Menu
 > レビュワー
 > 鉄腕麗人 さんの口コミ一覧
鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2597
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

表示切替メニュー
レビュー関連 レビュー表示
レビュー表示(投票数)
その他レビュー表示
その他投稿関連 名セリフ・名シーン・小ネタ表示
キャスト・スタッフ名言表示
あらすじ・プロフィール表示
統計関連 製作国別レビュー統計
年代別レビュー統計
好みチェック 好みが近いレビュワー一覧
好みが近いレビュワーより抜粋したお勧め作品一覧
要望関連 作品新規登録 / 変更 要望表示
人物新規登録 / 変更 要望表示
(登録済)作品新規登録表示
(登録済)人物新規登録表示
予約データ 表示
【製作国 : 韓国 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
評価順123
投稿日付順123
変更日付順123
>> カレンダー表示
>> 通常表示
1.  パラサイト 半地下の家族 《ネタバレ》 
金持ち家族に「寄生」することで、束の間の“優越感”を得た半地下の家族たちは、今までスルーしてきた家の前で立ち小便をする酔っ払いを、下賤の者として認識し、“水”をかけて追っ払う。 その様をスマートフォンのスローモーションカメラで撮りながら、軽薄な愉悦に浸ってしまった時点で、彼らの「運命」は定まってしまったのかもしれない。  世界中に蔓延する貧富の差、そして生じる「格差社会」。世界の根幹を揺るがす社会問題の一つとして、無論それを看過することはできないし、自分自身他人事じゃあない。 ただし、この映画は、そういった社会問題そのものをある意味での「悪役」に据えた通り一遍な作品では決してない。 確かに、“上流”と“下流”、そして更に“最下層”の家族の様を描いた映画ではあったけれど、そこに映し出されたものは、富む者と貧しい者、それぞれにおける人間一人ひとりの、愚かで、滑稽で、忌々しい「性質」の問題だったように感じた。  どれだけ苦労しても報われず、働いても働いても豊かになるどころか、貧富の差は広がるばかりのこの社会は、確かにどうかしている。 でも、自分自身の不遇を「社会のせいだ」「不運だ」と開き直り、思考停止してしまった時点で、それ以上の展望が開けるわけがないこともまた確かなことだろう。  そう、どんなにこの社会の仕組みがイカれていたとしても、どんなに金持ちが傲慢で醜かったとしても、この主人公家族の未来を潰えさせてしまったのは、他ならぬ彼ら自身だった。と、僕は思う。  千載一遇の機会を得た半地下の家族たちは、能力と思考をフル回転して、或る「計画」を立て、実行する。そしてそれは見事に成功しかけたように見える。 しかし、彼らの「計画」はあくまでも退廃的な“偽り”の上に存在するものであり、「無計画」の中の虚しい享楽に過ぎなかった。  “無計画な計画”は、必然的に、笑うしか無いスピード感でガラガラと音を立てて崩壊し、大量の濁流によって問答無用に押し流される。 そして同時に、己をも含めたこの世界のあまりにも残酷で虚無的な現実を突き付けられて、父子は只々愕然とする。  本当に裕福な者たちは、自らが“上流”に居ること自体の意識がない。 “下流”に住む貧しい者たちの存在などその認識から既に薄く、蔑んでいることすら無意識だ。 “臭い”に対して過敏に反応はするものの、その正体が何なのかは知りもしないし、知ろうともしない。 勿論、大量の“水”で、押し流していることに対しての優越感も、罪悪感も、感じるわけがない。その事実すら知らないのだから。  なんという「戦慄」だろうか。 そのシークエンスの時点で、観客として言葉を失っていたのだが、もはや「世界最高峰」の映画人の一人である韓国人監督は“水流”を緩めない。  「惨劇」の果てに、計画どころか「家族」そのものが崩壊し、消失してしまった父と息子は、それぞれに、「無計画」であり得ない逃避と、あり得ない希望に満ち溢れた「計画」を立てる。 すべてを失った者たちが、それでも生き抜く力強さを表現している“ように見える”描写を、この映画は、最後の最後、最も容赦なく押し流す。 父親が言ったとおり、「計画」は決して思い通りにはいかない。父と息子は、地下と半地下でその短い命を埋没させていくのだろう。  完璧に面白く、完璧に怖く、完璧におぞましい。だからこそこの映画は、完膚なきまでに救いがない。 とどのつまり、このとんでもない映画が描き出したものは、「格差社会」などという社会問題の表層的な言い回しではなく、その裏にびっしりと巣食う際限ない人間の「欲望」と「優越感」が生み出す“闇”そのものだった。   世界中に蔓延するこの“闇”に対して“光”は存在し得るのだろうか。  金持ち家族の幼い息子がいち早く感じ取った“臭い”。 彼はその“臭い”に対して、どういう感情を抱いていたのだろうか。 “トランシーバー”を買ってもらうことで自らの家族と距離を取ろうとした彼の深層心理に存在したものは何だったのか。  このクソみたいな世界の住人の一人として、せめて、そこには一抹の希望を見出したい。
[映画館(字幕)] 10点(2020-01-15 21:59:02)(良:2票)
2.  別れる決心
