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すぺるまさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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61.  肉屋 《ネタバレ》 
長閑な田舎町で、幸せそうに暮らす人々、男は戦場に行っていた、女は昔の恋を引き摺り恋をしない。そんな中、連続殺人事件が起きる。映画はただそれだけで、特に何があるわけでもない。映画は何か大きな物語の展開がなければならないわけでもない。物語など、原因に過ぎない。結果は映画であり、それを導くための物語だ。であるから大きな展開が映画に重要視される必要はない。男と女がいて連続殺人が起きた、それだけで映画は成立する。あとはそれをどう描くかというだけだ。 それはもう、ああヒッチコックだね、ヒッチコックなんだねと思うわけだが、クロード・シャブロルの凄さとはやはり扉なのだなと。ただ扉を閉める(あるいは開ける)だけという行為のサスペンス性を追求するとこうなる。サスペンスといえば階段ということにもなり、階段をただ駆け下りて、ただ扉を閉めるだけでいい。木造の校舎の階段をピンヒールが駆け下りる音、そして扉を勢いよく閉める音、そして施錠する音、どれもサスペンス性を駆り立てる。人の死をエレベーターのランプで表現するなど、映画の終幕へ向かい畳み掛ける表象の見事さは言うまでもない。そして全編に響き渡る異様な音楽。 車を降りて朝陽を浴びるエレーヌは果たして肉屋を愛していたのか。肉屋はエレーヌを愛していたから彼女を刺さずして自らを刺したのだろう。では接吻をしたエレーヌに愛情はあったのだろうか。愛情故に人を殺める時もあるが、時に愛情の欠如は人を殺めてしまう。朝陽を浴びるエレーヌの無表情はナイフにも似た凶器に見えた。
[映画館(字幕)] 8点(2009-03-09 18:14:36)
62.  ベンジャミン・バトン/数奇な人生 《ネタバレ》 
(良いことか、悪いことか、この映画には悪というものがほぼ存在していない ) 歯車が組合わさっただけの機械であるところの時計がいくら逆さに廻ろうとも、神の業であるが故に歳を重ねれば重ねるほどに肉体のみが若返ろうとも、時の流れだけは決して巻き戻らない、死者は蘇らない、死は待ってはくれないのだから、ならばそれまでは生きていくしかない、ならばどう生きるのか。これは死を考える映画ではなく、今を生きることを考える映画だ。 ベンジャミンが勉学で何かを学ぶシーンなどは一度も出てこない。街へ出て、友と語り合い、船に乗り身を削って働き、セックスを、酒を、友の死を、恋を、全て身を以て経験し、体験し、それが生きているということだと知る。 ひととひとというのは決して強い結びつきがあるわけではない。素晴らしい時間がいつまでも続くわけではない。はなればなれにならなければどうしようもないときもある。そしてひとはさすらい、またもどる。そこにはもどりたくなる理由があるからだ。 ベンジャミンが最期のときを迎える様などは素晴らしい。彼はますます若返り、認知症を抱えた少年へと老い、そしてひとりでは歩くことすらできない赤児となり、彼を抱き抱えるデイジーを思い出すも、何も、ひとことも言えることなく息をひきとる。そして本当に生まれたときそのままに、彼女はブランケットで彼をそっと包むのだ。 彼女はどうして彼が自分のことを思い出してくれたと言えたのだろうか。それはもしかすると彼女だけの思い違いかもしれない、彼女がそうであって欲しいと思っているだけかもしれない、ただあるいは彼のまなざしが、どんなに自分が老い彼が若返っていこうとも変わらず愛してくれた、あのまなざしと同じだったからかもしれない。 雷に7度打たれても生きていた男、ピアノを教えてくれた老婆、シェイクスピアが好きな男、ボタンを作った男、そして母親、そしてバレリーナ、皆、生きていた。どんな死を迎えたかなどは大した問題ではなく、どのように生きていたかというその瞬間だけが永遠なのだ。思い出そう、丁度人生も折り返しの頃、この瞬間をいつまでも記憶に留めておこうと、沈黙のままに鏡に向かい合うふたりを、あの瞬間が永遠なのだ。
[映画館(字幕)] 8点(2009-02-09 03:01:40)(良:2票)
63.  ニュー・ワールド 《ネタバレ》 
