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プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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441.  クリムゾン・リバー
ジャン・レノ&ヴァンサン・カッセルのフランス二大俳優に新進気鋭のマチュー・カソビッツの組み合わせによるサスペンスということで大いに期待したが、結果は散々だった。冒頭から中盤にかけてのサスペンスフルは雰囲気よく緊迫感も絶大だったが、サスペンス映画においてもっとも重要なラストの顛末があまりにお粗末であった。問題はやはり盛り上がりに欠けた脚本の完成度の低さだと思う。
3点(2003-12-13 21:13:58)(良:1票)
442.  響 HIBIKI
今年、36歳にして初めて“アイドル”にハマってしまった。 アイドルという存在そのものに対しては、軽んじているつもりはなく、むしろ広義の意味の“エンターテイメント”としてリスペクトしている。 ただ、“モーニング娘。”も、“AKB48”も、興味がなかったわけではないけれど、没頭するなんてことはなかった。 が、今現在、「欅坂46」には絶賛没頭中である。このアイドルグループが表現するエンターテイメント性は、少なくとも僕の中では、エポックメイキングなものとなっている。  その特異なアイドルグループの中でも、特に異彩を放ち続けている存在が、「平手友梨奈」である。 つまるところ、今作は、個人的にはジャストなタイミングでの、平手友梨奈の初主演映画というわけである。  結論から言うと、この映画は、れっきとした“アイドル映画”として仕上がっている。と、思う。  前述の通り、アイドルはもちろん、アイドル映画というジャンルについても揶揄するつもりは毛頭ない。 往年の、薬師丸ひろ子、原田知世、宮沢りえらの主演映画はもちろん、現在に至るまでアイドル映画の忘れ難き名作は山のようにある。 今作も、その系譜の中に確実に記されるであろう。平手友梨奈というアイドルの“現在地点”を切り取った作品であり、その「価値」は大きい。  主人公「響」の強烈なキャラクター性と、平手友梨奈のアイドルとしての特異性も、奇妙なまでに合致していたと思う。 ただそこに存在しているだけで醸し出される“異彩”と、故に生じる周囲の人間関係と社会における“不協和音”的な存在性は、この二人の少女の間で発生したシンクロニシティのようにも感じた。 17歳の平手友梨奈が、「響」を演じたことはまさに必然的なことだったろうと思える。  欅坂46のファンとして、そして平手友梨奈のファンとして、この映画のバランスは極めて絶妙で、満足に足るものだったことは間違いない。 が、しかし、映画ファンとしてはどうだったろうかと、本編が終了した瞬間にふと立ち返った。 面白い映画だったとは思った。ただし、もっと“凄い”映画にもなり得たのでないかと思わざるを得なかった。  サイレントな世界である「文学」という舞台に降り立ったバイオレントな「天才」という題材と、主人公のある種の悪魔的なヒーロー感は、アンビバレントな価値観と独自性に溢れている。 その天才のエキセントリックな言動の周囲で右往左往せざるを得ない我々凡人の生き様にこそ芳醇なドラマが生まれたのではないかと思う。 そういったドラマ性の片鱗は確かにあった。 芥川賞候補止まりの売れない作家も、傲慢な新人作家も、天才小説家の娘も、越えられない壁(=才能)を目の当たりにし、失望と絶望を超えて、己の生き方を見つめ直す風な描写は少なからずある。 ただそれらは、あまりに表面的で、残念ながら深いドラマ性を生むまでは至っていない。  「天才」の強烈な個性と、不協和音としての彼女の存在が巻き起こす社会風刺と人間模様の混沌。 それが、この映画が到達すべきポイントだったのではないかと思う。もしそれが成されていたならば、この映画自体がエポックメイキング的なエンターテイメント映画になり得た可能性は大いに感じるし、監督の狙いもそういうところだったのであろうことは垣間見える。  でも、出来なかった。その要因もまた「平手友梨奈」に尽きる。 17歳のアイドルの稀有な存在感に、監督の演出も、映画全体の在り方も、引っ張られている。 必然的に、このアイドルがそもそも放っている表現力の範疇を出ることなく、「平手友梨奈のアイドル映画」として仕上がっている、のだと思う。 それこそ、もっと天才的で破滅的な映画監督が、この作品を撮っていたならば、既存のエンターテイメントの枠を超越したとんでもない映画になっていたのではないかと、映画ファンとしての妄想は膨らむ。 しかし、もしそうなった場合、平手友梨奈自身も、現時点のアイドルとしてのガラスを割られ、表現者としての次のステージに進まざるを得なくなっただろう。 無論、それはそう遠くない将来に確実に迎えざるを得ない場面だろうけれど、それが今でなくて良かったと思う。 好意的な見方をするならば、月川翔監督も、現時点のアイドルとしての平手友梨奈の価値を鑑み、彼女の自然な在り方を優先すべきと判断したのかもしれない。  というようなことを巡らせながら、エンドロールを見始めた。 すると、この9ヶ月間聴き馴染んだ「声」がこれまたエモーショナルな歌詞を発している。主演アイドルが未公開の主題歌を歌っているということを知らなかった僕は、途端にいつもの“一言”に埋め尽くされた。 ああ、なんて“エモい”んだ。
