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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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221.  ディープ・カバー 《ネタバレ》 
これはちょいと拾い物。主人公と世間の間に距離があって、霧が立ち込めているような雰囲気。ときどき挟まれるモノローグが、そのノワール感を強める。荒々しさよりも湿っぽさ。潜入していった警官が、次第にアイデンティティを失っていくの。演技や手段に目的が乗っ取られていってしまう。初めてフィッシュバーンがゴールドブラムと会ったとき、即座に「こいつはコップだ」と言うあたりのスリル。ワカル奴とワカル奴との出会い、そのつばぜり合い。相手に信用されるためには、どんどん悪に漬かっていかなくてはならなくなる。分身のような「牧師」警官を配置して奥行きを作ってある。カクッカクッとアップになっていくシャックリのようなズームに面白い味。
[映画館(字幕)] 8点(2012-01-07 10:41:13)(良:1票)
222.  花嫁の父 《ネタバレ》 
結婚式に至るまでの小ネタでつなげただけの家庭喜劇なんだけど、大らかな味わいが残る。やってることは伊丹映画と同じような視点なのに、この大らかさがどこから来るのか。時代がいいのか、特殊なもの・ユニークなものをピンセットでつまむように排除してある、その徹底ぶりか。WASPの社交世界の上澄みだけを、きれいに掬い取っている。そういうとこで現在からはいくらでも批判は出来るだろうが、コメディとしての充実ぶりには文句が言えない。恋人はあれかこれかと親父が想像していくあたりからすぐに引き込まれ、初めてバックリー君を窓越しに眺めて「あちゃー」となる展開。「妻が浮かれとる」などモノローグも的確。以後も調子が崩れず、バージンロードを巡る悪夢を抱きながら、娘には“頼り甲斐”を見せなければならない「父はつらいよ」の一幕もいいし、娘の晴れ姿を追いかけて混雑する家の中を駆け巡るあたりの滑稽な・しかし父の情愛の香り立つ描写まで、見惚れてしまった。いかにも平均的な家庭像を作ったのだろうが、母親がJ・ベネットなのね。たまたま私が知ってる映画がそうなだけかも知れないけど、あの人「妖婦」の印象が強かったので、この人でいいの? と思ってしまった。見てる分には気にならなかったけど。ああそうか、E・テイラーって別に妖婦役者ではなかったが、ちょっと突付けばあっさり淫蕩の側に転がるのではないかという気配を、上品さの中に秘めていた(私生活とは関係なく)。かえって普通の人を演じているときに、その裏にある妖しさで魅力を出した女優だった。ここで母子を演じたときにJ・ベネットの遺伝子を受け継いでしまったのではないか。映画ではそういう非科学的な遺伝がときに起こるのではないか。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2012-01-05 10:32:51)
223.  忠次旅日記
子分が強盗になっているのを知った忠次の苦衷。活劇としてよりも日本風悲劇としてのトーンが満ちている。悲壮さへの誘惑もある。大きな樽を入れた構図、暖簾を分けて立つ娘お粂、など印象深い。呼びかける声がだんだん大きくなるのは、そのまま字幕が大きくなることで表現される。フィルムの断片だけが発見された「信州血笑篇」の方は、どうも気分がつながらなくて困ったが、「御用篇」はかなりまとまった部分が残されたので大丈夫。戸板に乗せられたまま夜の川を渡るあたりの悲壮の極み。日本映画は敗者への共感を描くと特別味わいが深まるんだ。伏見直江(ポスターには「新入社」と書かれていた)が密告者を調べる蔵の中のシーン。これはサイレントならではの緊張ある場面で、名前を呼ぶ字幕と影のある顔とのリズムがだんだん切迫していく。で最後の捕り物。ここが残ったので、作品の活劇としての味わいがうかがえた。上下に動く蔵の戸を、開けよう・閉めようとしている争いを内側から眺めるカット。隙間から見える足だけの活劇というアイデアだが、アイデア倒れになっていなかった。追い詰められ密閉された場所での覚悟が画面をうずめる。おそらく三部作全編を通して観られれば、滅びへ向かう巨大な下り斜面が見えてくるのだろう。フィルムの欠損部分でリズムを崩されるのがすごく気になるってのが、オリジナルのリズム感の洗練を思わせる。
