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高橋幸二さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 25
性別 男性
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1.  ソラリス 《ネタバレ》 
 本作品は、1972年制作「惑星ソラリス」のリメイクである。旧作ではラストにどんでん返しがあるが、ソダーバーグ版では、旧作がネタばらしになっていることからこれを採用せず、旧作にはなかった、クリスが地球への帰還を断念するシーンを挿入した。私はこれを評価したい。    精神を病んだレイアは、夫に愛されていないのではないかと疑い、堕胎した。クリスはこれに憤り家を出るが、レイアは自殺してしまった。レイアには堕胎した罪の意識があり、クリスには妻を自殺させた罪の意識がある。  あの日に戻りたい、もう一度やり直したいという思いは、誰にでもあるのだろう。だがソラリスは、そんな悲痛な願いをかなえてくれた。死んだレイアを再び登場させてくれたのである。  しかしそれは、クリスの過去の記憶をソラリスが物質化したレプリカである。彼女が反応するのは、クリスの予想を反映しているに過ぎない。二人にとって未来はない。それは永遠に続く過去でしかない。レイアは自分の存在に疑問を抱き、二度目の自殺を遂げる。    地球への帰還船が離脱すると、宇宙ステーションはソラリスの大気圏へと落ちて行く。ここで宇宙ステーションが燃焼するシーンがなかったのは、残念である。クリスが叫ぶ。 「レイア! レイア!」  サミュエル・スマイルズは、「一個の人間は地球より重い」と言った。壊れてしまった愛を取り戻すためなら、生まれた星を棄て、未来を棄て、肉体さえも棄てられるのか。  ここでソラリスによって作られた少年が、クリスに手を差し伸べる。それはミケランジェロの絵画「アダムの創造」で、神がアダムに命を注ごうとするシーンに酷似している。   クリスは、ソラリスの意志により新しい命を注がれたのか。新しい世界では、指を切ってもすぐに傷が癒えてしまう。もはや以前の肉体ではない。  レイアの再生を待つクリスの前に、再びレイアが現れる。彼女はどれだけ本物のレイアなのか。クリスは生きているのか、死んでいるのか。だがもう、そんなことはどうだっていい。生まれた星を棄て、未来を棄て、肉体さえも棄てて、ただ執念だけの存在となって、それでもお互いを求めずにはいられない。壊れてしまった愛の日々をやり直すために。   たとえ狂おうとも正気になり たとえ海に沈みゆこうとまた浮上し たとえ愛する人亡くとも愛は死なず かくて死はその支配をやめる (ディラン・トーマス)
[地上波(字幕)] 10点(2009-05-25 21:45:54)(良:1票)
2.  アイ・アム・マザー 《ネタバレ》 
 スリットから胎児が3つ抜き取られている。主人公のシリアルナンバーはAPX03であることから、過去にロボットに育てられた人が2人いたとわかる。うち一人は、冒頭で「絶滅から13867日」とあり、およそ38年にあたることから、ヒラリー・スワンク演じる女性だと思われる。彼女はおそらく、基準に満たないという理由で殺されると察知し、脱走したのだろう。  ロボットたちは、人類がまだいたとき、劣悪な人間どもを滅ぼし優秀な人間だけで新しい社会を築くようプログラミングされている。ロボットたちはまるで、聖書の神のようだ。神はその目にかなっていない人を、容赦なく殺す。しまいには、ノアの一家を除き全人類を滅ぼして、人類の再生さえ企図した。  主人公はたった一人の人間で、孤独だっただろう。仲間が欲しかったに違いない。待望の男の子が生まれるが、基準に達しなければ「母」によって殺される。主人公は男の子と、全胎児・全人類を守るため、「母」を殺す。この物語は、母性と父性の対立であり、情と理の相克である。そうして「母」を殺した主人公は、自らが男の子の母になり、「母」から聞いた子守唄を歌う。それから保管庫に向かい、保管された多数の胎児と向き合い、新しい人類の母になることを決意する。   子守唄は、ディズニー映画「ダンボ」で使われた"Baby Mine"である。ダンボが耳が大きいせいでからかわれると、母が怒って暴れてしまい、監禁小屋に幽閉される。ダンボは母恋しさに会いに来るが、母は鎖で拘束されていて、窓から鼻だけ出してダンボを抱く。そこには、どんな子であっても愛する母の情がある。
[インターネット(字幕)] 9点(2023-10-10 07:22:21)
3.  容疑者Xの献身
石神は数学だけに熱中していれば、こんな事件に巻き込まれることはなかった。だが彼は、愛を知った。人のために泣ける心を持ち、自分のために泣いてくれる人を得たとき、彼はより人間らしくなれたのだろう。 「愛」は本来、あまりいい意味の言葉ではなかった。仏教用語では「渇愛」といい、執着する心を指す。彼が人を愛し、その人のために尽くしたいと思うとき、同時に他人には信じられないほど薄情になれる。人の愛とは、そうしたものなのだろう。 アダムとエバは、言いつけにそむき禁断の木の実を食べた。二人が最初にしたことは、不都合なものを隠蔽することだった。そして次にしたことは、嘘をついて欺くことだった。神はそれを赦さなかった。罪を犯した二人は、もう楽園には居られなくなった。
[地上波(邦画)] 9点(2022-09-29 23:31:16)(良:1票)
4.  ルドルフとイッパイアッテナ 《ネタバレ》 
