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プロフィール
コメント数 404
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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81.  亡国のイージス
ガンダム世代によるガンダム的戦争小説。これが僕の原作評価である。戦争がテクノロジーとメカニックにより支えられたシミュレーションゲーム(ウォーゲーム)であるのと同時に、そこで一瞬にして消え去る生命に対して、その大量死を否定し、生のリアリティを確かめずにはいられない、ある意味で非戦場的な感情劇こそが現代の戦争小説なのである。それがある種のヒューマニティとテロルの論理との葛藤によって支えられる安直な思想劇であること。イデオロギーや理想に支えられる世界という観念、革命という精神の観念劇は物語の浮間に露ほども顔を見せず、行動は私怨により支えられる復讐劇であって、全ては各個人の生きる意味と意志に還元される。これは良くも悪くも我々の世代の戦争観であり、現実である。つまり戦争が絶対的外圧として描ききれない、平和な時代の無精神な戦争観こそがこの戦争冒険ノベルズの核なのである。「これが戦争だ」という台詞に漂う不可思議で不明瞭な違和感、それはマンガ的な非現実感であると同時に湾岸戦争から9.11に至る現代の戦争で僕らが感じた現実感そのものでもあるのだ。 とはいえ、僕が原作をなかなか面白く読了したのは、自身もガンダム世代だからだろうか。原作者がガンダムから戦争を学んだという言説を僕らはリアリティをもって受け止めることができるのだ。 さて、映画であるが、まずこの映画化に際して注目すべきは、監督が阪本順治であることだろう。阪本順治と言えばやはり『トカレフ』である。あの奇妙な人間闘争劇、剥き出しの個人が放つ乾ききった殺意や愛憎は、この監督ならではの現代感覚であった。この妙にウェットな戦争大作を阪本がどう料理し、映像化するか、興味はその一点に尽きるとも言えたのである。 結果から言えば、この監督の味わいは完全に原作に飲み込まれてしまったというのが僕の感想である。この映画の中に『トカレフ』の「あの」主人公たちはいない。原作への忠実さにダイハード的な冒険色を前面にうち出した映像はなかなか見ごたえがあり、そういう意味では、原作の冗長さを的確に纏めた上手い映画だと思う。役者達の演技も素晴らしかった。それだけに、もっと乾いた視線で登場人物たちの人間性を抉り取り、僕らに切実なる違和を投げつけてもらいたかったというのが正直なところでもある。それだけの力量を持つ監督だけに少し残念であった。 
[映画館(字幕)] 8点(2005-08-27 08:23:41)(良:1票)
82.  男はつらいよ 寅次郎真実一路 《ネタバレ》 
マドンナは2回目の大原麗子。  彼女には不幸な役がよく似合う。(『居酒屋兆治』しかり) 今回もエリート証券マンの夫が仕事と家族を捨てて失踪してしまう。(前回は離婚直後の女性でした) エリートサラリーマンの失踪と言えば、管理社会からの逃避を扱った名作『寅次郎相合い傘』の船越英二と同じパターンだが、今回は残された側からの視点というところが違う。  寅さん曰く、「毎晩必ず残業だ。早くて10時、遅くて家に帰るのが真夜中の12時から1時だ。ひと言も口をきかず、ずーっと風呂に入る。ごろんと寝る」 タコ社長「厳しいねぇ」 寅さん「あー、もったいない」 博「何でですか?」 寅さん「鈍いやつだな。あんな綺麗な奥さんがいながら、旦那はろくにその顔を見る時間がないということなんだぞ」 その後、寅さんが髪結いの亭主のごとく、綺麗な奥さんを眺めて暮らすという男の理想をのたまうのであるが、それは全員に否定されてしまう。綺麗なものを愛でて暮らす。それは確かに理想であり、夢ではあるけれども、結局は経済を度外視した夢想家の発想である。それが寅さんの口から出るところがミソなのだな。  今回のラストシーンは久々に泣けた。名作である。
