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パブロン中毒さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 914
性別 女性
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自己紹介 After shutting down my former blog, I'm writing some boring stories at new site. Anyone who's interested in, come along if you'd like to.

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21.  ブエノスアイレス 《ネタバレ》 
いろんな相反する要素が、これみよがしに提示されている。 ということに圧倒されました。 愛と憎、接近と離反、束縛と解放、貞操と浮気、香港とブエノスアイレス、故郷と地の果て、ヘテロとホモ、執着と忘却。 これらは相反するようでいて、そういうわけでもないのだと、いう方向に全体が収れんしていく。のかなと。すごい力ワザであるといえます。 ヘテロ愛は一見全く描かれていないように見えますけれども、実は、ファンとウィンの関係を見ていくうちに、男と女でも、男と男でも、なんだかあんまり関係なくなってくるのです。 ファンとウィンのように抜き差しならないところまで行ってしまった個人と個人は、その性別がどうであれ、もうどうでもよくなってくる。 ウィンが女性であったならば、そのまま「魔性の女に翻弄される男」ということでいいわけですし、ホモ愛「だけ」を描いていながら、ヘテロ愛にも通じる普遍性も表現してしまっている。 しかしまあ…「別れよう」のあとに「いつかやり直そう」となどと続けて言うヤツは、男でも女でも魔性なのですわ。言われたほうは、たまらんなあ。ということです。虫がクモの網にかかったまま、放って置かれるというそんな状態なのですからして。 巧妙な省略によって、重要な部分を「行間」にしている作品でもあります。 結局、ファンとチャンの間に何かがあったのかなかったのかということは、観客の想像の中に置き去りです。省略されたのはこのシーンだけではありません。 香港に帰ったファンはもはやチャンのことしか考えていません。あんなに執着していたウィンのことはどこへ?…これが執着と忘却。 それにしてもまあ、やっぱりこの人は天才です。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2012-01-15 21:42:49)
22.  毛皮のエロス~ダイアン・アーバス 幻想のポートレイト~ 《ネタバレ》 
なかなか良かったです。変態じゃない人も一度は見ていただきたい作品。 ダイアンが己の変態性と向き合うシーンとか、独特で面白い。 変態性と、淑女としての尊厳は両立するのだというところが、微妙なバランスで描かれていてそのへんは非常に面白い。 変態趣味と日常生活が自分の中で共存できるというところが…面白い女性だったんだなあと。 さてロバート・ダウニーJrを選んだことは大正解でした。 あの目ねえ。 あの状態でちゃんと演技できるから大したものだなあ。お面被っているようなのに。 私生活はボロボロでも、やっぱり彼は才能があるなあと。 感情を抑えたハイソサエティの女性をニコール・キッドマンというチョイスは普通に正解なのだが…個人的には違う女優でも良かったかもと思う。クロエ・セヴィニーとかどうだろ。 さてめでたくロバートは多毛症の人を演じた2人目の役者さんになったのだった。 1人目はミシェル・ゴンドリーの「ヒューマン・ネイチュア」でパトリシア・アークエットが演じている。 …しかしこれで、男優と女優が揃ったということで、よくわからないがなにか良かったような気もするのだった。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2011-08-02 23:57:57)(笑:1票)
23.  アメリカン・スプレンダー 《ネタバレ》 
ジアマッティがいい!いつも怒ってる目、最高! 目が怒ったまま、口をゆがめて笑ってもヤなヤツに見えないという、すごい技術である。 怒ってる目には違いないのだが、5%くらい困ってる目が入っているので、ヤなヤツに見えないのではないだろうか。 病院の事務勤めを続けながらマンガの原作で有名になったというハービー・ピーカーだが、私は郵便局勤めを続けながら細々と執筆活動をしていたチャールズ・ブコウスキーと似ているなあと思っちゃった。 どっちもはみだし者だけど本当はインテリで、世の中の自分に対する扱いが不当なんじゃないかとずっと思っているけれど、犯罪に走るとか他人に絡むとかしないで、もくもくと生活費を稼ぎながらその傍ら芸術活動を続けるという…似たタイプですよね。私はこういう堅実な人ってけっこう好きです。 この作品はマンガや吹き出しを映像とミックスさせたり、ハービー本人を出したりナレーションもさせるなど、いろいろ工夫に富んでいます。 私はもう、ジアマッティの怒り目を見ているだけで眼福な気分なもので、とても楽しく見ました。 特に好きなのは、クラムとの絡み部分ですね。クールなクラムに対し、怒っているうえ困っているハービーのコンビがすごくいい。 前半は笑えて面白かったのだが、ガン発覚以降人生万歳的なラストまでは、ほのぼのし過ぎているように私には思えて残念だった。ハービーのような人は、毒があってこそ、でしょう。この作品は、前半が面白い。 あと、難をいえばハービー本人を出しすぎたのではないか。 私はどっちかというと本人よりもジアマッティの演じるハービーのほうを長く見ていたかったのに、欲求不満な感じがしてしまう。ジアマッティはスクリーンの中で観客を満足させるための技術をもつプロなのだが、本人は別にそういうわけではないので露出時間が長いと「もたない」感じがする。 本人はナレーションとTV出演のみに絞っても良かったのでは。なんというか、「歌まねご本人と一緒」で本人が長く写ってしまうと「ありがたみ」が感じられなくなるというようなものだ。 ともあれ、おすすめの一品。ジアマッティ最高。
