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1.  水俣 患者さんとその世界
胎児性の患者さんがこちらを振り向くところからラストまでは、とりわけ凄い。私たちはいままで水俣病を知っているつもりになっていたけど、それはたとえば支援団体の膜越しだったりした。その膜を破って、じかに水俣病に触れ得たという実感がある。このドキュメンタリーだって「支援団体」とさして違わないはずなのに、距離感が違うのだろうか。患者にこちらの眼=カメラをいじるに任せているカット、やっと患者と触れ得たという感動がたしかにあった。漁民の生活を丹念に描いたことも大きい。味噌とバターでの餌づくり、蛸採りの美しい水中撮影。自然と一体となった生活があったのだ。それをずっと続けていけたと言うのは理想論すぎるけど、そういった生活への懐かしさや憧れは、やはり暮らしの方向を考える上で大事なのではないか。あるいは患者のためにオルガンやステレオなど家に似合わないハイカラな物が置かれている光景もジーンとさせる。親の贖罪の気持ちがそこに凝縮している。水銀を食べさせたのは親の責任ではないのに、その申し訳なさはこういう形でしか表せないのだ。スピーカーの振動を手で感じている耳の聞こえない弟。けっきょく優れたドキュメンタリーとは、当事者との距離を正確に知っているということだろう。患者とその家族との苦痛に触れられないということで、観客もチッソと同じ側についている。その認識が安易な同情や哀れみを禁じていて、知らず知らず観客はより積極的に患者の側に身を乗り出さざるを得なくなる。限りなく近づこうと想像力を使役させなければならなくなる。だからたとえば総会で支援団体の人が壇上に上がってきた行為などは浮わついて見えてきてしまうのだ。患者たちの御詠歌の迫力には、薄っぺらな行為は吹き飛んでしまう。伝染病かもしれないと思われて子どもを引き離されたエピソードや、町の発展を妨げるものとして排斥された動きなど、これまでに描かれてきた細かい棘の数々がここで裏返され、あの御詠歌になってごうごうと唸り立てているのだ。
[映画館(邦画)] 9点(2012-01-28 12:40:09)(良:1票)
2.  未来世紀ブラジル 《ネタバレ》 
たとえば、拷問の記録をタイプにとっているところ。担当のオバサンが打ってるタイプを主人公がちらっとのぞくと「HELP!」と悲鳴が並んでいる。話しかけてオバサンがイヤホン外すとじかに悲鳴がもれてくる。あるいは食事の場でのテロ爆弾の炸裂、それでもせっせと食事を続ける人たち。ドンパチやってる脇で掃除を続けるオバサン。デ・ニーロが情報用紙に絡みつかれていく脇をゆく通行人。なにか切迫した大音声の世界と、静寂の事務的な世界がつながっている。事務の静まりのほうが大音声を圧倒し包み込んでいく。これは単にギャグと言うだけでなく、現代社会そのものといった納得を感じた。そういった大音声への無関心を導く社会の果てに、ラストの「ブラジル」を口ずさむ呆けた夢の世界が待っているのだろう。そしてこれはスクリーンを観ている私たちを皮肉っているのか、という気にもなってくる。カフカ的な暗い未来社会もの、って映画はほかにもあるが、とりわけこれは笑いと戦慄の振幅が大きくて好き。オタフクの笑顔もそうとう気味悪い。この後に観たフランス映画の『デリカテッセン』てのでもラテン音楽が暗い未来社会に流れていた。一番「自由」を感じさせる音楽なので皮肉に響くのか、あるいは世界が北方的に陰鬱になってしまったので皮肉に響くのか。ラテン音楽が皮肉に響くようになったら、その社会は要注意ってことだ。
[映画館(字幕)] 9点(2010-07-19 10:57:20)(良:2票)
3.  皆殺しの天使 《ネタバレ》 
部屋から出られなくなる、というより、出るのが怖くなる、って感じ。そこらへんの心理描写が緻密なの。みんなが変だなと思いつつ、自分だけ帰るのは失礼じゃないか、と周囲をうかがったりして、やがて全員の固定観念が強迫観念に成長していってしまう。また召使たちが去っていく感じにも不思議な現実感があって、ストライキをしてやろうなんて意気込んでるわけでもなく、けっこう申し訳ながったりしながら去っていく。あんたはどうすんの、なんて会話がすごくリアル。有り得ない世界を精密に構築していくとなると、もうこの監督の独壇場だ。「黄金時代」にも、ブルジョワの生活の外に、岩山やら雪原やらの酷薄な世界が広がっているイメージがあったけど、そういった外部を目にしてしまうことをこのブルジョワたちは怖れたんじゃないか。出るのが怖くなって、立て籠もったとも言えるのじゃないか。
