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onomichiさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 404
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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61.  モテキ
前半はすごく面白かったのだけど、後半は観ているのが結構辛かった。なんか面白くなくて。それは結局のところ、主人公が何故モテるのか観ている最中に殆ど理解できなかったからだろう。ホント、何でそんなにモテるのかな? ちなみに森山未來クン自身はダンスもうまいし、すごく魅力的だとは思うけど。(以前見た新感線の舞台もサイコーだったし)  これからの時代、趣味の結びつきこそが人間関係の基本となる、つまり「生きる縁(よすが)」となり得るのだ、と言ったのは『ハイ・フィデリティ』の主人公だったか。なるほど、今やそれが現実的に妥当な時代がやってきたということか。成長よりも趣味ってか。  それはそれとして、リリーフランキーの演技は最高だったなぁ。役柄は人としてサイテーなところもあるのだけれど、全然憎めないというか。ああいういい加減さって、逆に人間的に大きな魅力として映るのかもね。 
[映画館(邦画)] 7点(2011-10-10 10:06:58)
62.  探偵はBARにいる 《ネタバレ》 
面白かったので、映画を観てから、原作も読んだ。原作との大きな違いは「相棒」高田こと、松田龍平が準主役級の扱いになったこと。高田の恍けた味わいと2人の掛け合いが楽しかった分、主人公「俺」の大泉洋の魅力もかなりアップしたと思う。映画は、原作以上に登場人物たちのキャラが立っていて、キャラクター映画としても楽しめる。 主人公のキャラも若干かぶるけど、ところどころにルパン三世を彷彿とさせるシーンがあったりして、それも結構面白かった。 実は、それほど期待して観始めたわけではなかったので、カルメン・マキの登場、彼女の一言と『時計をとめて』には個人的にいきなり「やられた」って感じだった。そういった映画を印象付ける小道具が効いていて、いくつかの小技(ディテール)がツボを突いた。主人公の行動はわりとコミカルなのだけど、それでも自らの信条(マキシム)に従っているかの如き言い訳がましいモノローグが微笑ましく、ハードボイルドというよりはソフトボイルドって感じで、それはそれでひとつの文体として結構ハマっていたと思う。  但し、主に原作との比較で不満な点もあった。ひとつはバイオレンス描写。高嶋政伸のキャラ故のことだと思うが、あそこまでの(原作にもない)バイオレンス描写を映像化する意味があったのだろうか?正直、やりすぎの感あり。 もうひとつは冒頭シーン。原作は、ハードボイルド小説の常套として、依頼人からの電話で始まる。映画もそれに倣ってほしかった。それはやっぱりお約束でしょう。  最後に、主人公が真相に気付くシーン。これは原作にない感動的なシークエンスだと思う。正直言って、真相そのものは「それしかないだろう」というほどに単純なプロットなのだけど、事件に至る彼の人の動機、探偵が事件に拘る動機、登場人物たちが事件に関わるそれぞれの動機に関しては、すごく説得的で、胸にじーんとくるものがあった。それは「愛」である。たとえその行いが間違っていたとしても。。
[映画館(邦画)] 9点(2011-10-06 00:19:23)(良:2票)
63.  東京公園 《ネタバレ》 
伝わる映画。  日常の中、生活全般に関わる些事の中で泡のように浮かんでは消えていく淡い想い。それでいて胸を締め付ける想い。そんな人を愛しむ想いの大切さを教えてくれる。(映画の中で榮倉奈々ちゃんは『雪のように溶ける想い』って言っていたよ) それは真っ直ぐに見つめるべきもの。そして、見つめ返されることの中に答えがある。(いや、見つめ返されることそのものが答えか) この物語はそう語りかける。海風の漣、暖かい陽だまり、木の葉のさざめき、大樹の陰。公園も語りかける。それが自然なのだと。  主人公はレンズの先の女性(井川遥)に導かれ、東京中の公園を巡る。異母兄弟となる姉(小西真奈美)に導かれ、亡き友人の彼女(榮倉奈々)に導かれ、最後には最も自然なカンケイに収まるのである。男たちは迷う。もちろん、女たちも迷う。想いが泡のように浮かんでも、せわしなさの中で、ともすれば、それを掴み損ねる。そんな時、東京を、そしてその場所を公園だと思えば、そこに佇むのも悪くない。  真っ直ぐに見つめ合い、ただお互いを確認し合う。そういう時間があっていいのだなぁ。公園のような暖かさ。主人公の自然な振る舞いは、確かに小津映画に出てくる人々を思い出す。それが生活というものの本来的な味わいに繋がっていくのだろうなぁ。生活感あふれる現実的なラストシーンは、そんなことを思い起こさせるに十分意図的な演出なのだろう。