[映画館(邦画)] 8点(2011-12-30 10:59:21)(良:2票)
224.  切腹 《ネタバレ》 
これはいま観ると、正社員の職を得た者と派遣労働者の話に重なって実に生々しい。ほんのちょっとした運命の違いで生じた格差が、段上の命じる者と庭で腹を切る者とにまで広がっていったことが、怖く迫ってくる。立場が逆転していてもおかしくなかった。そういう苛烈な武士の社会と似たようなものが、現在でもあるんだろう。これのとりわけ前半はシナリオの名品であり、二人の切腹志願者の物語が反復しつつ並行し、千々岩のうちひしがれぶりと津雲の不敵さが対照され、後者がどんどん謎として膨らんでくる興味。追い詰める側が追い詰められていく展開の妙味。シナリオの力でこれだけグイグイ引っ張っていく映画は、あんまりない。後半ちょっと説明的で弱くなるが、しかしあそこらへんをちゃんとやっておかないと、千々岩が「武士として有るまじきさもしい行為」に及んだことを十分説得させられず、話の骨が崩れてしまう。津雲が語っている庭はゆっくりと陽が傾き、やがて風も吹き出す。あんなに武士の哀しさを語った津雲も、やはり刀でしか決着をつけられないところが痛ましい。竹光を嘲った井伊家が、最後には「武士の魂」の刀ではなく「卑怯な」飛び道具を持ち出してくる。儀式としての切腹は限りなくグロテスクだが、鉄砲で撃たれる前の腹切りは、美しくはないがグロテスクではない。あれはあくまで乱戦の延長であって意地の発露だった。でも井伊家の下級侍にとっては、秋葉原事件のようなとばっちりだったなあ。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2011-12-07 10:44:17)(良:1票)
225.  羅生門(1950) 《ネタバレ》 
黒澤は『虎の尾を…』から『夢』まで屋外でのドラマを好んだが、とりわけ本作は徹底していて、おそらく屋根の下に座っているはずの取調べ役人は姿を見せず、調べの庭のみを映していく(このときの塀ぎわに控えている証人たちの姿の美的正確さ)。あとは森の中。屋内の停滞している空気を本質的に嫌ったのだろう。流動している空気と一緒に呼吸していたい気持ち。そういう空気の流れの中に多襄丸も侍も妻も投げ込まれ、それぞれの証言を演じさせられる。ちょっとした気流の違いで、証言は大きく変わっていく、屋外にいるとはそういうことなのだ。それまでに映画の起承転結の文法はいくつかの型を生み出していて、いわばソナタ形式のような定型が生まれていた。黒澤はそこに変奏曲形式を付け加えた。同じテーマが変奏されていく面白味。もちろんアイデアを生んだのは芥川だが、それを映画に持ち込めると判断したのは監督だ。本来記録する装置だったフィルム、無意識に信頼を寄せていたフィルムだからこそ生じる変奏の面白さは格別である。うるさいぐらい音楽が鳴り続けるのも、その4つの変奏を強調したかったんだろう(4つめは音楽抜きでかえって印象深い)。大きな門というモチーフも忘れてはならない。監督は繰り返し映画に大きな門を登場させ、そこを人が通過する物語を描いた(『赤ひげ』ではそこに青年が入るまでの、『影武者』や『乱』ではそこを老人が追放されるまでの、『隠し砦の…』ではそこを突破するまでの)。これもラスト、子を抱いた志村喬がその非情の大門を通り抜けたようにも見えるのだ。おそらく封切り当時、捨て子や通りすがりの強姦はもっと生々しく受け止められるモチーフだったろう。黒澤の作品の中では理知的で異色作だが、彼の表現様式が十全に提示された名作だと思う。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2011-12-05 10:19:01)
226.  ミツバチのささやき 《ネタバレ》 
