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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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681.  私は二歳 《ネタバレ》 
エッセイ映画というか、育児本をベースにして一本の映画を撮る試み。普通の監督ならその芯のなさが足かせになるところを、この人は好き放題が出来ると喜んでるみたい。子どもの動きを記録したドキュメンタリー調からアニメまで動員している。小ネタの連鎖でブツブツになりそうなところを、大きく前半の団地時代・後半の姑との同居時代と分けて、まとめている。託児所の不足、はしかへの対応、などの「役立つ情報」も織り込み、しかしちゃんと劇映画としての構えを崩さない。役者では後段の浦辺粂子の姑が傑作で、確信犯的甘やかしのベタベタ感が、嫌味にならずに「お祖母ちゃん一般」の姿になっているのは大したものだ。しっくりしてなかった嫁と姑の女連合が、亭主のしくじりで共同して攻撃してくるあたりがおかしい。昔の映画は時代の映像記録としても楽しめるが、それだけでなく時代の傾向の記録にもなっていて、本作で団地から親の家に移る展開は、おそらく当時の傾向を反映していたのだろう。子どもの成長とともに家族は一軒家に移り、団地はいつも若夫婦が入れ替わって回転していく、ってのが団地発足当時の計算だった。しかし大都市部の住環境はそれほど甘くなく、団地で高齢化が進む未来が待っているとは、このころはまだ誰も考えてもいなかったわけだ。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2011-10-08 10:11:26)
682.  デルス・ウザーラ
彼のカラー作品はどちらかというと色が強烈に使われることが多いなかで、本作は秋の沈んだ黄色など渋く美しい。やはり本作の見どころは湖畔で迷う場。それまでずっと視界が閉じた森林を抜けてきて、初めてだだっ広いところに出、その広さの中で迷うという段取りがいい。一つ一つの画面が「画家黒澤」って感じで素晴らしいが、日没へ向けた時間の推移を織り込んでサスペンスにしているところがやはり映画の監督。暗くなっていくことが、一番ドキドキさせる。草を刈るシーンの緊迫に比べると吹雪はやや落ちるけど、一番のエピソード。これ第一部と第二部の間に日露戦争を挟んでるんだな。そして第一次世界大戦も切迫している。まあヨーロッパは遠かっただろうけど、ソ連の映画なら近づいている革命の気分をちょっとだけでも出しそうなものだが、そういうものは一切ない。あの時代の測量隊ってのは時代背景を見ればかなりキナ臭い存在だったわけで、そういう異臭を出させないように慎重に大自然との物語だけに絞ったのかと思うと、途中に中途半端に匪賊が現われたりする。そこらへんの意図が分からなかった。そのようにエピソードのまとまりには欠けるものの、黒澤ならではの鉈で削ったような大柄な味わいはあり、その味を決めているのはデルスの語彙の少ないしゃべりだろう。単純なしかし的確な言葉の連鎖、修飾する語彙を持たない芯だけの言葉、黒澤もこういうデルスの語りのような映画が作れたらいいなと思い続けていたのだろう。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-10-02 09:58:25)
683.  はじけ鳳仙花 わが筑豊わが朝鮮
登場する女性画家、朝鮮人の代わりに発言するんだ、という気負いが強く感じられ、これって一種の思い上がりじゃないか、と最初のうちは引き気味に観てた。でも画家を離れてくると、画の力に引きずられて、のめりこんでいく。朝鮮人坑夫を怒鳴る日本人の顔のシーンで、突然また画家が現われる。加害者としての日本人の顔がどうしても描けない、と悩むんだな、ここが面白い。どうしても決まりきったデフォルメになってしまい満足できない、デフォルメを抑えると今度は「人のいい日本人」の顔になってしまう。自分の顔を鏡で見ながらいろいろ口を歪めたりしてみるのだが、納得の顔が出てこない。「加害者」の顔は地の顔と連続していない、という発見。環境が与えてしまうものなのだ、というギリギリの性善説が見えてくる。ふだんは加害者の顔になれない人間が、立場によって加害者の顔にされてしまっている。