[映画館(邦画)] 10点(2011-08-16 08:31:21)
64.  寝盗られ宗介 《ネタバレ》 
『寝盗られ宗介』は、つかこうへいの舞台作を若松孝二-原田芳雄のコンビで映画化した1992年の作品です。つか作品はよく知りませんが、映画『寝盗られ宗介』は、やはり主人公が原田芳雄ということで、彼独自のアウトローというイメージが纏わり付きます。中年のアウトロー。そこはかとないアウトロー。アウトローの末路と言えばいいでしょうか。とはいえ、別に拳銃を隠し持っている元テロリストというわけではなく、ただのドサ回り一座の座長にすぎないわけで、その存在はアウトローにしてはかなり頼りなく、庶民的です。さらに、女房を駆け落ちさせて、戻ってくる度に、彼女がまた自分を選んだことに自足し、恋愛感情を細々と持続させるという、主人公は、なんという姑息な人格でしょうか。 しかし、単純にそうとも感じられないのです。原田芳雄が主人公を演じることにより、それが人間として、正当であるような、そんな重みを錯覚させるのです。そして、『愛の賛歌』です。このクライマックスの歌が指し示す「深み」と「高み」は、その意外性と共に、映画そのものに大きなインパクトを与えています。観ている僕らを高揚させ、そのふわーっとした高みから物語も大団円を迎えるのです。人生っていいものだなぁ~なんてね。  この映画は、ストーリーに特筆するところはないのですが、やはり原田芳雄の存在感が光ります。それは主人公の役柄を超えます。その個性をじっくりと味わえるかどうか、それによって評価が分かれる作品なのだと思います。
[ビデオ(邦画)] 8点(2011-08-16 08:27:50)(良:1票)
65.  奇跡(2011) 《ネタバレ》 
『奇跡』とは、両親が離婚した為に、鹿児島と福岡に離れて暮らすことになった幼い兄弟が「奇跡」を信じて、ある行動を起こす物語。というと、最近流行りのハリウッド的な一大アドベンチャーのように聞こえるかもしれないけど、実際は全く違う(当たり前か)。これは奇跡を起こす物語ではなく、奇跡を信じること(=子供)と世界を取ること(=大人)を巡る物語なのである。  この映画では、大人たちがとても単純に見えてしまう。それは、登場する子供たちが大人以上にいろんな感情に揺れ動いて、様々な心の機微を働かせており、そんな子供たちの存在によって、大人たちが完全に相対化されているからだろう。  しかし、ここで描かれる子供たちは大人たちの分身である、とも思える。今、大人になった僕ら(登場人物の先生たちや親たちも含めて)がタイムスリップして、フィクションとしての子供を演じている。僕にはそのようにも思えた。だから奇跡は起こらない。最終的にすべては世界の平常の為、ゆるゆると丸く収まっていくのである。僕らは素直に子供たちに感情移入できる。大人っぽい子供たちは、奇跡を信じつつ、最後には目の前にある「世界」の方を取ってしまうから。ささやかなかなしさを感じつつ。
[映画館(邦画)] 9点(2011-07-08 21:20:39)(良:1票)
66.  八日目の蝉 《ネタバレ》 
心に残る映画。僕は「なかなかよかったぞー」と叫びたくなる。  原作小説は、以前、大澤真幸の評論で紹介されていたことをきっかけにして読んだ。現代人は、自らの人生を回収し安心できるような既成の物語を失っており、伝統的な精神分析で解釈し癒すことができない、つまり物語によって内面化され得ない「新しい傷」を負っている。大澤はそう言う。『八日目の蝉』の登場人物達はそのような「新しい傷」を負った人々である。希和子が薫に注ぐ愛情には母性という根拠(物語)が最初から失われている。そして、希和子に育てられた薫は、その無根拠の愛情故に、始めから根拠が失われた世界を生きざるを得なかったのである。  「根拠が失われた社会の中で、人はどのような生きる正しい道筋を辿ることができるのか?」 これは、村上春樹の小説のモチーフにもなっていたように、80年代以降の文学的核心だったのだと僕は思う。(意識的にも無意識的にも僕らはそこにこそ共感したのだ) そんな現状認識を踏まえなければ、『八日目の蝉』の「物語を失った人々の新しい物語」という本来的な意義を理解することはできないだろう。『八日目の蝉』は母性愛を問うた物語ではなく、そういった幻想(母性というのは近代社会の生んだ物語でもある)が剥ぎ取られたところにどのような物語が可能なのかという、物語自身の可能性を問うた物語なのである。(『トウキョウソナタ』と同じモチーフ)  さて、映画は、希和子や薫の淡々としたモノローグで構成される小説世界をうまく映像化していたと思う。そもそもこの題材は、小説よりも映画向きである。解釈の仕方は鑑賞者次第だけど、改めていろいろと感じさせるものが僕にはあった。小説で印象深かったラストシーンの希和子の言葉にまた涙した。そして、新しい関係性を掴む薫の決意にも改めて感動した。
