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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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61.  コンタクト
冒頭は嬉しい。現代の騒音の地球から、しだいに遠くへ過去の音へと退いていく。そして無音の迫力。銀河へ島宇宙へと。純粋なSF映画かと期待する。ところが違って、人間ドラマで薄められた2時間半となった。純粋SFで2時間の映画は作れなかったか。もっと“接触”そのものの興奮だけで詰められなかったか。あの何ものかの巨大な心音のような電波信号音なんかよかったのに、そこまでだったなあ。アメリカで無神論を表明することの難しさはよくわかった。事業が北海道で実行されるってのが、無神論の国ってことで選ばれたのなら嬉しいんだけど、何となく東洋=精神性ってイメージが底にあったようで。ヘルメットのHは、北海道のHなの? シベリアのような北海道。
[映画館(字幕)] 6点(2009-03-21 11:55:22)
62.  コン・エアー 《ネタバレ》 
飛行機というのは、大仕掛けの割りに、もひとつ面白味に欠けるなあ。列車や車と違って、窓外の風景が生かせない。一生懸命速く飛んでても、スピード感が出せない。飛行中は外に出られないから、車のドアにつかまったりとか、列車の屋根に上ったりとかの、アクションの工夫の余地がない。けっきょく閉じ込められた環境という一点だけ。オリガミが後で生きるのかと思ってたら、ただツルが飛行機を予告しただけだった。マルコヴィッチやブーシェミといい顔を揃えているのに、極悪人という役柄の宿命か、物足りない。思わずうなるアイデアがないので、退屈はしないが空回りの印象。車を引っかけたまま飛行機が飛んでいく図はよかった。
[映画館(字幕)] 6点(2009-03-18 12:02:56)(良:1票)
63.  ここに幸あり(2006) 《ネタバレ》 
フランス生まれではない監督なのに、ここにはフランス映画の伝統が息づいている。前半の政治家たちのドタバタはクレールを思い出すし、後半のグータラ万歳はルノアールの精神に近い。ブハッと笑うところはないが、たえずニコニコしていられる。思えば最近のコメディって、ブハッとした笑い狙いが多く、こういうのはなかった。なにもこういうのが高級でブハッ笑いが低級だとは思わないが、いろんな種類の笑いの映画があってほしいもんだ。あらすじだけを取り出すと、「忙しかった大臣が罷免されたら人生が楽しくなった」と陳腐きわまりないものになってしまい、あんまり見たくなくなるけど、全体にある洒落た感じの心地よさは筋とは関係なく、ああこういう映画ってもう絶滅寸前かも知れない、と思いながら楽しく見られた。どこがどうとうまく言えない。たとえば省略、ヒョウが運ばれていくだけで次の大臣も失脚したのか、と分からせるあたり、とか、彫像を運んでて割ったかと思わせて鏡を割っただけだったり、とか、もっといい例があったと思うんだけど、それほど強く脳に刻み込まれるギャグではなく、ノホホンとした笑いなので、心地よさだけが思い出されてあとはぼんやりしている。ここんところがつまりこの映画の特徴でもあるわけで。
[DVD(字幕)] 7点(2009-02-16 12:18:24)(良:1票)
64.  獄門島(1949)
映画の中では誰もが「ゴクモンジマ」と発音していた。ついでに言うと“分鬼頭”は「ブンキトー」。これは同時代の物語だったのだ。引揚者のゴタゴタがまだ生々しかった時代。ラストに封建的なものへの批判が付いているのも、いかにもである。崑映画のノスタルジー的な味が入り込む余地がない。現実そのものだった。横溝ミステリーって、けっこう発表時ではリアリズムだったんだな。それにしても奇妙な気分である。崑作品のイメージが強いので、往年の名優たちによるリメイクを見ているような倒錯感。金田一が時代劇禁止中の片岡千恵蔵(いたってダンディ)。警部が大友柳太朗(何言ってんのかわかんない)。いい娘は三宅邦子で、島の警官が小杉勇、和尚が斎藤達雄、一番びっくりしたのは白痴三人娘の一人が千石規子だったことだ。やっぱりこの白痴三人娘はいいなあ。絢爛としたものが暗い風土の中を狂って駆け抜けていくってイメージは、横溝世界の芯であろう。海のギャングとの銃撃戦などで、壁に隠れてバキューンとピストルを撃つときの、片手で脇に低く構えたあの格好が懐かしい。実録やくざ映画あたりから、腰を落として両手で構えるリアリズムになってしまったが、昔の探偵はスタイル重視、反動もなんのその、片手でかっこよく撃っていたのだった。縁側のマムシを撃ったところでは場内が沸いた。犯人指摘の場で金田一が大笑いするのは、多羅尾伴内と混ざってる。
