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onomichiさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 404
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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61.  パッチギ!
在日を絡めた青春群像劇という着想はなかなか面白いし、実際、期待以上に楽しく観ることができた。しかし、敢えて言えば、ただそれだけの映画でもある。 ということで、この映画そのものに対するコメントはあまり思い浮かばないのであるが、それ以上に、僕にとって面白いナと思うのは、この映画が予想以上に世間で好評価を獲得しているという事実に対してである。僕はこの映画を観て、在日の問題に対する新たなパースペクティブを見出すことはできなかったし、問題そのものを改めて考えさせられることもなかった。そういう情況に対する説得力のある映画ではないと思う。とはいえ、各エピソードに心震えるほど感動することもなかったので、ノスタルジーに思いを馳せるような親世代的な観方を別にすれば、僕らの心を響かせるような、つまり個人の文学性に訴えかけるようなそういう類の作品でもない。では何だ?と考えるに、これは率直に言って「在日版キャラクター青春映画」なのだと僕には思えた。そりゃまた何のワンフレーズコピーだ?と問われれば、それは特に深い思想性とか、文学性だとか、社会科学的な主張だとか、歴史性とか、そういった核のない、単にキャラクターを立たせることによって、僕らのニュアンス(情動)のみに訴えかける、ある意味でマンガ的な青春映画であり、そこに在日という新たなキャラクターが加わったということなのである。 そういった「物語」否定的なテクスト解析を80年代に推し進めた結果が現在の情況である、とは僕も思わないけれど、この手の映画では、キャラクターを弄くる以外に僕らが作品を共有化する術がないのはもはや自明のことであろう。 在日という根拠に対する切実さはこの35年間で大きく変化したと思うが、元々、この問題の切実さは、あの葬式のシーンのような場面にはない、と僕は思っている。それを描いてしまったが故にこの映画はその立場を中途半端にしている。キャラクター映画ならば、在日というものをもっと無根拠に描いてもいいのであり、現代に訴える映画であるのならば、そのくらいの徹底があってもまたそれは清々しい。 
[DVD(吹替)] 7点(2005-08-29 22:39:45)(良:2票)
62.  ミリオンダラー・ベイビー
僕もやましんの巻さんと同様にフランキーとマギーの関係は恋愛そのものであり、同時にそれを超え出たものであると感じた。「自分を守れ」「タフなだけではダメだ」「相手の逆へ動け」、、、ボクシングにおけるフランキーの信条こそが彼の美意識としての人生を物語る。しかし、そんな彼の孤高さは、孤独と等価だ。フランキーとマギーは孤独が結びつける精神的な関係であると共に、トレーナーとボクサーというボクシングを通じた絆によって、一種の肉体的な関係をも共有する。僕らはそこに通常の恋愛における激しさやメロウさとは違う、揺るぎない生の勁さ(つよさ)、身体性に基づく深い関係を見出すのである。 2人は精神的な恋愛関係であると共に、身体的とも言える強い結びつき、生の実感を共有する。だからこそ、マギーはフランキーによって死に至らしめられることを望み、最終的にフランキーはマギーに対してタオルを投入できたのである。 スクラップがケイティに語り聞かせる。彼らがどう生きてどう死んだか、それが2人の物語として語られてこそ、関係を生きるという実感、可能性、そのリアリティが初めて強調される。僕はそこにこそ、この映画の生の強度を強く感じる。僕らにとっての主体的な生とは何だろうか?主体的な生とは主体的な死にも繋がる。今、日本には年間3万人の自殺者がいるが、彼らは主体的に死を選び取っているのだろうか?正直言って僕には分からない。僕には所詮「生きる」意味すらも実は分からないのである。分からないことは分かるし、そのことを意識する限りにおいて、分からないことのリアリティを感じることができる。それだけなのである。この映画を観て感じるリアリティも逆説的な生への実感という意味で同様かもしれない。最後に、、、この映画の陰影ある映像こそ、クリント・イーストウッドの「いかがわしい場所で人間の道を極める」意志そのものだろうと、僕は思うのである。 (追記)この映画のラスト、、、「人間の宥め難い不遇の意識に対する水のような祈りとして」、生きる努力に対するひとつの許しとして、タオルは投げられたのだと僕は思う。ちなみに行為としてのタオル投入は、闘いの放棄という意味しかない。通常、セコンドは闘者の直接的、間接的(肉体的)意志を感じ取り、またその声を聞き、タオルを投入する。その際、セコンドは闘者とリングを共にしているのだ。