否定的な告発の絵の底に見えてきた性善なる人間。おそらくこの画家は曼荼羅図のようなエロスの世界や、空の星を吐き続ける竜の絵など、肯定的な画のほうに真骨頂があるのだろう。というか、世の中を肯定的に捉えることと否定的に捉えることとは反対の方向へ延びていくものではなく、縄を綯うように一方向へ延びていくものなのだ。その星の画を見せてて、ふっと画家の手が伸びてきて星を描き加えるとこなどハッとさせる。冒頭では骨の画を描いていたその手なのだ。過去帳に書かれた「某鮮人」というのに、生々しい残酷を感じた。ラストの指紋のスライドが重なる美しさ、社会を離れて指紋をそれだけ眺めれば、それはただの模様なのだ。
[映画館(邦画)] 7点(2011-09-28 10:03:12)
684.  プロヴァンス物語/マルセルの夏
モノローグの多用でサイレント的な味を出す部分あり。父への尊敬が人としての愛着へ変わっていくある夏の休暇でありました。オジサンの前で情けない父さんが、しかし大きな鳥を撃ち落とす。父さんの獲物を両手で掲げて崖上に立つ少年の晴れ晴れとしたロングカット。『生れてはみたけれど』の苦みとはまたちょっと違う。大人は嘘をつくってことを受け入れて(あるいは妥協して)成長していく、ってあたりは似通っているか。仙人になって暮らせるほど自然は甘くない。猛禽類のイメージ。鷲やミミズク。獲物を下げて神父とも和解する父を、受け入れていく。父親との関係の中での成長史。音楽ウラジミール・コスマ、いかにも「映画音楽」って感じだが、堂々としていて合っている。
[映画館(字幕)] 7点(2011-09-26 09:51:59)
685.  秋菊の物語
今まで家に閉じこもっていた田舎の普通の主婦が、訴訟を起こしたことで世界の手応えを知って生き生きする話。村落共同体のなかでナアナアで済ませていたことから、自己の確立を打ち立てる、という前向きなストーリー、とまずとれる。でも別に、互いの顔を識別し合っていられた村の中に、国家の法の論理が侵入してきて共同体内の「いい感じ」が次第に壊れていく物語、ともとれる。裁判中毒になった主婦によって村が破壊されていく。おそらくこの映画の面白さは、その二面が描かれていることにあるわけで、近代が入り込んできた村社会の問題は、現代にまで続いているんだろう(高速鉄道の事故でも、もう中国人はナアナアでは黙っていなくなった)。村の共同体の拘束からの自由と、その外側に広がって待ち構えているもっと大きなものの気配。最初は「一言謝ってほしい」だったものが、だんだんと拡大していく展開に、どことなく民話の味わいがある。巡査が自分で買った土産を持って収めようとするのがおかしい。
[映画館(字幕)] 7点(2011-09-24 10:01:26)
686.  四十二番街
ジェットコースターの滑り出しのように、カタカタとポテンシャルエネルギーを蓄積していって、ラストのショーで一気に奔流として押しまくるミュージカルの型は、ここらへんで確立されたのかな。そのショーが何しろ見せ場。サーッと開いて列車になるあたりからラストまで、ウキウキしっぱなし。車掌と新婚さんとの三人がツツツと右に滑るようにステップを踏むあたりでニンマリだが、まだここらはステージショーの中継といった感じでカメラは慎んでいるのだけど、次第にじっとしていられなくなり、ダンスの中に・ステージの上に乗り込んでいってしまう。このノメリ込んでいく勢いがすごい。「これはいちおう舞台のシーンなんだよ」という前提を放棄していくまでに節度を失っていく。二重の回り舞台を使った振り付けなんかになると、ステージかどうか怪しくなる。真上から見下ろしたときにのみ効果のある振り付けで、ついにはカメラが並んでいる脚の間をくぐったりすれば、もう「ステージを観ている観客」は無視されてしまっているようなもんだ。ヒロインが乗ってた車が走り抜けていったり、向こう側の車も停まっていたりすると、もうここは舞台じゃない。女性が襲われそうになる室内セットなんかは、もう完全に映画のそれ。カメラは窓から退却していく。そして摩天楼のセットが浮き出て、てっぺんで笑っている二人となる趣向。ステージものであったのが、「映画」のミュージカルに乗っ取られていく、その暴力的な奪取の爽快感。
[映画館(字幕なし「原語」)] 7点(2011-09-19 09:59:25)
687.  バス停留所 《ネタバレ》 