[映画館(字幕)] 7点(2018-09-15 17:17:08)(良:1票)
443.  まともじゃないのは君も一緒
「普通」に生きることの難しさと、それを同調圧力で押し付けられるこの世界の愚かしさ。 そんな普遍的な社会のいびつさの中で、“フツー”じゃない二人が繰り広げる全く噛み合わない会話劇が絶妙なラブコメだった。 ストーリー的に練り込まれた工夫や発見があるわけではないけれど、ベタなコント劇のような展開の中で、「人間」としての在り方そのものが不器用な二人が、ドタバタと滑稽な恋模様を交錯させる。 ただその不器用な恋模様と人間模様は、彼らと同じように“フツー”に生きることが下手くそな人間にとっては、事程左様に突き刺さり、終始笑いっぱなしだった。  かく言う自分も、決して人間的に器用ではなく、上手ではない生き方をしているとしばしば感じる。 他人と同調することや、強要されることを嫌い、そのことで周囲を不快にし、自分自身も抱え込まなくてもいいフラストレーションを溜めている。 もっと割り切って、「普通」に合わせて、「常識」に従順に生きられたなら、もっと楽になるのかもしれない。  でも、自分自身誤解してはならないのは、そういう生き方をしているのは、他の誰でもない自分であり、誰のせいでもないということ。 「普通」に生きることがどんなに滑稽で、愚かしく思えたとしても、それがこの世界で生きていく上で求められる常識であるならば、それは理解しなければならないし、それに反して我を通すのならば、それなりの「覚悟」を持たなければならない。  そういうことを、この映画の二人の主人公も充分に理解していて、だからこそ「普通」になってみようと彼らなりの努力をしてみるし、その上で、自分たちはどういうふうに生きていこうかと、道筋を見出していく。 果たして、普通でもなく、まともでもない彼らは、望んでいた何か、憧れていた何かを失ってしまうけれど、ものすごく狭小だったその視界は、確実に広がっている。  昔のアニメ映画の台詞にもあったように、普通じゃない生き方、人と違う生き方は、それなりにしんどい。 でも、そんな“自分”を無かったものにして、誤魔化して、妥協して生きていくことも同じようにしんどい。 どちらの“しんどさ”を選ぶことも自由だし、避けられないことならば、せめて自分自身だけは自分に対して「納得」して生きていきたい。 そんなふうに、鑑賞者の「視界」も広げてくれる映画だった。   主演は、清原果耶+成田凌。奇しくも今年見通した朝ドラ「おかえりモネ」+「おちょやん」コンビ。 成田凌は、良い意味でアニメのキャラクターのようなまるで実在感のない存在感が独特で良い。 そして、清原果耶。めくるめく季節のように切り替わる表情と感情表現は、女優として唯一無二のものを感じる。 この若き女優の天性は、まだまだ計り知れない。
[インターネット(邦画)] 8点(2021-11-14 00:17:09)(良:1票)
444.  目撃(1997)
全体的に地味な感は拭えないが、演技巧者揃いのキャスト陣が質を高めている。特にイーストウッドとエド・ハリスの掛け合いは、何気ない会話のシーンでありながら深い印象を残した。ジーン・ハックマンの悪徳大統領ぶりも、思わず憎しみを込めて見てしまうほど良かった。
7点(2003-10-21 01:10:25)(良:1票)
445.  グリーン・ホーネット
「惜しい」最終的にはその一言に尽きる。  ヒーローとしての資質がまるでないボンボン社長が主人公、運転手のくせに社長と殴り合いを始める東洋人の相棒、派遣社員のくせに雇い主を蔑んで足蹴にする参謀的美人秘書(年増)、時代遅れを気にする威厳のない悪党のボス。 すべてのキャラクターが、本来与えられるべきそれぞれの役割の「定石」から逸脱していて、そこから生まれる軽妙な掛け合いは、とても新鮮でユニークだった。 そのキャラクター設定が、ミシェル・ゴンドリーが奏でるポップでコミック調な映画世界にマッチしていて、オリジナリティーに溢れるエンターテイメントを感じられることが、この映画の最大の面白味だと思う。  もの凄く大好きな映画になりそうな要素は大いにあったのにそうならなかった要因は、ひとえにストーリーの雑さが目立ちすぎたことだと思う。 アメコミ調のヒーロー映画なのだから、多少の強引な展開は問題ないし、むしろ歓迎する。 でも、物事が転じていく要となるポイントがダイジェスト的に表現されたり、グダグダと無駄なシーンに時間を割いたり、ストーリーそのものに魅力が無さすぎた。  キャラクターのユニークさや、この映画において主人公よりも何よりもカッコいい愛車“ブラックビューティー”のビジュアルなどには大いにワクワクする反面、展開されるストーリーにはあまりにワクワク感がなかったと言える。  元々がテレビシリーズだっただけに、この作品の娯楽性は、ある程度の長いスパンの中でジワジワと愛着を持たれるものかもしれない。   P.S.序盤に悪党のボスに制裁されあっさり殺される薬の売人がいた。キャスト名はエドワード・ファーロング。マジで?
