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61. 神々のたそがれ 《ネタバレ》 雨に霧に炎、蒸気、煙、吊るされた身体。 流動的で不安定、不定形のものが常に画面に充満している。 初めはそのフェリーニ風の世界観と意匠に眼を奪われ、次いで画面に突然現出してくる あらゆる事物、人物、動物、現象の動きそのものに約3時間驚かされ続けてしまう。 カメラがどう動くのか、様々な動物たちがどう行動するのか、 画面手前や横からいきなりフレームインしてくる奇矯なる人物達が次の瞬間に何をしでかすか、 次のショット、次の瞬間の予測が全くつかないので眼が離せないまま、 何やらドラマは進行してしまっている。 雨と泥土とモブの中で、尚且つ動物とも共演しながらの俳優は想定通りの芝居など出来ない上に、 即興演技も相当に入っているであろう人物同士も常にぶつかり合い、どつき合っている状態だから そのリアクションは必然的に生々しくならざるを得ない、という寸法のようだ。 人間たちは雨や泥に塗れながら唾や反吐を吐き、汗や鼻水や鼻血を流し、放尿する。 身体の大半が水分から成ることを改めて実感させる、個体の生々しさも強烈だ。 この即物性もまた、紛れもない人間描写である。[映画館(字幕)] 9点(2015-07-12 00:33:52)《改行有》 62. 動くな、死ね、甦れ! 《ネタバレ》 映画の終盤近く、強盗団から逃れた少年と少女が束の間の休息をとっている。 そのままクレーンのカメラが昇っていくと、 晴天なのか曇天なのか白い空に黒々とした木の枝が映し出される。 この後、二人は機関車に乗って晴れて故郷へと向かうのだが、 その長閑で爽快なはずの空と木の図象は、白地に黒い亀裂が入っていくような、 何やら不穏で禍々しいものとしても迫ってくる。 果たしてその予兆通り、乾いた悲劇が二人を待ち受けるのだが、 それが暗示を意図したショットであるのかどうかは定かでない。 ともあれ、こうしたモノクロの優位を活かした画面造形の妙は全編に見られる。 雪や吐息・湯気・子豚の白、機関車や泥土の黒。 手持ちとロケーションを主体としながら、計算されたかのように それら白と黒が絶妙に配置されており、 さらにその中に様々なアクションと音楽性が組み込まれる様は何度みても驚異だ。[DVD(字幕)] 9点(2015-06-23 00:54:17)《改行有》 63. 香も高きケンタッキー 《ネタバレ》 背後から父親(ヘンリー・B・ウォルソール)の目隠しをする娘(ウィンストン・ミラー)。 手と手が触れ合い、静かな沈黙の時間が流れる。 その手の感触で、それが長く別れて暮らしていた娘であることを父は悟る。 別離と再会のドラマ自体もそうだが、触れ合う指先が喚起する情緒という細部の モチーフからしても、なるほどこれはスピルバーグ『戦火の馬』のルーツだ。 離れ離れとなっていたかつての主人であることに馬(フューチャー)が気づくのも、自分に触れる手の感触によってだ。 前足の蹄を鳴らして何とか気づいてもらおうとする彼女の身振りが何ともいじらしい。 牧場を、競馬場を、自動車で混み合う街路を、疾走する馬の猛々しく美しい躍動感が 望遠や縦移動によって余すところなく捉えられていているのは勿論、 再会した母馬と娘馬が躰を寄せ合って喜び合うショットでは、 その身体表現の素朴な豊かさによって、立派に主役を張っている。 発砲の瞬間、厩舎の影から流れ出る白煙。競馬場の歓声。殴り合いの喧嘩に、乱れ飛ぶ白い皿。 音を意識させる演出やユーモアの数々によって、映画は賑やかで楽しい。 