[映画館(字幕)] 9点(2005-07-09 02:04:12)(良:2票)
63.  海を飛ぶ夢
正確に言えば、彼の死は「尊厳死」でもなく、「安楽死」でもない。彼は「自殺」したのであり、彼を支援する立場は「自殺幇助」であろう。 映画の中に「尊厳を守るために死ぬ」という彼の言葉がある為、そこから「尊厳死」というひとつのイメージが喚起されるが、それを限定的に扱ってしまうと、この映画から僕らが受けるより深い響きを損なってしまうように思う。それはとても勿体無いことだ。 彼は頚椎損傷を原因とする四肢麻痺により、28年間も寝たきりの生活を余儀なくされ、そこには既に長い長い物語が横たわっている。しかし、敢えて言えば、この映画は、彼と家族の長い物語の果てに、フリアとロサという全く違うタイプの二人の女性が彼らに関わる、その中で彼らが彼の自殺を決心し、そして決行する、短い期間に凝縮された感情の物語として僕は捉えるのである。もっと言えば、この物語は彼だけの物語ではなく、彼に関わった人たちの物語でもあるのだ。彼は自殺する。しかし、そこには、自殺する彼を中心にして、彼らの「生きる」ことへの濃密な意志と疑義が垣間見えないだろうか。そして彼自身についても、生と死への思いが微妙に捩れる瞬間が、その人間的な揺らぎが、共振するように僕らを揺さぶるのである。 「海を飛ぶ夢」とは何だろうか? 映像とともに印象的に語られる彼の「海を飛ぶ夢」とは? それは叶わない夢でありながら、彼を28年間支え続けてきた不可能性の可能性ではなかったか。彼はフリアに想う。「永遠に縮まらない距離」のことを。フリアもロサも結局は錯覚してしまったのだと僕は思う。彼だけが彼女達との触れ合いの中で揺らぎながらも、結局はその距離が決定的であることを悟るのである。そんな彼自身が決して相対化され得ないこと、そのことを今度は僕らが悟るに至るのだ。 間違ってはならないのは、彼は仏のように悟って死ぬのでは決してなく、人間という不可解さを自明のものとして死ぬのである。それは生きることへの揺らぎと言っていい。そこに逆説的に浮かび上がる、静かに切り取られ選び取られた生の有り様こそが僕らの胸を強く掴むのであろう。 僕としてはやはり彼に焦点を当ててしまうが、やはり、この物語は彼に関わった人々の「生きる」物語である。そしてもちろん、その反映の中に僕らも含まれている。それが観るということだろう。
[映画館(字幕)] 9点(2005-06-19 08:57:12)(良:1票)
64.  世界の中心で、愛をさけぶ
主人公と同じ年の僕は、学生の頃、世界の中心で愛がないことを叫んでいた。もちろん世界の中心は僕で、それは僕に向かって叫ばれていた。当時、100%の恋愛小説というキャッチフレーズで刊行された村上春樹の「ノルウェイの森」が流行っており、この物語に心奪われた僕は、彼の作品を旧作に遡って何度も読み返したものだ。恋愛小説というのは愛に溢れたお話ではなく、恋という自己の病に囚われるお話で、僕はそのやりきれなさと不確かさを現実に持ち込んでは、廻りの人達を傷つけていたように思う。未来すらも既に終わってしまった物語のように強烈なメランコリーに只々取付かれていた。何もかも納得できなかったし、納得したくなかっただけなのに。先日、話題の小説「世界の中心~」を読み、そして映画を観た。何故、今、この物語がこんなにも流行るのか、それはよく分かるような気がする。「君と世界の戦いでは世界を支援せよ」これはカフカの言葉であるが、加藤典洋がこの言葉を自著の表題とした80年代中頃、僕らは、毒虫<自己の喪失>の姿に犯され始めていたとはいえ、まだ内面の名残をもつ「君」<自己>としてキリキリと存在していた。だから加藤典洋は、カフカの言葉を引きながら、失われつつある「君」の存在、その敗北をもう誰も止められない時代に来たことを敢えて宣言しえたのである。今や世界は「君」や「僕」を呑み込んで、僕らは相対化した世界の差異の中にしか自身の存在感を得ることができない。世界の中心なんてないし、それは僕の中心でもない。そんな自明性すら既に失われて、ある種のノスタルジーに覆われた甘美な物語に、漠然とした世界で確かなものとしてあるべき「愛」を叫びたくなるのである。そういう時代を敢えて否定はしない。けど、物語は作り物であっても、本来それは自分の物語を喚起させるべきものだ。特に映画版は僕にとってまるで遠い国の神話のように自身との接点を確認することができなかった。そこから自分の物語にどうつながるんだ~? と叫びたくなる気持ちを僕は捨てがたい。
[映画館(字幕)] 6点(2005-04-24 09:41:54)
65.  フェスティバル・エクスプレス
