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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2597
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー
ものすごく“真正直”な「スーパーマリオブラザーズ」の映画化だった。 子供から大人まで誰が観ても楽しめるだろうし、ゲーム世界を映画として具現化したそのクオリティそのものは極めて高く、隙がないと言える。 休日の昼下がり、小学3年生の息子と二人観るには、とてもちょうどいい映画だろう。  ただし、全くと言っていいほど“驚き”は無かった。 私自身、子供時代からプレイし続けてきて、先日も最新作「ワンダー」を子どもたちのために買ったばかりだが、詰まるところ、良い意味でも悪い意味でも、ゲーム世界そのままの映画であり、何かそれ以上の付加価値があるものではないと感じた。 勿論、マリオやピーチ姫、キノピオやクッパたちに登場キャラクターとしての人格は備わっているのだけれど、決してゲーム世界で想像した以上の「言動」を起こすわけではなかった。 稀代のアクションゲームの映画化において、特筆すべき“驚き”が無いということは、やはり致命的な欠落だと思う。   「スーパーマリオブラザーズ」というゲームの魅力は、そのアクション性の豊富さや、そのイマジネーション溢れるユニークな世界観もさることながら、何よりも主人公である「マリオ」や敵役である「クッパ」に対する愛着の深さにこそあると思う。 配管工のヒゲおやじが、カメが巨大化した化け物に繰り返し挑み続けるこのゲームが、世界中から愛されているのは、一重にそのキャラクターたちが魅力的だからだろう。  ではなぜキャラクターが魅力的なのだろうか? どのシリーズ作においても、マリオがピーチ姫を助けに行くに当たっての具体的な経緯や、クッパがキノコ王国を支配しようとするに至ったバックグラウンドが詳しく説明されているわけではない。 マリオはいつだって、オープニングでさらわれたピーチ姫を取り戻すために問答無用に冒険をスタートさせる。 でも面白い。それは、プレイヤー一人ひとりが彼らのキャラクター性を「想像」するからだと思う。 プレイヤーは、「1-1」がスタートした時点で、マリオがどういう人間なのかということを無意識レベルで想像し、彼に憑依する。そしてゲームを進めていくにつれて、ピーチ姫やクッパのキャラクター性に対してもより一層想像を深めていく。 その想像の深まりと共に、プレイヤーはゲーム世界に没頭し、コースをクリアしていくことに快感を覚えていく。それが、「スーパーマリオブラザーズ」のゲームの魅力、そこに登場するキャラクターたちの魅力だと思う。  つまり何がいいたいかと言うと、この映画作品で描き出されたマリオをはじめとするキャラクターには、世界中のゲームプレイヤーたちが延々と繰り広げてきた「想像」を超えるものが存在しなかったということ。 言い換えれば、極めてベタで平均的な「想像」に終止したキャラクターが、ゲーム世界そのままの映画の中で活躍する様を見ているようだった。 それはすなわち、他人がプレイしている「スーパーマリオブラザーズ」を見ているようでもあり、楽しくはあるけれど、当然ながら自分自身でプレイしている時のような、驚きや快感を伴う面白さは無かった。  「スーパーマリオブラザーズ」の映画化においてもっと追求すべきだったのは、世界中のプレイヤーたちが想像し得なかったキャラクター像の「創造」、もしくは実際にゲームをプレイしているとき以上の「体験」だったのではないかと思う。
[インターネット(吹替)] 6点(2023-11-19 22:24:37)
2.  THE FIRST SLAM DUNK 《ネタバレ》 
実際に映画鑑賞に至るまで、正直懐疑的だったことは否めない。 「完成」されている原作漫画を四半世紀以上経過した今(1996年連載終了、え、マジ?)、敢えてアニメーション化することの意義があるのだろうかと思ったし、原作者本人の手によってそれを侵害するようなことになれば、悲劇でしか無いと思った。  が、鑑賞し終えた今となっては、多大な満足感とともにこう断言したい。 紛れもない、完全な、「漫画の映画化」だった、と。  それはかつてのTVアニメシリーズでは遠く到達する余地も無かった領域だった。 桜木花道の跳躍、流川楓の孤高、宮城リョータの疾走、三井寿の撃手、赤木剛憲の迫力……、「SLAM DUNK」という漫画世界の中心で描きぬかれた“バスケットマン”たちの一コマ一コマの“躍動”を、まさしくコマとコマとの間を無数の描写で埋め、繋ぎ合わせ、動かす(Animation)という崇高な試み。 敢えて語弊を恐れずに言うならば、この映画作品に映し出されたものは、いわゆるアニメーションではなく、稀代の“漫画家”が己のエゴイズムを貫き通した先に到達した漫画作品としての極地だったのではないかと思える。  「THE FIRST」と銘打ち、まさかの“切り込み隊長”のバックボーンを描いた本作。 殆どすべての原作ファンにとって、そのストーリーテリングは、是非はともかく驚きであったことは間違いないだろう。 賛否が大きく分かれていることからも明らかなように、その追加要素が雑音として響いてしまったファンも少なくないのだろうと思う。  ただ、個人的には、この加えられた物語こそが、連載終了から四半世紀経った今、井上雄彦が描き出したかった物語であり、「SLAM DUNK」という漫画をもう一度クリエイトする理由に他ならなかったのだと思う。 