[ブルーレイ(字幕)] 6点(2011-07-03 10:01:52)(良:1票)
446.  舟を編む
10年以上かけて延々と辞書をつくる。ただひたすらに言葉を集め、編纂する。 おびただしい言葉の海に放り込まれ、漂い、もがき、“向こう側”に辿り着こうとする映画。 極めて地味な映画である。でも、なんとも愛らしい映画だった。  「言葉」そのものを敬い、愛する日本人ならではの物語だと思う。 また、「仕事」に一生をかけることへの憧れと羨望の描き出し方も、日本人ならではの特性をくすぐるものだった。 そういう意味では、とても日本人らしい映画だと思うし、この国の人々の普遍的な一側面を世界に対して理解してもらうにも有意義な映画だとも思う。  映画としては非常にオーソドックスで面白味が薄いようにも見えるけれど、一つ一つの画づくりはとても丁寧だった。 たとえば、編集室の書類の積み重なり方や、主人公の下宿の佇まいに至るまで、登場人物たちが息づく空間の空気感がちゃんと伝わってくる。  作り込まれた映画の世界観は、時に秀逸なアニメーションに通じる雰囲気を覚えた。 特に主人公とヒロインが出会うシーンなどは、ありふれた描写ではあるけれど、とてもキュートでファンタジックだった。  主演の松田龍平は地味な物語の地味な主人公を、彼の愛妻が言うように「面白く」魅力的に演じていた。 宮﨑あおい、オダギリジョー、小林薫ら脇を固める俳優たちの存在感もそれぞれ素晴らしく、味わい深い人間模様を見せてくれた。  映画的工夫の軽微な欠如は感じ、物語の核となる「言葉」や「料理」などにもう少し効果的にフォーカスを合わせてみても良かったように思える。 そうすれば更に芳醇な映画になったかもしれないけれど、そのいきすぎない「真面目さ」がこの映画のあり方だろうし、それはひいてはこの国が見つめ直すべきあり方に繋がるものなのだろうと思う。
[DVD(邦画)] 7点(2014-03-16 10:15:57)(良:1票)
447.  お葬式
お葬式なんて誰もが経験するものだけれど、にもかかわらず非日常的であることは確かで、それを映画にしてしまう伊丹監督の着眼点と観察力には感服する。今作を見ると、非常に不謹慎ではあるが、お葬式というものに本質的な興味がわく。
7点(2003-12-18 17:23:31)(良:1票)
448.  スーサイド・スクワッド
トレーラーの段階では、今年随一の期待値を生んだ映画だったけれど………。結論から言うと、“マーゴット・ロビーがサイコーなだけの映画”だった。 マーゴット・ロビーが扮する“ハーレイ・クイン”の存在が無かったとしたら、年間ワースト級の駄作とこき下ろしていたところだろう。 逆に言うと、“ハーレイ・クイン”という新たなポップアイコンを誕生させたことだけで、今作の存在価値は充分にあると思える。 “ジョーカー”を愛し、崇拝する絶対的な狂気性の中で、笑い、怒り、泣き、激情のまま縦横無尽に暴れまわる彼女の存在感そのものに「虜」になってしまうことは請け合いで、陳腐な映画の本筋に反して、彼女の存在感のみが常にエンターテイメント性に溢れていた。 トレーラーの段階で、この映画に対する最大の目的は「彼女」だったので、想定通りの満足感は得られたと言っていい。  だからこそ、この映画、もっと愛すべき映画になり得た可能性は充分にあったと思う。 まあ何と言っても、ストーリーがチープでメタメタ過ぎる。気鋭のデヴィッド・エアーが監督・脚本を務めながら、どうしてこれほどまで薄っぺらい映画に仕上がってしまったのか、正直理解に苦しむ。 悪党集団を主人公にした過去の成功作はいくらでもあろうし、デヴィッド・エアー自身の過去作においても正義と悪の境界をテーマにした秀作が幾つもあるのだから、今作においてももっと巧い描き方が出来たはずだ。  今作に登場する“悪党”たちは、基本的にはただの“いいヤツ”として描かれ、悪党集団であることの意味や面白みがまったく描かれていなかった。 そもそもアメコミ世界のヴィランズを主人公に据えた作品なのだから、もっと漫画的に、彼らに相応しい“悪ノリ”を繰り広げて然るべきだったと思う。 ハーレイ・クインはもとより、ジャレッド・レトが精力的に演じたジョーカーも、「ダークナイト」のヒース・レジャー版とはまた異なった“ピエロ像”を魅力的に醸し出すことが出来ていただけに、チープなストーリーテリングの中で“極悪カップル”が浮いているように見え、大変勿体なかった。 