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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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161.  丹下左膳餘話 百萬兩の壺
城の殿様でいかにも時代物で始まり、お家騒動にでも左膳が絡むのかと思わせといて、世話物の世界になだれ込んでいく。しかもこの左膳、家庭持ちだ。この落差を実感としてストレートに楽しめないのが現代人のつらいところ。ニヒルなヒーローと頭では分かっていても、それが空気のように・当然のようにあった当時、子どもの用心棒として駆けつけるおかしさは、現代よりも弾けたことだろう。いまの言葉で言えばパロディになるのだろうが、武張った「時代物」世界と人情の「世話物」の世界の硬軟が対になって存在するのは日本文化の基本で、なにも浄瑠璃に始まったものでなく、平安時代なら漢詩と和歌、いや、もともと日本語が漢字とひらがなで綴られること以来の両輪ではないかと思っている。だからこれ、単にパロディと言うより、もっと日本文化に根ざした、硬いものをすぐ軟らかく読み換えたがる性向がノンキな笑いとして結実した幸福な映画なのではないか。現存山中作品を見て思うのは、さぞかしサイレント映画は凄かったろうと思わせるリズム感だ。もう新たに完全なフィルムが発見される可能性は低いだろうが、そのときが来るまで10点9点は留保しておく。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2012-12-27 10:23:25)
162.  極北の怪異 《ネタバレ》 
カヌーから次々と家族が出てくるところ。海岸のセイウチ猟、腹這いになって近づき向こうが気づくあたりの緊張、仲間のセイウチが沖から心配そうに見守っているところ。家づくりのシーン、ナイフ一丁で窓まで作っちゃう。小さな穴を通してロープで引っ張り合う。向こうから犬ぞりが来るその広さ。などなどが面白かった。今では異文化の暮らしはテレビによってさして珍しくないものになったが、止まった写真ぐらいでしかなかった知識が、動く映像で見られるリアリティは大きな違いだったろう。そのことは人々の世界観を大きく変えたはずだ。フィルムは民族を熱狂によって閉じることにも使われたが、打ち破って広げていく方向にも使われた、そっちを信じたい。モンゴルの遊牧民の映像なんかでも思うのだが、ああいう簡単に移動できる社会で、家族単位の次の地域社会ってのはあるのだろうか。なんかその方向に「地域で閉じない新しい社会」のありようの可能性が秘められているようにも思えるのだが。で本作、あくまで生活中心に追っていく。生活の厳しさは主に犬によって表現されていた。飢えて吠える犬、ブリザードの中で真っ白になっての遠吠え。
[映画館(字幕)] 8点(2012-12-23 09:52:21)
163.  双旗鎮刀客
中国映画いくら元気がいいからって、娯楽映画の分野では20世紀中には世界に追いつけまい、と思ってたら、本作でやられた。1991年。中国映画が娯楽に手を出すとしたら香港映画の流れが合流する形かと想像してたんだけど、また西安電影から来た。ここが新中国映画すべての発祥地のようだ。香港のように脂ぎってなく乾いている。音楽が馬具の音や足音と絡んで面白い効果。悪党に苦しめられる砂漠の町、青年と娘じゃなくて少年と少女が軸になり、昔話的な伝説性が高まる。直射日光のはっきりした影、テーブルの端に座っている娘と机上の鶏、悪漢どもが砂丘の上に立ったときボスだけ馬を横に向けている、などこれ見よがしでない程度にキザ。援助に駆けつけるかと思わせていた人物がとんだ食わせ者という設定は、深読みすれば天安門事件の傷と通じ合いそう。
[映画館(字幕)] 8点(2012-12-22 09:46:52)
164.  ホット・ショット 《ネタバレ》 
