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鉄腕麗人さんのレビューページ[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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621.  64/ロクヨン 後編
“忘れたくない”のに、殺された娘の記憶は、哀しみと怒りのみをくっきりと残して、日に日に薄れていく。一方、“忘れたい”のに、怒りと憎しみの根源である犯人の声は、こびりつくように脳裏に残り続けた。 これは、あまりにも悲しく、あまりにも辛い、「父親」の物語であり、主要な登場人物たちと同様に、僕自身娘を持つ父親として、身につまされたことは間違いない。   或る誘拐殺人事件を主題としたサスペンスとして、通り一遍ではない様々な感情と思惑、そして実際の時代的背景が入り混じったストーリー構成からは、流石に横山秀夫の著作らしい原作の空気感を感じた。   原作は未読だけれど、そういった魅力的な題材を、国内のオールスターキャストを揃えた「大作」として映画化するにあたっての、精力的な気概そのものは十分に感じた。 が、しかし、いかんせん演出が「稚拙」の一言に尽きる。残念だ。   昔からだが、なぜ日本のサスペンス映画は、過剰な慟哭をさせたがるのか。 仰々しい演出で、これ見よがしな慟哭を映画のハイライトとして映し出す映画に、あまり傑作は無いように思う。 今作も「前編」の段階から、熱演を通り過ぎて、少々オーバーアクトに見えてしまう場面がいくつもあった。 まだ前編に関して言えば、過剰な演出・演技に対して、描き出されるストーリーの焦点が極めて普遍的な県警内における“内輪もめ”だったので、仰々しい表現と実際に進行する展開の小規模さのギャップが、興味深く描き出され楽しめた。   しかし後編は、いよいよサスペンスの本筋である過去の悲劇的な事件と、リアルタイムに展開される新たな事件が絡み合う様が大々的に描き出されるので、仰々しいだけの演出が逆に白けさせる結果となってしまった。 事の真相が、必要以上に振りかぶって繰り広げられるので、それを受け止める側としても身構えてしまい、的確に捉えられなかった印象を覚えた。 フィクションなのだから、導き出される「真相」が荒唐無稽だったり、非現実的だったりすること自体は許容できる。しかし、それならば映画上の「嘘」を、擬似的な「現実」として観客に許容させるための演出方法があるはずで、それこそが映画の醍醐味だろうと思う。   前編で構築した地味だけれど見応えのある人間模様を、ないがしろにし、甚だ強引で整合性の無い帰着に導いてしまったこの後編はとても残念な仕上がりだった。 ラストの顛末も大きく改変してしまっているようだが、おそらく横山秀夫の原作は、この物語が描き出す「事件」に関わる群像一人ひとりの心情をあぶり出し、多層的なドラマ性を生み出しているのだろう。機会があれば是非原作小説を読んでみようと思う。   最終的に残念な仕上がりではあったが、前後編通じてキャスト陣は、演出の良し悪しは別にして、“熱い”演技をして見せてくれている。 前述の通り、個人的には異なった「父親像」を演じた俳優たちがそれぞれ印象的だった。   主演の佐藤浩市は、刑事として、父親としてあらゆる側面で“板挟み”になり苦悩する男を熱演していた。 被害者父役の永瀬正敏は、心身ともに文字通りに“汚れ”苦しみ尽くす様を見事に体現していた。 吉岡秀隆は、警察官としての正義のあり方に振り回され葛藤と共に人生を狂わされた男を好演していた。 そして、「緒方直人っぽいけどコレ誰だ?」と思わせる程に、色々な意味で屈折した表現を見せた緒方直人の演技も凄かったと思う。   原作が持つストーリー性と、俳優たちの熱い演技がもっと噛み合っていれば、本当の意味で「大作」になり得ていただけに、演出面の稚拙さが重ね重ね残念だ。
[インターネット(邦画)] 5点(2019-04-02 17:03:37)(良:1票)
622.  ボウリング・フォー・コロンバイン
飛び交う情報の中で、もはやぼくたちはどれを信用するべきか分からない。それが今現在の全世界中での混沌に直結すると思う。アメリカを愛し、アメリカを憎み、アメリカを軽蔑し、アメリカが大好きなこのひとりのアメリカ人が作り出したドキュメンタリーは、核心であると同時にそれすらもただひとつの「意見」に過ぎないのかもしれない。だから、この映画を観たことのみで「反銃社会!」、「反アメリカ!」と言うことは非常に安易で愚かであるし、作り手も決してそんなことを望んでいるわけではないと思う。必要なのは、ただ単に「まず知ること」だ。外国でどんなにショッキングな事件が起きても、所詮多くの人たちにとっては日々のニュースの一片にすぎない。もちろんその一つ一つを己の身をもって感じろというのは無理なことだ。しかし、もう少しぼくたちは、自分たちのまわりを覆い尽くしている混沌を見つめるべきではないか。そのためのひとつの術として、このドキュメンタリー映画は非常に有意義に存在すると思う。
[DVD(字幕)] 8点(2004-07-31 08:14:55)(良:1票)
623.  映画ドラえもん のび太の宇宙小戦争 2021