スミス大尉のナレーションで語られるのは、現実と夢、つまりネイティヴ・アメリカンの穏やかで豊かな生活と自分たちの血と権力による荒んだ文明社会との葛藤というところに重きを置いたものだ。そこにポカホンタスとの恋が絡まる。そしてスミス大尉が去ると、この映画の主観はポカホンタスに移る。それはスミス大尉が語ってきたような葛藤ではなく、完全なる恋の葛藤である。彼女のナレーションが語るのは母への言葉だ。更にこの映画も終盤に差し掛かると、夫が主観のナレーションまでも登場する。これは完全に妻への愛、更には未来の息子へと語っているのだが、こうなると前半のスミス大尉の葛藤などどこへやら、話の取っ掛かりでしかなかったのかとすら思える。であるから、ラストもこれは文明だとか人間であるとかそんなところへ向かおうとしているのかすらあやふやで、ただのメロドラマになっていく。しかしラストの隅々まで手入れの届いた英国式庭園の中を歩むネイティヴ・アメリカンという構図などを作り、ぎりぎりメロドラマだけで終らすところを耐えている。  では本当の意味での「ニュー・ワールド」とは何か。確かに入植しようとする地はイギリス人にとって「ニュー・ワールド」だが、ポカホンタスがイギリスに初めて行ったとき、そこはまさしく彼女たちにとっては遥かに「ニュー・ワールド」であったというこの逆さまの展開こそが本意だ。人々は今までに見たことのない新しいものを見ると非常に驚嘆するし感動する。イギリス人にとって「ニュー・ワールド」と言えども所詮未開の地、ただの草原や森だ。しかし彼女たちにとってのイギリスというのは、未知の世界、 「ニュー・ワールド」なんだと。 そしてポカホンタスがスミス大尉に再会したものの、夫を選ぶという選択、そして「故郷(HOME)に帰りましょう」という台詞、「ニュー・ワールド」よりも「故郷(HOME)」という選択の様々な本意が見え隠れする。そしてあの船やら空やら港やら川やら森やらをぶつ切りに少し震撼させられる。  テレンス・マリックと言えば映像美の監督だと言われるが、この映画の凄さは、そういった映像美そのものにはなく、それを逆転的に使っているところにある。彼の映像美といえば、自然光を駆使した自然美だ。その自然美を散々見せつけ、そこにふといきなり整然とした人工美を見せる、そこではっとさせられてしまうという経験こそが本当の狙いなのだろう。
[映画館(字幕)] 8点(2009-02-08 11:08:50)(良:1票)
64.  ハドソン川の奇跡 《ネタバレ》 
一言で言えば無難だ。  回想と妄想が物語を多層化させることでより良くなるというよりは、 実際の出来事の短さを物語として成立させる為の無難な肉付というところもあり、 簡潔さの申し子とも言えるであろうイーストウッドらしくないとも感じる。 その一方でランタイムが100分をきっているという事実もある。  別にシナリオが悪いわけではない。無難だが寧ろ面白い。 墜ちないでくれと思わせる現実と墜ちてしまえと思わせるシュミレーションを、 時間差で観客に叩きつけてくるわけだ。何たる語りの構造。 ただしかしイーストウッドが撮る為のシナリオに感じない。  乳飲児を預る隣席の男の慎ましさ、親父と息子の電話での会話に迸る熱量、 この映画を締めくくる副操縦士の一言など、細部にこそ映画の良さは宿るが、 エンドクレジットを見ればわかる通り事実の延長線上でしかないと感じざるを得ない。 無論、イーストウッドにそんなものは求めてない。  角張った石も転がり続ければ丸くなってしまうということだろうか。 あと最近、ステディショットが多過ぎるのではないかと危惧している。 これは撮影上の効率化なのか、芝居を撮ることを優先する為なのか。
[映画館(字幕)] 7点(2016-09-26 22:39:19)(良:1票)
65.  任侠ヘルパー 《ネタバレ》 
西谷弘のテクネーなどという論文があったとするならば、 先ず論ずるべきは間違いなく、視線で描く演出の美学なるものだろうか。 西谷弘がまなざしで映画を作っていることは『アマルフィ』や『アンダルシア』の時点で 既に散々と書いてきたことなのだが、役者が向けるまなざしとそのまなざしの先にあるもの 例えば、草彅剛が見ているというショットと、何を見たかというショット これらが物語を展開していくという流麗な手捌きこそが 西谷弘の映画の巧みさのひとつであることは誰にでもわかるだろう。 それは、誰をどのような玉で撮るのか、広角で撮るか、望遠で撮るか 後ろのボケ具合はどうかといった、撮影山本英夫の巧みさと相俟って成立している。 更に、このシーン繋ぎの見事さはなんだ。ひとつ例を挙げるとすれば 介護都市にしようという看板へのトラックインに、演説の音声をずり上げし そのまま香川照之の演説シーンへと移行する華麗さ。見事という他にないだろう。 そして冒頭のトンネルのシーン、ラストのトンネルのシーンという反復性。 つまり主人公がこの先どうなるのかという暗示であり、この映画の結末である。 西谷弘の計算され尽くした演出力は、凡庸な脚本をここまでに仕立て上げてしまう。
[映画館(邦画)] 7点(2012-11-26 00:38:33)(良:1票)
66.  アンダルシア 女神の報復 《ネタバレ》 