僕は以前、『ウッドストック』の退屈さについて書いたことがあるが、この映画は『ウッドストック』に比べ、僕には音楽そのものを純粋に楽しめた作品であったような気がする。一体、『ウッドストック』とこの映画の違いは何だろうか? ウッドストックがロック・ミュージックによる人々の連帯を謳った祭典であったならば、フェスティバル・エクスプレスは、純粋に音楽を楽しむことを目的としており、そこに政治的な匂いは薄い。実際にとても純粋な音楽興行だったのである。興行と言えば、ウッドストックは当初、有料コンサートでありながら、あまりにも多くの若者が集まったために収拾が付かず、なし崩し的にフリーコンサートになってしまった経緯がある。しかし、フェスティバル・エクスプレスは、そういったフリーコンサートを期待してやって来た若者たちを徹底的に排除するのである。そこにはフリーコンサートを求める若者と興行側との対立があり、結局、ミュージシャン達は興行側に付くのである。ウッドストックで見られた「喪失に対する微温な連帯」とでも言うべきものも、連帯意識から個人的感情へと変化し、それは喪失そのものとして人々の心の内に潜行していくのである。60年代から70年代へ、時代は共闘から個闘へと向かう、そういう時代的変化の萌芽が既にここで見られているということだろう。 この映画の終盤で、バディ・ガイが奇しくも言っていたが、今やガルシアもジャニスもこの世にはいない。僕に言わせれば、リチャードもダンコもいないのだ。リック・ダンコ。トレインの中で大はしゃぎしていた彼の姿が僕の目に焼きついている。そして、『ラスト・ワルツ』で一人寂しく過去を懐かしむ彼の姿も同時に思い浮かぶのだ。 『フェスティバル・エクスプレス』は、その名の通り、ミュージシャン達によるトレインでのジャムセッションが大きな見せ場でもある。トレインという観客のいない空間で起きた有名ミュージシャン達の化学反応ともいうべき邂逅は、音楽そのものを楽しむという純粋なお祭りでもあった。ある意味で興業者はその雰囲気の持続をステージでも期待したのだろう。それはロックムーブメントが内向していく瞬間を克明に捉えたドキュメンタリーでもあったのだと今では感じられるのである。(演奏シーンそのものの感想はここでは書ききれないので割愛してます。)
10点(2005-03-25 01:21:54)
66.  21グラム
交通事故の被害者と加害者という状況設定は、ショーン・ペン監督作品『クロッシング・ガード』を思わせる。あの映画のテーマこそ、「絶望的な立場を超えて、人と人はどうコミットし得るのか」というものだったが、そこにはっきりとした答えへの道筋が示されたとは言いがたかった。『21グラム』では、クリスティーナとジャックがそれぞれ被害者と加害者という立場となる。ここで主人公達は交通事故という外圧的な出来事によって、自らの運命を大きく狂わせて行くことになるわけだ。彼らはそれまで意識せずに(或いは意識を忘却させて)過ごしていたことであるが、ある日突然に自らのゼロ地点、道筋の全く見えてこない場所へ暴力的に貶められることになる。(クリスティーナ、ジャックともに事故前の幸福が彼らの負の過去の清算によって成り立っていたことも示唆的である)その地点において、クリスティーナとジャックは自身の関係性が完全に断絶したかの如き思いを抱くのと同時に、お互いが負の関係性によって維持されるという事態に追い込まれている。では、この物語のポールの役割とはいったい何だろうか? ポールはジャックによって死に至らされるクリスティーナの夫の心臓を受け継ぐ者である。ポールはクリスティーナを救い、そして、クリスティーナとジャックの負の関係性を関係そのものに導きながら、最後には自らの身を挺することによって、ジャックをも救うことになる。そして、クリスティーナとジャックが2人して窓辺に佇むシーンでこの物語は終わる。この物語は、言うまでもなく、クリスティーナとジャックの物語である。そして、そこに中間項として付け加えられたポールこそ、ショーン・ペンが『クロッシング・ガード』の最後に躓かざるを得なかった広義な「愛情」というタームを一身に背負った存在ではなかったか。2人の主人公がその関係性を快復する物語に失われた命を受け継いだ者として選ばれ、立ち回った存在ではなかったか。そういう意図を僕は感じたが、もしそうであったならば、これをそのままこの物語の結末と結びつけるにはやはり少し弱い。問題の真摯さを突き詰めるにしては、あまりにも都合がよく、偶発的すぎるからだ。まぁこれを可能性のひとつの道筋と捉えて僕は納得しているが。。最後にこの映画の方法論的な「時間軸のずれ」だが、このことに対するはっきりとした答えを僕は持っていない。悪しからず。
8点(2005-01-24 01:46:09)
67.  キャスト・アウェイ