[映画館(邦画)] 9点(2011-07-03 10:01:41)
67.  マイ・バック・ページ 《ネタバレ》 
この映画の良さは、マツケンの語り口とその佇まいにあると思う。 C.C.R.を弾き語る無邪気さや、彼女にささやく甘い言葉、上滑りする論理、仲間が自衛隊駐屯地に潜入している時にしゃーしゃーと漫画を読んで笑っている姿(それを同志の女性に見られても平気な体面)、警察に対する飄々とした虚偽の受け答え。実に多面的かつ、それぞれに表層的すぎるキャラクターを見事に演じていた。何事をもカッコにいれて、ただ運動で名を残すことだけを目的としていた男。その打ち捨てられた構造だけを模倣して、本物になろうとした(なれると錯覚した)男。それはそれで魅力的にも見え、且つ示唆的だとも思った。  とは言え、当時の全共闘の学生達が目指していたことを軽くみてはいけないと僕は思う。ただ訳も分からず彼らは戦っていたわけではない。彼らは何を打倒しようとしていたのか。それは、「世間」と呼ばれていたもの。今でもそれは日本社会に蔓延り、日本人の倫理を決定づけている。というよりも、日本人が本当の意味の倫理感を抱くことを強力に阻害している頽落そのものが「世間」なのである。それは「空気」とも呼ばれる。空気との戦い。(そりゃ勝てんわな)  気が付けば、闘争の論理は空虚なものとなり、敵となるべき対象を射程できずに、全ては内ゲバとなった。それが連合赤軍事件である。  それでも、当時、学生達が大学という特権的な空間にいたが故に「世間」に対峙できたこと、それはとても自覚的なものだったのである。しかし、いまや世間と大学の間には何の境界もなく、それは無自覚であるが故に問題意識の端にもかからない。「思想やジャーナリズムなんて分かりませーん」と臆面もなくつぶやく若者達を作ったのは「あの頃の僕らより、今の方がずっと若いさ」として過去の挫折を総括してしまった団塊の世代の大人達なのは確かだろう。彼らが「世間」を軽く見做すものとして、そこから逃走するものとして、80年代のポップカルチャーを設定したのは60年代から地続きの現象であったが、70年代以降に生まれた者たちにその意味や経緯がまともに伝わることはなかったのである。。。  主人公の部屋の壁にはディランのレコード"Another Side of Bob Dylan"がちゃんと飾ってあった。エンディングの真心ブラザーズの『マイ・バック・ページ』も心に響いた。
[映画館(邦画)] 8点(2011-06-09 21:44:21)(良:1票)
68.  乱れる 《ネタバレ》 
最後に思いもかけない展開となり、日頃冷静でしっかり者の彼女が我を失う表情で終わるラストカットがとても印象深いです。 高峰秀子の成瀬作品での特徴は、ツンとすました感じの雰囲気とあのちょっとひねたような独特の語り口調ではないかと思います。戦後的な新しい、女性的な芯の強さが彼女の個性でした。『稲妻』とか『流れる』とか、まさにそんな感じですね。『乱れる』は、彼女が40歳の頃の作品ですので、もうそういった新しさはありませんが、それでも彼女らしい女性的な強さを持ち、一人で酒屋を切り盛りするしっかり者で貞淑な未亡人として作品に登場します。しかし、義弟役の加山雄三のアプローチを受け、彼女は「乱れる」のです。それも徐々に徐々に心が揺らいでいき、気持ちが彼に傾いで、最後にはどうしようもなく心乱れてしまう、、、その様子がこれまでの彼女の役柄にはない分、とても新鮮だったのだと思います。この作品は、成瀬巳喜男の傑作であるとともに高峰秀子後期の代表作でしょう。  日本映画の黄金期を象徴する名女優。ご冥福をお祈りします。 
[DVD(邦画)] 10点(2011-01-01 14:29:58)
69.  青い山脈(1949) 《ネタバレ》 
終戦直後の昭和24年。 同じ時期の他の日本映画よりも当時の時代的雰囲気が色濃く反映された作品のように思える。小津や成瀬の現代劇にみられる良質な日本的心性、ある種の情緒的な風景を感じることは殆どできないけど、時代そのものをストレートに感じさせる。それがこの映画の最大の魅力だと思った。  『青い山脈』は海辺の町の女学校を舞台とした青春ドラマである。生徒の恋愛騒動をきっかけとして、それを認める認めないで学校のみならず地域社会を巻き込んだ話し合いにまで発展する。終戦後のデモクラティックな雰囲気の中で、恋愛というタームを高らかにうたい上げ、抑圧的な共同性(大人社会)との対比の中で、若さという特権とその青春の道筋を堂々と開放してみせたという意味において、後の学園ドラマの原型ともいえる。