例えばもっとシンプルに「山王戦」のその激闘のみを精巧に描き出した方が、特に原作ファンのエモーションは更に高まったのかもしれない。 でもそれでは、井上雄彦本人が監督・脚本を担ってまで本作に挑む価値を見い出せなかったのだろうし、そもそもこの企画自体生まれていなかったのだろう。  井上雄彦は、時代と価値観の変化と混迷の中で、「バガボンド」、「リアル」という彼にとってのライフワークとも言える作品を、その終着点を追い求めるかのように描き続けている。 漫画家という立ち位置を崩すことなく、ただひたすらにその表現力を進化させ、思想を発信し続けるクリエイターの矜持が、本作には満ち溢れていた。  そのすべてを井上雄彦自身が生み出している以上、無論これは後付などでは決してなく、原作漫画「SLAM DUNK」の研ぎ澄まされた1ピースであろう。 いや、四半世紀前から知っちゃいたけど、「天才」かよ。
[映画館(邦画)] 9点(2022-12-12 21:37:35)
3.  さかなのこ
「普通って何?ミー坊はよくわからないよ」  「普通」じゃない人生に嘆く幼馴染に対して、主人公の“ミー坊”は純粋にそう言い放つ。 そこにあったのは、安易な“なぐさめ”でもなければ“やさしさ”でもなかった。 ミー坊自身、普通じゃない生き方をしていることへの自覚があったわけでもないだろうし、好きなものをただ「好き」と言い続けることの価値なんてものを「意識」していたわけでもないだろう。  ただボクは“お魚さん”が好き、だから、“お魚さん”のことばかり考えて生きていきたいし、生きていく。 もし、ただそれだけのことが「普通」じゃないとされるのなら、しかたがない。  彼の根幹にあり続けるものは、雑味のないその「意思」ただぞれのみであり、それ以上でもそれ以下でもない。彼は自ら選択したその生き方に対して、他者からの意味も価値も求めていない。だからこそ、決して揺るがず、ブレない。  それが、この映画の主人公の魅力であり、彼を描いた本作の魅力だろう。 誰しも、自分自身に対して嘘偽りなく、まっすぐに生きていたいと心の中では思っているはずだ。 でも、残念ながらこの世界はそういうことを簡単にまかり通せるほどやさしくできていないし、そういう意思表示をすることさえ難しい。 そんな「意思」を貫き通す主人公が登場しても、「こんなのファンタジーだ」と、普通の大人なら感じてしまうだろう。  そう“普通”なら、こんな馬鹿げたヘンテコリンな映画は、まともに観ていられないはずなのだ。 だがしかし、この映画の中心、この映画を生み出したプロジェクトの中心に存在するモノが、「さかなクン」という“リアル”であることが、この作品を奇跡的に成立させているのだと思える。 どんなに“変”な人間たち、どんなに普通じゃない人間模様を見せられていたとしても、そこにさかなクンという現実に存在する人間の人生が存在する以上、この物語が破綻することはなく、私たちはこの映画世界に没入することができる。  また、いびつで愛おしく多幸感に溢れる映画ではあったけれど、この映画は決して“綺麗事”や“理想論”を都合よく並び立てているわけではない。 あからさまにネガティブなシーンは敢えて一つも見せていないけれど、この映画世界の中では、常に苦悩と孤独、人生における辛酸がぴったりと寄り添っている。  その極みこそが、さかなクン自身が演じる“ギョギョおじさん”の存在だろう。 社会から拒絶され疎まれ、孤独に生きる“ギョギョおじさん”は、まさにさかなクン本人の“ありえたかもしれない姿”であり、主人公ミー坊自身の未来像かもしれなかった。 藤子・F・不二雄の短編漫画「ノスタル爺」のように、子供の頃に出会った孤独な大人は、自分自身の未来の姿だったという悲壮な展開すらも容易に想像できた。   作品のイントロダクションから伝わってくる情報を大きく越えて、全編に渡る“多幸感”とそれと合わせ鏡のように存在する“闇”を孕めた特異な映画だったと思う。 フィルム表現のザラつき、エモーショナルな時代の風景、性別なんて概念を超越したアクトパフォーマンス、そして好きなものを好きと言い続ける崇高さ、映画表現を彩るあらゆる面で、意欲と挑戦に溢れた傑作。
[映画館(邦画)] 10点(2022-09-23 09:51:55)
4.  サイダーのように言葉が湧き上がる
ヘッドホンは屋内外問わず必携だし、マスクも現在の感染症対策に関係なく実は一年中していたい。 特に明確なコンプレックスがあるわけではないけれど、世の中に対してささやかな“ガード”をすることで、心を落ち着かせることができる。 そのことが他人とのコミュニケーション不足に至ってしまっていることも否めないけれど、この社会の中で折り合いをつけるためにはもはや不可欠な「対策」だとも思う。 そうそれは、僕自身の性質だ。  そういうわけで、本作の主人公二人が抱えるコンプレックスとその心情に対しては、最初から共感せずにはいられなかった。  思春期特有のナイーブさも重なり、すべてをさらけ出せない二人は、それでも自分自身の存在証明のために、俳句を詠み、ライブ配信をしている。 アニメ作品としては特に劇的なドラマが繰り広げられるわけでもなく、ファンタジックな事象が巻き起こるわけでもない。とある地方都市の大型ショッピングモールを舞台にしたミニマムなボーイ・ミーツ・ガールだった。  劇的ではないストーリー展開が、むしろ逆に主人公たちをはじめとする登場人物たちの何気ない心情を浮き彫りにし、愛らしい人間模様を表現していたのだと思える。 大型ショッピングモールがデンと構える風景も、もはや日本中のあちこちで見られるありふれた光景だろうけれど、ヴィヴィットでポップな背景のグラフィックデザインが、彼らにとって特別な「今この瞬間」を切り取っていたと思う。  キャラクター造形は総じてステレオタイプだとも言えるし、ストーリーテリングにも安直さやご都合主義が見え隠れすることは否めない。 それでも、“ガード”をすることしかできなかった少年少女が、自分自身の大切な思いを、行動と言葉で、相手に伝える様にはエモーショナルを感じずにはいられない。  そして、“アテ書き”としか思えない杉咲花のキャスティングが間違いなかった。  青臭く つたない言葉 ぼくはすき