[DVD(邦画)] 9点(2012-04-29 23:33:02)(良:1票)
83.  落下の解剖学 《ネタバレ》 
この映画は「おとなのけんか」である(ポランスキーにそういう映画があったが)。夫婦が喧嘩するだけでなく、裁判での検察官と被告、証人、弁護人とのやり取りも口喧嘩のようなもの。言葉尻を捉える子供じみたソレである。そういえば、冒頭にキャストの子供の頃の写真が出ていたなと。 被疑者の女はドイツ人で、転落死した夫はフランス人。裁判ではフランス語の質問に英語で答える。言葉の壁に子供っぽい心理が加わり、共通のコードを持たないコミュニケーション不全が前提であれば、それは言語ゲーム(ウィトゲンシュタイン!)となる。  言語ゲームとは、言葉と意志が通わないところに起こる本来的な他者との邂逅。結局のところ、彼らの子どもで、おとなになろうとする盲目のダニエルにこそ全能性が宿るラストが象徴的であった。 転落死した男は自殺か他殺か? 彼は落下する。私には、それもダニエルに見透かされたように、言葉を失いながら、言葉を紡ぐしかない作家の子供っぽさ所以の自作自演の典型のように思えた。  『ある言葉の根拠を示そうとして、いくら言葉を尽くそうとも、その説明のための言葉すら、根拠のないルールをもとに述べられているにすぎない。自分自身で決めたルールのなかで、自分自身を正しいとしているのだから、つまるところ「論理」というものは、すべて「自作自演」となる』 飲茶「哲学的な何か、あと科学とか」より
[映画館(字幕)] 8点(2024-03-05 19:21:31)(良:1票)
84.  狼たちの午後 《ネタバレ》 
シドニー・ルメットは「正義」を希求した社会派監督であると共に、社会生活の中で打ちのめされた人々のカッコ悪い生き様や、反社会的な行為に引きずられながらもそのようにしか生きられなかった人々のヒーローでもアンチヒーローでもない有り様を執拗に描く監督です。『狼たちの午後』はその代表作と言えるでしょう。この作品のアル・パチーノは銀行強盗を犯し、マスコミから反社会的な象徴に祭り上げられるアンチヒーローでありながら、はっきり言ってあまりカッコよくない。銀行強盗を題材にした緊迫感溢れる心理劇か、バイオレンスアクションか、あるいは、アル・パチーノにゴッド・ファーザーばりの冷徹な役回りを期待すると完全に肩透かしを食います。邦題の過剰さがそのようなイメージを無駄に喚起させるのも罪作りと言えます。  シドニー・ルメットは、銀行強盗という非日常的光景の中にも人間的なためらいや怖れ、怯え、恥ずかしさなど、社会との関係性によってくるくると変わる犯人たちの達成感や挫折感を描きます。自分が社会の中でどう見られているのか、その視線を常に意識し、錯覚し、観念する。それは、ほとんどコメディのようです。役者としてはまさに「狼たち」とも言えるゴッドファーザーのコンビ、アル・パチーノとジョン・カザールがコミカルな犯人役を大仰に演じるという違和感にこそ、この映画の面白さがあるのだと僕は思います。
[ビデオ(字幕)] 10点(2011-05-31 22:14:38)(良:1票)
85.  旅立ちの時 《ネタバレ》 