このカウボーイの「世間知らずの田舎の純朴青年」カリカチュアを、どこまで受け入れられるかが評価の分かれ目でしょうな。コメディとは言えいささか過剰気味で、迷惑なジコチュー男として引いてしまうところもあり、微妙。ときにハチャメチャやってるジム・キャリーに見えてしまった。対比はクッキリしていて、カントリーソングと酒場女の歌。モンタナの牧場の夢とハリウッドの夢。童貞男の一途と経験豊富女のいなし。そこらが噛み合ってくるとイキイキいしてくる。リンカーンの演説を寝床のモンローに語りかけるのが笑えた。中盤のロデオ大会が映像として活気づき、映画の一番の見せ場である終盤のバスストップでのしみじみした味わいへの、いい踏み台になっている。あわてて防寒具を着て殴り合いを見物する女主人の安定感が終幕の芯になっており、人情劇の一場を支えていた。雪の効果が絶大で、それは恋と自意識にノボセ上がった男を冷やす雪であり、また女にとっては「ふしだら」な過去をすすいでくれる雪。親友バージが勘所のシーンではずっとギターを伴奏に奏でているのもおかしい。ドラマとしてはバージが若い二人に遠慮して去っていくのもわかるんだけど、あの二人の今後を思うと、まだ二転三転ありそうなんだから、落ち着くまでときどき背後でギターを鳴らすために残っていてほしい、と現実ならばそう進言する。ロデオの場で「彼がイカれている」ということを伝えるのに、モンローは頭の横で指をくるくる回す。クルクルパーってのはアメリカから来たのか! 日本古来の表現じゃなかったのか!
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-09-18 12:17:17)
688.  アフリカの女王 《ネタバレ》 
話の大枠は冒険ものだけど実質は「流れ下る室内劇」で、男女二人のドラマを楽しむ味わい。船という密室空間でほかの男女に出会えない状況なのだから、ロマンスの成長だけが見どころになり、それを二人の名優がたっぷり見せてくれる。とりわけキャサリンはピタリの役どころで、宣教師の妹の英国淑女が自分の流儀を保持した態度をとりつつ、けっこう過激な提案を荒くれ男の船長に提示していくあたりのおかしさ、ひとたび結ばれると自分からお茶を「旦那さま」に運んでいくかわいさ、などなど。ときに思い出したようにドイツ軍の銃撃があったり急流があったりするが、ほとんど二人の心理劇だけで運ぶ前半はなんとも鷹揚で、映画黄金期の観客はそれをゆっくりと見物する大らかさを持っていたのだろう。しかしのちの「映画がコセコセする時代」になってからの映画ファンである私にはいささか大らかすぎて物足りなく思っていると、終盤、その大らかさの味わいが私などにも分かってくる。船が隘路に入って身動きが取れなくなってしまい、二人は絶望し神に祈ったりしている。そのときカメラはそっと上昇し、すぐ先に湖への出口があることを観客にだけ知らせてくれるのだ。そしてスコールが訪れ、船は動き出し湖に出て行く。後の映画だったらそれは伏せといて、脱出の驚きの効果を優先するのではないか。でも監督は手の内を見せて、観客にゆっくりと見物させるほうを選ぶ。そのとき生まれるユーモアの味わい。あるいはラストのひっくり返っているクイーン号に静かに近づいてくる敵艦のカット、これも先に起こることを観客に知らせておいてゆっくり見物させる手法だ。そのカットの生み出すユーモアこそ、後のコセコセした時代の映画が失ったものだろう(晩年の監督作『女と男の名誉』では飛行機が飛んでるカットだけで笑わせた)。なんか第一次世界大戦の映画ってノドカでいいんだよな、もちろん殺し合いをしてたには違いないんだけど。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-09-16 10:09:19)
689.  吸血鬼ノスフェラトゥ(1922)
