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onomichiさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 407
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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21.  ツリー・オブ・ライフ 《ネタバレ》 
生きていくということ。生命の系譜について。その大切なことの全てがこの映画には詰まっている。創世から神の国に至る道筋を個人の意識(記憶)を含めたイメージとして映像化し得たこと。素晴らしいと感じた。これまでに経験したことのない種類の感動が確かにあった。旧約の世界。創世から人類の誕生。生命の樹。楽園からの追放。カインとアベル。ヨブの物語。そしてイエスの愛。それは、キリスト教世界のエッセンス、歴史を辿るイメージであると共に、現実的な主人公の家族を巡る物語に重なる。壮大且つちっぽけな物語。  "There are two ways through life. The way of nature and the way of grace. You have to choose which one you will follow."  映画の冒頭で語られる言葉であり、一見この映画の主題そのものを言い当てているように思える。「世俗に染まるか、神に委ねるか」と訳されていたが、意味合いとして、世俗とnatureは少し違うような気もするけど、natureとgraceがキリスト教世界における対概念であることは確かである。しかし、この映画から僕が受けた印象は、その対立ではなく、融合。対立を含む一体化である。映像によって一体化されるnatureとgrace。それは地球と生命の歴史を含んだ旧約から新約に至るキリスト教的な世界の系譜そのものであり、イエスの愛に至る道筋そのものであり、同時にそれは個人の歴史に重なり合う。その物語、その映像。究極にエッセンシャルな物語。だからこそ、この映画はすごい。  National Geographic的な映像の美しさがこの映画の特徴でもある。その中に恐竜のCGが挿入されていて、最初は??と思ったが、あの映像こそ、この映画の主題そのものに通じていたのだと今にして思う。それは、兄弟や父子の確執が途中決定的な亀裂を垣間見せながら、最終的に和解へと至る道筋を示唆していたと言えないだろうか。そういう伏線も感動的である。  この作品は、確かにこれまでの映画という概念を易々と超えている。映画を評価する客観的な従来型の指標があるとして、それには到底当てはまらないし、自らの知識と理解を超えた内容に対して「これは酷い」と思わずつぶやいてしまう気持ちも分からないではない。しかし、それはすごく勿体ないことだ。この映画が誘う世界、想像力が導く世界は、新しいイコンである。僕は、この作品をもう一度観たいと思った。
[映画館(字幕)] 10点(2011-08-16 08:42:09)(良:1票)
22.  ブラック・スワン 《ネタバレ》 
『ブラック・スワン』は、ナタリー・ポートマン演じるバレリーナの自己自身をめぐる物語である、という解釈はその通りだと思う。さらに言えば、この物語は、彼女の自己分析的な記憶そのものである。彼女が精神科医への告白の中で紡ぎだした彼女自身の経験と妄想の交錯した記憶こそが、『ブラック・スワン』の物語である、と僕は思う。  映画は、いくつかの視点によって物語を追う。ある時、それは彼女自身の視点として、そして、ある時、それは彼女の背後からの視点として彼女自身を含めた風景の中で捉えられる。演出家のトマも、ライバルとなるリリーも、彼女の記憶により、その性格を改変させられている。   映画とは「他者の視線から見られた世界の風景」である。だが、それはいったい「誰の視線」から見た風景なのだろう。(内田樹『映画の構造分析』)  『ブラック・スワン』の場合、それは彼女自身の視覚記憶に基づく視線であり、風景であり、物語である。それが映像の意味を決定している。私は、私の記憶(脳)によって完璧に騙される。彼女は、最後にPerfectと呟くが、ホワイト・スワンたる彼女が最後の最後でブラック・スワンに変身し、彼女の中の善と悪、可憐さと妖艶さ、超自我とエス、エロスとタナトスが融合することで得られた恍惚こそが彼女にとってのPerfectだったのだと思う。  最後のバレエシーン。