最初のうちは「少女の世界をのぞく」映画かと思って観ていたのに、観終わってみると「少女で世界をのぞい」ていたことに気がつく。前半での「なぜ殺したの?」という映画の怪物へのアナの疑問が、後半では小屋の男を殺した世界へ向けて放たれる。死んだふりをするイサベラのアナへのいたずらは(大好きなエピソード)、後半ではベッドに横たわるアナの様子をこわごわのぞくイサベラの姿に反転し、そのときかつて小声でささやきあっていた少女たちの閉じられた世界は、窓の外の世界へと広がりだす。イサベラは猫に引っかかれた傷の血を口紅とするが、アナは世界で起こっていることの血を小屋で目にしてしまう。映画という「嘘っこ」の世界が、内戦という無惨なまでの現実と照らし合わされていく。スクリーンの前に横たえられる死体。柔らかくデリケートな少女の世界でもっと溺れていたっていいのに、と心をとろかしながら観ていると、いつのまにか外界の風が吹き込んできていた、そんな映画だ。けっしてショックで目覚めさせるのではなく「いつのまにか」少女を通して世界を眺め直している、ってところがポイント。童話の舞台のようだった野の風景が、「いつのまにか」そのままで荒涼さを剥き出していた。それにしてもささやき声に満ちた映画ってのは、まず傑作だなあ。この姉妹、アナはもちろんかわいいけど、イサベラもいいのよ。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2011-12-01 10:08:10)(良:2票)
227.  戦場にかける橋 《ネタバレ》 
川の小さな滝のところで銃撃が起こると鳥がいっせいに飛び立つ。その銃声に驚かされて飛び立ったというより、血で汚された地を嫌って空へ向かった、って感じ。無数の鳥の影がジャングルや川面を走り巡る。この映画では最初から鳥の視点が批評的に地上の愚かな戦争を眺めていて、ラストむなしさが広がるクワイ河をしだいに鳥の視線になってカメラが上昇していく。脱走しヘトヘトになってたどり着いた地でW・ホールデンは、まず自分を監視している鳥に怯えるが(倒れた彼の上を鳥の影が通り過ぎていく凶々しさ)、やがてそれは凧の鳥に変わる。狂った地上を鋭く監視する鳥から、子どもの遊び道具となっている鳥へ。狂気の地からマトモな暮らしのある地へとたどり着いたことが、鳥の裏表で示された。その女こどもが暮らすマトモの地から狂気の地へ戻っていくときに女たちが付き添うのは、彼らの作戦が男たちの狂気に呑み込まれないよう、少しでもマトモな世界の空気を注入しようとしているのだろうか。この映画は英日米の軍人気質の違いを見せてはいるが、主人公はあくまでもアレック・ギネスだ。軍人としてどうあるべきか、をまず第一に考える精神主義者。ダラケていく自軍の兵士を見ることより、敵に協力しても誇りを持ってイキイキすべきだ、と考える。精神主義者として敵であるサイトーのほうに近しいものを感じてしまっている。橋の完成のためにはついに自軍の傷病兵まで繰り出そうとするあたりのノメリ込みの凄味。あからさまな狂気の描写でないだけに、彼の心に「まったく屈折のないこと」が怖く迫ってくる。「立派な軍人」というもののあるべき姿を煮詰めていくと、この狂気に必然的に行き着くだろうというところが一番怖い。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2011-11-19 10:26:47)
228.  秋刀魚の味(1962) 《ネタバレ》 
佐田啓二のアパートをロングで捉えたカットで、手前を小編成の電車がトコトコと通過していく。サイレント時代の斎藤達雄の家の前にもこんな車両がやたら往還していたなあ、などと思っていたら、あとで佐田宅から帰る岩下志麻が立った駅が東急池上線の石川台であった。このいくつか先に終点蒲田駅がある。松竹のサイレント時代の故郷だ。なるほど「小市民が暮らすのは蒲田」という配置は30年を置いても変わらなかったわけだ。もっともこちらの小市民はゴルフをたしなむまでになったが。あと今回気がついたことでは、最後のトリスバーのシーン。軍艦マーチが流れ、客の須賀不二男らが旧海軍を揶揄すると、笠智衆はムッとする表情を一瞬浮かべた。小津の登場人物は私的な場ではしばしばクサるが、公の場でこの手の不快を見せるのは珍しいのではないか。つい映画を観ていると忘れてしまいがちになるが、平山は艦長という帝国海軍のエリートだったわけだ。この映画に満ちている侘しさは、おもに娘の結婚や男やもめの孤独など家庭面から来るものだが、もっと若い時代にまつわる失意・小津が体験しつつもずっと正面からは触れようとしなかった戦争の影も、考える必要があるかもしれない。