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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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41.  バイオハザードII アポカリプス
ミラ・ジョヴォヴィッチはついにイクところまでイッてしまっている。彼女の大ファンのぼくにとって、もちろんこれは最大級の褒め言葉である。パート1に引き続く今作でのジョヴォヴィッチの演技、というよりもその存在は、ハリウッドにおいて彼女以外にありえない。類まれなる(身体も含めた)美貌を備えた孤高のヒロインはついにある種のトップへと登りつめたと思う。  前作「バイオハザード」に対し今作は、前作の監督ポール・W・S・アンダーソンが製作・脚本のみにとどまったことにより、映像世界に若干の完成度の低さが伺える。そこはまさに文字通り“モンスター級”の活躍を見せたジョヴォヴィッチの働きにより、期待通りのインパクトは備えられた。しかし、今シリーズのアリスを「エイリアン」シリーズのリプリーにまで映画的な価値を高めたいなら次作では、確固たる実力を持った監督が不可欠であろう。
[映画館(字幕)] 7点(2017-01-18 09:44:13)
42.  リリーのすべて 《ネタバレ》 
原題は「The Danish Girl」、直訳すれば“デンマークの女の子”。 当然、主人公である“リリー”という「女性」を指しているだろう。また、“リリー”に最期まで連れ添った「妻」のことも指しているだろう。 ただそれならば、“Girl”ではなくて“Woman”でもいいのでは?と、語学力の乏しい日本人としては思える。 そこには、生まれた瞬間から”間違った身体”を与えられてしまった「女の子」の心象そのものが表れているように思える。  ”彼”が、無意識の内に秘め続け、皮肉にも彼を最も愛した女性によって解き放たれた少女性。 このシンプルなタイトルが含んだ意味と人格は、重層的で、豊かなドラマ性を孕んでいる。   さて、この映画は、「悲劇」だろうか。  この題材を、「悲劇」として描いたことに対して、トランスジェンダーの層からも、そうでない層からも、一部批判が渦巻いているらしい。 個人的には、この物語は、決して悲劇だとは思えなかった。 勿論、映画の顛末となっている出来事は、悲しい。けれど、”リリー”自身にとってこの物語が本当に悲劇なのであれば、それはもっともっと悲しい。  たとえ、死の淵の一寸のことであったとしても、彼女は、自分の魂が望み続けた“あるべき姿”を果たした。 何もわからない、何も知らない、無知な他人にとっては、その姿が死に急いでいるように見えるかもしれない。 しかし、そうではない。 彼女にとっては、その「瞬間」こそが、生きるということの目的であり、真価だったのだろう。 彼女の最期の言葉は、真に幸福感に溢れていたのだと思う。思いたい。   まあ何と言っても、エディ・レッドメインが凄い。 昨年の「博士と彼女のセオリー」でのホーキング博士の演技で舌を巻いたわけだが、今作での表現力もまた凄まじい。 自分と同い年と知り、益々今後どのようなキャリアを積んでいくのか楽しみでならない。  そして、タイトルの意味でも言及した通り、この映画は主人公リリーの物語でもあり、同時に彼女に寄り添った妻ゲルダの物語でもある。 彼女を演じた新星アリシア・ヴィキャンデルは、凄まじい主演俳優に匹敵する存在感を示し、素晴らしかったと思う。 彼女の存在がなければ、当然リリーはその人生を全うできなかっただろうし、この際どいバランス感覚を要求される作品自体が破綻していたことだろう。  ”リリー”の妻であり芸術家であるゲルダの“物言い”や“振る舞い”が実に現代的で、この映画が描く時代背景に対して一寸違和感を覚える。 けれども、それは、無知で無理解な「時代」に対して、彼女が思想的にも精神的にも、そしてそれらを踏まえた立ち振舞的にも、いかに進歩的であったかを表しているのだと感じた。  自分が思うままに生きること自体が困難だった”彼女たち”は、きっと多くの悲しみを受け続けたことだろう。 しかし、彼女たちの悲しみの上に、ほんの少し進歩できた今の社会があり、ほんの少しずつ進歩し続けていることも事実。  ならばやはり、この映画は、彼女たちの人生は、「悲劇」なんかじゃない。
[映画館(字幕)] 9点(2016-12-24 23:30:14)
43.  キャロル(2015)
許されない恋に没入していく二人の女性が、強烈に惹かれ合い、惑い、激しく揺れ動く。 惹かれ合うほどに、喪失と決別を繰り返す二人がついに辿り着く真の「恍惚」。 ラスト、大女優の甘美な微笑は、この映画を彩る悦びも哀しみも、美しさも醜さすらも、その総てを呑み込み、支配するようだった。 エンドロールに画面が切り替わった瞬間、思わず「すごい」と、声が漏れた。  1950年代のNYを舞台にしたあまりにも堂々たる恋愛映画だった。 パトリシア・ハイスミスの原作は、1952年に“別名義”で出版され、1990年になって初めて実名義が公にされたらしい。2000年代に入ってようやく映画化の企画が進み始めたことからも、この物語がいかに「時代」に対する苦悩とともに生み出され、翻弄されてきたかが伝わってくる。  そして、紆余曲折を経て今この映画が完成に至ったことに、奇跡的な「運命」を感じずにはいられない。 「時代」そのものが、この映画を受け入れるに相応しい状態にようやく追いついたことは勿論だが、それよりも何よりも、この映画に相応しい「女優」が、この時代に存在したことに奇跡と運命を感じる。 言うまでもなく、“キャロル”を演じたケイト・ブランシェットが物凄いということ。  