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ユーカラさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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【製作年 : 2010年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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501.  ウィンターズ・ボーン
タイトルバックの仰角ショット。 絡まりあう黒い枝々の合間から光を放つ薄日のイメージが映画の中で象徴的にリフレインされる。 生活感を滲ます家屋の質感と、中西部の寒々しい外気を伝える自然光主体の画面の感触がいい。 一癖も二癖もある登場人物たちの実在感と凄味。その佇まいだけで、主人公を取り巻くシビアな生存環境を語りしめる。 その過酷さの頂点にあるのが、壮絶なリンチを受け、左頬を無残に腫れ上がらせたジェニファー・ローレンスの痛々しい「顔」だろう。 それでも尚、擦り切れたミリタリー柄のジーンズにハーフコートを羽織り闊歩する彼女のタフで凛々しい相貌が素晴らしい。  淀んだ暗い沼の水面に落ちる月光の冷たい光と、チェーンソーのモーター音が苛烈に響く夜を彼女は越え、父の形見となった白いバンジョーを弾く幼い妹・弟と玄関前に寄り添い合う。  その三人のショットはナイーヴさを宿しながらも心強い。
[映画館(字幕)] 7点(2011-11-22 20:21:06)
502.  ちづる
その聡明さはインタビューでの応答の姿に明らかでありながら、カメラの前で気取りも衒いもなく「家族」を生きてみせる母:赤崎久美さん、そして娘:千鶴さんが素晴らしい。  二人が仲睦まじくソファに並んで寝そべるショットや、散歩の途中の木陰で二人が寛ぐショットには淡い切なさ以上に穏やかな幸福感が充溢している。  カメラを前に二人が取っ組み合うシーンにおいても、打擲や噛み付きのコミュニケーションに強く滲むのは二人の「絆」のほうだ。  新しい家族・バナナと初対面し、恐る恐るその存在と触れ合い、受けとめていく千鶴さんの感動的な身振り。  散歩中、見知らぬ通行人に向かって突然駆け出す彼女を、手持ちのDVカメラが慌てて追いかけ画面は大きく揺れる。すると、彼女はカメラの方を向いてからかうように笑いかける。  その天真爛漫な笑顔は観客を魅了し揺さぶらずにはおかないだろう。  『ちづる』は作り手の意図やテーマや主張を越え、概念や一般的属性をも越え、その人間固有の具体的魅力を以って迫ってくるのが何よりの映画的美点だ。  監督自身を含めた家族4者を、時に引いた固定ローポジションで、時に被写体に寄り添うハンディでと、絶妙の距離とフレーミングで捉えていくカメラの柔軟な感性の賜物でもある。 
[映画館(邦画)] 8点(2011-11-19 17:02:15)
503.  ミッション:8ミニッツ 《ネタバレ》 
列車、ポッド、オペレーションデスクと、可動範囲の狭い閉塞的空間の中で全身アクションを制限された役者たちの肉体は、さらにカメラフレームによっても寸断される。  ジェイク・ギレンホールのバストショットは役柄上の必然でもあり、二人の女優にとってのクロースアップは、映画表現の特権としてその相貌の肉感的な肌触りと魅力を伝えてくる。  モノアイとの切り返しの中で、ヴェラ・ファーミガのクロースアップは頬の輪郭や瞳の動きといった豊かなディティールによって彼女の感情の揺れと相克を露呈させて素晴らしい。 任務を遂行したギレンホールをねぎらい称える言葉と表情に滲む慈愛のエモーションが泣かせる。  テロリストに撃たれ、向かい合う形で路上に倒れて動けないミシェル・モナハンとギレンホールの視線を結びつけたローポジションの切り返しショットの切なさ。 その距離感があってこそ、彼の最後の決意は納得性をもち、最後の8分間の中で互いに向かい合って車窓の白い光を受ける二人の屈託無い笑顔のツーショットが活きてくる。  時間の静止した世界。乗客たちの笑顔の一瞬間が切り取られる。その渾然一体となった至高の映画的エモーションは何物にも意味づけられない。  抑圧、拘束、静止、不自由という「反アクション」の中に生の尊厳が浮かび上がってくる。  アバンタイトルの幾何学的ビル群の意匠。列車の外から中へ、というプロローグ。格子をすり抜けるカメラ。眼を見開いて横たわる女性等など。ヒッチコック的味わいも魅力だ。 