ウィル・スミスが演じたデッドショットは、この映画においてはまったく存在価値がなく、どう転んでも“いいヤツ”にしか見えないこのスター俳優の役づくりとキャスティングにも問題があったと思う。  と、駄作点はツッコみだすと枚挙にいとまがない作品である。 “あの大富豪”もメインキャストにクレジットされていないわりに、序盤からちょこちょこ出過ぎである。 どうしても比較の対象になるが、“トニー・スターク”ならば、もっと“狡猾”にもったいぶってエンドクレジット後のシークエンスのみにドヤ顔で登場したことだろう。 そのあたり、相変わらず“マーベル”に比べて“DC”の愚鈍さと稚拙さが目についた。“ジャスティス・リーグ”への展望はまだまだ薄暗い……。   とはいえ、何度も言うが、マーゴット・ロビーの“ハーレイ・クイン”はサイコーである。 彼女を観るためだけに、僕はこの映画をまた観るだろう。続編やスピンオフ作品があるなら期待したい。  “ノーマル生活”の描写の方がよっぽど「悪女」に見えたマーゴット・ロビーの今後の活躍にも大いに期待したい。
[映画館(字幕)] 5点(2016-09-22 00:58:10)(良:1票)
449.  愛を読むひと 《ネタバレ》 
戦後の西ドイツ、ふとしたきっかけで出会った15歳の少年と36歳の女。欲望のままに惹かれ合い、たった一夏の関係を過ごした二人。彼らの中ではじまった「朗読」という儀式は、一体何だったのだろう。  その意味は、決して単純に美しいものではないように思う。  過去の“業”を秘め無学をひたすらに隠そうとするアラウンド40の女と、目覚めた”性”を抑えきれず彼女に対する無意識下の蔑みを「愛」と盲目する少年、それぞれの脆さと愚かさを、「朗読」という行為で正当化しているような、そんな屈折した心証が見え隠れする。 キャッチコピーにもある通り、そこには、「愛」と呼ぶにはあまりに切ない二人の男女の関係性があったと思う。  時を経て、再び「朗読」という行為で繋がる二人の関係性は、20年前のそれとはまったく異なる。かつての感情の高ぶりを思い起こすと同時に、決して取り戻すことは出来ない過ぎ去った時間を感じ、二人の関係の本当の意味での“終幕”を迎える。  結局、この男と女は、一度たりとも心が通じ合ったことは無かったのではないかと思える。お互いが、無知と無学の狭間で盲目的に惹かれてはすれ違うということを繰り返し続けたのではないか。  それはやはり「愛」ではなかった。ただ、その関係性がイコール「悲劇」かというとそうではない。それぞれの人生において、「朗読」という行為は、“始める”意味でも、“終わらせる”意味でも不可欠なことだった。 それはおそらく当人たちでさえ説明がつかない心と心の“交じり合い”だったのだろう。  この物語の真意を100%理解出来たとは思えないし、完全に理解することなどは不可能だと思う。 なぜなら、主人公の女が死を覚悟してまで文盲であることを隠し続けたことが如実にあわらすように、人間の心理は千差万別であり、一つとして完璧に重なり合うものはないからだ。 そういう人間の複雑さを映画として情感たっぷりに描き出した優れた作品だと思う。
[DVD(字幕)] 8点(2010-03-22 09:26:35)(良:1票)
450.  ホッタラケの島 遥と魔法の鏡
充分に予想出来たことではあったが、いかにもフジテレビらしい表面的なポップさが、“際立つ”というよりは、“鼻に付く”ファンタジー世界の映像的なクオリティーの高さは認めつつも、やっぱりハマれなかった。 可愛らしさとユニークさを押し売られているようなこの感じは、このキー局から発せられる“娯楽”すべてに共通するもので、個人的にこの数年特に嫌悪感を覚えてしまう。  ストーリーは極めてありきたり。「不思議の国のアリス」的な導入から始まって、他の作品で何度使い古されてきたか分からない“死別した家族との心の交流”が、特に何の工夫も無く描き出されていた。タイトルからしていかにもでダサ過ぎる。 ありきたりでも何でも、お話として説得力が備わっていれば、充分に観れる筈だが、主人公をはじめとするキャラクター達の言動における「理由」が非常に曖昧で、薄っぺらい。 