冒頭に記した通り、この大女優のラストの表情が無ければ、この映画は成立しなかっただろう。 もう一人の主人公“テレーズ”を演じたルーニー・マーラも本当に素晴らしかったが、彼女の存在だけでは今作は「傑作」止まりだっただろう。 ケイト・ブランシェットという現役最強最高の女優が存在したからこそ、この映画は「名作」と呼ぶに相応しい佇まいを得ている。 随分前から名女優ではあったのだけれど、この数年の彼女の女優としての存在感は、文字通り神々しく、他を圧倒している。  マレーネ・ディートリッヒ、キャサリン・ヘプバーン、イングリッド・バーグマンら往年の大女優の存在感は、どれだけ時が経とうとも色褪せないが、将来その系譜に確実に名を連ねるであろう大女優の現在進行系のフィルモグラフィーをタイムリーに追えることに、改めて幸福感を覚える。   今作では、冒頭と終盤に同じシーンが視点を変えて繰り返される。 男から声をかけられる寸前のキャロルの唇の動き。冒頭シーンでは遠目に映し出されて何を発されているかは分からない。 逃れられない恍惚と共に、その言葉の“正体”に辿り着いたとき、テレーズと同様、総ての観客は、彼女の「虜」になっている。
[DVD(字幕)] 10点(2016-10-19 19:10:14)(良:2票)
44.  SHERLOCK/シャーロック 忌まわしき花嫁<TVM> 《ネタバレ》 
英国BBCのテレビドラマシリーズ「SHERLOCK/シャーロック」は、海外ドラマ全盛の近年においても随一の傑作シリーズだと思う。 個人的に、海外ドラマはどハマリするのが怖いので敬遠しているのだが、今作に限っては、数年前にNHKで放送されたファーストシーズンの第一話を観た瞬間から、完全に“虜”になってしまった。  “現代版シャーロック・ホームズ”という題材自体は、よくありそうなものだったけれど、このドラマの場合は、原作を礎にしたキャラクター設定の“再解釈”と“キャスティング”が、奇跡的な程に素晴らしかった。 英国俳優ベネディクト・カンバーバッチが演じたシャーロック・ホームズは、アーサー・コナン・ドイルが生み出したキャラクター性をそのまま保ちつつ、ブラックベリーとラップトップを速やかに操る文字通りの“変人”、いや天才として「再誕」させていた。  それは、誰もが知っている“名探偵”であると同時に、誰も見たことがない“名探偵”の誕生だったとも言え、その矛盾的表現がキャラクターの秀逸なオリジナリティを表している。  そして、ホームズにとって切っても切り離せない「相棒」と「敵」の存在感が、このドラマシリーズの価値を更に高めた。 “ジョン・ワトソン”を演じたマーティン・フリーマン、“ジム・モリアーティ”を演じたアンドリュー・スコットの確かな演技力と存在感が、ベネディクト・カンバーバッチの稀有なスター性と相まって唯一無二の世界観を構築したのだと思える。   と、いうわけで、つらつらと止まらなくなるくらいにテレビドラマシリーズの大ファンなので、この“劇場公開作品”も当然期待大であった。勿論、映画館に足を運びたかったのだが、タイミングが合わず劇場鑑賞には至らなかった。 テレビ放映を待ってようやく鑑賞に至ったのだが、どうやら映画館に行かなかったことは正解だったようだ。残念ながら。 シリーズファンとして楽しめはしたが、あくまでテレビドラマの“番外編”であり、決して映画化作品というわけではなかった。 実際、劇場公開したのは日本だけのようで、本国イギリスではシーズン3とシーズン4を繋ぐスペシャルドラマという位置づけだったようだ。  大好きなキャラクターたちが、セルフパロディよろしく原作の時代設定の中で立ち回る様は、勿論嬉しいのだが、当然ながら秀逸なオリジナリティが薄れてしまっていることは明らかだった。 カンバーバッチの原作版ホームズ像も、違和感がなさすぎて“逆にフツー”という想定外のマイナス要因が生まれてしまっている。 ストーリーテリングとしても、“通常回”に比べて圧倒的に巧くなく、拍子抜けしてしまった。   まあしかし、これはこれとして、ファンとしてはシーズン4の放映が近づいていることが何よりも嬉しいわけで。 すっかり大スターになってしまったキャスト陣の再集結が楽しみでならない。
[CS・衛星(吹替)] 5点(2016-07-01 00:15:10)(良:1票)
45.  オデッセイ(2015)
マット・デイモンが宇宙の果てに一人取り残された宇宙飛行士を演じると聞けば、やはり「インターステラー」での“マン博士”が記憶に新しいところ。 さすがにあまりに似通った役を続けてやるのは如何なものかとは思った。けれど、実際に観てみたならば、設定的に類似しているからこそ、キャラクター造形の明らかな相違が際立ち、敢えて同じ俳優が続けて演じたことに意味があったとも思えた。  そして、この映画の主人公役において、マット・デイモン以上の適役も他にいなかったろうと思う。 火星に一人取り残される宇宙飛行士を演じるにあたり必要な要素は、肉体的な逞しさと類まれなインテリジェンスだろう。更に今作の役どころにおいては、直面する危機に対して常にユーモアを保ち続けられる本質的な明るさと生物的な強さをも併せ持たなければならない。 また、映画の大半を俳優の“一人語り”で構成しなければならない特性上においては、ハリウッドにおいてもトップクラスのスター性が必要不可欠だったはず。 それらすべてを踏襲した俳優は誰か。そりゃあ、マット・デイモンしかいないというもの。  宇宙でのサバイバルという題材においては、先に挙げた「インターステラー」や、「ゼロ・グラビティ」、「アポロ13」など類似する過去の傑作は多い。 リドリー・スコットとマット・デイモンというハリウッドきっての一流どころが組んだとはいえ、そこにオリジナリティを生むことは容易では無いはずだが、今作の場合は、やはり原作が優れていたのだろうと思う。 火星に取り残された宇宙飛行士が植物学者で、農耕をはじめとする“創意工夫”を駆使して生き延びていく様は新しかったと思うし、その主人公が常に軽妙で軽口を叩きながら極限状態を過ごしていくキャラクター造形が、何よりも独創的だった。  追い詰められた時に、自らの状況を俯瞰し笑い飛ばし、ギリギリの状態から生み出された「工夫」によっていかにその場をやり過ごせるか。それこそが、人間という生物の真価だろうと思う。  この映画のラストは、主人公が未来を担う若者たちに「質問は?」と問い、彼らが一斉に挙手するカットで締められる。 どんな状況であれ常に未来に対しての一歩を踏み出そうとする勇気と希望に溢れたいい映画だったと思える。