[映画館(字幕)] 8点(2011-11-05 23:12:48)
504.  スリーデイズ
プロットの面白さは、オリジナル『すべて彼女のために』に因るもの。語りをほぼ忠実になぞって絵解きするのだから、つまらなくするほうが難しいはずだが、構図の活かし方(特に「ドア」の配置)もテンポも、断然本家が上だ。  マイナーチェンジとして、都会の鉄道を使った大掛かりな逃走アクションや、時間制限の中での子供を巡る葛藤などが付加されており、その辺りがハリウッド流リメイクとしての戦略と差別化だろう。  オリジナルの地味な魅力に比べ、スターの配置も音楽も編集もそして検問突破のサスペンス演出も、より通俗性を志向しているが、 ハイウェイを走る車から身を躍らせようとするエリザベス・バンクスの表情などは、リメイク版に新たに設定された印象深いイメージだ。  ただし余分に見える肉付け(特に序盤及びエピローグ)も多く、結果は上映時間の差が歴然と示している。  
[映画館(字幕)] 5点(2011-11-04 20:45:47)
505.  猿の惑星:創世記(ジェネシス) 《ネタバレ》 
ホークスの『モンキー・ビジネス』(1952)で、チンパンジーが錠を外して檻を抜け出し、若返りの新薬を調合、味見し、それを人間の給水機に混入させてしまうまでを驚異の2ショットで本物に実演させてしまっていることを思えば、CGIの時代に人間の演技を模写・変換した合成キャラクター自体は、予想を超えた動揺や驚きといったものをもたらすべくもない。(本物のチンパンジーの、時に意表を衝く豊かな表情変化は「非心理的」で実に見事だ。) 人間の演技と表情を模した生物の人間的倫理に共感性がもたらされるのはある意味当然のことであり、眼による感情表情を中心としたそれも人間の理解と納得の範囲に納まるものでしかない。  ゆえに、ドラマとして彼我の優劣を決定づけ、かつ映画としての驚きとスペクタクルを呼び込むのはその身体能力の圧倒的差異である。  映画の後半部、金門橋の上部・下部構造を駆使した登攀、懸垂、跳躍、疾駆の「超人的」アクションと、それを捉える縦横無尽の流動的カメラワーク(横移動、縦移動、空撮俯瞰)が断然素晴らしい。  同時に、仲間の殺傷行為の暴走を制止しようする「手」による反アクションのアクションが情感と同時に批評性を伴って迫る。
[映画館(字幕)] 8点(2011-10-17 12:43:03)
506.  モテキ
快晴の屋外ロケを活かしたPerfumeとのコラボダンスシーンは、森山未來の切れの良い動きにクレーンショットも組み合わさり『(500)日のサマー』のそれよりも華やかで俄然盛り上がる。  森山がベッド上で見せるアクロバティックな側転。飛んできたバッグに驚く日傘の女性のリアクション。長澤まさみの手裏剣。真木よう子の飛び蹴り。そうした不意討ち的に登場する小技も単発ながらとても魅力的だ。  夜の路地や、居酒屋内、森山の部屋を窓側から捉えた屋内シーンはいかにも光量不足で貧相だが、逆にその薄暗さの中に俳優の生々しい表情が浮かび上がり、部屋の奥側から半逆光で捉えた森山・長澤のキスシーンや、麻生久美子の牛丼完食シーンの露光もまた官能性を帯びながら彼女らの表情を包んでいる。  ベッドシーンに遠く聞こえてくる発情した猫のよがり声はユーモアを醸し、ドアロックの意識的な音は主人公の緊張を、そして振られた森山が長澤の部屋を出て行く気配を伝えるオフの音は悲哀を、と音響演出にも凝りを感じさせる。  だが何より画面を支えているのは、女優二人の顔といって良い。  