[地上波(字幕)] 9点(2010-09-14 22:19:57)
24.  海を飛ぶ夢 《ネタバレ》 
傑作だと思います。 テンポも良く、極力セリフを抑えて内容を伝える手法も洗練されています。 さて私が気になっているのはこの映画の白眉といえる「ハビへの詩」でして、じつはこの詩でラモンの事故の間接的な理由も、そして事故前の人生を捨ててしまった理由も、すべて解けるような気がする。 ラモンは飛び込みの際に「他の事が気になって」いたわけですが、この詩によればそれは「恋人に妊娠を告げられた」からだと思われる。そして、事故後に恋人は「結婚したい」などと言いますがそれは妊娠していたからという理由が大きい。ラモンは拒否し、彼女は1人で育てる自信もなく堕胎します(薔薇とは恋人のこと)。 …後年ラモンはこのことを悔い、「生まれなかった息子の魂」が別の赤ん坊となって生まれてきてくれることを願います。そして、ハビが生まれ、ラモンはハビを「生まれなかった息子」の生まれ変わりのように思い、そしてそう信じたかったのです。 もっというと、事故直後のラモンは「こんな体になってしまった事故の原因」であるところの「恋人の腹の中にいる胎児」を恨んでしまったのです。アレさえデキなければ。自分はこんなことには。 それがラモンの罪悪感であって、「ハビへの詩」を書かせたのです(ハビは高校生ですからラモンの子供では有り得ません)。 もうひとつ、ラモンが死ぬことに固執した理由、それは間違いなく「家族のため」です。 だからこそ、死の録画では一切家族のことを語りませんでした。28年間も介護してもらったのに、死ぬときになって感謝の一言もないのは本来の意図を隠すためです。「オレは自分の意思で勝手に死ぬんだぞ」ということにしておきたいのです。「義務」とか「権利」とか言っているのも同じことです。 彼は家族をラクにするために、死んだのです。ハビはじきに高校を出れば家を出て行く。人手が減るわけです。父親はいつボケたり寝たきりになってもおかしくない。被介護者が2人になるわけです。 2年前にラモンが死を行動に移しはじめたのはこのタイミングだったのでした。 ラモンの死は「尊厳死」というより「家族への愛」と呼ぶべきものです。そのことを、ベタベタした家族関係を見せるのでなく、うまいこと表現したと思う。 …ちなみに私は尿カテーテルと点滴を刺されて首しか動かせない状態を3日間くらい経験しましたが、あの状態は拷問としか言いようがない。
[地上波(字幕)] 9点(2010-08-31 22:14:36)(良:3票)
25.  ぜんぶ、フィデルのせい 《ネタバレ》 
ガブラス父の映画で特別好きなものそれは「背信の日々」…パーソナルトップ10に必ず入るあの名作。 ガブラス娘の才能の豊かさにはおどろきました。センスがいい。 説明しすぎない、編集のしかたも潔い、誰の肩も持たない、いや~なかなかこの境地にはたどりつけないと思います。 ストーリーの白眉といえるのは、ずっと伏せられていた「パパの出自」が、かなり最後のほうになって明かされるあたりですね。しかも「伯爵家」だって、まあ笑えます。 アンナは、美男美女のうえ上流階級の父母が「たまたま」愛し合って生まれた子供でした。さて、父母は「たまたま」恋に落ちたのか。…それは育ちがいいものどうし、通じ合ったからですって。パパにしても、ママにしても、労働者階級出身の相手とは恋に落ちなかったわけです。面白いです。生まれや育ちが決して消せないものだということの証明が、彼らが自由意志で選んだはずの「結婚」なんですから。 そのへんのことを、決して説明せずや~んわりと観客に悟らせるあたり、本当にセンスがいいです。 パパの姿にはついゲバラを思い浮かべます。坊ちゃん育ちだからこそ、「下降欲」というヘンなものが持てるのです。私のような貧乏人の娘や大多数の非金持ちにとっては、己の少ない財産を惜しみなく他人に分け与え、わざわざ生活の程度を大幅に落とすなんてことは考えられません。つまり一般人には「上昇欲」しか理解できないのです。「下降欲」を持てるのは、もともと「高み」に居た人だけです。…それがアンナのパパやママ。この作品は「子供」の行動に沿って描かれているけれど、実は「大人が何をやっているのか」を見せたかったのです。「まんま」を見せるより、「子供の行動」の合間に見せるほうが効果があり印象が高まることを実証したと思います。 パパ役がハンサムでかっこいいです。しびれます。 弟のフランソワの扱いもいいですね。アンナの高慢さを中和してくれてます。 ガブラス娘、タダものじゃないです。ソフィア・コッポラなぞとは雲泥の差だ。
[地上波(字幕)] 9点(2010-07-15 17:09:01)
26.  ポルノグラフィックな関係 《ネタバレ》 