『トップガン』のパロディということで、あまり期待してなかったんだけど、そうパロディに頼ってなかったんじゃないか。本家を必ずしも必要としない笑いになっていた。いいぞいいぞと思い出したのは、馬上の美女が枝につかまって鉄棒の離れ業を見せるあたりからか。あと順不同で思い出すと、窓の外で訓練していた兵士たちが踊り去っていくとこ、表情が見えないのがいい。二枚目が「おごってやるぜ」と言うと、ドアやロープからワーッと人々がなだれ込んでくるとこ。二人が険悪になると店中が険悪になり、和解すると店中が和解する。吹き替えの歌が続いている間に、水を一口。唐突に歌いだすオンリーユー。猫が走り過ぎ、梯子の下をくぐい、鏡が割れ、ケネディ暗殺の真相をポケットに秘めたまま明るく離陸していく奴。サダムが出てきたのは仕方ないのかなあ、純度が少し落ちた。固い軍隊と柔らかなものを単純に対比したギャグはさして面白くないが、完全にドタバタやってるシュールな「有り得ない世界」が具体的に展開しているのが、面白い。
[映画館(字幕)] 8点(2012-12-15 09:58:02)(良:1票)
165.  トライアングル(2009) 《ネタバレ》 
反復や回帰があるとドキドキするのは、時間芸術のけっこう根源にある問題なんじゃないか。音楽がそうでしょ。ソナタ形式では提示された主題が展開部を経て再現部に至ったとき「いわく言い難い感興」をもたらす。ジャズだってテーマが即興によってどんどん変形されたのちに最初の形で登場するとやはり「いわく言い難い感興」をもたらす。反復・回帰ってのは時間芸術のキモなんだ。で映画だと、『羅生門』みたいのもあるけど、主にコメディとスリラーで反復がよく使用される。本作で反復が確認されるあたりのドキドキワクワクは「たかがスリラー」かもしれないが、時間芸術のキモに連なっているんだ。別の新しい角度から反復を見ることになる感興、そしてその反復がどうも何度も繰り返されてきたようだと次第に分かってくる怖さ。落としたペンダント、走り書き、デッキに蓄積している「我々」の死体(これは笑いと紙一重だったが)。そして「錨を上げて」のメロディが、レコードと屋外のブラスバンドでつながって、ループの端と端とを留めている。ほっておくと映画そのものも永遠に循環していきかねない怖さが最後に残る。
[DVD(字幕)] 8点(2012-12-06 09:59:42)(良:1票)
166.  風の又三郎(1940)
賢治ものってとかく解釈が加わって矮小化しちゃうのが多いんだけど、これはそれが少なかった。家畜や森の生きものたちの効果がよかったのかな。カタツムリやフクロウのほかにも教室の中にカエルや鶏、病床にもチャボがはいってきて、外のものが自然に内へ内へと流れ込んでくる。これ賢治のユートピアですな。そして風。映画にとって風ってのは重要なモチーフのようで、舞台ではざわざわ揺らぎだす瞬間の緊張ってのは出せないもんな。風についてやり込める「それからそれから」のシーンで、一つ一つその映像を入れるユーモア。風車の仕掛けのアニメーションが出たのには驚いたが、あんがい科学者賢治の精神を受け継いだ手法かもしれない。大泉滉がかわいかったのにはびっくり。
[映画館(邦画)] 8点(2012-12-03 10:14:38)
167.  カルメン(1983年/カルロス・サウラ監督)
鏡が効果的。単に虚構の世界との対比というだけでなく、それに挑みかかっていくようなところがあり、主人公が次第に妄想の世界に突入していくのとダブる。『愛と喝采の日々』でも鏡の前でのバレー練習シーンが使われたが、あちらは平行移動だったのに、こちらは前後の向かい合う運動。練習が続くうちに、現実と虚構が混交していってナイフのシーンの緊張になる。マジなのかダンスなのか。ここらへんうまい。またエスカミリオが美男でなく何となく性的に強い男という印象の作りになっていて、老いを自覚した主人公の妄想が生臭い下意識にまで広がっていったような凄味があった。おそらくスペイン人はメリメ/ビゼーのフランス製カルメンに、日本人がイタリア製蝶々夫人に対して抱くような違和感を持っていたのだろう。それに対する落とし前を一度はつけておきたい、という気持ちもあったんじゃないか。ミカエルとカルメン、役と本人、エスカミリオとホセ、恋と嫉妬、芸術と妄想、向かい合うことに徹底した映画だ。
[映画館(字幕)] 8点(2012-11-30 10:02:21)
168.  サウンド・オブ・ミュージック 《ネタバレ》 