現代版のロビンソン・クルーソー物語。バレーボールを相手に延々と一人芝居を繰り広げるトム・ハンクス。最高である。彼の演技だけでもなかなか飽きさせない。この物語、それで終わりかと思いきや、帰国後の彼とヘレン・ハントの切ない恋物語もわりと良かったな。そして、最後のシーン、新しい出会いの始まり。主人公にひたすら感情移入しながらも、全くもって展開が予想通りの予定調和である。が、にもかかわらずじっくりと観させるだけの映画としての真摯さを僕は感じた。そして、やっぱりトムハンクス。彼の存在感は素晴らしい。ヘレン・ハントも可愛らしいね。何はともあれ、とても素直に楽しめた作品である。
9点(2005-01-23 19:59:04)
68.  ブラウン・バニー 《ネタバレ》 
映画が現実に起こりえるとか起こりえないとか、そういった基準で観られるべきものではないというのが僕の考え方だ。バイオレット、リリィー、、、なぜ花の名前か?ローズ。美しいものの余韻。名前という幻想。名前にこそ意味がある。取り替えのきかない名前という幻想。それは彼の心を執拗に捉えていく。 なぜリリィーは涙を流しているのか、そんなことは疑問として意味がない。ただ涙を流しているということが答えなのだ。妄想?失われたものへの掛け替えのない想い。それを抱えていかなければ生きる意味なんてない。でもこれ以上の哀しみを背負う必要があるのだろうか。そして思いとどまる。 ロードムーヴィーとは何かを探す旅を映す。彼は?砂漠での疾走。砂漠という茫洋。無意味の意味。彼は何を追い求めているのだろう。 デイジーは死んで、死んだものは現実には帰ってこない。だから彼は夢想する。幻想としてのデイジーを彼は許す。人が生きる原理を掴むにはまず許すことから始めなければならない。彼が欲したのは、彼女を許すということ。その不可能性の可能性。それは幻想であるが、それは彼にとって必要なことだったのである。そして彼は帰還するのだ。 
10点(2005-01-23 12:32:10)(良:1票)
69.  華氏911
ムーア氏の前作『ボーリング・フォー・コロンバイン』は、アメリカ世界の現代的セキュリティの問題を鋭く解いた秀逸なドキュメンタリーであったと思う。それを認めた上で僕は、セキュリティというタームが必然的に覆い隠す人間の本質的な生の歪んだ物語にこそ目を向けるべきなのではないかと前作のレビューで書いた。 しかし、それはどうやらムーア氏の仕事ではなかったようであるw 『華氏911』は、前作で示した彼の社会構造論的な解釈を踏襲し、アメリカという脅迫観念に縛られた国家が必然的に志向しながら常に隠匿せざるを得ない社会的構図を様々な角度から追求した渾身のドキュメンタリーであるといえる。さらにそこから導き出される国家による作為的なセキュリティに対する本質的な懐疑を素直に表明しており、僕はこの点を大いに評価していいと考えている。 この映画そのものをムーア氏の妄想だとする意見もあるかと思うが、映画の中で取り上げられた事実或いは解釈は、僕にとって特に目新しいものではなかった。つまり、こういった事実或いは解釈は、アメリカだけではなく、日本でも既に指摘されているものである。 大局的に見れば、この作品で取り上げられた事実或いは解釈に僕は大いに納得する。しかし、人間一人一人に目を向けてみれば、やはりこういった国家的セキュリティ批判という考え方が個々人のある種ナイーブな側面/その視点を覆い隠してしまうのではないか、という思いも拭いきれない。 この作品の中には、人間の原理という地平において、もっと捻じ曲がった物語が見え隠れしている。それはセキュリティという次元の問題とは全く別のものと思われて仕方がないが、今のところこれをムーア氏に期待するのはお門違いかもしれない。 それにしても、アメリカという国は懐が深いと思わざるを得ない。この映画の内容も然ることながら、こういう映画が存在すること自体がある意味でアメリカなのだと思う。僕は素直にそう感じた。
9点(2005-01-23 11:40:41)
70.  プレッジ
とても怖い映画だった。この映画のニコルソンをどう捉えたらいいだろうか。彼にとってのプレッジとは一体何だったのだろうか。ショーン・ペンの前2作品を認めている身としては、彼が単なる凡庸なサスペンスを撮るような人間ではないという確信はあったし、実際そういうサスペンスのみの視点でこの作品を観るべきではないのだと思う。この作品に通底する孤独な男の信念が徐々にその箍(たが)を狂わされていく様子は正直言って恐ろしく、それが事件と素直に繋がっていかないところが逆に評価できると僕は思っている。それを「長いネタふりのコント」だと言われると、観る人によってはそうなのかなとも思うが、そもそも人生とはオチのつかない枝葉なエピソードのつづきであって、傍目には全く面白みのない孤独な一人芝居を知らず知らずに演じているものなのだ。まぁそれはもう自明なことであって、僕らがそこに求めるのはその中で失われつつあるものをどう汲み取っていくかということなのだろう。この作品は、冒頭から刑事を引退した後のニコルソンの一挙一動を克明に記していく。彼は、刑事としての本能と執念によって事件を執拗に追いかけているように見える。