まずこの作品がエントリーしていたことに驚きました。 フランス語でしっとりと描かれる大人の男女関係です。 子供もいて離婚経験のある40代女性が人肌恋しさに大胆な広告を出します。 ここでアメリカなら逆手に取って脅迫されるか、ホテルの一室で惨死体で発見されるのが普通です。 でも、全然そうはならない。 現れた男性はごく優しい普通の人でした。そんなアホな。 男性はヘンタイでもなく犯罪者でもなく、金目当てに脅迫もしてきません。そんなアホな。 ああ~私はFOXドラマの見過ぎなんでしょうか。 インタビューで女性側がいろいろウソをついていることとその理由を想像してみることや、別離後の二人が外見を変えていることも、面白いですね。あのころの自分を早く忘れたい。もう、あの人と会っていたときの自分ではない。もしもどこかで偶然会ったなら、気がつかれないか、「見違えた」と思わせたい。「あの後の相手の人生には、きっと色々な出来事が起こっていたのだな」と思わせたい…。 結局のところ、男性の意気地なしが原因で別れてしまうのですが、長所は短所でもあるのですね~。 「優しい人」は「優柔不断」でもある、と。 そうでなければ、とっくに他の女が目をつけて妻か恋人がいるにきまってます。 秀逸なラストでした。きっと誰にでも経験がありそう。街角で見かけた元恋人を、黙ってやりすごす…。なんてせつないんでしょう。そんな時の相手は、かっこよく華やいで見えるものです。 女性の年齢をかなり高めに設定したことでリアリティが出ましたし、ヨーロッパの知らない俳優が演じていることも見る側にとっては条件が良いと思います。 ひとついえば、インタビュアーはどういうシチュエーションで質問にこぎつけたのかという疑問が残るが、こういう大人のロマンスをもっと作ってもらいたいものだ。 多くの大人に鑑賞後のせつない気持ちをぜひ味わって欲しいですね。
[地上波(字幕)] 9点(2010-06-15 17:10:56)
27.  ネットワーク 《ネタバレ》 
脚本演出編集どこをとっても古さを感じさせず、シャープでエッジーでかっこいい。 35年前の話だということが面白さを全然損なわない。 TV業界、ひいては資本主義経済、マネーメイクスセンスの世界を鋭く批判した作品です。 あえていうなら、ウィリアム・ホールデンとフェイ・ダナウェイのロマンスが…分別ある愛妻家のマックスが、妻を捨ててイカれたギョーカイ女に走るところのへんが…ちょっと説得力に欠けるかなあ。 ダイアナの魅力に逆らえず自ら誘いをかけていくマックスが、己の矛盾に髪をかきむしってもだえる場面とか、必要ないでしょうかね。そんなんヤボというものかな。 でもなんか飛躍しすぎ…キミの書いた脚本に乗っかっているというふうに説明してますけども、私には具体的にいつどこで何がマックスに一線を越えさせたのかがよくわからない。 とこだわるのは、この話は誰が主人公なのかはっきりしない(もちろん、意図的にですが)ようになっているわけで、その中で強いていうなら最もマトモな人物であるマックスが観客のよりどころになるからです。このイカれた登場人物たちの中で、百歩譲って誰にならなれるかといったら男も女もマックス・シューマカーしかいないですよね。 ともあれ、50年後にも見てもらえる、価値のある一品。 *クレジットにジョン・カーペンターの名前があったけど…別人?
[地上波(字幕)] 9点(2010-06-11 22:15:49)
28.  ダーウィン・アワード 《ネタバレ》 
筒井康隆の短編にもマヌケな死に方をした人の年表ってのがありました(フィクションです)。 この作品は、マヌケな死に方の再現部分がとてもおもしろくて、つなぎとなるファインズとライダーの部分がいまいちつまらないというバランスの悪い残念作です。 マヌケな人びとを見ているのってどうしてこんなに楽しいんでしょう。それも、そこそこ名前のある俳優が演じているうえ、演出がナチュラルなのでフツーの市井のマヌケな人を見ているようで、このユルさ加減がとても楽しいです。 それなのに、ファインズとライダーのシーンはどうしても「有名俳優がシナリオ通りに演技しています」という感じで、要らないロマンスを無理やり詰め込んでしまって残念です。 とにかくロマンスを入れなきゃいかんというのは、もうこれは彼らの病気かもしれないなあ。この話にロマンス要らないでしょう。 ロマンスを入れなきゃいけないと思うからファインズなんて持ってくるので、ここはスティーブ・ブシェーミなんかが丁度いいと思うんです。 とにかくボランティア参加(と思われる)俳優陣は、みんな楽しそうでユルくていい感じ。どうせならアークエット家は姉妹の参加も欲しかったところ~。特に、ロケット男のバカ友を演じたブラッド・ハントが光っていて「ヨーロッパとか?」のボケがたまりません。あと、お約束としてこういう場合、カメラマンは最後まで顔を出すべきではありませんね。 エンドロール後のおまけに似たパターンを見た覚えがあるが、なんの映画だったか思い出せない…ダッチワイフがアジアに着陸するシーン…。 ちなみに字幕の翻訳が的を得ていてとても良かったです。このくらいの訳が丁度いいです。一箇所間違いがありましたが。クリス・ペンが「It’s effective」と言うところを「(犬が)くわえたぞ!」と訳していましたが「(導火線に)火がついているから爆発するぞ!」の意味です。まあ彼は割舌が良くないので私も10回以上ヘッドフォンで聴いてみてやっとわかったけど。 ファインズとライダーのシーンをバンバン飛ばしながら、大笑いして見るのが正解です。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2010-04-09 17:23:15)
29.  ジョン・カーペンターの要塞警察 《ネタバレ》 