完全に、「そういうストーリーだから」という理由が先行する形で、アドベンチャーが繰り広げられるので、感情移入をすることが出来なかった。  娘をもつ一人の親としては、ラストのくだりに対してはどうしても涙腺が緩んでしまったけれど、それはもはやこの映画によるものではなく、あまりに普遍的な親の心情によるものでしかない。  その他諸々注文をつけたくなる部分は数多い。 いくらなんでもあれだけ危険な目にあって無傷ということに違和感を感じる。 「不思議の国のアリス」的な導入なのだから、むしろがっつりと“夢オチ”にしてしまって良かったと思う。 「夢だったのかもしれない」と思わせた方が、主人公自身が自らの中で心の成長を遂げたことが際立つし、押し付けがましい世界観にも幾分納得がいったと思う。  最終的には、綾瀬はるかが声優を担当したヒロインの、微妙にエロい短いスカートの丈の印象だけが残る「不純」なアニメ映画に仕上がってしまっており、残念なような、嬉しいような……。
[インターネット(字幕)] 3点(2013-06-05 23:36:31)(良:1票)
451.  NO
“成し遂げたこと”の価値が大きいほど、その当人は感情の置き場所に戸惑うものかもしれない。 主人公一人が信じた「目的」を果たし終えた後、それまでと変わらずに広告を作り続ける彼の瞳が印象的だった。  独裁政権下のチリでようやく許された反対派CM放映の権利。 自らも国外追放を経て帰国した広告マンが、反対派に与し体制の転換を目論む。 事実は小説よりも奇なりとはよく言ったもので、長きに渡り恐怖政治で支配を極めていた独裁政権に対峙する主人公が、あくまでも広告マンとしての戦略・知略を尽くすさまがとてもユニークで興味深い。  恐怖や不幸に打ち勝つものは、それによる悲しみや苦しみを訴えることではなく、それを一蹴する多幸感と未来だということを、この映画は雄弁に物語る。  勿論、現実はそう安直なものではない。 実際に圧政に苦しんだ人々の苦悩はそう簡単に振り払えるものではなく、すぐさま“未来志向”になれるわけではないだろう。 ただし、たとえそのCMを見ていた一時だけでも、打ちひしがれた心が和らいだなら、そこから未来は開ける。  「今、この国は未来志向だ」  主人公がプレゼンの前の常套句としているように、重要なのはこれから見るものが「未来」であると意識することだ。 「NO」という主張と選択。その価値と可能性を“真実”というエンターテイメント性で彩った快作。
[映画館(字幕)] 7点(2015-01-19 13:54:07)(良:1票)
452.  クローズZEROII
原作「クローズ」の最大の魅力は、バラエティー豊かな“キャラクター性”だと思う。 決して主人公の描写に注力するわけではなく、むしろ周囲の様々なキャラクターに確固たる人間性を持たせ、様々な視点から極限の不良世界を構築したことが、この漫画の最大の成功理由だと思う。  そしてこの「映画化」が成功した理由も、まさに同じポイントを確実に抑えたからだと思う。 山田孝之が演じる芹沢多摩雄をはじめとする鈴蘭の面々、そしてトップ鳴海大我をはじめとする宝仙の面々。 映画独自のオリジナルストーリーでありながら、原作漫画に登場してもおかしくない(むしろ登場してほしい)と思わせるほど、魅力的なキャラクター造形が出来たことこそ、最大の勝因だろう。  特に、山田孝之のパフォーマンスは素晴らしい。 個人的にはそもそも好きな俳優ではなかったので、「クローズ」に出演という報を聞いた時は、彼があの漫画の世界観にどう息づけるというのかと、全く期待していなかった。 が、見事に主人公の最大のライバルというオリジナルキャラクターを演じ切り、強烈な印象を残した。時に二カッと笑いながら殴り合いをする様は、最も”クローズ的”だと感じさせる存在感だった。  この「クローズZERO」二部作は、監督三池崇史のバイオレンス性と多様性が、伝説的な不良漫画とこれ以上ない絶妙な具合で融合した作品である。 その完成度の高さは、ひとつのサプライズであったが、それは決して偶然などではなく、揺るぎない必然性の元で生まれた結果だ。
[DVD(邦画)] 7点(2009-10-23 14:03:45)(良:1票)
453.  大空港