出会ってしまった男と女。 刑事と被疑者の二人が、惹かれ、癒やし、慈しみ、そして「崩壊」へと突き進む。  描き出されるストーリーを表面的に要約してしまえば、ありがちなメロドラマであり、古典的なサスペンスに思えるけれど、映画の中の人物たちの心象風景と、卓越したビジュアル表現が織りなす映像世界の情感が、パク・チャヌク監督によるありとあらゆる映画表現で見事に融合し、とてもとても豊潤で複雑な人間模様と世界観を構築している。  観終わった後に、本作がパク・チャヌク監督作であるということを知り、納得と驚愕が同時に生まれた。 全編通して繰り広げられる特異で挑戦的な映画表現は、監督が只者ではないことを雄弁に物語っていたけれど、この淡々とした語り口の映画が、「オールド・ボーイ」や「お嬢さん」等のフィルモグラフィーにおいて血みどろで烈しい映画世界を生み出してきたパク・チャヌクとは直結しづらかった。 主人公の刑事は敏腕で屈強だが血みどろの現場が“苦手”という設定や、これまでの作品と異なり過度なセックス描写を排するなど、これまでの作風とは一線を画する作品づくりからは、監督の自らの作風に対しての挑戦も感じる。  刑事と被疑者、遠くて近い関係性が、純愛を織りなす。  取り調べも、監視も、尾行も、殺人現場の検証も、刑事の男と被疑者の女が共に過ごす時間のすべてが、二人にとっては何にも代え難い逢瀬の一時に見えてくる。 (取り調べの最中、美味しい高級寿司を二人でもぐもぐ食べた後、テキパキと机の上を片付ける阿吽の呼吸で、会って間もない二人の人間的な相性の良さを表現するなど、何気ない描写の一つ一つがとにかく巧い) そこには当然ながら、職責や打算も存在していただろうけれど、事件を通じた逢瀬を重ねるに連れ、そんな思惑すらも相手を想う感情へと同化していく。  主人公の刑事チャン・ヘジュンは、元来殺人事件の被疑者に没入し、彼らを身近な人間と捉えて捜査を進めるタイプで、そんな彼がファム・ファタールのように現れる被疑者の女にのめり込んでしまうのも、必然だったのだろう。 一方の夫殺しの被疑者ソン・ソレは、或る事情で中国から逃れてきた不法移民で、夫からのDVと果たすべき本懐を秘め続ける中で、事件を起こし、ヘジュンと出逢う。 出自も社会的地位も全く異なる彼らは、出逢うべくして出逢い、非業な運命を共にしたようにも見える。  ただ、彼らのすべての言動や感情は、その運命を支配するものから俯瞰されているかのように映し出される。蟻が這う死体の眼球、骨壺の中の遺灰、スマートデバイスの画面……。 ニーチェの「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」の如く、凝視したり、監視したり、見つめたりする彼らの視線は、常に“何か”から見つめ返されている。  その深淵たる“何か”とは、神なるものかもしれないし、運命そのものかもしれないし、彼ら自身の深層心理かもしれないけれど、それはきっとすべての人間が時に感じる“視線”の正体なのだろうと思える。 そういった人間の本質的な業にも当てはまる或る種の哲学性を根底に敷き詰め、その営みの愚かさや滑稽さや愛おしさもすべてひっくるめて映画表現の中に詰め込んでみせたことが、本作の類まれな豊潤さに繋がっている。  休日の午後に字幕版で鑑賞して、とてもとても一言では言い表せない映画に対する感情に悶々としつつ、その日の深夜に吹替版で再鑑賞した。 無論まずは字幕版で鑑賞すべきだと思うが、本作の映画的物量の多大さは、初見で字幕を追いながらでは本作の本質を処理しきれていないことも否定できなかった。吹替版で鑑賞し直したことでよりすっきりと本作の情感が腑に落ちたことは間違いない。ただ、本当は、韓国語も中国語もある程度理解したうえで、オリジナルを鑑賞できることが理想的だろうと思う。   彼らが辿り着いた決別は、あまりにも切なく、あまりにも哀しいけれど、彼女の隣でのみ深く眠ることができた束の間は、二人にとって何にも代え難い時間だったのだろう。 その一瞬の微睡みのような逢瀬に心が締めつけられる。
[インターネット(字幕)] 9点(2024-02-23 17:06:08)
3.  テロ,ライブ 《ネタバレ》 
ラジオ番組の生放送を通じて、テロリストの“要求”に対峙する一人のアナウンサーを描いたサスペンス・スリラー。 というイントロダクションの時点で充分に面白味に溢れ、韓国映画ならではの骨太なエンターテイメントを見せてくるのだろうと想定できた。  が、その“想定”は大いに覆された。 この映画のストーリーテリングは、分かりやすいエンターテイメント性を超えて、観る者を“困惑”させてしまうほどのある意味においての“リアリティ”を追求している。 それは、映画という非現実世界を超越して描き出されたこの社会の“本質”だったように思える。  結論から言ってしまえば、この社会は欲と欺瞞に満ち溢れていて、それが巨大になればなるほどまかり通っているという現実を、この映画は突きつけてくる。 世界は嘘で塗り固められていて、大衆はそれを見て見ぬふりをして受け入れてしまっている。 辛辣に描き出される社会の本質、圧倒的な後味の悪さが、新しく、潔い。   やはり、韓国映画は巧い。 冒頭、分かりやすいまでにやさぐれたラジオパーソナリティーとして登場する主人公が、突如自分の目の前で巻き起こった大事件を機に、流れるように野心みなぎるキャスターの姿へと変貌していく。 その描写は、まさに彼の人生における時流の変化が如実に表されていて、巧みに引き込んでくる。  映画世界内の時間と実際の映画の尺をほぼ同調させた“ライブ感”と、それに合わせた登場人物たちの台詞テンポも抜群だった。 そして、ありがちなシチュエーション・スリラーと思わせつつ、ラストで一気に観客を“想定”の外に連れ出してしまう展開は見事だと思う。   午前9時からのラジオ番組をいつものように気だるく進めていた主人公が、たった数時間後に、そういった現実社会に対する“虚無感”に打ちのめされ、文字通りに“凋落”していく。 そのあまりに絶望的な様に、言葉を失ってしまった。  格差社会が生み出した怨恨、権力者たちの傲慢と裏切り、愛する者の死、この映画が描き出す絶望はどれも重い。 ただ個人的には、演出としてはあまりにさりげなく表された“射殺命令をした声の主”に対し最も重い絶望感を覚えた。酷いや……。
[DVD(字幕)] 9点(2015-02-28 02:01:10)(良:1票)
4.  新しき世界 《ネタバレ》 