あのポーズ、肩をそびやかして目を大きく剥いているのは、あれは恐怖に「襲われた」側の表情でもあるんだよな。舌なめずりをするような気分を表現するのに、ああいうポーズを取らせる効果ってのは何なんだろう。たしかに不気味なんだ。彼自身が背後からそそのかされて血を吸ってるって感じなのかな、純粋な悪はその背後にあるって言うような。あるいは過度の恐怖と過度の歓喜は同じ戦慄を呼び起こすと言うか。とにかくこの映画にはドイツロマン派の気分が満ちている。ペストの恐怖と重ねられて独特の暗鬱なロマンチシズムが溢れている。とりわけ光景、城の入り口付近や、フッターの向かいの建物、恐怖をゆっくり運び込んでくる帆船のしずしずとした動き、災いの町と化したブレーメンの縦に続く石の道(その白い道をペストの犠牲者の黒い棺が運ばれていく)。どれも素晴らしい。ノックを追い掛け回す群衆にはドイツ民話の雰囲気もあるが、やがてラングの『M』でも描かれるだろう未来のナチズムに通じる「迫害するドイツ群衆」の基本形が、ここですでに提示されていたのかも知れない。白黒反転はいい効果を出してたが、コマ落としはちょっと滑稽(当時の映写方法だとそうでもなかったのかな)。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-09-14 10:07:32)(良:1票)
690.  狼の血族 《ネタバレ》 
夢を紡ぐのも物語をするのも全部女性。少女に限らず、老婆を含む女性たちの物語。少女の成長の話だが「女性」の物語になっている。「これこれこういう話だから、こういう映画になった」というより「こういう雰囲気の映画を作りたくて、こういう話を選んだ」って気もする。監督が男だし。三つのエピソードで、次第に狼が恐怖の対象でなくなっていくの。加害者であった狼も、終わりのほうでは「狼にされる」という被害として扱われる。また「狼が人になる」ってのが何かの恵みのように見られる視点もある。「狼」のイメージが多岐に膨らんでいく。ラスト、赤ずきんの話で復習するよう。ばあさんを「殺してくれた」狼と一緒に狼の血族に入っていく。そして現代、もう眠っている場所は子ども部屋ではない。と窓を破って躍り込んで来る狼。フロイト流に見ればかなり露骨な象徴で、なんかつまんなくなっちゃうんだけど、これが男が作った「女の映画」の限界か。というより、女性たちに「男はこう考えてますが」とこわごわ「おうかがい」をたてている映画なのか。
[映画館(字幕)] 7点(2011-09-13 09:43:00)
691.  エーゲ海の天使 《ネタバレ》 
題名から予想するよりは面白い映画。すべての国の国民は自国民をお人好しだと思いたがっているところがあり、これ下手すると被害者意識からグロテスクな排他主義にもなっていくんだけど、でもそういう「お人好し意識」を下地にして世の中を受け入れていこうっていう、穏健な心理手段にも思われ、自然に人間の集団に備わっている安全装置なのかもしれない。少なくとも、そういう「お人好し」として他者に対そうとする礼儀が生まれる。このイタリアの兵士たち、ギリシャ人にもトルコ人にも「トモダチ、トモダチ」って体よく扱われ、ドイツ人の猛々しさもなく、馬鹿にされてるのかもしれないけど…、というイタリア人の自画像。不意に子どもたちが現われ、敷布の向こうにギリシャ人の日常生活が現われる滑稽味。二年間の休暇ならぬ三年間の休暇。そうか、戦争ってのは「生活」からの休暇という一面もあったのかも知れないな。再建に燃えていた軍曹も、ラストではこの休暇の島に逃げ帰っている。なんか岡本喜八が好みそうな設定。
[映画館(字幕)] 7点(2011-09-11 09:43:26)
692.  イースター・パレード
ミュージカルシーンとしては、冒頭のおもちゃ屋とか、ステッキ持ってのスローモーションとか(ステッキの回転が美しい)、アステア一人の場に見どころ多し。それにしてもこの人は燕尾服が似合う。二人が成功を収めた乞食のダンスは、それほどだったかしら。かえって最初の下手なときのほうが、見事な芸になっていて堪能できた。首を絞めちゃったり、腕のヒラヒラでアステアの顔隠しちゃったり、止まるきっかけが分からなくなっちゃったり。戦前のロジャースとの『有頂天時代』でも、アステアがわざと素人のふりをする、ってのがあったけど、こういうのがミュージカルのひとつのパターンとしてあるな。別れた相棒を見返してやるつもりがいつのまにか…、若い男への恋心もいつのまにか…、と主人公同士の愛が育っていく展開。ラストが贅沢で、ほんのわずかなシーンのために時代を再現しきっている。CGでない時代。邦画だと、こういう場面を作ると「金かけたからじっくり見てってください」と、長々と未練たらしく映すが、サラッと見せて幕にしちゃうのがイキ。
[映画館(字幕)] 7点(2011-09-07 10:12:44)(良:2票)
693.  アスファルト(1929)