(同じような展開で言えば、かなり後年の金八先生では、「恋愛」が一気に「妊娠」になる。。。)  当時の日本人の集団意識について。杉葉子演じる新子が池部良演じる六助と街を連れ立って歩いただけで、同級の女学生たちがそれを不純異性交遊と見做し、学校の名誉を汚す行為だとしてその非行を断罪するシーン。それが卑劣なラブレター事件に発展し、それを授業中に原節子演じる先生に指摘されて女学生たちが次々と自身の非を認めて泣き出すシーン。同日放課後、女学生たちが教室での出来事をいとも簡単に忘れたかのように、改めて新子を糾弾するシーン。これらのシーンは当時の日本的共同体に典型的な集団ヒステリーのように思えた。  女学生たちは、卒業したら地元の男性と見合い結婚して家に入るのだからと先生に諭され、変な噂になったら嫁ぎ先を失うと窘められる。共同体の限られた情報と知識の中で、地域と寄り添って生きるしかなかった女学生たち。それは、先生らも含めた地域住民たちも同じであった。地域は自律的な相互監視と共同幻想によって支えられ、それ故に共同幻想が外圧で揺らぐことでそれは閉塞状態において容易に集団ヒステリーと化す。  このような展開は何かを思い出させる。そう、終戦直前に実際にあった沖縄戦の集団自決の悲劇である。限定的な情報、相互監視的な閉塞状態、外圧によって極限化する共同幻想。その中で集団ヒステリーはどこまで暴走するのか、歯止めが可能なのか、、、映画のシーンはその小さな名残のようなものだが、僕にはとても印象的だった。
[DVD(邦画)] 8点(2010-12-29 18:25:59)(良:2票)
70.  ノルウェイの森 《ネタバレ》 
素直に感動した。一般の評価が低いことを知っていただけに、期待以上に見応えがあった。  久しぶりにその世界に触れ、心が震えた。確かに小説のいくつかのエピソードが省かれていた分、此の物語に親しみがない人にとっては、それぞれの人物に絡みつく悲しみの影がみえず、彼らの行動の必然が理解できないかもしれない。しかし、僕はその欠陥を記憶で埋めながら、自然に観ることができたと思う。だから、それは欠陥にはならなかった。 僕の中で、永沢さんはナメクジを飲んだ永沢さんだったし、レイコさんは少女に翻弄されて自分を見失ったレイコさんだった。(レイコさんはもう少しシワシワの方がよかったかも) 突撃隊は説明がなくとも突撃隊だった。  映画を観るという行為は絶対的に個人的なものだと僕は思う。故に、その評価は、個人の記憶や経験、境遇によって変わってくるのは当然であり、原作を何度か読んでいる僕にとって、この映画の評価は、そういう個人的なもの、様々な記憶の補完とともに立ち上ってくるものとしてある。  基本的に原作に忠実なところがよかった。何も足さず、的確に小説の情景を、そのエッセンスを映像化していたと思う。松山ケンイチのワタナベくんも菊池凜子の直子も、そして水原希子の緑も、此の物語を体現した存在として、自然にそこに在ったと思う。此の物語はセックスと死をめぐる寓話でもある。映画は総じて感傷を排し、テーマそのものにフォーカスした感じだと思うけど、セックスの表現は悪くないし、僕の作品に対するイメージを損なうものではなかった。  草原で髪を風になびかせる直子。その大きな瞳から虚ろに漂う視線。とてもぐっときた。直子を失ったワタナベくんが海辺で慟哭するシーン。バックの映像はすこし演出に走りすぎたかなとも感じたけど、彼の慟哭の表情は、失ったもの、それが如何に切実なものであったかを僕らに突きつける。  「ワタナベくん、今、どこにいるの?」と最後に緑が電話口で問いかける。彼はどこでもない場所にいる。直子が死んで、彼は、彼の生きてきたひとつの根拠を失った。しかし、彼は、それでも生きていくことを決意し、緑に電話する。生の象徴である緑の口元に漂う微笑み。それは映像だからこそ現れたアカルイミライのようにも見え、それはそれで面白いと思った。  此の物語を体現した人物、映像、演出、、、素晴らしい作品だと思った
[映画館(邦画)] 9点(2010-12-29 18:18:55)(良:1票)
71.  告白(2010) 《ネタバレ》 