 脇役にすぎないデビルがイッパイアッテナをからかうのは、実は自由に生きられるのが羨ましかったと直截的に述べるように、この物語は「大人への旅立ち」の寓話である。きれいな家で飼い主の愛情を一方的に与えられ、飼い主とずっと一緒にいようとするルドルフは、明らかに子供時代を象徴している。その彼が、飼い主と離れて未知の世界を知り、学習し、他者に頼らず生きていく術を学ぶのは、大人への成長を象徴するものだ。ゆえに、ペットを捨てる行為を美化しているという批判は、寓話を寓話としてではなく直截的に見ていることになる。  子供向けの作品だと侮って見ていると、ラストの手前にどんでん返しがある。ルドルフが知恵と勇気の限りを尽くして、リエちゃんの元に帰りめでたしめでたし、にはならない。リエちゃんの家には、ルドルフにそっくりな新しい飼い猫がいて、1匹しか飼えない。もう自分の居場所はないと知ったルドルフは、名をきかれると「ぼくの名前はいっぱいあってな」と言う。多くの人に多くの名をつけられるのは、野良の証拠だ。自分はもう野良で、いろんな人にいろんな名をつけられ、外の世界を知ってしまったから、ここで飼われるにふさわしくないということを意味する。  ルドルフは「お前のリエちゃんなんかじゃない、本当はぼくのリエちゃんなんだ!」と叫ぶが、自分が帰って来たことをリエちゃんに告げずに、旅立って行く。ここでルドルフが東京行きの車に飛び乗るシーンがなかったことは、残念だ。前回はハプニングで、文字も読めず行き先も知らずに乗ってしまった。だが今は自分の意思で、東京のナンバーを読み取り、自分で選んだ未来に向かって飛翔するシーンが欲しかった。もう庭しか知らない彼ではない。名前がいっぱいあるのは、多くの人たちの協力で、多くの困難を乗り越えてきた証なのだ。  本作のテーマを考えると、イッパイアッテナの飼い主が戻って来るのは間違っている。ルドルフは東京で、イッパイアッテナらとともに自由な野良の生活を享受しているべきだろう。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2020-05-04 13:19:07)
5.  リップヴァンウィンクルの花嫁 《ネタバレ》 
■第1部 虚構に満ちた現実 七海は、電脳空間でしか本音が言えない。自分の殻の中に閉じこもっている主人公に対し、ネット授業の生徒であるカノンは引きこもりで、顔は映らずパソコンの中だけに登場する。主人公の分身のような存在だ。 現実世界の結婚式は、新郎新婦の少年・少女時代を演じる役者が登場するなど、滑稽なほど虚飾にまみれている。七海の父はにこりともしない。七海にとって自分のための結婚式なのに自分のものでないようで、緊張からか表情がこわばっている。 浮気の容疑をかけられた七海は家を追い出され、行く当てもなくさまよい、安室に電話で「ここはどこですか」と問う。スマホがあれば確認できることなど、わかっているはずだ。家を失い、職を失い、頼る人もいない彼女には、自分が何者でどこに属しているのか説明できなかっただろう。 リップ・ヴァン・ウィンクルが村に戻ると、知り合いは誰もいなかった。彼は、口うるさかった妻の安否をきく。妻なら、20歳ほど年上になってはいるが、生きていれば夫の自分を認識できるはずだ。しかし実際には亡くなっていて、誰一人として彼を認識できなかった。人は単独では、自分が何者かを説明できない。人は人に認識されることで、自分が誰なのかを説明できるのだ。 電脳空間でしか人と繋がれない七海は、孤立無援に陥った。やがてバッテリーが切れ、他者との繋がりを完全に断ち切られてしまう。長い道のりを歩いて来たのに、映像では不思議なことに人も車も全く通っていない。本当はいたのに、目に入っていなかったのだろうか。夕暮れ時となり、ようやく通行人の姿が見えるようになり、ショーウィンドウからウェディングドレスが見え、視聴者は皮肉だと感じるが、当の七海は茫然自失で気づかないようだ。 ■第2部 虚構世界にある真実 七海は自分の結婚式では顔をこわばらせていたが 自分が代理出席する側になると、結婚式が終わったとたん、家族役を演じた他人どうしで大笑いし、姉役だった真白と意気投合する。ここでは、現実世界に喜びがなく虚構世界に喜びがあることが表現されている。 真白と豪邸で暮らし始めた七海は、初めて相手の意に反し「この仕事辞めます」「二人で暮らせる家を探そう」と言って涙を流す。他人の顔色を窺うのではなく、真に相手を思いやっての提案である。 家を追い出されたときはウェディングドレスに注意を払わなかったが、真白と部屋探しに行ったときは、店の奥に見えるウェディングドレスに気づいている。二人は試着と称し、記念撮影する。日本には同性婚はないから、これはどこまで行ってもまがいものである。結婚も偽物、指輪も偽物、だが七海は、現実の結婚では見せなかった笑顔に溢れている。ここでも、現実世界に喜びがなく虚構世界に喜びがあることが表現されている。 二人はウェディングドレスを着たまま豪邸に帰り、酒を酌み交わし、ピアノを弾き、ダンスを踊り、二人だけの宴に興じる。サクラの出席者など要らない。指輪も証明書も。画面はBGMだけの無声になり、逆光やスローモーションを用いた幻想的なシーンが続く。虚構世界の結婚式が、現実世界で満たされなかった二人の、至福の時を描き出す。この二人が出逢ったのは、結婚式のサクラがきっかけだったというところに皮肉がある。 ■第3部 再び現実生活へ 真白の死を知った七海は、声をあげて泣く。夫に追い出されたときも、大声をあげなかったのに。真白の葬式シーンには、本物のAV女優・男優が登場する。ここは演技ではなく本心なのだということで、監督が本物の起用に強くこだわったところだろう。 リップが村に戻ると、全てが変わっていた。物語は最後に、再び一人暮らしに戻った七海の引越しシーンを描く。彼女が新婚生活から追い出された日は雨だったが、今度は晴れ渡ったすがすがしい朝だ。引きこもりのカノンも「東京ってどんなところ?」と、外の世界に興味を示す。 安室は頼まれもしないのに、家具をプレゼントする。一人暮らしなのに、二人で椅子を二つ運ぶ。七海はこの部屋に、誰かを招くつもりだろう。それはいつかこの町で出逢うであろう、愛する人。別れ際には「ありがとうございました!」と大きな声をあげ、大きく手を振る。冒頭では小さくしか手を挙げることができず、授業では声が小さかった彼女がである。 安室が帰ると、七海はまた一人になる。だが彼女はもう、孤独ではない。七海は、薬指に残る虚構の指輪の感触を確かめる。そこには、愛にはもともと形なんかないのだという強いメッセージが込められている。ベランダの外は雲一つなく晴れ渡り、彼女の視界を遮るものはない。最後にカメラはすうっと引いて行き、七海を取り巻く都会の風景を映し出す。彼女はもう、人ごみの中でとまどうことはない。虚構に満ちたこの世界にも、真実の愛はきっとあるはずだ。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2019-03-31 20:39:18)(良:1票)