初めて観たのは何度目かのリバイバルのころ、たぶん中学生のときだ。ストーリーについての予備知識はなかった。この映画で中学生の私は「政治」というものを知った気がする。修道院に隠れたファミリーを長女の恋人が追及する場で、世の中ではこういうことが起こるのか、と胸を締め付けられた。彼の苦悶がリアルに伝わってきた。それはどうやら「政治」に関係しているらしい。そしてこの映画そのものが「政治の苛酷さ」に収斂しているらしい、と世の中を知らぬ中学生は眼を啓かれた。その後も何度か本作を観、演出やトラップ大佐のキャラクターなどいささか大ざっぱだとは思うものの、終盤ナチの旗が翻ってからの緊張、音楽会へ向けての集中は素晴らしい。邸内でプライベートに歌われた歌が、人前では歌わせないという大佐を交えて反復され、さらに会衆にも伝わっていく。それもナチの強制によって設定されていく皮肉。歌詞は同じでも歌意が読み替えられていく趣向。暗い修道院内でマザーによって歌われた「すべての山に登れ」(壁にだけ光が山形に残っている)も、歌意を読み替えラストの現実の山の光のなかに反復される。歌が繰り返され、しかし歌意がプライベートな場から広がり深まっていく、そこに感動させられる。余談になるが、「ドレミの歌」の日本語訳“ど~んなときにも~列を組んで~”っていうの、あれ反ファシズム映画の歌というより、ファシストの心得を歌ってると聞こえないか。何もペギー葉山がファシストだってことじゃなく、この国の風土がそういう団体主義的な傾向に親和性を持っていて、日本語にドレミを当てはめようとするとこうなるんだろう。近くの小学校の運動会などでよく耳にするが、いつ聞いても気持ち悪い。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2012-11-29 09:38:47)(良:1票)
169.  アモーレ
これはバーグマンでは無理な映画。アンナ・マニャーニの一人舞台。第一話は、ちょっと感情露出が派手目かなと思うところもあったが、第二話とのセットで女優の凄味を分からせる。この監督は長い話に興味がないらしく、いつもエピソードの連鎖になるが、これは堂々と最初から二つの話と割り切っている。個人的には第二話に堪能。何かを切実に求めて走り回るってのは『ドイツ零年』の再現で、迫害とからかい。丘の上の修道院(清浄さ)への憧れ。第一話の閉じた愛から、こっちは開かれた神々への愛、子への愛となる。丘の上まで追い詰めていく、というか追い上げていく力が圧倒的。もともと斜面てものがエネルギーを蔵しているんだな。冒頭も山羊の斜面で始まっていた。フェリーニが出てくるのも楽しい。私が観たのでは空き缶が階段を落ちるカットが繰り返されたが、あれは斜面のモチーフの変奏で深い意図があるのか。単なる編集ミスだろうと思うんだけど。 
[映画館(字幕)] 8点(2012-11-22 09:53:11)
170.  真実の瞬間(1991)
こういう敢然と闘いましたって話より、転向した者の苦衷とか、波に乗って告発して回った者の内面を描くほうが意味があるのではないか、などとブツブツ思いながら観ていたが、でも公聴会のシーンでは興奮しちゃった。アメリカ映画は、やっぱりこういう切り口が一番合う。狂った流れを止めようとする者の勇気は、何度でも何度でも賞揚しなければならない。流されたものの分析よりまずその目の前の勇気を褒め称える、これがアメリカ映画。ここから勇気が広がっていくことに希望を持つ。楽天主義かもしれないが、なんらの説得をも含まない強制させるだけの言葉の冷たさがクッキリ描かれているから、この楽天主義の必死さも伝わってくる。アメリカの楽天主義が説得力を持つとき、その裏には必死さがある。狂った正義は怖いけど、それを止めるのも正義感しかない、ということを繰り返し学んでいるからだろう(繰り返しても身に付かないってことか)。
[映画館(字幕)] 8点(2012-11-17 09:51:01)
171.  ひめゆりの塔(1953) 《ネタバレ》 
