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鉄腕麗人さんのレビューページ[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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701.  SR サイタマノラッパー
“ラップ”という音楽表現が、日本の音楽シーンに根付いてもう久しい。 けれど、“日本語でラップをする”という表現方法が持つ根本的に拭いされない違和感と気恥ずかしさは確実にあり続けている。そういうものから目をそらさず、それでもこの表現で夢を追う若者たちの“無様さ”を真正面から描いた試みが良かった。  「自主制作映画」ということは知っていたけど、音声の違和感も含め思ったよりもチープな映像世界と素人臭い演技には少々面食らってしまった。映画冒頭の感触は、どこかの映画学校の学生が課題で撮ったものかと思える程で、果たしてこれからどんな映画世界が描き出されていくのか不安になったことは否めない。  繰り広げられる安っぽい映像や演技に嘲笑を禁じ得なかったけれど、気がつくとそういうことは気にならなくなっていた。 稚拙な演技も含めて、ださくて、格好悪い片田舎のラッパーたちの行く末が気になって仕方なくなってくる。 尽く格好悪い彼らの言動が、可笑しくて、仕方がない。  中盤でみひろが主人公に対して言うことは、恐らく間違っていまい。 何も出来ていない彼らは、きっと何も成し遂げることなく終わるのだろう。 それは、悲劇でもなんでもないあまりにフツーの現実だ。  「夢を追う」ということの愚かさとほんの少しの素晴らしさが入り交じった現実。 映し出される映像世界はとてもチープだけれど、それを不器用なまでにまっすぐに描いているこの映画の在り方はきっと正しい。 場末の焼肉屋で、ようやくバイトを始めたに過ぎない主人公が、夢を諦めかけている友人と自分自身に対して熱くライミングをするラストシーンは、それまでと変わらず、いやそれまで以上に格好悪く滑稽だ。 ただ、僕には彼を嘲笑うことなんて出来るわけがない。  P.S.みひろが良い。エロくて良い。当たり前だけれど。
[DVD(邦画)] 7点(2012-03-04 23:32:41)(良:1票)
702.  美しい湖の底
或る強盗事件の発生前後の4日間が、一日ずつ章立てされた時間逆行型のストーリーテリングで描かれる。 今更、時間逆行型サスペンスなんて珍しくもなく、Netflixオリジナルの劇場未公開映画ということもあり、あまり期待せずに観始めたが、なかなかどうして、充分に一定の見応えを備えた作品であった。  語り口とルックだけ捉えれば非常に洗練されていて、犯罪映画としてコーエン兄弟監督作のような佇まいも感じる。 監督はコメディ畑の作り手らしく、一見陰鬱な映画世界の空気感の中に絶妙な塩梅で挟み込まれるコメディセンスが、映画のテイストに対してとてもフレッシュで、光っていたと思う。
 あまり有名な俳優は出演していないが、キーパーソンである主人公の兄を演じるレイン・ウィルソンは、アンチヒーロー映画の傑作「スーパー!」の記憶が新しい。今作においても、ブラックなユーモアと狂気性に満ち溢れたキャラクターを見事に演じている。  期待が低かった分、鑑賞中は概ね満足はしたのだが、観終わってみるとストーリーの描き込みの弱さは目立つ。 予算の都合も多分にあるのだろうけれど、絡み合う人物たちにとって重要な「過去」の描写が全く映し出されないため、今ひとつ人間関係が掴みづらいままクライマックスを迎えてしまう。 ラストのワンカットでも、“湖での出来事”の真相なり、キャラクターたちの若かりし頃の描写なりを見せていたならば、もっと味わい深く、エモーショナルなサスペンス映画に仕上がっていたかもしれない。  まあ取り敢えず、Netflixオリジナル作品は今後もしっかりと追っていかねばならないとは思う。
[インターネット(字幕)] 6点(2017-07-09 22:45:49)(良:1票)
703.  エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス
“あなた”を理解したいのにすべてが混沌として理解不能。これは全世界、いや全宇宙すべての母娘と夫婦と家族と隣人、そして「私」自身の物語。   評判に違わず、なかなか“トンデモナイ”映画だった。 文字通りに破茶滅茶であり、映し出される各シーン、各カットの性質はチープで下品でグロくてワケわからんのに、結果的に心が充足し、涙が溢れている。 古今東西のあらゆる映画のオマージュが乱れ打たれる描写に対して“既視感”を覚えつつも、気がつくと、まったく新しい映画世界に放り込まれていた。それは、まさしく“新しい”映画のマジックと言っていい。  自宅兼用のコインランドリーと税務署のみで繰り広げられる極めてミニマムな舞台設定が、無秩序に広がる多元宇宙と、めくるめく精神世界を自由闊達に描き出していた。 近年“マルチバース”というキーワードが市民権を得ているが、藤子・F・不二雄の漫画で育ってきたものとして、この映画が描き出したそれは“パラレルワールド”という言葉のほうがしっくりくる。(F先生の短編漫画の傑作「パラレル同窓会」を読んでいると、本作の世界観と真理がもっと腑に落ちやすいだろう)  ともあれ、漫画よりもマンガ的な本作の表現方法はちょっと常軌を逸していて、決して万人受けする類いの映画ではないことは明らかだ。僕自身、そのフリースタイルぶりに半笑いを通り越して唖然としてしまった瞬間があることも否めない。 ただ、そのあまりに自由な振れ幅こそが、本作が表現するマルチバースもといパラレルワールドの本質だとも思える。  