やはり悪くない。寧ろ前作より良くなっている。視線でのやりとりを描くことが前作より更に意味を増しているし、重要なアクセントとして機能している。 冒頭近辺での織田の登場シーンは秀逸だろう。一番初めの登場は視線云々とは無関係だが、背景に何気なく溶け込んでいるという登場のさせ方も良い。そして何より2度目。黒木と伊藤の視線で描き出す黒田という役の神出鬼没ぶりが上手く描かれている。 この映画の上手さというのは実は列挙に暇ない。黒木の証拠隠滅シーンのモンタージュ、織田から壁に掛かった地図へパンしての空間処理の仕方、織田とバイクをワンショットに収めることでのその後の省略、どれも映画として実に素直であり上手い。 風や窓、ラジオからの曲などという効果も上手く散りばめられている。特に、ラストへの伏線としての窓の開け閉めの描き方は非常に良いカタルシスをもたらす。 黒木が脚を引き摺りながら逃げる横移動の美しさ、そしてバックからのロングショットに銃声を被せた突入の処理の仕方も好感が持てる。 そして何よりも言いたい。ダウンジャケットの羽。織田と黒木のジャケットから羽が出るという共通項であり、これは完全にミスリードを誘っている。上手い。 ただしかしながら、やはりラスト近辺での織田再登場時の説明過多なインサートシーンの数々は頂けないし「アンダルシア」の良い部分を台無しにしている。思考停止し脳内補完できないと観客を馬鹿にした作り方をしてはいけない。
[映画館(邦画)] 7点(2011-07-01 18:19:46)(良:1票)
67.  人生万歳! 《ネタバレ》 
ウディ・アレン、久しぶりのアメリカ舞台の作品。アメリカを出て撮った数作のちょっとしたシリアス路線など無かったかのようないつものアレン映画。皮肉とジョークと良き音楽で魅せるアレンらしい映画だ。主演をラリー・デヴィッドに任せるも、あれはアレンの化身の他の何者でもない。 今回も「それでも恋するバルセロナ」の時に書いた様に、ある一点のみについて書いておこうと思う。それは尺取虫の母親が初めて写真を見せるシーンで写真のインサートを一切入れないのがアレンであるということだ。どんな写真なのかは必要な情報ではなく、その写真から始まる物語が重要であり、それはふたりと、ふたりがいる風景があればそれでいいのだということ。もし写真のインサートが入ると、その内容、尺取虫の娘のミスコンの情報が現れ、その物語が立ち上がってしまう。そうなると、あのふたりのこれからの物語に移行するのに遠回りになる。だから入れない。それで絶対的に正しいと思うのだ。 本作で監督作品40本目、そういった巧さを心得ているアレン、まだまだ枯れるはずなどない。
[映画館(字幕)] 7点(2011-01-14 18:59:21)(良:1票)
68.  第9地区 《ネタバレ》 
既に言われているのが、この映画と「アバター」との類似である。それは、大袈裟に言えば、異星人を肯定的に、人間的に描き、寧ろ人間自体の存在を否定的に描いているという点だ。というのも「アバター」に登場する異星人とこの映画の ”エビ” は観客が受け入れ難いほどの奇妙な造型で、明らかに人間の敵なのではと思わせるが、彼等に人間を滅ぼすという強い意思などはまるでない。話が進むに連れ、この映画で言うならば ”エビ” たちはただ故郷に帰りたいと願うだけなのに対して、人間の利益という欲望が醜く見えはじめることにより、観客は寧ろ異星人たちに感情移入し始め、人間なんて糞ったれた存在だと感じ始める。そしてその中間地点に置かれる主人公が、異星人の姿形になってしまうことで、このふたつの映画はより観客の感情を異星人側へと導こうとする。 かつて映画で描かれてきた殆どの異星人というのは地球を滅ぼす敵であった。そして姿形を異星人へと変化させた人間は死ぬか、元に戻ってお終いとなるものが殆どだ。しかしこの2本の映画が決定的に違うのは最後に主人公は死にもしなければ元にも戻らない。寧ろ、それを受け入れ、そしてそれとして生きる。ただ「アバター」とこの映画の大きな違いはここからにある。この映画の主人公は「アバター」の主人公のように何も好き好んで ”エビ” の姿形を選んだわけではなく、寧ろ元に戻りたいのだ。妻を愛している。この映画のラストショットを見れば一目瞭然「アバター」より遥かにセンチメンタルに溢れているではないか。  またこの映画のはっきりとした意思というのは、友情と約束である。人間と異星人の間に微かながらも友情が芽生え、約束が結ばれるが、果して人間同士というのはどうなのか。この映画の舞台に南アを選択したのにはそういった意味もあるのだろう(それは南アが現在でも抱えてる問題、世界最悪と言われる治安やタウンシップとかもあるし、あとはアメリカでは起き得ないことでも南アであれば納得させやすいという理由もあるだろうが)。少なくともこの映画はそういった教訓を描いている。しかしそれは決して押し付けがましいものでなく、それ以前に立派なエンターテイメントとして仕上がっている。  また利害関係とは全く別で、ただ愚直に人間様という思いだけで、敵である異星人を片っ端から始末する軍人がどちらの映画にも存在するというのが見逃せないところだ。
[映画館(字幕)] 7点(2010-04-15 06:10:24)(良:1票)
69.  パンドラの匣 《ネタバレ》 