[映画館(字幕)] 8点(2016-03-27 22:14:25)
46.  007/スペクター 《ネタバレ》 
フランス女優レア・セドゥーの腰つきがたまらない。イタリア女優モニカ・ベルッチの未亡人ぶりが艶々しい。 劇場鑑賞を終えて、余韻に浸りながら今作を振り返った時、先ず第一に脳裏に浮かんできたものは、“ボンド・ガール”たちの“曲線美”だった。 非常に欲情的な感想が先行してしまっているようだが、これこそが「007」というシリーズが培ってきた娯楽性の在るべき姿だと僕は思う。   前作「スカイフォール」は、50年以上に渡る大人気シリーズの中でも屈指の傑作だった。 特に、現在の“ジェームズ・ボンド”であるダニエル・クレイグ版で「007」にハマった者としては、シリーズ最高傑作と言って間違いなかった。 それ故に、最新作である今作「スペクター」に対する期待は最高値に上がっていた。 ただ同時に、シリーズの中でも極めて“異質”なストーリーテリングと物語の帰着を見せた「スカイフォール」の続編として、どうストーリーを紡ぐのか一抹の不安も確かにあった。  結果としては、当然ながら大傑作だった前作を超えてはいない。 そして、特に今作においては最も肝となるべき悪役の設定の弱さをはじめとして、映画としての完成度においてもマイナス要因が多かったことは否めない。 しかしながら、この映画の、“異質な大傑作の続編”としての在り方、そして“ダニエル・クレイグ版007の集大成”としての在り方は、決して間違っていなかったと思える。   前作「スカイフォール」は傑作だが、ジュディ・デンチがシリーズ最高齢のボンド・ガールとして存在していたこともあり、エロティシズムという点では伸びなかった。 もちろんそれは正当な娯楽性を廃した狙い通りの作風だったのだが、今作はその反動的に、王道的な娯楽性を並べている。 地上、上空、雪上、水上を縦横無尽に駆け巡り、美女の心を鷲掴みにして、「007」という活劇の王道を見せつける。 そういう点では、今作は前作を踏まえての“アンサー”であり、“対”となる作品なのだとも思える。   ダニエル・クレイグがジェームズ・ボンドとなって4作目にして集大成である今作。 そこにあったのは、まさに裸一貫から培ってきた新たなジェームズ・ボンド像がついに完成した様であり、しかるべき道程を経て辿り着いた「原点回帰」という娯楽に対する崇高な美学だった。  ダニエル・クレイグ版ジェームズ・ボンドは、シリーズを通してあまりに多くのものを喪失してきた。 それは悲壮を胸に秘め続けたあまりに過酷な成熟への道筋だったと思う。 しかし、ついに今作において、彼はすべてを守り切る。 まさにそれは集大成に相応しく、“ジェームズ・ボンド”というキャラクターの一つの完成形だったと思うのだ。
[映画館(字幕)] 8点(2015-12-14 23:58:08)
47.  イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密 《ネタバレ》 
「あなたが普通じゃないから、世界はこんなにも素晴らしい」  勿論それは映画上で脚色された台詞だろうけれど、たとえそうであったとしても、この映画とこの台詞により、アラン・チューリングという不遇の天才数学者の魂は幾ばくか救われたのではないか。 せめて、せめてそう思いたい。   冒頭から中盤までは、主人公のエキセントリックな人間性が表立って描き出される。 そのため、彼がどうして暗号解析という仕事に異常なまでの執念で固執するのか、そしてどうして戦後間もなくして警察機関に尋問されるに至っているのかが、掴めない。 その他の登場人物たちと同様に、「変人」というレッテルを主人公に対して貼らざるを得ない心境になってくる。  しかし、徐々に詳らかになる主人公の少年時代の描写とリンクするように、彼がこの仕事に執着する意味と、ひた隠すように抱え続けたある思いが明らかになる。 “モンスター”とも呼ばれたアラン・チューリングという一人の人間の、“人間らしさ”がようやく垣間見えた時、筆舌に尽くしがたい悲しみを覚えずにはいられなかった。  “クリストファー”と名付けられた暗号解読機がもたらしたものは、神の如き功と、悪魔の如き罪だった。 その功罪を一手に引き受けるかのようにして、一人の天才数学者が、歴史の闇に埋もれていたことに、様々な感情が渦巻いた。   何と言っても特筆すべきは、主演俳優の表現力だろう。 当然ながら、アラン・チューリングその人のことを知っているわけではないけれど、主演俳優ベネディクト・カンバーバッチは、佇まいから細かな仕草、さらにはその精神性に至るまで、その人物像になり切っていたと思える。 TVシリーズ「SHERLOCK シャーロック」を国内放送当時に初めて観てからというもの、この俳優には注目し続けているが、その後順調に世界的なスターダムにのし上がり、この作品により確実に「名優」への階段を登り始めたと思う。  同時期に公開され、アカデミー賞でもせめぎ合ったスティーヴン・ホーキング博士の伝記映画「博士と彼女のセオリー」との類似も興味深い。 