この後、連作されたエア・ポートシリーズの第一作。シリーズとしては航空パニックの傾向が強いが、オリジナルである今作は空港、旅客機内を舞台とした群像劇の色合いが強い。様々な人間の思いが文字通り行き交う舞台として、飛行場という設定は優れていたと思う。
[地上波(吹替)] 7点(2003-10-25 14:59:51)(良:1票)
454.  ミッドナイト・スカイ
世界の終末。放射能汚染によって住むことができなくなった地球を残して、人類は宇宙へと逃げ出す。 だが、人類が生き残るための道筋を誰よりも早く見出していた科学者は、一人北極の観測所に居残る。 彼が自らの命をとしてその選択をした理由が、淡々と、そして情感的に描き出される。  「メッセージ」や「インターステラー」など、壮大なSFの上で綴られる普遍的な人間ドラマが大好物な者としては、とても好ましく興味深い映画だった。 人類が滅亡の危機に瀕している具体的な理由などの細かい状況説明を意図的に廃して、ジョージ・クルーニー演じる主人公の残された時間と、それと並行して展開する帰還船の描写に焦点を絞って映し出されることで、より一層登場人物たちの「孤独」と「絶望」が浮き彫りになっていくようだった。  そう、この映画が表現しようとすることは、まさにそういった人間の孤独感と絶望感、そして悔恨だった。  恐らくは核戦争によって地球を捨てざるを得なくなってしまった人間全体の愚かさ。 宇宙への望みを追い求めるあまり、結果的に愛すべき人を捨てることになってしまった一人の男の哀しさ。 人間という生物全体の後悔と、その中の一個体の後悔が入り交じり、この映画全体を覆っている。 それは、決して遠くない未来の現実の有様のようにも見え、鑑賞中とても安閑とはしていられなかった。  地球全体を覆い尽くすような99%の絶望。そんな中で、ただ一つの“光”が描き出される。  ただ一人残ったはずの主人公の前に突如現れた“少女”は、彼にとって、悔恨と希望そのものであり、同時に、人類が存続するために与えられた最後の奇跡だったのだと思う。     ジョージ・クルーニー自身が監督も担った作品だけあって、登場人物の感情を主軸にした極めて内面的な映画に仕上がっている。 前述の通り、ストーリーテリングの上で論理的な説明が無い分、話自体のシンプルさのわりに分かりにくい映画になっていることは否めない。 難解という程ではないけれど、これほど主人公の内情に焦点を当てるのであれば、ジョージ・クルーニーは俳優業に専念すべきだったのではないかとは思う。 彼の豊富な監督実績を否定はしないし、今作においてもそつない仕事ぶりを見せてくれてはいるが、監督か俳優どちらかに専念したほうが、もっと深い映画表現にたどり着いたのではないかと思えた。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-01-02 00:26:34)(良:1票)
455.  サイダーのように言葉が湧き上がる
ヘッドホンは屋内外問わず必携だし、マスクも現在の感染症対策に関係なく実は一年中していたい。 特に明確なコンプレックスがあるわけではないけれど、世の中に対してささやかな“ガード”をすることで、心を落ち着かせることができる。 そのことが他人とのコミュニケーション不足に至ってしまっていることも否めないけれど、この社会の中で折り合いをつけるためにはもはや不可欠な「対策」だとも思う。 そうそれは、僕自身の性質だ。  そういうわけで、本作の主人公二人が抱えるコンプレックスとその心情に対しては、最初から共感せずにはいられなかった。  思春期特有のナイーブさも重なり、すべてをさらけ出せない二人は、それでも自分自身の存在証明のために、俳句を詠み、ライブ配信をしている。 アニメ作品としては特に劇的なドラマが繰り広げられるわけでもなく、ファンタジックな事象が巻き起こるわけでもない。とある地方都市の大型ショッピングモールを舞台にしたミニマムなボーイ・ミーツ・ガールだった。  劇的ではないストーリー展開が、むしろ逆に主人公たちをはじめとする登場人物たちの何気ない心情を浮き彫りにし、愛らしい人間模様を表現していたのだと思える。 大型ショッピングモールがデンと構える風景も、もはや日本中のあちこちで見られるありふれた光景だろうけれど、ヴィヴィットでポップな背景のグラフィックデザインが、彼らにとって特別な「今この瞬間」を切り取っていたと思う。  キャラクター造形は総じてステレオタイプだとも言えるし、ストーリーテリングにも安直さやご都合主義が見え隠れすることは否めない。 それでも、“ガード”をすることしかできなかった少年少女が、自分自身の大切な思いを、行動と言葉で、相手に伝える様にはエモーショナルを感じずにはいられない。  そして、“アテ書き”としか思えない杉咲花のキャスティングが間違いなかった。  青臭く つたない言葉 ぼくはすき