ラスト、辛辣な運命に導かれるままに、ついに望まぬ“椅子”に収まった主人公。“新しき世界”を眼下に見下ろし、彼は何を思ったのだろう。 一見、彼の表情は自らの運命に対しての苦悩に苛まれているように見える。 しかし、その先のシークエンスで、彼の中にはそういった苦悩とはまったく別の感情が巡っていたのだろうことが分かる。 ラストのラスト、この映画で主人公が唯一見せる或る“表情”。 観客も、主人公自身もはたと気づく。 彼にとっての“新しき世界”は、とうの昔に始まっていたことに。  いやあ素晴らしい。毎度のことながら、韓国映画には新鮮に感服させられる。 監督の巧さ、俳優の巧さ、撮影技術の巧さ、すべてが高水準であることは間違いなく、総じて「映画づくりが巧い!」と言わざるをえない。  特に個人的に思うのは、ラストシーンの絶対的な巧さだ。 今作においても、ラストシーンの映画的巧さによって、作品自体の質を格段に上げている。 韓国映画のつくり手たちは、本当に映画という“娯楽”をよく理解していると思う。  そして、俳優たちが演じるキャラクターの“実在感”がまた凄い。 一人ひとりの顔つきに、各人物の人生模様が如実に現れていて、細かい人物描写がシーンとして無くとも、彼らがどういう人生を歩んできたのかが見えてくる。  嘘で塗り固められた人生を歩んできた主人公は、「真実」という“偽り”をすべて捨て去り新世界の支配者となる。 その彼の表情が苦悩に満ち溢れていたとしたならば、それはやはり、新世界の景色を共に見下ろすべき存在が誰であったかということに、ようやく気付いたからだろう。 その「孤独」に心が揺さぶられる。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2015-01-25 00:56:17)(良:2票)
5.  アジョシ
過去に訳ありの殺人術に長けた男が、孤独な少女と出会い、彼女を救い出すために決死の闘いに挑む……。 プロットそのものはあまりにありふれており、同様の作品は世界各国で量産されている。 そしてタイトルは“アジョシ(=おじさん)”。飾り気の無いそのタイトルは、食傷感を助長するには充分だったと言える。 韓国映画の全体的なクオリティーの高さは認めつつも、価値観の相違による居心地の悪さから若干の苦手意識もないことはない自分としては、某ラジオ番組で絶賛されていなければ、きっと見向きもしなかったろう。  結論としては、“食わず嫌い”をしなくて本当に良かった。この映画をこの“タイミング”で観なかった場合の損失はあまりに大きかったことだろうと思う。  “タイミング”という表現の意味の対象は、主演のウォンビンに他ならない。 今この時期のウォンビンという俳優の「凄さ」と「可能性」を知っているかそうでないかでは、今後の韓国映画に対する捉え方が大いに変わってくると思う。 即ち、今後彼の出演作は漏れなく注目していかなければならないということだ。 そう言ってしまって過言ではない程、前出演作「母なる証明」に続き、この美形俳優の存在感が半端なかった。 異性が求める「男性」の魅力の究極の様を同性でありながら強烈に感じずにはいられない。 その元来生まれ持った天性の美貌を更に高め爆発させるように、俳優としての存在感が際立ってきている。  孤独を深めていた男が徐々に怒りを爆発させていく。 その鬼神の如き様は、戦慄を覚えると同時に、自らに対する何かしらの“救い”を求めもがいているようにも見え、激しく感情を揺さぶられた。 鮮烈なバイオレンス描写の中に、これ程までセンシティブな情感を映し出した映画は中々ないと思う。  その総てを己の身体一つで表現している主演俳優の素晴らしさ。そして、彼の存在に説得力を与え、より際立たせている映画構成の巧みさに感嘆する。 ウォンビンの惚れ惚れするような体躯と同様に絞り込まれたタイトな演出と、端役に至るまでしっかりとキャラ立てがされている人物描写の上手さが、ありきたりなプロットの上に成り立つ映画を唯一無二の高みへと磨き上げていた。  こういう映画を長編第二作目の新鋭監督が鮮やかに作り上げてしまう隣国の映画制作のレベルの高さに、毎度のことながら驚き、ついつい羨望の眼差しを送ってしまう。
[DVD(字幕)] 9点(2012-03-01 18:13:33)
6.  殺人の追憶 《ネタバレ》 
メディア、雑誌等で評価の高い今作に対する危惧、それはやはり今作が実際の未解決猟奇殺人事件を描いた映画であるということだった。つまり猟奇殺人を描いたサスペンス映画でありながら、観る前から観客は「犯人は見出せない」ということを覚悟しなければならない。これはこのジャンルの映画としては多大なハンデである。しかし、この映画は評価に違わぬ明らかな傑作としてその全貌を脳裏に焼き付けることに成功したと思う。この映画世界に流れる空気感こそ、犯罪ドラマにおけるリアリティに他ならない。ソン・ガンホ、キム・サンギョン演じる刑事たちの怒り、焦り、絶望…あらゆる感情が生々しく迫ってくる。今尚、まさに息づく犯罪を描いた今作は、事件に翻弄された刑事の複雑に絡まる感情がにじむ表情をスクリーンいっぱいに映し出して終幕する。事実に対し、勇敢で、潔く、説得力に溢れた映画のエネルギーに圧倒される。
9点(2004-03-30 20:22:05)(良:2票)
7.  猟奇的な彼女
予想以上にダイレクトなラブストーリーに素直に感動した。題材だけ見れば1本の映画として昇華するには難しい素材を、笑いとインパクトを加えて非常に秀逸なラブコメに仕上げていると思う。冒頭ではだたの気の強い女だった「彼女」が映画の展開と共に実に魅力的になっていく様が、今作の最大の魅力でもあると思う。「彼女」に対する「彼」のユーモラスな存在感も欠かせないものだった。今作でも見られるような、映画としてのストレートな力強さが韓国映画の最大の魅力であり、日本映画には足りない部分だと思う。
9点(2004-02-05 18:48:15)(良:1票)
8.  シュリ
映画の出来は壮絶なアクション性とドラマ性に満ち溢れた素晴らしいものだったが、それよりも初見時に私が感じたことは、韓国映画界の絶大なエネルギーだった。日本映画界のそれとは明らかな温度差を感じずにはいられなかった。今作以降も続々と秀作を世界に送り出している韓国映画界に賞賛を送るとともに、日本映画界の奮起を期待したい。