冨永監督作品の持つどこか得体の知れない軽さというのはひとが生きている上での軽薄さに似ている。またあるときその軽さはポップさに姿を変えるのだが、それはひとが生きている上での明るさにも通ずるだろう。 「やっとるか」「やっとるぞ」「がんばれよ」「よーしきた」「いやらしい」「いじわる」「しるもんか」などと反復され続ける言葉、言葉、言葉と言葉で埋め尽くされた映画であるが故に、どれが真実の言葉であるかということは実に曖昧であり、ひばりが手紙で綴り続ける嘘という軽薄さがあり、即ち言葉自体の軽薄さだ。であるからこそ、その軽薄さというのがこの映画における徹底した同録からの回避というところに現れているのではないだろうか。ひとの本心と口から出てくる言葉や紙に綴られる言葉は必ずしも表裏一体ではないということだからだ。マア坊が布団部屋でひばりに詰め寄るシーンなどは言い方を変えただけの同じ台詞が多重録音され、どの言い方がマア坊の本心なのかなどさっぱりわからない。肉体と言葉が乖離するとき映像と台詞も乖離するのだ。 そしてやはり死と隣り合わせではあるものの、この作品は実にポップであり、生の明るさに満ちている。それは窓外を明るく飛ばし、全体をオーヴァーめにした撮影プランなどでもはっきりと伝わるのだし、それは実に清潔的で好感が持てる。しかしナイトシーンは実に情けない。夜は青くはない。夜は暗いのだ。べっとりと青く染まった人物の表情などは見るに耐えないものだった。 そして何よりも、歌手であり近年ではほとんど作家となっている川上未映子が女優として堂々と主演を勤めるわけだが、これが良い。贔屓目に見ても悪くない。ギターの演奏シーンなどは実に良い。このひとは一体どこへ向かっていくんだろうか。 この映画で冨永監督は太宰治の描くひとの軽薄さを軽やかに表現しているだろう。決して傑作というものではないが、太宰治の生誕百年を迎える今、作られるべき映画であったと言える佳作だった。
[映画館(邦画)] 7点(2009-11-05 01:29:21)(良:2票)
70.  それでも恋するバルセロナ 《ネタバレ》 
ここ数年、といっても「さよなら、さよならハリウッド」ぶりくらいに素晴らしいと思う。  ウディ・アレンの映画についてあれやこれや書いても、結局すべてが元通りになってしまう、ということに尽きるのだが、ファンとヴィッキーとクリスティーナの三人の関係がファンとクリスティーナとマリアの三人の関係へとスライドしていく様は見事で、ファンとマリアの関係がいつも同じことの繰り返しであるのと同じように、アレンの映画もすべてが同じことの繰り返しだということだ。ヴィッキーとクリスティーナはバルセロナにていつもの自分とは違う経験をするのだが、それはやはりいつもの自分とは違うのだと悟り、帰国する。微妙な変化はあれど、結局はすべてが元通りになるのだ。  なので、今回はあるひとつのことだけを書いておこうと思う。 とにかくハビエル・バルデム演じるファンの登場のさせ方が素晴らしいのだ。スカーレット・ヨハンソン演じるクリスティーナが「あの赤い服の男?」と最初から狙いを定めたかのように聞くのだが、すぐにその赤い服の男のワンショットを挿入するのではなく、パトリシア・クラークソン演じるジュディが「違うわ、あの人は誰だったかしら?」となり「そうそう、あの人は妻に殺されかけた画家で、美術界ではスキャンダラスになった人よ」という一通りの紹介を経て始めてスクリーンに登場する。 例えば「あの赤い服の男?」でワンショット挿入した場合、どちらにしろ彼の紹介の後に繰り返し彼のワンショットを挿入しなければ成立しなくなるだろう。しかしアレンはそんな無駄なことはしない。最初のワンショットの抜きなど無くても充分だと知っている。 また最初にワンショット入れなかったことにより、観客は彼の紹介すべてを聞いてから、このシーンの最後のショットとなった赤い服の男のワンショットを見ることになり、そのショットがより強調されることになるのだ。この赤い服の男はそういう男なのだという観客の理解が深くなるということだ。これが映画作りの巧さだ。
[映画館(字幕)] 7点(2009-07-16 00:19:59)
71.  レスラー 《ネタバレ》 
ミッキー・ローク演じるレスラーのランディとマリサ・トメイ演じるストリッパーのキャシディは、どちらも年齢を重ね、自らの職業に限界を感じ始めていた。 ランディがリングに上るのを背後から追い掛けるカメラは、彼がスーパーの接客業に始めて挑む時にも彼を背後から追い掛ける。またある時そのカメラは、キャシディがストリップ小屋の舞台に立つとき彼女を背後から追い掛ける。人生はいつでも戦いであり、誰もが人生の舞台というリングに上り、戦っている。 しかし、大概、誰にでも限界は訪れるのだ。ランディやキャシディのように世間から見たときに、軽視されがちであったり、偏見の目で見られがちな職業についている場合、そこから引退することは、同時に様々な困難に立ち向かうことを意味するだろう。 だからこそ、ひとは選択をしなければならない。ランディの選択、キャシディの選択、それはどちらも間違った選択などでは決してないのだ。  ランディは自分の生きる道がやはりレスラーにしかないのだという選択をする。自分の居場所は、ファンの前に立つ、リングの上に立つということ、そこでしか自分の存在価値を見いだせないことに気付いてしまう。