「2021」という“未来”に蘇った「宇宙小戦争(リトルスターウォーズ)」。 オリジナル版の公開から36年余りという年月を経て、新時代の子どもたちに向けてリメイクされた本作は、稀代のSF漫画家による普遍的なジュブナイルと、“Sukoshi Fushigi”な空想科学の魂に満ち溢れていた。 オリジナル公開当時3〜4歳だった自分は、その時代から「ドラえもん」を愛し続け、今現在に至る。 食い入るようにスクリーンを見つめる我が子らと並んで観ながら、思わず目柱が熱くなったことは言うまでもない。  リメイクに当たって、キャラクター設定の追加やチューンナップ、ストーリー上の幾つかの改変ポイントはあったが、ストーリーテリングは概ねオリジナル作品に忠実で、改変による破綻や違和感は殆ど無かったと思う。  敢えて重箱の隅をつつくとすれば、冒頭の展開がやや駆け足だったため、ピリカ星の少年パピが10歳にして大統領であるというサプライズが薄れてしまっていたり、のび太たちが取り組んでいる特撮映画制作のくだりがほぼオープニングのみで処理されてしまうので、前フリとして弱く、中盤以降のスネ夫のミニチュアによる活躍が盛り上がりきらない印象を受けた。 ……などというイチャモンレベルの違和感はあったけれど、それは実際些末なことだろう。(東宝特撮映画風のオープニングクレジットはナイスだった!)  むしろ、改変によってキャラクター造形やドラマ性が深まっている要素も確実にあり、総じて良いリメイクだったと思える。 少年大統領のパピは、原作及びオリジナル映画では、さすがに聖人君子過ぎて、完全無欠過ぎるキャラクターだったが、本作では姉ピイナを新登場させることで、垣間見える幼さや弱さも含めて少年らしい側面を描き出すことができていた。  また、悪役のドラコルルにおいても、単なる悪人キャラではなく、属するクーデーター軍の忠実な軍人としてのキャラクター性が強まっていた。 決して冷酷無比ではなく、心の奥底では絶対的支配者であるギルモア将軍の蛮行に虚無感を覚えていたり、むしろ敵対するパピに対して信頼感や敬意を孕んでいる節すらあった。そして、ラストでは部下の処遇を心配するなど人間的な深みが増していたと思う。  この敵側のキャラクター性の改変は、ストーリー全体のテーマにも影響しており、暴力による独裁や支配がいかに愚かで、虚しいものであるかを物語る上で、より効果的に機能していたと思う。 のび太たちが攻撃をする対象があくまでも「無人機」であることを念押しした台詞回しにも現代的な心配りと、憎しみの螺旋を断ち切ることへの強い思いを感じた。  そして、この「のび太の宇宙小戦争」が物語るそのテーマ性は、本作がコロナ禍による一年間の延期を経て、今この時期に公開されたことに運命的にリンクする。 世界は今、ロシアによるウクライナ侵攻に伴う「戦争」の只中だ。 本作の中で描き出されたシーンの数々は、現実世界で日々伝えられる映像と多々重なる。その深刻さは、事程左様に重くのしかかるようだった。  きっと今この瞬間の現実世界においても、ドラコルルのような悲しき軍人が虚しい暴力を望む望まざるに関わらず振るい続けているのだろう。 僕の横で、純粋な眼差しをスクリーンに向ける子どもたちにそんなことを意識させる必要はないけれど、僕たち大人たちは、この状況の意義を深く考えるべきだと思った。
[映画館(邦画)] 8点(2022-03-29 22:40:01)(良:1票)
624.  ガメラ2  レギオン襲来
「火力をレギオンの頭部に集中し、ガメラを援護しろ!!」 映画のクライマックスで、自衛隊の師団長が言い放つ。  ふいにこの台詞のシーンを思い出すと、その度に無性にこの映画が観たくなる。 また思い出してしまったので、DVDを引っ張り出して、もはや何度目か分からないが「ガメラ2 レギオン襲来」を観た。  分かっちゃいたが、何度観ても面白い。  もう15年前の映画なので、特撮シーンやCGが現在の最新技術に比べて稚拙に映ることは確かだ。 しかし、それでもビジュアルの“見せ方”の巧さと迫力は“劣化”を感じさせず、怪獣映画として“類い稀”な世界観に没頭させてくれる。  この映画の何が素晴らしいかと言うと、「王道」を踏襲しているということに尽きる。 怪獣映画としての王道、パニック映画としての王道、ひいては娯楽映画としての王道をしっかりと表現していることが、この作品の価値を高める最たる要因だと思う。  日本の男の子なので、怪獣映画もそれなりに沢山観ている。 日本では長きに渡り数多くの怪獣映画が製作されているが、本当に面白い作品は少ない。 数少ない“良い怪獣映画”に共通していることは、「人間の目線で描かれている」ということに他ならない。  怪獣映画と言っても物語を進めていくのは人間なわけだから、人間の描写をおろそかにしては面白い映画になるわけがない。そして、巨大な怪獣を“巨大に見える”ように撮らなければ、怪獣映画としてのそもそもの意味が無い。 いずれにしても、「人間の目線」で描かれなければ鑑賞に堪える面白い映画になるはずがないと思う。  冒頭に挙げた台詞に表れているように、特に今作はその世界に生きる人間たちの活躍がめざましく、観ていて否応にも盛り上がる演出が冴えている。  ヒロインが科学館の学芸員だったり、主人公の自衛隊員も組織下の化学学校所属だったり、NTTのエンジニアが活躍したりと、SFとしてストーリーに説得力を持たせるキャラクター設定も光っている。  そういう人間描写の巧さとそれに伴うストーリーの面白味が、より一層に怪獣映画としての娯楽性を高めていると思う。   こういう怪獣映画がまた観たい。