タキシードを着たJ・ファレル・マクドナルドが茶目っ気一杯の仕草で記念写真に収まり、 騎手の息子と恋仲になった娘が仲睦まじくツーショットを決める大団円は幸せ一杯で 屈託が無く、実に気持ちいい。[映画館(字幕)] 9点(2015-06-03 01:10:43)《改行有》 64. ブラックハット 『ラスト・オブ・モヒカン』のオーディオコメンタリーでマイケル・マン監督が 披露する時代考証の知識には圧倒される。 『コラテラル』のコメンタリーで雄弁に語るキャラクター設定の緻密さにもまた 感心させられる。 この作品についても、ハッキングに関する綿密で膨大なリサーチが為されたはずだろうし、 主役脇役問わず各人物の背景や生い立ちまで詳細に設定されていることだろう。 それらはこれ見よがしにひけらかされることなく、 各人なりの明確な原理と裏付け・信念が、即物的な行動のみの描写となって 画面に載せられていく。 いきなり幼少時代に遡って主役の人物背景を説明し始まった『アメリカン・スナイパー』とは 大きな違いだ。 クリス・ヘムズワースが、『ラッシュ』に続き、男の色気があっていい。 うなじや二の腕を映し出しながらタン・ウェイにいまいち官能性が薄いのが マイケル・マンたる所以か。それとも機動性・高解像度と引換えに光量不足を露呈してしまう デジタルカメラの弱みゆえか。 夜明けの航空機内、復讐に向かう二人は抱き合い、カメラと共に共振する。 ここからラストに至るまで、さらなる台詞の削ぎ落としは見事の一語。[映画館(字幕なし「原語」)] 9点(2015-05-29 23:54:55)《改行有》 65. くちびるに歌を 《ネタバレ》 同監督の『僕らがいた 前編』を、ロケも方言もまるで活かせていないと かつては酷評したが、この変貌ぶりは何だろう。 恒松祐里が自転車で教会までの坂道を駆け下りていく冒頭のモンタージュの爽快さ。 学校の屋上や、緑の美しい小高い丘から碧い入り江を望む 『サウンド・オブ・ミュージック』的壮観がよく映える。 標準語で通していた新垣結衣が、本番直前に発する「あんたは一人じゃなか。」の 真情こもる響きは、やはりお国言葉でなければならないだろう。 樹々や髪を揺らす風、汽笛の響きの反復はモチーフとして勿論だが、 冒頭でフェリーのベンチに 寝そべる新垣の後ろ姿を捉えた水平移動は終盤の出航シーンで対照され、 風の渡る踊り場で見上げる男子の窃視は、見下ろす女子の窃視によって昇華される。 序盤の新入部員勧誘で歌われた「マイバラード」もまた、 二段構えのクライマックスとして会場ロビーの反響の中で反復されるのだが、 その歌声に囲まれる渡辺大知の喜びの表情が何より素晴らしい。 基本的なことだが、 本番時のピアノ演奏で新垣自身の運指をショットとして見せているのも良し。 教会の窓辺の石田ひかり、台所の木村多江ら母親の像を包む外光の演出も さりげなくいい。 [映画館(邦画)] 9点(2015-03-10 23:14:53)《改行有》 66. オーソン・ウェルズのオセロ 壮観のロケーションとアレクサンドル・トローネによる厳かな美術が目を奪う。 そこでは太陽光や雲の形状や風や波など、ロケ撮影の特長が強調されている。 城砦上を並び歩くオーソン・ウェルズとマイケル・マクラマーの 会話と移動を延々とフォローしてゆくカメラワーク。 あるいは、遠近を強調した極端な縦構図とパンフォーカス。 要所要所での仰角アングルや、人物の表情のクロースアップの効果。 黒い闇に侵食されるウェルズと、白布に象徴される清楚なシュザンヌ・クルーティエとのハイコントラストを強調した光学効果。 あらゆるショットが舞台劇では表現し得ぬ画面効果を目指しており、 映画としての徹底した差別化が目論まれている。 自らのルーツである戯曲へ敬意を払いつつ、それをいかに映画表現するかの苦心の痕跡が全編から窺える。 [DVD(字幕なし「原語」)] 9点(2014-10-29 23:56:06)《改行有》 67. 黒い罠 《ネタバレ》 111分のブルーレイ完全修復版。同仕様のDVDとほぼ同一だがランタイムは5分長い。 再見するとよく解るが、チャールトン・ヘストンのカバンの中の銃だとか、 大柄の杖だとか、モーテルでのうずまき状のスピーカーだとか、 後にキーアイテムとなってくる小道具はいずれもその前段で抜かりなくさりげなく 仄めかされている緻密さに改めて感心する。 (車両爆発直前までを捉えた)冒頭シーンばかりが注目される長回しも、 映画中盤のシーンでいかに効果的に用いられているかがよくわかる。 オーソン・ウェルズらがダイナマイトの証拠捏造を行う屋内シーンだが、 最初の長回しでオフ空間の浴室を移動によってまず映画的アリバイとして見せ、 二度目の長回しでそのオフ空間を観客により意識させてサスペンスを高める という趣向になっている。 冒頭のそればかりが騒がれるのは、観客を映画へ一気に引き込むべき手段としての 派手な移動撮影の突出があるからだが、中盤のそれは複数の俳優の芝居の 緊張を持続させるためのものであり、その意味で観客にカメラを意識させない中で ヘストンとウェルズの関係性の決定的変化を捉えるこちらの地味な長回しも 相当に難度の高いものであり、決して無視されるべきではない。 夜の闇の中、盗聴を移動という動きの中で描写する。 そしてそこに橋梁や油田ポンプの空間構造を 利用して障害を採り入れてサスペンスを醸成する。 やはり映画的センスとしか言い様がない。 [ブルーレイ(字幕なし「原語」)] 9点(2014-10-13 13:23:36)《改行有》 68. オーソン・ウェルズ/イッツ・オール・トゥルー 第一話『ボニート』、第二話『カーニバル』は断片のみだが、 羊の群れや人々を小さく捉えた教会の鐘楼からの俯瞰ショットや 子牛と戯れる少年の表情が瑞々しい。 サンバに興じる群衆の熱狂が力強い。 そして主体となる第三話『4人のいかだ乗り』。 材木運びから、魚籠つくり、カンナ掛けと 、筏作りのプロセスが丹念なショット の積み重ねによって描写される。 RKOの制作中止決定、予算不足によって白黒35mmフィルム撮りであり、 肝心な航海シーンもわずかだが、画像はシャープで鮮やかだ。 幾多の筏が水面を滑るように出帆するシーンも躍動感は満点、海は眩しく輝いている。 カメラに撮されるのは初めてだろう浜辺の女性たちの笑顔も初々しい。 結婚・事故・葬儀・船出のドラマが現地の人々によって演じられるのだが、 台詞は一切なく佇まいと表情と身振り、構図と陰影、若干の効果音と音楽によって 紡がれていく。 それらの映像による語りがことごとく素晴らしい。 とりわけ人々のクロースアップは、芝居を超えて味わい深い。 ウェルズが彼の地と人々とに如何に接し、密な関係作りをしたかの証左である。 ラストは撮影初期に撮られた『カーニバル』のカラー映像だ。 現地ロケ及びセット再現によって撮られたサンバの熱狂は、 色彩の鮮やかさと人々の陽気な笑顔が相乗し、ひたすら美しい。 [DVD(字幕なし「原語」)] 9点(2014-09-07 23:51:17)《改行有》 69. そこのみにて光輝く 浜辺を歩く綾野剛と池脇千鶴。それを手持ちでフォローするカメラの揺れが 二人の心の昂ぶりを静かに、生々しく伝えてくるようで、胸をざわつかせる。 後景で、池脇が意を決して海に入るその波打ち際は立派な「動線」ではないのか。 時に彼らと距離を置き、時に不器用な二人に寄り添うカメラの距離感が程よく、 人物間の心情の交流が画面から滲み出て来る感がある。 