6.  秒速5センチメートル 《ネタバレ》 
貴樹は勉強もできて、部活動でも活躍していて、性格も良かったが、憧れの宇宙飛行士にはなれなかったようだ。少年時代の「田舎のスター」も、年をとればただの人というのはありそうな話だ。本作は、そんな男の内面心理を描いている。 ■貴樹が少年時代に確信したあかりとの想いは、その後の人生をずっと拘束した。貴樹と花苗がいっしょに家路に向かうとき、踏切でロケットを運ぶ貨車が行く手を遮る。貨車の非常にゆっくりした動きは、貴樹に想いを寄せる花苗にとっては、いっしょにいる時間を引き延ばしてくれるうれしいものだ。だが花苗が「時速5キロなんだって」と口にしたとき、貴樹はあかりが語った「秒速5センチメートル」を思い出す。 ■上京する貴樹との別れの時が近づいている。花苗が今日こそは想いを告白しよう、そう決意した瞬間、ロケットが打ち上げられる。宇宙の彼方に生命体は、まだ見つかっていない。それどころか、水素原子1個に遭遇することすら稀である。それでも、遠い先の世界に目指すものがあるという強い確信のもと、ロケットはすさまじい爆音を立て、力強く天に昇って行く。花苗はそのとき、貴樹は自分など見ていない、彼はずっと遠くにあるものを確信とともに強く見つめているのだと気づいた。だが貴樹は中学1年のあの日以来、あかりと会っていない。あかりも成長して、顔立ちもいくぶん変わったことだろう。貴樹の心の中にいるあかりは、彼のそばに寄り添い、同じ星を見つめているが、その顔立ちはあいまいに描かれている。 ■貴樹が恋人と別れ失業したときは、雪がちらつく冬だった。それは、彼のどんよりとした重苦しい心を表しているかのようだ。だがいつまでも続く冬はなく、必ず春は来る。新しい生命の躍動を感じさせる季節である。貴樹もあかりも、外から入って来た桜の花びらを見て、互いのことを思い出す。そして、子供のころに約束したあの踏切へと足を進める。そして二人がすれ違った瞬間、長い間会っていなかったにもかかわらず、二人は互いの存在に気づく。貴樹が振り返ると、彼女は立ち止まったように見えた。しかしそのとき、電車がやって来て視界を遮る。電車が行ったと思うと、今度は反対方向から電車が来る。そして2本の電車が通り過ぎて視界が開けたとき、そこにあかりはいなかった。結婚したあかりにとって、貴樹はただの思い出に過ぎなかったからだ。 ■本作は、貴樹が再出発する兆しを見せていないのが怪しからんという意見が多いが、季節が春であることと、あかりが立ち去ったこと、そして貴樹はあかりを追うことなく、かすかに微笑みながら前に進んでいくシーンによって、それは暗示されているだろう。 ■どうやら男は、過去を引きずる生き物のようだ。そして女は過去を思い出しはするが、振り返らない。物語は最後に、あかりが手紙を書くシーンがフラッシュバックされ「あなたはきっと大丈夫」と画面に映る。そう、女は決して振り返らない。ただ祈るだけなのだ。
[インターネット(字幕)] 9点(2015-05-22 14:45:08)(良:5票)
7.  八日目の蝉 《ネタバレ》 
「八日目の蝉」とは、本来あるはずのない幸福のことである。母娘が小豆島に初めて来た日、ブランコのある公園で蝉が元気に鳴いていた。だが希和子が「島を出よう」と言った日には、もう蝉は鳴いていなかった。希和子は写真を撮られるのを嫌がっていたのに、小豆島を去るにあたり自ら写真館に赴き、幸せな日々の思い出を残そうとする。まるで「八日目」の終わりが近づいていることを、予感したかのようだ。■恵理菜がかつての沢田邸に辿り着いたとき、沢田家の人々が「薫」と声をかけてくれた記憶がよみがえって来る。そのとき、蝉の鳴き声も聞こえてくる。まるで八日目の蝉が、最後の生を謳歌するかのように。そしてかつて暮らした自宅の前に来ると、今度は惜しみない愛を注いでくれた母の「薫、薫」と呼ぶ声が聞こえて来る。そこにあったのは、本来あるはずではないが、まぎれもなく愛に溢れた生活だった。希和子は犯罪者だが、沢田夫妻はそうではない。主人公らを離れに住まわせ、家族同然に接していた。そう、沢田夫妻も希和子も、薫に愛を注いでくれたことに変わりはなかった。そう気づいたとき恵理菜は、自分がかつて「薫」と呼ばれ愛された日々があったことを、心の底に封印してきた過去を、肯定的に受け容れられるようになったのだ。■希和子は許された八日目の幸福を、せいいっぱい享受しようとしたのだろう。恵理菜は、たとえ母と子二人だけでも、愛のある暮らしがどれほどいとおしいものか、そしてただ母でいられることがどんなに幸せなことかに思いを馳せる。そのとき自分も、かつて希和子がしたように、この世のきれいなものをいっぱい我が子に見せてやりたいと決意するのである。■秋山家に引き取られた恵理菜は、島の方言を抑圧される。だが中山の千枚田に辿り着いたとき、感極まって「ここ、おったことある」と、一度だけ関西アクセントで言う。このシーンが、虫送りのシーンの直後に来る。中山の虫送りは、過疎化のため行われなくなっていた。沢田そうめんも人手に渡り、沢田家ももうそこにはいない。かつて暮らした離れも雑草が生い茂り、むろん希和子はいない。ふるさとは変わり、あどけない子供時代ももう戻っては来ない。だが人は親に愛され、親とふるさとから巣立つことで大人になり、子を愛する親になるのだ。映画は、原作にはないふるさとと家族への郷愁という要素を加味したことで、誰にでも共感できる作品に昇華された。