夜の街。これセットなんだろうが、ふんだんに人を使ってる。カメラがぐるぐると対象を物色してる感じがいい。やがて歩道に沿って延々と流していき一人の女性に集中していく。ここらへんかなり興奮。宝石店。ヒゲの店員は客の美貌にトロッとなっているが、離れた支配人は横目で見ている。この構図よし。ま、その後いろいろあって、つまりは警官が女の誘惑に負けてゴタゴタに引きずり込まれ、殺人にまで至るという、この時代に多い話。なんなんだろう。犯罪都市ものと言うか、美女は悪人になり、警官は色香に迷う(教授とか、立派な制服的人間が迷っちゃうの)。精神分析の流行とか、無意識の発見とかが、影響を与えてるんでしょうか。家庭の外の闇には、こういう魔が潜んでいる、いう話がやたら多い。そして映画は夜の雰囲気を出すことを任されると、実にいいんだ。ここらへん、ドイツではすべてがうまく機能して「夜の犯罪都市もの」という一つの型を作れたようだ。
[映画館(字幕)] 7点(2011-09-06 12:13:43)
694.  赤い薔薇ソースの伝説 《ネタバレ》 
家庭料理は怖い、いう話。家に縛られた女の情念が凝り固まって料理となっていく。食べることのおぞましさの映画としては『最後の晩餐』などがあるが、これは調理のおぞましさ。大量の涙(塩)を流しつつ生まれた娘、ティタ。彼女の涙が一滴料理に入ると、食べたものがみな泣き出してしまうんだな。娘は、家の料理人であり子守であり家事一般を生涯にわたって受け持つよう母親によって運命づけられているの、それと交換されるのが彼女の料理なんだ。彼女が唯一キッチンにいながら社会に作用できるもの。ソースで興奮させて上の姉は革命党へ走っていく。そういった現実と伝説が混交しているような設定自体は、いかにも中南米的で面白い。憧れる男がそれほどのものに見えないとか、画調が暗すぎるとか、音楽がうるさいとか、後半ヒロインが狂って焦点が揺らぐとか、不満はあるけど。
[映画館(字幕)] 7点(2011-09-01 09:42:40)
695.  雪の女王(1957) 《ネタバレ》 
だいたい全身像で展開していく。だから表情よりも動作を見せるわけで、アニメの本来の姿だ。一番のキャラクターは山賊の娘だな、竹を割ったような性格。ツンツンしながら、親切することに照れながら、ってとこが、後に宮崎に受け継がれていくタイプ。ゲルダを逃がしたあとに動物たちも逃がしてやるんだけど、そのウサギや狐たちが戻ってきて娘を慰めるあたり、涙である。女たちに比べてカイ君はだらしがない。ほとんど全身像で展開するドラマの中で、アップになるのは雪の女王。ラストの静かな退場・消滅して春にゆずるあたり、アップにされるだけの貫禄があります。
[映画館(字幕)] 7点(2011-08-27 12:07:51)
696.  牧野物語 養蚕篇 -映画のための映画-
『ニッポン国古屋敷村』への準備のような二本。『三里塚・辺田部落』でつかんだ「農業の死」というテーマを展開していく。日本でいま進行している米作りの死の前に、養蚕業の死ってのがあったわけだ。国の柱としてもてはやされながら見捨てられていった産業と、それに付随する技術、それを記録しておきたいという気持ち、そういったことを表には全然出さないけれど、小川の仕事を通して眺めると、この「お蚕(こ)さま」への視線に当然のようにそれが見えてくる。手間を掛けることが楽しみになっていくような仕事のありよう。現在はいかに仕事から手間を省いていくか、ということに努力しているが、それが仕事を「苦役」にしてしまっている。また仕事の内容も完成の手応えの感じられないほど細分化され、工夫しようのない「苦役」になっているのだが。かつての労働が苦役ではなかった時代、品質が上がること・生産の効率が上がることへの手間をかける工夫が、そのまま楽しみになっていた時代。もちろん上部による搾取など経済的な苦しみはいつの時代もあったが、少なくとも仕事の現場では理想的なありようが、ここにはあったのではないか。冒頭、木村サトさんのおかあさんが伝説を語る。最初のうちは一生懸命標準語に近く話そうとしているのだけど、次第に地元の言葉に変わっていくのが楽しい。火事をきっかけに上の代がサトさんの代に替わった、そういうカッチリとした村社会の切り替え。かつての華やかなころの思い出を語らせるのも好きで、絹の服で学校に通った、とか。蚕が上に集まると蚕棚(?)がぐるっと回転する仕掛け、こういった工夫の楽しみこそが、本来の労働の手応えだと言っているよう。『三里塚・第二砦の人々』で、地下壕の換気口を工夫している農民の自慢げな顔を思い出した。