彼女は、ホワイト・スワンの演技で決定的な失敗を犯し、ここで挫折してしまうのかと思いきや、楽屋でリリー(の幻想)を殺戮することにより、衝動的にブラック・スワンそのものに変身する。リリー(の幻想)を殺戮することで得たものは何か? 解放したものは何か?  彼女が求めたものは「美しさ」である。バレエとは、常に自分自身を鏡で映すことで紡ぎだされる肉体運動の美しさであり、自己規律訓練的、反自然的な「美しさ」への自己希求であり、その希求は、結局のところ、他者の承認を求めざるを得ない飽くなき欲望となる。それが彼女自身の変身願望に繋がる幼少時代からの無意識の抑圧であり、妄想の源泉だった。彼女がホワイト・スワンとして死を迎える時に彼女の視線が捉えるのは彼女の母親の姿である。母親の喜ぶ顔を瞼に浮かべながら、その承認を得て、彼女はPerfectと呟くのである。
[映画館(字幕)] 10点(2011-05-31 22:27:36)(良:4票)
23.  旅立ちの時 《ネタバレ》 
『旅立ちの時』の最大の魅力は、リバー・フェニックスその人に尽きると思います。リバーの演技、特に彼の切ない表情がたまりません。 彼と彼女(マーサ・プリンプトン)の出会いのシーン、何気ない散歩のシーン、初めてのキスシーン、自分の思いを告白するシーンなど、それは全て青春のオンパレードとなります。また、マーサ・プリンプトンがとても魅力的で、自分の愛情に正直な振る舞い、彼を一途に思う気持ちが胸を打ちます。それに対し、両親世代には自分たちの生き方に対するほろ苦さがあり、彼ら自身の親との断絶も描かれて、リバーの境遇を通して繰り返される家族の悲劇が僕らの胸を締め付けます。  リバーはとても従順な男の子で、決して両親に逆らわないのですが、そこには彼なりの葛藤があります。熱い気持ちと諦念が同時にあり、それはもどかしくも彼の中で静かに流れていきます。その描かれ方は、反抗の60-70年代とは違うし、現代的な無根拠で等価交換的な若者の振る舞いとも違います。ある意味で、リバーの姿こそ、僕らの世代(80年代をティーンエイジャーとして過ごした世代)の象徴のような気がして、なんとなく心置けない気持ちになるのです。  この家族は、反体制派であり、反社会的な存在の最たるものなのですが、その中にも「愛」があり、そして今や失われた「青春」があります。そして、大人になるということ。その道筋がしっかりと示され、達成されている。実は、とても真っ当な家族の姿だと僕には思えます。
[DVD(字幕)] 10点(2011-05-31 22:21:33)(良:1票)
24.  狼たちの午後 《ネタバレ》 
シドニー・ルメットは「正義」を希求した社会派監督であると共に、社会生活の中で打ちのめされた人々のカッコ悪い生き様や、反社会的な行為に引きずられながらもそのようにしか生きられなかった人々のヒーローでもアンチヒーローでもない有り様を執拗に描く監督です。『狼たちの午後』はその代表作と言えるでしょう。この作品のアル・パチーノは銀行強盗を犯し、マスコミから反社会的な象徴に祭り上げられるアンチヒーローでありながら、はっきり言ってあまりカッコよくない。銀行強盗を題材にした緊迫感溢れる心理劇か、バイオレンスアクションか、あるいは、アル・パチーノにゴッド・ファーザーばりの冷徹な役回りを期待すると完全に肩透かしを食います。邦題の過剰さがそのようなイメージを無駄に喚起させるのも罪作りと言えます。  シドニー・ルメットは、銀行強盗という非日常的光景の中にも人間的なためらいや怖れ、怯え、恥ずかしさなど、社会との関係性によってくるくると変わる犯人たちの達成感や挫折感を描きます。自分が社会の中でどう見られているのか、その視線を常に意識し、錯覚し、観念する。それは、ほとんどコメディのようです。役者としてはまさに「狼たち」とも言えるゴッドファーザーのコンビ、アル・パチーノとジョン・カザールがコミカルな犯人役を大仰に演じるという違和感にこそ、この映画の面白さがあるのだと僕は思います。
[ビデオ(字幕)] 10点(2011-05-31 22:14:38)(良:1票)
25.  評決 《ネタバレ》 
『評決』は『十二人の怒れる男』と地続きの作品といえます。同じ法廷劇ながら、『評決』にはクライマックスとなる陪審員の採決結果に至る過程が一切描かれず、『十二人の怒れる男』は逆に陪審員たちの審議のシーンのみに終始します。『評決』での陪審員の採決は、それまでの法廷での趨勢(原告側の圧倒的不利)を逆転するもので、ほとんど合理的な裁判の過程を無視した結論とも言えます。そこに貫いているのは「正義」の観念です。アメリカ的な「正義」は、ある意味で「法」を超越します。ポール・ニューマン演じる弁護士が最終弁論で陪審員に対し「法」を超えた「正義」への信を訴えます。証拠だけを見れば原告側の圧倒的不利なのですが、陪審員の採決は、見事にそれ(「法」より「正義」)に答えた形になっているわけです。実にアメリカ的ですね。(これはルメット監督の信念なのでしょう) ポール・ニューマンも調査の過程で正義(という信念)の為なら簡単に法を犯します。正義が絶対なものとしてある、絶対的な神に対峙した個人として、常に「正義」を反芻し、反省する宗教的・倫理的な国民性がある、絶対的な個人としてあるが故の西洋的な「正義」がベースなのです。そういった文化がない(絶対も個人もない)日本人には理解しがたい観念でしょうね。