両作とも、一人の“天才”とそれを支えた一人の女性との関係性を描いており、まったく別人であるそれぞれの女性の人間性そのものも極めて似通っているように思える。 アラン・チューリングも、スティーヴン・ホーンキングも、「彼女」の存在がなければ、何かを成し遂げることは出来なかったであろう。 そしてかつて、ベネディクト・カンバーバッチ自身も英国のTV映画「Hawking」でホーキング博士を演じて世に出ていたことには、映画史における何か宇宙意志的な“文脈”を感じずにはいられない。   時代に許されないまま潰えた「初恋」の思いを胸に、いまや世界を支えるコンピューターの礎は作られた。 それはとても悲しくもあり、ある意味とてもロマンティックでもある。  時代に抗い、時代を救い、そして時代に潰された天才数学者の偉業に胸が詰まった。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2015-11-16 00:00:04)
48.  フューリー(2014)
朝が来る。 朽ち果てた戦車と、そこで闘い果てた屍を越えて、兵たちは歩を進める。 まるで何もなかったかのような俯瞰で、残骸となった戦車を一つ残し、一つのストーリーが終わる。  「戦争」という、繰り返される人間の愚かな歴史の中で、同様のシーンが一体、幾千、幾万、繰り広げられてきたのだろうか。 その無残の極みの様に、胸が詰まる。   僕自身はミリタリー描写にそれほど熱い頓着が無いので、伝説的な戦車とその活躍の様を忠実に再現したという、この映画の触れ込みにもあまり興味を惹かれなかったことは否めない。 ただ、世の好事家たちはこぞって絶賛しているので、全編通して描き出される戦場シーンに一切の妥協はないのだろう。  冒頭に記した通り、戦争そのものに対する普遍的な無残さと、そこに携わった人間たちが抱える虚無感は、きちんと描かれている。 そして、ビジュアル的な説得力も充分に備わっている優れた戦争映画、なのだとは思う。  ただし、ひしひしと伝わってくる映画のクオリーティーの高さに反して、今ひとつ感情的に揺さぶられるものが少なかった。 ラストの決死戦などは、もっとエモーショナルな感覚を持ってしかるべきなのだと思うが、何となく淡々と観れてしまった。  人物描写の描き込みが希薄だったのか、そもそもミリタリー映画自体への愛着が薄いからか、単に精神的なタイミングが悪かっただけなのか。  この虚しさのような物足りになさに、戦争の空虚感を表現していたとしたら、それはそれで大したものだけれど。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-11-09 23:22:31)
49.  FRANK -フランク-(2014)
才能の誕生も精神の喪失も、その発端に必ずしも明確な理由や環境があるわけではないと思う。 誰しも、自分自身の才能に期待し、模索し、絶望した経験が少なからずあるだろう。  凡庸で薄っぺらな主人公が、一人の天才と出会ってしまったことで、求めたもの、失ったもの、そして得られてものはなんだったのだろうか。 凡庸と天才が出会うことで、それまで保たれていた琴線は途切れ、痛々しい悲しみが生まれる。 でも、その痛みと悲しみは、両者にとって必要なことだったのだと思える。  もし出会わなければ、凡庸はいつまでも夢見るだけの愚か者であり続けただろうし、天才もまた安全安心ではあるけれど極めて歪な鳥籠の中で永遠に羽を繕い続けていただろう。 いずれにしても両者はそのうちに破綻し、取り返しの付かない悲劇を生んでいたかもしれない。  最終的に凡庸は、自分の存在の意味と居場所を思い知り、天才の元を去っていく。 その様は非常に物悲しい。 けれど、それは互いにとって本当に必要な物を得られた瞬間だったのではないか。  それは彼らにとって必要な心の旅路だったのだろう。   作中ずうっと奇妙なお面を被り続けて“FRANK”という天才を演じたのは、マイケル・ファスベンダー。 この俳優も風貌に似合わず厳しい役柄ばかりを演じ続けている。 この人もかなりキテいる“役者馬鹿”なんだと思う。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2015-09-25 20:54:01)(良:1票)
50.  キングスマン
“英国王”もとい“英国紳士”然としたコリン・ファースが、いかにもスパイ映画風の魅力的なギミックを駆使して小悪党どもを小気味よく打ちのめす。 この白眉のアクションシーンをはじめ、映し出される映像の娯楽性は極めて高く、楽しい。  この映画が、マシュー・ボーンという英国出身の新人監督のデビュー作というのであれば、娯楽映画史におけるエポックメイキング的な作品として手放しで評価できたのかもしれない。 しかし、そういうわけにはいかない。マシュー・ボーンという名前はもはや大きくなり過ぎている。 「キック・アス」で大出世を果たし、「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」を成功に導いた今最も最新作が期待される映画監督の一人となった彼の最新作として、「駄作」と言わざるをえない。  ハリウッドの超大作のしがらみに疲れた映画監督が、その鬱憤を晴らすかのように母国で自由に作った“悪ノリ”映画なのだと思う。 “ジョーク”として笑い飛ばす映画なのだろうし、そのブラックでキツいジョークの部分は確かに笑えた。 “悪ノリ”が過ぎる映画は、時に傑作になり得る。「キック・アス」はその顕著な例だろう。  でもね、悪ノリが過ぎるからと言って、ストーリーテリングそのものの雑さが許されるわけではないと思う。ストーリーが雑な映画は、当然ながら傑作にはなり得ず、きっぱり駄作だと思うのだ。  