だから彼はいつもの戦いの場を選ぶのだが、それは同時に自らの死を選ぶことになることを彼は気付いている。即ち、彼は正に決死の覚悟でリングに滑り込む。 そしてもはや立っていることすらも侭ならないにも限らず、コーナーにのぼり、必殺技ラム・ジャムを放つ。 しかしそれは死ぬこと。 死ぬなら自分が一番輝いている場所、リングの上で死ぬ。これはほとんど自裁であり、リングという彼の聖域に自らの命を捧げるということだ。正に不器用な男の、不器用な覚悟なのだ。それがランディの生き様だ。 そういう生き様をミッキー・ロークという適任者で、ただただ愚直に描く。それもまたランディの生き様のごとく、なんの捻りもなく、もちろん巧さなんてなく、ただ愚直に描くのだ。それで充分ではないか。 自分はこの男を愛するべき人間であったと深く思えた。
[映画館(字幕)] 7点(2009-07-12 01:17:34)
72.  夏時間の庭 《ネタバレ》 
アサイヤスはきっと優しすぎるんだろうと思う。美術館に展示されるような価値あるものの中で生きている人々のごく普通の家族の集いであったり、親の死であったり、遺産の相続であったりするわけで、すべては我々が生きている日常の生活と何も変わらない。それを優しすぎるくらいのまなざしでアサイヤスは切り取っていく。 しかしエリック・ゴーティエのカメラは優しくはなくて、むしろ過酷。それはデプレシャンの映画を見ているとよくわかる。デプレシャンは常に過酷だから。それは映画に何を求めるかという話になると思うが、個人的には映画に優しさを求めてはいけないと思っている。映画は常に過酷でなければならないと思っている。 これをゴーティエの問題とするかは疑問が残るが、アサイヤスとデプレシャンのカットバックはどこか似ている気がする。人物の位置関係がはっきりとせず、どこか忙しない。これは決して優しいとは言えないのではないか。むしろ過酷に映る。そういう面で、アサイヤスは優しすぎるからこそどこか損をしているように思う。 ただ若人たちが集まってくると、過去(歴史)と現実(現代)が混ざり始めて混沌としてくる。ああアサイヤスはこれがやりたかったんだっと思ったのだが、それと同時にゴーティエのカメラも急に活き活きとしてくる。娘がノスタルジーに浸かりだすと、それは正に混沌として何やら過酷で素晴らしい。 ラスト、俯瞰で、緑生い茂る中を手を繋いだ若いカップルが駆け抜けていくだけで、もうそれでいいよねって思えてくる。だって最初だって子供たちが走り抜けていくところから始まるわけだし。 結局、何がしたかったかっていうと祭りがしたかったのかなと思った。過去や今を背負いながらも、寂しくならず、いつでも楽しい祭りがしたいのかもしれない。そういう風景を撮りたかったのかもしれない。 アサイヤスの素晴らしいところは、何でもないごくごく普通の人々を、またはその行動を風景の中に溶け込ませて、また別の風景を産み出してしまうところだ。
[映画館(字幕)] 7点(2009-06-27 00:35:49)(良:1票)
73.  スター・トレック(2009) 《ネタバレ》 
シリーズもののマンネリ化を払拭するために、過去のシリーズとは一線を画したものにすること、それは「バットマン」シリーズ、更には「007」シリーズにおいて成功を収めた。過去のシリーズやファンに対する敬意を忘れず、新たな展開を用意し客層を拡大する。 このとき、一番の手っ取り早いことは、バットマンの、ジェームス・ボンドの、誕生を描くことだった。往年のファンは興味を抱かずにはいられず、はじめてシリーズに触れることとなる観客たちにとっては入り易い。 それらを踏まえた上でこの「スター・トレック」は新たなシリーズを華々しく迎えた。  J・J・エイブラムスという人は兎に角端折る、無駄をすべて削ぎ取る。この展開の速さは少し尋常ではない。カークの母親など、産んだときにしか出て来ない。こういった映画にあるであろう定番の訓練シーンなども一切ない。宇宙船がワープするように、話もワープする。 しかしこれくらいの展開の速度が実は丁度いいのだ。いつまでもだらだらとやって3時間くらいのかったるい映画を作るハリウッドなど誰も望んではいないのだ。 言葉と暴力と接吻という最小限の感情表現手段を用いて、強引で調子がよい展開という映画における特権を最大限までに活かして、それでこの映画が大スペクタルとして成立するならばそれで良いではないか。 素早いモンタージュを繰り返すせいか、もはや実写とVFX、CGの違和感など問題ではない。むしろこの映画のそれらは圧倒的なまでに素晴らしく良く出来ている。  カークという男はどんな時でも崖っぷちでぶら下がって生きている男だ。 この映画では彼は三度も何かの端に必死に両腕二本でぶら下がっている。しかし彼は決して落ちない。 彼にスポックが「死に対する恐怖を理解しろ」というようなことを言うのだが、そもそも彼は死んでもおかしくない状況で産まれてきているし(母親の胎内から産み落されるのと同時に、父親の船からも産み落されるという構造が良いではないか!)、常に両腕二本でぶら下がって生きている男なのだから、そんな奴に死の恐怖もへったくれもないわけだ。だからこそあっけなく彼はキャプテンの席に着くこととなる。 この映画のそのあっけなさは、決して落胆するようなものではなく、むしろ痛快ささえも感じるあっけなさだった。 