[DVD(字幕)] 8点(2011-05-31 22:10:09)(良:2票)
26.  シャーロック・ホームズ(2009) 《ネタバレ》 
小さい頃、シャーロック・ホームズと言えば、両つば帽子にフロックコート、又はシルクハットにタキシードを身に着け、スマートでパリッとした外見に、常にパイプを咥えている壮年の紳士というようなイメージを持っていた。おそらく、それは小学校の頃によく読んだ『シャーロック・ホームズの冒険』の抄訳版の挿絵や英国のドラマからの影響だと思う。 その後、ホームズの長編モノ『緋色の研究』や『四つの署名』、『バスカヴィル家の犬』を読んでみると、そのイメージが全然違うということに気が付く。まず、先に挙げた小説のホームズは若い。未だ世間に名の知れない自称探偵の若造でしかない。紳士というよりも外見的には少しだらしない研究者然とした感じで、それでいてボクシングの元ランカーなので体格がよく、背が高い。性格的には極端に意地っ張りで、子供っぽく、かなり偏狂的。重度のジャンキーでもある。 実は小説に描写されているホームズとワトソンのイメージでみれば、映画『シャーロック・ホームズ』の主役2人はわりと原作に近いのではないかと思える。難を言えば、ロバート・ダウニー・Jr、ちょっと背が低いことか。。 ホームズの長編モノって実は推理小説というよりも冒険小説、アクション小説と言っていいものだと僕は思う。小説の最大の見せ場は、探偵による推理の披露よりも、手に汗握る犯人追跡劇だったりして、だから、この映画のあり方は何ら間違っていない。  映画で描かれる19世紀末のロンドンの雰囲気がよかった。古き良き時代末期のロンドン。これから20年も経つと車の登場でロンドンはガラッと変わる。その古き良きロンドンを舞台にしたアクションヒーローたるシャーロック・ホームズのスタイリッシュな冒険譚。そういう映画として僕はとても楽しめた。
[映画館(字幕)] 9点(2011-01-17 22:14:27)(良:2票)
27.  バーレスク 《ネタバレ》 
近年公開された現代風のミュージカル映画といえば、『シカゴ』や『ドリーム・ガールズ』、『ムーラン・ルージュ』などが思い浮ぶ。映画とミュージカルがうまく融合していて、それぞれに良く出来た作品である。特に、歌や踊りで登場人物達の心情を表現することで、通常唐突に思えるようなミュージカルシーンを場面展開の流れによくフィットさせ、ミュージカルだからこその深みや面白さを映画に取り入れることに成功していたと思う。 それに比べてしまえば、『バーレスク』は、とてもミュージカル映画と言えるようなシロモノではないように思える。まぁそういう路線を狙っているのではないのかもしれないけど、唯一、シェールがソロで歌うシーンのみ、前述の作品に比肩するミュージカルっぽさがあったかなと。  僕は、クリスティーナ・アギレラというシンガーをよく知らなかった。『シャイン・ア・ライト』でミック・ジャガーと一緒に歌っていた女の子、と言われれば、ああそうかと思う程度。確かに歌は上手いし、可愛らしいとも思うけど、映画としてみれば、ただそれだけのものとも思える。  凡庸な恋愛映画のフォーマットにクリスティーナ・アギレラとシェールを中心にした歌と踊りのステージを盛り込んだ作品。もし、そのプラス・アルファが作品としてのサムシング・エルスとなっていれば話は別だけど、実際のところ、この映画は、ストーリーの凡庸さに引きずられて、ステージシーンの良さが映画として生かしきれていない。最終的に映画として胸をつくような感動がない。それがこの映画の全てと言ってしまえばそれまでか。。。
[映画館(字幕)] 7点(2011-01-17 22:13:00)
28.  スプラッシュ 《ネタバレ》 