[映画館(字幕)] 10点(2003-10-06 00:21:27)(良:1票)
625.  Vフォー・ヴェンデッタ
環境設定や登場人物たちの関係性で入り組んで見えるが、結局は“革命”をもってして自らの思いを貫き通す真っ当な「復讐劇」ということだろう。 そして、この映画のそのストーリー構築は間違っていない。主人公たちが歩んできた運命の悲劇性から“痛快ヒーローアクション”とは程遠いが、それでもこの暗く悲しい運命を背負ったヒーローの生き様には、異質ではあるがヒーローにふさわしい「解放感」があったと思う。 映画の視点をヒーロー本人ではなく、彼の最後に多大な影響を与える一人の女のものにして、物語を綴っていったことも、映画における現実を客観視させる上で効果的だったと思う。 その重要な役どころを体を張って演じきったナタリー・ポートマンは見事だった。 惜しむらくは、ヒューゴ・ウィービングの顔が一度も出なかったコト。まあキャラクターの特性上仕方ないコトだけれども…。
[映画館(字幕)] 7点(2006-05-01 18:10:19)(良:1票)
626.  トゥルー・グリット
「西部劇」というものをこれまで殆ど観てこなかった。「食わず嫌い」に近い苦手意識があったように思う。 あくまでイメージとして、捻りのないストーリーのわりに愚鈍でテンポが悪いという印象が何故かあった。  今作にしても、“西部劇を観る”というというよりは、“コーエン兄弟監督作品を観る”という立ち位置の方が先行していたと思う。 結果的に、予想外に“真っ当な”西部劇を観てしまったなあと思った。コーエン兄弟が、これほどどストレートな映画を撮ったこと自体が驚きだったと言える。  決して面白くなかったということはない。リメイク作品らしく、もちろんジョン・ウェイン主演のオリジナル作品は観たことがないが、映画世界そのものがとても丁寧に描き出されていることは全編通してひしひしと伝わってきて、ストーリー云々以前にその世界観自体を堪能できた。 イメージに反し、テンポも悪くなく、各々がそれぞれの悲哀を抱えながら短い旅をする様には、ドラマの多様性があった。  衝撃的に面白いということはなく、またそういう類いの面白さを求める映画ではないと思う。 登場人物それぞれの描かれていない部分の人間性や人生を想像し、鑑賞者のそれぞれが深めていくことが正しいのだろうと思うし、そういうことが「西部劇」を観る上での醍醐味なのかもしれないなと思った。  今作のオリジナル作品も含めて、優れた西部劇は数多くあるのだろうから、少しずつ観ていきたいなとも思う。 そういう意味で、個人的には映画鑑賞の可能性をちょっぴり広げてくれたとともに、マット・デイモンのスター俳優らしからぬ使い勝手の良さを改めて感じた映画だった。
[ブルーレイ(字幕)] 7点(2011-12-06 17:18:24)(良:1票)
627.  イングロリアス・バスターズ 《ネタバレ》 
「キル・ビルVol.2」以来のタランティーノの新作鑑賞。「キル・ビル~」ってもう6年前の映画なのかと、少々唖然とした。  そしてこの新作にも、大いに唖然とさせられた。 タランティーノ作品において、「唖然」という表現が“好評”なのか“不評”なのか、その単語のみでは正直判断がつかないだろう。 そして、「唖然」と発した自分自身も、実際のところ好不評の判断がつけづらい。  独特の台詞回しによる“タランティーノ節”に限って言えば、とてもタランティーノらしい台詞の掛け合いに溢れていた。 冒頭のナチスの大佐と農夫の対峙から、ナチス将校に扮したバスターズのメンバーが本物のナチス将校と酒を酌み交わすシーンまで、「タランティーノ!」という賞賛を思わず発したくなるような独特のユーモアと緊張感溢れる掛け合い震えた。  これは久しぶりに、評価に違わないタランティーノの傑作が誕生したんだな。とほぼ確信していた。  が、しかし、クライマックス近くまで非常に大きなエネルギーを感じたまま堪能できのだけれど、最終的な印象として「映画」としての魅力が無い、と感じてしまった。  何だろう?詰まるところ、クエンティン・タランティーノが「ナチス」を描く価値って何なのかが見出せなかったような気がする。 安直過ぎるほどにナチスを悪役として描き、それに残虐なまでの復讐を果たすバスターズの面々と、家族を殺された一人の娘。 結局、登場する全員が残虐なので、誰にも感情移入できない。 もちろん、これがタランティーノの映画である以上、感情移入なんて必要ないのかもしれない。 ただ、部分部分の台詞まわしやシーンは魅力的なのに、それぞれがバラバラで噛み合ない。  まあ“シュール”と言ってしまえばそれで済むのかもしれないけれど、やはりそれでは映画としてのカタルシスは得られない。  あ、そうそう。予想に反して見せ場の無いブラッド・ピットにも、唖然とする。
[ブルーレイ(字幕)] 6点(2010-06-22 00:03:03)(良:1票)
628.  ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス
絆、きずな、キズナと安直に謳う映画は多いけれど、果たしてその内のどれくらいの作品がその実態を描けているだろうか。甚だ懐疑的である。 そんな数多くの“エセ絆映画”に対して、持ち前のハイテンションとノリの良さを全面に打ち出しながらも、「絆」というものの本質をストレートにぶちかましてくる。 世間の期待値を遥かに上回る世界的大ヒットとなった前作も勿論存分に楽しんだけれど、個人的には前作を遥かに越える満足度の高さに対して、エンドロールを観ながら恍惚としてしまった。  前作では、全編通して繰り広げられる70年代ヒットチャートが世代的に今ひとつ突き刺さらなかったことと、個々のキャラクターが魅力的だからこそ生じた描き込みの物足りなさに、ノリ切れなかったことも事実だった。 しかし、今作では、オープニングクレジットと共に繰り広げられるスペクタクルシーン+ベビー・グルートのキュート過ぎるダンスシーンに、一気に心が鷲掴みにされた。 そして、続編故にガーディアンズの面々の“チーム感”と個々のキャラクター性は、序盤から細やかに描き込まれており、彼らが織りなす大エンターテイメントにすんなりと呑み込まれることができた。  ガーディアンズの面々は前作以上に魅力的に描かれている。 しかし、何と言っても今作のMVPは、前作に引き続きマイケル・ルーカーが演じた“ヨンドゥ・ウドンダ”以外にあり得ないだろう。 個人的には前作においても、ハイライトと思えたシーンは、敵の大群に囲まれ絶体絶命に見えたヨンドゥが唯一無二の武器「ヤカ」で大群を蹴散らすシーンだった。 今作でも、失意のどん底に突き落とされたヨンドゥが、見紛うことなき“リーゼント”を模した赤いフィンを頭頂部に差し込み、起死回生の美しすぎる大逆転シーンを見せつける。  またしてもハイライトをかっさらったこの青い肌の宇宙盗賊の首領は、今作の主題の核心的なキャラクターとして存在感を終始発揮し、世界中の映画ファンに永遠に愛し続けられるであろうキャラクターへと昇華する。 「クリフハンガー(1993)」以来のマイケル・ルーカーファンとしては、彼が演じたこのキャラクターの昇華は堪らない。因みに雪が降り積もる場面でのシルヴェスター・スタローンとの対峙シーンは、完全に「クリフハンガー」オマージュだろう。  これでもかと繰り広げられるスペクタクルを心ゆくまで楽しむべき大エンターテイメント映画であることは間違いないが、主軸となるストーリーラインには、人と人とが繋がること、または離れることで生じる避けがたい辛苦や残酷性も孕まれている。そのあたりには、ジェームズ・ガン監督ならではのシビアさも多分に反映されていると思えた。   これは紛れもない「家族」にまつわる映画である。 理屈ではない。心で動かすのだ。青い無頼漢が操る縦横無尽の赤い矢が心に突き刺さる。 文句なしにノックアウト!号泣メーン!
[映画館(字幕)] 9点(2017-05-17 09:44:48)(良:1票)
629.  イーグル・アイ
何やら意味深な予告編だけでは、今ひとつストーリーのテイストが分からなかった本作だった。 が、観て納得。これは予備知識を入れずにフラットな状態で観るほど楽しめる映画だと思う。  そういうわけで、ストーリーの詳細は避けたいと思うが、言うなれば物語の本質は異なるが、超現代版「北北西に進路を取れ」的な印象を受けた。  とても面白かったと思う。  このところ大作映画への出演が続いているシャイア・ラブーフのパフォーマンスを初めて観たが、良い意味でスター性が薄い存在感が、エンターテイメント大作においてバランス良いのだと思う。スピルバーグが好んで起用している理由が分かる気がする。  個人的には、ビリー・ボブ・ソーントンの演技を久しぶりに見られたのも嬉しかった。テロに対して信念を持って対峙するFBI捜査官を、相変わらずの曲っ気たっぷりに演じてみせている。  下手をすればもっとコケている作品なのかもしれないという危惧もあっただけに、高いアクション性と、終始緊迫感溢れる展開に満足度は殊更に高い。
[映画館(字幕)] 8点(2008-10-18 12:58:24)(良:1票)
630.  シュガー・ラッシュ
ゲームセンターに通ったという経験はなく、そもそもテレビゲームを子どもに与えることにそれほど積極的ではない家庭だったので、テレビゲームに対しての傾倒はそれほど深くはない。 とはいっても、ファミコンからプレーステーションまで基本的なゲーム機は浅く経てきているので、ゲーム世界の裏側を描いた世界は充分に楽しめた。  世界観の構図は、すばり「トイ・ストーリー」+「アベンジャーズ」のテレビゲームキャラクター版。 メタ的要素がこれでもかと散りばめられており、少しでもゲームで遊んだことがある者ならば、楽しくないわけがない映画世界が構築されている。80年代から90年代のゲームをやり込んでいるゲーマーなら、その娯楽性は倍増することだろう。  ただのゲームキャラクター大集合映画で終わっているわけではなく、そこは流石のディズニーブランド、ストーリーは極めて大衆的でありながら、誰もが感動できるドラマ性を内包している。  社会における個人の存在と役割、その中で生じる差別やヒエラルキー。 世界中の人々がそれぞれに苦悩している普遍的な社会の病理性が、時に辛辣に描かれている。 