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自己紹介 映画を観る楽しみ方の一つとして、主演のスター俳優・演技派俳優、渋い脇役俳優などに注目して、胸をワクワクさせながら観るという事があります。このレビューでは、極力、その出演俳優に着目して、映画への限りなき愛も含めてコメントしていきたいと思っています。

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1.  スリーピー・ホロウ 《ネタバレ》 
この映画「スリーピー・ホロウ」は、幻想的でダークでファンタジックなティム・バートンワールド全開のゴシック・ホラーの大傑作だ。  とにかく、幻想的でダークでファンタジックなティム・バートンワールドに魅せられる素敵な映画です。  この「スリーピー・ホロウ」は、ワシントン・アーヴィング原作の「スリーピー・ホローの伝説」の映画化作品で、ティム・バートンが当時、「シザー・ハンズ」、「エド・ウッド」に引き続き、盟友のジョニー・デップとタッグを組んだゴシック・ホラーです。  18世紀のニューヨーク郊外の村、スリーピー・ホロウでは夜な夜な馬に乗って現われては住人の首を掻き切る首なし騎士が人々を恐怖のどん底に陥れていました。  斧を振りかざした首なし騎士が、漆黒の馬にまたがり、闇夜を疾走する場面の絵になる事といったらありません。 村を丸ごと作ってしまったというセットも素晴らしい雰囲気を醸し出していますし、霧が立ち込める不気味な夜は、色彩も美しく、優れて絵画的でもあります。  つまり、この映画はまさしく、現代の映画作家の中で、最も寓話的な作家であるティム・バートン監督によるファンタジーな絵本の世界を映像化したものだと思います。  そして、これらの幻想的でダークな、鳥肌が立つくらいに綺麗で美しい映像を撮影しているのが、何と「ゼロ・グラビティ」、「バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」、「レヴェナント:蘇えりし者」で3年連続でアカデミー賞の最優秀撮影賞を受賞という快挙を成し遂げた、メキシコ出身の天才撮影監督のエマニュエル・ルベツキ。  初めてこの映画を観た時、この撮影は何と凄いのだろうと衝撃を受けた時の記憶が甦り、当時からルベツキの撮影技術が素晴らしかったという事がわかります。  この映画にはかつて、バートン監督が偏愛した1960年代のハマー・フィルム社の"怪奇映画"に対するバートン監督のリスペクト、オマージュに満ち溢れています。  バートン監督は、「当時の怪奇映画は映像的には美しかったが、スタジオ撮影のシーンとロケ撮影のシーンとの間に大きな隔たりがあった。 その隔たりを埋めようとして、セットはもっと現実っぽく、実際の風景は作り物っぽくなるようにした」と語っていて、バートン監督のこの狙いが見事に成功していると思います。  更に、首なし騎士の造形に見られるように、バートン監督が、「シザーハンズ」、「バットマン」、「バットマン・リターンズ」で描いてきた"異形の者"への偏愛も健在で、それまでに磨いてきた映像テクニックを縦横無尽に使い分け、自分の創造性を"さらり"と表現してみせる技を習得した彼は、まさに円熟の境地に達した感があります。  そして、この映画の最大の見どころはやはり、ヘンテコで奇妙な器具をこねくり回して、頑固な程に科学的な捜査を試みるジョニー・デップと村の迷信的な存在である"首なし騎士"との対決です。  科学的な合理性と超自然的な怪談の激突を、頭でっかちな男VS首なし騎士の対決として象徴的に描いているのが面白くてたまりません。  この首なし騎士を演じるクリストファー・ウォーケンの唸り声以外、セリフが全くないにもかかわらず、あの"美しくも怖い顔"で、我々観る者を恐怖のどん底に落とし込む程、怖がらせてくれて見事の一語に尽きます。  デップが古い伝説的な迷信にとり憑かれた村人に囲まれて、ひとり大真面目に捜査を行なう様子はいささか滑稽で、いざという時に臆病風邪を吹かせてしまうというキャラクターにも愛着が持てます。  そして、バートン監督は、我々観る者に謎解きという知的ゲームを与えておきながら、全く考える余裕すら与えない程に衝撃的な首切り殺人や戦慄の映像を畳みかけ、観ている側を完全にパニック状態に陥らせてしまいます。  そして、苦悩する主人公のデップと同様に、我々観る者の、理性を保とうとする機能までも破綻させてしまいます。 この演出技法には全くお手上げで、本当に心憎い監督です、ティム・バートンは。  映画の終盤には、西部劇ばりのワクワクするような、血沸き肉躍る、騎馬チェイスが用意されていて、エンターテインメント性にも満ち溢れていて、カルト的なのに大娯楽映画。  これこそが、まさにバートン監督映画の魅力であり、彼のように鮮やかに自分の趣味とビジネスを両立させている監督は、長いハリウッド映画の歴史の中でも、極めて稀な存在だと思います。
[CS・衛星(字幕)] 10点(2023-11-16 15:07:54)
2.  ブリキの太鼓 《ネタバレ》 
この映画「ブリキの太鼓」は、奇想天外で挑発的な映画的陶酔を味わえる珠玉の名作だと思います。  映画「ブリキの太鼓」は1979年のカンヌ国際映画祭でフランシス・F・コッポラ監督の「地獄の黙示録」と並んでグランプリ(現在のパルムドール賞)を獲得し、また同年の第51回アカデミー賞の最優秀外国語映画賞も受賞している名作です。  原作はギュンター・グラスの大河小説で二十か国語に翻訳されていますが、あとがきの中でグラスは、この小説を執筆した意図について「一つの時代全体をその狭い小市民階級のさまざまな矛盾と不条理を含め、その超次元的な犯罪も含めて文学形式で表現すること」と語っていて、ヒットラーのナチスを支持したドイツ中下層の社会をまるで悪漢小説と見紛うばかりの偏執狂的な猥雑さで克明に描き、その事がヒットラー体制の的確な叙事詩的な表現になっているという素晴らしい小説です。  この映画の監督は、フォルカー・シュレンドルフで、彼は脚本にも参加していて、また原作者のギュンター・グラスは、台詞を担当しています。  原作の映画化にあたってはかなり集約され、祖母を最初と最後のシーンに据えて全体を"大地の不変"というイメージでまとめられている気がします。  そして映画は1927年から1945年の第二次世界大戦の敗戦に至るナチス・ドイツを縦断して描くドイツ現代史が描かれています。  この映画の主要な舞台は、ポーランドのダンツィヒ(現在のグダニスク)という町であり、アンジェイ・ワイダ監督のポーランド映画の名作「大理石の男」でも描かれていたひなびた港町で、この町は第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約により国際連盟の保護のもと自由都市となり、そのためヒットラー・ナチスの最初の侵略目標となりました。 まさにこの映画に出てくるポーランド郵便局襲撃事件は、第二次世界大戦の発火点になります。  そしてこの映画の主人公であり、尚且つ歴史の目撃者となるのが、大人の世界の醜さを知って三歳で自ら1cmだって大きくならない事を決意して、大人になる事を止めてしまったオスカルは、成長を拒否する事によって、ナチスの時代を"子供特有の洞察するような感性と視線で、社会や人間を観察していきます。  オスカルは成長が止まると同時に、不思議な超能力ともいうものが備わり、太鼓を叩いて叫び声を発すると居間の柱時計や街灯のガラスが粉々に割れたりします。  この奇声を発しながらブリキの太鼓を叩き続けるオスカルの姿は、ナチスによる支配下のポーランドの歴史そのものを象徴していて、フォルカー・シュレンドルフ監督は、原作者のギュンター・グラスの意図する二重構造の世界を見事に具現化していると思います。  超能力などの非日常的な要素を加味しながら、ポーランドの暗黒の時代を的確に表現した映像が、我々観る者の脳裏に強烈な印象を与えてくれます。  その暗いイメージは、特に海岸のシーンで象徴的に表現していて、不気味な映像美に満ち溢れています。  オスカルは、ドイツ人の父親を父として認めず、ポーランド人の実の父をも母を奪う男として受け入れません。 この二人の父親は、オスカルが原因となって不慮の死を遂げ、また気品と卑猥さが同居する母親も女の業を背負って狂死します。  この映画の中での忘れられない印象的なシーンとして、第二次世界大戦下、オスカルの法律上のドイツ人の父親は、ナチスの党員になり、パレードに参加します。  そのパレードの最中に威勢のいいマーチがファシズムを讃え、歌いあげる時、演壇の下に潜り込んだオスカルが太鼓を叩くと、マーチがワルツに変わってしまい、ナチスの党員たちまでが楽しそうにワルツを踊り始めるというシーンになります。 この意表をつく映像的表現には、まさに息を飲むような映画的陶酔を覚えます。  このダンツィヒは、歴史的には自由都市でしたが、ポーランドの領土になりドイツ人の支配を受け、その後、ソ連軍によって占領される事になります。  オスカルは戦後、成長を始めましたが、若い義母と一緒に、列車で去って行く彼を郊外から一人で見送る祖母の姿に、ポーランドという国が抱える拒絶と抵抗と絶望との暗い時代を暗示しているように感じられました。  尚、主人公のオスカルという子供が成長を止めたというのは、第二次世界大戦下、ナチス・ヒットラーの暗黒時代をドイツ国民が過ごした事の象徴であり、撮影当時12歳だったダーヴィット・ベネントのまさに小悪魔的な驚くべき演技によって、見事に表現していたように思います。  とにかくこの映画は、全編を通して奇想天外で挑発的であり、映画的陶酔を味わえる、まさに珠玉の名作だと思います。