綾野、池脇、そして菅田将暉の三人が食堂で談笑するスリーショットの束の間の幸福感。 綾野のベランダに座りこんでの、綾野・菅田のやり取りに滲むエモーション。 これを「座っているだけ」だから動きがないと解する者にとっては、小津作品などは さぞ「退屈」に違いない。 俳優らの芝居のみならず、カメラと対象との距離、構図、配光が見事に 融合している。 薄暗い綾野のアパートの室内に入り込む屋外からのネオン光の点滅。 そのギリギリの光加減の中に身体を重ね合う二人が浮かび上がる様は単に艶かしい というだけではない、深い情感が漲っている。 どこが「暗いだけ」なのか。 ラストの浜辺の眩い朝焼けに浮かび上がる二人の表情の美しさ。 これこそ言葉に代え難い。 [映画館(邦画)] 9点(2014-05-03 22:38:31)《改行有》 70. かぐや姫の物語 子の成長、四季の移ろい、里から都への暮らしの変貌。 その「移りゆき」をモチーフとするアニメーションの素晴らしさは、 かつて高畑勲監督が賞賛したあのフレデリック・バックの『木を植えた男』 からの継承を思わせる。 作中のワンシーンにある、樹々の再生の件などはまさにそれへの オマージュともいえる。 桜の樹の下で舞い踊る娘の喜び、野や山をひた走る娘の激情が迸るクロッキー風の タッチ。 生物の営みそれ自体への慈しみが滲んでいる柔らかなタッチ。 その伸びやかで、味わいのある筆致が創りだす画面の躍動は、 動画であって動画を超えている。 (エンディングのスタッフロールでは馴染みのない様々な作画の役職が並んで 興味深い。) 波やせせらぎの表現の斬新と大胆。木々の影が人物の衣類に落ちて、揺れ動く紋様を創りだす様。機織りや演奏などをはじめとする写実的なアクションと、快活に跳ね回り、飛翔する姫のファンタジックなアニメーションの絶妙なバランス。 題材とのマッチングゆえか、今回はその技巧もそれ自体が目的といった感が無く、 一枚一枚のスケッチの丹念な積み重ねがキャラクターに血を通わせている。 ヒロインを回り込むようなカメラの動き、彼女の寝返り、振り返りなどの動作は スケッチを立体的に浮かび上がらせるだけのものではない。 青い星を振り返る姫の涙が美しい。 [映画館(邦画)] 9点(2013-11-26 23:59:30)《改行有》 71. ボディ・アンド・ソウル オープニングの、屋外練習用リングの俯瞰から 窓際のベッドで魘されるジョン・ガーフィールドへと移るショットの暗く不穏な情緒が 秀逸で、映画後半に時制が戻る際に反復される同一構図のショットでは そこに至るドラマの蓄積も相まって悪夢的イメージがさらに増幅されて印象深い。 リングサイド下からあおり気味に捉えられた実録風のファイトシーンの迫真と、 裏切りを知ったガーフィールドの狂気を帯びた表情が緊張に満ちた見事なモンタージュを象る。 負のスパイラルの中で主人公が葛藤するドラマのラスト、 観客を掻き分けながら駆け寄るヒロインの姿と、二人の後ろ姿のシルエットに 見る者も救われる。 助監督にはアルドリッチ。納得感がある。[DVD(字幕)] 9点(2013-09-16 07:18:49)《改行有》 72. 水の娘 序盤の、運河をゆるやかに渡る艀のショット群の何という瑞々しさか。 船上で料理をするカトリーヌ・エスラン。 その後景を、揺らめく水面と岸部の並木が流れていく。 以降も、さまざまにロケーションを変えて登場する水辺の情景が素晴らしい。 燃え盛る炎や流れる水、風に揺れる木々のみならず、 アヒルや犬や白馬など、動物たちのアドリブを活かした画面がまさに 伸びやかで生きた瞬間瞬間を掬い取る。 中盤のトリック撮影の奔放で自由なイメージの何と力強いことか。 