[映画館(邦画)] 4点(2011-10-11 12:32:21)
507.  探偵はBARにいる
大泉洋は最初の電話から声を荒げ、有薗芳記の死に逆上し、と激情型の傾向をことあるごとに示す。軽妙・寡黙型が真相に対してついに取り乱してこそクライマックスのエモーションが際立つのであって、ヒステリー型が、一本調子で泣き叫んだところで観る側は鼻白むばかりだ。 しかも、喜怒哀楽の心理をそのまま顔面に貼り付けすぎとくる。  映画自体も様々な無駄が多い。  雪原の中から登場する男、という開幕で引きこませるかわりに、その倒叙は中盤でのサスペンスを減殺してしまう。  開巻の思わせぶりなカットバックを始めとするスローモーションは単なる時間の引き延ばしに終わり、腕時計は伏線としても何らドラマと関連づかず、単にとってつけた印象だけを残す。 大泉が衝動的にススキノの街路を走る横移動は、中途半端に反復されるのでショットの強さとして突出してこない。  最も致命的なのは、松田龍平のボケに対する大泉のツッコミ台詞がことごとく映画を安いバラエティ番組の感覚に引き戻してしまうことだ。 
[映画館(邦画)] 3点(2011-10-09 21:33:22)
508.  ザ・ウォード/監禁病棟 《ネタバレ》 
何度失敗しようが、諦めずに脱走を試みる不屈のヒロイン(アンバー・ハード)。 彼女を何度も物理的に投げ飛ばす幽霊も豪快でよい。  脱獄シーンでありながら、足音や物音を気にもしないその無頓着ぶりも大らかで楽しい。ベッケルの『穴』のように、深夜の廊下や通風ダクトに響き渡る過剰な音が却ってサスペンスを盛り立てる。  一つの扉から、次の扉へ。階下階上を巡る追っかけアクションもスリルがあって楽しめる。廊下の直線を縦に捉え、手前で閉まりかけるエレベーターの扉に向かって追いかけてくる看守を間一髪でやりすごすタイミングやフレーミングなども堂に入っている。  お馴染みの「横切り」や、派手な音響を伴った常套的なショッカー演出はご愛嬌。 
[映画館(字幕)] 7点(2011-10-05 22:42:20)
509.  シャンハイ(2010) 《ネタバレ》 
様々な形状のランプシェード、幻燈、ネオンサイン、暖炉、ヘッドライト。 あるいは、動乱の予兆ともいうべきマッチの発火に銃の発砲火炎と、暗闇に浮かぶ光の要素は数多いにも拘わらず、明暗のコントラストが際立たず、官能性にも欠ける。 結果として光も闇も共倒れの印象で、その辺りもラブロマンスとしての弱さの一因かも知れない。  ノワールなら、せめて濡れた路面への照り返しや、黒塗り車の艶光や、煙草の紫煙へのこだわりは欲しい。  ジョン・キューザックがコン・リーを尾行するシーンはほぼ起点と終点のみで、映画として肝心な経過の描写を欠き、上海駅ホームの群集シーンも同様に、追う・追われるのサスペンス醸成が拙い。  日本大使館前での暗殺シーンのカットバックも、クライマックスのショットガンの撃ち合いも編集が乱雑すぎる。  巷で騒がしい政治性論議などはどうでも良いとして、これでは乗れない。  
[映画館(字幕)] 3点(2011-09-30 23:06:02)
510.  世界侵略:ロサンゼルス決戦 《ネタバレ》 
厭戦と不況と失業率悪化の中、なりふり構わぬリクルートに精出す米軍と、物資・施設協力の見返りに露骨なゴマスリぶりをみせる製作側。(ベビーブーマーへの配慮もぬかりない。)  あまりの臆面の無さに、逆効果ではないかと心配してしまうくらいだ。 キャスリン・ビグロー『ハート・ロッカー』ほど巧妙でないぶん実効性は低いだろうが、本質は一緒だ。  軍関係の画面占拠率とアクション規模は、迎合とアピールの度合いにはっきり正比例していて、イラク侵略泥沼化を経て、尚も仮想敵の捏造と徴兵宣伝に勤しまねばならない懸命ぶりが気の毒にもなってくる。  それはともかくこの映画、相も変らぬ「故意の手振れ」にまず萎える。 こんな手垢のついた「詐術」をまだやってるのか、と。