そして僕も映画中盤までは、その信念こそ彼が少女のイノセンスを守る孤独なキャッチャーであるというところから来ている、そういう物語なのだと思っていたのだ。<彼の語られない境遇は重要だ> ところが、、、徐々に何かが狂っていくのである。それは体の中に巣食う癌のように確実に何かを蝕んでいくのである。そんなニコルソンの微細な変化と抑えきれない狂気が垣間見える場面の恐ろしさ。彼の「イノセンスのキャッチャー」という立場は、その絶対的不可能性の罠に確実に閉じ込められていくのである。この作品のテーマはずばり「イノセンスのキャッチャー」の行く末だと思う。ニコルソンは年老いて歪んだホールデン少年の行く末なのだ。彼がプレッジとして信奉したもの、全てのイノセンスを守ることの不可能性は、容易に自らを矛盾の孤独に押し込め、どこでもない場所へ導く。なんというリアリティだろうか。この作品のエピローグは冒頭のシーンへと繋がっているが、そこにはウロボロスの如き出口のない絶望が横たわるのみである。前作で描いた希望の光のようなものはそこには見出せない。この地平からショーン・ペンが如何にして物語を紡いでいくのか、それは次作に期待するとしよう。
10点(2005-01-20 14:08:52)
71.  ボウリング・フォー・コロンバイン
なかなか面白かったとは思う。アメリカの銃社会が白人のインディアンや黒人に対する自己防衛という脅迫観念から発したものであり、その脅迫観念は、境遇が変わった今でも形を変えてマスコミによって煽情的に流布され続けている。脅迫観念は常に外敵を作り出さずにはいられない。銃による犯罪は、その脅迫観念により常にアメリカ白人の重要な関心事となり、その銃犯罪の誇大報道そのものが自己防衛としての銃社会を国家的に認知していく、と同時に銃犯罪そのものを助長している。。。なるほど、まさにその通りかもしれない。ムーア氏の解釈はなかなか的を得ているように思える。この映画のタイトルでもあるコロンバインでの銃乱射事件の背景にあるのは、確かに彼の言うようなアメリカの銃社会という制度的(潜在的)な問題と利害を含んだマスコミのプロパガンダによるものなのかもしれない。ただ、それを理解した上で問いたい。何故、彼らは自分達の同級生に銃を向けなければならなかったのか? ムーア氏が銃犯罪の少ない国として賞賛する日本(銃携帯が認められないから当たり前か)でも子供同士の殺人事件が最近起こった。日本のマスコミは、事件の背景としてインターネットやお受験の弊害について論うのみで、動機は常に「心の闇」という言葉に帰着させているように思えた<それは15年前から先に進んでいない>。確かにそこから導き出されるディスコミュニケーションや疎外感の問題にある種の正当性はあるのだろう。その正当性を信じたいがために、また理由の見当たらない宙吊りの状態に耐えがたいがためにそこへ誰もが理解できる物語を当てはめたくなるのである。僕はそこに違和感を感じる。彼らの物語はもっと歪んでいるのだ。その歪みを正すのは、彼ら自身の生の原理を捉えた彼ら自身の物語しかないのではないか。 ムーア氏はコロンバインの殺人者達が事件の直前にボウリングをしていたことに言及していたが、それは彼らの歪んだ生の原理が垣間見える瞬間ではなかったか。ムーア氏は言及しただけで追及しなかったボウリングを禁止したからといってコロンバインの問題がすっかり解決する<彼らの歪んだ生が癒される>はずがないということは言うまでもないが。
8点(2004-09-11 13:21:13)
72.  ラスト サムライ
中途半端な印象は拭えませんね。確かに「ダンス・ウィズ・ウルブス」のサムライ版ってところでしょう。武士道などというものをハリウッドが表現できるとは到底思えなかったけれど、そもそもそれを日本人自身が理解していない限り、その評価も推して知るべしです。まぁいろいろと書かれているようにあまりその辺りのことを意識せずに架空的日本国を舞台にした日本人とアメリカ人との「愛と友情物語」として見れば、なんのことはない、従来のハリウッドスタイルそのものなのですね。「サムライ」や「インディアン」というタームは、反近代的なモチーフ、傍流の歴史を理解する為に選ばれてはいるけど、最終的にはアメリカイズムという個人主義にすっかりと回収されてしまっているように僕には思えました。 僕自身が武士道というものをよく理解している訳じゃないけど、武士道って江戸時代の一部の武士階級にとっての特権的な観念であって、ああいう戦国時代のような戦士や半農民的な足軽たちにとっては、日常的に不要の観念だったのではないかな。平和な時代だったからこそ、自らを律する為の観念が必要とされたのです。それに武士道自体を本当に尊ぶようになったのは明治初期でそれも一部の人々の間でしかないでしょう。あと利用されたという意味では太平洋戦争の頃ですか。「葉隠」なんて江戸時代でも多くの人たちはその存在すら知らないわけで、それを日本人全体の精神性かのように捉えるのはそもそも間違い。実際、日本人のすべてがサムライの息子ではないのだからね。 まぁそれはそれとして、ストーリー的にも僕にはあまりぐっとくるものがなかったなぁ。途中で三島由紀夫の描いた「神風連史話」(「奔馬」)が頭をよぎったけど、あの決起と自死の顛末に描かれたものこそ日本人が武士道的なものとして憧れるperfectな精神性ではないかな。その静謐さをハリウッドで描くことは不可能でしょう。