[インターネット(邦画)] 8点(2022-05-21 00:39:12)(良:1票)
5.  ザ・ファブル 殺さない殺し屋
この娯楽映画は、現代の「時代劇」だ、と思う。 主人公ファブルが用いる殺傷能力の無い“弾丸”でのガンファイトは、さながら時代劇の「峰打ち御免!」に通じる。 即ち、この映画の在り方ははある側面において、日本の“チャンバラ映画”文化の継承とも言えてしまうのではないか。 圧倒的戦闘能力を保持する主人公が、その現代の“峰打ち”を縦横無尽に放ちながら、敵を蹴散らしていく様は、良い意味で単純明快な娯楽性に富み、楽しい。  最近、原作漫画の1stシーズンを全話読み終えて、この作品の世界観やキャラクターのエンターテイメント性にすっかりハマった。 心身ともに“人間離れ”した主人公が、「普通」に生活することに喜びを感じつつ、殺し屋稼業故に尽きない危機に対応していく様は、とてもユニークでフレッシュだ。敵味方含めて個性に溢れたキャラクター描写も魅力的で愛着にあふれる。  映画化に当たって、漫画世界が内包する独特の空気感や絶妙なコメディセンスまでもが完全に再現されているとは言えないけれど、アクションシーンの精度と意欲には、前作含めて目を見張る。 特に原作漫画にはなかった「団地」で一連のアクションシーンは、国内映画のアクションレベルを数段階上げたと思わせる迫力と娯楽性が備わっていた。 そこには、主演の岡田准一の体技とアクションセンスが存分に生かされていて、改めてベストキャスティングだと思える。  キャスティングにおいては、悪役“宇津帆”を演じた堤真一も流石だった。偽善と謀略を巡らせる悪人を見事に演じきっていたと思う。その他のキャストも概ね原作漫画のビジュアルやキャラクター性に対して忠実で、原作ファンとしても違和感は少ない。  というわけで、すべてが満足というわけではないけれど、そういう多面的な側面での娯楽性を持つ映画シリーズになっていると思う。 次作は“山岡”の登場かな。それを誰が演じるのかの想像を巡らせながら、続編も楽しみにしたい。
[インターネット(邦画)] 7点(2021-11-22 10:51:13)
6.  ザ・ファブル
原作は某マンガアプリの無料枠で途中までしか読んでいないが、南勝久による漫画の世界観は、絵柄、キャラクター性、テンション、すべてにおいて独特で、シンプルに「面白い」の一言に尽きる。  なんと言っても、この原作漫画が描き出した主人公・ファブルのキャラクター設定が独自性に溢れ、秀逸だと思う。 不殺さずの殺し屋という「矛盾」を成立させたキャラクターの立ち位置と、この作品の世界観は、極めて漫画的であり、同時に今の“日本映画向き”だとも思った。  映画文化に対するリテラシーが低いと言わざるを得ない国内の一般ユーザー層に対して、あまり振り切ったバイオレンス映画がウケづらいことは明らかであり、また「暴力」をエンターテイメントとして大衆に問答無用に受け入れさすことが出来得る映画の作り手も限られている。  だから、この作品が内包する“バイオレンス”と“コメディ”が絶妙に入り混じった作品世界は、今の日本映画界において手を出しやすい題材だったのではないかと思える。 そこに、岡田准一という当代きっての“スター”をキャスティングすることで、布陣は盤石になったと言えるだろう。  事実として、今作は“国産アクション映画”としては間違いないく一等級の部類に仕上がっていると思うし、“岡田准一”というアイドル俳優が体現する「説得力」には脱帽だ。  “アイドル俳優”という言い回しは、少々否定的な意味合いに聞こえるかもしれないけれど、まったくそんなことはなく、彼の映画俳優としてのスター性と魅力は絶大だと思っている。 国民的アイドルとしてのルックスと人気を持ち、本格アクションからコメディまでこなす岡田准一の映画俳優としての立ち位置は、まさしく「ポスト真田広之」であり、彼がこの国を代表する「名優」として映画界を牽引していくことはほぼ間違いないだろう。  そんな特異な主人公及び主演俳優を主軸にして、脇を彩るキャラクターも非常に魅力的だった。  見紛うことなき「悪役たち」を演じた、柳楽優弥、向井理、福士蒼汰のイケメン俳優陣は、それぞれが三者三様の「悪」を表現しており、フレッシュだったと思う。 ファブルの「妹役」役の木村文乃、ヒロイン役の山本美月の二人の女優陣も、表面的な明るさの裏に孕む深い影を持った女性像を印象的に演じていた。  そして、ファブルを預かる大阪の組組織の若頭(社長)を演じた安田顕は、悲哀と暴力性に満ちたヤクザの長を見事に演じきっていたと思う。  兎にも角にも、気になりつつも劇場鑑賞を逃してしまったことを後悔するくらいに、満足度の高い娯楽映画だった。 コロナの影響で公開延期となっている続編だが、こりゃあ(“てち”出演を抜きにしても)観に行くしかないな。