リメイクのひどさにさんざ悪態をついたのち、ちゃんと全部見ました。 オモロイわ~。 「要塞警察」の正当なリメイクは「ゴースト・オブ・マーズ」だったというべきですね。 カーペンターは、「要塞警察」では逃がせなかったウィルソンを、アイス・Tを逃がすことで逃がしてやったということです。 低予算短期間でこんなオモロイものを作れるとは、今さらしつこいけどカーペンターはスゴい。 このカーペンター独特の音楽、ベンベベベベン、ベンベベベベン、ちゅうお約束のベースノートがイカしているぞ(なんとなく笑えるけど)!カレ独特の「間」もこの時から健在だ。いきなり子供は死なす、黒人警官が主人公、掟破りとはカレのことさっ。 カーペンターの「間」って、いったいなんなのかと考えるに、現実の出来事ではマヌケな間って必ずありますよね。フツーにドラマや映画を作るときには「間」を摘んでドラマティックにしますけど、そのほうが見やすいですけども、リアリティを損ねるには違いないです。「間」を摘むほど、「舞台」に近くなります。カレはドラマに照れているうえ、「舞台」も嫌いなんだと思う。なおかつこの「間」は笑いも狙っています。 さて、「要塞警察」鑑賞中、私はゲラゲラ笑いました。登場人物の全員がシリアスであるにもかかわらず、いや超シリアスであるほど笑いを誘うようにちゃんと設計されています。 たとえばウィルソンですけど、こんな状況でも女に色目を使いつづけるという、もう「救いようがないほどバカなアメリカ男の生きざま」とかね。まるでそれが「義務」であるかのように、女を口説き続ける姿は、笑えるしなんだか憎めなくなってくる。「この期にいたってまだ口説いてるよ」あ~あ。あと、この状況でいきなり「シリアスじゃんけん」とかね。ほかにも笑いどころ満載。 ゲラゲラ笑ってください。カーペンターもそうしてほしいと思ってます。きっと絶対。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2010-03-14 18:00:53)
30.  ブレードランナー/ファイナル・カット 《ネタバレ》 
ファイナルカット版がCSに登場。 やたらな日本語の看板が前にも増して強烈。 「コルフ月品」はいつ見ても笑ってしまうけどCGでなんとかしないのだろうか。 以前ここのレビュワーさんが「銀シャリ映像」と表現していたのに感心したことがあるが、今回、その銀シャリ感は低下しているように感じた。 キレイな映像で見ているうちに、ある妄想がめばえた。神は自分に似せて人間を作ったというが、それが事実かどうかは置いて、もしかして神は人間よりショボくてダサかったりするのではないだろうか? そう、タイレルとロイのご対面シーンでまさにひらめいたのだった。タイレルはロイの20倍の寿命があるというだけで、見た目も頭脳(チェスに象徴されている)も己の創造物よりはるかにショボいのである。 神は人間を自分よりも上等に作ったのではないだろうか?けれども儚い寿命で。 キレイな映像はそんなことを思わせました。 また、俳優たちがいかに自由にやらせてもらっていなかったか、つまり細部にいたるまで監督の思い通りに動かされていたかもよくわかる。「何をしているかもわからず駒のように動かされていた」と怒っているハリソン・フォードや「暴力的で屈辱的なラブシーンだった」と憤懣やるかたないショーン・ヤングの言葉が実感として感じられる。 ガフがデッカードたちを黙認して逃がした理由は、デッカードの寿命がもう長くないためではないだろうかと思った。そうすると、レオンやロイが死の恐怖を繰り返しデッカードに迫ったシーンが生きてくる。 タイレルは「人間を超えるスーパーレプリ」を目指してレイチェルを作り、デッカードはたぶんそれより前に開発された「退治用レプリ」のはずで、それにしても弱っちくみえるけれど全体で考えるとデッカード型のレプリは「まず射撃能力(逃げるゾーラや回転するプリスを確実に撃つ)」「細部の認識能力と因果関係類推能力」などを優先して設計されているみたいだ。 鳩のシーンは何気なく見逃しがちだが、人造物たるロイに魂が宿っていたこと+魂が不滅であることを作り手が肯定していることになるから本当はもっと驚くべきなのだろう。 最後に、ロイとの対面シーンでタイレルがしゃべっている内容は、最近話題の「動的平衡」概念にかなり近いです。福岡伸一が本を書き出したのは最近ですから、ブレードランナーの場合はシェーンハイマーの影響によるものだと推測されます。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2009-04-04 13:48:26)(良:2票)
31.  愛しのジェニファー 《ネタバレ》 
登場人物たちは決して笑わないけれど、見ているほうはゲラゲラ笑ってしまうタイプのエログロコメディ。 そうですコメディと呼ばせてもらいたい。冒頭のシーンで、すでに主人公のラストシーンが想像できてしまうというオチ割れ甚だしい話であるのだが、それでも見せてしまう、途中で笑えるから、アルジェントってばすごいやつ。 しかしまあ、ジェニファー役の女優さんはよく引き受けたものだと思いまスだって、どんなに演技をがんばっても誰にも顔を覚えてもらえないじゃないですか。出るだけ損だと思いますけど、あのピンと張ったバストだけはみんなの記憶に残るでしょう。 1時間もらってホラーを作るとして、これくらい面白いものを作ってくれたら私は満足です。アルジェントはもっとコメディに精を出してもらいたいです。素晴らしいです。満点にしたいけど短時間ということで。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2009-04-01 16:43:20)