白馬の疾走と共に、凸面鏡に反映させた木々が荒々しいスピード感で流れていく。 飛翔し、落下する娘の白い衣装がスローモーションによって官能的にはためく。 随所に挿入される縦移動のショットも、いかにもルノワールだ。 実質的な処女作だけに、原初的な衝動といったものがあらゆるショットに横溢している 。 [DVD(字幕なし「原語」)] 9点(2013-08-31 23:59:35)《改行有》 73. 言の葉の庭 雨滴の一粒一粒、枝葉の一枚一枚まで疎かにしない、 眼を奪う細密の画面は大スクリーンにこそふさわしい。 鮮烈なグリーンのグラデーション、潤いを湛えた水面の光の揺れと滲みは、 リアルを超える。 そしてキーライトの当たる逆側に薄緑の淡い影を配したキャラクター像の斬新さ。 トレスラインを含め、約4色を使った立体的な色使いが独特の味わいであり、画期的だ。 その自然光への意欲的なこだわりは天晴れの一語。 朝陽が差し込むベッド上に漂う羽毛の粒子の表現など、そこまで拘るかと恐れ入る。 時に静かに、時に激しく、男女の感情の揺れを様々な雨の情景が代弁する。 雷光の一閃から激しい夕立へ。そして晴れやかな夕陽へ。 その時間の推移描写とエモーションの昂ぶりが素晴らしい。 [映画館(邦画)] 9点(2013-06-01 22:54:26)《改行有》 74. さまよう心臓 シンプルにしてスリリングな力に満ちた労作である。 パペットの衣類の質感やアニメーション技術の細やかさもさることながら、 仰角と俯瞰のキャメラアングル・照明効果による陰影のつけ方の見事さが光る。 壁や階段やドアなど、何気なくありふれた空間をいかに禍々しく演出するか。 そうした異世界の画面づくりに払われた真摯な努力こそが胸を打つ。 炎のスペクタクルの中、『ターミネーター』のワンシーンのように 人形の首がポロッともげるカットの不気味な生々しさ・凶々しさ。 本作を第三回下北沢映画祭グランプリに推した黒沢清監督もまたやはり このカットに「やられた。」と語っている。 全てが作り手によって制御されているかに見えるパペットアニメーションの中で、 炎や煙といった制御不能な運動がクライマックスの画面を覆うと共に、 その首が転がる運動が、監督すら予期しなかっただろう独特で生々しい一瞬間を 捉えているからに相違ない。 作り手にとっても不測の事象が生起する瞬間の、映画の美である。 秦俊子監督は、本作品の中で説明や根拠付け・動機付けを一切排除し、 無意味・無心理に徹すること、そして純粋に恐怖のエモーションを 創出することのみに賭けている。 「映画が単純に映画であること」その潔さと倫理性。 かつて黒沢監督の『地獄の警備員』を評した上野昂志氏の賛辞を思い起こす。 [映画館(邦画)] 9点(2013-04-29 06:53:41)《改行有》 75. リリオム 《ネタバレ》 自殺者として天国で裁きを受けるリリオム(シャルル・ボワイエ)。 彼が生前に妻ジュリー(マドレーヌ・オズレ―)を殴ったときの記録映像が 証拠として映し出される。 ドイツから亡命したフリッツ・ラングがフランスで撮ったファンタジー作品で、 表現主義的要素などは希薄だが、劇中のシーンが証拠映像として用いられるといった 趣向が「裁き」の主題系と共に渡米後の作品との繋がりも感じさせて面白い。 回転木馬上で出会う二人の、花一輪を巡る手のやりとりから、 リリオムがナイフを自分の胸に突き刺した瞬間、自分の胸に手をやるジュリーの手の動き、 そして運び込まれた瀕死の彼の手を優しく撫でる彼女の手の動きと、 相手への想いを語る手のアクションが全編通じてとても豊かだ。 ルノワ―ルが担当した音楽は、遊園地での陽気な歌の部分だろうか。 