[映画館(字幕)] 9点(2007-12-27 12:21:35)
4.  ミュージックボックス 《ネタバレ》 
だんだん正体を現わしてくる怖さは、この監督お得意の世界。国家の狂気とか権力の狂気を、アーミン・ミューラー=スタールのお父さんからじわじわと滲み出させる。父が絶対犯せるようなものでない犯罪の数々、しかし誰かが確実に行なった残虐行為、証人が次々に「この男です」と父を指差す裁判の場が緊迫。身近な人が得体の知れぬ者になっていく怖さ。裏返せば、こんないいお父さんでも、そんなこと出来る人間なんだ、という怖さでもある。父の笑顔と残虐行為が重なるミュージックボックスのシーンはゾッとする。ただファシストの残虐行為を告発するだけじゃなくて、じゃあそういうことやった人間はどういう人間だったのか、その罪はどこまでその個人が負うべきなのか、ってとこまで問題を拡げてるのが偉い。
[映画館(字幕)] 8点(2014-01-21 09:38:43)
5.  みんな元気(1990)
まだ若い監督(当時)が分かったような人生論を口にするな、って気もするんだけど、でもとにかく楽しんで作っているの分かってそれが楽しい。子ども五人も必要だったかな、とも思えるが、イタリアを回るにはこれぐらいがいいのかもしれない。『東京物語』を大袈裟にしたような話で、場末の医院ぐらいの幻滅がちょうどいいと日本人なら思える、多血質のイタリア人だともっと大仰な幻滅をしたくなるんだろう。私のノートには良かったカットがこまごま書いてあるが、一つだけあげると、娘が走ってきて階段のとこで(カメラは上にあるので上り始めのところで一度視界から消える)少女時代に代わるの。娘のスピード感がそのままで、実に鮮やかだった。イタリア映画は、フェリーニとかタヴィアーニとか話がどうのこうのより、良かったカットを記憶したくなるものだった、そういう監督のの最後がトルナトーレだったか。
[映画館(字幕)] 8点(2014-01-18 09:38:36)
6.  ミラーズ・クロッシング
秋のギャング。渋いの。『ゴッドファーザー』がイタリアオペラをバックにすれば、こっちは当然ロンドンデリーエア。近づく足。床をこっちに走ってくる銃弾。ドア越しに倒れる男。窓辺で踊るように撃たれ続ける男。そして繰り返される「帽子」、これだけは手放したくなかったのね。遠く母国のアイデンティティを保持していたのか。仲間を失っても持ち続けていた。室内シーンが多く、あの森だって深く閉じてる部屋のよう。ギャングものなのに、走らない・動かない映画。J・タトゥーロのバーニーの印象が強く、ただの馬鹿なチンピラには違いないんだけど、「悪魔のような卑屈さ」があって。他人を呑んでかかっている、その恐ろしいほどの世の中に対する軽蔑。いやもっと大きな何かに対する軽蔑でいっぱいになっている人物。彼がいることで、スタイリッシュなギャング映画が、もう一つ記憶に刻まれる作品になった。
[映画館(字幕)] 8点(2013-08-22 09:27:46)
7.  宮本武蔵 一乗寺の決斗
どこかに仕えている侍の物語では忠義がテーマになるが、武蔵にはそれがない。それなら爽やかさを生みそうなものなのに、彼は忠の代わりに「剣の道」という精神主義に目覚めてしまい、人間としてはさらに始末が悪い。精神主義の剣豪の反対側には、家を背負う吉岡一門があり、本作のドラマ性は、その対比から生まれている。今までは対戦相手との了解済みの果し合いだったが(たとえば宝蔵院の阿巌を倒しても寺は恨まなかった)、家を背負った者はその家の安泰を願いだす。家の存続のためなら、あらゆる手段を可能とする。そういう方向へ歪んだ剣術の名門家と、精神主義で研がれすぎた剣の道と、二つの噛み合わない思想が一乗寺下がり松で激突し、少年を含む多くの命が失われていく。ただ立ち回りとして迫力があるのではなく、狂気の氾濫が凄まじいのだ。「寄るな!寄るな!」と叫びながら泥田の中を逃げ回る武蔵は、常に自分を批判的に見ていた唯一の正気保持者河原崎長一郎の目を斬る。主人公が勝つ活劇映画の頂点で、主人公がこんなにも追い詰められて描かれた作品があっただろうか。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2013-06-29 09:28:27)
8.  