[インターネット(邦画)] 8点(2022-05-21 00:39:12)(良:1票)
456.  FRANK -フランク-(2014)
才能の誕生も精神の喪失も、その発端に必ずしも明確な理由や環境があるわけではないと思う。 誰しも、自分自身の才能に期待し、模索し、絶望した経験が少なからずあるだろう。  凡庸で薄っぺらな主人公が、一人の天才と出会ってしまったことで、求めたもの、失ったもの、そして得られてものはなんだったのだろうか。 凡庸と天才が出会うことで、それまで保たれていた琴線は途切れ、痛々しい悲しみが生まれる。 でも、その痛みと悲しみは、両者にとって必要なことだったのだと思える。  もし出会わなければ、凡庸はいつまでも夢見るだけの愚か者であり続けただろうし、天才もまた安全安心ではあるけれど極めて歪な鳥籠の中で永遠に羽を繕い続けていただろう。 いずれにしても両者はそのうちに破綻し、取り返しの付かない悲劇を生んでいたかもしれない。  最終的に凡庸は、自分の存在の意味と居場所を思い知り、天才の元を去っていく。 その様は非常に物悲しい。 けれど、それは互いにとって本当に必要な物を得られた瞬間だったのではないか。  それは彼らにとって必要な心の旅路だったのだろう。   作中ずうっと奇妙なお面を被り続けて“FRANK”という天才を演じたのは、マイケル・ファスベンダー。 この俳優も風貌に似合わず厳しい役柄ばかりを演じ続けている。 この人もかなりキテいる“役者馬鹿”なんだと思う。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2015-09-23 23:15:47)(良:1票)
457.  スペシャリスト(1994)
今になって考えると、この映画からスタローンの落ち込みが始まったのではないかと思う。見応えのないアクションシーンと希薄なストーリー展開には辟易させられる。シャロン・ストーンとの絡みのみをウリにした映画自体、非常に問題だ。
2点(2003-11-30 12:37:12)(良:1票)
458.  トラフィック(2000)
アメリカという大国における最大の問題のひとつであるのがドラッグであろうが、その問題を非常に効果的に一流の映画として昇華させている作品だと思った。それぞれのキャラクターによるオムニバス的なストーリーを見事にリンクさせ、場面ごとに映像の色彩を変える手法がとても鮮烈で印象深い。今作でアカデミー監督賞を受賞したスティーブン・ソダバーグであるが、彼の映画監督としての力量をまざまざと見せ付けた秀作。
[DVD(字幕)] 8点(2004-01-13 15:34:03)(良:1票)
459.  見知らぬ乗客
初冬、久しぶりのヒッチコック映画を鑑賞。  列車に乗り合わせた厚かましいくらいにフレンドリーな男が、徐々にその異常な本性を現していく様が怖い。 序盤のシークエンスのみでは、列車内で初めて顔を合わした二人の男のどちらが、この映画の主導権を握っていくのか判別が付きづらい。 というのも、私生活においてトラブルを抱え、明確な「殺意」を表すのは、フレンドリーな“見知らぬ乗客”の方ではなく、主人公のテニスプレイヤーの方であり、彼が激情のあまり殺人を犯してしまうのかとミスリードされる。  しかし、次の展開では、見知らぬ男の方の狂気が、不気味に、淡々と映し出され、主人公と同様に、我々観客も戦慄させられる。  このあたりのストーリーテリングのテンポや間の取り具合が、1950年代の映画としては非常にサスペンスフルで洗練されていると思う。 殺人の舞台となる夜の遊園地や、犯行の瞬間をメガネのレンズ越しに映し出す演出など、流石はアルフレッド・ヒッチコックだと思わせる映画術がしっかりと冴え渡っている。  