『旅立ちの時』の最大の魅力は、リバー・フェニックスその人に尽きると思います。リバーの演技、特に彼の切ない表情がたまりません。 彼と彼女(マーサ・プリンプトン)の出会いのシーン、何気ない散歩のシーン、初めてのキスシーン、自分の思いを告白するシーンなど、それは全て青春のオンパレードとなります。また、マーサ・プリンプトンがとても魅力的で、自分の愛情に正直な振る舞い、彼を一途に思う気持ちが胸を打ちます。それに対し、両親世代には自分たちの生き方に対するほろ苦さがあり、彼ら自身の親との断絶も描かれて、リバーの境遇を通して繰り返される家族の悲劇が僕らの胸を締め付けます。  リバーはとても従順な男の子で、決して両親に逆らわないのですが、そこには彼なりの葛藤があります。熱い気持ちと諦念が同時にあり、それはもどかしくも彼の中で静かに流れていきます。その描かれ方は、反抗の60-70年代とは違うし、現代的な無根拠で等価交換的な若者の振る舞いとも違います。ある意味で、リバーの姿こそ、僕らの世代(80年代をティーンエイジャーとして過ごした世代)の象徴のような気がして、なんとなく心置けない気持ちになるのです。  この家族は、反体制派であり、反社会的な存在の最たるものなのですが、その中にも「愛」があり、そして今や失われた「青春」があります。そして、大人になるということ。その道筋がしっかりと示され、達成されている。実は、とても真っ当な家族の姿だと僕には思えます。
[DVD(字幕)] 10点(2011-05-31 22:21:33)(良:1票)
86.  ナチュラル 《ネタバレ》 
僕にとって涙なしに観ることができない映画です。「人生には2つある。学ぶ人生とその後の人生。」実力がありながら16年間を棒に振ってしまったレッドフォード演じるロイ・ハブスがようやく大リーガーとしての夢に辿りついた時、意に反するその夢の不確かさを語った後に、グレン・クローズ演じるアイリスが呟いた言葉である。 この映画の好きな場面はたくさんあるが、僕はやはり最後のシーンを語りたいと思う。シーズンプレーオフの最終試合。古傷の再発に耐えながら不調に喘ぐロイ。ベンチのロイにアイリスから手紙が届く。その言葉自体は僕らに伝えられない。しかし、そこにはアイリスの子供がロイとの間にできた子供であることが告げられており、その言葉がロイに力を与えたであろうことを僕らに想像させる。手紙を読み、立ち上がるロイ。スタンドを見上げ、ベンチを歩き回り、そして決意を胸にする。ロイは期待通りに逆転のホームランをスタンドの照明灯に打ち込み、チームをプレーオフ勝利に導く。この試合を最後にロイは引退した(であろう)ことが後に続く息子とのキャッチボールのシーンで僕らに伝えられる。確かにクライマックスシーンは派手であるが、僕はこれらのシーンにさざめく静かな感動を覚えた。それは何故だろう。この作品はベースボールを題材とした映画であるが、ベースボールゲームそのものを描いてはいない。なぜなら、ロイが最後にバットに想いを込め、ホームランを捧げたのは自分の息子に対してであるからだ。あの場面でバッターボックスに立ったロイは、既に「その後の人生」に足を踏み入れていたのだと思う。ある意味でこのクライマックスシーンの主役はアイリスとその想いを受け取ったロイであり、彼女の想いがあの結末を導いたのである。最後、親子によるキャッチボールとそれを見つめるアイリス。最後のキャッチボールといえば、名作「フィールド・オブ・ドリームス」が思い浮かぶけど、この映画の最後のキャッチボールは親子の様々な思いを想起させるノスタルジックなそれとは少し違う。何と言っていいか、、、ある確信的な勇気、ささやかながら何か大切であろう心の有り様を僕に思い起こさせるのである。それははっきり言って凡庸たる家族や愛情というタームなのかもしれないが、にもかかわらず、僕は「はっ」と思った時には心が既に溢れ、我知らず涙を流している自分に気付くのだ。。。
[ビデオ(字幕)] 10点(2005-02-14 06:29:03)(良:1票)
87.  ぐるりのこと。 《ネタバレ》 