そのダサさに心底、呆れる。  いくら揺らしの為に揺らしたところで、対話シーンでは平気で切返しを使い、ビルやバスへの突入シーンの度にキャメラが先行して、兵士が銃口を向けるのを「川口探検隊」式に幾度も正面から捉えるのだから、緊張感も臨場感もあったものではない。(『ハート・ロッカー』もまったく同様。)  出鱈目な視点で、単に揺れてさえいれば「ドキュメンタリータッチ」だというなら、観客愚弄というべきだろう。  これまた手垢塗れの近視眼的「小状況」設定と近視眼的顔面アップの連続は、文字通り近視眼的ヒロイズムにまみれ、無線遮断も時間制限もカウントダウンも、ドラマの中で何らサスペンスとして立体化せず、退屈極まりない。  新鮮味も皆無で、端的につまらない。    
[映画館(字幕)] 1点(2011-09-24 16:43:26)
511.  モールス
フィックスのロングショットにおいて突発的に生起するアクションの衝撃性を重視したトーマス・アルフレッドソン版に対し、リメイクとなるマット・リーヴス版は、踏み切り越しの警音や列車通過音や給油所内の喧騒といった環境音を前景に配置して後景の静的な惨劇を際立たせる趣向をそれに組み合わせている。  車のバック走行から転覆までを車内後部座席からのロングテイクで捉えるアクションシーンの1ショット性なども、2008年版のアクション演出を踏まえつつハリウッド的な派手さを加味したものといえるだろう。  バスルームのドア向こう、あるいはプールの水面上で進行する殺戮を見せない趣向の踏襲が有効に機能しているのは当然として、一方で超人的なアクションを視覚効果で見せてしまうショットは驚きも緊張も生まないのが残念だ。 白い吐息、窓ガラスへの人物の反映、犬・猫の用い方など、細部の豊かさもやはり2008年版に軍配が上がる。  怪奇幻想ムードの中に差し挟まれたレーガンの「Evil Empire Speech」(1983)は現実的で異質なアクセントとしてさりげなくも面白い。 時代性と共に、コミュニケーションの主題をも暗に仄めかしているようだ。 
[映画館(字幕)] 7点(2011-09-19 18:19:26)
512.  神様のカルテ
宮崎あおいが写真家の設定であり、病院屋上で加賀まり子と看護スタッフの集合写真を撮る彼女を正面から捉えたショットがあるならば、それに対応した記念写真のショットは説話的にも映画的にももっと効果的に活かされるべきだった。 『半分の月がのぼる空』で忽那汐里の笑顔の写真を感動的に導入してみせた深川栄洋なら尚更だ。  キャラクターの職業設定がまるで活かされないため、彼女の映画的存在性はますます希薄となる。 それは彼女だけに留まらない。原田泰造、岡田義徳、そして本来なら現代版『赤ひげ』たるべき柄本明も同様である。  本作が医療のドラマとしても薄弱なのは、「処置」の具体的なアクションがまるで描かれないからだ。ひたすら善良で美談づくしの脚本であったとしても、医師・看護師の実働が具体的に画面に載っていればそれは十分に説得力を獲得する。 しかし、この映画では「緩和ケア」も「優れた資質」もほぼすべてが説明台詞のみで処理されてしまう。モニターチェック一辺倒の櫻井翔はもちろん、吉瀬美智子も池脇千鶴も労働らしき所作を全く行っていない。ゆえに絵空事感が増す。  夫婦間の家事労働も然り。にわか雨で洗濯物を取り込もうとするショットや、住人たちが調理する描写はわずかにあっても、何の料理を作っているかすら判然としない。 (せめて、櫻井のおにぎりを握るくらいの描写は欲しい。)  結果的にいずれのキャラクターも「生活者」としての実存性が非常に乏しく、空虚なファンタジーに堕している。  櫻井・宮崎の交わす文語体の台詞は、日本語自体の美しさの復権を試みたものだろうと好意的に解釈は出来る。 が、大林宣彦の『なごり雪』ほどの過激性もなく、役柄からさらに生活実感を失わせるだけの結果に終わっている。 
[映画館(邦画)] 3点(2011-09-18 18:35:23)
513.  コクリコ坂から 《ネタバレ》 
