に繰り返しこのシリーズを観ていたので、今観ると楽しくて、懐かしくてもはや感動的ですらある。質的には、マホーニー役のスティーブ・グッテンバーグが主演をしていたパート4までがそれ以降と比べると格段に面白い。
8点(2003-09-28 02:15:28)
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