9点(2003-11-29 13:06:08)
9.  キル・ボクスン
「ジョン・ウィック」を皮切りに、「ポーラー 狙われた暗殺者」「ブレット・トレイン」など、“サラリーマン社会”のように企業化され階級付された“殺し屋業界”を描いた娯楽映画がこの数年量産されている。 日本でも、「ベイビーわるきゅーれ」や「ザ・ファブル」がその系譜であり、レベルの高いアクション性と、ある種の“ファンタジー”の中での殺し屋たちの悲喜こもごもの群像劇が楽しい作品が多い。 本作「キル・ボクスン」も、まさしく韓国産の殺し屋業界映画であり、このジャンルと韓国映画の相性をきっちりと見せつけている。  韓国映画では、強烈なバイオレンス描写を見せるとともに、どこか気の抜けた台詞回しや、登場人物たちの言動とのギャップが、映画作品としての独特の味わいとなっていることが多い。 それは韓国という国の社会風俗や、思想、教育倫理を根底にしたアイデンティティであり、韓国映画が唯一無二の娯楽性を生み出している大きな要因だとも思える。  韓国映画が描き出す“殺し屋業界”は、極めて激しく暴力的であると同時に、生々しい滑稽さが、空想上の“リアル”を導き出していた。 「先輩」の命令は絶対である揺るぎないタテ社会の中での、殺し屋業界の面々の人間関係がまず面白い。 業界における伝説的エースである主人公を、畏怖と共に敬愛する“同業”の飲み友達が集まる居酒屋だったり、所属する殺し屋会社の訓練生たちからの尊敬の眼差しだったりと、他の国の同ジャンル映画には無かった人間模様が新鮮でユニークだったと思う。 ただし、だからといって殺し屋同士で馴れ合うばかりではなく、いざその“対象”となれば、躊躇なく殺し合うシーンへと転じる急激な変調が、アクション映画としての見事な抑揚を生み出していたとも思う。  韓国映画として、アクションシーンのクオリティの高さはもはや言うまでもない。アクションシーンのパターンやそれに伴うカメラワークのアイデアがとにかく豊富で、「ジョン・ウィック」のように決して銃弾が飛び交うような派手なシーンが多いわけではないにも関わらず、137分の時間が飽くこと無く過ぎ去っていく。  無論、殺し屋稼業と思春期育児を行き来するシングルマザーの主人公を描いたストーリーテリング自体が上手く展開していたことも本作のオリジナリティを高めていたと思う。 殺し屋としての苦闘以上に、15歳の我が娘との距離感や教育に苦悩する主人公描写こそが、本作の要であり、主人公を演じたチョン・ドヨンは両極端の人間性を絶妙なバランス感覚で、説得力をもって演じ分けていた。  冒頭の日本人ヤクザとの対決における片言日本語描写はご愛嬌。 組織内で主人公と並ぶ手練れとして名前だけ登場する“カマキリ”が、続編への布石であることを期待したい。
[インターネット(字幕)] 8点(2023-05-09 15:08:11)
10.  犯罪都市(2017)
“張り手”一つで傍若無人なヤクザどもを制圧するという説得力。 こんな刑事を演じられるのは、世界を見てもマ・ドンソクしかいないだろう。 文字通りの圧倒的な“腕っぷし”を唯一無二のアイデンティティとして、韓国映画を飛び出して世界的にも愛され、ついにはMCUにも進出したこの俳優の魅力を存分に堪能できる作品だった。  2004年に実際に起きた事件を題材にした、まさに韓国版「県警対組織暴力」。 実録的な映画世界だけあって、描き出される登場人物たちの描写が、警察側もヤクザ側も絶妙に生々しく、滑稽な様が、映画としての面白味を生んでいる。 韓国映画総じて言えることだが、演じる俳優たちの顔つきの実在感が、映し出される世界の空気感のリアルを生み出しているだとも思う。  時に目を覆いたくなるバイオレンス描写も繰り広げられる中で、ドカンと構える主演俳優マ・ドンソクの存在感のみが圧倒的な娯楽に振り切っていて、ちょっと他の犯罪映画や暴力映画には無いエンターテイメント性に繋がっている。  凶悪なヤクザの面々を豪腕で叩きつけつつも、女性や子供には弱く、どこかドジでおっちょこちょいなマ・ドンソクそのものを愛でるべき作品だろう。 昨年公開された続編も早速観ようと思う。
[インターネット(字幕)] 8点(2023-03-03 23:55:21)(良:1票)
11.  ザ・コール
序盤から充満している不穏な空気感は、やはり韓国映画ならではのものであり、洗練された映像世界の中で主人公にひたひたと迫りくる「恐怖」が、この映画のクオリティーの高さを物語っていた。  「ザ・コール」という端的なタイトル、インフォメーションビジュアルから伝わってくるテイストは“ホラー映画”のそれだったが、実際、今作で展開されたストーリーは、ホラーでもあり、サスペンスでもあり、スリラーでもあり、SF・ファンタジーでもあり、普遍的な親子ドラマでもあった。 様々な映画的エッセンスが、重層的に、巧みに混ざり合い、独創性に溢れたストーリーテリングを見せていたことが、素晴らしく、なかなか忘れ難い作品に仕上がっていると思えた。  1本の電話が20年の時間を超えて、過去と現在を繋ぐ。 似たような着想やアイデアが組み込まれた映画は世界中に沢山ある。 ただそれらの作品の多くは、心温まるファンタジーや、家族愛を描いたものが多く、ここまで恐怖に振り切った映画は記憶にない。  オカルト、タイムパラドックス、シリアルキラー、映画的娯楽要素を極めて大胆に織り交ぜつつ、主人公の苦悩と絶望が二転三転しながら確実に深まっていく展開が斬新だった。 そして、ヒロインとして立ち回る主人公の合わせ鏡のように、存在し、悪魔的な存在感を高めていく過去の世界の連続殺人犯のキャラクター造形も素晴らしかった。  この殺人犯が、その異常性と残虐性を深めつつ、徐々にヒロインと対峙する“ダークヒロイン”として際立っていくことが、この映画のエンターテイメント性を更に高めた要素であることは間違いない。  このヒロイン、ダークヒロインを演じた二人の若い女優たちが両者とも素晴らしい。 