三重の苛烈さがある。風土が苛烈。体制が苛烈。そして血族の掟が苛烈。この血族の掟は風土の苛烈さから来ているんで、よそ者が簡単に「封建的だ」と非難することは出来なく、それだけに内部の人間が告発する声は、いっそう真実が籠もる。映画の焦点もこの掟の苛烈さにあったと思われ、それを乗り越えようという意思がもう祈りになっていて、この息苦しさのなかに清澄さも感じた。義兄を見殺しにした男のエピソード、列車のシーンが素晴らしい。血族の掟の一方に夫婦のやむにやまれぬ愛があり、掟渦巻く世界で小さな個室のみが自由になる。単刀直入にほとんど無機的に訪れる決着、それがかえって夫婦の愛を昇華していた。ゲリラの死体検分のときほんとに蝿がたかってたのは、なんか臭うものを使ったのか。あと焼けた針金での虫歯の治療も、これまた苛烈。
[映画館(字幕)] 8点(2013-05-14 09:49:51)
9.  未知への飛行 《ネタバレ》 
核兵器の悲惨を描くのではなく、その「恐怖の均衡」という発想の狂気を描く。この均衡が崩れかけたとき、全面核戦争を回避するためにはどういう「最少の犠牲」が必要になるのか。丹念に不信の構造を見せつけられると、ラストの大統領の決断が突飛でなく、いやメチャクチャ突飛なんだけどこうする以外証明できないんじゃないか、と思わせられる、そこのところが怖い。大局的な世界にひたっていると、ニューヨークという大都会でも、全体を救うための「小さな犠牲」になってしまう。この恐ろしさ。その「最少の犠牲」の大きさに、核の均衡という発想の狂気、そもそもの核兵器を所持しないと不安でいられないところまで来てしまった軍事力に頼る人類の病理、がはっきり感じられた。戦争が終わると国家はいつも「犠牲者は平和への尊い礎です」と黙祷するだけで、その「礎」は戦争が繰り返されるたびに大きくなっていった。そしてこの映画ではニューヨークという都市がそうなる。なんかツインタワービル跡地のモニュメントを皮肉に予言したような映画でもあるな。冒頭にW・マッソーの教授がちらっと見せた黒い心、利益とか権力とかを別にして純粋に核戦争を望む心が存在するということのリアリティ、これはあまり突っ込まれてはいなかったけど大事なテーマで、これを観たときはまだ存在しいていなかったが、オウム真理教なんかを予告してたんじゃないか。
[映画館(字幕)] 8点(2012-05-01 09:50:32)(良:1票)
10.  道(1954)
ジェルソミナのテーマが有名だが、中の音楽はすべていい。フェリーニ映画はロータの音楽とコミで評価したい。中盤のカトリック祭の音楽が、私は好き。ザンパノのもとを逃げたジェルソミナが出会う三人の音楽隊、楽隊と言うほどではなく、祭へ向かう音楽愛好家仲間なのか、管楽合奏で、ミーミー、ミードラファーラド、ミーーファソファ、ミー、と短調だけど陽気に行進していく。ついつられてゆくジェルソミナ。やがて祭の場へ至るとその音楽が、ひなびた味わいを残しながらも重々しく響き渡る。ジェルソミナが綱渡りの男に出会う場だ。この男は背中に天使の羽根のような飾りをつけており、ザンパノの獣性と対照される神がらみのキャラクターのようだが、どちらかと言うとトリックスター的で、ザンパノを裁く役割りでなく同列の扱い。フェリーニにとってはカトリックの神も単純に救いをもたらさないってことだろうか。カトリックってものが、あの音楽によって表わされてた気もするのだ。庶民的にひなびながらもやはり重苦しい面もある、ってところ(フェリーニとカトリックでは『ローマ』の教会ファッションショーの場でも音楽が雄弁だった。ミーレシーレ、ミードラード、ミーシソーシ、ミー、ってやつ。あのシークエンスは映像と音楽のコラボの傑作だった)。フェリーニは『甘い生活』の前と後で世界が変わったようにも見えるけど、たとえばこれのラスト、「一人でたくさんだ」と叫ぶザンパノの孤独は『カサノバ』のラストの孤独で反復されたようにも見え、ちゃんとつながっているんだな。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2012-02-11 10:15:52)
11.  ミツバチのささやき 《ネタバレ》 