自らの意志のみで世の中を真っ当に生きることはそもそも難しいことである。智に働けば角が立ち、情に棹させばながされる、意地を張れば窮屈だ。明治の代からそれは変わらない人情という世情である。 夏目漱石が『草枕』で描いた非人情の風景。誠実さ故に人情の世界の中では「狂い」のものとされてしまう女。その女に人間として惹かれる画家の男。それは絵画的な風景としての生の捉え方であったか。  『ぐるりのこと。』は、自らの行き方と世の中のズレを許容できないばかりに、次第に精神を病んでいく女とそれを見守る男の物語である。「ぐるり」とは、自分たちを取り巻く世の中のこと、という意味だと察せられる。(英語題より) 女は非日常的に自らの誠実さを表現できる「絵画」を日常とすることによって快復していく。男はそれを見守る法廷画家の男である。彼は「ぐるり」を描き続ける男でもある。 もちろん、彼らは10年という年月をリアルに生きており、それは決して非人情という風景の断片ではない。丹念に描かれ、紡がれる生活というもの。日常があり、非日常がある。その繰り返しの中で生きる辛さに押しつぶされてしまったが為に、破錠しかける2人の生活。 生きるというのは「ぐるりのこと。」であり、「関係」であるが故に辛いけど、それが為に繋がる喜びである可能性もある。彼らの10年はそのことを漸く知る為の10年であったことが僕らに伝えられる。  生きることは、年輪を重ね合わせることである。そう思わせてくれる「物語」であった。
[DVD(邦画)] 9点(2009-03-18 22:10:34)(良:1票)
88.  男はつらいよ 花も嵐も寅次郎 《ネタバレ》 
マドンナは田中裕子。  但し、お相手は沢田研二で、寅さんは彼のご指南役。田中裕子への仄かな恋心を持ちつつ、2人の仲を見守る役回りである。寅さんが沢田研二演じる口下手な二枚目の三郎青年に恋愛指南をするのだけど、例えば「言葉ではなく、目で伝えるのだ」と教えたりするものだから、田中裕子演じる蛍子ちゃんから「三郎さんは何を考えているのか分からない」と言われてしまう。蛍子ちゃんに結婚を申し込む三郎青年。自分の気持ちをうまく表現できず、最後には蛍子ちゃんから「口で言って」と迫られる。実は、恋愛下手なのは知ったかぶりの恋愛指南役である寅さん自身なのだ。そりゃそうだ。本当に好きな人の前で何も言えなくなる。前作『あじさいの恋』の寅さんが思い浮かぶ。  「あいつがしゃべれないってのは、あんたに惚れているからなんだよ。今度あの子に会ったらこんな話をしよう、あんな話もしよう。そう思ってね、家を出るんだ。いざ、その子の前に座ると全部忘れちゃうんだね。で、馬鹿みたいに黙りこくってんだよ。そんな手前の姿が情けなくって、こう涙がこぼれそうになるんだよ。な、女に惚れてる男の気持ちってそういうもんなんだぞ」 寅さんが蛍子ちゃんに言うセリフは正しく自分のこと。痛いほど分かるなぁ。それにしても、田中裕子の声って甘く儚げで男心をくすぐるよ。
[DVD(邦画)] 9点(2012-04-29 23:26:08)(良:1票)
89.  硫黄島からの手紙 《ネタバレ》 
素晴らしい映画だった。僕は前作『父親たちの星条旗』のレビューで、クリント・イーストウッドは個人という矮小な物語から戦争という壮大な物語を描いてみせる、ということを書いた。今、彼の硫黄島2部作の後編というも言うべき『硫黄島の手紙』を観終わって、正に我が意を得たりとでも言おうか、その感想に聊かの変化も感じていない。  この映画の主人公は一兵卒、西郷であろう。(彼は狂言回しではなく、この物語の主人公である) その弱々しくも人間的なキャラクターから硫黄島戦を捉えたとき、この映画は戦争という極限状態における個人的な側面をその切実さとともに描き出す。クリント・イーストウッドは戦争という局面の中でも執拗なまでに「人間」を描くのである。ほぼ全編にわたって硫黄島戦の経過をなぞるように場面が進んでいく為、『硫黄島の手紙』は『父親たちの星条旗』と違い、硫黄島戦の史実を日本軍側から忠実に描く戦争記録映画として観ることもできるだろう。しかし、主人公の西郷、そして、栗林中将、元憲兵の清水の過去、その個人史がフラッシュバックで描かれる、その短い場面に込められた登場人物たちの「生きる想い」、その凡庸でありながら、普遍的な切実さこそがこの映画に込められた最大の「祈り」であり、それが僕らの心に自然に、そして重く受け止められるのである。  