[映画館(字幕)] 7点(2009-06-03 21:54:18)(良:2票)
74.  チェイサー (2008) 《ネタバレ》 
観客にはすべて提示されていく。犯人は誰で、何故殺すのか、ミジンは生きているのか、どこにいるのか、我々観客は何も謎を抱えぬまま、すべてを知っている。その観客が知っていることと、登場人物たちが知っていることの、情報量の違いがこの映画の見せ方であり、こっちは知っているが、あっちは知らない、という映画の構造としては単純だけども、だからこそ、10分先はどうなるのか、1分先は、じゃあ10秒先はどうなるのか、というサスペンスが展開されていく。  幼い娘がいるのにも限らず売春なんてするのか、という意識の問題がある。だからといって殺されるのは致し方ないということにはならない。売春なんてしているからこういう事件に巻き込まれるのだという問題もまた、確率の問題であって、理由にはならない。結局、彼女が殺されなければならなかった理由なんてのはひとつもなくて、だからこそ、刑事崩れのチンピラは徐々にだがどうにかして彼女を救い出したいと奔走する。フロントガラスに打ち付ける雨の中、泣きじゃくる少女とその横で電話越しに怒鳴り続ける男の描写はとても良くて、何も罪のない少女が孤児になるという理不尽さを回避しなくてはならないということだ。汗まみれになりながら走り回ったチンピラはいつの間にかまるでミジンと少女の家族の様にすら映る。誰かを本気で救いたいと思う気持、それだけが溢れ出てきた瞬間だ。しかし現実は理不尽なので、ミジンは殺されてしまう。あの時電話に出れていればという後悔が彼を襲う。  しかし、彼はその後悔からあの幼き少女の病室に向かったのではなく、彼は既に保護者の欄に自分の名前を記入していたからだ。あの瞬間に彼は契約をした。保護者になることは決定づけられていたことであり、そこからの回避は不可能なのだ。だからこそ、彼は彼女の病室に行くことは必然であり、これからもふたりで生きていくのだろう。  最も残念なことは犯人のキャラクターが散漫で、敬虔なクリスチャンであるというような設定は蛇足過ぎるのではないだろうか。
[映画館(字幕)] 7点(2009-05-31 02:30:46)(良:1票)
75.  レイチェルの結婚 《ネタバレ》 
家族や仲間というのは小さなコミュニティであり、時に世界の縮図的でもある。白人黒人も入ればアジア人もいるし、生まれていくる子供はハーフとなる。しかしこの映画は、それはこの世ではもはや当たり前の事実であり、もはやいちいち議論するには至らないことだと流している。現に父親はレイチェルの旦那を快く迎え入れ妊娠をも無邪気に喜ぶ。 この家族の中で重要なことは、家族でありながらも、その家族という社会に置ける最小単位のコミュニティから一度脱落した、脱社会的人間の帰還をどう迎え入れるかということのほうにある。それは人種問題よりも、時に複雑なことかもしれない。 社会から逸脱した人間の場合、同じ経験をしたもの同士でなければシンパシーを感じ得ることは出来ないのではないかとこの映画は言っている。しかし、シンパシーの問題ではなく、「つながり」を持ち続けたいかどうかという点において、それは家族であれば、どんなに厄介であろうとも、理解に苦しもうとも、根底では決して「つながり」を断ち切りたいと思わないであろうという、時に固く、時に幽かな絆を描く。もちろん家族であっても断ち切れる瞬間が訪れる場合もある。それも当たり前の事実だ。しかし、この家族は小さなもうひとりの家族を失ったというシンパシーでつながっている以上、その「つながり」を断ち切ることが出来ないのだ。  アン・ハサウェイ演じるキムはデブラ・ウィンガー演じる母のアビーと喧嘩をし、その後に車の事故を再び起こしたことで、施設から女性が迎えに来る。これはこの映画の中で起きる事実だ。それは見える事実だが、もうひとつ見えていない事実というのがある。キムは何故施設に戻らなければならないのか。それは母のアビーにひとこと謝ることが出来なかったからだ。幾らでも機会はあったとこの映画は言っている。しかしこの映画は様々な機会がいつも断ち切れてしまう映画だ。断ち切りたくない「つながり」はあるのに、その意思を伝えたい時に断ち切れてしまう機会。いくらでも転がっているようで、実は見えている間に捕まえないとすぐ消えてしまう機会、その瞬間の大切さを知る為にキムはまた施設へと戻っていくのだ。
[映画館(字幕)] 7点(2009-05-07 22:00:16)(良:1票)
76.   《ネタバレ》 