6点(2004-08-13 10:03:41)
73.  きょうのできごと a day on the planet
淡々とした展開に潜む日常の危うさ。人々の心のさざめき。そういうものが一切感じられないという、僕にとっては非常に不幸な映画であった。ある種のニュアンス的世界といってもいいか。微妙なニュアンス、ちょっとした感覚のズレ。まさに現代的感性の映画かもしれない。時代的モチーフとしてはよく分かるが、正直いって僕にはついていけないところがある。モチーフの切実さが感じられないのは、僕にとって致命的なのだ。確かに僕にも日常というものへの絶対的帰依の気持ちは十分にあるが、その信頼性に関しては無自覚、無感覚に受け入れることがどうしてもできない。根底にはいつでも日常に対するアンビバレンツな感情があるはずなのだ。なんというか、そんなことを思ってしまう限り、この映画のツボは永遠に理解できないのかもしれない。
6点(2004-08-12 21:00:53)
74.  A2
「A」と比べて「A2」がそのテーマを明確にしたことによって、出色のドキュメンタリーとなっているということに全く異論はない。そして、そのテーマとは、「オウムと世間との共存の可能性」である。オウムが日本各地に移転するたびに地域住民から排斥運動を受けて、結局追い出されてしまう、こういった構図は僕らも新聞報道等でよく見かける。しかし、映画の中では、オウムを監視していた地域住民ボランティアが監視を続けるうちにオウム信者達と仲良くなり、逆に地域内での一般住民たちの軋轢こそが浮き彫りになる、というケースを克明に描いてみせる。確かにそこで描かれるオウム信者はあまりにも普通の好青年であり、オウムでありながら地域社会に見事に溶け込んでいるように見える。彼らがその地域から引っ越す際には多くの地域住民たちに涙をもって見送られるのである。もちろん、このような例は数少ないに違いない。多くはオウムと地域住民たちとの滑稽なすれ違いの繰り返しなのだろうと思う。しかし、一部ではありながらこういった例が存在し、そんな現実をひとつの可能性として提示し得たことにこの作品の重要なテーマをみるのである。基本的に未だオウムというのが麻原への信仰を捨て切れない、世間から閉鎖した危険な思想団体であることに間違いはないだろう。それは彼らが世間から閉鎖された出家団体であり、世間とは根本的に対立する考えを持った人々の集団であることから既に自明なことである。一見するとそこに出口はないように思えるが、彼らが共存を求めており、僕らが社会としてそれを受け入れることを選択した以上、それが全く不可能ではないことをこの映画が指し示していることは重要である。人には信仰の自由があり、各人が別々の信仰を有しながらも共存共栄していくというのが正しい社会のあり方である。そんな当たり前の社会を不可能にしているとすれば、それは人と人との関係を強烈に捻じ曲げる偏見という名の人格無視だろうと僕は思う。お互いが分かり合える足場を失った状態でも人が人を理解する希望を失わないこと、そのためのシステムを作り上げること、それがこれからの社会の中で重要になっていくに違いない。無条件な憎しみの連鎖にだけは陥ってはいけないのだと僕は思う。
10点(2004-07-02 01:25:28)
75.  シティ・オブ・ゴッド
ブラジル版の「仁義なき戦い」というのは当たっているかな。でも、確かに深作やタランティーノのテイストを十分に感じるけど、登場人物の大半が子供だということはかなり異様である。「バトルロワイヤル」のような完全なる虚構性が前提であれば、純粋に娯楽として楽しめるが、この作品のもつリアルな歴史性は、そのスタイリッシュな娯楽的展開から乖離して、僕らの胸をストレートに突き刺すのである。子供たちが殺し合うということの捩れた純粋さがとても心重く、とても恐ろしいのだ。しかし、僕はこうも考える。この作品が捩れた純粋さと殺人に対する原初的な麻痺の恐怖を描いているとすれば、一体全体、「バトルロワイヤル」的な虚構性とは何なのだろうか、それを描くことのリアリティとは何なのだろうか、と。それはゲーム的虚構性であり、ゲーム的リアリティであるとしか僕には思えない。本来、作品とはそういうものを超えたところで創られるものだろう。歴史性がなければ、人の心は掴めない。というか、人々の心の有り様こそが今描くべき歴史性だ。今、この瞬間にも歴史は創られているということを僕らは認識すべきなのではないか。話はそれてしまったが、この作品が傑作であることに全く異存はない。