32.  ブルー・イン・ザ・フェイス 《ネタバレ》 
い~~ですねーっ。 キラ星のごときスターたちが、フラッと訪れてはなにかヘンなことをやっていく。 タバコ屋のオヤジであるカイテルの常に一歩引いたスタンスが、有りそうで無さそうで、でも有り得たとしたらとっても難しい生き方だろう…と思わせます。 どのへんまでが脚本でどのくらいがアドリブなのか…というのもこの作品になお興味をそそらせます。 あんまりにもナチュラルなのでほとんどアドリブなのかと思わせといて、実はドットの妙な態度のデカさは店主の妻だったせいということも最後のほうで明かされるし、ヴィニーが店を売りに出したというエピソードを主軸にした、けっこう緻密な構成がされたうえでのナチュラルさ、なのではないかと考えています。優れた作品は地道な計算のうえに成り立っていると思うからです。…が、どうしても演技とは思えないのがルー・リードで。 ルー・リードが繰り返しあらわれて人を喰った話しかしないことがなんともいえぬリアリティをかもし出し、「ルー・リードのとこだけもっかい見るかな」とまで思わせます。芝居が見えてしまっているジム・ジャームッシュよりなんといってもルー・リードです。 自閉症のジミーの後姿も印象的だし、短パン姿のイっちゃってるM・J・フォックスもいいし。マドンナがあらわれた時は、すぐには気がつかず「なにか妙にごっつくて顔色の悪い姉ちゃん…」と思われた。 人種問題の双璧とされる(?)スパイク・リーの「25時」、ポール・ハギスの「クラッシュ」と比べて見てみましょう。もうシリアスはおなかいっぱいです。流血も殺人ももうけっこうです。「混沌を愛でる」とはたぶんこういうことなのです。「愛でる」ということは「マジにならない」でありそれは「一歩引く」ということです。ハギスを見て考えこんでも、暗い気持ちになるだけです。ならば、「混沌」は「愛でる」のが正解ということなので、スコセッシの初期作品でイキがったチンピラをしていた若きハーヴェイ・カイテルが30年後にたどりついたところそれが「ブルー・イン・ザ・フェイス」なのです。 合言葉は「俺は吸い込んでないから」。すばらしい。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2009-01-16 16:26:55)(良:2票)
33.  ステップ!ステップ!ステップ! 《ネタバレ》 
他のどんなツクリモノの画もはるか遠くに霞んでしまうほど、すんばらしいです。 ここで大人たちがしようとしていることは、子供に「成功体験」をさせることです。必ずしもトロフィーを勝ち取ることだけが「成功」なのではなくて、舞台の上でダンスを披露し多くの他人に評価してもらうこと、そのこと自体が子供たちにとってすでに「成功」といえるのです。 大人たちは、子供たちが不良化していく原因について、「成功体験」が不足していることがいけないと考えたのですが、それはまったくその通りで、運動でも勉強でも音楽でも得意分野で誉められる体験をすることが、その後の人生の土台になるのですたぶん。 そして、特に不良化しやすい男の子にとって有効なのが「ジェトルマンシップ」であり、これを教えるのにダンスはとても適しているのです。 「ジェトルマンシップ」とは日本語には正確に訳せないのでしょうが、もともとは「貴婦人」と対になっている騎士道精神のようです。指導者は「ダンスの間、女子を楽しい気持ちにさせてあげること」と言っています。だから、「貴婦人」の居るところでは男子は「ジェントルマン」でなければならないし、逆にいうと女子は「貴婦人」でいなければならないし、女子は「ジェトルマン」でないと判断したらばその男を排除します。 私は日本人のプロ社交ダンスを見ていても全くジェントルマンシップを感じませんが、エレベーターに我先に乗るような社会で暮らしていて形だけ真似してみたってダメなのは当然です。この映画に出てくる少年たちのほうが断然それを身に着けています。 不良になるとジェントルマンでなくなり、ジェントルマンでないと不良化しやすくなり、その逆も真であるかもしれない。「男子はジェントルマンたれ」と教えるあちらの大人はとても賢いと思う。 ちなみに日本では筒井康隆が「すべての男は二枚目を気取れ(そうすれば世の中が良くなる)」と言ったのが唯一それに近いです。 インディゴチームの年長のケビン(たぶん)がトロフィーに見とれているシーンに「不良予備軍だった彼はもう大丈夫です」という指導者のナレーションをかぶせて終わる演出に、もうウルウルが止まりません。彼にはこの先どんな人生が待っているのだろう。どんな時にも、このトロフィーの輝きが彼の支えとなっていくのですたぶん。そう思うと、おばさんはまだまだウルウルが止まりません。すばらしいです。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2008-12-27 13:07:20)
34.  裸のランチ 《ネタバレ》 