このバーに座る男は、妻に先立たれ・娘の恋を成就させてやれなかっただけでなく、今はからかいの対象にしかならない軍隊に若い時代をうずめてきたその徒労感(と若干の愛惜の情)も背負っているんだ。私は小津の映画が、そのすべてを肯定したくなるくらい大好きなのだが、音楽だけはどうにも我慢ならない。晩年の「秋」の三作にはどこか荒涼とした気配が感じられ、とりわけ遺作となった本作など東野英治郎への残酷な視線に容赦がなく、あのノーテンキな音楽がないとむごたらしさが前面に出過ぎてしまうからか、などと出来るだけ好意的に考えようとも思ってみるのだけど、もし音楽抜きのバージョンが存在したら迷わずそっちを選ぶ。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2011-11-05 12:23:54)(良:1票)
229.  マチネー/土曜の午後はキッスで始まる
キューバ危機の不安の中のアメリカの一断面。あの「イキイキと不安だった季節」はアメリカにとっても特別な日々だったよう。なにか浮き足だっていて、それが子どもにとっては祭りのようなハレのはしゃいだ気分に通じている。パパが戦争に巻き込まれつつあるかもしれないという不安と、パパのいない解放感。漠然とした核の不安を、B級ホラー映画が「恐怖ごっこ」に変えてしまう。ガールフレンドになる子、こんなこと(核対策)したって意味ないわよと醒めてる子、健全映画を観る会、詩を書く不良、これらの人々が土曜の午後へ向けて一歩ずつ世界を織りなしていく。バックには懐メロが流れ。核の恐怖に取り付かれている劇場支配人。満員の二階席。シェルターに残った二人っていうのは、世界に二人だけになってしまうという恋する若者の甘い夢でもあり、時代の不安の悪夢でもあり。
[映画館(字幕)] 8点(2011-10-25 10:15:46)
230.  おかあさん(1952)
この映画の怖いところは、母が次々に襲ってくる不幸から家族を守り続けているようで、その家族が順番に消えていくところ。家族の幸せを願うことが、その一家を解体していく現実。避けようがない病気を送った後には、娘を手放さなければならず、さらに精神的な頼りとなっていた手伝いの男も遠ざけなければならない。やっと露店から自分の店として再建できた家から、一人ずつ人が消えていく。中北千枝子に髪を触れられた娘はやがてこの家を去り、遠からずもう一人もこの家を去っていくだろう。これは成瀬の『麦秋』なんだと思う。あの解体していく大家族の物語を、成瀬の小市民の世界に移すと、こうなるんだ。どちらも厳粛な諦観が底に流れている。母はメソメソしないが、肝っ玉母さん的に豪快に笑うわけでもなく、激さない矜持を持ちながら不幸を通過させていく。どこかニヒリズムの匂いがする。成瀬の世界観がかなりクッキリ現われた代表作と言ってもいいんじゃないか。とちゅう股覗きしている子どもの視点になって逆さまの看板を捉えたり、映画館での「終」の画面で驚かせたり、けっこう遊んでおり、これは脚本の水木洋子の企てかもしれないが、サイレント映画を経てきた成瀬の可能性が高いと思う。加東大介、中北千枝子の常連脇役もそれぞれいい仕事をしており、とりわけ加東はベスト。どちらかというと「お嬢さん」役の印象が強い香川京子のパキパキした下町娘も新鮮だ。(そうか、岡田英次も香川京子も今では実質一人息子・一人娘になっちゃってるんで、なかなか結婚はスムーズに行かないかも知れんなあ。パン屋の長男がひょっこり生還すればいいんだが。まてよ、最後にクリーニング屋にやってきた見習い店員が16歳といってたから、娘とは二つ違い。あれを将来婿に育てて、と田中絹代は算段するかもしれん。まだまだひと波乱ありそうだぞ。)
[CS・衛星(邦画)] 8点(2011-10-24 10:06:07)
231.  大脱走