非映画的な「説明のための説明」など無い方が良いのは、言うまでもない。 主流シネコン映画の「全面介護式」に慣らされ、1から10まで手取り足取り映画に説明してもらわねば何も「ワカラナイ」観客、あるいは「見ていても気づけない」観客、(ついでに言うと「メッセージ依存者」)には不向きな映画であることは間違いない。  エスケープから戻った路面電車乗り場の告白シーン。カメラ正面に向いた少女の後景に次第にヘッドライトが入射し、今度は切り返された少年の正面へ順光が入射する。続いて横からのショットとなり、少女のいる画面右手から少年の立つ左手へと光は伝わり、彼らの後方でドアが開く。 古典的で寓意性豊かなシーン作りが絶品だ。 あるいは、『天空の城ラピュタ』的な垂直線上の出会いの鮮やかさ。 マッチを摺る、キャベツを千切りする、あじフライをフライ鍋の中で箸で裏返すという細やかな調理動作の見事さ。 そして金槌打ち、ハタキ掛け、壁塗り、箒掛け、雑巾掛け、荷物運びといった清掃の動作のアニメーションも過去作の群を抜いて多彩だ。  何故、宮崎駿は「労働」のシーンを重視するか。それは、アニメーター自らが徹底した観察と実演を通さねば描き得ないアニメーションの基本だからだろう。 だから彼は何よりもまず労働の場としてカルチェラタンを設定・脚本化し、スタッフに作画を課す。 彼は、人間の細部の動作を写実する地味で困難な作画を通してアニメーション文化の継承と若い人材育成に専心しているように見える。そしてスタッフはそれに見事に応えている。  宮崎駿を不遇時代から理解し、支え続けた故・徳間康快氏もあからさまに登場するが、それはこの作品が、宮崎から亡き恩人への直截な返礼と手向けであることを示す。  助力してくれる旧世代への信頼と肯定。そこから新世代の進歩が生まれるというメッセージ。それは討論会のシーンでも少年の演説の形を借りて直裁なまでに謳われている。子供達の未熟を映画は否定しない。 宮崎吾朗組は、先達の信念を肯定し尊重しつつ、それを継承することから、新しきを模索してゆこうとする。  少年と少女は、オート三輪やタグボートを駆る大人達の助けを素直に借りて協働しながら坂道を下り、海を渡る。 前半の「上を向いて歩こう」に呼応する武部聡志のサントラナンバー「明日に向かって走れ」に乗って二人が坂道を並び駆け下りて行く横移動シーンの高揚感、ロマンティシズムが素晴しい。 
[映画館(邦画)] 9点(2011-09-04 18:32:57)
514.  トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン
カーチェイス等を主とする水平軸のアクションよりも、垂直軸・あるいは傾斜軸を活かした高低差のアクションのほうが、やはり3Dには相性が良いのか。  『パールハーバー』で戦艦アリゾナに向かって落下する爆弾を高空から追うバーチャルキャメラや、戦艦オクラホマの傾斜した甲板を船員が滑落していく移動ショットで試みられた斜面感覚がここに結実している。  ビルの高層階から地上を俯瞰する縦に深い構図の奥行きは、平衡感覚を瞬間的に迷わせ、落下の錯覚を催させてはくるのだが、それはあくまで感覚刺激にとどまり、映画の感情を際立たせることは無い。  高層ビルから飛行艇へ、シャイア・ラブーフを追ってヒロインが果敢に飛び移るショットや、半壊して傾斜の度を増すビルの中で手を繋ぎ支え合う二人のアクション等にはもう少し情感というものが伴っても良さそうなものだが。  その無頓着ぶりと、状況をナンセンスコメディに転化させてしまうエキセントリックな感覚こそがマイケル・ベイの資質なのだろう。  それでも(それゆえ?)楽しめてしまうのは、画面の豊かな活劇性ゆえだ。  全身による螺旋回転運動を採り入れながら敵を蹴散らしていくトランスフォーマーのダイナミックな横移動ショットなどは、マキノ的な殺陣アクションを連想させずにはおかない。 
[映画館(字幕)] 7点(2011-09-03 20:13:28)
515.  大鹿村騒動記