最終的なハッピーエンドは結果オーライ的な印象も受けるけれど、この作品があくまでも“子ども向け映画”であることのスタンスを貫いている以上、この展開は極めて真っ当だったと思う。  登場するキャラクターの中では、主人公(悪役キャラ)のホームであるゲーム世界のヒーローキャラクターの存在が光っていた。 この手の展開だと、実際のゲーム世界の設定と一転して性格の悪いキャラクターとして描かれがちだけれど、正真正銘の“良いヤツ”として描かれており、主人公並みの活躍をみせ、ロマンスまで成就させてしまう様が愉快だった。   最後に一つだけ苦言。ザンギエフは悪役じゃないよね? ただの勘違いだとは思うが、米国映画が「ソ連」の国旗を背負う彼を悪役に位置づけちゃうと、色々と時代錯誤的な面倒臭さが頭を出してしまう……。
[ブルーレイ(吹替)] 7点(2013-07-25 15:08:04)(良:1票)
631.  ジャーヘッド
戦場現地の奥地で王国を築いたり、悲痛な戦場の惨劇の中で“生死”に対する感覚が麻痺しまっていくというような、仰々しいことだけが“戦争の狂気”ではないということを、この映画は雄弁に語る。 言うならば、「戦争」そのものが「狂気」であり、そこにそれ以外のものは無いのではないか?だからこそ、誰も死ななくても、誰も殺さなくても、“狂気”は生まれ、そこにいる者たちを急速に蝕んでいく。 ライトなテンポで敢えて感情的にならずに、主人公たちの心情の起伏を描き出すあたりに、サム・メンデスの流石の演出力が冴える。 テーマ性としては、映画によって散々描かれてきているもののようにも見えるが、「戦争」という「狂気」の“普遍性”とでも言うべき“何気なさ”を描いたこの映画は、非常に独特だと思う。
[映画館(字幕)] 8点(2006-02-16 23:53:08)(良:1票)
632.  ハート・ロッカー
イラクの戦場、日々尽きることの無い爆弾処理の最前線を描いた今作が、アカデミー賞を勝ち取ったことに対して、個人的には若干穿った見方をしていた。 果たして、本当にアカデミー賞にふさわしい映画なのかどうかと。  その理由は、この数年のアカデミー賞作品賞受賞作品には、手放しで賞賛を贈れる映画があまりに少ないということ。そして、9.11以降、アメリカという国の価値観は、人間の混迷や混沌を描いた映画を安直に崇拝する傾向が強すぎる気がしてならないからだ。  もちろん、世の中の数多の「不安」に対して、それを批判したり、影響を受けた映画が作られることは必要だろう。が、それがイコール「良い映画」であるかどうかは、当然別問題だ。  なので、元夫婦対決を制し、「アバター」をかわして、キャスリン・ビグローが女性監督として史上初のアカデミー賞受賞を果たしたこの戦争映画にも、素直に期待出来ないものがあった。  映画は、最前線の爆弾処理チームの3人を中心に、仰々しい展開を廃し、ドキュメンタリータッチに淡々と展開していく。端役でレイフ・ファインズやガイ・ピアースが登場するものの、主要キャストは無名俳優ばかりで安易な盛り上がりは一切無い。  少々疲れ気味の休前日の深夜の鑑賞で、さて眠気が耐えられるかどうか。という危惧は一瞬生まれた。が、そんな危惧は即座に消え失せた。  盛り上がりも、娯楽性もほとんど無い。あるのは、あくまで淡々と過ぎていく戦場の気持ちが悪くなるほどの緊張感だった。  その緊張感は、単に“いつ死ぬか分からない”というものだけではなく、「戦争」という日常に身を置く兵士たちが、静かに静かに精神が蝕まれていくことに対する“あやうさ”のように思えた。  決して、面白味に溢れた映画ではないと思うし、観る人によっては誤解を受けやすい映画であるようにも思う。 それはこの映画が、今この瞬間の「戦争」の表面的な狂気や悲劇を描いているのではなく、まだその実態さえも検証されていないリアルタイムの“混沌”を表現しているからに他ならない。  観終わってみて、「映画」として面白かったのは断然「アバター」なので、アカデミー賞の受賞はやっぱりジェームズ・キャメロンがふさわしかったと思わなくはない。 ただし、この濃厚すぎる程の戦争映画を撮り切った女性監督の“力量”は、間違いなく半端ない。
[DVD(字幕)] 8点(2010-09-23 02:03:14)(良:1票)
633.  ラストレター(2020) 《ネタバレ》 
遅すぎた邂逅は、それでも何かを癒し、未来を生む。 いびつで、拙く、寓話のように非現実的だけれど、それは僕自身が「Love Letter」から25年来、愛し続けた世界観そのものであり、“優しい嘘”は、あの時と変わらずに心を揺らした。   僕が中学生の頃、「スワロウテイル」を観て、岩井俊二という映画監督の存在を初めて知った。 「映画」というものを自身の趣味として積極的に観始めたばかりの頃で、見識が浅い子供だった僕は、映し出されている映画世界のどこまでが現実で、どこからが非現実なのか、その境界線を判別できなくて、大きな戸惑い共に衝撃を受けた。  無論それは、あの“イェン・タウン”という異世界に対してリアリティを感じたというわけではなく、エキセントリックな「寓話」として映し出された空間に妙な生々しさと、現実世界と地続きの真理めいたものを感じたからだと思う。 以来僕は、二十数年に渡り、この映画監督が生み出す“世界”の虜になり、憧れ続けてきた。  