しばしば目に入る抜けるような空の青さはスポーツにこそふさわしい。この映画に満ちているのはスポーツの気分。逃亡するのが義務と心得ている連合国側捕虜と、それを阻止するための特別の収容所を開設したドイツ側との、攻守がはっきりしたチームスポーツ競技を観戦する気分だ。マックィーンの小道具としてのボールも、そういう気分をかもすのに役立っている。逃亡するための資材を調達していくあたりの、息のあった連携プレーが楽しい。役割りによって分業体制を敷いているのも団体スポーツの味わい。またその中にコンビの友情をいくつも仕込んでおいて、全体をまとめるのをイデオロギーにしていない。小さな友情が集まって大きな団結を構築している。一匹狼だったマックィーンも失われた友情への復讐心からチームに参加していく。本作の気持ちのいい明るさは、この友情を下敷きにしているところから来ているんだろう。悪役側も、ドイツ軍とゲシュタポとを区別し、ドイツ軍そのものはスポーツ競技の相手役としてサッパリとさせている。もちろん実際の戦争はスポーツではなかったわけで、それだけははっきりとさせとかなくちゃならない暗い部分はみなゲシュタポに任され、青空ではない曇り空の下の銃殺によって代表させる。暗い戦争を明朗なエンタテイメントに仕立て、しかもそれを「敵」をやっつけて溜飲を下げるレベルのものでなく成功させたところが、この映画の一番の手柄。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2011-10-22 10:08:53)(良:2票)
232.  セリーヌとジュリーは舟でゆく
初めはスタッフもキャストも手探りで動き回ってる感じ。フィルムを自由に遊ばせて何かが面白く動き出すまで待ち伏せしている感じ。映画を商品として観客に提示するなら、そういう部分はカットして完成した部分だけを盛り付けるのが料理人の倫理であろう。でもこの監督は完成に向けられた時間にこそ映画本来の時間があると思い込んでいる(『諍い女』)。彼はスキヤキ屋なのだ。すでに焼けた肉ではなく目の前で焼けていく肉を味わってもらおうというのだ。これは一種の冒険であり、下手するとその実験性だけが評価されて映画としては退屈、となってしまいかねないものでもある。実際『北の橋』は、とうとう肉が焼けずに終わってしまった感じ。しかし『地に堕ちた愛』や本作では成功した。とりわけ本作。ただただフィルムが回って主人公たちの閉じた世界が紹介されていると思ってたら、いつのまにか冒険に入っている。アメリカ映画から見ればメリハリがなさすぎるが、それだけ冒険に入り込んでいくときの「アレレ」感は新鮮。いつのまにか世界が不思議の国に飲み込まれていたという感覚。そしてさかさリンゴ屋敷が楽しい。断片として現われるいくつかの幻視、階段やドアでの意味ありげな出入り、さかさの人形、倒れる女、などが繰り返され次第にストーリーを構成していくジグソーパズル。ヒロインが交互に幻視を見るのだが、そのつど幻視を見る担当者が看護婦役になって登場してくる。まったく同じカメラ位置で同じシーンが繰り返され、看護婦役だけが違ってくる二人一役のおかしさ(ブニュエルが『欲望のあいまいな対象』を撮っていたのもこの頃か)。さらにどうも少女の危難が分かってくると、現実の二人は助けに入り込んでいく。ここらへんのスリルは『裏窓』でG・ケリーが眺めるだけの存在だった筈のアパートへ入り込んでいくスリルを思い出させる。この映画の楽しさは純粋に遊びとしてのものだが、ラスト、幻の登場人物たちが幽霊メイクのまま舟で滑り抜けていくシーンのゾクゾクッとする感じは、映画全体の薄く透明な脆さと敏感に共鳴しあっていた。サイレント時代だったら遊びに徹することが充実になっていたのに、今ではニヒリズムが立ち込めてしまう。この衰弱は社会の責任なのか映画の責任なのか。現代で遊び続けようと決意することは、亡霊たちに魅入られながらの衰弱を受け入れることに外ならず、そこに本作の凄味が感じられるようなのだ。
[映画館(字幕)] 8点(2011-10-16 10:03:11)(良:1票)
233.  テキサスの五人の仲間 《ネタバレ》 
これは一つのアイデアだけを核にした物語だけど、ネタが分かればそれで終わりというものと違って、たぶん二度目の鑑賞にも耐えられると思う。かえって二度目の楽しみってのもあるんじゃないかな。H・フォンダの表情やまわりの連中の表情に、一回目に観たときとは違う味わいが出てくるはず。優位に立ったものの表情と、ヤバい立場に置かれたものの表情とがハッキリしている分、その皮肉がおかしい。それにしてもフォンダの崖っぷちに立ちながら浮かべる強ばった口元だけの笑い、うまいなあ。どうしたってカモそのもの。心配するけなげな子どももいれば、ついつい「お父さん危ない」って思っちゃうもん。また途中で鍛冶屋での妻のカットを挿入して観客の心配を煽るんだ。きたねえよなあ。