西郷は生きる。彼は逃げ続けることによって、生を得る。そして彼は言うのだ。 『私はただのパン屋です』  私は愛する妻と未だ見ぬ娘に会いたい、彼女らに会うために祖国に生きて帰る、そういう自らの真実に支えられて戦場を生き抜く、そういうただのパン屋なのです。  ただのパン屋であるという西郷の真実。それとともに、西郷が清水の死に触れて流す涙、栗林を看取る際の涙、それは単純ではない人間の(ある意味でパン屋であるということを越えた)在るがままの涙であり、そのことの重みが僕らの胸を強く掴む。 彼は誰にも知られずに誓った「生きて帰る」という信念を貫いたわけだが、そういう個人的な正義を僕らは誰も非難することなどできない。何故ならばそういった人間の信念が戦争という狂気の中で揺らぎ、繋ぎとめられる、それこそが戦争というものであり、クリント・イーストウッドが伝えたかった信念であろうと僕は思うのである。
[映画館(字幕)] 10点(2006-12-10 17:59:01)(良:1票)
90.  寝盗られ宗介 《ネタバレ》 
『寝盗られ宗介』は、つかこうへいの舞台作を若松孝二-原田芳雄のコンビで映画化した1992年の作品です。つか作品はよく知りませんが、映画『寝盗られ宗介』は、やはり主人公が原田芳雄ということで、彼独自のアウトローというイメージが纏わり付きます。中年のアウトロー。そこはかとないアウトロー。アウトローの末路と言えばいいでしょうか。とはいえ、別に拳銃を隠し持っている元テロリストというわけではなく、ただのドサ回り一座の座長にすぎないわけで、その存在はアウトローにしてはかなり頼りなく、庶民的です。さらに、女房を駆け落ちさせて、戻ってくる度に、彼女がまた自分を選んだことに自足し、恋愛感情を細々と持続させるという、主人公は、なんという姑息な人格でしょうか。 しかし、単純にそうとも感じられないのです。原田芳雄が主人公を演じることにより、それが人間として、正当であるような、そんな重みを錯覚させるのです。そして、『愛の賛歌』です。このクライマックスの歌が指し示す「深み」と「高み」は、その意外性と共に、映画そのものに大きなインパクトを与えています。観ている僕らを高揚させ、そのふわーっとした高みから物語も大団円を迎えるのです。人生っていいものだなぁ~なんてね。  この映画は、ストーリーに特筆するところはないのですが、やはり原田芳雄の存在感が光ります。それは主人公の役柄を超えます。その個性をじっくりと味わえるかどうか、それによって評価が分かれる作品なのだと思います。
[ビデオ(邦画)] 8点(2011-08-16 08:27:50)(良:1票)
91.  イージー・ライダー
厳密に言ったら精神的自由などというものはどこにも存在し得ないものだと思う。だって精神というものは僕らを縛るものであり、僕らは精神というものに本来縛られたがっているのだから。でも、そういう精神なんて今の世の中、どこを探したらあるんでしょうね。イージーライダーの主人公達が信じた自由とは、そんな自覚が生み出すある種の諦めや敗北感からの自由だったのではないかな?(だからこそ僕らはあの時代の映画を観て心を震わされるし、時代の感覚として確かにそれは僕らの胸に切羽詰ってくるのです。)彼らが敗北感への反抗に対して敗北を味わった…といえるだろうか。確かに彼ら自身はそうかもしれない。でも僕らは今でもそういう敗北感に対するラディカリズムをある生き難さの感覚として抱えている。イージーライダーという映画はそのことを僕らにそっと教えてくれるのです。
8点(2002-04-12 01:11:43)(良:1票)
92.  トウキョウソナタ 《ネタバレ》 