[DVD(字幕)] 10点(2023-08-28 08:59:54)
3.  ラスベガスをやっつけろ 《ネタバレ》 
「ラスベガスをやっつけろ」は、天才映像作家テリー・ギリアムが、失われたアメリカン・ドリームの末路をシニカルに皮肉り、笑い飛ばすブラック・ユーモアの快作だと思います。  この映画「ラスベガスをやっつけろ」の原作は、1971年に発表された歴史に名を残す悪名高きジャーナリストのハンター・S・トンプソンの、"カウンター・カルチャーのバイブルとも言われている、自伝的なドキュメント「ラスベガス★71」で、その破天荒で独創的な毒気のある内容から、映画化は到底、不可能と言われてきましたが、鬼才・テリー・ギリアム監督が見事に映像化した作品だと思います。  テリー・ギリアム監督は、反体制のスピリットを持つ映画作家で、イギリス最高のブラック・ユーモア集団の"モンティ・パイソン"の創立メンバーの一人で、彼の怪物的ともいえるイマジネーションの世界観、映像の魔術は、我々、観る者を圧倒してやみません。  特に彼の代表作である、「未来世紀ブラジル」でこの悪魔的な映像魔術の世界が最高度に発揮されていたと思います。  "ありとあらゆるドラッグをトランクに詰め、一路ラスベガスへと向かったふたり----いったい何処だ、アメリカン・ドリーム!?"と謳われているこの原作は、ラルフ・ステッドマンの狂気的な挿絵が満載で、"ゴンゾー・ジャーナリズムの金字塔"とも言われ、原作を読み終わった今でも、この強烈なインパクトは私の脳裏にいつまでも長く、残照のように残っています。  ジョニー・デップ演じる、原作者のハンター・S・トンプソンの分身であるジャーナリストのラウル・デュークとベニチオ・デル・トロ演じるサモア人の弁護士のドクター・ゴンゾーの二人は、真っ赤なスポーツカーに"治療薬"と称して、あらゆるドラッグを大量に詰め込んでラスベガスで開催されるバギー・レースの取材に向かいます。  カメレオン俳優としても有名なこの二人の俳優は、ジョニー・デップが原作者のハンター・S・トンプソンの家に長期間泊まり込み、完璧に彼の一挙手一投足を自分のものにして彼になりきり、頭髪も禿げ頭にしました。  また、ベニチオ・デル・トロは、役作りのために20kg体重を増やして撮影に臨んだというエピソードが残っており、この映画の役作りに賭ける二人の強い執念が感じられます。  怪獣の尻尾を付けたり、ガニ股でラリッてヨタヨタとだらしなく歩くデップと不気味なふてぶてしさを体中から発散させるデル・トロ、本当にこの二人の演技の凄さに圧倒されます。  二人はホテルへ到着早々、取材をせずにドラッグ三昧、もうやりたい放題し放題、無茶苦茶な騒動を次から次へと引き起こす彼等の真の目的は?----という展開になっていきます。  とにかくこの二人、ラリッて頭の中が完全にトリップした人間が見るような、幻覚に満ち溢れた映像の魔術的な強烈なインパクト。  奇妙奇天烈にグニャグニャと歪んで変形するホテルのフロントの顔、突然、動き出す床の絨毯の模様、爬虫類に変化して暴れ回るバーの客など、とにかくケバケバしい極彩色に彩られた、奔放で怪物的なイマジネーションの世界が、これでもか、これでもかという具合に繰り広げられ、それらは笑いを通り越して、もはや"醜悪そのものの世界"になっていきます。  このテリー・ギリアムの世界観についていけない人はこの段階で、もうギブ・アップでしょう。 テリー・ギリアムの映画はいつも観る人を選ぶんですね。  そして彼はいつも、"夢想や幻想の力だけを頼りに、現実と切り結び、今ここにある現実を変革しようとまでする無謀な人間を好んで描き、夢想や幻想を現実化してみせ、自らも自由の羽を付けて飛翔する事を願い、既存の体制的な社会に反旗を翻している"のだと思います。  この狂ったような破天荒な行動を繰り広げる二人の大義名分、つまり、原作者のハンター・S・トンプソンが、原作で訴えたかったテーマは、"失われたアメリカン・ドリームを求めての旅"だと思います。  そして、この映画の最大の魅力は、1960年代から1970年代へかけての時代の大きな変革期に、アメリカ人が追い求めてきた"アメリカン・ドリーム"の末路をシニカルに皮肉り、笑い飛ばし、来たる次の世代への警鐘を鳴らした事だと思います。  尚、この映画にはブレークする前の現在のトビー・マグワイアからは考えられない意表をつく役で出演しており、キャメロン・ディアス、クリスティーナ・リッチもカメオ的な出演をしていて、映画ファンとしては思わずニヤッとするお楽しみもあります。
[DVD(字幕)] 9点(2023-11-16 15:40:33)
4.  チャイナ・シンドローム 《ネタバレ》 
チャイナ・シンドロームとは、原子力発電所で起こり得ると考えられる事故の最悪のものを言い、原子炉内部の高熱を事故でコントロール出来なくなり、発電所そのものがドロドロに溶解し、巨大なマグマの塊となって、それ自体の重量でどんどん地中に沈んでいき、地球を貫き、遂にはアメリカの反対側の中国に突き抜けてしまうだろうというところから来ているんですね。  この映画「チャイナ・シンドローム」の公開の前年には、我が日本でも黒木和雄監督の「原子力戦争」でも、ある原子力発電所で、それに至る可能性を含んだ事故が起こったことを、告発しようとした技術者が消されるというシチュエーションを扱っていましたが、このアメリカ映画もまた似たような着眼で作られていますね。  これは、偶然の一致というよりも、原子力発電の安全性に危惧を抱く者は誰でもそのことを考えるのだと思います。 ただ、日本では、それを余り評判にならないATG映画の低予算の小品でしか作れなかったが、アメリカでは、さすがに堂々たるメジャーのエンターテインメント作品として作り上げることに成功していると思います。  そこに、映画人の発想のスケールの違い、ひいては、民主主義の成熟度の違いがあり、また、それを支える原子力発電反対の層の厚さの違いもあるのだと思います。  もっとも、この映画がアメリカで大きな話題になり、興行的にも成功した要因として、封切り三週間後の1979年3月28日、ペンシルヴェニア州スリーマイル島の原子力発電所の二号機が事故を起こし、地域の住民が被曝するという、原発事故としては最大級の事件となり、大統領が自ら対策の指揮に当たるという事態になったからなんですね。  最悪の場合、穴が中国に届くというのはオーバーであるにしても、アメリカ国土の相当の部分が死の灰に覆われる可能性があったと言われ、人々は改めてこの映画に注目したのだと思います。  主演のジェーン・フォンダは、当時から反体制運動の活動家として有名ですが、この映画でも彼女自身がそうであるような役を演じていますね。  ロサンゼルスのテレビ局のニュース・キャスターのキンバリー・ウエルズ(ジェーン・フォンダ)は、ある日、カメラマンのリチャード(マイケル・ダグラス)と録音係を伴って、原子力発電所の取材に出かけたところ、突然、所内に振動が起こり、制御室が大騒ぎとなった。  放射能漏れがわかり、原子炉の運転が停止される。 キンバリーは、この騒ぎをフィルムに収めるが、局の上司に押さえられ放送されなかった。  不満なリチャードは、フィルムを密かに隠し持って物理学者に見せたところ、もう少しでチャイナ・シンドロームになるところだったと聞かされる。  一方、原子力発電所の技師ジャック・ゴーデル(ジャック・レモン)は、原子炉の運転が再開されたものの、なお不安を隠し切れず、調べたところ、事故の原因が建設当時、パイプ結合部を担当した業者の手抜きにあることを突き止め、真相を隠そうとする上役に反対して制御室を占拠し、言うことを聞かなければ、核物質を漏らすと脅し、キンバリーたちテレビの取材班に真相を発表する。  発電所側は、ジャックを騙して射殺し、真相を闇に葬ろうとするが、キンバリーたちは勇気を持ってそれを発表するのだった。  この映画は、こうした時代の核心を鋭く突いた、社会派映画の秀作だと思います。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2023-11-07 18:30:55)
5.  八甲田山 《ネタバレ》 