反戦映画というより反軍映画の傑作だろう。いざとなると何の役にもたたないどころか、己れの保身ばかりを考え、民衆にとって危険きわまりない存在だということが、よく分かる。この作品最大の仕掛けは、原保美と藤田進の対比だろう。“原”型の軍人は戦後幾多の反戦映画に出てきたタイプ。さんざん民間人を使役したあと追い出してしまう。リアリティはあるが、いささかパターン化されてきていて、観客へのインパクトは薄れていた。“藤田”型は戦前戦中によく描かれた国策映画に出てくる「優しい日本の軍人さん」の典型パターンだ。藤田自身がそういう役を頻繁に演じていた。この戦前戦中にパターン化されていた実に優しい軍人が、最後の洞窟で投降勧告に応じようとする女生徒を射殺する。日本軍によって自分の生徒が殺されたことにまだ分からずにポカンとしている先生のカットが二つぐらい続いて、米軍の爆弾が投げ込まれる。ここらへんの畳み込みが素晴らしいのだが、何より軍隊の本質を描き切っている。藤田はこの出演で、彼の戦争責任を償ったと思う。津島恵子の先生の耳が聞こえなくなるのもうまい。生徒たちの歌声が聞こえなくなり、米軍の投降勧告も聞こえなくなる。追い詰められて軍の判断にしか自分を任せられなくなっている沖縄の人たちが重なっている。もちろん軍と民間人との関係は、そのまま本土と沖縄の関係でもあるのだけれど。シーンとしては晴天でキャベツを放り合うところなんか、ラストから振り返ると哀切。
[映画館(邦画)] 8点(2012-11-16 09:54:41)
172.  戦ふ兵隊
作戦室の場、軍人さんたちアガッてるようで、ああ本物だ、とすごく生々しく“ドキュメンタリー”を感じた。弾のピュンピュンいう音も生々しかったが、あれ本物なのか? 同時録音? これ上映不許可になったため、反戦映画という眼で見られるようになってしまったが、一応製作者は国策映画として完成させようと努力している。妥協しても上映される映画を作り、戦場を国民に伝えたいというドキュメンタリストとしての執念が感じられ、それが名作にしている。なにせ時代はノンキではなかった。陸軍のフィルムを使う以上、無駄には出来ない。冒頭の流浪する中国人を描いたのも、ラストの復興へつなげて「こうやって皇軍は同じアジアの人を助けているんです」というメッセージになるし、夕陽の中で病馬が倒れる美しいシーンも「戦地の兵隊さんも馬も大変なんだ、内地の人は辛抱辛抱」ってメッセージになる。一応国策映画としての体面は繕っていたと思うんだけど、でも許可してくれなかった(この残っている版もすでに改訂命令で15分削られたもので、それでも最終許可は下りなかった)。あれかな。夜中のロバの鳴き声の哀切さ、あれはただただ意気阻喪させ、なんか戦場というものの正体を告げていた。私が役人だったら、あの鳴き声で不許可の断を下したかもしれない。
[映画館(邦画)] 8点(2012-11-08 09:13:49)
173.  シコふんじゃった。
学園スポーツものだけど、若大将もやらなかった相撲。学校名が実在のを引っ繰り返してるだけという、堂々の手抜きが潔い。教立大学に本日医科大学。単位と引き換えに一日だけ入部し、しかしホンキになっていくという設定。青春ものの爽やかさを、当時は久しぶりに感じられた映画だった。前半狭いところで話が進んだのち、パッと合宿で緑が広がり、土手と空、ここで「悲しくやりきれない」が流れ出すと(ある限られた世代だけかも知れないが)グッときてしまう。そうなのだ、青春って言ったら、土手で友と語らうものなのだよ。向こうの畦道を本日医科大学の面々がまわし姿でランニングしていると、さらにジーンとしてしまう(考えてみれば変な映画だ)。青春ものでありながら、主人公に恋が絡まないのも珍しい。一応夏子さんがいるんだけど、彼女は冬吉を向いてて、彼女には春雄が向いてて、彼にはでぶの正子さんが向いてる。秋平君は青春の渦の中心の穴的存在のよう。この手のシモネタでくすぐられていいのかと抵抗しつつも、下痢をこらえる竹中直人の深刻な表情には、やはり笑わされた。ラストに流れる「林檎の木の下で」でまたグッときちゃう。
[映画館(邦画)] 8点(2012-10-28 09:38:17)
174.  商船テナシチー