時間は瞬く間に過ぎ去り、中学生の男子は、アラフォーのおじさんになった。  2016年の「リップヴァンウィンクルの花嫁」以来4年ぶりの最新作に対しては、少々気が引けていた部分があった。 「Love Letter」の二番煎じとまでは言わないまでも、何となく懐古的な雰囲気を携えたイントロダクションに懸念を感じていたこともあるが、何よりも僕自身が、“ラブストーリー”というものに対して、とんと縁遠くなってしまっていたことの影響が大きい。  四十路前のおじさんになってしまった自分が、中学生時代から憧れ続けてきた映画監督が新たに生み出したラブストーリーを目の当たりにして、照れずに、素直に受け入れることができるだろうか。そういう「危惧」が無意識下にあったように思う。  でも、そんな危惧や懸念は、序盤の何気ないシークエンスに触れた途端に消え去っていった。 少年少女たちの他愛もない台詞回し、どこか無防備な役者たちの自然体の演技、ただひたすらに美しい映像世界、ファーストカットからの一つ一つに対して、「ああ、岩井俊二の映画だな」とストンと腹に落ちる感覚を覚えた。  松たか子、福山雅治が演じる主人公たちは、奇しくも高校卒業から二十数年を経た“おばさん”、“おじさん”。 この上なくセンチメンタルで、ロマンティックなラブストーリーであることは間違いないけれど、この映画は、まさに「Love Letter」から25年が経った“僕たち”のための作品だった。  二十数年の年月は、劇中の登場人物たちにとっても、現実世界の僕たちにとっても、同じように長く、一口で語れるものではない。 色々なものを失い、色々なものを得るには充分な時間であろう。  過ぎ去った時間のあまりにも眩い「光」を愛するあまりに、逆にその呪縛から抜け出せずにいた売れない小説家の男。 不意に訪れた邂逅により、彼が突き付けられた“現実”はあまりにも厳しく、尽きせぬ悔恨と共に容赦なく「闇」の中に突き落とされる。  けれど、その邂逅は、男を呪縛から解き放ち、「闇」の中から新しい「光」へと導いてもいく。  “幻影”のように美しく光り輝く二人の少女に対峙した彼は、決して取り戻すことができない時間の無情さを痛感したと同時に、悔恨も、贖罪も、悲しみも、感謝も、すべてひっくるめて歩むべき「未来」を見出したのだろう。   “信奉者”としての贔屓目は多分にあろうとは思う。 ただ、岩井俊二の映画作品と共に、僕は僕なりに、二十数年の“紆余曲折”を経てきたわけで。 その上で得られたこの新たな感動を否定することなどできやしない。
[映画館(邦画)] 9点(2020-01-18 23:31:44)(良:1票)
634.  穴(1957)
ストーリーだけを見れば、相当に荒いのだけれど、そういう荒さを押し通して、娯楽作品として完成させる力強さが、当時の映画界と映画人にはあったのだと思う。 だからと言って、その強引さを現在においても用いれば良いかと言えば、そうではなく、その当時の時代の空気と価値観だからこそ生まれた映画の流れだと思う。 まあ何にしても、そういう時代の空気感も含めて、何十年も前の映画が現在も充分に“娯楽”として通じることは、とても素晴らしいことだと思う。
[ビデオ(字幕)] 7点(2005-09-24 02:22:28)(良:1票)
635.  裏切りのサーカス 《ネタバレ》 
ゲイリー・オールドマンの秘めた感情が読めない瞳が、眼鏡の奥で硝子玉のように鈍く光る。 彼が演じるスマイリーという男が、この物語の中で貫き通したものは一体なんだったのだろう。 それは正義だったのか、野心だったのか、それとも暗恨か、嫉妬か。 ラストカットで主人公が携えた微笑には、彼が抑え込んできた様々な感情が一瞬垣間見えたように思えた。  インフォメーションから伝わっていたようなストーリー的な難解さは実はない。 人と思惑が入り交じり、いかにも入り組んでいるように見えるが、最終的に解きほぐされた顛末は、呆気ない程に単純で驚きはなかった。このキャスティングで、“彼”が裏切り者では工夫がなさ過ぎると思った。 正直なところ、その呆気なさに対して満足度が高まり切らなかったことも事実。人物関係の説明描写が明らかに不足したまま固有名詞を並び立てる語り口は、ストーリーをただ無意味に難解じみさせているようで、サスペンスとしてアンフェアに感じた。 そのことが映画として必要な娯楽性の不足に直結していることは否めない。  ただし、“研ぎすまされた”という表現がまさに相応しい俳優の演技と、映像構築も含めた演出は、文句なしに際立っている。 さめざめしくも美しい陰影の濃い映像世界はこの物語に相応しく、そこに息づく俳優たちはそれぞれ最高のパフォーマンスを見せていたと思う。 特筆すべきは、やはり主演したゲイリー・オールドマンの素晴らしい存在感だろう。 一貫して感情を高ぶらせることのないこの映画の主人公は、彼のフィルモグラフィーの中でも最も「静的」なキャラクターだったのではないかと思う。 終始、淡々とした佇まいの中でも、決して平坦ではない、深い人物像を構築してみせたと思う。  ゲイリー・オールドマンは、今作でアカデミー主演男優賞も有力候補だったので是非穫ってほしかった。 そして、ナタリー・ポートマンもとい“マチルダ”から“スタンフィールド”へのオスカー授与シーンが見たかった!