[映画館(邦画)] 6点(2009-01-14 12:18:37)
65.  ゴルゴタの丘
キリスト物語って、地方の物語なんだ。政権の強いローマを離れて、地方の総督とかユダヤの議会や地域の王なんか、文化が複雑に衝突している周縁の話なんだな。あんまりそういうとこ考えたことなかったが、何か新しいものが生まれるってのは、そういう場所でなんだろう。ユダヤが“呪われた民”と見られるのは、これら“群衆”の象徴としてなんじゃないか、などと思った。セットや群衆に迫力があり、また丘の場の空の雲は、映画が舞台と違って天候を描けることの利点を改めて思い出させてくれる。裏切りに出ていくユダが振り返って目にする、窓の額縁の中の教団仲間の親密な光景が、ユダの孤独を浮き彫りにする。正直言って、キリスト話ってなんか倒錯(被虐加虐その他いろいろ)の匂いがしてあまり好きになれず、見るときはついユダのサイドから眺めてしまうんだけど、ヨーロッパ文明の底には確固としてこの倒錯が潜んでいるんだなあ、と思えば、やはり気にはなります。/なおこれでキリストを演じたロベール・ル・ヴィガンは、『地の果てを行く』や『どん底』にも出る個性派だが、占領下に対独協力派の放送局で働いていたため、『天井桟敷の人々』の古着売りの役を放棄してドイツに亡命し逃げ回り、戦後はアルゼンチンへ去った呪われた俳優。同じ経歴の、やはり呪われた作家セリーヌと一時一緒に逃げていたので、セリーヌの晩年の小説に登場してくる。セリーヌの小説に出てくるベベールという猫は、逃避行していたときこのヴィガンからもらったもの。ヴィガンのそういう後半生を知ると、受難のキリストを演じたことにも味わいが添う(国書刊行会刊・セリーヌ「城から城」の補注より経歴を引用)。
[映画館(字幕)] 6点(2009-01-11 12:19:43)
66.  恋の片道切符 《ネタバレ》 
60年の新宿を、それも大通りではない新宿をたっぷり見せてくれる。ロカビリー歌手をめぐる物語。ポスターの多用。人の通行と直角に立っている、壁に貼られた薄っぺらの人間。時代のイケニエとして消費されることを自覚している若者たち。現在から見るとそのナイーブさが滑稽と紙一重なんだけど、そのじれったいぐらいのナイーブさがラストで弾け、若者同士が傷つくという構図。やはり、怒りの映画の時代なのである。人間関係から逃げていた小坂が、ラストで急速にピストル犯になるところがサプライズで、社会的成功を軽蔑していたはずの者の底にも、わだかまりが眠っていて、それが一気に顕在化した、というか。テープが飛びくる通路を歩く小坂のあおり、ステージ前まで来て、ふと煙草を口にくわえる、彼の内面が切り替わっていくところの描写が的確。篠田のデビュー作。助監督に山田洋次。
[映画館(邦画)] 6点(2009-01-09 12:17:33)
67.  ゴジラ(1954)
映画館で見ると、あの足音の迫力が違う。タイトルのときに、音楽にかぶせて非同調的にあのズシンズシンという足音と例の叫び声がはいり、この効果がすでに素晴らしい。東京湾の遊覧船が襲われるときもこのズシンは聞こえ、現実の足音というよりも、もっと象徴的な響きなのかもしれない。たとえば空襲のときの爆音の記憶とか(焼夷弾じゃああいう音はしないか)。避難する人たちに空襲の記憶が重なっていたのは間違いなく、ゴジラは戦争の不安の結晶であるが、また科学者の倫理という問題も当時は生々しかったのだろう。とりあえず戦争は過去のものになったが、核兵器の不安は現実のものだった(今だってさらに核が拡散しているのに、不安を感じる能力が現代人からは消えてしまっている)。科学者の責任は、目の前に突きつけられているテーマだったのだ。あと気のついたとこでは、ゴジラは国会議事堂から上野浅草をまわってるんだな。当時はまだあそこら辺のほうが、西側よりも壊しがいのあるメジャーな地域だったのだ。そして今見て際立つのがラストの厳粛さ、暴れ狂う怪獣を叩き伏せるのではなく、水中でやすらっているところを襲う。水面に一度苦悶のあがきが出て滅んでいく。酒で眠らされて退治されたヤマタノオロチのような怨霊性が、こんなところにも出ている。