9点(2004-06-27 01:44:29)
76.  ビッグ・フィッシュ
映画っていうのは所詮がホラ話なんですね。そりゃもう巧妙なホラ話。それをリアルに見せれば見せるほど人は満足したりするんです。不思議なことに。そうすると、「この映画は真実に迫っている!」なんて杓子定規な評価が出たりしまして、これは映画っちゅうものの成り立ちからしてそういう傾向があるから、仕方のないことなのかもしれませんけど。映画のジャンルを問わず、ドキュメンタリーであろうが何であろうが凡そ人が撮るものには必ず演出ってものが付いてまわるもんだし、言ってみりゃあ、それは思い込みとヤラセの世界ですよ。映画ってものはそもそもそういう了解のもとに観るべきものなんじゃないのかって僕は思うんですけどね。ホラ話だって、そこに夢や希望が感じられれば十分に幸せを与えられるんです。ということで、ティムバートンの「ビッグフィッシュ」っちゅう映画なんですけど、これが実に大らかでいい作品ですね。クソ面白くもないエピソードを延々と見せられてつまらんという評価もあるみたいですけど、あのつまらん(?)ディテールがラストに大団円となるところが「蒲田行進曲」的な映画愛だとしたら、僕がほんとに評価したいのは、そっちのつまらんディテールの方でして、あれこそがティムバートンなりのささやかな日常への賛歌なのだと思いますよ。映画もホラ話も、大風呂敷な夢や希望があるのはいいけど、それが日常に繋がる「誠実さ」もなくっちゃね。その観せ方には十分なリアリティがあったような気がしますよ、この映画は。実は親父も自分と同じ弱さを抱えたひとりの人間なんだって、この「自分が存在することの原理」みたいなものを認めなければ、本当の意味で自分が親父を赦し、自分を自分として認めることはできないんです。映画の中の息子と同様に、観ている僕たちが知らず知らずのうちにそのことを了解してしまう、そういう父子にとっての現実的な物語でもあるんです。
9点(2004-06-20 08:06:21)(良:1票)
77.  A.I.
「鉄腕アトム」には、成熟しない永遠の子供ロボットというモチーフがある。彼には元々家族が存在しなかった。<妹のウランはアトムが誕生日プレゼントにもらったものなのだ> 天馬博士からは成長しないことを理由に捨てられ、ロボットというだけで人間から疎外されながらも、愛情に飢え、逆に人類に対して無償の愛情を与え続ける、そういう存在がアトムの原型<原アトム>なのである。成熟の放棄は、人間のファンタジックな願望であるとともに人的異常さの象徴であり、心を持つアトムにとってそれは深い哀しみそのものだったのである。<「鉄腕アトム」の前身「アトム大使」では宇宙人から大人の顔をプレゼントされて終わるらしいが> というわけで、この「A.I.」という映画、「火の鳥」のウーピーやロビタ、永遠に生き続ける未来編の男、それらの物語群を彷彿とさせると同時に、僕には原アトムの物語を思い出させた。手塚治虫は、ディズニーアニメを模倣することによって、日本マンガの技術的手法を確立したが、成熟しない主人公という日本マンガ普遍のモチーフは、実は「鉄腕アトム」から培われたものなのだ。そしてその未成熟ロボットが愛すべきキャラクターとして肯定されたことが、戦後日本空間を象徴する確信的意味合いをもつのである。<その辺りのことは大塚英志の評論に詳しい> キューブリックやスピルバーグが手塚治虫のマンガを意識したのかどうかは知らない。ディズニーの「ライオンキング」の例のようにあからさまではないが、「A.I.」も明らかに似ていると感じる。A.I.として蘇った苦悩する愛情ロボット<原アトム>の物語は、その根底に時代的モチーフを持ちながらも、ピノキオという西洋ファンタジーの真綿に包まれることによって、アメリカ的成長物語として<全く逆のベクトルをもって>再生した、というように僕には感じられた。「成熟と喪失」というテーマは本来、日本にこそ相応しいが、アトムの本来的苦悩など今の日本で忘れ去られているのが現実であろうか。
7点(2004-05-03 15:54:41)
78.  リリイ・シュシュのすべて