[地上波(邦画)] 9点(2012-06-27 22:23:43)(良:3票)
8.  恋はデジャ・ブ 《ネタバレ》 
過去を知ることは、未来を知ることである。  未来を知る者は、運命を支配できる。  未来を知れば、人は神にも悪魔にもなれる。   高慢な主人公フィルは、永遠に繰り返す同じ日を過ごすことによって、退屈な田舎町のあらゆる情報を知り、初めは暴飲暴食、交通違反、窃盗、個人情報を調べてナンパと、ありとあらゆる悪事を行うが、同僚のリタに軽蔑されてしまい、自殺を試みるが、何度やっても同じ日の朝に戻ってしまう。ホームレスの老人を助けるが、何度やっても2月2日に死なれる運命だけは変えられない。   人はある意味、同じ日常を生きている。季節は巡り、また冬が来て、2月2日が来る。同じ町で、同じ仕事を繰り返す。やがてフィルは、退屈な田舎町の日常に、人々のささやかな幸福があることを知る。冬の寒空の下に、人の心の温かさを知る。  何が起こるか事前に知り得る己の特殊な能力を用いて人々を助け、人々に感謝される道を選んだとき、彼はまさに神となった。人を愛し慈しむ心を知ったとき、フィルはついにリタの愛を得たのである。   彼が心から愛せる人を抱いて眠りについたとき、運命はついに時の歯車を進めた。彼が目覚めたとき、運命は愛する人を消し去らず、彼の腕の中に残していてくれたのである。  不思議な永劫回帰現象は、フィルが本当の愛を知るために神さまが与えてくれた、聖燭節の奇跡だったのだろう。
[地上波(吹替)] 9点(2008-08-04 06:35:17)(良:1票)
9.  CUBE 《ネタバレ》 
 キューブの中の人たちは、セルの数字が素数なら安全だということに気付くが、後である種の素数は危険だという別の法則があることが判明する。これは例えば、勉強していい大学・いい会社に入ればいい人生が約束されると、人から教えられた道を一心不乱に進んで行っても、実は世の中は学歴だけではなく、人柄、家柄、容姿、財力などもあり、世の中は決して絶対唯一の法則に従っているわけではないということを表している。   キューブの中に一人、キューブの建築に関わった者がいた。しかし彼が関わったのはほんの一部分だけで、全体の大きさ、セルの総数、キューブの中の人口などは一切知らなかった。これは、我々は確かに社会を構成する一員で、社会を動かしているが、我々が構成しまた動かしているのは社会のほんの一部であって、社会全体を動かすことはできないし、誰が動かしているのかもわからないということだ。我々は政治家に支配されているように思えるが、政治家はマスコミを恐れ、マスコミはスポンサーに媚び、財界は消費者に気兼ねする。人は皆、自分以外の何かにつき動かされているようだ。登場人物たちは、誰が何の目的でいくつのキューブを動かしているのか、その全体像を知ることは決してない。    物語は最後に、一人の男だけが脱出する。外の世界はとてもまぶしく、20m先も見えないほどだ。平凡な人生なんてつまらない、サラリーマンなんてつまらない、俺は脱サラするぞと、人は自由な世界に憧れるが、決まった時間に出勤して一日デスクに座っていればお金が振り込まれる世界と違い、自由な世界は「こうすればうまくいく」という保障は何もない世界であって、先の見えない、前例のない未知の世界で、そんな世界が単純作業の繰り返しの世界より本当にいい世界なのかどうかは誰にもわからない。結局キューブ自体が移動しているので、危険を冒して出口を探さなくても、動かずじっとしていればそのうちキューブが勝手に出口につながるのだった。何も考えず言われた通りにするのがいちばん楽なのだ。   登場人物たちは初め、「出口はどこにあるのか」「自分はなぜここにいるのか」を問い、ゴールを目指してさまよった。しかし誰が何の目的でキューブを作り、彼らがなぜこの中にいるのか、その理由は最後まで明かされることはなかった。人は今日も「人生の目的は何か」と問い続けるだろう。答えなど決してあるはずもないのに。
[地上波(吹替)] 9点(2008-07-29 06:41:17)(良:3票)
10.  追憶(2017) 《ネタバレ》 
本作が訴えていることは、「家族とは血の繋がりではなく、愛を注ぐことだ」ということだろう。作中では解体と再生のイメージが何度か繰り返され、それが家族の解体と再生を象徴する。 冒頭で、家族関係にない5人による家族同然の生活が描かれる。うち4人は、家庭的に恵まれない境遇だ。ところが擬似家族は、ヤクザの登場により動揺し、ヤクザ殺しによって解体される。 次に、母になり切れなかった女として、四方清美、四方美那子、仁科涼子が登場する。清美は息子の篤を捨てた過去があり、篤に疎まれ、自責の念に苛まれる。美那子は、篤との子を流産してから夫婦仲に亀裂が生じる。涼子は獄中で娘を産んだが、娘は母が誰かを知らない。そしてこの3人とは対照的に、妊娠中の田所真理が登場する。 篤は涼子から「忘れなさい」と言い含められ、過去の記憶から逃げてきたが、啓太だけは運命と向き合ってきた。あれほどの事件があった地を購入し、新居を建てるとは、よほど心を強く持たなければできないことだ。「解体」業を営む彼による、喫茶「ゆきわりそう」解体シーンは、人々が思い出にさよならを告げる瞬間でもあるが、真理の出産と新居建設とを合わせ、新たな再生を予感させる。だとすれば、妻に少しだけ心を開いた篤も、過去の記憶とようやく向き合えたことから、夫婦仲も再生するのではないか。涼子の娘を慈しんだ啓太の行動も、父の悟を亡くし母が投獄された川端梓を、篤夫婦が引き取って新たな家庭を再編するのではないかと示唆しているように思える。 降旗康男監督は、聖母マリアのイメージを求めて安藤サクラを抜擢したという。イエスは人々の罪を背負うため十字架で血を流したが、涼子は子供たちの罪を背負うためナイフを抜いて返り血を浴びた。