[映画館(邦画)] 7点(2008-11-20 12:18:20)
68.  呉清源 極みの棋譜
年譜がときどき小さく画面に出る。最初のうちは読んでやろうと、サササとテレビに走り寄ってまた戻るということを繰り返してたが、そのうちやめた。そのことによって得られる情報より、そのことで失われる心の平静の損失のほうが大きそうだから。この映画の最大の魅力は静けさだ。外に暴力が吹き荒れている中で、小さな盤面の宇宙の静寂をなんとか守り続けようとした人たちの物語だ。石による戦いではなく、石による会話なんだな、碁って。たとえ一方がぶっ倒れるような苛酷なものであっても。だから映画を見ているものも、息を詰め体を動かさず、その静けさに加担したくなる。屋外シーンも美しいが室内の美しさは格別で、静けさを守ろうとする者たちの張りつめた空気がその美しさを際立たせていた。呉清源の伝記映画ということで、璽光尊事件をどう扱うかが興味あった。どちらかというと戦後の混乱期のちょっとしたコミカルな挿話として語られることが多かった事件だが、ここではかなり真面目に扱っている。思えば日本の国家神道も、本来の日本の多神教的伝統とはかけ離れた一神教的な新興宗教だったわけで、あの戦争時の興奮とこの新興宗教の興奮とがパラレルに見られる。これは外国人監督の目を通したことで得られた新鮮な視角だ。もしかするとここに中国の法輪功問題やさらにチベット仏教の弾圧をも意識していたのかも知れない、そういえば田壮壮のデビュー作はチベットを舞台にした『盗馬賊』だったっけ。
[DVD(字幕)] 7点(2008-10-26 12:22:41)
69.  今年の恋
ジャズを聞きながら勉強する高校生の田村正和は開けた横浜、それが友人の家である東京の料亭の古風な感じと対比される。またその彼ら若い世代とそのちょっと上の岡田茉莉子の世代との対比もある。ラストは京都で除夜の鐘を聞くという正月映画らしい流れだが、岡田が日本髪を結って特急に乗っているのが、ちょっと驚きだった。東京オリンピック前だと、正月ならそういう髪で娘(オールドミスになりかけといった微妙なところ)が特急に乗ってても不自然ではなかったのだな。でもたぶん田村正和の世代になると、ヘンだろう。またそれぞれの家に、東山千栄子、若水ヤエ子の婆やなり女中なりがいるのも時代か。こういう軽いスケッチ風の作品のほうが、時代を、その中の微妙な世代の違いも含めて、濃く残してくれる。
[映画館(邦画)] 7点(2008-09-12 12:12:38)
70.  KOROSHI 殺し
仕事ってものには残念ながら他人を損ねる要素があり、この映画の失業者らが殺しの循環をしている構図には、けっこう現代を突いているものがあった。たとえば、アメリカの生活の苦しい者たちが軍へリクルートされ、成績を上げようと懸命になってイラク人を殺している図を重ねられそう。石橋凌にもう少しオカシサが出ていればもっと良かっただろう。緒形拳が話を持ち込んできたとき、冗談じゃないかとか、ドッキリカメラじゃないかとか、もっとそれらしいリアクションがほしいところ。荒涼とした白の世界。外で回る風力発電の風車、室内で回る扇風機。被害者が画面の外に歩き出たところで銃声が轟く殺しの場。題名の刺々しさと裏腹な静かな画面展開がいい。ラスト、緒形が石橋の目を見つめるところで、「決して相手の目を見てはいけません」が生きた。
[映画館(邦画)] 6点(2008-08-30 12:14:10)
71.  ことの終わり
戦争という非日常下での恋が戦後になって…、っていう構造は、たとえば『浮雲』などとも通じる普遍的な物語世界だが、グレアム・グリーンだと、そこにカトリックの神が絡んでくる。恋が、神への誓い・神への愛に広がり、奇跡なんてテーマも出てきちゃう。少年から消えるアザ。神に、どうか私をほっておいてくれ、と祈る無神論者の作家である私。非カトリック圏のカトリック文学のほうが、より突き詰めてるみたい。何を語っても神が現われてくる思考経路って、宗教的にいい加減な風土で暮らしている者にとっては、一枚どうしても通り抜けられない幕が掛かっているようで。上り階段で始まった恋が、下り階段の爆撃で終わったわけだなあ。
[映画館(字幕)] 6点(2008-08-27 12:04:13)
72.  こころの湯