トンネルを越えて紅葉の山道を登っていくオープニングの緩やかな縦移動の感覚。  三國連太郎が墓参する、あるいは小倉一郎が農作業する山の斜面の感覚。  激しく窓を打つ豪雨と暴風の描写が素晴らしい山の嵐の感覚。  そして、原田芳雄の営む食堂の外観・内装から滲み出る地味な生活感を笠松則通の落ち着いたカメラが的確に掬い取る。  現地ロケーションと役者の馴染み具合が何よりで、おひねりの白い和紙や掛け声の飛び交う、客席と舞台上とのコミュニケーションもすこぶる楽しい。  手前に食堂テーブル、奥に玄関。あるいは手前に洗濯機とトイレ、奥に居間といった手狭感の秀逸な縦構図のなか、それぞれ岸部一徳や松たか子、冨浦智嗣らと原田芳雄が絡むロングテイク主体の対話劇もいずれもユーモア豊かで味わい深い。  ラスト近く、原田と大楠道代が並ぶ、舞台後の裏口のロングショットもいい距離感を出している。  そのうえで繰り出される、原田振り返りのクロースアップが尋常でない凄みを放ち、感慨深い。  三國連太郎との充実した芝居のなか、目深に被り直すテンガロンハットの芝居も泣かせる。  
[映画館(邦画)] 8点(2011-08-15 20:34:40)
516.  さんかく 《ネタバレ》 
常にトイレを視野の奥に入れた特徴的な2DKの構図の中、高岡蒼甫と田畑智子が何度もキスをし直すシーンや、マニキュアをめぐっての痴話喧嘩が別れ話に発展してしまうシーンなど、二人の関係性の変化を捉える持続的なワンシーン・ワンカットが真に迫る。  この長回しは、二人の達者な芝居を途切れさせないことで生々しいテンションの維持を達成しているだけでなく、男女間の視線の交換とそれに伴う感情の交流という古典ハリウッド的な切り返し編集を一切封印することで、二人の恋愛の不可能性を暗示する。  実際に、小野恵令奈と高岡蒼甫の「擬似恋愛」は幾度も偽の切り返しによって表現される一方、高岡・田畑の対話からは意識的に徹底排除されている。 監視カメラ映像を通して交わされた偽のそれと、ラストの美しいそれ以外は。   同時に、頻出する携帯電話での対話も常に一方の発話者側だけを捉え、関係の一方向性と非対称性を強調しているのも確信的に施された演出だ。  ラストのクロースアップによる男女の切り返しに至り始めて双方向的な結びつきが成立し、見つめること(視覚)と受け容れること(心理)の一致という原サイレント的美しさを見せ付ける。 
[DVD(邦画)] 8点(2011-07-29 21:59:49)
517.  ラスト・ターゲット(2010)
全編通して、台詞の大幅な排除によって達成された寡黙の美質。 異邦人の孤立を際立たせる山岳地帯の望遠ショットの見事さ。 少々単調気味のクロースアップも、呆気ないまでに短い撃ち合いも、「娼婦と流れ者」のモチーフも、中盤に登場するセルジオ・レオーネ『ウエスタン』の引用が納得させる。  中世の趣を残す村の急峻なロケーションが絶景であり、山の斜面が作り出す地形的特色は狙撃のドラマにも巧く活かされている。 そして雨に濡れた夜の石畳が街灯の光を鈍く反射させる画は、紛れも無くハリウッド・ノワールの証だ。  暗い屋内で、サイレンサーを「職人の手」捌きで作り上げていくストイックな身振り。 銃器受け渡しスポットとなる食堂の疎らな客。抑制された静のムードが緊張感を呼び込んでいる。  草むらの中でジョージ・クルーニーとテクラ・ルーテンが距離を置いて交互にライフルの試射を行うシーンに『ジャッカルの日』の誤差修正シーンの緊張感が甦る。  娼婦を演じるヴィオランテ・ブラシドが醸す純朴と妖艶の入り混じったムードも出色だ。 
[映画館(字幕)] 7点(2011-07-22 22:04:32)
518.  エクスペンダブルズ 《ネタバレ》 