子供たちは涼子のため、涼子は子供たちのために大きな犠牲を払い、その結果擬似家族は解体され、美しい思い出もトラウマに変わった。だが篤は、過去の記憶とようやく向き合えたことで、少年時代の思い出を「追憶」として受け容れられたのだろう。 ラストシーンで篤を胸に抱く涼子は、作為的にマリアを思わせる水色のマフラーを着用している。実の娘に愛されることはなかったが、子供たちに惜しみない愛を注いだ彼女が、最後に「母」としての愛を得たのだ。  イエスは彼らに答えて言われた。「私の母とは誰のことですか。また、兄弟たちとは誰のことですか。」「見なさい。私の母、私の兄弟たちです。神のみこころを行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのです。」 (マルコ福音書3章34・35)
[CS・衛星(邦画)] 8点(2018-03-31 20:15:03)
11.  デジャヴ(2006)
デンゼル・ワシントンの乗るタイムマシンの中に、もしも蝿が入っていたら、激しくデジャ・ヴ感のある筋書きになっていたことだろう。
[地上波(吹替)] 8点(2012-07-21 17:36:13)(笑:1票)
12.  この森で、天使はバスを降りた 《ネタバレ》 
 本作のテーマは「癒しと再生」である。森の中でジョーは「ムダな木だ」と言うが、パーシーは「こんなに美しいものはない」と言う。ところがそのムダな木が、実は金になることが後に判明する。木の皮に重要な薬理成分が含まれており、皮を剥いで再生を促せば良質の成分を得られるのである。ジョーは「これで町を再生できる」「ぼくたちにとってもいいニュースだ」と語り、パーシーに求婚する。しかしパーシーは「私はもう、子供をもつことはできないの」と告白する。  木の皮を剥ぐと、それは木にとっては傷であり、皮が再生される。ジョーはそこに町の再生を夢見て、パーシーとの新しい生活を夢見る。だがパーシーは流産のダメージにより、子を産む(命の再生)ことはできないのである。   パーシーが丘の上で歌っていたのは「ギレアデの乳香」という黒人霊歌である。  There is a balm in Gilead ギレアデに乳香あり To make the wounded whole; 傷ついた人を癒してくれる There is a balm in Gilead ギレアデに乳香あり To heal the worried soul. 悩める心を癒してくれる  If you can’t preach like Peter, たとえペテロのように語れなくても If you can’t pray like Paul, たとえパウロのように祈れなくても Just tell the love of Jesus, ただ主の愛を語り継ごう And say He died for all. 主は皆のために死んでくれたと   ギレアデとはイスラエルの乳香の産地であり、乳香とは樹皮から採れる止血材である。  パーシーの葬式のシーンで流れるオルガン曲が「ギレアデの乳香」であることは、歌詞がないだけに気づきにくい。物語の舞台にギリアドの町を選んだ理由は、乳香による傷の癒し、一命を投げ出しての贖い、魂の再生を歌ったこの黒人霊歌を強く意識したものだろう。パーシーの死と無実を知った村人たちは、オルガンを聴いていたたまれない気持ちになったはずだ。  二度と子を産むことはできないパーシーだったが、一身を以って贖うことで村人たちの心を再生させることができた。村人たちも心を入れ替え、新しい来訪者を温かく迎える。それは子連れのシングルマザー、クレアだった。パーシーがバスを降りた日は寒い雪の夜だったが、クレアがバスを降りた日は暖かい昼下がりだった。人々は子を背負った彼女の姿に、自分たちがついに見ることのなかったパーシーの幸福を見出し、心癒されるのである。
[DVD(字幕)] 8点(2008-07-30 07:03:53)
13.  暗黒女子 《ネタバレ》 
 前半は、文学サークルの部員4人全員が会長のいつみを賞賛し、彼女に魅了されていったエピソードが紹介される。その一方で、4人全員が別の誰かを犯人と示唆するという筋書きが興味深い。思春期の少女たちによる甘酸っぱい生活が描かれながら、実は嫉妬や憎悪という誰もが持つ「暗黒」に光を当てる物語だと最初は思った。  証人ごとに証言が違うという作品はすでにあるが、本作は警察や探偵による事情聴取ではなく、部員たちによる「小説」というのがユニークだ。4人の書く筋書きは互いに矛盾しており、いつみの父と浮気する、いつみの家から盗む、いつみに呪いをかけ血を吸う、いつみによる廃部に抵抗する、などの4人の動機は、小説の作者による創作なのか、いつみから聞いた嘘なのか、いつみから聞いた真実なのか、外見上はわからないようになっている。ただ首から血を吸ったり、盗んだバレッタを髪につけて学校に行ったりするのは不自然なので、おそらく4つとも嘘だろう。真の動機は、いつみの小説に書いてあるとおり彼女による脅迫で、そのネタはそれぞれ盗作による文学賞受賞、援助交際、姉を負傷させたこと、自宅への放火である。4人は真の動機を言うことができなかったため、嘘の動機を捏造し別の一人に疑いを向けさせ、被害者のいつみを理想化した。これこそがお嬢様学校の闇ということで、弱みを握られていた部員たちが逆にいつみの不純交遊・中絶のネタを握って自由になろうとし、いつみを屋上に呼び出して迫ったら事故で落ちてしまったという筋書きの方がよかっただろう。だが本作はその後、キリストの聖餐をモチーフにした非現実的結末へと突き進む。スズランの毒を盛るシーンが二度出て来るのはくどいと感じるし、いつみの心の闇を告白して終了で十分だと思う。原作どおりなので仕方ないのだが。  筋書きがそうならなかった理由は、朗読会を主催する副会長の小百合だけ清純な少女にするわけにはいかず、5人を凌駕する超絶暗黒少女に描く必要があったからだ。