何もかもがうまくいかないストレスフルな生活を送る世界線もあれば、ふとしたきっかけでカンフー映画の世界的スターになるきらびやかな世界線もあり、一方では指がソーセージの世界で同性愛に思い悩むことも、子供が作った拙いボロ人形で終わる人生も、はたまた生物が存在しない世界の“石ころ”として日々を送る世界線もあり得るということ。 そして、その無限に分岐した世界線は、すべて繋がっていて、今この瞬間も、均衡(バランス)を保ち続けているということ。  「私」が今この人生を歩んでいるからこそ、同時に成されていないすべての可能性が存在し、そのすべては平行して流れ続けている。 ラストで主人公は、互いの気持ちをぶつけ腹を割った娘と別の道を歩むことを「選択」しかける。きっとその瞬間、それをそのまま選択した宇宙(バース)も生まれたのだろう。でも、この映画で映し出されている主人公はその選択を回避して、恥ずかしがる娘を抱きしめる。 それが「正解」ということではないし、その先が必ずしも「幸福」という話でもない。 ただそういう無数の選択の連続の上に、私たちのこの世界線は存在しているということ。そしてそれは唯一無二であるということ。  僕自身は、今年42歳になる。当然満足できることばかりではなく、年齢に応じた不安やストレスは尽きることはないけれど、相対的に見れば充分に“マシ”な世界線を生きているのだろうと思う。 決して裕福ではないけれど、家族がいて、好きな映画を見て、写真を撮って、お酒を飲む。そういうことをわりと自由にできるこの日々は、もはや代え難いとも思える。  ぽっかりと穴が空いたベーグルをそのまま食べるか、チーズを一枚はさむか、ハムをはさむか、ベーグルが見えなくなるくらいに何もかもを盛り込むか、もしくは食べきらずに途中で捨ててしまうか。 実際、それをどう食べるかは人それぞれだし、その人の自由だ。でも、そのベーグルが一つしか無いことが、変わることはない。 ならばやっぱり、たとえお腹いっぱいなることがなかったとしても、せめてやさしい気持ちで美味しく食べたいなと、至極普通のことを思うに至った。   分かっちゃいたけど、容易に語り尽くせるタイプの映画ではない。それこそパラレルワールドの数だけ、この映画に対する僕の感想も存在するのだろう。 1992年の「ポリス・ストーリー3」のミシェル・ヨー、1994年の「トゥルーライズ」のジェイミー・リー・カーティス、自分自身が小学生の頃に何度も見た両作で、主人公の世界的アクションスター以上の印象を残した二人の女優が、30年の年月を経てこのような形で共演(名演)したことにも、個人的に大きな感慨深さを覚えた。
[映画館(字幕)] 10点(2023-03-05 23:26:17)(良:1票)
704.  THE ICEMAN 氷の処刑人
実在した“殺し屋”を描いた映画であることは聞いていたが、想像よりもずっと重く、冷ややかな映画だった。 組織の殺し屋として生きた男を主人公にしたハードボイルド映画を想像していたけれど、映し出されたものは、呪われた「運命」と、己が密かに育んできた「狂気」に翻弄された一人の男の悲し過ぎる「慚愧」そのものだった。タイトルから受ける印象を遥かに凌駕する“冷たい”映画世界に打ちのめされた。  主人公が辿った人生とその末路は、組織に利用されいいように使われた故に見えるが、実際はそうではない。 組織の歯車に組み込まれたことは、ただのきっかけに過ぎない。 元来、この男が培ってきた内に秘めた「狂気」そのものが、すべての顛末を引き起こしたと言える。 そして、それを誰よりも理解しているのは、他の誰でもなくこの男自身であり、悲しい。  己の運命を呪い、己の狂気を呪い、それでも彼が生き続けられたのは、紛れもなく愛する家族があったから。 もし愛する人と出会うことなどなく、家族など端から存在しなければ、この男はもっと分かりやすく冷淡な“殺人者”として短い人生を全う出来たのかもしれない。  ただ運命はそれを許さず、“愛する者の悲しみ”という彼にとっての「最悪」を与えることによって、この男の“業”を際立たせた。 その「最悪」を何とか避けようともがき苦しむ終盤の主人公の姿は、あまりに悲愴感に溢れている。  それでも、この映画で描きつけられる「業苦」は、主人公にとって必要なものだったと思える。   何を置いても主演のマイケル・シャノンが素晴らしい。 殆ど出演作は観たことはなかったが、昨年の「マン・オブ・スティール」でのゾッド将軍役は記憶に新しいところ。 あまりに印象的な風貌は一度見たら忘れられないが、今作では、その風貌と体躯を存分に生かして、一目で異質感溢れる主人公を見事に演じ切っている。  そんな主人公の最愛の妻を演じるのはウィノナ・ライダー。 このところ時に驚くくらいの小さな役での出演が続いていたが、一時のスキャンダルに塗れた低迷期を抜け、女優としての円熟味を見せてくれていることは、中学生時代に自室にポスターを貼っていた長年のファンとしては嬉しい限りだ。   副題を含めた微妙なタイトルが、何となくB級感を醸し出しているが、良質な掘り出し物だと思う。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2014-10-13 15:29:08)(良:1票)
705.  アサルト13 要塞警察