正直いってとても怖い映画でした。僕はこれほどまでに悪意に満ちた映画を知らない。「拷問のような。。。」というレビューがありましたが、然り。世界を共有できないという苦痛が全編を覆っているのだから。しかし、、、この映画に心を震わしたとすれば、あなたは正しい。間違ってはいない。僕らは心を失って久しいし、本当に共有できる世界観をもっていないのは既に自明のこと。リリィという虚構の上に空虚な言葉を紡ぐことのリアルさなんて最初からないよ。そんな悪意に満ちた映像の中でも、僕らはこの映画にある種のイノセンスを感じたんじゃないのかな。その可能性にこそ、この作品の「救い」があるのだと思う。この映画の中に心理描写が皆無ですよね。ただ、田園に佇む少年たちと音楽があるのみで。そして画面を覆うワープロ文字の羅列。僕らは「痛み」を感じ、イノセンスへの「信」を握り締める。この世界の「ほんとう」をいかにして表現するか、もし、映画の目指すところがそこにあるのなら、この映画の手法はひとつのメルクマールとなるのではないか。岩井俊二は断続する「現在」を捉えているからこそ、一級の監督なのだと僕は思う。<追記>リアルとは何か?現代社会は成熟という過程を永遠に放棄しており、生きていくことの確固たるリアリティなどというもの、そのものにリアルな実感など既にない。キルケゴールは死に至る病として、絶望していることに気がつかないが故の絶望といったようなことを述べているが、今の世の中はそういう意味で多くの人が絶望的である。そういった認識がないとこの映画は「分からない」だろう。薄っぺらい世の中だからこそ、その薄っぺらさの上で足掻くことの空虚さ、その見えない痛みを痛いほど感じる、この映画はそういう表層のヒビを鮮やかに描いているのだ。<この映画は単なる中学生日記ではないのだ> 実は邦画の名作は昔からそういう地平でつくられていると僕は思っている。ただ、その自明性がここ10年ほどで加速度的に失われており、そんな閉塞感の無意識化を漠然とした表層の「らしさ」感覚とその亀裂の対比で描いてみせているのがこの作品の白眉なところだ、といえないだろうか。敢えて言えば、リアルさの喪失感に対するリアリティのなさをリアルに描いている、ということか。
10点(2004-03-31 00:07:16)(笑:2票) (良:1票)
79.  戦場のピアニスト
不条理下における芸術性のあり方については、これまで否定的な考え方を幾つも目にしてきた。戦争による芸術の無力化。芸術的抵抗の挫折。しかし、そもそも芸術とは抵抗する力をもつものなのだろうか。戦争が個人のもつあらゆる社会性を崩壊させた時、己を生かしめているものは狂気より他ない。闘争は正義をも崩壊させるのだ。この映画は、主人公のピアニストが戦争によって社会的自我や人道的正義を喪失していく様を克明に描いていく。では彼の芸術的内面はどうだったのだろうか。絶望的飢餓状態の中で狂気を彷徨う主人公にピアノの旋律は聴こえていたのだろうか。その答えが瓦礫の廃屋でピアノを弾く主人公の姿なのである。実はポランスキーがこの映画に込めたメッセージとは、この一点に集約されているのではないか。間違ってはならないのは、芸術的内面というのが決してヒューマンなものではないということだ。それは人が全てを失った地平においても、生きていく狂気とともにあり続けるものであり、誰からも(己からも)アンタッチャブルなものとして個人を吸い込んでいく領域なのである。そもそも芸術的内面とは、哀しみによって熟成していくものではなく、哀しみそのもの(をのみ込んだもの)なのだ。瓦礫の廃屋で主人公を助けるドイツ軍将校は、自らの持つ民族的国家的正義に支えられながらも芸術への理解を示す人物像として描かれている。彼にとって芸術への理解とは、一人の優秀なピアニストを守るということによって自らの正義へと直結している。その彼が捕虜となり、逆に主人公に助けを求める姿は、その個人的な正義すら、狂気により脆くも崩壊してしまうという現実を見事に描いていると言えよう。戦争と芸術、この映画は、二つの喪失の狂気を対比させながら、正義なき、神なき時代の絶対的根源的な魂のあり方を描いている。それは芸術的内面の崇高性を描いていると言えるかもしれないが、ある意味でそれは絶望に変わりない。そして、芸術的内面という喪失感すら喪失している僕らにとってそれは悲劇の極致なのである。
9点(2004-03-28 00:02:12)
80.  イン・アメリカ 三つの小さな願いごと
素晴らしい映画。確かにファンタジーに救いを求めすぎているかもしれない。家族の欠損を強調しすぎているかもしれない。しかし、僕はこの作品に素直に感動した。「私が一家を支えてきたの!」少女クリスティが父親に言った言葉は、僕らの心に素直に響く。この一言はジョニーを救ったのと同時に確実に僕らの心を捉えるのだ。クリスティは傍観者であり、記録者であるように演出されているが、実は家族を支える、アリエルを守る、マテオを導く、そして僕らをも支えるイノセンスのキャッチャー(The Catcher)だったのではないか。彼女の歌う「Desperado」がデジタルカメラを通して僕らに問いかける。Why don't you come to your senses? 僕らは誰しも埋められない欠損を抱えて生きていく。そこにもし信じられるものが何もないとしても、「信じること」そのものを守るクリスティのような存在にこそ、僕らは癒され、救われるのだ。
9点(2004-03-22 01:56:11)
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