彼女は挙動からして怪しく、また犯人として名指しされた4人の中に真犯人がいれば動揺するところを、平静でいられるのは、最後に残った彼女が怪しいとわかる。その点、過剰に慇懃な言葉と不気味な笑みによって、清水富美加はよく演じてくれたと思うが、思春期の嫉妬などというレベルを超えて、殺人・食人まで行くのはシャレになっていない。  本作は細かい設定に、アラが見られる。ディアナはブルガリアでいつみに恋愛感情を抱いているが、同時に彼女に恨みを抱き、教師との不純な交際を盗撮している。いつみが留学生誘致を中止するのはディアナが来日した後のことなので、手順がおかしい。ディアナが語ったブルガリアの話は、海外ロケなしで、絵の中に人物をはめ込み幻想的・絵画的・非現実的に描いているが、そもそも内容がほとんど嘘なので、これでいい。父親がいつみを叩くシーンで「小百合!」と叫んでいるのは、何かの手違いと思われる。  事件の真相は、小百合がいつみを殺したのだから、部員たちはそれをネタに脅して小百合を支配できるはずなのに、逆に小百合に支配されている。いつみに支配されていた彼女たちは、何のことはない、しょせん主役を張れる器ではなく、強い人の子分になるのが関の山だったということだ。  私は某ミッション大学附属女子中出身の女性と交際したことがあり、女子中時代の友人たちを紹介されたことがあったが、大学教授の娘がボスで、それ以外は子分だった。だが私を真に驚かせたのは、彼女たちは好んで強い女に支配され庇護されたがっていたという事実だった。これこそが真の闇と言うべきであろう。
[インターネット(邦画)] 7点(2021-02-04 20:34:19)
14.  白い肌の異常な夜 《ネタバレ》 
 南部で北軍兵が負傷し、女だけの女学院に運ばれ、女たちはハンサムな男に興味津々、男は保身のため女たちの気を引こうとして、5人の女性といい関係になる。  マーサ校長はクソ真面目な人だが、兄と不適切な関係を持ち、彼の殺害に関与した疑いがある。マクビーが夜這いに来るのではと胸をときめかせるが、キャロルのベッドに行ったため、彼の脚を切断する。  ハリーは奴隷ではないのに校長に忠実で、自由になれるのに出て行かないのは、校長に密かな借りがあるのだろう。  エドウィナ先生は貞淑を絵に描いたような人で、校長に経営者にならないかと持ちかけられ喜ぶが、マクビーがキャロルと関係すると彼を突き飛ばし、Bワードで罵る。だが数日後には彼と初体験して、ともに出て行くと宣言する。  キャロルは、マクビーがエドウィナ先生とキスするのを見て嫉妬し、彼を南軍に引き渡そうとする。あとになって「今でも愛している」と言い、彼の頼みで部屋の鍵を開けるが、彼が暴君になるととたんに「脅された」と嘘を言う。  エイミーは12歳なのに、マクビーがキャロルのベッドに入ったことに嫉妬し、ペットの亀を殺されて逆上する。  一同が食堂に集まるシーンでは、脚を切断されたマクビーが探偵のように全員の心理状態を説明し、偽善を告発して溜飲を下げるが、全員を性奴隷にすると宣言したことで、全員の支持を失い、ラストの悲劇に至る。「最後の晩餐」のシーンでは、エドウィナ以外の全員が毒キノコだと知りながら、誰も教えない。  作者が言いたかったことは、女たちは女だけの世界で長い間男を知らず、男は南軍に引き渡される恐怖があり、特殊な状況ゆえに破綻してしまう悲劇だったのだろう。だが脚本が下手なせいか、本作では登場人物がその都度「なんでそうなるの」という不可解な行動を取る。マクビーもあまりにやり過ぎなので、殺されても当然にしか見えない。気持ちのすれ違いが原因で、女たちは殺人加害者へ、男は殺人被害者へという悲劇の結末に至るつもりが、喜劇にしか見えてこない。邦題では、原題にない「異常な」という言葉が挿入されているが、登場人物はみな異常にしか見えず、全く共感できないという点において珍しいカルトムービーだ。内心がいちいち音声化されるという技法も「異常」であり、ソフィア・コッポラ監督のリメイク版を除けば、類似設定の作品がほかにないという意味でも、記念碑的珍作といえよう。  マクビーが来たら雌鶏が卵を産んだのは、女性の発情を暗示している。無力で女たちに運び入れられたマクビーが、最後に無力で女たちに運び出されるシーンも、暴力的な性を発露した校長の兄の末路を暗示している。
[地上波(字幕)] 7点(2020-05-11 10:16:02)
15.  三度目の殺人 《ネタバレ》 
 事件の真相が意図的にぼかされているが、実質的には2つのうちの1つと考えている。1つは三隅が咲江に忖度して行った単独犯で、もう一つは咲江の意向を受けて三隅が実行した共犯である。そのどちらであっても、三隅と咲江は何らかの形で加担しているため、心情的には大差はない。咲江は法で裁かれることがなかったため、罪の十字架をこの後も背負って生きて行かねばならない。  会社を解雇された三隅に、山中社長が人気のない河川敷について行くことは考えにくい。冒頭の犯行シーンでは、河川敷に向かう山中社長を三隅が追うシーンがあるが、社長の行く先は映像がカットされているため、明らかにされていない。重盛弁護士は徹夜の事務所で夢うつつになりながら、実際はこうだったかもしれないと憶測する。それは、河川敷に向かう咲江を、父である社長が追い、最後に三隅と咲江の二人で殴打するシーンである。これは現実ではなく、重盛の妄想である。社長を河川敷に誘ったのは、三隅ではなく咲江だろう。法律論的には、咲江が殺意を抱いて人気のない場所に誘い殺させたか、それとも三隅が二人に知られないよう尾行したかが重要だろうが、心情的には重要ではない。二人とも殺したかったのだから。真実はともあれ、心情的には殺害を遂行した二人は、ともに頬の返り血を拭う。そのとき重盛も、殺害現場にいるかのような錯覚に陥る。彼は真相の一部を知りながら、隠蔽に加担しているからである。そのとき血のつながりのない3人が、家族であるかのような絆を感じる。  