主人公を演じたパク・シネは、この直前に鑑賞した「#生きている」での勇敢なヒロイン像も印象的だったが、華やかさと哀愁を併せ持った良い女優だなと思う。(コロナ禍の影響で主演映画が2作とも劇場公開中止になってしまったことは不憫だ) 一方、殺人鬼を演じた新星チョン・ジョンソは更に強烈だった。病んだ心を更に拗らせ、悪魔的な素養を覚醒させていく“禍々しさ”を見事な狂気で表現し切っていた。 今年観た「The Witch/魔女」の主演女優キム・ダミの見せた狂気も鮮烈だったが、韓国映画界の肥えた土壌は、若手女優層の面でも芳醇だなと思う。     映画は最後の最後まで加速を緩めずに、恐怖と絶望を突き詰める。  20年の年月を超えて鳴り響くコール音。 「奇跡」は、文字通り悪魔的な「災厄」に転じ、恐怖の螺旋が未来をぐるぐると絶望へと追い込んでいく。 絶望の“ベール”をめくられた主人公。その戦慄の極地で彼女は痛感しただろう。  誰が、悪魔を“コール”したのか?  私が、悪魔を救ってしまったのか?  いや、私が悪魔を生んだのか……と。
[インターネット(字幕)] 8点(2020-12-29 00:18:15)
12.  FLU 運命の36時間
「パンデミック」というものが現実に巻き起こっている今、パニックに直面した人間、社会、国、世界の「本質」が如実に表れているように思える。 「危機」に対峙したとき、そのものの“真価”が問われるとは言うが、いざ不安や恐怖に惑い混乱する人や体制の脆さや愚かさを目の当たりにして、虚無感を覚えることは否めない。  それは無論、自分自身に対する「疑心」も含めてのことだ。 もし、突如としてパニックの中心に放り込まれてしまったならば、僕はどれだけ理性や人間性を保っていられるのか。正直言って甚だ疑問であり、そのことが最も恐怖なことかもしれない。  この韓国版“パンデミック映画”は、そういう人間の愚かさとそれに直結する恐ろしさを、盛りだくさんのパニック描写の中で描きぬいている。 決して綺麗事では済まされない人間の「性質」を遠慮なしに描きつけている部分が、非常に韓国映画らしく、ドスンと重い。  文字通り“盛々”に、古今東西あらゆるパンデミック映画やパニック映画の要素を詰め込んだ映画世界は、よく言えば豪快だし、悪く言えば節操がない。 過去作の様々なシーンと類似する部分は多々あるし、詰め込みすぎて冗長になっていることも否定はしない。 詰め込み過ぎてややまとまりに欠けるストーリー展開は、劇中のパニック描写と相まってグワングワンと混乱しているけれど、個人的には、パニック映画としてここまで振り切って観せてくれたなら文句はない。  実際、本作で描かれているような致死率100%のウイルス=恐怖が、このスピード感で襲いかかってきたならば、パニックの積算はこの比ではないだろう。 現実世界には、問答無用に善人すぎる主人公は存在しないし、大国に対して毅然とリーダーシップを取れる政治家も存在しない。そして、唯一の抗体が少女の体に生ずるなどという奇跡もあり得まい。  であるならば、ありとあらゆるパニックの描写をこれでもかと詰め込み、たとえご都合主義的であろうとも、それらがエモーショナルに解決する顛末は、娯楽映画として圧倒的に正しい。  そして、“類似品”であろうが、“パクリ”であろうが、過去の成功作の娯楽性を踏襲し、しっかりと自国のエンターテイメント映画として成立させてみせているのは、やはり韓国映画の実力故であり、その土壌の豊かさを痛感する。 それは同じように“類似品”であった2009年の日本映画「感染列島」の劣悪さと比較すると明らかだ。   2020年4月4日現在、新型コロナウイルス感染症によるパンデミックの混乱はまだまだ予断を許さない。 ヒーロー不在、リーダー不在、救世主不在の現実世界は、どのような顛末を迎えるのか。 映画ではない現実に対して、“鑑賞者”ではいられない。
[インターネット(字幕)] 8点(2020-04-17 17:17:06)
13.  新感染 ファイナル・エクスプレス
「ゾンビ映画」×「韓国映画」 この食い合わせはとてもよく合いそうだが、これまで著名な作品が殆ど生まれてこなかったことが意外である。 韓国映画のクオリティの高いアクション・バイオレンス描写や、特有のドライさを携えた客観性や批評性、トータルバランスに秀でた映画的娯楽性の高さは、ゾンビ映画との親和性がそもそも高いと思える。   ゾンビ映画というものが飽くことも無く世界中で作られる理由は、人間が最も恐れるものが「人間」そのものであることに尽きる。 その恐怖の象徴として、“ゾンビ”という人間の権化が生み出され、、それに襲われ食い尽くされる様は、常に社会問題に対する警鐘と共に、人間自らに対する自戒として描かれてきた。   そしてついに生み出された“韓国製ゾンビ映画”は、ゾンビ映画としても、韓国映画としても、しっかりと傑作だった(案の定)。 古今東西世界中で生み出し続けられているゾンビ映画というジャンルの根底にある本質をきっちりと捉えた上で、“特急列車パニック”というジャンル性をも見事に融合してみせた確固たる娯楽映画である。   本作のストーリーテリングは、極めてベタで王道的だ。過去の各国のゾンビ映画やパニック映画の定石を丁寧になぞるかのように、ストーリーは展開される。 ただし、不思議なのだが、映し出される映画世界に対して、使い古されたありきたりな印象は一切受けない。むしろとてもフレッシュにすら感じる。クソダサい駄洒落に思えたこの日本語タイトルも、鑑賞を終えてみるとあながち的外れでもないなと思える。   その最たる要因は、韓国映画の土壌の豊かさに他ならないだろう。 無論、ゾンビ映画としての土壌の新しさも映画的な新鮮さに繋がっているだろうが、やはり前述の通り、卓越したアクションシーンや躊躇のないバイオレンス描写、自らの国民性をドライに映し出した人間描写など、クオリティの高さとバランス感覚を兼ね備えたこの国の“映画力”が反映された結果だと思う。   クライマックスにおける展開と、物語の帰着も、極めて韓国映画らしく、映画表現としてのシビアさと感動に満ち溢れている。  “悪役”として位置づけられているキャラクターの言動は、心底胸糞悪くて、もっともっと残酷な“退場”を迎えて欲しかったけれど、果たして、この映画を観たどれだけの人間が、“あいつ”のことを完全に否定できるだろうか。 彼にだって帰るべき場所があり、家族があり、突如放り込まれたパニックの中で只々怖かっただけだろう。 非道い言動を繰り広げた悪役をただ「ざまあ」と殺さずに、最後の最後までひたすらに主人公らを脅かし続ける役割を与えていることこそが、この映画の最たる「苦味」だ。  つまりは、この“悪役”こそが、現実の社会における私たちそのものだと思う。 主人公の父親も、悪役の会社役員も、人間としての本質は大差ない。むしろ親しい人間性として描かれている。 それはこの社会に生きる誰しもが、英雄にも悪者にもなり得るということの証明だ。 「普通」に生きているつもりでも、いつ何時、健全な社会を食い尽くす“ゾンビ”になるか分からない。 このソウル発釜山行きのゾンビ映画は、ジャンル映画としての真っ当な警鐘と自戒を、マ・ドンソクの無骨な拳のようにドスンと重く豪快に叩きつけてくる。
[インターネット(字幕)] 8点(2019-08-16 01:05:41)(良:3票)
14.  お嬢さん(2016) 《ネタバレ》 
極めて「純粋」な映画だと思った。 人間の、ほとばしる欲望、溢れ出る性欲、入り乱れる情愛と憎悪、そして変態的嗜好。 この映画に登場する人間たちは、只々純粋に、自らの抑えきれない衝動に駆り立てられ、ひたすらに埋没していく。 その様は、あまりに利己的で醜い。だがしかし、同時にとてつもなく淫靡な美しさに溢れかえっていることも否定できない。 それは、この映画を観ているすべての人間たちに共通する本質であり、拭い去れない人間そのものの「業」なのだろう。 蜘蛛の糸のように映画全編に張り巡らされた“インモラル”が、絡みつき、徐々に、確実に、映画世界の奥底に引きずり込まれる。  映し出される映画世界は極めて異質。パク・チャヌク監督の容赦のない演出と、禍々しくも美しいビジュアルは、背徳感に溢れクラクラさせられる。 彼の監督作を観たのは、2003年の「オールド・ボーイ」以来だったので、芳醇な韓国映画界の中でも屈指の映画作家である彼の他の作品を今一度しっかり観なければならないと思う。  一方で、サスペンスとしてのストーリーそのものは、案外オーソドックスだったとは思う。 二転三転はするけれど、それが想定外の展開だったかと言うとそんなことはなく、驚きはあまりない。 ストーリーテリング自体も、良い意味でも悪い意味でも「寓話的」であり、リアリティラインが低い分、描き出される物事の烈しさの割には、キリキリとするような緊迫感はそれ程感じなかった。 むしろ、ある程度狙いだったのだと思うが、烈しく過剰過ぎる演出は、時にユーモラスにも映り、それもまた独特だったと思える。  明確な難点としては、韓国人俳優たちが時々発する“日本語”の精度が低かったことだ。 決して聞き取れなくはないけれど、キャラクターの設定上ネイティブレベルの日本語力があって然るべきだったので、その聞き取り辛さは、日本人鑑賞者としてどうしても“雑音”となってしまった。 もう少し適切な日本語指導の下で丁寧なトレーニングをしていれば、きっと解消出来ていた筈なので、その部分に関しては少々残念だ。  また濡れ場シーンでの雑なボカシも大いに気になった。大昔のアダルトビデオじゃあるまいし、もう少し何とかならないものか。 確固たる「芸術作品」に対する国内の規制の価値観は、もうそろそろ見直されるべきだと思う。   下劣な男たちは地下で朽ち果て、純粋なる欲望を貫き通した彼女たちは、そのまま世界の果てに突き進む。 ありとあらゆる意味で、体の奥底が熱くなる映画であることは否定しようもない。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2018-03-17 00:31:38)(良:1票)
15.  アシュラ(2016)
冒頭の主人公自身のモノローグにもあるように、この映画の主人公は、権力者に尻尾を振る「犬」だ。 主人公だけではない、登場する主要人物の全員が、欲望と狂気に塗れた「犬畜生」だ。 何のためらいもなく全ての人間が私利私欲を追い求め、薄汚れた街、血塗られた人間関係の中で、凄惨な“サバイバル”を繰り広げる。 骨太の韓国映画らしく、その描き出し方に、躊躇や遠慮はまったくない。 だからこそ、胸糞悪い描写の連続でカタルシスなど生まれるわけもないはずなのに、最終的には妙な清々しさすら覚えた。  架空の都市アンナム市を舞台にして、汚職刑事、悪徳市長、傲慢検事らが欲望の渦の中で入り乱れ、文字通り阿鼻叫喚の地獄絵図を作り上げる。 その血みどろの人間模様を表現している韓国映画の俳優たちが、相も変わらず、みな「素晴らしい」の一言に尽きる。 架空都市を舞台にしていることからも明らかなように、今作は決して現実世界に対してリアルな映画世界を追求しているわけではない。 だがしかし、そこで息づく人間たちの有様は実在感に溢れ、あまりに生々しい。 彼らが辿り着く“阿鼻叫喚”は、明らかにフィクショナルなはずなのに、我々が巣食うこの世界と地続きであると感じさせ、殊更に背筋が凍る。  見事な韓国人俳優たちの中でも特に圧倒的だったのは、「映画史上最凶の“市長”」と言って過言ではない悪徳市長・パク・ソンベを演じたファン・ジョンミン。個人的には、2013年の韓国ノワールの傑作「新しき世界」でのチョン・チョン役も記憶に新しい。この実力派俳優の映画全体における「支配力」があったからこそ、この映画は特別なものになり得ていると思う。全く見事だった。   また中盤における、まさしく「縦横無尽」のカメラワークを見せるカーチェイスシーンをはじめ、随所に挟み込まれるアクションシーンもすべてがハイクオリティーでフレッシュ。 改めて韓国映画の芳醇さを感じずにはいられなかった。  バイオレンス映画としての高い娯楽性を携えつつ、味わいの深さと絶妙な軽妙さをも併せ持つ佇まいは、マーティン・スコセッシの映画世界をも彷彿とさせる。 御大本人によるリメイクも十分あり得るんじゃなかろうか。