この話、ひとことで言えば、「ばかばかしい」。 これは、前に原作小説を読んだときに感じたことでもある。映画も基本的には原作をそのまま踏襲しているので、話の展開自体は同じように「ばかばかしい」。 なので、最後の方で再登場した松たか子が吐き捨てるように呟いた「ばかばかしい!」という台詞には正直ドキッとした。ほんと、そうですよね。ばかばかしい話ですよね。このプロット、この展開。松さんの言うとおりです。。  松たか子。前作「ヴィヨンの妻」も良かったけど、本作も堂に入った演じっぷりで、台詞回しや表情、そして、うしろ姿にはとても迫力があった。最後の「どっかーん」も鬼の形相のような笑顔も結構ぐっときた。  映画は、ばかばかしい話を随所に映像的に盛り上げていて、なかなか見所があった。この監督の映像感覚は相変わらず面白い。賑やかさの中に毒が効いていて、はっとさせられる場面もあった。ただ、あの断続的な映像が100分間ぶっ続けなのだから、やっぱり疲れるかな。  この話が観ている時の衝撃以上に全く心に残らないのは、話自体がマンガ的、キャラクター小説的だからだろうか。ノリとしては、よくある少年マンガのキャラ対決と同じかなと。少年が罪を犯す理由が「世間に自分を認めさせるため」であり、特に母親との関係に自我の心理的な動機を求める。100年前からの伝統に基づく実に類型的なお話である。(そこに最初から父親の影すらないのが現代的だけど) ついついそういう所につっこみを入れながら観てしまうのだが、何れにしろ、しっかりとキャラが立っていたので、この手の物語としてはかなり出来がよいのだと思う。マンガとしてみればその破天荒なばかばかしさは痛快だったし、多少の違和感を残しながら、最後はしっかりとオチが付いて、めでたし、めでたし、である。  告白とは? ということを考える。私の告白とは誰の告白なのだろう。私? 告白する私とは誰だろう? 告白すればするほど、いや、告白したつもりが、ただそう言わされているだけで、それが本当の私であるという確証など何処にもない。そうだろうか? 今や告白こそが私そのものであり、それ以外の本当など存在しえない、つまり「本当の私のココロ」などというものこそ、もはやありえないのだ、、、と考えてみる。そういう「告白」に人々が振り回されるという意味において、この映画の「告白」は実に現代的で軽い、なーんてね。 
[映画館(邦画)] 8点(2010-06-13 20:48:35)(良:1票)
72.  野良犬(1949) 《ネタバレ》 
とても印象的なシーンが多い作品である。戦後まもない東京。真夏である。冒頭の街の喧騒。闇市。警察署内の整頓された書類室。繁華街の片隅の寂れた様子。ダンスショーの楽屋。安ホテルの電話ボックス。郊外の田園風景。 真夏の暑さに茹だり、汗にまみれ、砂埃りが舞う。空気はジメジメとし、太陽はギラギラと照る。今とは違うであろう都会の匂い。そんなすえた匂いが画面から漂う。そして、雷雨である。雨に濡れ、その匂いを感じる。  僕が好きなのは、刑事役の志村喬と三船敏郎が仕事帰りに志村の自宅でビールを飲むシーンである。郊外の一軒家。開け放たれた縁側から夏の夜風が涼やかに吹き込む。そこで交わされる会話。最近の若い者は、、、アプレゲール!云々。戦後派の三船と戦前派の志村。でも志村の子供はまだ幼い。勤続20数年だから、まだ40代か。思いのほか、志村喬は若かったのか。。。  プロ野球の観戦シーン(巨人vs南海)は結構貴重なんだろうなと思う。ジャイアンツの青田、藤本、そして川上が打つ。選手たちの一挙手一投足に超満員の観客がわく。彼らはそれぞれに立ち上がり、喝采し、座る。鳴り物なんてない素朴な応援風景。テレビがない時代だから、観客は選手のプレイにとても素直に感動しているように見える。選手たちも自由気ままでとても楽しそう。  そして、最後のシーン。犯人役の木村功を追い詰める三船敏郎。緑の中を駆け回る。白黒の画面に、色のない映像に、目くるめく極彩色の光景が浮かび上がるよう。平穏なピアノ音の中で、静寂の中で、犯人の慟哭。  戦後という時代。復員者たちは、南方や北方の異国で戦争を戦い、多くの戦死者、餓死者を間近にし、幾多の犠牲の中で帰国する。また国内でも多くの人々が空襲の下で辛苦を味わい、銃後の混乱の中で、国民全体が敗戦を受入れた。そういう時代からたった4年後の物語である。そこにある物語は常に戦後の日本という時代を背景にせざるを得ない。そして、それは現在の僕らに響く。僕らは今でも戦後を出発点として連続した時代を生きているから。その原風景がこの映画に描かれており、だからこそそれが僕らに響くのである。  まだ「戦後」と呼ばれた時代風景の中で、その風景そのものが物語を綴っているような、それが現代の出発点だからこそ、僕らに響いてくる。その時代の貴重な空気、色、光と影、音や匂いが、ある種の思想として、そこにはあるのだ。
[DVD(邦画)] 9点(2010-05-13 00:33:46)
73.  リンダ リンダ リンダ 《ネタバレ》 