仲間だったリリオムの死を悼んで、その遊園地の面々が黙祷を捧げる静かなシーンや、 死んだ彼が夜空を昇天していく幻想的な特撮シーン、 ラストの二人の表情も美しい。 [CS・衛星(字幕)] 9点(2012-09-24 05:38:32)《改行有》 76. 帽子箱を持った少女 《ネタバレ》 娘ナターシャ(アンナ・ステン)と青年イリヤ(イワン・コワル=サムボルスキー)の 出会いと再会のシーンを始めとして、画面にたびたび登場する「両足」が 一つの主題と云っていい。 足や長靴そのものは勿論、凍った架橋で何度も滑って転ぶギャグや、 テーブル下での駆け引き、雪原の白い地平線を歩む登場人物など、 足を使ったアクションの充実もそうした印象を強化する。 人物の表情のアップとスラップスティックのロングショットの使い分けも メリハリが利いている。 その中で、奥行きを駆使した二人のラブシーンの画が印象深い。 ソファに座った二人を、奥にナターシャ、手前にイリヤの横顔を配して構図を決める。 当初は偽装結婚だったが今は本当に結婚したいと告白する彼女と、 周囲から賞金目当てととられるためそれは受けられないと固辞する青年。 その対話が、手前と奥それぞれフォーカスを変えた同一構図でショットが反復される。 現在なら1ショットのうちに簡単にピントを送れば済むところを、 当時の浅い焦点距離の限界のなかで手間をかけてフォーカスを調整し 奥行きを作りだそうと健闘しているのが良く伝わる。 現在の特権的な立場から見れば、ぎこちない繋ぎに見えてしまうだろうが、 そこには二人のすれ違う想いが画面として強く表現されているゆえに感動的だ。 映画のラスト近く、ナターシャが間違って自分の指を針で刺してしまうと、 イリヤはその指を口に含む。 すると彼女は次にわざと自分の唇を針で刺して、 彼に一歩二歩とすり寄りながらキスをせがむ。 その彼女のお転婆な歩みの動作がとてもキュートで可愛らしい。 そしてラスト、想い叶ってキスし合う二人のツーショットが幸福感一杯だ。[DVD(字幕なし「原語」)] 9点(2012-06-20 21:46:24)《改行有》 77. イースター・パレード ステッキを華麗に操るフレッド・アステアのスローモーションの素晴らしさ。 続いてそれを舞台袖で見つめるジュディ・ガーランドのショットが挿入されることで、 そのスローモーションは彼女の見た目のショットであった事に観客は気づかされる。 そこで単に妙技と躍動を披露する映像だったものは、 彼女の思い入れを伴った情景へと昇華する。 それは終盤のアステアとアン・ミラーのダンスも同様だ。 二人のダンスをテーブル席から一人見詰めるガーランドの姿が二度挿入されることによって、 その優美なダンスはそれ以上のものとして彼女の視線に倣った感情をもかきたてる。 映画の中でガーランドのダンスシーンは決して多くはないものの、 ダンスを見つめる視線という卓抜の仕掛けによって、 彼女は映画の感情を担うヒロイン足り得ている。 通行人を振り返らせようとする彼女のヒョットコ顔が楽しく、 ドア越しに拗ねる彼女の仕草がいじらしい。 暖炉わきのピアノを弾き、歌いながら愛情を確認するアステアとガーランド。 二人の視線のドラマと、彼らに緩やかに寄り添いながら背景の暖炉の炎を二人に 一体化させていくカメラワーク、彼女の纏う淡いピンクのドレスの色彩、 そして「It Only Happens When I Dance With You」 が集約され、 絶品のラブシーンだ。 [ビデオ(字幕)] 9点(2012-06-13 23:46:49)《改行有》 78. 幸せへのキセキ 人間と人間。動物と人間。 