[ブルーレイ(字幕)] 7点(2012-11-24 10:36:58)(良:1票)
636.  ダーティハリー
サンフランシスコの深い青空を背景にして、ライフルの漆黒の銃身が伸びる。遠く照準の先には、真っ青なプールに映える黄色い水着を着た美女。冷淡な凶弾は音もなく美女を襲いあっさりとその命を奪う。 オープニングクレジットと共にサングラスをかけた“スター俳優”が颯爽と事件現場に現れ、映画が始まる。  冒頭数分間のこのシークエンスで、一気に映画の世界に引き込まれた。 「凄い映画だ」ということは、その時点で確信できた。そして、今この瞬間までこの映画を"未経験”だったことを後悔した。  あまりに有名なハードボイルド映画の「傑作」であることはもちろん知っていたけれど、今この時代に初めて観て、これほどまでに心底「格好良い」とあらゆる意味で思える映画だとは思わなかった。 全編に渡るカメラワークの格好良さ、音楽の格好良さ、台詞回しの格好良さ、そして何と言っても“クリント・イーストウッドの格好良さ”もうそれに尽きる。 世代的にクリント・イーストウッドという映画人に対して、“ベテラン名俳優”そして“名匠映画監督”としての認識が大部分を占めるので、“スター俳優”としての馴染みが実際無かった。 時を越えてようやく、クリント・イーストウッドという稀代のスター俳優に邂逅できた気分だ。  映画史に残る「傑作」故に、この映画の価値と見所は多岐に渡ると思う。 時代に楔を打つバイオレンス性、正義と法の矛盾に対しての憤り、娯楽映画における警察像の変遷、この映画を観たのは初めてだが、おそらく観る程に新しい発見があり面白味が深まるだろうと思える。  でも、個人的に何よりも重要視したいことは、やはり主人公の魅力に尽きると思う。 演じた主演俳優の時代を越える格好良さ、そして彼が演じたキャラクターの映画史上に残るアイコン性。 登場した瞬間に、当然の如く「ああ、ダーティハリーだ!」と初めて見る者にすら思わせるその強烈な個性。  この映画の主人公に、クリント・イーストウッドという俳優が起用されたのは、決して既定路線ではなく、様々な巡り合わせが重なった上でのことらしい。 だからこそ、その「誕生」は映画史にとって奇跡的なことだったと思う。
[CS・衛星(吹替)] 10点(2012-11-11 01:12:40)(良:1票)
637.  M:I-2
スパイ・アクション大作の待望の続編としてその年の最大の話題作だった今作。 いつもは一人きりで映画館に足を運ぶのが常だが、今作は珍しく地元の友人と連れ立って観に行った。 が、結果は散々。多大な期待に対してあまりに酷い出来栄えに、鑑賞途中から辟易してしまった。 隣の友人も同様だったらしく、中盤辺りからから居眠りをする始末。友人の寝息が退屈感に拍車をかけて、殊更に集中できなかった。以来、映画を友達と観に行くことは殆どなくなった。  失敗の最大の要因は、「ミッション:インポッシブル」という作品と「監督」の食い合せの悪さだったと思う。 ジョン・ウー監督の独特なアクション演出が、この手のスパイ・アクションにはあまりにも合わなかったのだ。 「ブロークン・アロー」「フェイス/オフ」でのハリウッド進出が大成功したジョン・ウーは、当時最ももてはやされた監督の一人だったと思う。 僕自身、ジョン・ウー監督の映画は好きで、今作も勿論期待したけれど、まあものの見事に失敗している。 何よりも“手際の良さ”が重要視されるべきスパイ・アクションにおいて、スローモーションの多用や、大袈裟なアクションがモットーのジョン・ウーのアクション演出は、あまりに冗長で、ストーリー上の緊張感に即していなかった。 ヒロインが一刻を争う瀕死の状態の最中で、バイクを乗り回した挙句、ダラダラとタイマンを張ろうとするスパイがどこにいるんだという話だ。  またスパイ映画の王道的存在である今作において、それらしい描写が無かったことも致命的だったと思う。 スパイ映画らしい最新兵器やガジェットは皆無だったし、お決まりの“マスクネタ”も一辺倒に多用しすぎていて、工夫が乏しかった。  今回改めて観直してみて、やはりこの映画は「ミッション:インポッシブル」である必要がなかったなと思う。 トム・クルーズも、ジョン・ウーと組んでみたかったのは分かるが、きっと別の企画にすべきだったと後悔したことだろう。  思えば、ジョン・ウーの「迷走」もこの作品から始まっている。 監督、俳優、観客、誰にとってもあまり幸福な映画ではなかったと思う。
[映画館(字幕)] 3点(2003-12-05 16:05:41)(良:1票)
638.  カンフー・パンダ
この映画は言うなれば、“パンダカンフー”版「スター・ウォーズ」である。 ストーリー、キャラクター性、あらゆる面でかのスペースオペラの世界観が色濃く反映されている。 スター・ウォーズファンのカンフー映画ファンならば、文句なしに楽しめる映画だろう。  何の取り柄もないカンフーマニアのデブパンダが、運命だか偶然だかで“伝説の戦士”に選ばれ、強敵を倒す。という、ありふれたプロットに想像通りにストレートなお話が展開される。 実際、ストーリーに“ひねり”など必要としない映画であることは間違いなく、アニメーション表現ならではの面白さとキャラクターの魅力だけで、「完成」している映画だと思う。  とは言うものの、いくつかの難点はあった。 一つは、主人公の成長の仕方が唐突過ぎるように思えたこと。 何も取り柄もないと思われていた主人公の唯一見出された資質が“食い意地”で、それを最大限に生かして潜在能力を引き出すという修行方法は、この映画世界に相応しいユニークさだと思った。けれど、そもそもその潜在能力が備わっている理由が明確にならないので、やはりあまりに都合良く思えた。  そしてその主人公が、圧倒的に凶暴に描かれる強敵に打ち勝つという様にも説得力が足りなかった。 何故デブでのろまなパンダが戦士に選ばれ、何故強敵を倒すことが出来るのか。そういう基本的な部分の理由付けが曖昧すぎたように思う。  生い立ちも含めた描かれなかった主人公のキャラクター設定は、続編への布石のつもりなのかもしれないけれど、この作品を単体で観た限りでは“軽薄”という印象を拭えない。  ただ、この映画は垣間見えるいくつかの粗を追求するべきものではなく、ユニークなキャラクターたちの愉快で痛快な言動そのものに面白味を見出すべき作品だろう。 そういう意味では、アニメ映画としても、カンフー映画としても、楽しみがいのある優れた娯楽映画であることは間違いない。