[インターネット(邦画)] 7点(2021-02-07 23:57:20)
7.  斬、
「死」自体を含めた「生」に対する“衝動”。  そのあまりにも荒々しく、場面によっては酷く稚拙にすら見える映画世界は、とてもじゃないが、世界に名を知れた還暦間際の映画監督の作品だとは、“普通”思えない。 池松壮亮や蒼井優が画面に登場していなければ、どこかの映画学校の学生が制作したのかと誤解してしまう“雰囲気”が無くはない。  が、しかし、これが「塚本晋也」の映画作品である以上、“普通”という言葉で収まるわけもなく、その稚拙さも含めた荒々しさに、只々、心がざわめく。  この映画は、幕末の農村を舞台とした時代劇ではあるが、一般的な「時代劇」という価値観に言い含められる様式や整合性、論理性などはまるで通用しない。 そこに存在したものは、60歳手前にして、相変わらずイカれた目をしている鬼才監督自身の「衝動」であった。  「1本の刀を過剰に見つめ、なぜ斬らねばならないかに悩む若者を撮りたいと思った」  と、塚本晋也監督はこの作品の発端について言及している。それは、監督自身のインサイドで発生した衝動に他ならない。 ある時、真剣を見つめた彼は、衝動的にその刃を振り下ろしてみたくなり、そこに纏わる「生」と「死」を描き出さずにはいられなかったのだろう。 そして、その衝動は、監督自身が演じた“澤村次郎左衛門”というキャラクターの狂気に集約されている。  当然ながら、真っ当な「時代劇」を期待して本作を鑑賞すると面食らい、最終的には呆然としてしまうことは避けられないだろう。 明確な「死」に直面した主人公の侍は、無意識下で拒否する体調に苦しみ、その一方ではリビドー(性衝動)を抑えきれない。 そして、文字通り精も根も尽き果てる。 それは「時代」の急激な変動を目の当たりにして、“生き方”を変えざるを得ない人間そのものに生じた本能的な「拒否反応」のようにも見えた。  その繊細な心情を身一つで表現するに当たって、主演の池松壮亮は適役だったと言えよう。 そういえば、彼の初出演作映画は「ラストサムライ」(当時12~13歳)。あの映画も、幕末の農村が舞台となっていた。 全く関係ない映画作品ではあるけれど、両作のキャラクターとそれを演じた一人の俳優の成長を通じて、何か運命めいたものも感じる。  そして、蒼井優が久しぶりに“ブチ切れた”演技を見せてくれており、長年この女優の大ファンの者としては、彼女が体現するあどけなさ、危うさ、妖しさ、その全てが印象的だった。     山奥を彷徨う“視点”でのエンドロールを経て、果たして主人公は「生」を繋ぎ止めることができたのか否か。 「死をも克服している可能性すらある」と、“澤村次郎左衛門”と全く同じ風貌の“学会の異端児”の台詞が、どこからか聞こえてきそうだ。
[インターネット(邦画)] 7点(2020-03-20 23:13:32)
8.  三度目の殺人
硝子を挟んで二つの「顔」が重なる。 利己的な弁護士と虚無的な殺人犯。両者の発言と深層心理は時に絶妙に重なり合い、発される言葉が一体誰のものなのか一寸分からなくなる。 主人公は、或る殺人犯の靄がかった深層に、自分自身の本性を見つけるのだ。 ラストカット、彼は一人十字路に立ちたたずむ。果たして、どの路を進むべきなのか。答えの見えない葛藤に途方に暮れるかのように。  映画が終幕し、主人公と同様に映画館のシートでしばし呆然とたたずんだ。 秋の夜長、味わいがいがある余韻を残すサスペンス映画であることは間違いないと思う。 「三度目の殺人」というタイトルからも伝わってくる通り、往年の国産サスペンス映画を彷彿とさせるクラッシックな佇まいは、非常に上質だった。  と、今の日本映画界におけるトップランナーであることは間違いない監督の最新作を大いにべた褒めしたいところではあるのだけれど、あと少しのところで諸手を挙げて賞賛することが出来ない悩ましさがこの作品には確実に存在する。  先ずはストーリーの練り込み不足。最終的に示される深いテーマ性に対して、ストーリーの奥行きに物足りなさを感じずにはいられなかった。 意味深長でシンボリックな描写は随所に散りばめられ、その一つ一つの場面は極めて映画的で、非常に印象的ではあるけれど、同時にそのすべてに説得力が乏しい。  なぜ殺人犯は十字を切ったのか?少女の父親の愚劣な行動の実態は? と、物語の核心となる重要なポイントの描き出され方が、あくまでも象徴的で類型的な処理をされるため、ストーリーテリングとしても、人間描写としても、掘り下げが浅いと感じざるを得なかった。  それに伴い、各俳優陣の“良い演技”も何だか“型どおり”に見えてくる。  殺人犯を演じた役所広司は凄まじい演技をしているとは思う。言葉では表現しきれない空虚さと漆黒の闇を抱えた殺人者を、圧倒的な存在感で演じている。時に少々オーバーアクトにも見えなくもないが、この役柄のある種のメフィスト的立ち位置を踏まえると、正しい演技プランだったと思う。 しかしながら、肝心の人物描写が浅く中途半端なので、やはり最終的な印象として説得力に欠け、実在感が希薄だった。  広瀬すず&斉藤由貴の母娘像も、両者の好演により絶妙に忌まわしい関係性を醸し出せてはいるのだけれど、実際に彼女たちが抱えたであろう「痛み」の描写が皆無であるため、「そういう設定」の枠を出ず描かれ方が極めて軽薄だったと思う。 