10年以上前の初回視聴時の感想はずばり「退屈」であっため、2度と見ない作品リスト入りしていたのだが、見る側の経年変化というものも考慮し「CSでやっているならちょっと」と見始めて見事ハマる。 「クラッシュ」でも書いたけどこの監督さんの作品を楽しんで見るためには「コント」という前提で見るのが正しいのでは。「あんまりマジメに考えない」で「相当ブラックでグロテスクなコント」を見ている感覚で、作り手の意図した「笑わせどころ」にちゃんとはまっていってあげるのが、楽しく見るコツなのではないだろうか。 松本仁志のコントをスケールを拡大し芸術性を高めて高尚にしたもの…ということであんまり間違っていないと思います。もちろん、バロウズの原作というものがあり、映画であるので、私の見たところでは1箇所「意図的にコント世界をはずれて現実世界を注入した」ところがあって、「ところでそろそろキミの創作活動と麻薬常習との関連性について聞こうじゃないか」と友人が言うんですね。 こういうマジメなセリフが、爛れた妄想世界の中で突如として発言され、そして「無視される」という展開。バロウズが誰か他人から現実に言われた言葉であろう、そして「最も言われたくない」が「最も無視できない」言葉。ちゃんと入れてきてます。 作品全般に「んなアホな」と突っ込みたくなるシーンが満載で、ピーター・ウェラー演じるウィリアム・リーは「突っ込み」担当なのですが、クローネンバーグの演出により繊細に計算された「限りなくノーリアクションに近いリアクション」芸を展開することでボケを際立たせています。かなりギリギリの芸です。 ラストも大変練られたもので、文学的でありかつコントとして成立しているというやはりギリギリ芸。 「作家であることを証明してみろ」と言われて「んじゃ、気は進まないがウィリアムテルごっこだ」「なるほど、確かにおまえは作家」てな、完全コントでなおかつバロウズの抱いていた根本的問題や苦悩を落としどころに幕引きしてみせた。 「クラッシュ」でも書いたがクローネンバーグが大笑いするネタというのは一般人の顔がひきつるレベル。 ゆえに「天才は孤独」なのだが、本作はバロウズというクロを上回る変態じゃなくて天才とのコラボでどちらかというとクロの変態度が小さく見えるほどである。怪作。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2008-10-08 13:35:07)
35.  テンダー・マーシー 《ネタバレ》 
いわく言いがたい傑作です。 他のレビュワーさんがおっしゃるように、大したことが起こらない=つまらない、というような見方もありましょうが、私にとっては「そこ」こそがこの映画のツボである。 ここには、必要以上の対立もなく、必要以上の希望も絶望もなく、人々は神の慈悲に委ねて淡々と日々を生きているのです。激しすぎる愛や暴力や死別の悲しみは、ここでは「過去のもの」だからなのです。そのために、私好みの大変繊細な抑制のきいた演出がされています。 壊れた男マックが、偶然拾われたモーテルで小さな幸せを「発見」していく過程は穏やかで美しい物語です。彼が過去に知っていた幸せとは、もっとデカくて絶対的な幸せだったからです。 そこに、次から次にマックの「過去」が追いかけてくる。けれど、「小さな幸せ」の味を知ったマックは、「もう少し生活がラクになる程度」の望みしか抱かない。もう一発当てて、返り咲いてやる、というような野心は持たない。実に正しい態度です。 娘が会いに来ても、鳩の歌のことを忘れたと嘘を言います。この理由ははっきりしませんが、もう娘にとって自分は必要ないから、という意味ではないだろうか。今さら父親に期待を持たせないほうがいいということなのか。 色々なことが、緩やかに好転し、マックは洗礼を受けます。主は自分を見捨てていなかったと知ったからです。 しかしマックが過去にしたことがすべてチャラになっていたわけではありませんでした。娘は、父親の不在に傷ついて育ったため、ちょうど出て行った時のマックと似たような男を好きになってしまいます。酒飲みで、ミュージシャン崩れで、離婚歴があって、自分よりずっと年上の男です。この原因は元を辿ればやはりマックにあります。 マックは娘の死を受けて、神の慈悲を疑います。自分のようなダメ男を生かして、なぜ娘を奪ったのかと。 そして、マックは受洗したばかりの自らの信仰を維持していけるのだろうか。というところで映画は終わるのです。ラストのソニーとのフットボールシーンは、それでもマックに残された「小さな幸せ」の存在をあらわしている。 こういう抑制のきいた映画をもっと見たいですね。 カウボーイハットの中にはハゲがなくてはならないのは必然です。ロバート・デュバルとサム・シェパードは甲乙つけがたいベスト・カウボーイハッター(変?)だ。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2008-07-25 13:53:34)
36.  ブラックブック 《ネタバレ》 
ネタばれますのでご注意を。 ややこしいので一貫してエリスでいこうかと思いますが、物語がはじまってから彼女が知り合う人間の中で、「信用してしまいそうだけど絶対に信用してはいけない人間」はいったい何人いたでしょうか。 私の計算では、ファン・ハイン、ハンスの2人だけです。意外に感じられると思いますが、フランケンとかナチの将軍のように「悪い奴」と顔に書いてある人間は、信用してしまう可能性はまずないので安全なのです。彼らは脅威ではない。 本当の脅威は「信用してしまいそう」な人間のほうです。エリスはその2人を信用してしまいます。 けれどもわりとのん気に育ったらしきエリスは、そんなこと見抜けるわけがなく次々と騙されるわけです。 しかし、本当は、エリスが信用した相手のほとんどが、つまりその2人以外が「信用してもいい人間」だった、ということのほうが驚かなくてはいけないのかもしれない。 居心地の悪かった最初の隠れ家の住人も、次のヨットの彼氏も、川の虐殺から逃れたエリスを救ってくれた農家の人々も、ハンス以外のレジスタンスのメンバーも、愛するムンツェも、愛人仲間のロニーも、「信用してもいい人間」だったのです。 