前々から気になってはいたのだけれど、いまひとつ手が伸びなかった今作。結論から言ってしまえば、まあテレビ放映されていたので一応録画しておいて暇な時に観るのに相応しい内容だったと言える。面白くないことも無いが、大したことは無い。  導入部は、主人公のイーサン・ホークは早速登場するものの、別の映画が始まったのか?と疑ってしまう程意外な展開で引き込まれた。 想像以上に画づくりもしっかりしていて期待は膨らんでいった。  主人公と対立(いや共闘?)するローレンス・フィッシュバーンをはじめ、ガブンリエル・バーンやジョン・レグイザモら実力のある俳優が脇を固めていたことも、映画として一定の質を保った要因だったと思う。  設定は強引だが、果たしてどうなるのかというサスペンスフルな要素は終始味わえる。 しかし、最終的なオチや終着点は完成度が高いとは言えず、詰まる所「良くも悪くもない」という印象に行き着いてしまった。 必要最小限のキャラクターたちを生かし切れていなかったことも勿体なかった。もっとそれぞれのキャラクター性と役割を明確に描けば随分と面白くなったと思う。   今作を見終わってから、ジョン・カーペンター版のオリジナル作品のリメイクだったことを知る。 当然だろうが、オリジナル版の評価が高いようなので近いうちに観てみたいと思う。 
[CS・衛星(字幕)] 5点(2011-09-18 14:51:40)(良:1票)
706.  ゾディアック(2007) 《ネタバレ》 
全米を揺るがした劇場型殺人を、仰々しい抑揚は排除してドキュメンタリータッチで質素に確実に描き出す。 映画ファンとしては、本当にこれがあの「セブン」のデヴィッド・フィンチャーの映画なのかという印象をまず受けるだろう。これまでの監督作品でことごとく見せつけてきた刺激的な映像センスは影を潜め、代わりにリアルな緊張感に満ちた説得力のある映像美が全編に繰り広げられる。  「ゾディアック」という今尚「謎」に包まれたままの殺人犯の「本性」を暴き出そうと、、主人公の新聞イラストレーターは、事件の深みへどんどん踏み込んでいく。 この映画のストーリーがユニークなのは、実在の「謎」に対する真相の“導き”を主題とはせず、「ゾディアック」という殺人犯を追うあまり、その悪魔的な魅力に支配され、混沌と混乱に陥っていく主人公たちの「運命」を主題としているところだ。  「謎」を追求するあまり、本末転倒していく人間たちの愚かさこそ、この映画の核心と言えるだろう。  と、おおむね“ベタボメ”と言いたいところなのだが、実はそうではない。 「未解決の殺人事件」を描いた映画といえば、韓国映画の傑作「殺人の追憶」が記憶に新しいところだ。 故にどうしても比較してしまうが、「殺人の追憶」が素晴らしいのは、事件を追う刑事たちの“熱い人間味”に尽きる。それに対し、今作は主人公をはじめとするキャラクターに観客を引き付けるキャラクター性が無さ過ぎる。 最終的に「真犯人」を生半可に結論付けてしまっているラストも、「謎」に対する余韻と絶妙な哀愁を残してみせた「殺人の追憶」とは雲泥の差を感じる。  比較対照となる映画が無ければ、完成度の高い良い映画だという印象を持ったかもしれないが、もう少しのところで“のめり込められない”のは残念。
[映画館(字幕)] 6点(2007-06-20 00:16:43)(良:1票)
707.  パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉
前作「ワールド・エンド」で大々的な大団円を描いておいて、性懲りも無く作られたこの新たな続編に対しては、正直なところ「もういいだろう」と興味をかき立てられなかった。 主人公をはじめとするお決まりのキャラクター、そしてお決まりのストーリー展開が繰り広げられることは容易に想像出来、そこに“新しさ”が無いことは火を見るより明らかだった。  それでも、台風による風雨が吹き荒れる中、休日の午後に映画館まで足を運んだのには、二つの理由があった。  一つ目は、最近3D版ばかりを優先して上映する地元の映画館が、3D版ではない通常字幕版を上映していたから。この作品が、3D版である必要がないことは明らかで、ただでさえ高い鑑賞料金に更に400円も上乗せしてまで観るつもりは毛頭なかった。  もう一つの理由は、新キャラクターの女海賊として登場するペネロペ・クルスだ。 「ONE PIECE」のボア・ハンコック並みのまさに漫画のようなセクシーさ、もといその「巨乳」に目を奪われた。 映画を観る動機なんてものは、時にそういう不純なものでも構わないと思うし、往年のハリウッド女優の映画を愛した大衆の動機は同様のものだったろうと思う。  ストーリー的には特に期待もしていなかったので、良い部分も、悪い部分も「そんなもんだろう」という印象だった。  こういうエンターテイメントシリーズの場合、主人公のキャラクターはもはやアイコン的なものなので、ジャック・スパロウの存在性については、ジョニー・デップがいつものようにバタバタしていればそれでいいだろう。 そこで映画作品単体としての面白みに関わってくるのは、悪役をはじめとする周辺キャラクターの魅力だと思う。  残念ながら、今作にはそういう部分での魅力が著しく欠けている。 「最恐の海賊」として登場する“黒ひげ”には、見た目ほどの存在感がなく、最終的にもとても軽薄なキャラクターとして、文字通り消えていった。  そして、前述の通り個人的な「お目当て」だったペネロペ演じる女海賊アンジェリカも、今ひとつインパクトが無かった。とういよりも、そのセクシーさを生かした「露出」があまりに無かった。 まじめな話だが、この娯楽大作にこれほどセクシーなスター女優を登場させておいて、この“エロさ”の無さは如何なものかと思う。  次作には、当然引き続き登場するであろうペネロペ嬢の「露出拡大」に期待したい。
[映画館(字幕)] 5点(2011-05-29 22:16:27)(良:1票)
708.  ワイルド・スピード/MAX