久々に観てみれば、なかなか面白い。 トム・ハンクスは若くて精悍だし、ダリル・ハンナはキュートでピュアでセクシーで、人魚役にぴったり。ジョン・キャンディは、途中までハンクスの兄とは気が付かなかったけど、とにかく笑わせてくれるし、最後はいい味を出していた。海洋学者役のユージン・レヴィもいい人で良かった。 この4人の配役だけで、この映画にはストーリー以上のサムシング・エルスがあったと思う。ストーリーにも密やかな奥行(なぜ6日間なのかとか、なぜ一緒になったらもう地上の生活に戻れないのかとか)があって、僕は想像力を掻き立てられてけっこう楽しめた。  そうそう、最後にトム・ハンクスが海に飛び込むシーン。愛のために、ダリル・ハンナのために、全てをなげうって、人魚に手を引かれて竜宮城へ。なんとも80年代らしい無茶苦茶で無責任な展開だけど、実はそれがこの映画に一番惹かれるところなのかもしれない。
[DVD(字幕)] 9点(2011-01-17 22:11:13)(良:1票)
29.  インセプション 《ネタバレ》 
2010年公開の映画の中で私的No.1だった作品。 この映画のコンセプトのひとつが、いわゆる夢の世界の映像化である。そこで描かれる夢は、一見して現実と区別がつかないが、何かのきっかけで破綻し、崩れていく世界。そういう夢を人工的に作り出すというアイディアは特に新しいものではない(『クラインの壺』とかがある)けど、そこで作り出される夢が、夢の中の夢という括りにより何層にも積み重ねられるという構成(これまでは並列的世界が多かったと思うけど、これは階層的)と、それを「設計」するという発想は面白いと思った。  人間の意識について、ホーキング博士はこう言っている。「人間くらいの大きさのエイリアンであれば、1兆の1000兆倍もの粒子を含んでいるので、たとえエイリアンがロボットであったとしても、方程式を解いて、その行動を予言することは不可能でしょう」  これはロボットにも自由意志が持てる可能性があることの言説だが、その前提として、意識は人工的に創出可能で、その拡散度合にはほぼ無限の(人間が推算できる以上の)可能性があることを示している。夢や仮想現実の世界も、宇宙と同じように量子論的探究が可能な世界であり、そこに様々な想像を加えることで実際的なサイエンスフィクションの対象となりえるのである。(夢だからといって何でもアリというわけにはいかないでしょう)  仮想現実を扱った映画といえば『マトリックス』がある。これはシミュラークル的な奇想から発展した荒唐無稽なSF的映画だと僕は思うが、本来、理論的位置づけがそこはかとなくあって、主題が現代思想的にも有意で、なおかつ人間的に必然な要素(恋愛とか利己とか家族愛とか)が絡んでいて、とにかく面白い、というのがSF作品に僕らが求めるところではないだろうか。  そういう意味で、『インセプション』は、SF映画として、想像力を刺激される印象的な作品だと僕は思っている。
[映画館(字幕)] 10点(2011-01-17 22:10:16)
30.  アニー・ホール 《ネタバレ》 
20歳の頃に観た時は正直言ってその面白さが全く分からなかった。 でも、40歳を超えた今は分かる。身に沁みて分かる。じんわりとその良さが分かる。  ダイアン・キートンが夜中に電話を掛けて、ウディ・アレンを緊急に呼び出す。「バスルームに蜘蛛が、、、」テニスラケットで蜘蛛と格闘する場面に続き、寂しさに、人恋しさに泣き出すダイアン・キートンを慰めるウディ・アレン。 寂しさに悶えながらも、恋は冷め、愛は終わる。何故だろう。あんなに好きだったのに。そして、別れがあり、後悔する。あんなに楽しかったのに。どうしてだろう。  ウディ・アレン映画を観ると、別れることも人生には必要だと思ったりする。それも自然なことと思えば。。。
[DVD(字幕)] 10点(2010-06-13 21:07:58)
31.  ハンナとその姉妹 《ネタバレ》 
『ハンナとその姉妹』は、ウディ・アレンの集大成的な映画だと思う。彼の哲学が詰まった作品。これまでのウディ中心の恋愛劇から群像的な方向が打ち出され、以後のスタイルの原型ともなった作品。各人の会話と心理描写が錯綜し、演者の表情や背景/風景が物語に奥行きを与えている。話は、ウディ特有の惚れたの腫れたのという単純な恋愛劇なのだけど、それと並行して、彼自身の生来の問題意識でもある「SEXと死」というテーマが扱われている。ウディ演じるテレビのディレクターが「死」という観念に囚われ、仕事を辞め、宗教に嵌り、最後にそれを乗り越えていく様子とマイケル・ケイン達のプリミティブな恋愛ゲームとの対比の中で、何故ウディ・アレンが映画の中でそこまで恋愛に拘るのかがじんわりと分かってくるのである。  ウディ・アレンは、恋愛をその出会いから成就までという従来のサイクルでは考えない。彼はその終わりと終わりからの始まりを描くことで恋愛の本質、「今、この瞬間の思いを大切にすること」を表現する。