コリン・ファースの“退場”の仕方があまりに雑だったり、主人公が“キングスマン”として認められるための最終試験の顛末はおざなりだし、大体他のキングスマンは何をしているんだといったように諸々の設定があまりに大雑把で腑に落ちない。 主人公が裏切り者を出し抜くくだりや、そこから始まるクライマックスの“面白げ”な雰囲気も、引いて見てしまうと特段の新鮮味はなく、ただのマスターベーションに見えてしまう。  悪ノリの中で暗に国際的な批判精神を盛り込んでいるからこそ、ストーリーの些細な部分が引っかかってしまい、非常に気持ち悪かったのだと思う。  世間的には好評の様子でどうやら世界的にも大ヒットしているようなので、続編の製作は既に確定しているのだろう。 根本的な悪ノリ自体は決して嫌いではないので、次作はストーリー的にも練り込んだ問答無用の悪ノリスパイ映画に仕上げてほしいものだ。
[映画館(字幕)] 4点(2015-09-25 16:28:10)(良:1票)
51.  エイリアンVS. プレデター
“エイリアンVSプレデター”全世界のファン待望のこの企画は、そのインパクト以上に映画としての構築が難しかっただろうと思う。 なぜなら、「最悪VS最悪」と言っても、両者を地球で戦わせるという時点で、本能的“生物”であるエイリアンを勝たせるわけにはいかないからだ。それでは映画としての終わりが単なる“混乱”になってしまう。  「どちらが勝っても人類に未来はない」と嘯いても、どちらかと言えば、知的“宇宙人”であるプレデターが勝つほうが良いに決まっている。 もちろん、この映画のストーリー構成もその部分を念頭においた展開になってはいるが、前半の逃げ場のない緊迫感に対して、後半はやはり強引な“B級ノリ”に埋め尽くされていることは否めない。  ただし、改めて観返してみると、そういう“B級ノリ”こそがこの映画の醍醐味だとも思える。 後半早々に唯一の生き残りとなってしまったヒロインは、“生き残る”ために「戦士」となる。 “敵の敵は味方”と、プレデターとタッグを組む様は、もはや滑稽さすら禁じ得ないが、その滑稽さを一旦受け入れさえすれば、きっちりと娯楽として楽しめる。  監督は、ポール・W・S・アンダーソン。“ダメな方のポール・アンダーソン”と、ポール・トーマス・アンダーソン監督と比較されて、揶揄の対象になりがちな監督ではあるが、「イベント・ホライゾン」「バイオハザード」で見せてきたこの監督の、ヴィジュアルセンスと娯楽センスはやはり本物。強引な展開も、洗練された映像世界に広がる娯楽性へと昇華できていると言って間違いではない。  それぞれの作品へのオマージュやお約束のオチもしっかりと反映できており、広く楽しめる映画としてまとめ上げたというのが、正しい意見だと思う。  ともあれ、怪物同士の壮絶すぎる戦いを見ていると、最初の「プレデター」で“勝利”したシュワちゃんは、やっぱ凄えなあと思う。
[映画館(字幕)] 7点(2015-07-25 21:11:35)(良:1票)
52.  トランセンデンス(2014)
世界随一の科学者の頭脳がインストールされた人工知能。 そこには、オリジナルの“人格”が生きているのか、全く別物なのか。 人類を遥かに凌駕する程に進化した人工知能の“暴走”は、一体誰の思いが結実したものだったのだろうか。  社会構造の機械化、コンピューター化が進む世界における危機意識は、昔からSF映画で描き出されてきたことで、今作もその潮流を汲む作品の一つと言える。 愛する者の頭脳をインストールした人工知能を渦中に置き、人類とコンピューターとの関係性を抉り出そうとした興味深いSF映画だったとは思う。  今作を観ていて思い出されたのは、「地球爆破作戦」(1970年製作)という映画だ。 超高性能の人工知能が、プログラミングされた「目的」=「平和」を遂行するために、人類を支配下に置こうとする恐怖を描いた傑作SF映画である。 人類と人工知能との攻防を描くという点はもちろん、真の意味で世界を滅亡させようとしているのは一体どちらかというテーマ性も極めて類似していると思う。  今作ではそのテーマ性に、普遍的な夫婦愛が加味され、より多感なドラマ性が生まれていたと思う。 繰り返しになるが、興味深いSF映画であったことは間違いないし、決して嫌いな映画ではなかった。 が、しかし、映画としての芳醇さというか、観客を引き込む本質的な魅力みたいのものが、大事なところで足りなかったと思う。  この映画の主人公は、人工知能に生前の頭脳をインストールされた天才科学者の夫ではなく、彼を誰よりも愛し失意の中で“禁断”の進化を選んだ妻であろう。 であるならば、もっとこの妻の愛情とそれ故の狂気を深く描き出すべきだったと思う。 そうしたならば、ジョニー・デップ演じる“人工知能”の夫の中の「人格」の有無がもっとスリリングに、もっとエモーショナルに際立ったのではないか。  実際、そういう風に描き出そうとはしていたのだとは思う。 ただそれに見合う演出力とイマジネーションが、長編デビュー一作目の今作の監督には明らかに備わっていなかった。 監督のウォーリー・フィスターは、クリストファー・ノーラン組でずっと撮影監督をしてきた人物なので、その技量は申し分ない。当然ながら今作でもビジュアルセンスの確かさは光っていたと思う。  ただし、映画として人々の記憶に焼き付けるためには、撮影技術とは違うベクトルの創造力が必要不可欠だということだろう。 例えば、人工知能の「意思」が雨粒となって地上に降り注ぐシーンなどは、クリストファー・ノーランならば、これまで観たことがない新鮮味と神々しさに溢れるシーンに仕上げたに違いない。 また夫が妻の“嘘”を見破るシーンが、序盤と終盤で対比的に描き出されるのだが、その差異の描き方もちょっと中途半端で分かりづらかった。こういう部分も、一流の映画監督であれば感動のポイントとして逃さないだろう。  もしくは、ジョニー・デップをキャスティングしていなければ、もっと適正なバランス感覚で仕上がったのかもしれない。 人工知能の夫としてのビジュアルは殆ど映し出さないくらいの低予算方針で撮ったならば、逆に味わい深いSF映画として仕上がったのではないだろうか。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2015-07-18 00:43:27)