ずっと前のシーンで、三隅と咲江と重盛が家族のように雪合戦する描写があり、三隅と咲江は殺人の十字架を負うかのように十字に寝るが、重盛にはまだその意識はなく、大の字になっている。しかし最後のシーンでは、十字路に立って思わず立ち止まる。自分も殺人の十字架を背負って生きていくことを自覚したからだろう。  「三度目の殺人」とは、三隅が情状酌量の余地がありながら死刑になっていくことだろう。彼はイエスのように、全ての罪を背負って死ぬことで咲江を救おうとした。死刑回避の方法はあるのに、重盛は結局回避できない。裁判所を出た重盛は、顔を夕日に照らされ、思わず頬を拭う。彼もまた、殺人の返り血を浴びたのだ。  重盛は、裁判をただの勝ち負けのゲームとしか考えていなかった。仕事にかまけて、自身の家庭を顧みなかった。娘のゆかは、ときどき万引きをやらかす。万引き犯の父が弁護士とわかると、被害者は穏便に済ませてくれる。「父さんはこんなことでしか役に立たないでしょう」という当てこすりだ。だが事件関係者の心情に寄り添い、被告人の望みどおりの死刑を受け容れた彼は、きっと自分の娘の心情と向き合い、真の家族になっていけるのではないかと予感させる。
[地上波(邦画)] 7点(2019-11-15 12:17:27)
16.  かぐや姫の物語
「かぐや姫の物語」は、「ここではないどこか」の人が、自分のいるべき場所を探す物語である。 ■都の生活に適応できなかった彼女は、地獄のミサワ天皇に抱きしめられたとき、耐えられなくなり、「自分の元いた場所に帰りたい」と願ったことだろう。だがそれは人として育った里ではなく、本来の世界である月だった。 ■月の世界には悲しみはないはずなのに、地球を見て涙を流す人がいた。記憶を消されているはずなのに、なぜか地球が恋しくてたまらないという設定は、「時をかける少女」で主人公が記憶を消されたはずなのに、深町とすれ違ったとき思わず振り返ってしまうというのとよく似ている。 ■私は、実在の作家グレイ・アウルの伝記を書いた(http://bluejays.web.fc2.com/grey_owl.htm)。彼もまた育った家に適応できず、虚飾の生活を捨て、自分の本来いるべき場所を探してさまよい、最後に己の全てを捨てて異世界の住人になった。彼は自分らしく生きるため、自分を偽って生きる道を自ら選んだ。それは、自分の意志ではなく運命として、泣きながら自分が生まれた世界に戻って行くかぐや姫の人生とは、似ているようだが正反対であろう。 ■捨丸はどこかで再登場するだろうと思っていたら、案の定だった。かぐや姫は月に帰る前に、最後の心残りである里に帰り、捨丸との再会を果たす。どこまでも飛んで行く二人は幻想の世界にいるようで、夢オチのようにも見えるが、私は「時をかける少女」と同様に記憶を操作されたと解したい。つまり、二人は実際に再会したのだと。 ■自然の営みに比べたら、人の一生は一睡の夢のようなものかもしれない。かぐや姫は、地球はそんなにいいところなのかと憧れたため、罰として死も悲しみもある地球に送られた。だが彼女は、この世には死も悲しみもあるからこそ、生も喜びも感じることができるのだと知った。我々の心が欠乏を覚えるのは、そのありがたみを知っているからだ。限りある人生だからこそ、かげかえのないものなのだ。
[地上波(邦画)] 7点(2015-03-16 07:52:24)
17.  サイダーハウス・ルール 《ネタバレ》 
ホーマーは、育ての親ラーチの言いつけで堕胎の手伝いをすることに疑問を抱く。医師の免許もない彼は「ぼくは医者じゃない」と言う。「自分を必要としている人がどこかにいるはずだ」と考えていた彼は、孤児院を出てリンゴ農場で働くことにした。■寄宿舎には「サイダーハウス・ルール」が貼られていたが、労務者たちは文字が読めなかった。字の読めるホーマーが声に出して読むと、そこには「酒に酔って機械を操作するな」「屋根の上で寝るな」などと書かれていた。あまりの馬鹿馬鹿しさに、Mr.ローズが言う。「これを書いたのはここに住んだことのない奴だ。俺たちのルールは俺たちで決める」。■そのMr.ローズは、娘ローズを溺愛するあまり、性的関係を持ち妊娠させていた。救いの手を差し伸べようとするホーマーに、Mr.ローズは「お前には関係ない」と言う。だがホーマーは、ローズに言う。「ぼくは医者だ」。医師の免許を持っていないことをあれほど気に病んでいた彼が、自ら医者だと名乗り出たのだ。ラーチの言いつけでではなく、彼は自分の意思で堕胎手術を決意する。■ローズもまた、父親の言いなりではなく、自分の人生を求めた。彼女は父親をナイフで刺し、家出する。そして最愛の娘を失ったMr.ローズは、そのナイフで自死を選ぶ。労務者たちはMr.ローズの遺体が搬出されるのを、屋根の上から見守る。■「ルールは当事者が決めるべきだ」という本作の強いメッセージが、「産むかどうかは女が決めることで、法律や宗教が決めることではない」というテーマを暗示しているのは明らかだ。だが本作は、堕胎問題のみならず、「自分のルールは自分で決めろ、たとえ社会のルールと合致しなくても」という普遍的な問題にまで昇華している。ラーチは、苦しむ女性のため違法な堕胎を行うだけでなく、ホーマーの経歴を偽造し、ホーマーが徴兵されないようレントゲン写真のすり替えまで行った。ルールを破ったラーチもまた、親としての愛情ゆえだったのだ。■ラーチの死によって、ホーマーは自分が必要とされている場所がどこなのかを気づかされる。彼は汽車に乗り、孤児院に帰る。汽車のシーンが何度か登場するのは、「敷かれたレールの上を行くだけの人生」を象徴しているのだろう。ホーマーはそれを拒否して巣立って行ったが、今度は自分の意志で帰って来た。孤児の彼にとって、本当はここが帰るべき家だったのだ。
[地上波(吹替)] 7点(2013-05-06 16:06:25)
18.  アイズ ワイド シャット 《ネタバレ》 