こういう映画を観て、是か否か自答し断然「是」だと感じてしまう自分は、結局のところハリウッドの大味なアクション映画が大好きなんだろうなと再確認してしまう。 映画作品として質が高いとは決して言えず、粗も突っ込みどころも満載だけれど、「面白い」と思ってしまうんだから仕方がない。  今作は、一応シリーズ第4作目という位置付けだけれど、ヴィン・ディーゼルをはじめとするオリジナルキャストが復活し、ストーリー的には第1作目の続編という色が強い。 PART2の「X2」も決して悪くは無かったけれど、全体的に薄っぺらな印象を覚えたことも否めなかった。 その最大の要因は、やはり“ヴィン・ディーゼルの不在”に他ならなかったと思う。 まともに彼の出演映画を観たことは無かったけれど、想定通りの大味な演技が、想定外に愛着を持たせる稀有な俳優だと思った。 ポール・ウォーカー演じるシャープな主人公と、ヴィン・ディーゼルの荒々しくも哀愁のあるキャラクター性が、絶妙な塩梅で混ざり合っていることこそが、この映画の魅力だろうと思う。  そして第1作、第2作が、ストリートレースに興じるヤンキーたちの延長線上の活躍に過ぎなかったのに対し、今作は良い意味で文字通り“暴走”し、アクションヒーロー映画として開き直ってしまっている点が素晴らしい。 これまでの軽妙さを捨て去り、ハードボイルドさえ感じる古き良きアクション映画の世界観が今作には溢れ出ている。  まあとにもかくにも、更なる続編を作る気満々で映し出されたラストシーンを観ながらニヤニヤが止まらなかった時点で、僕にこの映画を批判する余地は無い。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2011-10-04 14:51:44)(良:1票)
709.  トレイン・ミッション 《ネタバレ》 
この監督×主演俳優コンビの映画を観るのもこれで3作目。実際は通算4回目のタッグであり、余程この両名は気が合うのだろうと思う。 そして、毎度のことながら、このタッグによる映画、掴みは良い。 過去、「アンノウン」「フライト・ゲーム」と観てきたが、導入部分、特に冒頭シーンのシークエンスは両作とも白眉だった。主演リーアム・ニーソンの持ち前の物憂げな表情と、不穏を煽るビジュアルセンスが相まって、一気に引き込まれる。 今作では、老サラリーマンの日々の出勤前のシーンが幾年分も折り重なるように映し出され、このオープニングの数分間の描写で、主人公の男が積み重ねてきた「日常」の価値と、それと表裏一体の鬱積めいたものが伝わってくる。  ああ、何か良質なサスペンスが観られるかもしれない。と、期待は最高潮となる。 が、そんな期待感は、ストーリー展開と共に、アクション性が暴走し、事の真相が詳らかになると共に、徐々に確実に「脱線」していく……。  さすがに4度も共に仕事をするだけあって、この監督と主演俳優の相性自体は決して悪くはない。 ジャウマ・コレット=セラ監督のビジュアルセンスは長けているし、どんなにアクション俳優化したとしてもリーアム・ニーソンが名優であることは揺るがない。両者が表現者として持つ繊細な波長はよく合っていると思える。  となると、致命的なのはやはり脚本のまずさだろう。過去作も含めて、ストーリー展開がチープでお粗末だ。 同じようなジャンル映画であっても、もう少しだけ気の利いた脚本が備わっていれば、正真正銘に「面白い」映画になり得ると思う。現状でも充分に「観れる」娯楽映画ではあるだけに、勿体無い。  阿呆な陰謀チームの肩を持つわけじゃないけれど、最終的にそこまで無茶苦茶するんなら、ごちゃごちゃと面倒でリスキーなことをせずに、最初から“脱線プラン”でいけよという話だ。 まあその場合、主演俳優はリーアム・ニーソンではなく、スティーヴン・セガールになってしまうがね。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2019-05-04 17:25:54)(良:1票)
710.  好きだ、
どこまでも内気で繊細な二人の男女が、17年の歳月を経て各々の想いを紡ぎだしていく。  下手を打てば、なんともまどろっこしくて、「うだうだやってんじゃねーよ」と言いたくなるかもしれない物語である。が、独特の空気感を持った長回しと、登場人物のキャラクターそのままに映像の中に息づく役者たちの表現力で、ただただすっぽりと包み込まれる。  劇的に何かがどうなるという映画ではない。言葉で説明してしまえば、至極単純なものになるだろう。 でも、映像から伝わってくる“想い”には、奥ゆかしさがある。  どんなときも、「想い」を想いのまま伝えることができれば、それにこしたことはない。でも、人間なかなかそういうわけにもいかない。そして、そういうことを経るからこそ、深まる「想い」もある。  一音一音を確かめるようなギターの音色に乗せて、そういう人間の、ある部分において愚かで、ある部分において幸福な微妙な感情を、冷たく吹き抜ける風のように繊細に描く映画だった。
[DVD(邦画)] 8点(2006-10-09 09:10:39)(良:1票)
711.  ザ・イースト
「ミイラ取りがミイラになる」というあまりに有名なことわざ一つで済まそうとすればそれまでなのだが、映画のストーリーテリング自体はオーソドックスだったと思う。 ただ対象となる素材が、過剰なテロまがいの行為を展開する正体不明の環境保護集団であるという点は、極めて時事的で興味を引いたポイントだった。  そういう時事的な要素を用いれているだけに、描き出される現代社会の病理性はリアルで、実際世界中が注視しなければならない問題だったと思う。 主人公は、元FBIの民間警備会社調査員の女性で、前述のことわざの通りに、謎の集団の在り方にシンパシーを感じ次第にのめり込んでいく様は、スリリングであった。 決して盛りすぎることなく抑えた緊張感を持続させた演出も高水準だったとは思う。  ただし、だ。結局、最終的に得られた映画の印象は「軽薄」という一言に落ち着いてしまった。  この映画における最大の欠落は、主人公のバックグランドがあまりに描かれていないことだと思う。 展開されるストーリー上では、主人公の感情はしっかりと描かれているし、演じているブリット・マーリングの演技も良かったと思う。(彼女は今作の脚本も手がけているらしく、とても才能豊かな人なのだろう。)  