指揮権の所在と責任の明確化、指揮官の資質と判断力の重要性、周到な調査と準備の必要性などと共に、大自然に対する畏敬の念の重要性をも考えさせられる映画が、この「八甲田山」だと思います。  この映画「八甲田山」は、「砂の器」に次ぐ第二作として、橋本プロダクションが東宝映画と製作提携した作品で、脚本は橋本忍、監督は「動乱」「海峡」の森谷司郎、原作は新田次郎の「八甲田山 死の彷徨」。  昭和49年2月にクランクインしてから、3年余の歳月と7億円の製作費と30万フィートを超すフィルムを費やして完成された、当時の日本映画界にあっては未曾有の超大作です。  この映画のテーマについて、森谷司郎監督は、「厳しい自然と人間の葛藤を通して、人と人との出会い、その生と死の運命を描かなければならない。自然の思いがけない不意打ちと、それに対応しようとする人間の闘い、その強さと、胸にしみるような悲しさを八甲田山中の、人間を圧倒するような量感で迫ってくる雪の中で、アクティブに描きたい。それには映画のもつ表現力が、もっとも強く迫ることができるにちがいない」と語っています。  原作と映画を比較する事は、もともと芸術の分野が違っているので適当ではないかも知れませんが、雪におけるこの原作と映画の表現に差がある事を、原作者の新田次郎は認めています。  彼は、雪に対する"筆の甘さ"に対して、「この映画は、雪を完全にとらえることができたから、雪を背景として起こった人間ドラマを完全に映像化することに成功したのであろう」と率直に語っています。  地吹雪、雪崩、その雪の中の絶望的な彷徨を、厳しく、しかも美しく描き出した映像には、この映画に参加した人達の肉体の限界に迫る苦労が、そのままにじみ出ており、芥川也寸志の音楽をバックに映画のもつ圧倒的な表現力が生かされているように思います。  日露戦争直前の明治35年1月21日、弘前を出発した第31連隊の徳島大尉(高倉健、実名は福島泰蔵大尉)の率いる部隊は37名、その大半が士官であり、十和田湖を迂回して八甲田山に入る10泊11日間、240kmの行程は無謀に見えましたが、綿密で周到な準備と道案内によって万全が期せられていました。  一方、1月23日に青森を出発した第5連隊の神田大尉(北大路欣也、実名は神成文吉大尉)の率いる部隊は211名、2泊3日、50kmの行程は一見容易に見えましたが、混成の部隊であり、第二隊長山田少佐(三國連太郎、実名は山口勲少佐)らの大隊本部が同行しており、指揮命令系統に混乱があると共に、大部隊のため食糧、燃料の運搬のためのソリ隊が足手まといとなっていたし、案内人も雇っていませんでした。  この部隊は初日に目的地の田代まで、後2kmのところで道を見失っていて、零下22度、風速30m、体感温度零下50度という猛吹雪の中で、死の彷徨が続くのです。  1月27日に徳島隊が八甲田山に入った時には、神田隊は壊滅状態になっていましたが、徳島隊は全員無事に踏破に成功したのです。  神田隊の生存者は山田少佐以下12名、凍死199名。 映画はこの両隊の劇的な成否を交互に対比させながら描いていますが、もっと我々観る者にわかりやすくするために、随時、現在地を示す地図を入れるとか、隊名やそのルートを入れるというような工夫が必要だったのではないかと思います。  この映画を観終えて、指揮権の所在と責任の明確化、指揮官の資質と判断力の重要性、周到な調査と準備の必要性、そして、環境の急変に対する臨機応変な適切な対応、特に大自然に対する畏敬の念と慎重な行動の重要性と言う事をつくづく考えさせられました。  尚、八甲田山の踏破に成功した徳島(福島)大尉は、却って、その後、冷遇されたうえ、日露戦争では雪中行軍の生き残りと共に、酷寒の黒溝台の激戦で戦死しています。 この事から、八甲田山で起こった事実を隠蔽しようとする陸軍の陰謀の匂いを感じてしまいます。  また、事実として、その後、自決した山田(山口)少佐の実像は、映画のような悪役的な人ではなかったと言われています。 問題は、危機に耐える事が出来なかった神田(神成)大尉の弱さにあったように思われます。  最も困難な時点で、徳島(福島)大尉は、「吾人もし天に抗する気力なくんば、天は必ず吾人を亡ぼさん。諸子、それ天に勝てよ」と兵に告げているのに、神田(神成)大尉は、「天はわれ等を見放した。俺も死ぬから、全員枕を並べて死のう」と絶叫しているという事からも推察できるのです。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2023-08-28 08:53:39)
6.  チャイナタウン 《ネタバレ》 
この映画「チャイナタウン」は、レイモンド・チャンドラー、ロス・マクドナルドへのオマージュを込めたハードボイルド探偵映画の傑作だと思います。  この映画「チャイナタウン」の舞台となっている1930年代のロサンゼルスは、アメリカ社会が東海岸から西海岸へと発展の波を広げて行った時期に、太平洋岸最大の近代都市を形成しつつありました。  だが、そうした急速な膨張の反面には、かなりの無理がまかり通って来るもので、当然の事ながら、そこには不当な利権や醜い政治的な裏取引が蔓延して来ます。  この映画は、そのような時代背景の中に、それぞれの数奇で不条理な宿命とでも言うべき運命を背負って、哀しみの中で生きる人間たちの苦悩、葛藤をスリリングに、尚且つドラマティックに描いています。  レイモンド・チャンドラー、ロス・マクドナルドという二人のハードボイルド・ミステリー作家へのオマージュを込めて、しかも、ロバート・タウンのオリジナル脚本によって、それまでのどの映画よりも1930年代のロサンゼルスのハードボイルド探偵映画らしく映画化されていて、複雑で錯綜する話の内容をハードボイルド的なサスペンスでたたきこんでゆくので、一時たりとも画面から目が離せません。  ストーリーや当時の風俗やしぐさが、それらしいだけではなく、この映画製作に携わった人々は、"ハードボイルド的世界の精神"をきちんとつかんでいるし、主役の過去を秘めた虚無的な私立探偵ギテスを演じるジャック・ニコルソンの"シニシズムと人間臭さ"がまた映画好き、探偵小説好きにはたまらない魅力があります。  この映画は、1930年代のロサンゼルスの陽光きらめく太陽の底に淀む、退廃的なムードと虚無感に満ちた、陰湿な世界が展開されていますが、脚本のロバート・タウンは、そのレイモンド・チャンドラー的ハードボイルドの世界を見事に再構築していると思います。  監督は「戦場のピアニスト」、「ローズマリーの赤ちゃん」の名匠ロマン・ポランスキーで、彼は1933年生まれのポーランド系ユダヤ人で、第二次世界大戦中にその子供時代を過ごし、母親をナチスの強制収容所で失うという、悲惨で哀しいトラウマを抱えた過去を持っています。  この映画のラストの30分の思いがけない意表を衝く結末については、これは有名な話ですが、監督のポランスキーと脚本のロバート・タウンで意見が分かれ、ポランスキーの主張する不幸な結末でなければ、この映画のテーマが台無しになってしまうという意見が通り、この結末になったそうですが、やはりラストはこの結末以外には考えられません。  警察も手が出せない政財界の大物であるクロス(ジョン・ヒューストン)が、「時と所を得れば人間は何でも出来るのだよ」という神をも恐れぬセリフは、ポランスキー監督の人間不信の言葉でもあるような気がします。  このクロスを「マルタの鷹」等のハードボイルド映画の監督でもあるジョン・ヒューストンが、実に憎々しげでアクの強い人間像を演じて見事です。  そして、クロスの娘であり、また女でもあるという"複雑で哀しい宿命を背負い、妖気と虚無的で退廃感の漂う"人妻イブリンを演じるのが、フェイ・ダナウェイで、彼女が十字架として背負う哀しい宿命は、彼女の左の緑の瞳の中の小さな黒点として象徴されています。  彼女の瞳の中にその黒点を認めた時、共に暗く哀しい過去を持つギテスとイブリンは、宿命の糸で結ばれます。 しかし、その愛はほんの束の間で、急速に回転し出した運命の歯車は、一気にカタストロフィへ突き進んで行きます。  車でロサンゼルスから逃れ去ろうとするイブリンを背後から撃った警官の銃弾が撃ち抜いたのは、彼女の左目である事を我々観る者は見落としてはいけないと思います。  映画の題名である"チャイナタウン"が、この映画の舞台になるのは、この最後の10分程の短いラスト・シークェンスにすぎませんが、なぜ、このチャイナタウンを映画の題名にしたのかという事を考えると、"チャイナタウン"は、アメリカの街の中の異境であり、迷路のようなこの街の中に、ポランスキー監督は、ポーランドでのゲットーと同じ安らぎを見出し、併せて、自分の妻のおぞましい惨劇を引き起こしたアメリカへの批判をしているとしか思えてなりません。  紙屑が舞い、野次馬が去って行く薄汚いチャイナタウンの夜のシーンは、哀しさと怒りを込めた、静かな中にも深く、優しさに溢れた名ラストシーンだと思います。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2023-08-24 17:08:11)
7.  ジュリア 《ネタバレ》 