『天然コケッコー』の監督、山下敦弘の「女子高生のバンドやろうぜ」的映画。 ボーカルの女の子「空気人形」のぺ・ドゥナが素晴らしかった。彼女はこのとき24歳。でも女子高生になっちゃうのだからすごいね。  ペ・ドゥナの存在が大きなポイントというのは確か。彼女がいなかったら、この映画は、均質でうす~い物語になってしまっただろう。彼女の異質があってこそ、彼女と彼女たちの微妙な対比が面白い。  ペ・ドゥナが誰もいない夜の出店を歩きながら、「フランクフルトいりませんかー」と叫ぶ。薄暗い体育館の中でひとりだけのバンド紹介。アカペラで歌いだす。これこそ彼女のキャラクターである。すごく伝わるものがあった。じんじんときた。単なる「女子高生のバンドやろうぜ」的映画を超えて、彼女のさざめく孤独感、繋がりを求める切な思いと今の充実感がよく伝わってきた。  最後の最後でブルーハーツの「リンダリンダ」と「終わらない歌」がフルコーラスで歌われる。クライマックスとしては最高だ。すべてを忘れて世界と一体化する瞬間があるとすれば、こういう時なのだろう。シンプルなラストがGood。歌詞が身に染む。胸がキュンとなった。とても懐かしかった。
[DVD(邦画)] 9点(2010-05-13 00:30:19)(良:1票)
74.  ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~ 《ネタバレ》 
これはいけない。前半は『ヴィヨンの妻』、後半は別物。『太宰と妻の物語』と言いたいところだけど、実際の太宰の妻は全く違う境遇だったし、なんと言ったらよいか、ひとつの物語として、その「接ぎ木」は、とても中途半端に思える。  ヴィヨンの妻とは、大谷が泥棒を働いたということを店の主人から聞かされ、その台詞まわしに思わず笑い出してしまう佐知その人なのである。彼女を演じる松たか子がみせた泣き笑い、苦境をもろともしない根拠のない明るさ、小さく噛みしめる充実の表情はとてもよかった。それは一歩間違えば簡単に不幸に潰され、埋もれてしまうような仄かな明るさであり、だからこそ、それを真摯に描いてみせることによって、僕らははっとするような生の本質を感じる。彼女のからりとした明るさと大谷という破天荒な誠実さの対比にこそ、その本質がある。それが太宰治の『ヴィヨンの妻』なのだと僕は思う。  だから、、、途中から、ちょっと違うよなぁと思ってしまう。松たか子と浅野忠信はイメージに合うのだけど、「接ぎ木」以降の物語は、不要な「落ち」としか思えないのである。
[DVD(邦画)] 7点(2010-05-13 00:28:37)
75.  誰も知らない(2004) 《ネタバレ》 
『誰も知らない』は、登場人物達の絶対的などうしようもなさを残酷なまでにリアルに描ききった作品である。親たちは何の悪気もなく、子供を突き放し、結果的に彼らを疎外する。そのどうしようもなさ。その衝撃。そして、子供たちは何の屈託もなく、親たちを赦し、結果的にそういう社会を自明のものと受け入れる。そのどうしようもなさ。その衝撃。  カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』や『日の名残り』の主人公たちを思い出す。彼らは自らの運命を受け入れ、そこから決して逸脱することがない、限定された世界の住人たちである。彼らの独白は、限定された世界から決して外れない、彼らの世界観の中でこその語り、その絶対的な記憶であるが故に、僕らにある種の違和と共に欠落を想起させた。 それが『誰も知らない』の子供たちにも言える。諦念という言葉では当てはまらない現代的な心情、そのどうしようもない底の浅さと生来的な欠落を感じさせる。  しかし、全く救いのない物語の中に、子供たちの生き生きとした姿を感じてしまう(『空気人形』の人形と同じに)、そこで描かれる救いとは一体何だったのだろう。彼らが否応もなく受け入れた世界。それを自明のものとして引き受ける逞しさとアカルさに現代的な救いと希望を感じてしまう。ある種の恐ろしさをセットにして。。。
[DVD(邦画)] 10点(2010-04-03 09:16:44)
76.  いつか読書する日 《ネタバレ》 
気持ちというものは、言葉にして初めて形になる。他者に表明して初めて具現する。そうでない時、それは得体の知れないものとして在る。表情として、仕草として、態度として、それは明白なものでは有り得ない、、、と僕は思う。 田中裕子と岸部一徳は、お互いにお互いを意識する間柄であるが、それは今の日常に踏みとどまるよう気持ち(言葉)を抑えることで成り立っているが故に、彼らの中には、「得体の知れなさ」が、幻想として肥大している。時々、敢えて言葉にしてみることにより、自らの感情を認識しつつ、それはガス抜きされる。いわゆる「恋」である。倦怠さを超えて尋常かつ切実に繰り返されてきた30年間に渡る「恋」のファンタジーである。  唐突であり、また都合のよい展開。それもファンタジーとしての物語である。  30年間思い続け、それが成就するというファンタジー。「恋」を扱った物語として、それは必然の展開なのではないか。  「いつか読書する日」というのは、いつか彼女が買い揃えた文芸小説を心静かに一人読んで過ごす日(は「そのこと」を超えないとやってこないということ)を指し示しているのだと僕は思った。そして、過剰な思いや欲望を意識しつつ、自ら抑圧した長い日々があり、言葉を紡いだ「その日」があり、お互いを心のままに求め合った瞬間があり、それらが想い出に変わる日々、瞬間を永遠のものとして、これからようやく様々な物語を自らに引き入れることができるのであろうことを暗示しているのだと思った。もちろんそれが解釈として妥当なのかどうかは分からないけど、この映画がそういった想像を含め、様々な思いを喚起させることは間違いない。  幾多の社会問題を散りばめながら、その関係性の中でさざめく日常があり、日常を超えて持続した「恋」のファンタジーがある。胸を突く、感動的な映画だった。 