映画のリズムは冒頭のポーカー仲間が集合してくるところから快調で、ただちょっと終わりがもたつく。ジェイソン・ロバーズが婿に説教垂れて、その直後バカにするようにきれいに落とし、そこでパッと切り上げればいいのに、ややだらけた。あと、銀行家がすぐ乗らず、一度追い返してから乗ってくるつながりがギクシャク感じたが、すぐに応じると不自然で、一度冗談ではないかと疑う時間を入れたほうがリアリティありってことか(引っ掛けられた悔しさで、なにか悪口を言っておきたい)。これそのまま江戸の時代劇に移せそう。「おまいさんバクチはこんりんざい駄目だよ」なんて落語に出てくるような夫婦ものが旅籠にやってきて…と思ったが、やはりポーカーフェイスという言葉があるポーカーでないとぴったりこないな。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2011-09-27 09:27:20)(良:1票)
234.  靴をなくした天使 《ネタバレ》 
人間ってのはいいもんだ、と人は思いたがっているのだけど、シラけずにそう思わせるにはある種の技術がいる。その技術を洗練させるのに最も成功したのは、実はアメリカ映画なのではないか。チャップリンやキャプラや、面白いことに外国から渡ってきた作家によって生まれた作品群に洗練の極みが見られるが、本作もイギリス生まれの監督によってその伝統が受け継がれている。まずどうしようもなく卑小な人間が造形される。バーニーというコソ泥。自分の裁判の最中でもつい手が動いてしまう男。別に世間に反抗してやろうなんて積極的な意志を持ってるわけではなく、食えりゃいい、というところ。息子には「目立たないように生きるんだ」と教訓を垂れている。次に出てくるのがゲイルというテレビの女性レポーター。彼女はニュースなんて自由に演出できると思っているやり手で、世間を自分の手のなかで動かせるのが楽しくてたまらない。この正反対の二人が、飛行機事故で一瞬の接触を得てドラマが動き出す。バーニーがついゲイルの救出者になってしまうのだ(ちゃんと財布を抜き取っていくところが頼もしい)。ここからマスコミの狂騒ぶりがイキイキと描かれていく。消えたなぞの救出者の捜索を一大イベントに仕立て上げていく。ここに三番目の登場人物ジョンが関わる。タイプとしてはバーニー側の人間だが、彼ほど枯れていない。チャンスがあるなら、世間の中でほどほどの成功はしたいと思っている男。そこで救出者としてマスコミに名乗り出る。そのあと彼が祭り上げられ、理想化・聖化されていく過程がコメディとして見応え十分のところで、とうとう本人たちによる再現ドラマまで企画される。ジャーナリズムが今ではイベント屋になってしまったとこへの徹底した笑い。しかしこう人間の集団に対する幻滅や不信をたっぷり描きながら、映画は個人の中に存在しているであろう人間性に対する期待を静かに引き出してくる。つまりここがアメリカなのだ。他人たちがぎっしり詰まった社会の中で、最後は個人を信頼していくしかない、という健全な個人主義がここにある。ヒーローになってしまったジョンの感じる疚しさ、つい善行をしてしまった自分に戸惑うバーニー、百パーセントの善人も百パーセントの悪人もいない、そういう個人たちで出来ている社会だと認識すること、これらのアメリカ映画に感じる気持ちのよさは、そういった認識の潔さなのだと思う。
[映画館(字幕)] 8点(2011-08-28 09:39:23)
235.  オープニング・ナイト
カサヴェテスが好む「演じること」というモチーフは、当然芸人への興味に通じる。『アメリカの影』や『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』に出てくる客受けしない芸人たち。演じさせられることの嫌悪がここにはある。はしゃぐことが使命となっている人たち。自分の世界と舞台の世界との落差が彼らを疲れに追いやる。あるいは俳優。本作は、段取り通りの決められたセリフ・決められた演出がどうしようもなく嫌になってしまった女優の物語だ。段取り通りの進行に感じる閉所恐怖、それに彼女が段取り通りに老いていく不安が重なって、映画は進んでいく。舞台上の俳優をクローズアップで捉えるものだから、演じられているストーリーが意味を奪われ、舞台に閉じ込められている人物として見えてくる。