フレッド・ジンネマン監督の「ジュリア」は、知的に美しく、見事な深度と品格を持つ、映画史に残る秀作です。  アメリカの代表的な女流劇作家リリアン・ヘルマンは、"女流"という特別扱いを拒否し、また、かつて悪名高い"赤狩り"の時代における、勇気ある行動でも知られる、いわば最高のインテリ女性だが、その彼女の自伝的回想の物語だ。  一人の優れた、魅力的な女性リリアン(ジェーン・フォンダ)の、生き方に、人格に、精神形成に、少女時代から関わった、女友達ジュリア(ヴァネッサ・レッドグレーヴ)と、結婚の形をとらずに、三十余年の生活を共にした、愛人の探偵作家ダシェル・ハメット(ジェーソン・ロバーズ)の二人。  良き友情と、良き愛情に恵まれたヒロインの、いま老いて孤高の、だが寂寥の姿に、人生の重みが切々と迫って、深い感動に、目頭が熱くなってきます。  ユダヤ系の名門の大富豪の孫娘に生まれて、優雅と気品と理知と、勇気と感性で、幼い頃から、リリアンを心酔させた、親友のジュリアは、やがて、イギリスを経て、留学地のウィーンから姿を消す。  追われる反ナチ運動の闘士となったジュリアの、その潜伏先ベルリンに、今や売り出し中の劇作家リリアンが、命懸けで、反ナチ運動の資金五万ドルを運ぶことに--------。  全編のハイライトである、このヨーロッパ大陸横断列車の旅は、フレッド・ジンネマン監督の、ヒリヒリするような、息詰まるサスペンス醸成の演出が、実に見事だ。  この後、やつれ果てた、無惨な義足のジュリアとの再会のシーンは、ヴァネッサ・レッドグレーヴの名演技が、ある種の凄味さえ帯びて、圧倒されます。  そうした"ジュリア"とは、つまりは、リリアンという女性にとっての"幻の鏡"だ。 彼女の理念と情念の象徴なのだ。 そのリリアンが、ハメットの豊かな愛に包まれて見せる、女らしさが、とても愛おしい。  脚本のアルビン・サージェントと老匠フレッド・ジンネマン監督が、ジュリアを"心に抱く"リリアンに、透徹の眼差しを注ぐ、静かに熱い、女性讃歌が、痛いほどに私の胸を打ちました。
[DVD(字幕)] 9点(2021-06-06 08:45:41)
8.  海の上のピアニスト 《ネタバレ》 
この珠玉の名作「海の上のピアニスト」は、「ニュー・シネマ・パラダイス」のジュゼッペ・トルナトーレ監督が、一人芝居として有名なアレッサンドロ・バリッコの原作をもとに映画化し、私のように心から映画を愛する者に、また一つ忘れ難い感動を与えてくれた作品です。  船上で生まれ育ち、生涯一度も船を降りなかった天才ピアニストの数奇な運命が、唯一の親友の回顧録として語られる一大叙事詩となっています。  この映画の冒頭の客船に迫る自由の女神を目前にして、移民たちが、「アメリカだ!」と叫び、狂喜するシーンを観た時、「この映画は絶対好きになるに違いない」と確信しました。 このシーンこそが、このように"素晴らしい寓話"への入り口なんだと-------。  そして、今は落ちぶれたトランペット奏者のマックス(プルート・テイラー・ヴィンス)が、楽器屋の主人に話して聞かせるという構成で、この感動の物語は展開していきます。  生年に因んで1900(ナインティーン・ハンドレッド)と名付けられた子供は、船倉で育つ事になります。 ピアノとの出会いは、8歳の時で、一等客室に忍び込んで、ダンスホールのグランドピアノを弾きこなし、船の人々を驚かせたりします。  そして、成長したナインティーン・ハンドレッド(ティム・ロス)は、船に乗り合わせた人々が語る、陸の世界の風景や彼らの表情に浮かぶ生き様といったものに、インスピレーションを得て、その"夢や憧憬"を鍵盤に託していくのです-------。  その余りにピュアで、美しい音楽は、無垢なナインティーン・ハンドレッド自身の姿そのものなのだと思うのです。  ジャズの創始者であるジェリー・ロール・モートンの挑戦を受けて弾く、ピアノの力強さも実に聞き応えがあり、ユーモラスな雰囲気も手伝って、忘れられない名場面になったと心から思います。  陸から見える海の美しさを語り、人生をやり直すべくアメリカへと旅立った男との出会い、最初で最後の録音演奏中に、窓越しに見かけた美しい少女へのほのかな恋心。 そして、彼は船を降りる決意を固めていくのです。  しかし、果てしなく広がる摩天楼を前にして、彼は船へと引き返していくのです-------。  果たして、自分の世界に閉じこもる事を選んだ彼は、我々が共感すべくもない臆病な、人生の敗北者なのか?  いや、それは違うと思うのです。我々は彼が現代の外界が抱える"不安や毒"に触れてしまう事を望まないのです。  寓話は寓話として、美しいまま幕を閉じる事を切に臨むのです。  私は、マックスとナインティーン・ハンドレッドとの出会い、そして別れのシーンが大好きで、嵐の夜、激しく揺れる船内で、ストッパーを外したピアノの前にマックスと並んで座り、くるりくるりと回るピアノを奏でるナインティーン・ハンドレッド-------。 何ともファンタジックで、夢のような時間に酔いしれてしまいました。  そして、爆発前の船を降りて行く、マックスを見送る最後の瞬間、名残惜しそうに一度、二度と声を掛けるナインティーン・ハンドレッド。 彼のどこか弱い人間臭さを感じて、目頭が熱くなるのを禁じ得ませんでした。  とにかく、伝説のピアニスト、ナインティーン・ハンドレッドを演じたティム・ロスが、一世一代の名演技だったと思います。 穏かな表情の奥に、"先行きの見えない人生への不安"を見え隠れさせて、見事というしかありません。  そして、そんなナインティーン・ハンドレッドの切ない心情を映し出す、エンニオ・モリコーネのオリジナル・スコアの素晴らしさ。 一度きりの瞬間、瞬間を捉え、二度目はないという音楽は、様々な表情を見せ、たっぷりと感動の余韻に私を浸らせてくれました。  そして、「いい物語があって、それを語る人がいるかぎり、人生は捨てたもんじゃない」というナレーションは、そっくりそのままジュゼッペ・トルナトーレ監督の映画に対する取り組み方を表していると思います。  感動のツボを押さえた語り口のうまさは、もはや名人芸に達していて、いい物語を聞かせてあげたいというトルナーレ監督の、"温かく優しい思い"で溢れていて、楽器屋の店主が、マックスに大事なトランペットを返してやるラストの人情劇も、とても心が温まる思いで、名画を観終えた後の感動が、私の心の中でいつまでも爽やかな余韻として残り続けたのです。
[DVD(字幕)] 9点(2021-06-04 08:19:45)(良:1票)
9.  依頼人(1994) 《ネタバレ》 
この映画「依頼人」は、私が何度も観直している映画の1本で、大好きな宝物のような映画です。  「依頼人」は、法廷物を得意とする推理作家、ジョン・グリシャム原作の映画化作品で、同じく彼の原作の映画化作品の「ザ・ファーム/法律事務所」「ペリカン文書」と違って、この映画はサスペンスよりも"人間関係の確執"に、より重点を絞った内容の"人間ドラマ"になっていると思います。  11歳の少年マーク(ブランド・レンフロ)は、8歳の弟リッキーと一緒に近くの森に隠れて煙草を吸いに行き、そこで二人は偶然、見知らぬ男が、ピストル自殺する現場を目撃してしまいます。  リッキーは、その精神的なショックから植物状態になり、入院する事になります。 一方、マークは秘密を知ったため、マフィアに脅され、追われるはめになり、警察の事情聴取にも頑なに口を閉ざしてしまうのです。  知事を目指す野心家の連邦検察官ロイ・フォルトリッグ(トミー・リー・ジョーンズ)も、FBIと共にマークを追求していきます。  そして、マークは、自分と家族を守るために、わずか1ドルの所持金で、女性弁護士レジー(スーザン・サランドン)を雇い、弁護を依頼。  この二人の"心の絆"を軸に、マークに法廷で証言させようとする検察側の思惑を絡めて、スリリングな物語が展開していく事になるのです------。  事件の中心的存在であるマフィアは、物語の流れの中では、単なる脇役に過ぎず、主人公のマークと女性弁護士のレジーに対立する敵は、実はマフィア逮捕のためには手段を選ばない"検事"だという作劇の巧みさ。  それが、善悪を単純に二分化できない現代を象徴していて、実に面白いのです。  我々、庶民の象徴のような弁護士が、果敢な信念を持った態度と豊富な法律の知識で、辣腕検事をやり込める場面が特に素晴らしく、胸のすくような思いがしますが、この国民の権利を守るはずの法律が、逆に国民を縛る存在になっている現状を鋭く突いているなと思います。  そして、法律をもう一度、自分たちの手に取り戻す過程が、"民主主義の原点"を見つめ直す作業として描かれ、それが女性弁護士レジーの"自分の人生を見つめ直そう"という作業として、重層的に描かれているのです。  それがまた、少年マークのレジーを見つめる、彼の成長とも繋がっていくという、実に心憎い内容になっているなと唸ってしまいます。  レジーを演じたスーザン・サランドンの哀しい過去を引きずりながらも、弁護士としての矜持を持ち、世の中の理不尽な出来事に立ち向かおうとする弁護士像。  そして、自分だけを頼るしかない健気な少年マークに対する、優しい母性を感じさせる愛情の表現には、鳥肌の立つほどの思いで、彼女の演技力の確かさ、深さを改めて知る思いで、彼女の演技としては、彼女がアカデミー賞の最優秀主演女優賞を受賞した「デッドマン・ウォーキング」と変わらないほどの素晴らしさだったと思います。
[DVD(字幕)] 9点(2021-05-31 11:51:15)
10.  スケアクロウ 《ネタバレ》 