 裸の男女が見境いなく乱交するというシチュエーションに萌えるのは、社会的地位のない人かもしれない。社会的地位のある人は、誰とでもというわけにはいかないだろうし、自分を飾っている衣服(社会的地位の象徴)を全てはぎ取られることに耐えられないだろう。ビルは現に「服を脱げ」と言われたとき、従わなかった。   衣服などしょせん虚飾であり、地位も虚飾だが、たいがいの人はそれなしには耐えられないだろう。だからこそ娘に売春させながら「警察呼ぶぞ」などと芝居する親がいたり、父親の死に居合わせたビルに欲情し求愛しておきながら、婚約者が来ると何事もなかったかのように振舞ったりする。  ビルは2日間でいろいろなものを見たが、何一つとしてその本質を見ることはなかった。婚約していながら求愛する女、客引きをする娼婦、ニックの放浪生活、貸衣装屋の親父と娘、謎の仮面パーティ、そしてミスコン元女王の死。彼女たちは、それまでも確実に街に実在していてはいたが、ビルが決して見ることも存在を知ることもない、見下していた連中だった。だが実は、仮面を被った世界こそがありのままの情欲をさらけ出した世界であり、仮面のない世界こそ仮面で真実を隠した世界だったのだ。我々の見る現実などというものは、欲望や妄想に服を着せたりしたものでしかない。  水面上では別世界でも、水面下では実は患者や同級生を通じてつながっている世界である。表向きは別世界の人を装っても、服を脱ぎ捨て、欲望と妄想を露わにすれば、人は誰しも同じ世界の住人かもしれない。水面上の世界では、医師として義理で救命しアドバイスしただけなのに、水面下の世界では心から感謝されて、逆にアドバイスされ、命まで助けられる。このような奇妙な世界もまた、我々が住む街のもう一つの現実であろう。   人は何でも経験できるわけでもなければ、どこででも生きられるわけでもない。危険を避けるためには、目を大きく見開いて現実を見る必要があるが、見ても理解せず、見ても見ぬふりをすることもまた、虚飾に満ちた世界には必要なことなのかもしれない。    「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。  確かに見てはいるが、決してわからない。  この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。」  (マタイ福音書13章)
[地上波(字幕)] 7点(2012-01-04 18:05:18)
19.  時をかける少女(1983) 《ネタバレ》 
 切ないラストシーンのあと、その余韻を打ち破り、あらすじを再度辿りながらヒロインが歌うエンディングは、シュールすぎて公開当時は物笑いの種になっていたようだ。本編では、彼女の愛は悲しい運命の前に引き裂かれる。それがエンディングでは、ヒロインが振り向き際に深町にぶつかり、顔を上げ、自分を見守る深町を見て微笑むシーンで終わる。それは、現実の歴史では実現しなかった夢物語である。本編では幸せになれなかったヒロインに、もう一度やり直すチャンスを与えてくれた大林監督の親心を、私は評価したい。   我々の人生には、やり直しなどない。SFのようにタイムリープなどできないとわかっている。今では変わってしまった竹原の町並みも、あどけない17歳の原田知世も、もう戻っては来ない。だからこそ、NGを出してやり直しを請う原田知世が、たまらなくいとおしい。   「尾道三部作」第2作の本作で大林監督は、古風な竹原の町で、愛した人の記憶を消されてしまう物語を描いた。監督が訴えようとしたのは、失われていくもののいとおしさだったに違いない。第1作「転校生」では、ヒロインがボーイフレンドに別れを告げたあと、振り向いてスキップを踏んで帰るラストシーンを描き、忘れること、思い出にさよならを告げること、それが大人への階段を登ることなんだと訴えた。ところが本作では、二人とも記憶を消されるからたとえ会ってもお互い判らないと言う深町に、ヒロインは「分かるわ、私には」と断言する。そして遠のく意識の中で「さようなら、忘れない、さようなら」と訴えるのである。   過去を失うことは、つまるところ、未来を失うことなのだろう。過去の経験があってはじめて、未来があるからだ。それゆえヒロインは、たとえ傷つくとわかっていても過去の真実と向き合う道を選び、深町もまた、掟に背いてでも彼女の気持ちに応え、全てを告白した。    10年後、大学の廊下で偶然出遭ったヒロインと深町は、デジャブを感じながら互いに振り返る。カメラが後ろにすうっと引いて行き、深町がみるみる遠くなっていく演出には、胸が締め付けられる思いがする。   指の傷は癒えても、傷跡は消えることはない。たとえ愛した人の記憶は消えても、人を愛した記憶は心の片隅に残るものなのだろうか。  「預言はすたれ、知識もすたれる。   だが愛はいつまでも絶えることはない。」(第一コリント13章)
[地上波(邦画)] 7点(2010-01-24 20:27:50)(良:4票)
20.  パッセンジャーズ 《ネタバレ》 
「シックスなんとか」から9年、「アザーなんとか」から7年が経ち、同じネタを使い回していることへの批判の声が高い。だがそれらの作品が霊と人との交流を描いたのに対し、本作は登場人物のほぼ全員が幽霊であり、現世の人は主人公が「成仏」したあとに登場するマンションの管理人と、主人公の姉とその夫の3人だけである。 ロケのシーンでは、通行人の姿が全くないことに不自然さを覚えるが、もちろん意図的なものだ。作品を通して陰鬱な雨模様で、撮影は乾燥したハリウッドではなく、私がかつて暮らしたバンクーバーが選ばれた。バンクーバーは11月は毎日雨であり、エリックの家の周辺のシーンは、イーストサイドで撮られている。この界隈は寂れていて、実際に人を見かけることが稀だ。
[インターネット(字幕)] 6点(2023-04-08 20:49:01)(良:1票)
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