なんか山本周五郎の世界よ。人間が描けている、ってこういうのを言うんだろう。お調子者だが現在をいとおしむ男と、いつも自分で決められない男、そしてドキッとするような恋する女の残酷。「彼女笑ってたか」って手紙を託された男に尋ねるんだよなあ。まだ踏ん切りがついてない、っていうか、風景に別れたくないっていうか、つまり後ろ髪を引かれる思い。夢と今いる場所と。人生は厳しい。すべてのエピソードが厳粛な出発につながっていく。それは友情の限界であり、本当の人生の始まりであり、故郷を捨てることであり、記憶の一つの段落であり…。デュヴィヴィエって、情感過剰気味でクレールやルノワールより一段低く見がちなところがあるけど、やはり名を残す人だけのことはありますな。キモのところで日本人の好みとうまく重なっているのか。
[映画館(字幕)] 8点(2012-10-19 09:55:44)
175.  稲妻(1952)
次女の保険金に当然のようにたかり、下卑た男は出入りし、長男は頼りない。末娘高峰は兄のすね毛にさえ嫌悪を感じる、そういう一家のネットリ感を丹念に丹念に描いていく。どうしてそれが不特定多数の客の鑑賞の対象となる映画作品になるのだろう。次姉の死んだ亭主の妾のところに談判にいくエピソード。川や小さな橋のたたずまいが懐かしいということもあるが、この二人の味も素っ気もない会話もいいんだよ。ねちねち反撥し合いながら一つの共同体を作ってしまっている家族というものの、肯定でも否定でもない描写。これの対比として下宿人だった女性がいた。あまり深く立ち入って描かれてはいなかったけど、一人でやっていく厳しさと爽やかさが置かれる。あと下宿先の兄妹の睦まじさ(夜、光が漏れているさま)も、比較としてある。でも彼らは主人公の家族のネットリのリアリティを高めるために、デッサンされただけなのかもしれない。これらを倫理的判断を下さずにただ並置していく。普通の映画だったらちゃんと次女が見つかるところまで責任持つだろうが、成瀬はそんな分かりきったところにこだわらない。作中の言葉を使えば「ずるずるべったり」の、糸を引いてるネバネバを、なぜか不潔感なく描ききった映画ということだ。大人になった高峰秀子の戦後の成瀬作品はまた車掌さんから再スタートし、日本映画の黄金時代を築いていく。
[映画館(邦画)] 8点(2012-10-16 09:41:21)
176.  紅夢
普通シンメトリーの構図ってのは、ここぞというところでバンと置くと効くので、あんまり使いすぎちゃいけないものなんだけど、この作品はそれがテーマだからね。シンメトリーの安定した重苦しさ、人を発狂させるほどの、整然とした堅苦しさ。シンメトリーの息苦しさをここまで徹底して追求した映画も珍しい。あとは音の響き。作者によって選択された音しか響かない。それも幽界に響くような雰囲気で、嫉妬によって残響を与えられ心にエコーを掛けられているというか、灯篭を消す竹吹きのブボッという音も腹に響く。遠くから聞こえる第三夫人の歌声、若主人の笛。きっちりした画面に選ばれた音のみがキラッキラッと閃く感じが実にスリリング。昔の中国映画だったら、もっと目覚めたヒロインが反抗する設定になったんだろうが、もうそうはならない、プロレタリアートの部屋にまでレッドランタンは侵入してしまっているのだ。画面に現われているのは「八方ふさがり」の嫉妬渦巻く世界なのだけど、ネチネチという感じはあまりなく、荒涼の風が「八方吹き抜け」ていたのではないか。白・黒・赤の物狂いの世界が魅力的。
[映画館(字幕)] 8点(2012-10-13 09:56:42)
177.  にんじん(1932)
意外とシビアなホームドラマ。不幸な家庭というものは厳として存在し、ある子どもにとっては寄宿舎のほうが助かる場合もある、ってこと。母のにんじんに対する態度、特別原因がないだけに怖い(一応夫との間が冷えてから生まれた子どもってことか)。最も緊密な関係のはずの母と子においても「どうもウマが合わない」ということは生じ得るし、家庭は和気あいあいでという理想をあんまり高く掲げるのも、いかがなものか。原因がないんだから、母も改心のしようがなく、それぞれがそれぞれの不幸を守ったまま、父と子の間に光がほの見えるだけで閉じていく。その父と子が正常に相手を呼び合うラストが感動的。「フランソワ…」「お父さん…」。初めて母に反抗するシーンもいい。それまでの仕打ちにはビクともしなかったのに、盗みの疑いで少年の誇りを傷つけられるとこたえるわけ。全体子どもの捉え方が「けなげ」よりも「したたか」で、翌年の『操行ゼロ』やトリュフォーにつながっていくフランスの伝統なんだろう。牧歌調のシーンの美しさ、偽の結婚式後の行進、長く伸びた影、自殺しようとする池、どれも清澄さがあって素晴らしい。祝宴の中で取り残されていく惨めさが、それがあってクッキリする。にんじんがいざロープに首を突っ込んだときの震えの無惨さも見事。日本ではデュヴィヴィエは『望郷』に代表されるセンチメンタルな監督という評価があるが、それだけでもないんだ。