広瀬すずに関して言えば、昨年の「怒り」での“或るシーン”があまりに強烈だったため、殊更に今作での彼女の使い方に「弱さ」を感じたのだと思う。   そして、このサスペンス映画が、一級品になれなかった最大の理由は、「主演俳優」だと思う。 主演である福山雅治の演技者としての奥行きが、そのままこの映画自体の奥行きの無さに直結している。 決して、福山雅治が悪い俳優だと言っているわけではない。演者として、表現者として彼のことが嫌いなわけではない。むしろファンだ。 ただ、この映画においては、福山雅治という俳優の良い部分でも悪い部分でもある「軽さ」が、肝心な部分で引っかかってしまっている。  同じく是枝裕和監督が福山雅治を主人公に抜擢した「そして父になる」は素晴らしかった。 あの映画においては、主演俳優の軽薄さが最良の形で活かされる主人公造形が出来ていたからこそ、新しくも普遍的な父像を浮かび上がらせ、難しいテーマを孕みつつも、新たな家族映画の傑作として成立したのだと思う。  「そして父になる」と同様に、今作の主人公造形においても、おそらくは主演が福山雅治に決まった上での“当て書き”だったのだろう。 だからこそ、当然ながら主人公キャラクターの設定自体はマッチしているし、映画の構成的にもビジュアル的にも商業的にもバランスはよく纏まっているように見える。 だがしかし、突如として目の前に現れたメフィストフェレスと対峙して、自分自身の存在性と、「正義」というものの意味を突き付けられるというあまりにも深淵な人物表現を必要とされる役どころを演じ切る力量と適正を求めるには、彼には荷が重すぎた。 少なくとも、この映画においては、クライマックスに入り主人公の感情が揺れ動き、感情的になるほどに、演者としての空回り感が際立っていたことは明らかだ。  くどくどと長くなったが、結論として「面白くない」ということではなく、充分に見応えのあるサスペンス映画であったことは冒頭の通りだ。 傑作を通り越して名作になり得る「雰囲気」を感じる映画だっただけに、口惜しさも大きいという話。
[映画館(邦画)] 6点(2017-09-22 23:59:36)(良:2票)
9.  百日紅 ~Miss HOKUSAI~
「絵師」というものは、いつの時代も、どの国においても、この世とあの世の狭間で生きる人種なのかもしれない。 故に彼らの生き様は、ときに刹那的であり、一方で悠久たる時流の中でゆらりゆらりと漂っているようでもある。  主人公は、葛飾北斎の娘「お栄」。23歳。父をも凌駕する才能を垣間見せながら、彼女の若く瑞々しい視点を軸にして、魅惑の都市「江戸」が描き出される。 視覚や聴覚は勿論、触覚や臭覚、味覚に至るまで、五感の総てで浮世絵師たちが見た「風景」を表現しようとする趣向と、それに成功したアニメーションが見事だ。 特に、目の見えない主人公の妹の感覚を通じた、触覚や嗅覚の表現が白眉だったと思う。  秀逸なアニメーションによって表現された「江戸」は、楽しくもあり、妖しくもあり、悲しくもあり、そこに生きる人々の喜怒哀楽の総てをひっくるめてわらわらと賑わっている。 これ程までに「江戸」という時代と場所を描くにあたり、それそのものを「娯楽」として表した作品はなかなか無いのではないかと思う。  登場人物も総じて魅力的である。 特に、主人公のお栄は、絵師としての才気をほとばしらせながら颯爽と江戸を往く様が何とも格好良く、一方で垣間見せる未熟な乙女ぶりが何とも可愛い。そして、終始勝ち気な口ぶりを見せながらも、父と母と妹を常に気にかける慈愛の深さが感動を生む。声を担当した女優の杏は、まさに適役だったと思う。  惜しむらくは、オムニバス調のストーリーテリングが良くも悪くも散文的で、連なりに欠けていたところだ。 これだけ魅力的な舞台と人物の表現が出来ているのだから、ストーリー的にはもう少し踏み込んだ物語性を用意して欲しかった。 そうであったならば、絵師たちの人生観と江戸という世界観が、もっと深く混ざり合い、更に唯一無二の作品に仕上がっていたのではないかと思う。 確固たる良作であるが故に惜しい。
[DVD(邦画)] 7点(2016-10-17 23:10:42)
10.  ザ・ヤクザ(1974)
2014年11月10日。日本映画史上最高の大巨星墜つ。 映画俳優高倉健の死に対し、喪失感は大きすぎる。ただ、彼が遺した205本の映画の殆どを、僕はまだ観られていない。 まだまだ高倉健の映画を観られることを、映画ファンとして幸福に思いたい。  高倉健のアメリカ映画出演作といえば、リドリー・スコット監督の「ブラック・レイン」の印象が強くその筆頭となりがちだが、それよりも15年も前に出演した今作のインパクトも中々のものだった。 「ザ・ヤクザ」というタイトルから、米国人が日本のヤクザ世界をモチーフに適当に作った“トンデモ映画”なんだろうと高を括っていたが、その認識は全くの間違いだったと言っていい。  確かに、日本人として少々呆気にとられる描写は多々ある。しかし、それらは製作者陣が決して適当に作っているものではなかったと思う。 日本の文化、その中でも取り分け“任侠映画”という文化に対しての多大な“憧れ”と“尊敬”の念が、全編に渡って匂い立つように強く伝わってくる。(待田京介の起用とか、分かりすぎている!)  結果的に映し出されていたものは、紛れも無い米国産の「仁侠映画」だった。  ラスト、高倉健演じる時代遅れの侠客が、仁義を貫くために“陰腹”を切ろうとする描写に驚いた。まさかアメリカ映画でそんな描写が観られるとは。 他にも“指詰め”に対する執拗な掘り下げなど、日本人でも少々引いてしまうある種マニアックな描写が続く。 それらを指して、リアリティがない等と言うことは、あまりにお門違いだ。 実際にそれが妄想であっても、ファンタジーであっても、それが欧米人が憧れ追求してくれた「仁侠映画」であれば、尊重されるべきだ。  描写が多少おかしかろうが、「仁侠映画」と「高倉健」、かつて日本中が愛した文化を、同様に愛しリスペクトしてくれているこの作品を、この国の映画ファンとして否定できるはずがない。   米国映画だろうとなんだろうと、あくまで「高倉健」のままで存在する俳優の立ち振舞に惚れ惚れする。 今でこそ、世界で活躍する日本人俳優は多いけれど、スター俳優としての存在感そのままで通用した俳優は、やはりこの人しかいない。 高倉健という俳優が、この国に存在したということを、改めて誇りに思う。