個室シャワーのアイデアで始まり、当然その対極としての銭湯の社交場が持ち上げられる。中国でもこういう後ろ向きというか懐古趣味というか、前進的でない映画が堂々と作られるようにいつのまにかなっていて、社会が成熟したあかしであろうか。コオロギを戦わせたり(ちょっと落語の笠碁的展開あり)将棋をさしたりと、人と人とのつきあいはただただなごやかで麗しく、ここにもう少しザラリとしたものを加えられれば薬味として効いただろう。滅びも、静かに諦めとともに受け入れられていく。土地を離れたコオロギは鳴かなくなるそうだ。
[映画館(字幕)] 6点(2008-07-31 10:24:40)
73.  コレリ大尉のマンドリン
戦っていたのはドイツ・イタリアのファシスト連合とギリシャなのだが、そこに漂っている空気は、イタリア・ギリシャの南欧古代文明地域連合と北方のドイツ新興陰気文明の対立だったりする。こりゃどうしたってドイツは分が悪い。でも一人一人はいい奴なんだよ。風呂場の中でしか歌えない内気な奴だったりして、飲むといい声でサンタルチアを歌い、ねえ戦争終わったら文通しようよ、なんて言う。言い古されたことだけど、戦争がいけないんだ。ドイツってのは、集団になると戦争に向いちゃう国民性なんだな。その点イタリアは向いてない。連合軍がイタリアに上陸したとラジオで聞くと、これで帰れるぞと歓声がわく。流れ着いた機雷の爆破、コードが足りなくて怪我しちゃうとか、いちいち戦争に向いてない。マンドリンが似合う国民性だ。でも残念ながら日本はドイツ系だなあ。
[映画館(字幕)] 6点(2008-07-22 09:21:11)
74.  ゴスフォード・パーク
ダーッと登場人物があふれる。これ小説だったらそうとう混乱しただろうけど、映画だと、とにかくその中に身を置いてあたりを観察しているうちに、しだいに整理されてくるから大したものだ。上の階と下の階、別々の階級の世界を描き分けていたのが、だんだんと絡まってくる面白さ。マギー・スミスは召使を使って情報を集めるし、上の客であるアメリカ青年は下に潜り込む。マギー・スミスの上流階級の酷薄さは、そのままイギリスが(しょせん芸人風情の)アメリカを見る眼の残酷さでもあろう。監督はそう見られるアメリカを笑い、そう見るイギリスも笑っている。
[映画館(字幕)] 8点(2008-06-02 12:14:29)
75.  殺し(1962) 《ネタバレ》 
原作はパゾリーニで、たしかにチンピラやごろつき、兵士たちなど社会の底辺の鬱屈が次々と描かれていくあたりに、その気配がある。でも空間の捉えかたに、アントニオーニを一番感じた。広場や造成中の土地のガラーンとしているウツロな広がりの感覚。映っているものよりも、それが抱えている空虚のほうが印象に残る風景。いやいや、これはアントニオーニの影響というより、ベルトルッチの個性かもしれないぞ。後年、紫禁城にあれだけ人を詰めても、広場のウツロさが際立っていたもの。間違いなく彼の個性なのは、ダンス好き。女二人のダンスシーンがもうあり、ラストもダンス会場での逮捕となる。共同脚本のうち、ダンスのある部分は監督本人だろうと勝手に推測する。
[地上波(字幕)] 6点(2008-03-02 12:20:53)
76.  香華
木下恵介における母は、親としての母よりも、家族の軸としての母としてより重要だった。「二十四の瞳」の生徒と女先生もそのヴァリエーションだったわけ。でも本作では、あくまで娘と母との関係が中心。家なしでやっていこうとした娘(岡田茉莉子)と母(乙羽信子)との葛藤の話。家族の軸になろうなんてこれっぽっちも思っていない母をめぐって、家という枠から脱した一代記ものドラマがドロドロと展開するところが、木下としてはかなり異色作である。家から浮いてしまった女性だから、あれまで墓に固執したということで、家のモチーフは底に潜んではいるのだけれど。
[映画館(邦画)] 6点(2008-02-06 12:16:44)
77.  ここに泉あり 《ネタバレ》 
納得半分、反発半分。納得は、岡田英次の脇に小林桂樹を置いたことで、これが適度に批判者の役を持ち、いやらしさを緩和させている。一つの文化に接触させる機会を地方に与えるというのは、悪いことではない。ただそこに中央から周辺への啓蒙という意識が加わると、どうしても反発を感じざるを得ない。山奥の子どもたちに「彼らもあのまま木こりで終わってしまうんだなあ」などと上から憐れむような態度を見せられると、それは違うでしょ、と思う。楽団員たちが聞けない美しい音(たとえば小川紳介の「ニッポン国古屋敷村」で出来たての炭がたてた澄んだ響きのようなもの)が確固としてあるわけだ。地方で生まれ地方だけで充足している文化というものがあるわけだ。中央的なものを地方に広めることが文化活動のすべてであってはならない。中央の山田耕筰を連れてきて「オーケストラの少女」をやらないと映画が終わらないところに、都会人の作る良心的社会派映画の弱さがある。