それぞれが物云わず見つめ合う交感シーンでの繊細な眼の表情が、 最後のシークエンスに至るまでことごとく素晴らしい。 虎やグリズリーなどの動物たちだけでなく、不動産のセールスマンや検査官や レジの女性など、端役一人一人に至るまでの目配せも実に丁寧だ。 また、巧みなのは印象的な台詞の反復だけではない。 窓ガラス越しに出会うこと。相手に眼差しを返すこと。陽の光を浴びること。 そうした視覚的主題の反復もまた重なり合って、 マット・デイモンとスカーレット・ヨハンソンの表情の切り返し、 エル・ファニングとコリン・フォードの表情の切り返しをより美しいものにしている。 キャメロン・クロウの選曲自体も相変わらず良いのだが、 夜の動物や虫たちの声を静かな背景音として聴かすべき三箇所で 音楽を被せてしまっているのが残念なところ。 引越し前の賑やかな夜との対比は利かせて欲しかった。 [映画館(字幕)] 9点(2012-06-11 21:44:19)《改行有》 79. テルマエ・ロマエ シネマスコープを効果的に使った、1960年前後の史劇大作風のオープニングでケレンを 利かすかと思えば、一方では矢口史靖的な人形を使ったチープなギャグも軽妙に演出してみせる。 コメディとロマンスも程よく織り交ぜ、スペクタクル・ご当地性・スター性と 雑多ジャンルを混成したシネコン映画的な要請にも器用に沿いながら、 寄り引き巧みな視点や構図、的確なカッティング・イン・アクションといった 安定した技術を土台に、ウェルメイドを達成する。 そしてその上で、独自の演出による細部細部を立ち上げ、自分の作品としている。 そのしたたかさこそ素晴らしい。 湯けむりや炎、水面の光の反射、群衆など、不定形素材の動的細部が映画的であるのは云うまでもないが、 とりわけ浴場の松明、蝋燭の灯り、焚火、窓から入る黄昏の太陽光など、特に夜の場面の炎がことごとく見事だ。 その「燃える炎」は、阿部寛が決死の直訴をする際の秀逸な音の演出として、 そして別離のシーンでの、瞳への照り返しの演出として、 物語の進行に伴い次第に意味を帯びるものとしていくのは作家の手際だ。 雨の降る中、悄然と階段に腰掛ける阿部寛の向こうにソフトフォーカスで捉えられた上 戸彩。手前に歩み寄ってくる彼女に凡庸にピントを合わせてしまうかと思いきや、 それを自制したショットの嬉しい裏切り。 この時点では一方向的な二人の関係性を示す事に専心する、そのまっとうな矜持が光る。 [映画館(邦画)] 9点(2012-06-07 21:28:13)《改行有》 80. 猿人ジョー・ヤング 《ネタバレ》 先の悲劇的な『キングコング』に比べて、人間性に対する信頼が強まっている感が強いのは、ジョン・フォードも製作に名を連ねている関係か。 飼い主であるヒロイン(テリー・ヤング)は勿論、その恋人となるベン・ジョンソン、興行主(ロバート・アームストロング)らも協力して、主人公のゴリラ:ジョーをアフリカへと帰すべく一致団結して手助けする姿が感動的だ。 テリー・ヤングの可憐さ、ロバート・アームストロングのユーモアも利いており、 ジョーの仕草の愛嬌と共に作品にヒューマ二スティックで爽やかな後味を与えている。 オブライエン&ハリーハウゼンの特撮と、人間や馬やライオンのライブアクションとの絶妙なシンクロが素晴らしいのは云うまでもなく、後半の逃走劇のアイデアとサスペンス、そして赤い着色フィルムによる孤児院の大火災のスペクタクルもまた圧巻だ。 ラストのフィルムレターも幸せ一杯、ほのぼのとした大団円になっている。 [DVD(字幕)] 9点(2012-06-03 23:59:50)《改行有》
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