廃墟の光景。 その昔、世界を失った者は、生活という場所に帰った。或いは、自己観念に囚われ否応なく破滅を志向した。今やそのような行き方というか逃げ場自体が失われてしまったようだ。それが『トウキョウソナタ』で描かれた現代的な喪失感なのだと思った。 役割を失えば、信じるべき自分という存在すら信じられない。役所広司演じる全てを失った泥棒に小泉今日子演じる「お母さん役」の佐々木恵が言う。「最後に信じられるのは自分自身でしかないと」 その言葉は空虚に響き、結局のところ、彼は自らの命を絶つに至る。 自己という観念が崩壊した世界で、彼らは帰るべき自分という場所すら見出せず、ただ孤立したまま、家族の食卓に戻る。そこで大切なのは、失った者同士が改めて集い、新たな役割を再構築することなのだと僕は思う。 最後の「月の光」とは、一体何だったのだろうか? 夜の海辺に瞬く光の波。カーテンに差し込む穏やかな光の漣。ピアノ曲。このとってつけたご褒美のような「希望」と「救い」は何だったのだろうか? そうか、それが「アカルイミライ」なのか。行き場のない現代人にとってのフラットで等価交換的なアカルイミライなのか。そもそもそこには深みや影がないという、表層の瞬きという発見なのだろうか。
[映画館(邦画)] 10点(2009-03-29 20:40:05)(良:1票)
93.  モナリザ
名作「クライングゲーム」に先駆けるニールジョーダン作品。しがない男につきまとうしょぼくれた青春の影。オトナの恋愛に見せながら、これはあくまで壮年的青春映画です。画面に漂う戸惑いと憂鬱の雰囲気はこの監督独特のものでしょう。
8点(2003-10-09 23:40:34)(良:1票)
94.  告白(2010) 《ネタバレ》 
この話、ひとことで言えば、「ばかばかしい」。 これは、前に原作小説を読んだときに感じたことでもある。映画も基本的には原作をそのまま踏襲しているので、話の展開自体は同じように「ばかばかしい」。 なので、最後の方で再登場した松たか子が吐き捨てるように呟いた「ばかばかしい!」という台詞には正直ドキッとした。ほんと、そうですよね。ばかばかしい話ですよね。このプロット、この展開。松さんの言うとおりです。。  松たか子。前作「ヴィヨンの妻」も良かったけど、本作も堂に入った演じっぷりで、台詞回しや表情、そして、うしろ姿にはとても迫力があった。最後の「どっかーん」も鬼の形相のような笑顔も結構ぐっときた。  映画は、ばかばかしい話を随所に映像的に盛り上げていて、なかなか見所があった。この監督の映像感覚は相変わらず面白い。賑やかさの中に毒が効いていて、はっとさせられる場面もあった。ただ、あの断続的な映像が100分間ぶっ続けなのだから、やっぱり疲れるかな。  この話が観ている時の衝撃以上に全く心に残らないのは、話自体がマンガ的、キャラクター小説的だからだろうか。ノリとしては、よくある少年マンガのキャラ対決と同じかなと。少年が罪を犯す理由が「世間に自分を認めさせるため」であり、特に母親との関係に自我の心理的な動機を求める。100年前からの伝統に基づく実に類型的なお話である。(そこに最初から父親の影すらないのが現代的だけど) ついついそういう所につっこみを入れながら観てしまうのだが、何れにしろ、しっかりとキャラが立っていたので、この手の物語としてはかなり出来がよいのだと思う。マンガとしてみればその破天荒なばかばかしさは痛快だったし、多少の違和感を残しながら、最後はしっかりとオチが付いて、めでたし、めでたし、である。  告白とは? ということを考える。私の告白とは誰の告白なのだろう。私? 告白する私とは誰だろう? 告白すればするほど、いや、告白したつもりが、ただそう言わされているだけで、それが本当の私であるという確証など何処にもない。そうだろうか? 今や告白こそが私そのものであり、それ以外の本当など存在しえない、つまり「本当の私のココロ」などというものこそ、もはやありえないのだ、、、と考えてみる。そういう「告白」に人々が振り回されるという意味において、この映画の「告白」は実に現代的で軽い、なーんてね。 