[ブルーレイ(字幕)] 7点(2012-01-20 13:15:12)(良:1票)
639.  容疑者 室井慎次 《ネタバレ》 
正直“散々”な映画になってしまっていると思う。脚本家としての君塚良一の力量は認めるが、ここにきて何故監督をもやろうとしてしまうのか。いくらこれまでの「踊る~」シリーズから一線を画す作品だと言っても、やはり基本的な部分での統一感は持たせるべきではないのか。これまでのシリーズの特徴であった、ある種“会社的”な警察署のリアリティは消えうせ、チープで雑多なディティールに終始してしまったのは何故なのだろう。警察官らの言動までもが、あまりに雑過ぎて、本当に「踊る~」を書いてきたのはこの脚本家なのかと疑問に思えるほどだ。 そして、結局最も致命的なのは、“室井慎次を<容疑者>にしてしまった”ことに他ならない。もちろん、彼自身にはほとんど非は無く、最終的に再び警察へ戻るわけだが、ハッキリ言ってもう彼は“警視総監”になることはない。警察官僚の醜い出世争いに巻き込まれたにせよ、金の亡者の陰謀に振り回されたにせよ、事実として逮捕され容疑者となり、辞職ギリギリまで追い込まれた人間が、今後“警察”という組織のトップに上り詰めるなんてことがあるわけないではないか。 それは詰まるところ、これまでのシリーズで核として描き続けられてきた“青島との約束”を完全に断ち切ってしまったことに他ならない。 大体、この物語は一体何を描いているのだ。ことごとく中途半端な登場人物たちに囲まれ、散々もったいぶった上にチープ過ぎる陰謀と、醜い出世争いにあからさまに巻き込まれ、結果的にすべての貧乏くじを室井慎次一人が背負った格好になってしまった。室井の言動・明かされる過去は、主人公らしいと言えばらしい。が、そのキャラクターが、蓄積された人気シリーズの上に成り立っている以上、シリーズ上での“鉄則”を忘れてもらっては、ファンは落胆するばかりだ。 製作サイドは、ドラマ時代から通じて、今シリーズを巧く展開させ発展させてきたと思う。興行的なものを見ても、本当に見事だと思う。「交渉人~」はまだ良かった。あれは本当に脇役であった真下正義のその後の物語だし、何よりエンターテイメントに徹していた。しかし、遂に調子に乗りすぎ、ファンにとってあまりに酷い終末を見せてしまったのではないか。室井慎次は、シリーズにおいて脇役ではない。主人公青島と表裏一体の準主役である。言うなれば、最もピンで主人公にしてはならないキャラクターだったのかもしれない。
[映画館(字幕)] 0点(2005-09-01 17:28:52)(良:1票)
640.  スター・ウォーズ/最後のジェダイ
「型破り」だ。 これまでの「スター・ウォーズ」が培ってきた物語性、キャラクター性をはじめとするあらゆる「定型」をきっちりと踏襲するように見せて、そのすべてをぶっ壊している。 「この先はこうなるのだろうな」と、多くのSWファンが無意識レベルで認識していた予定調和を尽く覆す。  SWのヒーローはこういうものだ。SWの悪役はこういうものだ。  永い永い時間の中で培われてきた「型」を匂わせておいて、清々するほどの豪胆さで反転させるストーリーテリングには、当初困惑を禁じ得なかった。 しかし、ひたすらに展開される予定調和からの脱却を目の当たりにして、次第に「全く新しいSWを観ている!」という充足感に満たされてくる。   繰り返される光と闇の争い。その根幹に存在する“或る真理”が朧げながらも見えてくる。 それは、“スカイウォーカー”の名と血を巡る「英雄譚」であった旧シリーズでは踏み込みきれていなかった領域だ。 自分が「何者」であるかを追い求める物語性から、「何者」でもない者が果たすべきことの意味と価値を追い求める物語への転換。 “合わせ鏡”の中に映し出された存在が何だったのか? お前が現時点で「何者」であるかなど関係ない。お前はお前であり、それ以上でも以下でもない。重要なのは、今この瞬間から何を成すのかということ。 そういうことを、「最後のジェダイ」のレッスンは強く訴え、物語っている。  臆病者の心優しき脱走兵は、恐怖に対峙する勇気を持つ。 向こう見ずなエースパイロットは、軍を率いるための冷静さを得る。 出自の孤独に苛まれ、盲信的に自分自身の存在性を見失っていた主人公は、遂に本来あるべきアイデンティティを見出す。 そして、光と対するように闇に包み込まれた者もまた然り。  まるで「オズの魔法使い」のような様相も覚えつつ、新シリーズの魅力的な主要キャラクターたちの「変容」を描き出すと同時に、彼らと、この「新章」の到達点がうっすらと見えてきたように感じる。   SWのオールドファンにとって、この最新作の在り方は、あまりにショッキングで「邪道」だと拒否感を感じずにはいられないものかもしれない。 だがしかし、SWがこれからも世界のエンターテイメントの中心で“継がれていく”ことが確定した時点で、「定型」を打破することは避けては通れない必然的なプロセスだったのだと思う。  ジョージ・ルーカスという創造主が生み出したSWは、彼個人の鬱積したインサイドの結晶だったとも言え、壮大なスペースオペラの世界観とは相反して極めてパーソナルな作品だった。 だからこそ、この映画シリーズは、個々人のカルト的な憎愛も含めて、世界中の映画ファンに対して強烈な存在感を放ち続けているのだろう。  その創造主の手から離れて、新たな物語が紡ぎ出される以上、定型とインサイドの壁を打ち破り、新たな価値観を示すことこそが、この新シリーズの「意義」となる。 このハードルが高すぎるプロジェクトに挑む製作陣は、誰よりもSWを愛し、リスペクトするからこそ、「新章」を継ぎ、「意義」を生み出すことの価値を信じて疑わない。 そして、この型破りな映画が貫き、継いだことは、圧倒的に正しかったと思える。  ルーク・スカイウォーカーとレイア・オーガナに最大級の敬意を表しつつ、新しい時代(=ジェダイ)の行く先を心待ちにしたい。
[映画館(字幕)] 9点(2017-12-18 00:07:56)(良:1票)

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