[DVD(邦画)] 9点(2010-03-05 00:40:57)
77.  愛のむきだし 《ネタバレ》 
観てしまった!『愛のむきだし』を!  奥田瑛二の娘 安藤サクラと満島ひかりが評判通りすごかった。なんというか、70年代的なエロを感じたなー。永井豪マンガの実写版みたい。それでもって、話は盛りだくさんなんだけど、全てが確信的に薄い。薄っぺらのペラペラーって感じ。まるで阿部和重の小説みたい。  愛=勃起だなんて。確信的に過ぎるくらいにアカルくて、ポップだ。それって、70年代から80年代にかけての価値観そのもののように思えるけど、それが今、同時代的なのかなぁ?  薄っぺらさの質感、その凄みというものがあるとすれば、それを作品として体現しているのが、実は、阿部和重の小説である。以下は彼の小説に関して以前に書いたレビュー抜粋である。  「冒頭で、昨今頻発する殺人事件の動機は「心の闇」などという問題ではないと述べた。阿部の小説を読んでいると、その認識は実は全く逆で、「心の闇」のなさこそが我々現代を生きる人間の荒んだ心情の由来ではないかと感じてしまう。真空にも物質的な密度があるように、平板さと明るさの中にこそ現代的な「心の闇」が裏返しに潜んでいて、それが瞬間的に漏れ出てくるのではないか。それこそが現代の心情の根源であるのだと。その境界の「薄っぺらさ」がある種の得体の知れなさ=息苦しさとして、僕らの胸に文学的に響いてくるのである」  人間の狂気を僕らの認識の下、無意識の奥深くに湛えられたものとこれまでイメージしていたのではなかったろうか?しかし、狂気は、トランプの裏側に貼り付けられたもの、それをめくれば、そこに現れるもの、簡単に表が裏になり、裏が表になる、そういったものに今成りかわっているのではないだろうか。そのトランプこそは人間であり、まるでトランプ兵の姿として、そこに在るのだとしたら。朝起きたら、自分の体がトランプ兵になっていたとしたら。。  この作品が現代的な得体の知れなさ=息苦しさを描ききっている、、、とは全く思わないけど、最後に主人公が愛に絶望して狂気に落ち込んだ後、愛する人との邂逅により、いとも簡単に正気に戻るのは、そのありえなさ故に示唆的である。だけど、その最大の起因が、「勃起」だというのは、あまりにも牧歌的というか、やっぱり70-80年代のマンガ的な単純さに過ぎる気がするけど。。。 
[DVD(邦画)] 9点(2010-03-05 00:39:24)(良:1票)
78.  空気人形 《ネタバレ》 
とても胸をうつ映画だった。空気人形っていうのは、現代に生きる人々のある種の象徴であり、その実体であり、何のつながりもない登場人物たちの心無き心の純粋な在り様であり、、、まぁいろんな意味にとれそうだけど、そのメタ的な要素以上に僕はペ・ドゥナ演じる生き生きとした「空気人形」の姿に胸を打たれたのである。  僕が一番感動したのは、やっぱり、彼女の空気を抜き、吹き込むところかな。彼は言うのである。「空気を抜きたい」と。それは多分、空気を入れたいということ。空気を抜き、そして吹き込む。また抜き、吹き込む。その時、彼と彼女を捉えた充実感。これは何というコミュニケーションだろうか。彼女の心を捉えたもの。しかし、彼女がそれを手に入れてしまったこと自体がそもそもの悲劇なのであった。。  得られないことよりも、失うことの方が、つらい。 (川上弘美『これでよろしくて?』より)  『空気人形』は、心を持ってしまった空気人形のお話。空っぽなのに、心を持ってしまう、空気人形。心を持つって、一体どういうことなんだろう? 心って何だろう? 空っぽの心って? 空っぽって?? 空っぽな人間と空っぽな空気人形。でも、本当に空っぽなのは、空気で出来ている空気人形だけ。僕らは実体として空っぽなわけではない。もっと得体の知れない機能のかたまりとしてあるもの。でも、人間として、関係としてあるとき、人は空っぽになる、ような気がする。そして、空っぽに耐えられず、それを埋めたいと願う。 人は自分自身が空っぽなのではなく、ただ空っぽに捕まえられるのである。その空っぽを相手にして(格闘したり、哀願したりして)、どうしようもなく空振りしてしまう。この作品の登場人物達は、実は空っぽというよりも、ただ空振りしているだけなのではないか。だから、彼ら(彼女ら)に希望は、、、ある。それに対し、空気人形は失うことによって心が萎み、最後にまた空っぽになってしまった。。  過食症の女性はバットを振り続けていたからこそ、偶然にもボールに当てることができた。窓を開けることができた。そういう類の希望がこの作品にはある。僕らの中に潜在化した「心をめぐる物語」。それが登場人物達の心を通り抜け、空気人形によって語られる。つなげられる。この映画は、そういうファンタジーなのだと思う。