このジェリー・シャッツバーグ監督の「スケアクロウ」は、1960年代後半から1970年代前半にかけての、いわゆる"アメリカン・ニューシネマ"のひとつの頂点を示す秀作です。  旅をする人間は、アメリカ映画の永遠の登場人物で、この旅する人間を描く事は、アメリカ映画の"永遠のテーマ"でもあり、"ロード・ムービー"と呼ばれていますが、アメリカン・ニューシネマの抬頭以降、このテーマは、何度も繰り返して取り上げられ、純化して来たと言えます。  そして、"孤独な人間同士の結びつき、現代人の抱え込んでいる疎外感"などを描いて、アメリカという国の素顔をのぞかせようとする映画が、続々と製作されていた時代の正しく、この映画は、その思想のひとつの到達点を示す作品になったと思います。  監督のジェリー・シャッツバーグは、スチール・カメラマン出身なだけあって、斬新でスタイリッシュな映像表現を見せてくれます。 まず、映画の冒頭のシーンが見事です。  タンブル・ウイードと言われる枯草の輪が、南カリフォルニアの砂嵐に転んでいきます。 そこに、6年ぶりに出獄したばかりのマックス(ジーン・ハックマン)と、船から下りたばかりのライオン(アル・パチーノ)が偶然に出会い、マッチ一本をきっかけに意気投合します。  この二人の出会いのシーンの演出の素晴らしさで、我々、観る者は、一瞬にして、この"スケアクロウ"という映画的世界へ引き込まれてしまいます。  喧嘩早い粗野な大男のマックスと、人を笑わせる陽気な小男ライオンの、正に弥次喜多道中とでも言うべき旅が始まります。  性格の全く違う二人の男が、友情を抱きながら、カリフォルニアからデトロイトまで旅を続ける事になりますが、ジーン・ハックマンとアル・パチーノというメソッド演技の神髄を知り尽くした二人の名優が、まるで演技競争のようにして、ある意味、人生に敗れた、しがなさ、ダメさを、時にユーモラスに、時に切なく演じて、本物の演技のうまさ、凄さというものを我々、観る者に強烈なインパクトを与えてくれます。  アメリカ大陸を東に横切って、マックスの妹の住むデンバーと、ライオンが5年ぶりに会おうとする妻子の住むデトロイトへ、その間、約3,000km。 そして、最後は、二人で洗車屋を開く予定のピッッバーグへ。  シネ・モビルによる野外でのオール・ロケーション撮影は、敗残者と老人たちの蠢く街々の底辺と、広漠とした大陸の広がりを、ただひたすら淡々と映していきます。  途中の酒場でのドンチャン騒ぎの末に、ぶちこまれる豚小屋ならぬ、刑務農場、これもアメリカの知られざる隠れた一面を見せつけられます。  この映画でのアメリカ大陸横断には、かつての「イージー・ライダー」のような若々しい直線的な気負いというものがありません。 ダメになったアメリカ、しかし、"男同士の無垢な友情が絶望を突き抜けた希望"というものを育み、オプティミズムの明るい光を照射して来ます。  しかし、この映画のラスト近くで、暴力のみに頼るマックスに、笑いで生きる事の意味を教えたライオンが、妻子に裏切られたショックで錯乱しますが、マックスの力強い愛情によって救われます。  そこには、力のみで生きて来た大国アメリカの反省と、それを乗り越えて来た開拓者の自信といったものを考えてしまいます。  "スケアクロウ"とは、案山子の事ですが、「風采の上がらない、みすぼらしい奴」という意味もあり、「そう見られて、馬鹿にされるから、かえっていいんだ」という気負いを捨てた姿を言っているのと共に、「案山子を見てカラスは脅かされるのではなくて、カラスは実は笑っているのだ」、そして笑って馬鹿にして、『だからあいつの畑を襲うのはよそう』と、畑にやって来ないのだという、裏返しの見方が重なっているような気がします。  このように、ジェリー・シャッツバーグ監督の現代を視る眼は、複雑だと思います。 脅しが、本当は笑われているのだと力の空虚な誇示を批判しながらも、やはり、みすぼらしいながら、案山子のタフさを言おうとしているようにも思えます。  この映画を観終えて思う事は、アメリカでは開拓者の時代の昔から、男たちが、東から西へ、北から南へと歩いて行ったわけですが、この映画に描かれた人間たちも良いにつけ、悪しきにつけ、そういう人たちの一種で、当時の荒廃したアメリカも、やはり依然として、開拓者としての友情を求めてやまない社会であり、そして本質的に、男の世界である事をこの映画は描こうとしているんだなと改めて感じました。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2021-05-31 09:38:37)
11.  暗殺の森 《ネタバレ》 
ベルナルド・ベルトルッチ監督の「暗殺の森」は、「ラスト・エンペラー」と同様、ヴィットリオ・ストラーロの撮影を観たかったというのが大きくて観たのですが、ベルトルッチ監督のあまりにも素晴らしい手腕を見せ付けられた感じです。 若干29歳の時の作品だとは思えないほどの、映画的魅力に満ちあふれた作品になっていると思います。  この映画の原題は「体制順応主義者」で、それは主人公マルチェロ(ジャン=ルイ・トランティニャン)のことに他なりません。 原作は、アルベルト・モラヴィアの「孤独な青年」という小説で、この作家の原作の映画は、他に2本観ていて、「倦怠」と「ミー&ヒム」ですが、「暗殺の森」とは似ても似つかないストーリーで、恐らくいろいろなタイプの小説を書いた人だろうと思います。  子供の頃に、殺人を犯してしまったと信じ込んでいるマルチェロは、そのトラウマからか、罪の意識からか、ファシズムに傾倒していきます。 組織から、パリに亡命中であった恩師でもある、カドリ教授を調査するように命じられ、恋人であったジュリア(ステファニア・サンドレッリ)と結婚して、新婚旅行を口実にパリに赴いた彼は、教授の妻のアンナ(ドミニク・サンダ)の美しさに、心を奪われてしまいます。  ストーリー自体は、それほど難しくないのですが、回想シーンが突然、出てきたり、主人公の説明がなかったりするので、どういうことなのか理解するのに、少しだけ時間がかかってしまいました。 そういう欠点はあるものの、見せ方は素晴らしいのひと言に尽きます。  特に良かったのは、アンナとジュリアが踊るダンスシーン。映画史に名高い、有名なシーンですね。 この女同士でダンスを踊るというのは、「フリーダ」にもありましたが、本当に綺麗でインパクトがあります。 そして、邦題のもとにもなっている、森の中での殺人シーンも圧巻です。  まるで、ホラー映画のような恐ろしさと緊張感がある一方で、切なくて哀しくて、やりきれないムードにも満ちあふれています。 とても、ショッキングだけれど美しい映像で、ベルトルッチ監督の天才肌ぶりを感じさせるシーンだと思います。  ドミニク・サンダは、当時19歳くらいだったそうですが、妖しい美しさをたたえる人妻の役を、見事に演じています。 彼女は「ラスト・タンゴ・イン・パリ」にも出演オファーがあったそうですが、妊娠中のため断ったというエピソードが残っています。 もし、ドミニク・サンダとマーロン・ブランドのツーショットだったら、またひと味違った映画になっていたかもしれません。  ジャン=ルイ・トランティニャンは、相変わらずクールで、不思議な雰囲気をたたえていて、ミステリアスな感じが、とても素晴らしかったと思います。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2019-06-01 15:31:10)
12.  サクリファイス 《ネタバレ》 
あまりに早い最期だったアンドレイ・タルコフスキー。この「サクリファイス」が、カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した7か月後に、タルコフスキー監督は逝った。1986年12月28日だった。  「鏡」で、草原を渡る"風"を描いた。「ノスタルジア」で、この世とあの世の間を取り持つ"水"を描いた。 「サクリファイス」では、自分の投影でもある家を焼き尽くす"火"を描いた。  それらは、あまりに美しく、何度も観たい思いにかられ、観るたびに、ある種の"不思議"に包まれる。  アンドレイ・タルコフスキー監督の故国ロシアへの愛は、「ノスタルジア」で思いきり描かれていましたが、この「サクリファイス」では、その思いがもっと重く、胸にのしかかってきます。  タルコフスキー監督は、私たちに何を伝えようとしたのか?--------。 彼の映画には、いつも「死」と「神」とがつきまとう。全てのものは、象徴されてそこにある。 時には風景までもが、象徴の一端を担っている。  喉の手術で声の出ない息子に、父アレキサンデルが海岸に枯れ木を植え、「毎日、水をやるんだよ」と言う。 その日はアレキサンデルの誕生日でもあった。親友の医師、不思議な郵便配達人もやって来る。 その夕方、唐突に核戦争が勃発したというニュースが流れると、妻はヒステリーを起こし、子供も手術の痛みに苦しんで寝ている。  アレキサンデルは、無神論者だったが、つい神に自分を犠牲にするから彼らを救ってくれと祈るのだった--------。  この「サクリファイス」は、スウェーデンの俳優・スタッフによって撮影されています。 しかし、タルコフスキーは言う。