「今、現在」は過去の思い出や未来の不安の断片を常に含む、思いがけず、また思い込むことで連続していく様々な瞬間の蓄積としてある。他人同士が分かりあい、そしてすれ違い、我慢し合い、深く知り合う。恋愛がそういう蓄積としてあるならば、それは常に波のように揺れ動くものであり、ある振幅で瞬間的に壊れる可能性もある。あらゆる瞬間の可能性の中で人生という喜悲劇があり、恋愛というものがある。人生という波を微分的に捉え、そこに本質を見出し、それを味わうこと。そういう意志を自然のものとして感じる。  ウディ・アレン映画は、その総体、ひとつのシリーズとして評価することができる。こんな作家は今では他にいないだろう。『アニー・ホール』があり、『マンハッタン』があり、『ハンナとその姉妹』があり、『夫たち妻たち』があり、『重罪と軽罪』があり、『世界中がアイ・ラブ・ユー』があり、、、ウディ・アレンは年をとる毎に彼の「今、現在」を撮り続けることによって人生を表現していると言えよう。
[映画館(邦画)] 10点(2010-06-13 21:06:30)
32.  ある日どこかで 《ネタバレ》 
ジェーン・シーモアが美しく、クリストファー・リーヴが颯爽としている。そして儚い。1980年のラブストーリー。 『ある日どこかで』”Somewhere in Time”は、恋愛のカルト映画と呼ばれ、熱狂的なファンもいるらしい。確かにストーリーは奥行きに乏しく、プロットは破錠している。けど、惹きつけられる。それも確かだ。  冒頭、1972年、年老いたエリーズが若きリチャード・コリアーの前に現れ、”Come back to me”と囁く。その夜、彼の処女作の脚本を胸に抱き、ラフマニノフ『パガニーニのラプソディー』を聴きながら、グランド・ホテルの一室で彼女は静かに息を引き取る。 数年後、リチャードが偶然に立ち寄ったグランド・ホテルで若きエリーズの写真を見つけ、彼女に惹きつけられる。68年前の写真の彼女に恋をする。彼はタイムトラベルの末、1912年のグランド・ホテルで公演中の女優エリーズに会う。リチャードとエリーズの湖畔での邂逅。近づくリチャードの姿にエリーズが思わず呟く。”Is it you?” この一言が運命だった。  全ては彼の一夜の幻想だった、、、と言ってもいいし、1980年時点において、彼の衰弱死は単なる虚妄と錯乱の結末でしかない。 しかし、だからこそ、僕らはこの物語に惹きつけられるのではないだろうか。ただひたすらに彼女の美しさに惹かれたリチャードのように。それを受け止めたエリーズのように。その幻想を美しき物語に。
[インターネット(字幕)] 8点(2010-04-03 09:28:06)(良:1票)
33.  アバター(2009)
表現されている以上の世界が設定としてその背景に隠れている、というのは、『機動戦士ガンダム』の「一年戦争」に代表される(戦史としての)メタ物語の典型であり、仮想現実的なキャラクター世界の手法そのものである。『アバター』も同じで、それが多くの人に今熱狂されている「世界観」というものだと思うけど、僕にはそれが模造的であるが故に映像としてもアカル過ぎて、陰影を感じない。全てが計算された「世界観」の一角のみを映像で示してみせる。それが設定としても映像としてもあまりにも「浅い」と感じるのは何故だろう。おそらくそれが自然ではない、人工の模造的映像の限界であり、設定そのものがデータベースからの類型としての演繹に過ぎないからなのだろう。そこに自然という驚きや想像力を超えた迫力が無いというのは、全てが所詮は数値変換の産物に過ぎないということが透けて見えるからなのだろう。 今後、こういったCGを駆使した新しい映像表現はどんどん進化していくに違いない。しかし、それはどうにもアカルすぎるのだ。(僕らのミライと同じで)  「明瞭な色分けは、それこそ仮想世界にのみ可能なのだ。現実は単純ではない。多層的で多面的だ。曖昧で不可分だ。ちょうど今日の天気のように。晴れでもないが雨でもない。曇りかと思えば日が差し込む。この曖昧さは、人の営みの実相でもあるはずだ」-森達也『東京番外地』-  上記は、正常な精神と「精神病」との間の差異についての森達也の言説である。 あえて言えば、『アバター』は精神的に正常にすぎる、そういう映像に思える。だから退屈なのだ。  と、ここまで書いて、僕が『アバター』を退屈だと思うのは、TVゲームを全くやらないからかもしれないと思った。ゲーム空間がこれまでどのように進化してきて、全面CGの『アバター』がどれほど凄いのか、歴史的にも技術的にもいまいちよく分からないのである。あしからず。 
[映画館(字幕)] 7点(2010-03-05 00:37:03)(良:1票)
34.  マイケル・ジャクソン/THIS IS IT