[DVD(字幕)] 7点(2014-11-22 01:33:36)
11.  39 刑法第三十九条
映画の序盤から終盤に至るまで、登場する人物の殆ど全員が、相手の目を見ようともせずにぼそぼそと話す。 鑑賞者としては、非常に聞き取りづらくて、不快感がつきまとったが、その不快感こそ、森田芳光がこの作品の中で貫き通したかった異常性であり、それが社会に生きるすべての人間に蔓延するものであることを表現したかったのだと思う。  他にも、大量の料理が並べられた食卓、グランドに転がる無数の軟球、カモメの無慈悲な目など、随所に目に見えない不穏さが溢れるシーンが多く描き出されていて、監督のこだわりを厭という程に感じられた。  「刑法第三十九条」という非常にデリケートで取り扱いが難しい題材を、意欲的にサスペンス化してみせていると思う。 核心となる計画の脆弱さなど、お話としての弱点は確実に存在する作品だと思うが、それを充分に補う要素が、監督の緻密な演出や、演者の存在感に備わっていたと思う。  時に過剰さも見え隠れしたが、俳優陣のパフォーマンスは総じてインパクトがあり素晴らしかったと思う。 岸部一徳、杉浦直樹、樹木希林、江守徹らベテラン俳優のあまりに個性的で強烈な脇役ぶりも特筆したいところだが、ここはやはり、主演の二人に言及したい。  鈴木京香も堤真一も、まだまだ若手の部類での主演作で、両者とも若々しい。 この難しい役どころを果敢に演じ、成功させてみせたことが、両者にとって大きなキャリアアップになったことは間違いないと思う。 映画の各シーンにおいて対峙し、互いの心理の本質を暴き合う様には、野心に溢れた俳優同士のぶつかり合いそのものを観ているようだった。  非常にアクの強い映画で、好き嫌いも大いに分かれるだろうけれど、こういう独特のアクを出す映画監督も少なくなった。 森田芳光監督の死は、やはり少し早過ぎた。
[インターネット(字幕)] 7点(2013-05-13 16:34:07)
12.  SR3 サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者
シリーズ通してひたすらに貫かれた“ワンシーンワンカット”という手法(意気込み)。登場人物たちの生々しい姿を切り取ったその手法と効果は、3作目にして極まったと思う。 主人公がイベント会場にこっそりと立ち入る場面から始まる十数分に渡るクライマックス。気が遠くなる程に延々と緻密に組まれたロングテイクが物凄かった。  まずこれまでのシリーズ作品とは明らかに一線を画す程にハードな映画世界に面食らった。 想像を遥かに超えたバイオレンス描写から物語は進み、主人公をどんどんと奈落の底へ叩き落とす。 「もうどうしようもないじゃないか……」と愛着のあるキャラクターの転落劇に、思わず気が滅入ってしまった。  入江悠監督の方向性はシリーズ通して終始一貫している。 日本語ラッパーの現実とそれに伴うであろう悲喜劇を真摯に捉え、主人公たちに決して安直な帰着は許さない。1作目、2作目同様、映画が終わっても主人公が抱える問題は一切解決してない。 ただ、それでもその先を生きていかなければならない。彼らに与えられるのは、その一筋の光とも言えない現実的な一つの「道筋」だけだ。  でもその厳しさこそが、このシリーズがラップという音楽に対する造詣に関わらず多くの人に勇気を与え、愛される理由だと思う。  と、映画としての価値の高さを認める一方で、個人的には一抹の不満も残る作品でもあった。 意欲的に描かれたハードな世界観は、実際の現場の人たちからするとある程度「リアル」な描写らしいが、知らない者にとってはどうにも「非現実感」を拭うことが出来なかった。 ハード描写そのものに現実感が無かったというよりも、その世界とこの映画シリーズのレギュラーキャラクターたちが絡むということに現実感を見出せなかったように思う。 主人公にのしかかる悲惨な現実の一つ一つが、何だか取って付けたように見えてしまったことは否めない。  クライマックスのロングテイクは素晴らしかったが、それだけにその後のシリーズにとってのある種お約束とも言える“場違いな”熱いラップシーンが、少々蛇足に感じてしまった。  ただし、そういった「難色」は、シリーズ全作品を認めた上で「2」が大好きという個人的な趣向によるものであろう。 したがって、このシリーズ完結編がエネルギーに溢れた凄い映画であるということに異論は勿論無い。
[DVD(邦画)] 6点(2013-02-25 11:45:17)(良:1票)
13.  THE LAST MESSAGE 海猿