ということは、この混乱の時代にあって、世の中のほとんどの人間は信用してもよくて、その中にとても邪悪な人間が2人いました、というようなバランスになる。広いお花畑の中に、2箇所だけ地雷が埋まってる感じ。 エリスは信用してはいけない人間を信用してひどい目にあいますが、めげずに最終的には信用してもいい人間と共に復讐を遂げます。そうですたぶん、人は、地雷が埋まっているからといって、お花畑を歩かないわけにはいかないのです。 貴金属や現金で話が始まってキブツのシーンで終わるということは、この映画が、ユダヤ人が長年の習慣を捨て財産を動産から不動産に持ち替えたプロセスを描いたものといえるでしょう。  評価をいただいたあとですが一部訂正しました。エスねこさんご指摘ありがとうございました。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2008-07-21 00:29:54)(良:4票)
37.  遠い夜明け 《ネタバレ》 
高校生の時、同級生の女子が父親の仕事の都合で南アフリカのヨハネスブルグへ行くため退学した。今思えばそのころビコはもう死んでいて、マンデラはまだ刑務所だった。 彼女のためにまわってきたサイン帳に「むこうで名誉白人扱いされても思い上がってはいけない」と迷わず書いた。私は生意気で血の気の多い意地悪な高校生だったので。 私と南アフリカの接点はそれしかなかったのだが、この作品を見ていろいろ調べたり考えることになった。 この映画は、マンデラが大統領になる前の作品だという前提で見なければならないだろう。 また、マンデラとビコの対比について考えざるを得ない。 マンデラが27年間も殺されなかったのになぜビコはあっけなく殺されたのか。 マンデラは部族の長の家系だから、日本でいったら皇族に近いだろう。皇太子がレジスタンスの指導者になって逮捕されたら、殺すのと人質にしておくのとどちらが有効か。そういうことなのではないか。 いっぽうビコはどこの馬の骨かわからない貧民街生まれ。 エンディングの獄中死亡者名を見ながら、ビコが死んでマンデラが生きのびた意味を考えていた。「殺す」のが当たり前であって、利用価値のある者だけが例外的に生かされたのだ。 そしてビコはたぶんそのことがわかっていて、「なるべくならあまり早く死なないほうがいいけれども自分の場合はいずれ殺されるだろう」という前提のもとに活動していたとしか思えない。そして死んだ場合には、それが運動のために「価値ある死」になることを望んでいた。 逆にマンデラは、「自分が死なないこと」に全力を注いで獄中を生きたのだと思う。 結果的に、両者とも正解だったことを歴史が証明した。 ビコたちが命を捧げた戦いに一応の勝利をおさめたというのに、「エイズ」という新たな敵が南アフリカを滅ぼそうとしている事実は皮肉である。 映画の構成としては、冒頭で公権を剥奪されたビコの不自由さを第三者的に見せておいて、後半でウッズが同じ立場に立たされてはじめてビコの気持ちを知るあたりなどうまい。もう少し、ウッズ家以外の白人社会の生活風景を描いて、黒人社会との差を見せるべきだったか。ビコの拷問シーンをカットしたのは正解。デンゼルは出番少ないが、ラストのウッズとの電話シーンがビコ役のすべてを決めた。デンゼルは確かにビコだった。リチャード・アッテンボローの勇気に敬意を表す。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2008-07-20 20:19:57)(良:2票)
38.  クジラの島の少女 《ネタバレ》 
おそらく作り手が己のルーツに敬意を捧げた作品であるとともに、フェミニズムの映画なのですね。 「フェ」と言っただけでそっぽを向かれそうですが、どう見てもそういうメッセージが込められた作品なんだから仕方ない。 マオリの族長の家系というシチュエーションを借りたうえでの、「男の子じゃなかった」という理由でいろいろな不便や面倒を感じながら成長してきたすべての女の子へのメッセージ、癒し、でもあるのだと思う。 マオリの人々の祖先は、約1千年前にニュージーランドに移住して住み着いた。何百年か経つと、そこへヨーロッパ人がどんどん入ってきて、数においてマオリのほうがマイナーになってしまった。 けれど、パイケアの祖父コロのように、「高貴な血」をもつ長たちは、文化と伝統の灯を絶やすまいとそのことのためだけに生きている。個人は100年もすればどうせ死ぬ。個人が死んだ後に引き継ぐことができるものは文化だけだ。文化が引き継がれなければ、人はただ生まれて死ぬだけの存在になる…族長コロを見ていると、その信念が痛いほど伝わってくる。 パイの父は優しいが弱い男であったため、妻の死に耐えられず育児も教育も後継者としての義務もなにもかも放棄してヨーロッパへ逃げた。そして何年かしたら、考え方もふるまいもヨーロッパ人になっていて、金髪碧眼の女と勝手にくっついていた。彼は族長の重責を担うには優しすぎたのだ。 後継者探しにやっきとなった祖父のもとで「男の子じゃない」というだけで、隠れて棒術の練習をしなければならないパイ。自分より劣る男子たちが祖父から教わっている内容を、物陰からじっと観察するパイ。…このへんではもう完全にウルウルしてしまっていけない。 世界中の女の子たちは、みな多かれ少なかれパイケアと同じ経験をしてきている。 心の中で、何度「パイケアのような優秀な子が男子だったら」と思ったかしれない祖父が、「女子でも後継者」と認めるまでには、クジラの座礁という不思議な現象とパイ本人の命をかけることが必要だった。「優秀」というだけではダメなので、本当に女子の行く先には難題山積である。 ラストで不肖の父が戻ってきているあたりは、やりすぎハッピーエンドの感があるし突っ込みたくなるところだが、とりあえずは祖父とパイケア両人の健気さにやられました。泣きます。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2008-07-16 20:06:09)(良:2票)