即席で作られたにしては、よく出来ていると思います。画面を躍動するマイケルも既にこの世にはいないことを想うと、その事実だけでこの作品にも意義があると言えるでしょう。彼の叶わなかった夢のステージの断片として、この作品は優れたドキュメンタリーだと思えます。 リハーサルのみの映像ですが、僕らはマイケルが今でも一流のエンターテイナーであったことを、今までもずっとそう在り続けていたであろうことを改めて認識できたのではないでしょうか。だからこそ、'This Is It' は、彼の最後のコマーシャル作品として商業的にも成功してほしいし、彼にとってエンターテイナーとしての最後の証であってもいいのだと思います。細かい構成の云々よりも、死の直前にして、50歳にして、僕らを感動させるマイケル・ジャクソンの生き様を感じられたこと、それは彼の歌であり、ダンスであり、ステージングであり、彼の躍動であったことを、、僕は素直に称えたいと思います。 余談ですが、僕は『スリラー』ドンピシャのアラフォー世代ですけど、当時、スーパースターだったマイケル・ジャクソンのことを実はあまり好きではありませんでした。それはおそらく彼の姿が必要以上に煌びやかで、あまりにも作り込まれた「虚像」という印象が強かったからだと思います。しかし、スーパースターというのはそもそも作られるものですし、幻想です。それはまたマスイメージ故に簡単に覆るものです。ここ10年程の不遇の時代を経て、マイケル・ジャクソンという幻想はすっかり地に落ちたと思われました。しかし、彼は天才でした。彼の天才は、彼を取り巻くあらゆる負のイメージを超えて、彼を一流のエンターテイナーと誰もが認めるに十分なタレントだったのです。この作品はそのことをよく伝えます。それだけでもマイケルにとって大きな意義と価値のある作品なのだと僕は思います。そして、様々なことを抱え、乗り越え、失い、それでも昔と全く変わらない「愛と平和」を歌うマイケルのことを今では素直に尊敬します。ピース。 
[映画館(字幕)] 8点(2009-11-01 22:25:16)(良:1票)
35.  日の名残り 《ネタバレ》 
思慕の熱情は徹底的に抑えられるが、微かな戸惑いの表情と動作に現れるズレが彼の心情を切実なものとして僕らに伝える。映像は彼のモノローグを確かに映す。それは、生きるということに付きまとう様々な心情の物語であり、ラブストーリーである。 彼は自らの役割に生き、その忠実さによって生の充実を得てきた。そこに差し挟まれる仄かな疑義。戸惑い、躊躇しつつ、それでも愚鈍に役割を演じることを選ぶ。それは何という諦念であり、決意なのだろう。沈黙の中に様々な心情を映す。これこそが真のヒューマニティなのだと僕は言いたい。 物足りる作品は、想像力を掻き立てない。物足りない作品こそ、僕らの想像力によって補われ、僕らの為の作品となる。 『日の名残り』が最上のドラマであることは改めて言うまでもない。良質の映画というものは、その良質さ故に、結局のところ、分かる人にしか分からないものなのだろう。
[DVD(字幕)] 10点(2009-09-21 08:24:28)(良:2票)
36.  愛を読むひと 《ネタバレ》 
ケイト・ウィンスレットの演技に脱帽。原作のハンナのイメージそのままに、物語る身体を忠実に再現してみせる。出来れば、原語であるドイツ語の台詞だったらどんなにか良かっただろう。(あと、タイトルは何故『朗読者』でなかったのだろう?) この物語は、そして彼女の演技は、語られないハンナの生き様を否応なく想像させる。少年と同じように、僕らは強く惹きつけられる。 ハンナの立ち姿とその因果を見るにつけ、悪とは?善とは何だろう?ということを深く思う。『1Q84』ではないけれど、この世の中に絶対的な悪がないように、絶対的な善もない。善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。 ハンナは親衛隊であり、ユダヤ人収容所の看守だったことが大罪であった。戦後20年が過ぎ、彼女はナチ狩りの裁判によって断罪される。戦後20年の視点により、同じドイツ国民の名において、戦時の彼女が断罪されるのである。しかし、彼女が罪を認めたのは、「文盲」であり、そのことを自らに恥じていたからだった。彼女には物事の「ほんとう」を知るすべがなかった。そういう意味でこそ、彼女は真の悪人だったのだろう。  善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。 – 『歎異抄』第3章  悪人  衆生は、末法に生きる凡夫であり、仏の視点によれば「善悪」の判断すらできない、根源的な「悪人」であると捉える。  