演じている自分は何者だろうか、という疑問。ジーナは自分たちのことを「誰から私たちのふりをしているの」と言っていた。演じている自分も実は誰かに演じられているのであって、そういう連鎖が無限に続いた果てで何でもなくなってしまっていたとしたら。演じるということは何かのふりをすることである。幸福であるふりをすること・リラックスしているふりをすること、しかしその「ふり」をする俳優的人間は、「ふり」をしている自分は幸福ではない・リラックスしてはいない、ということをいちいち確認させられているようなものである。演じることの苦痛がここにある。彼女はとうとう舞台の上で作品を離れ即興の芝居、というよりも夫婦漫才を始めてしまう。そのはじけるような解放感。俳優は演じることによって自分自身から逃げ出せる特権も持っていたのだ、しかしそれは自分自身を限りなく曖昧なものにしていくという代償と引き換えなのだけど。この矛盾の中にカサヴェテスは「演じること」のテーマをつかんでいる。『こわれゆく女』では深刻だったが、本作ではからかいのようなゆとりがあって、若干息を抜けホッとする(ヒッチコック劇場にこの二人が出演した「ひとり舞台」というスリラーが、やはりステージものだった)。
[映画館(字幕)] 8点(2011-08-10 10:15:13)
236.  ラヴ・ストリームス
「愛の不条理」なんて言い切ってしまうと、途端に安っぽく聞こえてしまうが、でもカサヴェテスの映画って、そう言える。人は本当なら愛の中でこそ安らげるはずなのに、なぜ愛とリラックスは同居できないのか。そんな問いが、いつも聞こえてくる。そして登場人物は、またはしゃぐ。ボーリング場での男あさりは序の口。動物たちを家に連れてきたりして、白眉は30秒で夫や娘を笑わせようとする場。くつろぎを求めて疲れ果ててしまう、という彼のモチーフのエッセンスシーンだ。おどけふざけプールサイドでさんざんはしゃいだ後、後ろまわりでプールに飛び込むまでの30秒、あのまったくコミカルでないジーナ・ローランズが演じるだけに、その痛ましさと言ったらない。「演じること」のモチーフは夢の中のオペレッタになる。どの場もキレよりコクで勝負の監督。本作には姉と弟という神話的構図があり、家畜たちとの嵐の場なんか。神々しくすらあった。カサヴェテスは、じたばたしている人間を、ほとんど神のように尊敬を込めてコッテリと描く。人間のそういうところが好きなのだ、とでも言いたげに。
[映画館(字幕)] 8点(2011-08-08 09:38:37)
237.  フェイシズ(1968)
カサヴェテスの「はしゃいでしまうこと」のうつろさというモチーフは、アメリカ版『甘い生活』とでもいうべき本作で、最も徹底している。破綻しかけている夫婦が笑い転げたあとの索漠とした静けさ、その静けさはすでに無理に笑い転げている騒々しさのときから画面の中で成長していたもので、じっと記録し続けるカメラの手法が最大限に生かされている。笑ったあとが怖くて笑いやむことが出来ない、そこでさらに笑い声を高めていく、笑ったあとの静けさとの落差の広がりが意識され、はしゃぎはひたすら加速度を高めていく。くたくたに疲れきりながら、何がおかしいのか分からなくなっても、はしゃぎを演じ続けていく。主人公が「もうふざけるのはやめてくれ」と哀願しても、ジーナが「これが普段なのよ」と答える場面もある。たしかにそうなのだ。付けまつげが素顔になってしまっている生活。外のハレの場所に出て行くのではない。祭りは部屋の中で起きてしまっているのだ。カサヴェテス作品を、シナリオ起こして別の監督に撮らせても、ちっとも映画にならないだろう(『グロリア』はリメイクされたがあれは特殊)。設定を囲った中に俳優を配置して動かし、その生き生きしたところを掬い取っていくような監督術の映画だから、そこがないとただ落ち込むだけの話。そのかわりカサヴェテスの手にかかると、本作の後半のように感動としか呼べない緊張した時間が味わえるわけだ。
[映画館(字幕)] 8点(2011-08-07 10:01:58)
238.  こわれゆく女