この映画の幽霊の表現があまりにも大胆であることに驚く。 結果的に小西真奈美演じる春江は幽霊だったのだが、映画における幽霊という存在は大概が誰か、つまりある登場人物が見た幽霊という存在としてはじめて幽霊は存在するのが一般だが、この映画ではその幽霊が階段をひとりで降りて、道をひとりで歩いている。しかも真っ昼間にだ。誰に見られているわけでもない(あえて言うならキャメラを通してスクリーンにて我々観客が見ている)独立した存在の幽霊ということだ。まるで春江という幽霊がごく日常の中に生身の人間の如く存在していているようなのだ。これはかなり際どい表現であると思うし、今までの幽霊が出てくる映画ではこのような表現はほとんどない。 そもそも葉月里緒菜演じる最も幽霊らしい幽霊ですらおかしい。律儀に扉から出て行く幽霊というのは一体何だ。 結局、この映画における、というより黒沢清における幽霊の解釈が以前の彼の作品より遥かに自由になり、生身の人間の意識と平行して存在するわけでなく、彼女ら自身もそれとして意識を確立し日常にごく普通に溶け込んでいるという大胆な解釈になったのだ。 なのだから、この映画の幽霊は恐くない。生きている人間と死んでしまった人間というくらいの差異しかない。 ただ葉月里緒菜演じる最も幽霊らしい幽霊の迫り方は、「DOOR III」と全く同じだが、この表現方法はやはりなかなか怖い。  すべての過去はなかったことになどできない。過去は迫ってくるのだし、責任を負わなければならない。
[映画館(邦画)] 7点(2009-05-06 05:07:36)
77.  スラムドッグ$ミリオネア 《ネタバレ》 
ライフラインという見事な名が付いているにも限らず、それが三つのうちひとつしか映画として機能しないことが最もこの映画の鈍感なとこなのだが、そのひとつがこの映画のすべてだった。  ミリオネアはどんな番組だったかと上映前に思い、ライフラインというものがあったことを思い出し、この映画は恐らくそれが主人公のスラム育ちの人生と相互するように機能する映画なのかと考えたが2/3も裏切られた。 まず最初にオーディエンスという機能を見殺すかの如く描いたときに、この映画は駄目なんじゃないかと疑う。 だが次にジャマールがコールセンターに勤めているということと、彼がラティカの携帯電話の番号を調べ始めた時、テレフォンという機能は活かされるのではと期待する。しかしラティカという名前だけでは検索しきれず、ここでは兄の番号に辿り着くまでとなる。これでは駄目だ。ジャマールがラティカを探し求める映画ならば、テレフォンの相手は兄ではなくラティカでなければならない。 50:50という機能も半殺しの如く描かれ、結局最後に残されるライフラインはテレフォンだ。となれば後は誰が電話に出るかだ。 兄は最後の最後でラティカを逃がすことで贖罪する。そう、その時「これを持っていけ」と彼女の手に握らすのが携帯電話だ。やはりこの映画はそうならなければならないと大きく納得した。 だから彼女が答えを知らないこと、彼が最後の最後は勘だけで正解すること、そして兄がそれと時を同じくして死ぬこと、すべてそれで良い。彼女が電話に出たことでこの映画の問題は解答されたからだ。彼にとってみれば、唐突に彼女が電話に出たこと、それだけで、もはやクイズ番組などどーでもいいことで、むしろ彼女に早く会わなければならない。クイズの答えに悩む暇はない。だから答えはBでもCでもDでもなく、一番最初のAだ。  テレフォンにラティカが出て映画が成り立つという結末は、誰もが予測可能だ。しかしそうなったとき、予想可能さに嘆かれるか、納得してもらえるか、それがこの映画の面白さに直結する。この映画には大きく納得させられる。わかっていることに改めて納得する面白さこそがアメリカ映画的であると思える。だから最後は余計に良かった。そうかそこはボリウッドだったと。 ただキスシーンを奇麗に見せたいがために傷口じゃない方にキャメラを切り返したら絶対に駄目だ。
[映画館(字幕)] 7点(2009-04-21 03:00:50)(良:1票)
78.  オーストラリア(2008) 《ネタバレ》 
巻頭で、ロマンスがあったという文章が出る時点で、この映画はそういう映画なんだと認識させてくれる。であるから、史実とかなどはもう殆ど関係ないのだし、後半のサラがナラを守りたいというのは、人種云々の話ではなく、ひとりの子供を守りたいという映画になって行くのだろうし、そういう人がいたというナラが語る物語なのだと、映画の冒頭で全て語っているのだ。 しかしながら正直なところバズ・ラーマンだぜ、どうせ・・くらいに思っていたが、実際は見事な大河ドラマで実に面白い。 相変わらずどアップばかりで鬱陶しいなと思いつつも、ナラが牛を見事なまでに鎮めてしまうシーンなどは、ここはやはりどアップだといつの間にか納得させられ、馬が馬らしい躍動感だとか、街の中を駆け抜ける牛とか、「オズの魔法使い」の件だとか、雨の中の舞踏会というのも秀逸で、いいじゃないかと。そしてやはり馬に跨がる男は女を家に残して出て行ってしまうわけで、それで上出来だ。 それにサラとナラの離別と再会を同じ桟橋で行わせた瞬間に見事だと言わざるを得ないだろうし、しかも歌を使った再会がまた良い。