阿弥陀仏の大悲に照らされた時、すなわち真実に目覚させられた時に、自らが何ものにも救われようがない「悪人」であると気付かされる。その時に初めて気付かされる「悪人」である。   善人  「善人」を、自らを「善人」であると思う者と定義する。「善人」は、善行を完遂できない身である事に気付くことのできていない「悪人」であるとする。  また善行を積もうとする行為(自力作善)は、「すべての衆生を無条件に救済する」とされる「阿弥陀仏の本願力」を疑う心であると捉える。  出典: Wikipedia  僕らも本来的に救われようがない悪人なのだろう。それは共同性を超えて、私というものの避けがたい在り方を直視させる。しかし、下記のような言葉もある。実は、ここにこそ僕らにとっての生きる「救い」があるのではないだろうか。  「君は悪から善をつくるべきだ。それ以外に方法はないのだから」(ロバート・P・ウォーレン 『ストーカー』題辞)
[映画館(字幕)] 9点(2009-08-09 21:26:37)
37.  天使と悪魔 《ネタバレ》 
作品のメインテーマである宗教と科学という問題は個人的にも興味深いタームである。小説の中のローマ教皇はそれが融合されることを望み、犯人はそれを拒否する。事件は全てそこから生まれた悲劇と言えよう。 僕はこう思う。日本的発想かもしれないけど、宗教(神という概念)はそもそも細部に宿るものだ。またそれは全ての究極の果てにおいて否が応でも関わってくる。ビッグバン以前、高密度の物質と真空エネルギーのインフレーションは、その空間と時間の始まりのゼロ地点→特異点という問題にぶつかる。近年、それはトンネル効果であるとか、量子ゆらぎであるとか、いろいろ言われているが、要はこれが「神のひと押し」であり、科学の限界の先の物語なのである。そういう神懸り的な(人知の及ばない)領域は、宇宙の始まりだけでなく、量子論や生命科学にも存在する。(池谷裕二の最新本はそのことをよく教えてくれる) 全てのフォアフロントにこそ、神は「見出せる」のではないだろうか。 宗教と科学は乖離とか融合とかを意図するものではなく、元々が同じ領域のものである。(特に日本では宗教こそが鎮魂の為の科学だった) この作品ではその認識の違いが最初の死者を生み、死者が十分に理解しながら、犯人が最後まで理解できなかった点となっている。 
[映画館(字幕)] 8点(2009-08-09 21:21:34)
38.  セントアンナの奇跡 《ネタバレ》 
素晴らしい映画。胸にグッとくる物語。 村上春樹が『1Q84』の中で「物語」についてこう言っている。「それは理解できない呪文が書かれた紙片のようなものだ。時として整合性を欠いており、すぐに実際的な役には立たない。しかしそれは可能性を含んでいる。いつか自分はその呪文を解くことができるかもしれない。そんな可能性が彼の心を奥の方からじんわりと温めてくれる」  この映画で語られる物語も最初は「理解できない呪文」のようだった。それが最後の最後に大事なところで繋がったように見える。実際のところ、セントアンナの大虐殺が絡んだ少年の過去も、詩を読むナチス将校の役割も、パルチザンの存在によってナチス親衛隊とアメリカ黒人兵部隊が結び付けられる、彼らの行く末も最後に明らかになる。しかし、登場人物達の様々な思いであり、愛憎という形で散りばめられたパズルのピースは、全て埋まらずに終わる。なぜなら、この物語の登場人物の殆どが死んでしまうから。 英語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語が飛び交う。国籍を超えて、彼らはそれぞれのナラティブを生きていることをこの映画は確実に伝える。戦争はそういった個人が紡ぐ歴史の全てを大量死の中で奪い取ってしまう。戦争とは喪失の物語である、と同時に物語の喪失なのだと僕らに伝えられる。 『セントアンナの奇跡』が素晴らしいのは、そのような喪失の中にこそ「奇跡」を描いてみせたことだと思う。奇跡とは何か?それは、生き残った黒人通信兵の存在である。彼は少年とナチス将校によって生かされる。また少年はチョコレートの巨人に生かされ、逃亡を幇助したドイツ兵によって生かされる。彼らによって紡がれる生の可能性こそがこの物語の呪文を解く鍵なのだろう。奇跡は人々の祈りによって生み出され、微かだけど確かな光を未来に指し示す。 最後の銃撃戦は、イタリア・トスカーナ地方の小さな村の住民たちを否応なく巻き込む。傷ついた少年を胸に呆然と佇むチョコレートの巨人。想いの人の名を叫ぶ女性。支えあう人々。それらは直ぐに背景となり、登場人物達の壮絶な最後が描き出される。ここで物語は一度喪失し、僕らは人を想うことのかけがえのなさを切に感じ、それが失われることに涙する。しかし、「奇跡」は起こる。本当のラストシーンで、僕は差別や偏見、憎しみを超えて紡がれた命に、「奇跡」が指し示す希望という明るい未来に、涙を禁じえなかった。