53.  フライト・ゲーム 《ネタバレ》 
冒頭、主人公がウイスキーを紙コップに注ぎ歯ブラシでかき混ぜる。 この主人公の男が明らかにうらぶれていて、拭いがたい負い目を抱えて生きていることが一発で分かるオープニングだった。 その主人公を、リーアム・ニーソンがお馴染みの“困り顔”で演じているわけだから、それだけで“リーアム・ニーソン映画”としては太鼓判を押していいのかもしれない。  「シンドラーのリスト」「レ・ミゼラブル」「マイケル・コリンズ」など、かつては歴史大作や文芸大作を主戦場に渋く濃厚な存在感を示していたこの俳優が、“ジャンル映画”のスターとなって久しい。 彼の俳優としての立ち位置に対しては、映画ファンによってその是非が分かれるところだろうが、とはいえ実際ハマっている映画も多いので、「面白い」のであればそれが正義だと思う。  今作にしても、ジャンル映画としての存在価値は充分に発揮している。 ストーリー上の穴や粗など端から無視を決め込むか、それ有りきで楽しむべき立派な“リーアム・ニーソン映画”だ。  ストーリーテリングとしては、ヒッチコックの「バルカン超特急」に端を発する“誰も信じてくれない”系サスペンスで、舞台が航空機内とういこともあり、ジョディ・フォスターの「フライトプラン」にも酷似しているが、リーアム・ニーソンの近年持ち前の“危うさ”巧く機能しており、観客すらも彼に対して疑心暗鬼になってしまう。  ジュリアン・ムーアを初めとして、脇を固める俳優陣も地味に豪華で、主人公と観客の“疑心”を効果的に深めている。 結末を知った後で、オープニングの群像シーンを観てみると、それぞれにキャラクターにおいて細やかな演出がされていて、それはそれで面白かった。   それにしても、思わず口走ってしまった“一年間乗客無料サービス”の約束は果たされるのだろうか。反故にされた場合は、訴訟を起こす輩が一人くらいはいそうでコワい。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-07-16 23:04:46)
54.  ターミネーター
最新作「新起動」を観る前に、オリジナルを“おさらい”しておかなければ!と思いたち、相当久しぶりに1984年の第一作を鑑賞。  改めて観返してみると、記憶に無いシーンが随分と多かった。続編である「T2」は散々繰り返し観たものだが、よくよく考えてみればこの第一作目は、子供の頃に観たきりだったかもしれない。 そして、忘却してしまっているというよりも、民放のテレビ放映版を観たことしかなかったため、大部分がカットされていた可能性が高いようだ。 そういうこともあり、僕自身が3歳の頃の映画を殊更フレッシュに楽しむことができた。  エンターテイメント性の高い「T2」に比べて、この第一作目が“疎遠”になっていた理由は明らかだ。 それは、少年時代にこの映画を初めて観た時の“恐怖心”に対してのトラウマが確実に残っていたからだと思う。 今、大人になって観返してみても、ラストの恐怖感と緊迫感は物凄い。それこそ、30年前の映画であることを忘れさせるくらいにフレッシュで、ただただ面白い。  “無名のボディービルダー”を感情を持たない殺人マシーンに配し、その肉体を剥ぎ取られてもなお執拗に追わせることにより、類まれな「恐怖」という娯楽性を生み出したこの映画の「発明」は、あらゆる意味で映画的価値に溢れている。  ただ逃げ惑うだけのウェイトレスだったヒロインが、クライマックスでは自らを助けにきた未来の戦士に対して「立ちなさい!」と叱咤する。 それはまさに、ヒロインが自らの運命を受け入れ、“未来”に向けて覚醒した瞬間だった。
[CS・衛星(字幕)] 10点(2015-07-13 21:52:57)
55.  ザ・イースト
「ミイラ取りがミイラになる」というあまりに有名なことわざ一つで済まそうとすればそれまでなのだが、映画のストーリーテリング自体はオーソドックスだったと思う。 ただ対象となる素材が、過剰なテロまがいの行為を展開する正体不明の環境保護集団であるという点は、極めて時事的で興味を引いたポイントだった。  そういう時事的な要素を用いれているだけに、描き出される現代社会の病理性はリアルで、実際世界中が注視しなければならない問題だったと思う。 主人公は、元FBIの民間警備会社調査員の女性で、前述のことわざの通りに、謎の集団の在り方にシンパシーを感じ次第にのめり込んでいく様は、スリリングであった。 決して盛りすぎることなく抑えた緊張感を持続させた演出も高水準だったとは思う。  ただし、だ。結局、最終的に得られた映画の印象は「軽薄」という一言に落ち着いてしまった。  この映画における最大の欠落は、主人公のバックグランドがあまりに描かれていないことだと思う。 展開されるストーリー上では、主人公の感情はしっかりと描かれているし、演じているブリット・マーリングの演技も良かったと思う。(彼女は今作の脚本も手がけているらしく、とても才能豊かな人なのだろう。)  しかしながら、この主人公がなぜこの「仕事」に執着するのか、そもそもなぜにFBIに入り、退職し、得体のしれない民間の警備会社に在籍しているのか。 