しかしながら、この主人公がなぜこの「仕事」に執着するのか、そもそもなぜにFBIに入り、退職し、得体のしれない民間の警備会社に在籍しているのか。 ここまでに至った主人公の人生模様がまるで見えてこないことが、全編を通して彼女の言動の理由付けを曖昧にしてしまっていて、結果として映画全体において感情移入できない要因となってしまっている。  その他の環境保護集団の面々の人物描写もどこか浅はかだった。それぞれが自らの人生を賭して環境破壊に対しての過激な警鐘活動に取り組んでいるわけだが、彼らの行動原理についても語られ方が浅く、そこにあるべき悲壮感が伝わりきらなかった。  そして、最後の“オチ”の見せ方があまりに粗末過ぎる。  「だいたい分かるでしょ?」と言いたいのだろうけれど、一介の調査員の一人に過ぎない彼女があの後どうやって巨悪を陥れていったのか、あまりに説明不足で腑に落ちない。  このところ益々“不気味”な存在感を高めているエレン・ペイジをもう少し有益に使うべきだったとも思う。あの段階でのフレームアウトは少々勿体無い。  非常に興味深い作品だっただけに、根本的な部分での欠落があまりに勿体無く、映画としての価値を大いに下げてしまっている。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2015-05-24 01:39:36)(良:1票)
712.  エイリアンVS. プレデター
“エイリアンVSプレデター”全世界のファン待望のこの企画は、そのインパクト以上に映画としての構築が難しかっただろうと思う。 なぜなら、「最悪VS最悪」と言っても、両者を地球で戦わせるという時点で、本能的“生物”であるエイリアンを勝たせるわけにはいかないからだ。それでは映画としての終わりが単なる“混乱”になってしまう。  「どちらが勝っても人類に未来はない」と嘯いても、どちらかと言えば、知的“宇宙人”であるプレデターが勝つほうが良いに決まっている。 もちろん、この映画のストーリー構成もその部分を念頭においた展開になってはいるが、前半の逃げ場のない緊迫感に対して、後半はやはり強引な“B級ノリ”に埋め尽くされていることは否めない。  ただし、改めて観返してみると、そういう“B級ノリ”こそがこの映画の醍醐味だとも思える。 後半早々に唯一の生き残りとなってしまったヒロインは、“生き残る”ために「戦士」となる。 “敵の敵は味方”と、プレデターとタッグを組む様は、もはや滑稽さすら禁じ得ないが、その滑稽さを一旦受け入れさえすれば、きっちりと娯楽として楽しめる。  監督は、ポール・W・S・アンダーソン。“ダメな方のポール・アンダーソン”と、ポール・トーマス・アンダーソン監督と比較されて、揶揄の対象になりがちな監督ではあるが、「イベント・ホライゾン」「バイオハザード」で見せてきたこの監督の、ヴィジュアルセンスと娯楽センスはやはり本物。強引な展開も、洗練された映像世界に広がる娯楽性へと昇華できていると言って間違いではない。  それぞれの作品へのオマージュやお約束のオチもしっかりと反映できており、広く楽しめる映画としてまとめ上げたというのが、正しい意見だと思う。  ともあれ、怪物同士の壮絶すぎる戦いを見ていると、最初の「プレデター」で“勝利”したシュワちゃんは、やっぱ凄えなあと思う。
[映画館(字幕)] 7点(2004-12-23 23:19:41)(良:1票)
713.  ドント・ブリーズ
“最凶盲目爺さん”が織りなす恐怖と狂気。貧困による若者の絶望と犯罪。 デトロイトを舞台にして、現代社会が抱える“病”とそれに伴う“鬱積”が、一軒の古屋敷の中で渦巻き、恐怖と悲劇のるつぼと化しているようだった。 両者に同情の余地はあり、だからこそ両者ともに罪と罰を叩きつけられる。完全に是となる者が存在しないサスペンスホラーの構成が新しい。  盲目の屈強な老人が、暗闇の中で襲ってくる様は、恐怖体験としてフレッシュであり、その“モンスター性”にも独自性と魅力があったと思う。 “悪しき者”のアンチヒーロー化は、実にサム・ライミ(製作)らしいと思えた。 盲人役を演じたスティーヴン・ラングは、「アバター」で悪役軍人を憎らしく演じた様が印象的に記憶に残っているが、あの軍人が盲目になって襲ってくると想像すると、そりゃあ恐ろしい。  というわけで、盲目の老人が襲ってくるというアイデアを礎にして、アクション性とサスペンス性を散りばめた上で、確固たるホラー映画として成立させていることは、映画作品としてとても独創的だったとは思う。 ただし、ストーリー展開的には、どうしても粗というか、無理が生じていることを否めない。  逃げ場がないとはいえ、舞台は一般的な家の中なわけだから、いざとなったら如何様にも脱出は可能に見える。 盗み目的で侵入した若者たちが、自ら積極的に袋小路に入り込んでいるように見え、序盤から「お前らは馬鹿なのか?」やや鼻白んでしまった。 そして、最凶爺さんの方も、流石に超人的すぎてリアリティラインの境界を見失ってしまった。 元軍人という設定で、身体的な能力の高さや、玄人的な銃器の取り扱い、殺人に対する躊躇いのなさ等は理解できるが、盲目の状態であのような異様で綿密な“企み”を遂行できるわけがない。 ただシンプルに、実は何人もの侵入者を返り討ちにしていたということであれば許容範囲だったが、あそこまでいっちゃうともはやファンタジーだ。  まあしかし、そのぶっ飛び方が良い意味でも悪い意味でも常軌を逸しているポイントであることは確かで、それが老人のモンスター性を高めているとも言える。 もはや彼は、憎しみの権化として「人間」という領域を逸脱した悪魔的な存在であり、それを劇中で速やかに呑み込めさえすれば、心ゆくまで楽しむことができる恐怖映画だと思う。  僕自身は、そのリアリティラインの境界を呑み込みきることが出来なかったので、完全にこの映画を楽しみきるには至らなかった。 けれど、悪魔的な存在性へと高まった盲目爺さんが、主人公を追ってカリフォルニアで新たな恐怖を展開する“逆・ホーム・アローン2”的な続編があるのならば、それはそれで観たい。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2018-10-21 17:45:34)(良:1票)