「この映画は、スウェーデンでスウェーデンの俳優によって演じられたが、これはロシア映画である」と。  青い空と海、白い道と緑の野、道端に枯れそうな一本の貧弱な木。そして、父と喉の手術をしたばかりで声の出ない幼い息子。 父は息子に「昔偉い坊さんが、若い僧に、枯れ木に毎日決まった時間に水をやりなさいと言った。それを忠実に守って水をやっていると、枯れ木が生き返ったんだよ」と、話して聞かせます。  この映画の舞台にタルコフスキーが選んだのは、スウェーデンのゴトランド島だ。遥か海を隔てれば、故国ロシアの大陸がある。 海はタルコフスキーの、心の距離を縮めていただろうか?--------。  そして、撮影されたのは、海岸より少し外れた場所らしく、白い砂と松林の海岸が延々と続いている。 そこはあくまでも静かで、平らで、そんな時ふと恐ろしい感覚にとらわれるのは、「サクリファイス」のように、静かな地面の底から地響きが聞こえ、核戦争が始まったのが本当のことなのではないかと、愚かしい想像をめぐらしてしまう時だ。  幼い息子は、父が精神病院に送られてしまってから、父の言いつけに従って、海岸の枯れ木にバケツでせっせと水を運んではかける。 そして、木の根元に寝そべって、空を見上げ「なぜ、はじめに言葉ありきなの、パパ?」と今はもういない父に問うのだ。  父が果たした"犠牲"への報酬は、この子のこの言葉にあったのだろうか? 白い砂浜と青い空は、無情なまでに強烈で、炎上する家の炎の色と、妙に相容れない不協和音が、「サクリファイス」の崩れ折れそうなイメージを残すのだ。
[DVD(字幕)] 9点(2019-04-12 09:47:46)
13.  ノスタルジア 《ネタバレ》 
イタリアの中部地方の山間には、不可思議な町、あるいは村が存在する。それはまさに「存在」そのものだ。 アンドレイ・タルコフスキー監督の「ノスタルジー」が描くのは、幻想の「水」を辿る旅であり、タルコフスキー自身の、故郷ロシアへの郷愁が、主人公アンドレイ・ゴルチャコフの心象風景として表われていると思います。  ゴルチャコフは呟く。「この風景は、どこかモスクワに似ている」と。霧の漂う丘陵地帯。白い馬。佇む女たち。 そこには、動くことを止めた時が、うずくまっている。 かと思うと、深い谷底から生えてきた角のような台地に、ひしめきあって建つ、赤っぽい石造りの建物。  周囲を濃い緑の山々に囲まれた一握りの台地は、霧の切れる一瞬、幻想ではなかったかと、私は目を疑ってしまう。 しかし、確かに実在する土地なのだ。「ノスタルジア」の旅は、こうして、幻想の中でスタートする--------。  イタリアで、ロシアの詩人ゴルチャコフは、恋人のエウジェニアとともに温泉地を訪れ、世紀末の世を救おうと、ろうそくを灯して水を渡ることに執着する老人ドメニコと出会う。  エウジェニアは、ロシアへのノスタルジアにとり憑かれたゴルチャコフの、果てしない思案に耐え切れず、別の恋人のもとへ去ってしまう。 そして、ドメニコは焼身自殺し、残されたゴルチャコフは、ドメニコの遺志を継いで、ひとりで温泉を渡り切った時、力尽きてしまうのだった--------。  タルコフスキーにとって「水」は、地上で最も美しく、謎めいた物質なのだろう。だから、ドメニコは俗世の人間に狂人扱いされながらも、水=温泉を渡ろうとする。 俗世間の人々から、このように狂人扱いされているドメニコは、世紀末の世界を救おうと、ろうそくを灯して水を渡ろうとする。 「水」は、禊に使われるように、ここでもある種の力を持っている。 そして、「水」はあの世とこの世の間の川。ドメニコは、その川の渡し守なのだ。  また、この「水」は、母胎の中の羊水でもあり、世紀末を世界の始まりに戻そうとすることは、胎内への回帰等、胎を持たない男の発想であり、そんなことでもたつくゴルチャコフに嫌気がさして去ってゆくエウジェニアは、中性的な魅力にあふれている。  この映画の中で、特に印象的だった場面は、水溜まりの向こうに横たわるゴルチャコフ。雨が降っている。屋根のない柱廊。 廃墟と化し、屋内であり、屋外でもある奇妙な建物、映画全体を支配する幻を、この建物に感じてしまいました。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2019-04-08 18:02:31)
14.  エルミタージュ幻想 《ネタバレ》 
かつてミニシアター映画として公開された、アレクサンドル・ソクーロフ監督の「エルミタージュ幻想」をDVDで鑑賞。  私は非常に興味深く、この映画を観ましたが、映画初心者には向かない映画のような気がします。 映画がかなり好きで、かなりの本数を年間で観ている人でも、ストーリー性のない映画が苦手な人は、はっきり言ってダメだと思います。 私はストーリー性のない曖昧模糊とした映画というものも、ストーリー性のある映画と同じくらいに好きなので、思い切りツボにハマってしまいました。  そして、もうひとつツボにハマっていたのは、この映画がカメラワークに非常に凝っている点です。 96分をワンカットで撮っているのが、この映画の最大の売り物なのですが、流れるようなカメラワークは本当に芸術品と言えるくらい素晴らしく、もう見事としか言いようがありません。  撮影を担当したのは、「ラン・ローラ・ラン」で、主人公のローラをずっとハンディカメラで追いかけて撮影して、全くブレなかったというティルマン・ビュットナーです。 なんでも、ティルマン・ビュットナーは、この映画の撮影に備えて、身体を鍛えたといいますから、やはりプロは凄いと思います。  アレクサンドル・ソクーロフ監督は、ドキュメンタリー映画を数多く撮っているそうですが、はっきり言ってこの監督の映画は難解です。 この映画も予備知識なしで観たら、わけがわからないと思います。  原題は「ロシアの方舟(RUSSIAN ARK)」で、エルミタージュ美術館の中を探索しながら、ロシアの歴史を追うという内容になっています。 カメラを構え、ナレーションを語るソクーロフ監督自身と、この映画の主人公であり案内人でもあるフランスの大使キュイスティーヌ(セルゲイ・ドレイデン)とが宮殿の中を不思議な時間旅行をするという、邦題のとおり実に幻想的な映画なのです。  ストーリーがあるような、ないような不思議な雰囲気、90分ワンショットという驚異のカメラ、豪華絢爛な帝政ロシア時代の衣裳。 この3つの要素は、私の好みにズバリと合っていて、背筋がゾクゾクするほどでした。  そして、ラスト近くの、ワレリー・ギルギエフ指揮のオーケストラを伴奏に繰り広げられる舞踏会のシーンは、まさにため息が出るほど素晴らしいものでした。
[DVD(字幕)] 9点(2019-03-23 14:38:40)
15.  探偵[スルース](1972) 《ネタバレ》 
ジョセフ・L・マンキーウィッツ監督の「探偵〈スルース〉」は、あらゆる意味で"芸"を堪能する映画だと思います。  まず、アンソニー・シェーファーの原作の戯曲及び脚色が持つ、ストーリー展開の"芸"。 それから、ジョセフ・L・マンキーウィッツ監督の熟練の演出が見せる、語り口の"芸"。 そして、最も重要なのは、二人の主人公を演じる名優ローレンス・オリヴィエとマイケル・ケインの演技の"芸"。  ローレンス・オリヴィエが扮するアンドリュー・ワイクは、ロンドン郊外の豪壮な邸宅に住み、推理小説の執筆をなりわいとしているが、作家といっても日本の流行作家などとはだいぶ感じが違います。 原稿の締め切りに追い立てられて必死になっているといったところは、全くなくて、それどころか、自分の優雅な生活のペースをたっぷり味わいながら、その間に悠々と執筆をしているような余裕が、何よりも印象的なのです。  このアンドリュー・ワイクが、イギリスの上流階級を絵で描いたような人物であるのに対して、マイケル・ケインが演じるマイロ・ティンドルは、これまた典型的なほどワイクとは対照的な人物なのです。 父はイタリア移民の時計職人で、その息子のマイロは美容師として成功し、現在では美容院の経営者になるまで出世したのです。  つまり、アンドリュー・ワイクはサラブレッドであり、マイロ・ティンドルはハイブリッドなのです。 しかも、血筋が違うだけではなく、育ちも違う。 こうした違いは、イギリスの社会では、日本人の我々が自分たちの社会の構造を当てはめてみて体験的に想像するよりも、遥かに厳しいもののような気がします。  この二つの役にローレンス・オリヴィエとマイケル・ケインが配役されたのは、二人の俳優の個性をうまくつかんだ、絶妙の選択だったと思います。 これだけタイプがぴったりならば、あとは二人の演技の"芸"の対決をじっくり味わえばいいということになりますね。  それではこの二人、どちらが演技的にうまいか? あるいは少なくとも、この映画ではどちらが優れていたか? この二人は、1972年度のアカデミー賞の最優秀主演男優賞の候補になりましたが、「ゴッドファーザー」のマーロン・ブランドが受賞し、惜しくも受賞を逃しています。 マーロン・ブランドという最強のライバルがいたことと、二人の間でアカデミー会員の票が分散されたため、受賞には至りませんでした。  キャリアと実力から言えば、どう見てもオリヴィエに歩があるのは明らかです。 