ここまでに至った主人公の人生模様がまるで見えてこないことが、全編を通して彼女の言動の理由付けを曖昧にしてしまっていて、結果として映画全体において感情移入できない要因となってしまっている。  その他の環境保護集団の面々の人物描写もどこか浅はかだった。それぞれが自らの人生を賭して環境破壊に対しての過激な警鐘活動に取り組んでいるわけだが、彼らの行動原理についても語られ方が浅く、そこにあるべき悲壮感が伝わりきらなかった。  そして、最後の“オチ”の見せ方があまりに粗末過ぎる。  「だいたい分かるでしょ?」と言いたいのだろうけれど、一介の調査員の一人に過ぎない彼女があの後どうやって巨悪を陥れていったのか、あまりに説明不足で腑に落ちない。  このところ益々“不気味”な存在感を高めているエレン・ペイジをもう少し有益に使うべきだったとも思う。あの段階でのフレームアウトは少々勿体無い。  非常に興味深い作品だっただけに、根本的な部分での欠落があまりに勿体無く、映画としての価値を大いに下げてしまっている。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2015-05-24 17:43:22)(良:1票)
56.  バットマン リターンズ
“バットマン映画”として観るか、“ティム・バートン映画”として観るか、どちらの心構えで観るかで、この映画から受ける“感触”は大いに左右されると思う。 僕は、前作「バットマン」を当然のごとく“バットマン映画”として観てしまったため、その特異な世界観に正直違和感を覚えてしまった。 しかも、クリストファー・ノーランの「ダークナイト」シリーズを観てからの、ティム・バートン版「バットマン」の初鑑賞だったため、両者のギャップを殊更に激しく感じてしまったのだと思う。  というわけで、今回は、初めからちゃんと、ティム・バートン映画として観ることが出来たので、前作よりも随分と楽しむことが出来たのだと思う。 そうして観てみると、このヒーロー映画が、想像以上にティム・バートン色の強い極めて「異質」な映画であることに気付かされた。  数多の論評にあるように、このヒーロー映画には、もはや主人公としてのヒーローは存在しない。 マイケル・キートン演じるバットマンは、一人のメインキャラクターに過ぎず、主人公としてはあまりに存在感が薄いと言わざるをえない。  ただしそれは、決して主演俳優が力量不足なのではなく、風変わりな監督が悪役描写に力を入れ過ぎてしまっているからに他ならない。 監督の興味が、大富豪の蝙蝠男からは早々に外れ、気味の悪いペンギン男と、心を病んだ猫女に集中してしまっていることは明らかだった。 それは、まさに奇異なるものの存在性と生き様を愛するティム・バートン作品に相応しい世界観だった。  善と悪の対立という本来ヒーロー映画にあるべき分かりやすい構図を脇に追いやって、今作はひたすらに孤独な者達の邂逅を描く。 悪役たちは勿論、主人公であるバットマン=ブルース・ウェインも、孤独の中に生きる者の一人だ。 ティム・バートンが、この題材を選んだ理由は明確だろう。   個人的な話をすると、「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」の鑑賞直後に、今作をまさかの初鑑賞。 映画史の文脈を鑑みると、なかなか稀有な映画体験だったと思う。 マイケル・キートンの俳優人生に乾杯!そして、ダニー・デヴィートとミシェル・ファイファーに拍手!
[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-05-11 23:11:53)(良:1票)
57.  あなたを抱きしめる日まで
赦すことの苦悩。赦さないことの苦悩。赦されることの苦悩。赦されないことの苦悩。 人生は時に残酷で、一つの“赦し”にまつわるすべての人々が、どの決断をしたとしても、苦悩に苛まれることがしばしばある。 果たして、真の意味で正しい人間、真の意味で強い人間は、自分の人生を通していずれの“赦し”を導き出すのか。   この映画には、様々な“ミスリード”が含まれていて、巧い。 実話を元にした感動物語風にイントロダクションをしておいて、実は非常に辛辣で罪深いこの世界の闇が描きつけられる。 そして、重いテーマ性に対して身構えてみたならば、紡ぎだされる語り口は極めて軽妙でユーモラス。 御年80歳の大女優ジュディ・デンチのコメディエンヌぶりに、心が鷲掴みにされる。  原題は「Philomena」。ジュディ・デンチ演じる愛すべき主人公の名前である。 原題が指し示す通り、この映画は主人公“フィロミナ”の人間的な魅力に魅了されるべき作品だと思う。  暗く悲しい時代の中で、生き別れになった母と子。50年の年月を経て、ついに母は子を探す旅に出る。 実話とはいえ、もっと安易に感動物語に仕上げることも出来たろうし、悲しい時代が犯した罪を掘り進めて、もっと暗く重い社会派ドラマに仕上げることも出来ただろう。 カトリック教会の渦巻く闇だとか、レーガン政権下のエイズ患者への仕打ちなど、暗に示されている題材は多々ある。 しかし、この映画はそういうありきたりで安直なシフトを認めなかった。 主人公のキャラクターを魅力的に描き出し、コメディとして仕上げた巧さと勇気に賞賛を送りたい。  もう一人の主人公であるジャーナリストは、ふとしたきっかけで出会った貧しい老婦人のことを、“無知で心が弱い人たち”と決めてかかる。 だが、彼女と旅をしていく中で、ほんとうに含蓄が深く心が強い人間が誰であるかを知っていく。 それは、浅はかな固定概念を払拭する旅路でもあった。   主人公“フィロミナ”が辿り着いた「真実」は決して喜ばしいことではなかった。 それでも彼女は揺るがない。相手を赦し、すべてを受け入れる。 それは、何よりも最初に先ず自分自身の罪を認め、そして苦悩と共にそれを赦してきた彼女だからこそ導き出すことができた“答え”だったように思えた。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2015-05-01 00:11:40)