決して褒められた映画でないことは分かっている。分かっているが、結局「面白い」と思ってしまうのだから、もうこれは個人的な趣向であり仕方がない。 ありきたりな展開に、取って付けたような台詞回しが網羅され、全編通して失笑が無くなることはないのに、用意された娯楽性を充分に堪能してしまう。 それは、この映画シリーズに共通することで、詰まるところ、突っ込みどころは満載だけれど僕はこのシリーズの世界観そのものが嫌いじゃないんだろうと思う。  福岡県沖に建設された巨大天然ガスプラント施設にて不慮の事故で火災が発生し、当然の如く主人公たちのチームが現場へ向かう。 前作でも不満に思ったが、このシリーズは事故発生のプロセスが性急過ぎる。加えて主要登場人物たちのバックボーンを垣間見せる程度のプロローグも殆どないので、そもそもにおいて感情移入をする暇がない。 そのことが映画全体に蔓延する「取って付けた感」の最たる要因だろう。  今作で舞台となる天然ガスプラントは、政治的背景も絡ませやすく題材としては面白く思えたが、結局描き出される展開は前作の完全なる二番煎じである“ポセイドン・アドベンチャー”的ストーリーであり、あまりに新しさに欠けていたことは否めない。  と、自分の中の冷静な部分は映画における粗を的確に捉えているのに、それに反するかのようにクライマックスに合わせてまんまと高揚感は高ぶってしまっている。 「何なんだこれは?」と自分の中で不思議に感じつつも、これまた繰り返されるお決まりのクライマックスシーンにジワリとくる始末。  何の工夫もない馬鹿正直な“熱さ”に辟易しながらも、最終的にはいつもその“暑苦しさ”に呑み込まれてしまう。この映画シリーズには、そういう理屈ではない強引さだけは備わっていると思う。  そう自分自身に“いいわけ”して、公開中の最新作もちょっぴり気になってしまうのだった。
[地上波(邦画)] 6点(2012-07-17 17:05:31)(良:1票)
14.  サマーウォーズ
ネット上の仮想世界が、現実世界のライフラインをも司るようになったごく近い未来社会。 そんな中、田舎の“おばあちゃんち”に集まった家族一同が、結束して世界を救う。という話。  “バーチャルリアリティ”の世界と、旧家の“おばあちゃんち”という相反する「場面」の融合。 このユニークな題材を、「時をかける少女」の細田守×マッドハウスがどうアニメーションとして描き出すのか。 それは興味深さと同時に、大いなる疑問符を持たざるを得なかった。  が、その疑問符は、圧倒的に高い「創造物」としてのクオリティーの前に、早々に一蹴される。  作り込まれた仮想世界のディープさと、“おばあちゃんち”という普遍的な日本の様式を見事に共存させ、映画に引き込まれるにつれ、この上のない“居心地の良さ”に包み込まれる。 ストーリー自体ももちろん面白かったのだが、マトリックス的に入り組んだ世界観を、決して小難しく表現するのではなく、日本独特の居心地の良さの中で極めて身近な感覚で表現できたことが、この映画のこの上ない価値だと思う。  仮想世界の中でのアバター同士の“つながり”を、現実世界の家族同士の”つながり”、そして世界全体の人間同士の“つながり”にまで昇華していく。 その様は、ネット上でしか繋がりを持てないでいる現代人、すべてを“数字”で処理してしまう現代社会に対する警鐘であり、同時に“救い”のように思えた。  そういうことを、難解なフレーズを並び立てて描き出すのではなく、主人公の少年をはじめ、一人の人間の心の成長の中で瑞々しく描き出す映画世界に、泣けた。  梅雨明け初日、夏のはじまりの日に見る映画として、実にふさわしい。実にスバラシイ映画だ。
[映画館(邦画)] 9点(2009-08-01 12:48:58)(良:3票)
15.  ザ・マジックアワー
三谷幸喜が、「映画」そのものをパロディー化した「映画」を作った。 それは、今の日本を代表する喜劇作家が、辿り着いた一つの到達点かもしれない。  前作「THE 有頂天ホテル」ほどの娯楽映画としての煌めきはないが、それ以上に、「映画」そのものに対するあらゆる憧れと愛に溢れた映画だと思う。  ひたすらに銀幕での成功を夢見る売れない映画俳優を、今や日本映画界のトップ俳優と言っても決して過言ではない佐藤浩市が演じるという“面白さ”。 そしてその映画俳優の滑稽な様を、絶妙に演じて見せた佐藤浩市と、それを引き出した三谷幸喜。 この俳優と監督のコラボレーションの成功が、そのままこの映画の成功だと思う。  喜劇を、ただ喜劇で終わらせないことが、三谷幸喜という作家が優れた部分で、この映画の核心も、そういう要素が溢れる。  売れない映画俳優が、ギャングの抗争に巻き込まれ、騙されたままひたすらに演じ続ける。 そこには、作り込まれた笑いのエッセンスと共に、どこまでも自分の夢を真っすぐに追い求める不器用な男の愛すべき姿が表われる。  映画が好きな人、夢を追い求める人、または追い求めたことがある人にとって、その姿には、特に胸を締め付ける程の感慨深さが残る。  良い映画だったと思う。  
[映画館(邦画)] 7点(2008-06-10 00:34:49)(良:1票)
16.  さくらん