[映画館(邦画)] 8点(2010-06-13 20:48:35)(良:1票)
95.  男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋 《ネタバレ》 
マドンナはいしだあゆみ。  寅さんの悲恋物語。ドタバタもなく、いつもの寅さんとは全く違う雰囲気だったけど、本作は、ある意味で寅さんとは何者か、実はどういう人物なのかということをしみじみと感じさせる素晴らしい一篇であった。寅さんは女性から本気で求められると、受け身になって、すっと自らを引いてしまう。そして自分を「駄目な男だ」と言って一人涙を流す。恋に恋して、恋できない臆病者。それが寅さんなのか。寅さんの流した涙を思い、12歳の満男と同じように悲しくて僕も泣いた。寅さん、あなたはただひたすら優しすぎるのだ。そういう愛があってもいいじゃないか。寅さんが満男に言う。「お前もいつかは恋をするのだろうな。可哀相に」 すると満男が答える。「僕、恋なんかしないよ」と。(10年後の自分に聞かせてあげたいセリフだ)  この回に津嘉山正種がいしだあゆみの元カレで登場する。津嘉山と言えば、オープニングでのドタバタ劇専門でずっと登場していたが、ついに本編昇格かと。彼はその後、『真実一路』でも部長役で登場している。その後のOPドタバタはアパッチけんが引き継いでいる。
[DVD(邦画)] 10点(2012-04-29 23:26:04)(良:1票)
96.  ソフィーの選択
この世の中にこれほどの絶望の生があろうか。彼女には狂気という逃げ場さえも奪われているのだ。生きるということを決定的に引き裂かれ、それでも生きていかなければならない、それほどの地獄があるということに、僕らはただ息をのみ、言葉を失うしかない。 彼女はそれでも「不在」の神に祈りを捧げるのだろうか。「不在」の神とは、常に「沈黙」する神。「カラマーゾフの兄弟」でイワンが切々と訴える「永久調和の世界が将来達成されたとしても、それが何であるかを理解しえずに涙を流したまま死んでいった子供がいる以上、到底承認することができない」神でもある。もし、祈り続けられる勇気があったのなら、本当に狂気から目をそらさずにいられるのだろうか。
9点(2003-10-18 22:55:45)(良:1票)
97.  きのうの夜は・・・
10年以上前に観たんだけど、今でもわりと印象に残っている映画です。なんの変哲もない恋愛映画、青春映画なんだけどね。ロブロウとデミムーアの同棲生活の様子が結構リアルで、なんともしみじみしちゃうんです。恋愛のはじまりと終わりを現実的に描いていて、ある意味ではとても正統的な恋愛映画といえるかも。
9点(2002-03-24 16:31:48)(良:1票)
98.  ラスト、コーション 《ネタバレ》 
恋愛映画であり、その本質がエロティシズムであることを示した作品である。  その決定的なシーンとは、女スパイのワン(タン・ウェイ)が標的であるイー(トニー・レオン)からダイヤモンドの指輪をプレゼントされた際に、恍惚として思わず「逃げて・・・」と呟いてしまった瞬間である。 この映画の全てのシーンはこの一言のプロローグであり、エピローグとしてあったとも思える。それ程に深く、にも関わらず、なんという衝動的な一言だったろうか。 エロティシズムとは、非連続な存在であり、関係性である人間にとっての連続性への郷愁であり、衝動である。オルガスムこそが(小さな)死という連続性への瞬間的な接近であり、生という可能性の実感であった。それは刹那であるが故に深く、そして衝動的なのだ。  互いの孤独を紡ぐようなセックスシーンと共に、最後の指輪のシーンこそは、存在の孤独を癒す連続性の光、この映画のクライマックスであり、オルガスムの瞬間だったのではないか。  ワンの一言によって、脱兎のごとく店を飛び出したイー。 青酸カリを、そして指輪を見つめながら、最後の可能性を握り締めるワン。  彼女はその瞬間を反芻し、生の充実を得る。 彼女はエロティシズムという自我を超えた外部の力に捉えられ、引き裂かれた。それは結局のところ侵犯の報いとして生の終焉に行き着かざるを得ないのか。恋愛という最上級の幻想を、その美しい瞬間を見事に捉えた傑作。