58.  博士と彼女のセオリー
余命2年。そのあまりに残酷な“運命”を突きつけられ、“彼”は己の人生から逃避するように“彼女”の元を去ろうとする。 それでも、彼女は背筋をピンと伸ばして、彼の後を付いていく。 そして、眼鏡の汚れを拭き取り、キスをする。 その瞬間、彼は、彼女によって、その先の人生を生きる意味を与えられたのだと思う。  生かした者と、生かされた者。  両者は時の流れとともに、くるくると回転するように、入れ替わり、立ち代わる。 この映画は、現代が誇る“天才物理学者”の功績を描くものではない。 スティーブンとジェーン。この男女が共に過ごした「時間」を、ありのままに切り取ったような映画だった。  それぞれの人間の強さも弱さも平等に描いたこの物語は、必ずしも綺麗事ばかりではない。 過酷な人生の中で、当然起こり得る人間の感情の機微を、決して臆すること無く誠実に描き出したこの映画は、とても勇敢で、辛辣で、だからこそ“人間”に対する慈愛に溢れていると思えた。   スティーブン・ホーキングという物理学者が専門とする「量子宇宙論」なるものを正確に理解することなんて、僕には出来やしない。 けれど、それが「宇宙」と「時間」という絶対的な概念に対する果てしない探求であることは分かる。  この映画が、二人の男女の心模様を通じて描きつけたものは、まさにその「時間」の残酷さと慈しみだった。 “2年”という時間の限界を越えて生き続けた男と、彼を生かした女。 誰よりも明晰な頭脳を持ちながら、その考えを伝えるためには、誰よりも膨大な時間が必要となってしまった男。 時に奇跡的に、時に過酷に、「時間」は彼らを生かした。   ラスト、博士と彼女は並び、「見てごらん、僕らが築き上げたものを」と視界を共にする。 その瞬間、かつて彼が提唱した理論をなぞるように“彼らの時間”が巻き戻っていく。 彼らが辿った道程とその行く末が、幸福だったのか、不幸だったのか、それは他人には分からないし分かる必要もない。 それは彼らだけが、判別すればいいことだ。  ただ僕は、二人が歩んだ「時間」そのものが放つ光に涙が止まらなかった。  たぶん、この2、3年ほどの間でいちばん泣いた。 喜びも、悲しみも、全部ひっくるめて泣いた。 それは、「宇宙」と「時間」の真理を追求する天才物理学者を描いたこの映画において、とても相応しいことだったと思う。
[映画館(字幕)] 10点(2015-04-01 11:33:31)
59.  ダンサー・イン・ザ・ダーク
あくまでも徹底的な悲劇に私の心は揺らぎっぱなしだった。基本的に悲劇は苦手だし好きではないのだけれど、この映画が描くものはもはや好きとか嫌いとかそういうレベルではない。辛い現実を覆い隠そうとするかのような濃厚な幻想でのダンスシーン。哀しいまでに躍動的に歌い踊るその姿は、誰が何と言おうとも私は「幸福」そのものだと言いたい。幻想であろうと何であろうと、彼女が生きぬいたその様は、「悲劇」さえも越えた深い深い「幸福」だったに違いない。
[映画館(字幕)] 10点(2015-01-18 08:24:28)(良:1票)
60.  インターステラー
レイトショーの映画館を出て、真冬の凍てつく空気に包み込まれた。ふと夜空を見上げると、澄んだ空気の遥か先に満月と星が光っていた。 広大な宇宙の中で、自分自身がひとりぽつんと存在している感覚を覚え、孤独感と大いなる宇宙意思を同時に感じ高揚感が溢れた。 普段の何気ない景色が一変していたようだった。これこそがSF。これこそが映画だと思えた。  数多の大傑作がそうであるように、今作もとてもじゃないが言葉では表現しきれない。 特にこのSF映画が描き出す世界観の多層性と文字通りの深淵さは、言葉で説明すべきものではないだろう。 「圧巻」とひと言で言ってしまえばそれまでだろうし、それで充分だとも思える。  とても複雑な宇宙理論が繰り広げられる語り口は、一見難解に見える。しかも監督はクリストファー・ノーランである。一筋縄ではいかないことは必至。 しかし、実際に観終えてみれば、この映画は決して難解なのではなく、難解な要素に彩られた普遍的な人間ドラマであったことに気づく。 複雑に入り組んでいるのは、宇宙理論ではなく、むしろ多様な人間の在り方とそれに伴う濃密なドラマ性だった。  “親子愛”をはじめとする人間のドラマを根底に敷き、未知の領域に踏み出した人類は、「人類」そのものの限界とその先を追い求めていく。 中盤、“マン博士”という人物が登場する。その名前の通り、彼こそが今現在の人間の本質を表したキャラクターであろう。 一つの“限界”に辿り着いてしまった人類、進化か滅亡か、このキャラクターはその分岐点の象徴と言える。(このキャラをほぼノンクレジットで演じているスター俳優はエラい) 主人公が、“マン博士”と真正面から対峙し、それを越えようとする様こそが、人類の進化の瀬戸際だったのだと思える。  高度な科学的空想の先に辿り着く人間の真の姿と可能性。僕はそれこそが、人間が生み出した「Science Fiction」の本質であり、醍醐味だろうと思う。 そういうことが満ち溢れんばかりに繰り広げられるこの映画を、愛さないわけがない。  ただし、この映画を語り切るには、まだまだ膨大な時間が必要だ。 それは、これがとても幸福な映画体験であったことの証明だろう。
[映画館(字幕)] 10点(2014-12-16 07:35:00)(良:2票)
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