[映画館(字幕)] 8点(2012-10-12 10:09:15)
178.  キング・オブ・コメディ(1982) 《ネタバレ》 
この主人公モロに『タクシードライバー』の子孫で(シナリオは違う人)、行動の過激さ・対人距離の不安定・憧れの女性の存在、など揃ってるが、あっちほど神経症的でなく、けっこう好き。ラストの裏返しが決まってるんだな。どうしようもない気違いだなあ、と思わせといて、今までのドラマだったら、あのトークショーは客に受けないはず。紙の観客相手に練習してたりするのなんかは、だいたい「受けない」のの伏線だと思うわけ。ところがこれが受けちゃうんだな(本当のこと言ってるのがジョークになっちゃうおかしさ)。男の狂気に集中していくようにドラマが展開していって、ラストでくるっと裏返って、世間・マスコミの狂気がサーッと広がっていく怖さがいい。逃げたJ・ルイスが街でそのテレビを見たときの表情もいいし。
[映画館(字幕)] 8点(2012-10-04 09:58:18)
179.  愛怨峡
これは彼の演出法がいちいち納得できた作品ということで、私にとっては記念すべき一本。室内で俯瞰にするのは人物(おもに男)の弱さや卑小さを強調し、また運命といった視点も導入できる。いさかいなどのシーンは、一つ奥の部屋でしていることが多い。一部屋遠くから撮る。俯瞰と同じような効果もあるが、さらに表情を隠す効果もある。剥き出しの表情を消せる。表情が急変するところをドラマチックに見せたくないという慎み深さ、そういうところを近づいて捉えては失礼だという意識もあったか。あるいは逆に、その人物にとっては大事件でも世間には大して関係ないよ、といった客観視とも取れる。芸人たちの小屋へ貰い子に出していた赤ん坊が帰ってくるところ、ワーッと仲間たちが囲んで、母と子の姿をカメラから隠してしまう。次にカメラが脇から捉えるときは、最初の出会いの瞬間の剥き出しの喜びは消え、穏やかな慈愛の表情になっている。こういう礼儀正しさが彼の演出法にはあるんではないか。しかしインテリ男に対する作者の目の厳しさは隠さない。都会に出りゃ何とかなると出てきて、しかし何も出来ないで、女のほうがしっかりしてて、けっきょく家長に絶対服従の駄目男。男に対する厳しさは剥き出しで描いているな。
[映画館(邦画)] 8点(2012-09-29 10:02:31)
180.  恋のためらい/フランキー&ジョニー 《ネタバレ》 
あちらの戯曲ものってのは、あんまり失敗がないな。セリフが練れてる。孤独というより、なんとはないモノ寂しさを感じる四十代。ビデオに逃げ込む心の固さ。一人になるのが怖いけど、一人になれないのも怖い、っていう都会の時代に、四十代のロマンスを構築してみせる。アル・パチーノとミシェル・ファイファーってんで、もう少し神経質なタッチかと思ったけど、暖か味がある(舞台ではキャシー・ベイツだったそう)。個性を出すのに、鼻の下を擦ったり、ビンのふたを開ける専門家にしたり、印象的なポイントを作ってある。怖い街ニューヨークが背景にあり、ラスト近くで分かるんだけど、それを別の角度から、路上の死体のマークの頭のところにコインを投げ入れる遊びのスケッチなんかもあるのがいい。店の仲間うちの雰囲気の味なんかいかにも舞台的なんだけど、パチーノが現われるシーンの長回しは映画ならではの楽しみ。花屋の前の二人の会話で声が聞こえなくなり…のシーンは、もし映像だけの仕掛けだったら、ちょっとわざとらしく感じたかもしれないが、声が消されるステップを踏んでるのがいいんだな。
[映画館(字幕)] 8点(2012-09-20 09:59:16)
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