39.  有罪判決/法廷に隠された真実 《ネタバレ》 
ひさびさに見ごたえのある法廷ものを見た。 これは殺人事件とか法廷に場所をとっているというだけで、本来は心理モノとして見るのがいいと思う。ハリーが3人を殺害するについては、事前準備や殺害の詳細についてさえ全く描写されない。観客は「罪を犯した」という動かぬ事実として知らされるのみ。事件モノでは全然ない。 主人公の弁護士ロイが、自宅に帰らずあちらこちらを忙しく往復する様子を時間軸に沿って描く話だが、その訪問先の空気感の違いに注目したい。 ロイ対ハリーの場面では、交わされる言葉は少なく、すべてが深く重く、心の奥に突き刺さる。教会とか、病院のカウンセリング室とか、そういう空気感がする。 ロイ対「俗悪にまみれた勝ち組の人々」の場面では、すべての会話が「利益」を中心に回っていて、「利益」を超える価値観はそこには無い。ハリーとの対話で「神」とか「罪」とか「償い」とか「慈悲」についてしみじみ語り合った後に、思い切り脂ぎって「次の検事選に」とかいう会話をしているわけだ。この落差が見事である。 そしてもうひとつ、忘れてならないのはロイ対メル(事務所の手伝いのおっさん)だ。 メルの役どころとは何か。それは「俗悪にまみれて勝ち組を目指しているロイの心に埋もれた良心」である。ロイは、己の行動に自信が無くなったとき、メルに「これでいいのか」とたずねている。 バーでのウィスキーによる「洗礼」場面は、奇異に感じられるだろう。ロイに「これでいいのか」と聞かれていたメルの答えは「洗礼」だった。洗礼を受けるということは、メルの言うとおり、「天国へ行くか、地獄へ行くか、どちらかしかなくなる」ということで、メルは「ここから先は、常に〝何が正しいか〟を意識して行動しろ。さもなくば地獄行きだ」と言っているのだ。自分で決めるしかないのだ。 ハリーの妻との密会については、法廷でハリーに妻を責めさせる材料とするための強引な設定だったと思う。ハリーの無念さをそそってドラマ性を高めるための材料とはいえ、主役がアレック・ボールドウィンなのだから、依頼人の妻を食ってしまうなんてあまりにも当たり前に過ぎて、気に入らない。これは非常に残念だ。 が、全体としては見事な脚本とキングズレーの怪演で良作に仕上がっている。私には、ハリー、ロイ、ハリーの妻、メルのセリフは、ひとつひとつ深く心に落ちるものだった。なかなかそういう作品はない。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2007-12-17 14:30:51)
40.  DISTANCE/ディスタンス 《ネタバレ》 
敦の視点でちょっとこのストーリーを眺めてみよう。 何を生業としていたかわからないが、お父さんとお母さんと兄弟が居て普通の家庭があった。なぜか父は百合の花が好きで、いつも玄関に飾っていた。 その家庭に異変が起こり、母は「私と結婚したこと後悔しているんでしょう。子供は可愛くないんですか。」(ここのセリフめっちゃ音が小さい)と父を責め、父は言い訳しながらも、ある日家を出て行く。その後敦は花屋で働き、同僚の夕子と付き合って川に遊びに行ったり、夜明けの街で深遠な会話を交わしたりする。が、弟に自殺されたトラウマをもつ夕子はよりによって父の作った宗教団体にハマって、出家したどころか、テロの実行犯となって、自決してしまう。敦の父も、追い詰められて自殺した。ショックを受けた敦は、庭で家族の写真を焼く。 その後敦は、教祖の息子としての罪悪感から、実行犯の親族と思われる病人を訪問したりしてせめてもの奉仕に励んでいたが、夕子への思慕が消えず、実行犯の気持ちなどを知りたいと思い加害者遺族と偽って、湖への墓参に同行することを思いつく。 過去の映像が群像劇風に入るのでわかりにくいが、この話は敦を中心に考えるとすっきり整理できる。というか、〝教祖の息子〟という主人公が最初に存在して、後から周辺の肉付けがされたストーリーなのだ。 〝その後のユダ〟としての坂田(浅野)の有り様は、なかなか興味深かった。エリートでもないのに実行犯に選ばれた理由は、「忠義心」が突出していたからでしか有り得ない。けれど、それは本物じゃなかった。そして、〝その後〟の人生においては、己の存在がいかに小さかったかということに弁明これ努める。彼は悪人にすらなれない。なんという、人間臭さだろう。ユダ本人を髣髴とさせるに充分だ。「人間とはこういうもの」是枝監督のつぶやきが伝わってくる。 百合の花は〝死んだ人の花〟である。百合は強烈に線香の香りがする。そんなものを常に玄関に飾るなんて奇妙だが、監督はそれを教団のシンボルとしている。最初から〝死〟を背負っていた団体だったという意味だと思う。 リアリティを追求したアドリブ風の撮り方は見づらかったが、そんな空気の中では比較的〝浮いていた〟夏川、寺島の存在が、最後まで見させてくれた。 社会問題と謎解きの両要素が盛り込まれ、映画としては大変面白かった。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2007-09-18 13:08:01)(良:1票)
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