[DVD(字幕)] 10点(2008-11-23 01:01:07)(良:1票)
99.  ピアノ・レッスン
これは、あやうく刹那的な恋の感情が心的呪縛の開放とともに愛へと転化した幸福な物語なのだろうか。僕のようなプチニヒリズム的心情の持ち主には、素直にそのようには受け入れがたいところもあったのだけれど、う~んと考えてみるにつれ、こんな始まりを感じさせるハッピーエンディングな志向は、古今東西の恋物語を見回してみても、多少なりとも画期的なことだし、ある意味では確信的なことかもしれない。そこには、「The piano」の作者の水脈に対する信頼度の問題があるけれど、この物語がとても誠実であり、実際に僕の心をぐぐっと惹きつけてやまないという事実があるのは確かなのです。主人公にとってのピアノは内面世界の象徴であったと思うんだけど、最後に彼女がピアノを断ち切ることによって何を失い、何を得たのだろうか。ピアノ=内面の象徴化=自己の観念化という図式で考えれば、当初彼女の凝り固まった内面には、地平としての他者が不在であり、だからこそ、突如現れた他者としての恋感情が強烈にして彼女のピアノの旋律を狂わせたのだと思う。この恋感情が彼女を突き破り、現実をも転覆してしまうところはやっぱり確信的です。このハッピーエンディングには、彼女が欠損者であることがひとつの大きな要素となっていると言えるのではないかな。欠損からの快復の物語がエンディング以降に語られるのだろうけど、恋感情からストレートに移行するように思える、そこに恋と同列の可能性をもつある種の「癒し」の感情を強く感じることができる。こんなことを考えるのは初めてなので、うまく言えないのだけど、この作品は、終わりが始まりとなるような新しい可能性をもった画期的なラブストーリーなのだということがいえないだろうか。<最後に、、、この作品の邦題はやっぱり単純に「ピアノ」とすべきだったのではないかなぁ>
10点(2002-12-31 01:30:04)(良:1票)
100.  アメリカン・ビューティー
主人公が取り戻そうとしたのは、自身の「青春」である。彼が会社を辞めてフリーターになり、娘の友達に魅せられて肉体を改造し、マリファナを吸ってロックを絶叫するのは、自らの青春への信とその回帰の意志からくるものであろう。この映画は、そんな青春に象徴される精神の自由とか、利己主義とか、社会に対する無責任さなどというものに対する無邪気な信頼を描いたものなのだろうか。  きっかけは、主人公を襲う妄想であった。現代的妄想とは、現実によって侵食された内面からの末期の悲鳴である。そしてそれは現実/世界を超越する意志という失われた原初的思念の新たな発現になり得るのである。 この物語のもう一方の主人公は隣人の若者であろう。彼の存在によって、ケビン・スペイシーの無邪気さは相対化されていると感じた。彼の現実は最初から不透明である。そこには回帰すべき青春への信などというものは既にない。しかし、彼とケビン・スペイシーはまるでコインの裏と表のような存在であるようだ。彼らが同じ世界を生きている以上に共有している思念を感じるのだ。それこそがこの映画のモチーフである「生きていくことへの信」だろう。そのモチーフに繋がる若者の動機が少し弱いかもしれないが、ある意味でそこにこそ「青春」というタームを超えたこの物語の新たな可能性を見たような気がする。
9点(2004-08-27 23:37:02)(良:1票)

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