[インターネット(字幕)] 8点(2017-11-20 17:05:45)
16.  オクジャ/okja 《ネタバレ》 
韓国が生んだ巨匠ポン・ジュノの最新作は、Netflixによる世界同時配信映画であるに相応しく、非常に触れやすく見やすいエンターテイメント性に富んだ楽しいアクション・アドベンチャーである……ように見えるが、勿論そんな映画ではない。 当然ながら、ポン・ジュノがそんな分かりやすく楽観的な映画を作るはずもない。 この作品は、おそらく、「食品」として肉を食べている地球上の人間総てにとって、居心地の悪い映画となることだろう。  この“居心地が悪い”とは、「気持ち悪い」とか「見ていられない」とかそういう類のものではない。 冒頭に記した通り、この映画はエンターテイメント性に溢れていて、愉快だし、高揚する。それは間違いない。 けれど、そういった映画としての「娯楽性」を感じた瞬間に、はたと気づく。 「あれ…、自分はこのシーンに対して楽しんでいい立場の人間ではないぞ……」 現実を突きつけられて、途端に居たたまれなくなる。 極めて「意地悪」な映画であり、だからこそ流石だと苦笑いをしつつ感嘆する。  不可思議な巨大生物と幼気な少女のハートウォーミングな交流シーンから、突如として、この世界の「食」が抱える闇と真理が、「肉採取機」のように容赦なく抉り出される。 その様は、あまりに残酷で無慈悲に見えるけれど、観客はそれを心の底から否定できない。 そして、映し出される描写が滑稽であるほどに、徐々に確実に笑えなくなってくる。  ティルダ・スウィントンが相変わらず演技派女優らしからぬぶっ飛んだ演技で「悪役」姉妹を一人二役で怪演している。 しかし、結果として、彼女たちは何も裁かれることはない。むしろきっちりと計画的に当初の目論見を成し遂げる。 何故ならば、彼女たちの悲願である“ビジネス”は決して悪事ではなく、現代社会の食文化の「理」そのものだからだ。  愛する“オクジャ”を救うために、身ひとつで巨大企業に挑んだ少女は、その「理」に跳ね返され、打ちのめされる。 彼女が唯一携えていた「現実」によって、すんでのところで“オクジャ”は救い出せたように見えるけれど、それは自分が愛する巨大な生物をついに「食品」として受け入れざるを得なかったことに他ならない。 そうして彼女は、おびただしい数の虚無と絶望に文字通りに覆い囲まれながら、暗い暗い帰路を辿る。   世界の食糧事情を解消するために「遺伝子操作」をすることは罪か? それでは、美味しい食肉を生産するために「品種改良」をすることは罪ではないのか?  その身勝手で曖昧なラインが明確にならない限り、この映画の「居心地」は益々悪くなり続けるだろう。 そういうことを感じながら、今日も僕は、この世界の何処かで“作られた”肉を食べている。
[インターネット(字幕)] 8点(2017-07-18 13:29:21)(良:1票)
17.  レッド・ファミリー
朝鮮半島における南北問題を風刺したコメディ映画のつもりで今作を観た。 コメディ映画であることは間違いはない。けれど、重く暗い現実問題を根底に敷いたこの映画の本質は、あまりに悲しく、そしてあまりにも切ない。  「平和」は、家族という人間関係のかけがえのない価値を、しばしば忘れさせる。 すぐそこに存在していることが当たり前になりすぎて、手前勝手な不満ばかりを相手にぶつけがちだ。 そこにいて、感情を伝えられることの幸福を見失っている。  笑い合えることの幸せ、そして罵り合えることの幸せ。 それすらも奪われた非情が、4人の北朝鮮工作員が織りなす“偽りの家族ドラマ”を通じて描き出される。  当初工作員一家は、醜い言い争いばかりを繰り返す隣の韓国人家族を、蔑み嫌悪していた。 しかし、国家によって強制的に家族と引き離され、終わりの見えない工作員活動を強いられていることに対する苦悩が深まるとともに、「家族」というものの正しい在り方を思い知らされていく。 言い争い、罵り合い、それでも相手を許し共に暮らしていく。そんな当たり前のことすら許されていない自らの人生と、妄信する国家の在り方に、疑問が深まり、惑う。  隣の国では、ごくありふれた小市民の家族ですら、相手を許すことを知っている。 でも、自分たちの国は、いつまでたっても憎しみばかりを振りかざしている。 私たちはどうしてこんな血にまみれた道を歩んできてしまったのか。 なぜ、どうして……。  悲しく、辛すぎる苦悩の果てに、偽装家族の面々は決断をする。 “命をかけた家族ごっこ” その真の意味を目の当たりにした時、心が締め付けられた。   あまりにも悲しい。 けれど、それでも残された一つの希望に、この映画を生み出した民族の未来に向けての思いが表れているように思えた。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2016-11-23 18:01:20)(良:1票)
18.  スノーピアサー
韓国が誇る名匠ポン・ジュノの世界進出作品として、期待は高く、是が非でも映画館で観たかったのだけれど、地方の映画館では公開されず悔しい思いをした。ヒットに伴う順次公開を望んでいたのだが、どうやら興行成績的にも振るわなかったようで……。 思ったよりも良い評判も耳にすることがなかったので、失敗作なのかと危惧もしていたけれど、いざ観てみれば何のことはない、しっかりと面白かった。というよりも、しっかりと“変な映画”だった。流石、ポン・ジュノである。  SF映画としても、サバイバル映画としても、“ほころび”は多いが、それを補って余りあるポン・ジュノ監督らしい独特の“痛み”が全面に押し出されたエモーショナルなディストピア映画に仕上がっていたと思う。  舞台は近未来、進退窮まった地球温暖化を食い止めるために或る化学薬品が世界中に散布され、結果地球全土が雪と氷に覆われてしまった世界。生き残った僅かな人類は、永久的に世界中を巡り続ける列車“スノーピアサー”に乗り込み何とか生き延びている……。 