オリヴィエの演技には、舞台のシェイクスピア劇で鍛えられ、最高のシェイクスピア役者と謳われた、円熟の妙味が豊かに脈うっています。 とりわけ、ちょっとした目の表情の変化などに、イギリスの上流階級だけが持っている"尊大さと傲慢さ"と、そして"冷たいずるさ"を感じさせるあたりが、オリヴィエの"芸"の見どころだと言えると思います。  この映画でのオリヴィエの演技は、歴史上の英雄だとか大人物だとかを正面切った芝居で見せるというものではなく、イギリスの上流階級の人種を絡め手の方から浮き彫りにして見せるといったものです。 そして、それだけに、小さな演技に見どころがあり、味があるのだと思います。 実際、オリヴィエは、この役を演じるにあたり、舞台的な演技ではなく、映画的なそういった細かい"芸"の工夫を、何か悠々と楽しんでやっているように感じられました。  これに対して、マイケル・ケインは、チャンピオンに立ち向かう挑戦者のように、全身全力を傾注して、老獪なローレンス・オリヴィエという名優に、健気にも対抗しているといった風情だなと感じました。 この映画は、かなり手の込んだ構成を持っていて、オリヴィエと堂々と互角の演技合戦を展開していたなと思います。  このマイロ・ティンドルは、立派な成功者なのですが、なぜかアンドリュー・ワイクと対等の立場に自分を置くことができません。 それは、イギリス社会が生んだ階級の格差のせいで、その格差がマイロの人格に影響を及ぼしてしまっているからなのですが、マイケル・ケインは、そういう劣等感をわざとらしくなく表現しきっているのが、実にいいなと思います。  この両者の"芸"のいずれに軍配が上がるのか?  私は、オリヴィエの余裕と貫禄、ケインの積極演技を引き分けと見ました。  それにしても、うまい役者のうまいお芝居を観るのが、こんなにも楽しいものだということを、再認識させられた映画でした。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2019-03-16 15:39:20)
16.  異邦人 《ネタバレ》 
主人公のムルソー(マルチェロ・マストロヤンニ)は、平凡な男だ。 それなのに、彼はいつの間にか、彼をめぐる社会からはみ出した"異邦人"になってしまっていることに気づく。  平凡な男が、いつの間にか平凡でない存在になってしまうのはなぜだろうか?  養老院で母が死んだので、彼は町から60キロほど離れた田舎の養老院へ行く。 汚いバスの中で、彼は暑さにぐったりしている。  暑い時に暑いと感じるのは当たり前だ。 そんな風に、彼の気持ちは、常に当たり前に動いて行く。  母の遺骸の傍らで通夜をしながら、彼は煙草を吸う。そして、コーヒーを飲んだ。 そのことが、後で彼が裁判にかけられた時、不利な状況証拠となってしまう。 母の遺骸に涙も流さず、不謹慎にも煙草を吸い、コーヒーを飲んだと受け取られるのだ。  それでは、ムルソーにとって、母の遺骸の前で泣き、煙草もコーヒーも断つことが、彼の本当の気持ちに忠実だったのかといえば、それはもちろん違う。 そんなことは、悲しみのまやかし的表現であり、嘘である。 ムルソーは、自分の気持ちを偽ることができなかったのだ。  暑い葬式の後で、泳ぎに行き、女友達のマリー(アンナ・カリーナ)に会い、フェルナンデルの喜劇映画を観に行った。 それは、果たして、法廷で非難されたように不謹慎な行為なのだろうか?  ムルソーは、ごく当たり前に生活する。 それが、世の中を支配しているまやかしの道徳にそぐわなかったのだ。  ムルソーは、"異邦人"のごとく見られ、断罪される。 だが、真に断罪されなければならないのは、彼を有罪とした社会なのだ。  "太陽のせいで"アラブ人を射殺する有名な事件は、原作者アルベール・カミュの"不条理"の哲学を直截に、しかも余すところなく具現化したものと言えるだろう。  ムルソーの人生は、不条理だ。だが、それでは条理とはなにか? ムルソーの生き方を見ていると、不条理に生きる人生こそが、最も平凡な、というよりは人間として当然の人生ではないかとさえ思われる。  それに比べて、条理の側に立ってムルソーを断罪する人たちの道徳や倫理観の、なんと非人間的なことか。 ムルソーの不条理とは、最も人間的に生きることなのであった。  かくて、最も人間的に生きた人間が断罪される不条理こそが問われなければならなくなってくるのだ。
[インターネット(字幕)] 9点(2019-03-13 16:03:35)
17.  ハッド 《ネタバレ》 
この映画「ハッド」の監督マーティン・リットは、赤狩りで辛酸をなめた映画人の一人としてよく知られていますね。 その時、彼は才能ある人々の裏切りを目の当たりにして、人と社会への厳しい目を培ったのだろう。  そんな彼の体験が、以後も一貫して反骨精神を貫き、「寒い国から帰ったスパイ」「男の闘い」「サウンダー」「ノーマ・レイ」などの映画で、特定の時代における人間の孤立と闘争を描き続けてきた原動力になっているのだと思う。  このマーティン・リットが監督した「ハッド」は、アクターズ・スタジオの縁でポール・ニューマンと6本ものコンビ作を生み出したうちの1本なんですね。  近代化の波に押しやられた、テキサスの荒涼とした風景の西部で、牧場を営む三代の男家族の確執と離散を通じて、現代アメリカの荒廃を浮き彫りにする秀作だと思う。  ポール・ニューマンが演じるハッド・バノンは、酒と女以外、人生に興味を示さず、心の中に闇を抱えた虚無的な男だ。  そんなハッドが、15年ぶりに故郷のテキサスの牧場へ帰ってくる。 酔っ払い運転で兄を死なせたハッドは、兄の遺児ロンからは慕われるが、老いた父ホーマー(メルヴィン・ダグラス)との断絶は解消できず、反目し合ったままなのだ。  ここに、離婚をして中年にさしかかった流れ者のアルマ(パトリシア・ニール)が住み込みの家政婦として雇われ、束の間、男だけの家庭に安らぎが訪れるが---------。  この映画の原作は、西部小説の名手と言われているラリー・マートリーの短篇小説で、彼の描く人々は、いつも物憂げで、他者のみならず自らをも肯定出来ないのが常なんですね。  マーティン・リット監督は、この原作を映画的に膨らませることで、アメリカという国の未来を憂う、彼自身の心情を吐露しているのではないかと思う。  父の大事にしている牛の群れが、疫病を患い次々と倒れていく。 そこには、かつて西部劇が描いた開拓精神や男のロマンなど微塵も見られない。  ハッドは、アンモラルなエゴイストで、彼は病気が証明される前に、牛を売ることを提案するのだが、そんな彼の無情の背景には、父への憎しみがあるからなのだ。  父親はそれに耳を貸さず、結局、手塩にかけて育ててきた牛たちを屠殺処分せざるを得なくなり、生きる意欲を失ってしまう。  ハッドは、父ホーマーの開拓者としての誇りを踏みにじり、口論の末に荒れて、アルマを強姦しようとするが、アルマは身を許さない。 大人の女のぬくもりも男たちの崩壊を救うことはできなかったのだ。  こうして、アルマは去り、そしてホーマーは落馬して夜道に倒れ、「わしが長生きすると迷惑だろう」と言い残して息を引き取るのだった。  ハッドの哀れな本性に嫌気が差したロンは、「あんたが生きる力を奪った」と言い放ち、故郷を捨て、ハッドはひとり寂しく取り残されることに---------。  ポール・ニューマンの自己破壊性、メルヴィン・ダグラスの威厳と孤高、そして、パトリシア・ニールは、アルマの瞳に根を張ることの叶わぬ、女の諦念をにじませて官能的だ。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2023-11-08 00:13:04)(良:1票)
18.  レベッカ(1940) 《ネタバレ》 
この映画「レベッカ」は、ハリウッドの大製作者デイヴィッド・O・セルズニックと契約したアルフレッド・ヒッチコックが、アメリカに渡って最初に手掛けた作品であり、1940年度の第13回アカデミー賞で、最優秀作品賞と最優秀撮影賞(白黒)を受賞して、アメリカ映画界へ華々しい登場となった作品でもあるのです。  イギリスの女流作家ダフネ・デュ・モーリアが1938年に書いたゴシック・ロマン小説の映画化で、女性が結婚して得る幸福の意味を追った小説ですね。  アルフレッド・ヒッチコック監督は、原作の持つ雰囲気描写を映像に置き替えながらも、内容の上ではヒロインの心理的不安、そして殊に、映画の後半に見られる謎解きと裁判のサスペンスに興味を移し替えてまとめあげていると思います。  この映画は一人称による原作の持ち味をそのまま使って進行しているため、ジョーン・フォンテーンが扮するヒロインの「私」で話が進むのも実にユニークですね。  金持ちの未亡人の秘書をしていたアメリカ娘のマリアンは、モンテカルロのホテルで、どこか翳のある金持ち貴族のマキシム・ド・ウィンター(ローレンス・オリヴィエ)と出会い、彼の二度目の妻としてイギリスの荘園マンダレイにやって来ます。  この映画のタイトルの「レベッカ」とは、今は亡き前妻の名前。 