最初のうちは「少女の世界をのぞく」映画かと思って観ていたのに、観終わってみると「少女で世界をのぞい」ていたことに気がつく。前半での「なぜ殺したの?」という映画の怪物へのアナの疑問が、後半では小屋の男を殺した世界へ向けて放たれる。死んだふりをするイサベラのアナへのいたずらは(大好きなエピソード)、後半ではベッドに横たわるアナの様子をこわごわのぞくイサベラの姿に反転し、そのときかつて小声でささやきあっていた少女たちの閉じられた世界は、窓の外の世界へと広がりだす。イサベラは猫に引っかかれた傷の血を口紅とするが、アナは世界で起こっていることの血を小屋で目にしてしまう。映画という「嘘っこ」の世界が、内戦という無惨なまでの現実と照らし合わされていく。スクリーンの前に横たえられる死体。柔らかくデリケートな少女の世界でもっと溺れていたっていいのに、と心をとろかしながら観ていると、いつのまにか外界の風が吹き込んできていた、そんな映画だ。けっしてショックで目覚めさせるのではなく「いつのまにか」少女を通して世界を眺め直している、ってところがポイント。童話の舞台のようだった野の風景が、「いつのまにか」そのままで荒涼さを剥き出していた。それにしてもささやき声に満ちた映画ってのは、まず傑作だなあ。この姉妹、アナはもちろんかわいいけど、イサベラもいいのよ。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2011-12-01 10:08:10)(良:2票)
12.  乱れ雲 《ネタバレ》 
終盤、司葉子の心が乱れてからが凄い。それまで明晰な展開で持ってきてて、ここで画面を混乱の酩酊に一気に導く。加東大介の居どころを尋ね続ける森光子の電話、司の廊下の往復、じゃれ合っている新婚客のカットが飛び込み、時計のチクタク音が持続し、割れる茶碗、広い風景に変わって心中捜索の人々。危機感がスーッと滲みてくる。階段の上下で見つめ合い、車中の人となる。バックミラーから見つめてくる運転手の顔(雨のときの雨宿りの二人の男を思い出す)、長い長い通過貨車、そしてゆっくりくねっていくと現われる事故車、さらにくねって旅館に到着し、救急車も到着、担架の怪我人と泣く妻、ここで初めて司が「ごめんなさい」とセリフを吐く。なんかメロドラマの核心を満喫しましたなあ。世間が無表情に周囲を取り囲んでいくなかで、二人がおずおずと、時に緊張し時に馴れ馴れしさを装いながら、近づいていく。新婚旅行の回想では間に合わなかったバスが、この二人の雨のときは意識して去らせていく。そして武満の音楽が入り込んでくる的確さ。もっとこのコンビに作品を作っておいてもらいたかったなあ。
[映画館(邦画)] 8点(2011-04-30 12:20:47)
13.  みどりの壁 《ネタバレ》 
ジャングル開拓におもむいた元都会暮らしの一家の悲劇。詳しくは言えないけど、ラスト近く、川を行く舟がしだいに増えてくるシーンから後、ほとんど字幕なしで描かれる部分が凄く、子どもが作ったおもちゃの水車のチーンチーンと鳴る仕掛けが澄んで響き、じっと黙って食事の支度をしていた母がワッと泣き崩れ、そこでストップモーション、バッハのコラールがギターで聞こえてくる。おそらく映画の締めとして、ほとんど完璧と言っていい。このラストまでは、ややキザな演出でかえって軽めの印象をもたらしていたのが、ラストは正攻法でちゃんと手応えのある重さを持った(アルマンド・ロブレス・ゴドイってこの監督の、もう一つ日本で公開された作品『砂のミラージュ』は、キザのほうに傾きすぎてしまった)。ただ涙だけでなく、政治への怒りが裏打ちされているところがいかにも南米。家族の不幸を描きつつ、それを強いた開拓事業・さらに大統領へと怒りの方向を定めている。その構造だけを見ると、涙と怒りが釣り合って単純になってしまいそうなんだけど、ジャングルでの生活の描写が丁寧なので、映画が豊かになっている。涙と怒りが別々の天秤で釣り合うというより、それが混じり合って迫ってくる。
[映画館(字幕)] 8点(2011-01-23 10:04:56)
14.  ミラノの奇蹟 《ネタバレ》 