軽く酒に酔った雛祭りの深夜、ふらりと立ち寄った映画館で、“色”と“艶”に包まれる。 圧倒的な“感覚”に元々の“酔い”は益々広がり、吸い込まれていった。  遊郭の女たちのパワーとモロさ、そしてどうしようもない切なさが、極彩色の映像美の中でめくるめく。 もちろんそこは、華やかさの反面くるおしいほどに「不条理」だが、何かそれ以上に本質的な“美しさ”を感じた。 どうやったって“生き抜く”ということの美しさ、想いを通すことの美しさ、女の根本にある絶対的な美しさ、そういうあらゆる「美」がビジュアルのそれ以上に伝わってきた。  映画初監督となった写真家・蜷川実花の“創造性”は「本物」だ。すでに「完成」されている安野モヨコの原作を、映像作品としてさらに「完成」させてみせたチカラに文句のつけようはない。 さらにそこに、音楽の椎名林檎、主演の土屋アンナが加わり、交わり、今や“ジャパニーズ・ガールパワー”の先頭をぐいぐいと走る才能による物凄い映画が誕生したのだと思う。  雛祭り。まさに“女の祭り”、その夜にこれほどふさわしい映画はなかっただろう。
[映画館(邦画)] 10点(2007-03-04 11:30:18)(良:1票)
17.  殺人狂時代(1967)
レトロなアニメーション調のオープニングから始まり、全編にわたって醸し出されるモダンでハイテンションな映像世界。日本映画界における娯楽映画の巨人・岡本喜八の真骨頂がここにあると思う。  一癖も二癖もある飄々とした大学講師に、変人揃いの殺人集団が問答無用に襲い掛かる。40年近くも前に、こんな突飛な設定を堂々と描き出すその豪快さにまず感嘆する。 そこに軽妙な台詞回しと、ビビットなカメラワークとカット割りが加わり、今尚“新しい”娯楽映画の世界が広がる。 そして、映画の核心は娯楽映画の範疇にとどまらず、「殺人」やその礎の「狂気」にまで哲学的に迫っていく。  一役で、とぼけたユーモア性とスターの風格漂うダンディズムを表現している仲代達矢は、見事という他ない。悪役を演じる天本英世の怪奇ぶりも流石だ。  アクション、コメディ、ミステリー、ハードボイルド……あらゆるエンターテイメント性を併せ持つ娯楽映画の傑作と言えるだろう。
[DVD(邦画)] 8点(2006-12-24 14:30:51)(良:1票)
18.  サマータイムマシン・ブルース
SF」と聞いて個人的に真っ先にイメージされるものは“タイムマシン”であり“タイムトラベル=時間移動”だったりする。 ストーリーの要素としてとても好きなものだし、故にありとあらゆる“タイムマシンもの”を見てきた。 そもそもが、「空想」の範疇を出ない素材なので、その捉え方や描き方には限界はないハズだが、このところの“タイムマシンもの”にはマンネリ化がつきまとうことも事実。そんな中において、ちょっと新しい“タイムマシンもの”が生み出されたと思う。  タイムマシンとしての概念的な新しさは決して求めず、ある意味ベタベタな設定の中で、「おかしさ」のみを追求した結果、まったく新しいストーリー展開が広がったと思う。 「SF研究会」の大学生グループがタイムマシンを手に入れたにも関わらず、ひたすらに壊れたクーラーのリモコンを巡る騒動のみに終始する様が面白い。 学生たちの、ノリの暑苦しさと悪ふざけぶりが、おかしさに拍車をかけ、本広監督らしい小道具の隅々までに気を配る演出が冴える。  登場キャラクターたちのノリの軽さと若々しさは最後まで徹底されるが、だからこそ垣間見える力強さや、切なさは、まさに夏のブルースを掲げるにふさわしい。
[DVD(邦画)] 8点(2006-10-28 12:43:42)
19.  THE 有頂天ホテル
今でこそ数々の映像作品にその活躍の場が広い三谷幸喜だが、やはりホームは舞台劇。ステージ上で展開されるような限られた空間を生かし描いた喜劇にこそ、彼の「笑い」に対する創造性が生かされることはもはや周知の事実であろう。そう一般に言う「グランドホテル形式」こそ三谷幸喜の独壇場なわけだ。ならば、その言葉自体を生んだ名作「グランドホテル」そのものをパロディ化した今作はが面白くないわけがない。 盛りに盛られた三谷流の“笑い”の伏線の数々に、問答無用に“豪華”なキャスト陣がそれぞれ絡み合い、爆笑を通り越してもはや「見事」と言うほか無い。 年越しを目前にして、様々なタイプの人間たちが集い、それぞれの悩みや葛藤を解消していく。笑いと同時に、素晴らしいドラマ性も含んだ映画世界は、愛すべき幸福に溢れていると思う。 ただ残念なのは、この年の瀬を描いた映画が、年明けの二週間後に公開となったこと。やはり、数日でも年末を含んで公開して欲しかったと思う。そして、リアルな年の瀬、もしくは正月に観たかった。
[映画館(字幕)] 8点(2006-01-17 00:23:17)
20.  SURVIVE STYLE5+
怒涛のごとく押し寄せてくる奇怪な人生の“スタイル”。冒頭の浅野忠信のモノローグの通り、彼らのスタイルは、この映画を呑気に映画館で観ている僕たちにはあまりにかけ離れた世界のように思う。しかし、彼ら自身は決して自分たちが奇妙な世界に生きているとは微塵も感じていない。奇奇怪怪な生活を送りながら、もちろん苦悩はするが、彼らの息遣いは実に普遍的なものだ。だから、そんな特異な人生であっても、彼らが日々に感じ取る事は、僕たちのそれと何も変わらない。家族愛、夫婦愛、同性愛…、ひたすらにその中心にあるものは“愛”なのだ。その至極シンプルなテーマをCMプランナーらしいアイデアの羅列の中に描き出す、その画期的な趣向に引き込まれる。 豪華すぎるキャスト陣が揃わなければ成立しなかったであろうこの映画。個人的には、大陸を越えてやってきたヴィニー・ジョーンズの怪演、そして橋本麗香の可愛すぎる“狂気”にぐうの音も出なかった。
[映画館(邦画)] 8点(2004-10-25 18:31:24)(良:1票)
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