画面には一度も登場しないのですが、イギリスのコーンウォールの海岸に立つ由緒あるマンダレイ荘のあらゆるものに、美しかったというレベッカの痕跡が残っていて、その最たる存在が、レベッカの身の回りの世話をしていた召使いのダンバース夫人(ジュディス・アンダーソン)だった。  主人公の「私」は、決して心から打ち解けようとしない夫や、いつも自分を見張っているような黒づくめのダンバース夫人、そしてレベッカの痕跡などに小さな不安を抱きつつ、マンダレイの女主人としての務めを果たそうとするのですが、その一方、孤独で贅沢など知らずに生きてきた「私」にとって、ここでの生活は何から何まで新鮮で、夫への愛も揺るぎないものだった。  それにしても、この"ゴシック・ミステリー"は、描写のほとんどに"チラッとした不安"を誘う仕掛けが埋め込まれていて、観る側も、主人公の「私」と全く同じ条件に置かれているだけに、その一つひとつに落ち着かない気分にさせられてしまいます。  閉じられた部屋。窓をよぎる影。揺れる白いカーテン。レベッカの頭文字のRが浮き彫りになったアドレス帳。黒い犬。 そして、レベッカの呪縛に取り憑かれたような夫の不可解な振る舞い--------。  二階のフロアの壁に飾られている、夫がお気に入りだと言う、美しい女性の全身像の絵も何やらいわくありげだ。 そして、これらの妖しい雰囲気を醸し出すモノクロの映像がまた絶妙で神秘的なんですね。  そういえば、今やすっかり荒れ果てたマンダレイ荘の外門を、カメラがゆっくりとすり抜けて中へと入っていく冒頭のシーンからして、既に怪しい雰囲気でしたね。  そして、仮装パーティーを開くことにした「私」が、ダンバース夫人に勧められ、二階の絵の女性とそっくりのドレスで装い、夫に激怒される場面の身の置きどころの無さ--------。絵の女性はレベッカだったのだ。  映画の後半、ヨットで転覆死したというレベッカの死の真相が、二転三転するくだりも、実にスリリングだ。  「レベッカ」は、幾つもの謎や不安については確かにミステリアスだが、終わってみるとイギリスで玉の輿に乗ったアメリカ娘が、夫を絶対の愛で信じ続けるという、かなり通俗的なメロドラマになっていて、「私」というヒロインよりも、好き勝手に生きた"レベッカの真実"の方が、ずっとインパクトがあるのですが、ヒッチコック監督の巧みな語り口が、通俗性を絶妙にカモフラージュしているのだと思います。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2023-10-06 14:34:24)
19.  評決 《ネタバレ》 
第55回アカデミー賞で、この映画「評決」は、作品賞、監督賞、主演男優賞、助演男優賞、脚本賞にノミネートされていましたが、何一つ受賞出来ませんでした。  特に、過去5回も主演男優賞にノミネートされながら、一度も受賞した事のないポール・ニューマンが、今回はきっと受賞するだろうとの下馬評が高かったのに、その力演も空しく、「ガンジー」で一世一代の名演技を披露したベン・キングスレーに敗れ去りました。  ポール・ニューマンが主演するこの「評決」を、オスカーが無視した背景として、彼が人権擁護に積極的な民主党員であり、1968年には同党のコネティカット州の代表に選ばれ、当時のカーター大統領の時代には国連軍縮特別総会の米国代表候補にされたという、反戦運動家としての政治的キャリアが災いしたとも言われています。  「核問題は全ての事より大切なんだ。非合法移民、インフレ、失業、レイオフの問題よりもだ。だって核の問題で読み違いをおかしたら、他の問題など吹き飛んでしまう」と、ある雑誌のインタビューに答えて、自分の政治的な信条をはっきりと表明するような彼は、華やかで、当時の保守的なハリウッドのアカデミー賞の会員にソッポを向かれ、アメリカ国内の既成の権力に対して反抗的な内容の「評決」が、同じ性格のコスタ・ガブラス監督、ジャック・レモン主演の「ミッシング」と同じ冷遇を受けたのは、アカデミー賞の限界を示すものだと言えるのかも知れません。  この映画「評決」は、陪審制下の"法廷もの"であり、また"医療ミス"を題材にした、弁護士出身のジョン・リードの原作の映画化作品です。  かつてはエリート弁護士でしたが、陪審員を買収した上司を内部告発しようとして失脚した、負け犬でアル中で女にも弱い弁護士のギャルヴィン(ポール・ニューマン)を立ち直らせたものは何なのか?  落魄したうつろな自分をそこに見るような、生命維持装置に繋がれた悲惨な患者の姿なのか? 真実を追求しようとせず、金だけで解決しようとする安易な法曹界への反発なのか? 支配階級であるWASPへの憎悪なのか? それとも謎の女ローラ(シャーロット・ランプリング)への愛情なのか? --------。  この映画は、自らを失っていた弁護士ギャルヴィンの"人間としての自己回復、魂の再生のドラマ"を静かに、しかし、熱く描いていくのです。  酒と人いきれにすえたような暗いパブ、その片隅で弾けるピンボールの虚しい響き、悲惨な状態で長期療養病院に横たわる植物人間と化した患者の姿、厚味のある色調のボストンの街並み、寒々しい法律事務所の雑然とした室内、重々しく緊張感に満ちた法廷----、これらを静かに、厳しく映していくポーランド生まれのアンドレイ・バートユウィアクのカメラには深い情感があり、デービッド・マメットの脚本には濃密な味わいがあります。  監督のニューヨーク派の名匠シドニー・ルメットは、「十二人の怒れる男」「狼たちの午後」「ネットワーク」で三度もアカデミー賞の監督賞の候補になりましたが、受賞しないままです。  ギャルヴィンの相棒に扮するジャック・ウォーデン、ギャルヴィンの法廷での強敵となる、被告側の弁護士コンキャノン役の名優ジェームズ・メイスンの演技は、共に白熱した演技を示しています。  そして、コンキャノンのスパイとして、ギャルヴィンを誘惑するローラを演じるシャーロット・ランプリングは、「愛の嵐」以上に神秘的な妖しい魅力を発散させています。 挫けそうになるギャルヴィンを叱咤する彼女の姿には、スパイではなく本当の愛がのぞいているように感じます。  この映画のラストで彼女がベッドからかける電話、それを取り上げようとしないギャルヴィンの思いは、複雑で切ない余情を感じさせてくれます。  法廷のシーンで自己の人間としての復権を賭け、絶望的に不利な状況の中で、ギャルヴィンが陪審員に向かって静かに訴えかける言葉------。  「正義を与えるためではなく、正義を我がものにする機会を与えるために法廷があるのです」  「法とは、法律書でもなければ、法律専門家でもなく、法廷でもありません。そういうものは、正しくありたいという私たちの願望のただの象徴にすぎないのです」  「金持ちは常に勝ち、貧しい者は無力。正義はあるのか? 私たちは自分の信念を疑い、法律を疑う。しかし正義を信じようとするなら、自分を信じることです。正義は、私たちの心の中にあるのです。あなたが今感じていることこそ正義なのです。」
[DVD(字幕)] 8点(2023-08-28 08:36:07)(良:1票)
20.  デストラップ/死の罠 《ネタバレ》 
推理小説好きなら、観ておきたい価値のある映画「デストラップ 死の罠」。  原作はアイラ・レビンで、ニューヨークのブロードウェイで、延々ロングランした舞台劇の映画化作品だ。  この舞台劇は、ロンドンで大ヒットした、アガサ・クリスティの「ねずみとり」に刺激され、触発されて、製作された気配が多分にあるのだが、イギリス的な本格ミステリの構成とムードを持ちながら、裏側にいかにもアメリカ人好みの乾いた感覚が秘められているのだ。  この映画の演出は、ニューヨーク派の名匠シドニー・ルメット監督。 二幕仕立てという舞台構成を、そのまま映画に持ち込む事で、その構成自体をサスペンスに利用したところは、ミステリ好きを喜ばせる演出だと思う。  才能の枯れたスリラー舞台作家。 若者の持ち込んだ脚本が、あまりにも見事なので、それを自分のものにしようと計画を立てる。 そして、妻をも計画に誘い込み、自分の家で、この若者を殺そうとするのだ。  登場人物は、この三人と近所の奇妙な老婦人だけ。 そして、主な舞台は、この家だけ。 陪審員の控室のみで、あれ程の緊張感と迫力を創り上げた「十二人の怒れる男」の監督だけあって、この限られた場所、その大道具を逆に生かして、二重三重のドンデン返しを語って見せるのだ。  作家のマイケル・ケインも、妻のダイアン・キャノンも、ベストの演技を示している。 そして、青年はあの「スーパーマン」でブレイクしたクリストファー・リーヴだが、複雑な性格の役を陰影を込めて演じていて、実に素晴らしい。  こうしてみると、舞台で練られたミステリの面白さを、単に映像化しただけだと思われがちだが、ところが実はさにあらず。  プロローグに映画ならではのトリックが、はめ込まれているのだ。 実のところ、私はこの部分で完全に騙されてしまった。 憎い人だ、シドニー・ルメット監督。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2023-08-24 16:59:08)
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