大風が吹くあたりまでは文句のつけようがない。日向ぼっこのシーンなんかはイタリア映画の真骨頂。『終着駅』もそうだが、この監督は大勢の人を細かくスケッチしていくのがうまい。占いでヨボヨボのおじいさんに、あんたは将来大物になれると約束したり、風船売りが飛ばされそうになると仲間があわててパンを食べさせてやるとか。ネオ・リアリズムから寓話へと踏み出している。面白いのはイタリアの映画監督って、リアリズムから出発して、みなリアリズム離れのそれぞれの個性に踏み出していっちゃうこと。デ・シーカはメロドラマ作家として洗練し、まだリアリズムの精神を残しているほうだが、フェリーニはああなっちゃうし、ロッセリーニは神がかる、ヴィスコンティはかえって後で初期の作品を観て「この人ネオ・リアリズムやってたんだ」と驚かされたくち。で本作だが、後半は鳩の魔法のいろいろ。ラストを寓話として逃げたと取るか、現実に対する壮烈な批判と見るのか。カトリックの国であることも関係しているのか。ネオ・リアリズムだけでは映画として狭くなっていってしまうという気持ちもあったかも知れない。この飛躍はイタリア映画史にとっても重要なものだっただろう。
[映画館(字幕)] 8点(2010-05-18 11:59:01)
15.  見知らぬ乗客 《ネタバレ》 
映画のブルーノーもそうとう気味の悪い奴だが、原作読んだらもっと気味悪かった。ガイへの一方的な崇拝・好意がつのってて、褒めてもらえると信じて犯行に及んでるの。映画よりもサイコっぽい。また映画だと犯行後すぐに会って、ガイは事件を知る前にブルーノーの犯行と知ってしまうが、原作ではなかなか分からなく、まさか…それとも…とジワジワ疑念をつのらせるあたりが読みどころになっていた(映画はガイのアリバイが不確かなときにやってしまうので、交換殺人の意図があまり生きてない)。映画ではブルーノーの脅迫者としての面が強く、ガイはヒッチコックお得意の「間違えられる男」の面が強調されている。映画と小説とで、それぞれ見せ場の設定を違えることがよく分かった。映画を見直し今回いいなと思ったのは、殺しの前にブルーノーが力自慢のハンマー叩きをやるところ、これから絞め殺す女の目の前で、その凶器となる両手を見つめてから自慢げに腕試しをする、実に気味の悪い奴だ。
[DVD(字幕)] 8点(2008-08-29 10:46:30)(良:1票)
16.  ミザリー 《ネタバレ》 
設定はこの上なく怖い。助けてもらってるという負い目もあるし。でも彼女のヒステリーは、怒るんじゃなく、メソメソしたほうが怖いんじゃないかな。ここまで尽くしているのに、どうして分かってくれないんですか、って泣いた方が。あくまで作家を祭り上げといて、しかし物理的には閉じ込めてる、って。そこを怒る形相を見せるから、力の暴力で怖い見慣れたサスペンスになってしまったかも(アニーの優しさこそが怖いはず)。地道に貯めていた眠り薬をあっさりこぼされちゃう(ほとんど)ギャグがいい。原稿を焼かれた復讐に、結末の原稿を焼いちゃうてのも、作家と愛読者の関係が出ていて、おかしい。作家にとって心血注いだ原稿が目の前で焼かれるたまらなさは、読者にとって結末間際で本を取り上げられるたまらなさと同じで、どちらも残酷きわまりない仕打ちなの。「思い出のアルバム」を見るとこも、怖くておかしい。全体この「怖くておかしい」の線でいった映画だった。不特定多数相手の仕事してる人って、こういう怖さをいつもひしひしと感じてるんだろう。たしかにK・ベイツは怖いけど、ミザリーになりきってる彼女、かわいくもあるんだよな。
[映画館(字幕)] 7点(2013-10-20 10:04:15)(良:1票)
17.  Mr.インクレディブル
小市民となったスーパーヒーロー、巨体を窮屈そうに車に押し込めて生きている。こそこそ人助けをしてガス抜きしてる。ファンの憧れが敵意に変わるというのは、スターの不安でもあろう。アメリカ映画ではけっこうこういった民衆の加害性を描く面があって、あの国民すぐ一体となって興奮しやすい一方、こういう視点も持ち続けているのが偉い。仕種が人間の俳優的なので、急に体が伸びるのが生きる。凍らせる奴がいかにもアニメ的なのといい対照。スーパーヒーローはやっぱりああでなくちゃ、と年寄りが得心しているのがおかしい。マントのギャグはラストの伏線だったのだ。