714.  フラガール 《ネタバレ》 
本当に良い映画というものは、そのファーストシーンから観客を包み込む。 最初のシーン、福島の“なまり”で語り合う少女たちが映し出された瞬間、「ああ、これは良い映画だ」と思った。  毎度のことであるが、映画が“良い映画”であるほどに、こうやって感想を紡ぐことは困難で、むしろナンセンスだとさえ思う。 節々で溢れ出る涙と反比例するように、映画を語るにたる「言葉」は出てこない。  それは、この映画が、その中で描かれる人生が、決して「理屈」ではないということを物語っている。  この映画は、昨今流行りのストレートな“スポコン”では留まらない。 廃れゆく炭鉱のまちで、自分が生きるため、家族を生かすため、まちを守るため、彼女たちは未知なる舞台へと上がる。 まったくの素人集団が、荒涼とする寒空の中ひたすらにレッスンに励み、困難と別れそして数々の笑顔を経て、紛れもないフラダンサーへと成長していく。ただその姿を見るだけで、感情は激しく揺さぶられる。  東京から流れてきた女流ダンサー(松雪泰子)、廃れゆく炭鉱の中で新しい時代に踏み出そうとする少女(蒼井優)、かつての隆盛の時代から炭鉱に生き続けてきた母親(富司純子)、という三様の女性の視点からこの映画の物語は紡ぎだされる。 その他の女性たちも含めて、それぞれの感情がぶつかり合い、混ざり合うことによって、物語は濃厚な広がりを見せる。 変化する時代と環境に対し、しっかりと向き合おうとするそれぞれの“女性の強さ”こそ、この映画がもっとも雄弁に語るものだと思う。  厳しく悲しい実情を抱え、それでも尚、自分たちが立つべき舞台に凛と立ち、ひたすらに踊り、絶えずスマイルを放ち続ける“フラガール”たちの姿そのものに、涙が止まらなかった。スバラシイ。 
[映画館(字幕)] 10点(2006-10-01 18:19:36)(良:1票)
715.  トータル・リコール(2012)
「アンダーワールド」シリーズのレン・ワイズマン監督による映像世界は流石に流麗で、アクションシーンにもメリハリがあり良かったと思う。これが、何のバックボーンもない新作SFアクション映画であれば、もう少しシンプルに好評を得ることも出来ただろう。 しかし、この映画が「トータル・リコール」のリメイクである以上、そういうわけにはいかない。  22年前にポール・バーホーベンが描き出したあの“特異”な映画世界と比較せざる得ない状況では、やはり今作に対しては「凡庸」という言葉が常に先行してしまう。 オリジナルとの大きな違いとして、今作の舞台は火星ではなく、荒廃した地球の表と裏という設定になっている。 貧富の格差をあからさまに表したこの舞台設定を結ぶ通勤電車“フォール”の存在は剛胆で良かったけれど、オリジナルの広大な世界観に比べてしまうと、どうしてもこぢんまりとした印象を覚えてしまう。 詰まるところ描かれているものは、圧政に対しての小規模な反乱に過ぎず、SF映画としての迫力に乏しかったと思う。  完全に「ブレードランナー」を意識した街並や小道具の造形は秀麗ではあったものの、バーホーベンの毒っ気溢れた世界観に比べると「フツーだな」と思ってしまう。 あの“顔面割れおばさん”を演じた女優に「二週間よ」という台詞を言わしたり、売春婦の"三連おっぱい”などバーホーベン版を彷彿とさせるオマージュ的描写が随所に挟み込まれていたことは、オリジナル作品に対してのリスペクトが感じられて好感は持てたけれど。  監督のリアルな奥方でもあるケイト・ベッキンセールが、オリジナルでシャロン・ストーンが演じた“鬼嫁”役を演じ、彼女にとっては珍しい“悪役”を楽しんでいた。 相変わらず美しいので、しつこく主人公を急襲する悪役ぶりをずっと観ていたい気もしたが、さすがに最後まで引っ張り過ぎなような気もした。おかげで敵ボスの存在感が薄れてしまっている。 だいたい、ベッキンセールの役は結局のところ職務に意欲的な公務員であり、よく考えれば決して悪党ではないというキャラ設定も中途半端だったと思う。  今思えば、オリジナル作品主演のシュワルツェネッガーは、あの馬鹿っぽさが適役だったんだなあと思い知った。
[ブルーレイ(字幕)] 5点(2013-02-06 13:50:30)(良:1票)
716.  激動の昭和史 沖縄決戦
“沖縄軍の戦死者10万” “沖縄県民の死者15万”  太平洋戦争末期、「沖縄」という地で失われた命の数がラストのシークエンスで大写しにされる。 その膨大な数が表す通り、この映画は最初から最後まで延々と、愚かさと絶望の中で続いた「死」を容赦なく映し出し続ける。 「地獄絵図」という比喩表現そのものの光景に対して、憤りを通り越した虚無感に襲われ、ただただ涙が溢れ、逃げ場を見失う。  ただ、「これが現実」という絶望的な悲劇の中で、同時に強く印象に残ったことは、それでも残った命の存在とその意味だった。 「死」の中で残った数少ない「生」の描写こそ、このあまりにも絶望的な映画において、監督が手繰った希望だったのではないか。  敗色濃厚というよりも敗戦が必然の中で葛藤し続けた高級参謀然り、息子を亡くしそれでも表向きにはひょうきんに従軍し続けた散髪屋然り、最後は強引に生き残ることを命じられたひめゆり学徒隊の少女たち然り、息絶えた母親の背で泣き続ける赤ん坊然り、そしておびただしい数の屍の中を歩き続けた孤児の少女然り。 あの時、彼の地で生き延び、後の時代に継いだ命の価値と、命を継がれた者たちの“声”を真摯に受け止め続けることの意味をこの累々とした死を描きつけた映画は物語っているのだと思う。  