[映画館(邦画)] 6点(2008-02-03 12:22:34)
78.  ことの次第
フィルムを待っているそのけだるい時間そのものを楽しめばいいのかもしれないし(映画撮影チームの話なの)、不意に飛び込んでくる松の根っこや、夜の荒れた海なんかとてもいいんだけど、でもとうとう映画の中の時間に溶け込めないで終わってしまった。物語を語ると生命がなくなってしまう種類の映画なんだろうが、でもそれなら物語の代わりになるものがあるのかってこと。はたして後半は映画で表現することだったのだろうか。言葉の「意味」と音楽の「無意味」の間にある、映画という芸術の難しいところだ。パンする画面と一緒に左へ去っていくタイトルと、びっくりするぐらい低空で下りてくる飛行機が、印象に残った。
[映画館(字幕)] 6点(2008-02-01 12:12:45)
79.  コワイ女 《ネタバレ》 
1話と3話はすでにある定型ホラーをモデルとした習作、といった出来だが、2話の「鋼」はオリジナルな世界を作ることに成功している。箱入り娘ならぬ袋入り娘とデートする話。しかもこの袋は彼女を大事に保護するためではなく、どうも彼女が周囲に危害を加えないようにくるんであるらしいのだ。その奇妙なデートを通して、娘ハガネちゃんの顔は見えず声も聞こえない。なのにしだいに彼女がかわいくすら思えてくるのは、けっこう「少女」の普遍を描けているからだろう。ドテッと転んだり、ちょっと目を離すと川に浮かんでたりするトラブルメイカーぶり、気分しだいで親しみと攻撃が目まぐるしく交錯する移り気、少女はこういう鋼を隠し持っているもの。彼女サイドから見れば、女シザーハンズの物語としてこの映画を捉えることもできる。黙々とミシン(マシンでもある)を踏むシーンが彼女の孤独をチラリと浮かばせた。また青年の側から見ると、純情とはいえ思春期の男、カラダさえあればあとはどうだっていい、という気持ちがなかったとは言えず、本当にそうかな、という脅しを含んだ問い返しの映画にもなっている。妹思いの優しさがそのまま不気味さにもなる兄、というヘンテコな役をリアリティたっぷりに演じるとなると、今や香川照之以外考えられなくなった。
[DVD(邦画)] 6点(2007-12-31 12:28:39)
80.  子宝騒動 《ネタバレ》 
かなり昔に見たのだが(封切時ではない)、傑作のわりにしょっちゅう見られる映画ではないので、日記に記録してあるいくつかのギャグをここに披露しておくのも無駄ではあるまい。子沢山で貧乏人の主人公、家には「律義者の子沢山」という習字が貼られている。不払いがかさみついに電気も切られ、文字通り電灯を切り取られ持ってかれてしまう。いろいろ金策をめぐる展開があってのち、ついに隣家に忍び込む。金庫のダイヤルを回していると、そのすぐ脇でその家の主婦が繕いものをしている、なのにお互いがなぜか気がつかない、針立てやアイロンなど小道具を使ってはらはらさせ笑わせる展開だったと思う。ここでその主婦が産気づき急きょお産の手伝い、水道の水を出しっぱなしにしたので家が水浸しになり、台所を泳いで往復する、というギャグもあった。その後メインの、報奨金つき豚を捕まえんとする騒動になる。ラグビー場にまぎれこみ、豚をタックルしていく痛快さは、ロイドやキートンに劣らなかった。トンカツ屋、結婚式場、墓地などへと追っかけが続き、墓石が倒れていくのが凄かった。そういう躍動シーンで押していった後で急に静かな場面になり、大家さんが竹垣の道を散歩してるところ。問題の豚を見つけポイと放り投げると、その竹垣が倒れて豚を追う群集がワーッとなだれこんでくる静から動へのタイミングの妙。そして泥田でのドタバタの頂点に至る。とにかくスラプスティックとしての純度が高く、20年代末ごろからこのころまでで日本映画が喜劇の文法を完璧にマスターしているのが分かった。なお斎藤寅次郎のサイレント喜劇はもう一本「石川五右衛門の法事」いうのも前世紀末に発掘されたが、それはこれより劣る。
[映画館(邦画)] 9点(2007-12-21 12:33:06)
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