[DVD(吹替)] 7点(2013-10-04 09:33:47)
18.  M:i:III
これの興味はフィリップ・シーモア・ホフマンの悪役だった。コンプレックスの裏打ちのある人をやらせると絶妙な役者で、何か新鮮な悪役像を生んでいるのではないかと期待したが、ごくフツーの悪漢だった。昔の007映画のように、さしたる必要性もないのに世界中を回っていて、それは嬉しかった。ベルリン・バチカン・アメリカの海上ハイウェイ・上海と、質感の違う風景を並べていくのが楽しい。交通法規を無視しずいぶん巻き添えの事故死者を出してしまっただろうなあ、といった小市民感情からしばし自由になるのがこういう映画の味わいなので、積極的に無視しぶっ飛ばしてるつもりになる。でも悪漢の方だって、ジェット戦闘機持ってるのに人質の警備が粗雑だったり、きっと根は小市民なんだぜ。
[DVD(字幕)] 7点(2013-09-22 09:46:11)(笑:1票)
19.  宮本武蔵 二刀流開眼 《ネタバレ》 
やたら偶然の出会いで話を進めていくのは、大衆小説では珍しくないし、おそらく新聞連載のときはそれほど目立たなかったかもしれないが、書物として続けて読むと、いささかゲンナリする。それをさらに映画では時間を圧縮しているわけで、たしかに「こう偶然出会い続けるのはいかがなものか」と思わぬとこがないでもないが、不思議と本で読むときよりは許せるんだ。とりわけ五条の橋の場なぞ(半分は必然だが)主要人物が勢ぞろいして壮観。まず試合の告の立て札に朝日が当たってくるカットがあり、まるで小太鼓のトレモロのような期待感が醸される。武蔵と朱実、般若面の小僧におつう、駕籠から見ている清十郎、当然のごとく小次郎もやってくる。彼は清十郎のとこに寄食しているし、清十郎は朱実の処女を奪った男で、朱実はいま小次郎と暮らす、という因縁もかぶさる。小次郎は、あんたは武蔵に負ける、と清十郎に予言する。そうそう、橋の下には気を失っているおばばもいる。こういう場面は、映画だといいのだ。本ほど理屈で読んでいるわけではないから、ざわざわと登場人物たちが橋に召喚されていく事態を、絡み合った紐を解きほぐしている気分で眺めていられる。本作で一番嬉しいシークエンス。あとは花の切り口で唸ったりする講談的味わいや、偽の小次郎となった又八が本物と出会い、さらに朱実が絡んだりするときの、背後で聞こえる町の賑わいや祭囃子の効果もいい。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2013-06-23 09:28:31)
20.  宮本武蔵 般若坂の決斗
城から出た武蔵は別人のようになっていたが、城の殿様は完全に別人になっていた(歌舞伎役者から新劇俳優に)。東映社内ではおつうも別人にしたら、という意見もあっただろうが、主要キャストは簡単には別人に出来ないのだった…。さて。ラストの般若坂より、宝蔵院での山本麟一との対決のほうが講談的な楽しさがある。まず呼ばれた剣客が小手調べを丹念にこなして臨み、にらみ合った後あっさり倒されてしまうリズム。音楽がないのもいい。そして武蔵が対戦し、麟一の阿巌がブルンブルン槍を振り回すのも大袈裟で嬉しい。その前の農作業していた月形龍之介の脇をハッと跳ぶ武蔵、現在では笑いと紙一重だが、講談的な愉しみだ。そういった語り物の味わいに満ちた一篇。おつうや又八などは、お荷物になってしまった。江戸時代に入ったとは言え、文化的背景はまだまだ中世で、時代考証の正確さは知らないが、襖の図案などは安土桃山ぶり、宿ったのが奈良の能楽師の家というのもあろうけれど、武蔵の物語にふさわしい。洗練された前時代の文化の中に、無骨な失業武士たちが溢れ、ラストでは散乱する死骸になる。まさにそういう転換期の物語なのだ。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2013-06-18 09:40:04)
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