という舞台設定は、何とも荒唐無稽で漫画的だ。それもそのはず原作はフランスのグラフィックノベルなのだから当然のことだろう。 原作は勿論未読だけれど、フランス産のSFグラフィックノベルの退廃感と絶望感は、この監督の作風に良い塩梅で合致したのではないかと想像できる。  列車の最後尾から先頭車両へ向かう闘いの中で、主人公が目の当たりにした“真実”の絶望と虚無は、そのまま現実世界の“真実”と重なり合い、とても心苦しく、おぞましい。  あまりに絶望的な真実を突きつけられた主人公は、そのまま虚無の深淵に陥りそうになる。 しかし、ぎりぎりのところで留まり、“希望”を繋ぎ止めようとする。 その様は確かに安直で、真実を携え生き続けてきた者から見れば、愚かにすら見えたろう。 ただ、「素敵だね」と、嘲笑を携えつつ発した最期の一言には、一抹の安堵感も垣間見れた。  どの場面においても突っ込みどころは多く、咀嚼し切れない“異物感”は終始感じる。 その“異物感”こそが、文字通りに地獄のような世界を生き続ける人間たちの殆ど崩壊しかけている精神を描き出したことの証明だとも思える。  それにしても、アカデミー賞女優ティルダ・スウィントンは、ほんとうに汚れることも老いることも惜しまない女優だな。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2014-08-24 23:59:59)
19.  ベルリンファイル 《ネタバレ》 
洗練されたアバンタイトル、迫力と説得力に満ちたアクションシーン、俳優たちの優れた実在感。「スパイ映画」としての娯楽性を十二分に備え、しっかりと面白い映画世界に対して、“いつものように”羨望の眼差しを向けざるを得ない。 決して実績を積んでいるわけではない殆ど「新人」とカテゴライズされる若手監督が、これほどまでに“確かな”エンターテイメント作品を撮り上げてしまうのだから、相も変わらない韓国映画界の充実ぶりには、羨ましくて、よだれが出そうだ。  北朝鮮の諜報員である主人公が緊張感を携えて自宅へ戻る様をスタイリッシュに描いた冒頭のアバンタイトルを観た時点で、この映画が一定レベルのクオリティーを備えていることは明らかだった。 また一人、韓国映画界に世界レベルの「才能」持った映画監督が登場したことを認めざるを得ず、リュ・スンワン監督は、すぐにでもハリウッドで通用する映画が撮れるとすら思える。  卓越した映画世界に息づく俳優たちも、揃いも揃って良い。  主演のハ・ジョンウは、独特の素朴な風貌と内に秘めた危うさが、いい塩梅の雰囲気を醸し出し、得体の知れない「北側」のスパイを抜群の説得力もって演じていた。  もはや韓国を代表するベテラン俳優であるハン・ソッキュは、「南側」の諜報員として主人公と対峙し、やはり抜群の存在感を見せていた。彼の出世作でもある「シュリ」で演じたキャラクターの延長線上に今作のキャラクターを被せてみると、また違うドラマ性が見えてきて興味深かった。  主人公の妻を演じるのは、みんな大好きチョン・ジヒョン。ご多分に漏れず、「猟奇的な彼女」以来の彼女のファンだが、これまでの出演作とはまた違う表情を見せ、薄幸ではあるが芯の強い美女を好演していたと思う。  個人的に最も印象的だったのは、悪役のリュ・スンボムとうい俳優。登場時は軽薄なチンピラ風情で、完全にやられ役だと思えたが、ストーリーが進むにつれて、まあイヤな感じの悪役に進化していった。クライマックスのある展開など、彼がこの映画に一つのインパクトを与えていることは間違いないと思う。  韓国映画らしく、血なまぐさく、シリアスな展開も踏まえて、ラストはしっかり高揚させてくれる。 こういう映画的なセンスの高さは、やっぱり羨ましい。  なお、“ウラジオストク”の位置が曖昧な人は、鑑賞前にGoogleマップを確認しておくことをお勧めする。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2013-11-27 00:15:43)
20.  母なる証明 《ネタバレ》 
 休日の深夜、この映画を観て就寝した。 すると、この映画に満ち溢れる「不安」を如実に反映した夢を見て、非常に目覚めの悪いウィークデーの始まりの朝を迎えてしまった。今も、どこか気怠く、眠い。  韓国映画には、その善し悪しは別として、ねっとりとまとわりつくような「不安」に溢れた作品が多い。それは映画のジャンルに関わらず、ドラマ、アクション、サスペンス、ラブストーリー、更にはコメディにまで至り、映画を生み出すそもそもの“根底”に備わっている要素のように思える。 何本もの韓国映画を観ていると、時にその“厭な雰囲気”に対して、嫌悪感を抱いてしまうことも多々ある。 しかし、もはやそれは韓国という国が発する文化性であり、外国の映画を鑑賞する以上、否定できないことだとも思う。 そして、その“厭な雰囲気”を包み隠さずぶつけてくるエネルギーがこの国の映画にはあり、それこそが韓国映画の魅力だと思う。  そのエネルギッシュな韓国映画界において、トップランナーであり続けているのが、今作のポン・ジュノ監督だろう。 力強く、美しい映像世界の中に、人間の滑稽さと愚かさを上質な情感をもって表現する術に秀でた彼の最新作は、“母親”が息子を愛する揺るぎない「本質」を生々しく、辛辣に描いた問題作だった。  殺人の容疑がかけられた息子を救い出すために、母親は雨の中昼夜を問わず奔走する。 そうして辿り着く真相、真相に対する母親と息子の言動……。  泥々としたミステリアスな展開の中で、ストーリーは二転三転する。 意外な展開に対してその都度息を呑むが、これがポン・ジュノの映画である以上、安直なカタルシスは得られない。  映画は、母親が無表情で踊り狂う様で、始まり終わる。  その様を、どういう心境で見られるか?この映画は、“厭な雰囲気”の中で、問答無用に問いかけてくる。
[DVD(字幕)] 8点(2010-09-21 11:08:50)
全部

■ ヘルプ
© 1997 JTNEWS