カサヴェテスの世界では「はしゃぐこと」と「演じること」と「リラックスすること」とが悪循環を起こしている。本作のジーナ・ローランズの妻は、家庭は気楽で居心地よく楽しい場所でなければならない、という強迫観念に取り憑かれている。リラックスしなければいけないという強迫。そこで彼女は精一杯、気楽で居心地よく楽しい雰囲気を作り出そうと演じるのである。夫のピーター・フォークが仕事仲間を連れてきたときのシーン。スパゲッティで接待するのだが、このもてなしぶりが微妙に度を越してしまう。客をくつろがせようとはしゃげばはしゃぐほど、食卓はピリピリしていく。はしゃぎの奥で何か重いものがどんどん膨張していってしまう。当然場はしらけてくる。そういった悪循環。もっと普通に出来ないのかと思う夫も、子どもたちを海に連れて行けば、ついハッピーな気分を強要してしまうし、妻の退院祝いのパーティでも「もっとこう、天気の話とか、普通の会話を出来ないのか」と怒鳴り散らしてしまう。「普通」というものは「普通でないもの」もある程度含んで初めて「普通」になれるのに、彼らは純粋な「普通」を求めてしまうのだ。リラックスしようとすればするほど、何かに向かい演じてしまう。いつも他人に対して構えているような生き方。この夫婦はそれに心底うんざりしているんだけど、それから抜け出そうとする試みが一つ一つ演技を補強していってしまう。まさに悪循環。この映画はヒステリックな赤に彩られながら、じっくりとこの徒労というしかない戦いを観客の前に展開してくれる。映画史上おそらく最もたくましい神経症患者。そうか、コロンボ刑事とグロリアの夫婦か、タフな話になるわけだ。
[映画館(字幕)] 8点(2011-08-06 10:28:15)
239.  雨月物語 《ネタバレ》 
溝口の映画では舟が出てくると、しっとりとした空気が漂い悲劇が起こる。『残菊物語』の舟乗り込みのような賑やかな舟も、けっきょく悲劇の進行を強調する背景でしかない。行方定まらぬような心細さが、悲劇を引き込むのだろうか。とりわけ本作は、此岸と彼岸の掛け渡しのような存在で、それ以前と以後の世界の違いを見事に表現していた。向こうの世界の幽玄、侍女たちが燭台を持ってくる朽木屋敷の空ろさと、こちらの家の囲炉裏の火の確かなぬくもりとの対比。欠点は小沢栄太郎の芝居のクサさと彼がらみのエピソードの浅さで、あの夫婦のあっさりした決着は投げやりと言われても仕方ないだろう。公開時の観客にとってはつい最近まであった戦後の世相が重なり、「戦地から帰ったら妻がパンパンになっていた」という身の上相談への回答といったレベルで受け止めた人も多いのではないか。しかしそれを補って余りあるほどに森=田中夫婦のほうのエピソードは見事で、森帰還のシーンが素晴らしい。こちらだって戦地から帰ったら妻が空襲で死んでいた、という現実と重なるが、それ以上の普遍性に達している。夫の帰りとともにフッと現われる宮木、そして朝日が差し込むまで家を守って消えていく。彼女はいっさい個人の無念も恨みも述べないが、より深い無念へと観客を導いていく名シーンだ。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2011-07-29 10:07:53)
240.  黄色い大地(1984)
冒頭、八路軍兵士が一人で小さく心細そうに現われてくるだけで、「あれ? これは今までの前向きの共産主義者とは違うぞ」と驚かされ、それと重なってくる荒々しい民俗音楽で、なにか新しい中国映画・というより国籍とは関係ない「映画」を観てるんだ、という気になった。過去の悲惨を扱って現在の矛盾から目をそらしてる、と言う批判も出来るかもしれないが、それよりも一本の映画としての完成度にまず驚くべきだろう。照明はスクリーンで観られるギリギリぐらいにまで落とし、ふいごの音や室外の家畜の声が際立つ。目を凝らし耳を澄まさないと捉えられないような世界を築いていく。この時間が粒だって清水のように流れていく感じは、最良の映画だけが持てる幸福な感覚だ。その自然界と結びついたような時間の中に不意に登場人物の民謡が飛び込んでくる刺激、ここに「大きな自然と小さな人間」という彼らの生活が直接に表現されている(特に弟が歌いだす瞬間)。政治的メッセージよりも、人間が生活していることへの新鮮な驚きとそれへの畏敬がベースになっている。突然中国映画の新展開を見せてくれた忘れ難いフィルム。
[映画館(字幕)] 8点(2011-07-24 10:17:41)(良:1票)
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