彼らの死と、継がれた命が語る「事実」を、総ての人々は今一度知らなければならない。   この重く、辛く、だからこそ誰しも一度は観なければならない映画を描きぬいたのは、岡本喜八監督。 この映画はドキュメント要素が強く、普通ならばただただ淡々と暗く悲しい事実に対して、一方的に耐え忍ぶように観なければならない映画に仕上がっていたことだろう。  しかし、娯楽映画に秀でた大巨匠だからこそのあまりに巧い演出力が光る。 悲壮と絶望が渦巻く戦禍において、敢えてユーモラスなキャラクターやシニカルな台詞回しを適所に配し、的確な可笑しみを効果的に加味している。それにより映画的な抑揚が生まれると共に、現実の悲劇性はより深まっている。 その演出方法は、岡本喜八という大巨匠の映画監督としての意地と誇りの表れのように思えた。   繰り返しになるが、重く、辛い映画であることは間違いない。 でも、この映画は決して説教臭くもなければ、何かしらの思想を強要するものでもなく、娯楽文化としての「映画」という表現の中で、しっかりとその意味と価値を表している。 そのことが、本当に素晴らしいと思う。
[CS・衛星(邦画)] 10点(2015-08-15 20:16:26)(良:1票)
717.  女王陛下のお気に入り
絢爛豪華なイングランドの王室を舞台にしつつも、べっとりと全身に塗りたくられた“何か”の臭いが漂ってくるようだった。 その臭いの正体は、汚物交じりの泥なのか、吐しゃ物なのか、生臭い体液なのか、それとも嫉妬と愛憎に塗れた“怨念”なのか。 いずれにしてもこの映画が描き出すものは、実在の女王を中心に据えた煌びやかな史劇などでは全く無く、3人の女性のあまりにも生々しい「欲望」そのものだった。  情け容赦なく、無情なこの映画の物語性は、普通の映画づくりであれば、もっと鈍重に、ただただ陰惨に映し出されて然るべきだろう。 しかし、この“へんてこりん”な映画のアプローチはまったくもって異質で、まるで観たことがない映画世界を構築し、魅了する。 それは決してビジュアル的にヴィヴィッドな映像表現をしていたり、突飛な演出をしているわけではなく、重厚な史劇描写の雰囲気を保持したまま、時代考証の垣根を越えて、現代的な“軽薄”と“インモラル”を孕ませている。  そんな特異な映画世界の空気感の中で、3人の女優が演じる「女」たちが、見事なまでに怖ろしく、哀しく、息づいている。 オスカーのトリプルノミネートとなった主演女優3人の文字通りの「競演」が本当に素晴らしい。 既に女優賞ウィナーのエマ・ストーン、レイチェル・ワイズは無論素晴らしかった。 が、やはり特筆すべきは、本作で主演女優賞ウィナーとなったオリヴィア・コールマンの圧倒的な存在感と、表現力に尽きる。 彼女が演じたアン女王からは、重く悲痛な運命を背負った哀しみと、女性としての強かさと恐ろしさと醜さ、そして欲望に対する純粋な貪欲さに至るまで、ありとあらゆる感情や情念が文字通りねっとりと全身から溢れ出しているかのようだった。  圧倒的権力を持ちつつも、心身ともに脆く危うい哀しき女王は、幼馴染の聡明で美しい公爵夫人に身を心も委ねることで、何とか“バランス”を保てていた。 しかし、そこにもう一人の“女”が入り込んでしまったことで、バランスは脆くも崩れ、三者三様の欲望は渦となり、彼女たち自身を吞み込んでいく。  泥に塗れ地に堕ちた屈辱を胸に秘め、若き女は、悪魔になることも躊躇わず、ついに“兎”のように女王の寵愛を勝ち取る。 そしてはたと気づく、17匹の兎の寿命は短く、蠢く命の中から常に入れ替わっているだろうことに。 彼女自身、無限に続く「代用」でしかないことに。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2019-10-26 23:49:32)(良:1票)
718.  白夜行 《ネタバレ》 
東野圭吾の原作を読んだのは、2年前になる。ハードカバーの単行本は、ページが2段組み構成の500ページを越える長い長い小説だった。 純粋なミステリーというよりは、二人の男女の過酷な運命と、隠された真相に彩られた、壮大な「悲劇」だった。  数年前に放映されたテレビドラマは、まったく観ていなかったが、再び映像化するのならば、「映画」として、潔く過剰なまでに色濃く創り上げて欲しいと思っていた。  少し地味目なキャストと、新鋭の監督の起用に対して、いささか不安はあった。  しかし、導入部を観た時点で、不安は期待に転じた。  殺人事件を発見し逃げ惑う子供たちの“ぶさいくさ”、その表情をタイトルバックにする潔さ。 刑事や容疑者たちのどこかうらぶれた表情を画面いっぱいに映し出し、殺人事件そのものよりも、事件が起きた環境とその人間模様の異様さを表す演出には、期待した“色濃さ”があった。  地味目なキャスティングも、この物語の本質である“人間の不確かさ”を表現するための必要な手段だったのだろうと思った。  とても満足感を伴う映画だったと思うのだが、最後の最後、物語の締め方には不満が残る。  主人公の二人、雪穂と亮司の隠し続けられてきた心と心の“つながり”を、もっとしっかり描くべきだったと思う。 最後の最後まで亮司との関わりを否定し貫き通す雪穂の「決意」は、絶対に描くべき要素だが、映画ではそれのみが描かれるため、最終的に雪穂が亮司を“切り捨てた”という印象が強く残ってしまった。  亮司が最後に船越英一郎演じる笹垣と対峙し、自らの積み重ねた行為に対して”悔恨”を垣間見せる様も描くべきではなかった。  そして、最後の最後に船越に語らせすぎた。(サスペンスの帝王の“顔”を覗かせてしまった……)  20年に及ぶ悲劇の中で、彼らが繰り広げた罪と罰、そこには常軌を逸した「覚悟」と 揺るぎない「愛」があったはずだ。 原作の空気感を踏襲した上質な切り口をみせてくれた映画だっただけに、もっとも肝となるべきその「覚悟」と「愛」が描き切れなかったことは、残念。 