[映画館(字幕)] 10点(2009-08-09 21:17:47)
39.  グラン・トリノ 《ネタバレ》 
「クリント・イーストウッド映画の集大成」と言われる。実際、集大成なのか、落とし前なのか、議論はあるかもしれないけど、この映画がイーストウッドの歴史の中に位置づけられ、その軸に沿ってこそ最大級に評価されているのは事実であろう。 確かに、イーストウッドの過去の作品のイメージ無しにこの映画を観ることはできない。『夕陽のガンマン』や『ダーティハリー』があり、『許されざる者』がいる。そういった俳優としての、或いは監督としての歴史の一連として作品が評価されるのは現代ではイーストウッド以外にいないとも思える。 作品が作者を排した一個のテキストとして評価されるべきと唱えられた時代があった。『グラン・トリノ』という映画はそんな作品論を易々と超える。作品とは個人を縛り、作品は個人に縛られる、それは作者であろうと、作品の受け手であろうと絶対的なもの、、、まぁ、そんなもんだろうと。  綿密に計算された「上手い」映画だと思う。だからこそ、ラストの驚きも自然な流れの中で観られる。そこにイーストウッドの歴史を見ればこそ、全ては腑に落ちるようだ。彼は、荒野の無頼漢であり、44マグナムを携えたタフガイだった時代の彼ではない。苦悩に満ちた「許されざる者」であり、アメリカという栄光と傷を見据えたオールドマンであり、自らの赦しを胸に刻み、新しい「光」の中に希望を見出すプレイヤーなのである。現代のアメリカの中で、ワイルドバンチはメランコリーの波間に消えたのだ。  やはり、この映画はイーストウッドの集大成的な映画なのだと僕は思う。だって、あんなラストはイーストウッド以外に考えられないじゃないか。 
[映画館(字幕)] 10点(2009-04-29 19:48:51)(良:3票)
40.  ジャニス
ロック映像・ドキュメンタリーとしては、BBS "An American Band"、The Who "The Kids are Alright"、The Band "Last Waltz"、John Lennon "Imagine"、Elvis "That's the Way It Is"と共に時代を代表する作品と言えよう。  ジャニスを一躍スターダムに押し上げた1967年のMonterey POP Festivalでの名唱"Ball and Chain"、BB&HCとの"Summertime"のレコーディング風景、そして、Kozmic Blues Bandとの共演によるヨーロッパツアー、フランクフルトでの演奏などを収録している。 圧巻なのは、やはり、Full Tilt BoogieとのFestival Express(カナダ)での演奏であろうか。"Tell Mama"、"Kozmic Blues"、"Cry Baby"と素晴らしいステージングが続くが、正に鬼気迫る熱唱と言う他ない。(彼女の夭折はその3ヶ月後である) ジャニスのステージというと夜のイメージが僕にはある。ウッドストックでの"Work Me, Lord"もナイターの煌びやかさが映えた印象に残るステージだった。  本作『JANIS』には彼女の代表的なステージ映像の他に貴重なインタビューも収録されている。実は、このインタビューがジャニスの本性とでも言うべき彼女の誠実さをよく伝えていて、演奏シーン以上に感動的なのである。それは上記のロック映像作品の全てに共通するが、彼らの生き様そのものを垣間見せ、そのステージの印象をより彫り深いものとさせてくれる。  ロックが最も幸せだった時代、彼女は自由を心から信じ、そして歌った。夢見がちで傷つきやすい少女、世間から孤立し、笑いものでしかなかった少女は歌によって救われ、その彼女の歌が今度は多くの人々の胸を奮わせるのだ。彼女の存在の偉大さを改めて感じさせてくれる。彼女ほどロックの本質、その強さであり、弱さである「誠実さ」を体現するボーカリスト、ミュージシャンは他にいないと僕は思う。 改めて思うけど、ロックとは天性であるとともに、より人間的なもの、ブルージーでソウルフルな、その根源的な哀しみと密やかな喜びから発せられるものなのだ。彼女の歌はそのことをよく教えてくれる。
[DVD(字幕)] 10点(2009-03-18 20:48:54)
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