[映画館(邦画)] 7点(2011-08-26 09:52:37)(良:1票)
697.  ホッファ
なんかフランチェスコ・ロージあたりが好みそうな題材。喜劇人は、ほんとの僕はお笑いとは違うんだよ、と言いたがる。D・デヴィートの監督作。アメリカ人には、ホッファと聞いただけでもうイメージが出来てるような人なのかな。人を組織する楽しさにのめり込む男。労働者労働者と叫びつつ本人は労働者と一線を引いている男。組合を大きくしていくためにはマフィアの手も借りるが、決して企業側・経営側と裏取引きはしない男。まあ、J・ニコルソンが演じてるってだけで、そういうアクの強い男だってのは分かるけど。組合のプレジデントたることを目指し、そしてそこから転落する哀愁。哀愁でもないか、じたばたしながら没落していく。クレーンで動いていたカメラがそのまま狭い倉庫の中に入り込んできたり、と演出はやたら凝る。イメージのディゾルヴ。雪の足跡→ゴルフボール、水たまり→雨上がりの月、壁の影→デヴィート、テーブル→ダーツの的と、ちょっとくどかったかな。アメリカ映画はこのころ「実録・男の世界」が流行ってたんだ。
[映画館(字幕)] 7点(2011-08-25 09:53:29)
698.  フランケンシュタインの花嫁 《ネタバレ》 
前作よりも怪物の孤独がより前面に出てくる。川に映る己れの顔を見て嘆いたりするんだもん。今回はもう一人マッドサイエンティストが出てきて、小人を作ってる。人造人間の王になろうという願望、ヨーロッパで興りつつあった全体主義への意識があったか、まだなかったか。とにかくそれがあるので、怪物の孤独にまたニュアンスが添い、孤独ではあるが個性のない兵士ではない、という視点が加わった。盲人との共同生活もホロッとさせる、「一人、ワルイ、友だち、グッド」って。あと面白いのは、ラストで博士と怪物の役割りが逆転するとこ。怪物が博士に「シットダウン」なんて命令するわけ。ああ、親とは子に裁かれる存在なのだ。
[映画館(字幕)] 7点(2011-08-23 09:55:40)
699.  フランケンシュタイン(1931)
死体泥棒から始まる。研究室でノーマルな脳を盗みかけて落っことし、アブノーマルな脳を持っていくとこがオカシい。興奮シーンは三つあって、まず実験シーン。せむしの助手に雷鳴電光と、定型ならではの正攻法シーン。次、結婚式。何やら胸騒ぎがする花嫁が部屋を横切って婿を呼ぶ横移動、衣装が裾を引いて美しい。あと少女の父親が死体を抱いて祭りの最中を横切ってくる長い移動。次第にやんでくる踊りと音楽。みなみな松明を持って追い詰める(セットの金を倹約し、空にしわが寄ってたりするんだけど)。そして風車小屋に至る。この怪物の前傾姿勢が、哀しみがあっていいね。なにか自分の大きさ・怪力に困惑しているような。
[映画館(字幕)] 7点(2011-08-21 10:02:28)
700.  ローラーガールズ・ダイアリー 《ネタバレ》 
スモールタウンの日常にうんざりしている少女が、母と来た店でふと店先を振り返ると、ローラーガールズがなめらかに滑り込んできてチラシを置いていく。あのなめらかさに憧れないはずはない、と納得させられる一瞬。ましてガールズは、髪の一部を青く染めている。少女はこっそりとオーディションに向かうバスに乗り込む。隣に座った白髪の老女が、また髪の一部をうっすらと青く染めている。窓の外では自分がバイトしている店で友人が働いている姿が流れていく。決定的な別離なり旅立ちではまだないが、心理的な旅立ちがここで始まったことを告げている。この手の物語では、内気だった主人公が急にヤル気になるのに無理が感じられることが多いのだが、冒頭の「青く染めた髪」ですでに「環境への違和」が育っていることを暗示しており、順に青い髪によって導かれていく段取りがよろしい。オリヴァー君てのがあんまり面白くないな、と思ってたら、そういう役柄なのだった。ジュリエット・ルイスがおっかない人になってた。演出にソツなく、友人との和解をさらりと示すバイト先のゴミ捨てのシーンなんか、うまいよ。
[DVD(字幕)] 7点(2011-08-20 09:38:38)(良:3票)
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