[映画館(邦画)] 10点(2009-10-09 23:10:30)(良:1票)
79.  おくりびと 《ネタバレ》 
死とは非日常である。『おくりびと』を語る時、僕らは必然的に「死」というものを手元に引き寄せて、その輪郭を凝視することを強いられる。 死とは穢れである。故に古より、死は死穢を伴うものであり、日常から隠されてきた。  映画は「死」を美化しているように捉えられる。実際はそんなことはないと思うが、事実として、この映画を観て納棺師を志す人が増えたというニュースを聞けば、この映画がある種のイメージを喚起していることは否めない。もちろん、死者は「隠されるが故に美化される」というのが本来正しいだろう。死を衣装することにより、日常の中で隠蔽する技術こそが納棺師の仕業というものなのだと思うから。但し、この映画の中で納棺師は「おくりびと」というイメージを以て僕らに伝えられる。  医者、葬儀人、屠者、皮革加工者、料理人、刑吏、警吏、狩猟者、清掃人、等、死に纏わる職能者は、その存在そのものが死を喚起する為に古来より忌み嫌われていたと言われる。その中には医者や料理人のように現在では全く差別の対象ではない職能も含まれる。それは新しい知識とその蓄積、資格の敷居の高さによって克服されてきた。果たして納棺師はどうであろうか。  ハレやケという考え方は、日本人の心情の由来として説明されることが多いが、それは今でも有効なのだろうか? ファストフードやリサイクルの考え方、幾多の映像や情報が席巻する現代の世の中で、それらは既に新しい物語に組み込まれることが必要なのかもしれない。古からの伝統と心情を現代の日本にマッチさせる為の新しいイメージ。そういうものが可能なら、『おくりびと』は、良くも悪くもその先駆けなのかなと思った。 
[映画館(邦画)] 8点(2009-03-29 20:44:21)
80.  実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 《ネタバレ》 
坂口弘らの手記を基にして構成されたであろう連合赤軍の山岳ベースを舞台にしたリンチ殺人・粛清劇の映画化である。そもそも連合赤軍事件は、12人の同志殺害という事実だけで繋ぎ合わせてみれば、「総括」や「自己批判」などという内実のない言葉だけが飛び交う、理想と現実と空想が入り乱れた薄っぺらな観念劇とならざるを得ない。 本当にそうだったのだろうか? 連合赤軍事件とは一体何だったのか? 学生達が殺し合い、12人が死んだという事実を連ねただけでは事件の全てを「総括」できはしないだろう。12人の同志殺害というテロルの論理は、密室における群衆心理や永田洋子の執拗な嫉妬心等の心理学だけで理解できるものではないと思う。そもそも、彼らを集団殺人へと駆り立てた観念とは何なのか? 一線を越えさせた契機とは一体何だったのか?  先鋭化した学生運動に深く関わった経歴をもつ推理小説作家笠井潔は、連合赤軍事件に衝撃を受け、革命という観念が必然的に生み出すテロルの論理について思考し、三島由紀夫やドストエフスキーの小説についての文芸批評、ヘーゲル哲学の方法論によってマルクス主義を象徴とする観念批判論を纏め上げた。80年代に上梓された名著『テロルの現象学』である。この本によれば、テロルは、自己観念-共同観念-党派観念という道筋を辿ることにより、方法論として正当化され、論理的、観念的に絶対化される。 僕は学生時代に『テロルの現象学』と『バイバイ、エンジェル』を読み、連合赤軍という事件を初めて理解した(と思った)。事件そのものは映画で描かれたような思想的に矮小な集団殺人劇であったかもしれないが、それを本当に批判の対象とするには、観念という悪霊の出自、テロルの論理を理解することが必要なのだと思う。 連合赤軍事件とは一体何だったのか? オウム事件からさえも10年以上経った現在では、その問い自体が空疎に響かざるを得ない。それはこの映画が放つ薄っぺらな切実さと共鳴し、(その後に鑑賞した)映画『トウキョウソナタ』で描かれた現在の廃墟へと一直線に伸びているように思えた。
[DVD(邦画)] 9点(2009-03-29 20:42:04)
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