序盤は「交換殺人」というキーワードを主軸にしたサスペンス映画の様相だったが、男(見知らぬ乗客)の本性が現れてからは、この男がストーカー的に主人公の前に出没し続け、殺人を強要していくスリラー映画として、映画作品自体がその“本性”を現す。 その映画的な塩梅も、古い映画世界に相反するようになかなかフレッシュだった。  テニス会場のラリーの応酬に対して一斉に左右に首を振る観客席の中で、一人微動だにせずこちらを見つめてくる男の不気味さや、ラストの“超高速回転木馬”のスペクタクルに至るまで、終始観客の心理を鷲掴みにして離さないヒッチコック監督の映画づくりを堪能することができた。 そしてその“ラリーの応酬”や、ちょっと“廻りすぎなメリーゴーラウンド”は、映画の中で対峙する二人の男の「運命」を象徴させているようで、そういう隠喩表現も巧みだ。  キャストの中では、サイコパスな殺人者を演じたロバート・ウォーカーがやはり印象的。 非常に真に迫った名演だと思えたのに、名前を聞いたことが無いことを不思議に思ったが、この映画の後に32歳の若さで急死したとのこと。 どうやら少年時代から心に傷を追った生い立ちだったらしく、俳優になった後も妻の不倫やアルコール依存等が重なり、精神的な不安と混乱を抱え続けていたようだ。  そんな彼にとって、この作品の役どころはある意味まさに「適役」だったのだろうが、俳優本人の人生の不遇を思うと複雑な思いにかられた。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-12-05 00:58:55)(良:1票)
460.  くもりときどきミートボール
たぶんこのアニメ映画のイントロダクションを見聞きした人の殆どが、今作の持つ「性質」を誤解したまま観たり、また敬遠してしまっていると思う。  イントロダクションを見ただけでは、“珍発明”によりありとあらゆる食べ物が空から降ってくるドタバタ騒動を描いた低俗な子供向け映画という印象を持ってしまうことは致し方ない。 そして、日本人の食文化に対する感覚からすると、“空から食べ物が降ってくる”というファンタジー性自体に、幾ばくかの嫌悪感を感じてしまい、より敬遠してしまうだろう。  しかし、実際にこの映画世界に描かれる「本質」は、決して低俗ではなく、また子供向けでもないと言える。むしろ、子供にはこの映画が持つシニカルなユーモアは理解しきれないと思う。  この映画が描くものは、「飽食」に対する問題意識を礎にした現代社会に蔓延する病理性への警鐘だ。 際限なく降ってくる食べ物に対してぞんざいな扱いを続けた人間たちに、食べ物自体が“災害”として襲いかかる。 もちろん、あり得ない設定だし、時に描かれ方が悪趣味にも見える。しかし、それこそがこの題材をアニメ映画として構築する意味であり、価値だと思う。 「飽食」という常態化している問題を、アニメーションならではのフィクション性と馬鹿らしさの中で描くことで、逆に問題の異常性が浮き立ってくる。  エゴイズムを全面に出し、溢れる食べ物を食べ漁りみるみる太っていく市長のキャラクターは、まさに現代人の権化であろう。 ラストカット、海の上で一人取り残された市長が「船まで食べちゃうなんて馬鹿だよね」という台詞は、まさに自らが生きる環境をも食い尽くそうとしている人間に対するある種直接的な批判だった。  そういう意外と真っ当なテーマ性を孕ませつつ、実際はひたすらに愉快にアニメーションが繰り広げられる。 随所にあらゆるエンターテイメント映画のオマージュ的な描写も見られ、どこまでも楽しませてくれる。 また敷かれている脚本は意外なほど緻密に構成されており、細かな伏線の確実な回収も含めて、物語的にも非常に良く出来ている。  表面的なイメージのみで観る映画の取捨選択をしてまいがちだが、それによって大いに損をしてしまっているかもしれないということを改めて感じさせる極めて秀逸なアニメ映画だった。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2012-02-06 21:24:18)(良:1票)

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