もうひとつ素晴らしいこと、それはドローヴァーとサラが車に乗るシーン、それもフロントガラス越しのショットというのが前半と後半で一度ずつある。前半はふたりの間に窓枠があるのだが、後半には一枚のガラスになりふたりを隔てるものはなくなっている。こういった映画を正しく「見る(あるいは聞く)」という行為への誘いが為された演出はお見事だろう。 ま、しかし、あまりにも機能してない登場人物が多いなとか、牛を囲む炎の火力が弱いとか、ナラ役の子供が駄目だったのかナラというキャラクターが駄目だったのかわからないが、何か鬱陶しさを感じたし、今回のキッドマンは少しばかりオヴァーアクトだろうとか、ただやはりそこにいるだけで画になる女優であるということには間違いはないのだがとか、不満は残しつつも、ここ最近は、最後に「家に帰ろう」という映画はどれも好きになっちゃうなと。
[映画館(字幕)] 7点(2009-03-28 00:46:07)
79.  レディ・イン・ザ・ウォーター 《ネタバレ》 
つまり、物語とまなざしという、映画の本質的な何かを見た気がしたのだ。 それはブライス・ダラス・ハワードという女優のまなざしだけで、映画として足り得てしまっているという事実だけではなく、この映画における人々のまなざしの向け方、更にはクリストファー・ドイルのキャメラのまなざしの向け方を見ればそれは明かだった。そのまなざしの連鎖は、外を見せずに外を見させることだ。この映画にはアパートの外部は存在していない。またどこか狭いフレーミングで撮られたショットが多い。これらは決して窮屈であるということではなく、フレームやアパートの外の何かを映さずに、つまり見せずに見せているということだ。外があるのだから、そこには何かがあるのだ。それは世界であるし、あの獣でもあるだろう。フレームで切り取るということをよく言うが、これは間違いだと言い切りたい。フレームは全体から部分を切り取るためにあるのではなく、部分から全体を見せるためにあるのだ。 またシャマランは、水の妖精にあえてそして潔くも堂々と "ストーリー" という名をつけた。物語が映画において何であるのか。果たして物語は映画で一番重要なことなのか。物語があるから映画なのか。違う。物語は "導き" であるに過ぎない。映画を見せるために物語はある。誰か人が行動することを、考えることを見せるために物語はある。物語は原因に過ぎない。結果は映画であり、それを俳優であり、職人であり、監督が産み出す。観客が観るのは結果=映画であり、物語ではないのだから。つまり、シャマラン自らが過去に描いたような観客が仰天するような結末や、予想を裏切る展開などは、映画において大して重要なことではないのだ。重要なのは、そのような結末や展開の物語を映画としてどう見せるかであり、物語に引き摺られ続ける映画は映画ではないのだ。またそれと同様にこの映画がVFXにて(またそれを駆使しすぎずに)あの獣を描くのは、VFX(の乱用)が物語の足を引っ張っているのだという明示であり、物語をVFXから守らなければならないという答えでもある。紋切型の批評家は物語にすら参加することが出来ず、終いには敵視するVFXに喰い殺されてしまう。ただシャマランがVFXを否定していないというのは、ラスト、ストーリーがVFXに包まれVFXの宙へと飛び立っていくのを見れば明らかだろう。 何だか最近のシャマランは泣けるよなぁ
[映画館(字幕)] 7点(2006-10-02 00:40:29)(良:4票)
80.  クロユリ団地 《ネタバレ》 
兎に角、冒頭から伏線張り巡らしまくるのだが、とりあえずすべて回収している。 100分ちょいでこれだけやるわけだから、流石中田秀夫だというところ。 手持での主観と客観の切り替えという伏線の張り方は上手いが、 そこから更に台詞の反復があり、しかも何度も、流石にあざとすぎるだろう。 分かり易さとか、ましてや観客が望むのや期待しているのものへと媚び売る作りは 作品の質を落とすだけでまったく効果的ではない。 わからないやつなど放っておけば良いのだ。 誰でもわかるように作る必要性などない。 そんなものはテレビの子供番組くらいにしておけば良いのだ。 であるからこそ、公園での前田敦子と子供の会話が全部アフレコなのは 完全なる見事な伏線であり、あんなものは気付かないひとは気付かない。 しかし、どこかおかしいという違和感を覚える。 その違和感こそが映画を映画館で観る面白さだろう。 それにしても手塚里美の登場シーンの数々には笑えた。 あれこそがホラー映画の醍醐味というかなんというか。 霊を祓うなどという無力さが炸裂し、最後は吐血するという見事な出来栄え。 幽霊なんて、結局最後は暴力でしか解決できないからね。 この映画ではそういうものが一切ないのだが、 これはなんだか主役を替えて続編でも作ろうとする企画力なのか、 秋元康といえば『着信アリ』とかもあるわけで、ふーんと思った。
[映画館(邦画)] 6点(2013-05-25 01:47:49)
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