[映画館(邦画)] 6点(2011-02-13 11:22:43)(良:1票)
719.  アンダルシア 女神の報復
映画の終盤、心身ともに疲弊し、化粧が薄れていくほどに顔立ちがよりシャープになり、エッジが効いた美貌が露になる黒木メイサが印象的。 彼女のルックスは、日本人女優の中ではやはり異質で、それ故になかなか雰囲気にマッチする映画に恵まれてこなかったと思う。 そんな彼女の美貌が違和感なくマッチするロケーションを実現し、映画世界に息づかせたことが、この国産娯楽映画が一定のクオリティーまで達していることを示す顕著な例だと思う。  何せ前作「アマルフィ」があまりに酷い映画だったので、それを観た殆どすべての人が、この続編の公開に対して冷笑を禁じ得なかっただろう。 明らかな“駄作”の二番煎じをして、一体誰が得するのだろうかと、この国の映画製作システムの奇妙さに辟易してしまっていた。 同じ製作スタッフに、当然同じ主演俳優、前作同様に某キー局のプロモーションの過剰さばかりが目につく“ザ・テレビ映画”としての存在感の強さ。この流れで、まさか一寸でも「面白い」と思える映画が生まれるなどとは夢にも思わなかった……。  そう、この映画、なんだか意外と「面白い」。  突き詰めていけば、前作同様に大味な展開の中に突っ込むべき「粗」は尽きない映画ではある。 けれど、そういう粗に対して目をつぶっても良いと思える程に、映画として面白い部分も充分に在る。 意味不明な程に冗長で陳腐だった前作に対して、演出的な巧さは劇的に向上していて、映画ならではの巧みさも所々で見られる。 更には冒頭に記した通り、ヒロインの美しさもきっちりと映画の中に組み込まれている。  部分的だったとしても、良いアクションシーンがあって、主人公のキャラクターにも愛着が備わって、映画的な面白味もあって、女優が美しいのならば、娯楽映画として何の問題もないじゃないかと思える。  決して「良い映画」だとは言わない。ただ間違いなく「悪い映画」ではない。 完璧な駄作からの見事な“巻き返し”。このあまりに想定外な製作陣の「成長」は、日本の映画ファンとして嬉しく、賞賛に値する。  このクオリティーをキープし超えていけるのならば、シリーズ化も大いに結構!
[DVD(邦画)] 6点(2012-10-15 23:48:48)(良:1票)
720.  ワイルド・スピード/スーパーコンボ
ドウェイン・ジョンソンとジェイソン・ステイサム、この二人の俳優が、今現在の“アクション映画俳優”の頂点と言って過言ではないだろう。 撮影技術の進化に伴い、必ずしもアクション俳優ではなくとも、超一級のアクション映画の主演を務められるようになって久しいが、この二人こそが、本来の意味でのアクション俳優の系譜を継ぐトップランナーだと思う。 そして、CG隆盛の今だからこそ、リアルに鍛え抜かれた体躯をもってして、リアルに体を張って、リアルに戦うことができる彼らの存在感が、殊更に高まっているようにも思える。  そんなアクションスターの二人が“脇役”として登場する「ワイルド・スピード」シリーズの娯楽性の高さは、昨今のアクション映画シリーズの中では群を抜いていて、逆に彼らが参戦したからこそ、エンターテイメントとしての多様性が拡大したとも言えるだろう。  故に、そのアクションスター二人が“主演”として、シリーズの本流から外れて大活劇を繰り広げるという今回のスピンオフに対しては、善し悪しはともかく、シリーズのテイストから大きく「脱線」するのだろうなという推測と覚悟がそもそもあった。 それならば別に「ワイルド・スピード」シリーズでなくてもよかろうが、二大アクションスターの競演であることには変わりないし、加えて監督がこれまたアクション映画監督のトップランナーであるデヴィッド・リーチとくれば、そりゃあ劇場鑑賞せざるを得まいと思った。  結果としては、“推測”よりもずっとちゃんとした「ワイルド・スピード」映画だった。 豪快馬鹿アクション映画であることは間違いないが、その豪胆さ映画全編のテンションも含めて、ちゃんと「ワイルド・スピード」の世界観の中で、“ワイルド”そのものの主演俳優たちが暴れまわっていた。  一流アスリート上がりの体躯が持ち味の二人なので、無論「肉弾戦」がメインの仕上がりにはなっているが、随所に同シリーズの無二の“売り”である「カーアクション」も効果的に散りばめられており、「ワイルド・スピード」ファンとしても「これじゃない感」は決して感じなかった。 むしろ、それぞれのカーアクションにおいても、使用される車種や展開されるアクションの見せ方で、“ホブス”と“ショウ”各々のキャラクター性と特性が表されており、凝っていたと思える。  そしてクライマックスはまさかの“サモア決戦”。 展開としてはまさしく強引で荒唐無稽だが、それをまかり通す豪腕とキャラクター性こそが、ドウェイン・ジョンソンとジェイソン・ステイサムの「本領」だろう。 数々の出演映画で様々なキャラクターを演じても、ドウェイン・ジョンソンの左肩のタトゥーは変わらない。ジェイソン・ステイサムは、クールで紳士的な殺し屋を演じたかと思えば、別の映画では心臓に細工されて路上セックスをキメる。 決して型にはまらない豪快さと、愛さずにはいられないチャーミングさ、それらは彼らが決して一筋縄ではない俳優人生を歩んできたからこそ勝ち得た魅力であり、素晴らしい人間性を含めた「俳優力」そのものだと思う。  これ次は絶対ホブスの“親父”が出てくるな。誰がキャスティングされるかも期待しながら、次作を待とう。
[映画館(字幕)] 7点(2019-09-08 21:07:52)(良:1票)

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