ジェット・リーとドルフ・ラングレンの格闘まで、編集で「ワンショット(一打)・ワンショット」まで切り刻む愚に悲しくなる。  打撃間の「間」を削ることが、キレの良さとでも勘違いしていると思われる。 おまけに顔面アップの連続で、まともに体技も間合いも見せてくれず、徒手格闘戦の面白味がまるで無い。CGを大幅に封印したとしてもせっかくの格闘系俳優自身によるアクションが活きていない。 二度のカーチェイスも単に派手で大味。格闘シーン同様に運動の持続性も緩急も無く、空間と位置関係の提示には全く無頓着で、興を削ぐ。  「売り」らしいスリーショットは、まともなスリーショットならず。バランスの配慮か、役者の絡み演技未熟のためか、スケジュールの都合か。各々の短い単独ショット、あるいは無言のツーショットの組み合わせを単調に繋いだのみで、三人の正面姿を1ショットに収めた持続的画面はほとんど無い。背中だけの代役が一人いれば、三人揃わなくても撮れてしまう貧弱で胡散臭いシーンだ。  クライマックスに至ってもひたすらな「作戦無き」乱打戦の連続に、途中から安泰感すら感じさせてしまうのも良いのか悪いのか。  一方でフルオートショットガンの重低音や、中盤の橋桁での空爆ロングショットといった派手な見せ場、音響は良い。  『デモリションマン』風のベレー帽、『コブラ』風のレーザーサイト、サングラスといったセルフオマージュ的アイテムの数々は懐かしく、橋桁での泥臭い「全力疾走」ショットはシルヴェスター・スタローン映画必須の刻印ともなっている。   
[映画館(字幕)] 4点(2011-07-18 20:05:24)
519.  星守る犬
ファンタジックな向日葵畑と、美しく輝く三陸の海岸。それらが引き立つのは、一方で厳然たる地方の閉塞状況にもしっかりと眼が向けられているからだ。  半壊した家屋や、シャッターの下りた商店が連なる寂れた国道を無言で見届けていく西田敏行の複雑な表情が忘れがたい。それは紛れも無く作り手が現場の風景に触発され生まれたショットであって、台本をなぞるだけのスタイルからは決して挿入され得ない。 だからこそこれらのショットは強度を以って迫る。  新聞の見出しにさりげなく登場する「小泉圧勝」、「リーマンショック」の文字と平行しながら描かれる地方企業のリストラと、家族の分解。 現代的な孤独死の様相までを丹念に見据え、単なる「悲惨」に留めずに積み重ねていく語りには作り手の誠実な人間観と社会観が伺える。  青森の夜の埠頭で、一人ダンスを踊る可憐な川島海荷のロングショット。 三浦友和、余貴美子、温水洋一、濱田マリらの多様な佇まいは、単純な「善良」には陥らず、豊かな人間性を醸し出す。 そして映画のラスト、いわきの漁港で漁船の仕事に精を出す中村獅童の姿を、3.11後の今、冷静に見ることはできない。  奇しくも、フィルムに収められることとなった被災前のいわき、遠野のロケーションの風情がリアルタイムと交錯しながら、ロードムービーとしての情緒を倍増させている。  覚束ない足取りの犬を困難な超ローポジションで捉えていく撮影も頑張っている。  車のナンバー「746」「2525」といった細部も作り手の拘りの証だ。
[映画館(邦画)] 8点(2011-07-17 12:02:16)
520.  SUPER8/スーパーエイト(2011)
ゾンビ映画とともに『東京公園』とのもうひとつの細部的な類似は、相手を正面から真っ直ぐに見据えることによる、相互把握と理解というモチーフだろう。  メディアを介さず、素の眼差しで互いを見詰め合うことで、差異を超えて互いの個を把握する異星人と主人公の少年。  その視覚的コミュニケーションの主題は、単なる映画史的ノスタルジー以上に、9.11報道を経て「異質な者」への偏見と連鎖的憎悪が煽られていく現代の課題として、共産圏への憎悪の時代を背景に発展的に変奏され、問いかけてくる。  映画の中で強く印象に残る場面は数多いが、 ナイトシーンの随所で不規則的に画面を輝かせるブルーの光の帯。タメの場面で静かにざわめく木々の不穏な音。駅でリハーサルを行うエル・ファニングの驚異的な変貌ぶりなどをとくに挙げておきたい。   
[映画館(字幕)] 7点(2011-07-10 21:42:40)
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