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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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21.  2001年宇宙の旅
光の急流が起こるまでは、ほとんどゆっくりした動きが主流。宇宙船は猛スピードで飛んでるのだろうが、背景がないので画面上はゆっくりとした動きに見える。無重力の宇宙船内では、吸着靴のせいで、たどたどしい歩きになる。宇宙空間ではゆっくりとした遊泳になるし、人が走るのは体力保持のランニングぐらい。一番激しい動きは、非常脱出用の爆発で本船へ戻るシーンだろうが、その激しさを宇宙空間の無音が飲み込んでしまう(全体音への配慮が緻密)。死はドラマチックでなく、生命維持装置の直線や、デイジーの歌のスピード低下で表現される。宇宙ステーションの回転に合わせたヨハン・シュトラウスのテンポが、全編に持続している(全体音楽への配慮が効果をあげている映画で、リヒャルト・シュトラウスやリゲティをそこで鳴らすのは考えつきそうだと分かるんだけど、あそこにウィンナ・ワルツを持ってくるのはすこぶる非凡)。この「ゆっくり」で押していった後に光の急流が来る。効果は絶大で、まして本作を初めて見たのはテアトル東京の大画面だったので、脚が攣るぐらい興奮した(ああいう前方への疾走は大画面でより効果が出るよう、『地獄の黙示録』のワルキューレの騎行シーンもテアトル東京で見た最初のときが一番興奮した)。それまでゆっくり慎重に歩んできた「宇宙の旅」が、ここで疾走する。未知のものに立ち会うときの慎重さが、未知のものに呼び込まれていく急流になる。ここでヨーロッパ近世風の部屋になるのが、分からないながら昔はキズに思えたが、彼のほかの映画でもあそこらへんの時代への偏愛が見られ、なにか人類にとって一番いい時代と思ってるのか、それでそこから新人類の誕生を願ってるのか、などと理屈をこじつけてもみた。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2013-07-27 09:27:41)
22.  カオス・シチリア物語
この映画のメモは私のノート4ページに渡って記されている。当日に書けたのは第ニ話までで、その翌日に第四話・エピローグまでを何とか記している。上映時間よりかかったか。それほど記憶にとどめておきたい作品だった。オムニバスなの。鈴をつけたカラスが飛びながら目にした物語、という趣向で、そのイマジネーションだけでまいっちゃう。私が思うにイタリア映画黄金期の最後を飾る名作だったと思う。汚い字を読み返すだけでも大変なので、いちいちには触れない。四つの物語は「定住と自由」といったテーマで括れそうで、4「レクイエム」の土地からも、やがて1に登場するようなアメリカへ向かう者が出てくるだろうし、彼らの前身は3「甕」の農民たちだったかも知れず、2「月の病い」の妻が1「もう一人の息子」の狂女になってもおかしくない(3だけスタイルが変わっていて民話的、第三楽章ということでスケルツォに相当するのか)。その編み込まれた感じが全体を豊かな世界にしている。私が好きなイタリア映画の味って、こういうのなんだと深く納得したのであった。
[映画館(字幕)] 9点(2013-04-27 09:58:27)
23.  スミス都へ行く 《ネタバレ》 
アメリカ映画で優れている部門は、スラプスティックやミュージカルやいろいろあるが「民主主義とは何ぞや映画」というジャンルもある。あの国は絶えず民主主義を問い返し、そういう映画の伝統がずっとあって、それには素直に頭が下がる。私が知ってる範囲では本作が一番好き。日本でも「社会派映画」というのがあり、同じように政治の腐敗を描くのだが、それはただ野党的に「けしからん」と言ってるだけなのが多く、差は歴然(日本における「野党的なもの」ってのには、文句垂れるだけで善しとしてしまう無責任体質があるのが問題なんだけど)。そこいくとアメリカはリアリズムの地平から少し離れて分析し、ペイン上院議員なんてキャラクターも生み出す。若いうちは理想に燃えていただろうがやがて「それが現実さ」という諦念に呑み込まれ、今や理想に燃える主人公をハメていく。スミスのまぶしさへの嫉妬も感じられ、厚く造形された人物。そして何より議長が素晴らしい。特別な意見を言うわけでなく、議長としての限られた発言をするだけ。喋り続けるスミスの対照のように。しかし若者の熱意を大きく包み込む擁護者として、彼は議長席から見守っている。本作はこの二人のセットで健全な民主主義というものを考えている。理想家を賞揚し過ぎず、また青臭いと冷笑せず、二つの芯を持った運動体として見ている。これがアメリカの民主主義の理想なんだと思う。この映画、政治の暗部を御用マスコミやそれに簡単に動かされる大衆、つまり今この映画を見ている我々にまで広げて見せ、ただ「けしからん」と言って済ますわけにはいかなくしてある。喋りすぎる映画はだいたい駄目なものだが、本作は別。だってこれは「言いたいことを言うことの重要さ」がテーマなんだから。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2013-03-06 10:03:10)(良:3票)
24.  バルタザールどこへ行く
ラスト、羊の群れがやってきてバルタザールを囲んだあたりで泣けてしまった。今まで荷や水を汲み上げる装置やらに常に囚われ囲われ包み込まれていたロバが、ここで初めて柔らかな羊の毛に包まれる。囚われでなく保護されるように。そして本当の最後、バルタザールの死骸がごろっと転がっているカットになる。キリスト教的には、天上の祝福に対する地上のむくろ、ってことなんだろうが、自由と孤独が壮絶に一体になったようにも見える。ずっと自由を希求していたロバが、孤独によってそれを得た、って。全編を貫いていた「生きることの苛酷さ」がここで救われた、というのとも違う、ある種の納得というか、心構えというか、一つ高い認識に至った気がする。監督のスタイルが一番素直に感銘に至った作品でした。
[映画館(字幕)] 9点(2013-01-06 10:11:56)
25.  有りがたうさん
おそらくこれを初めて見たときは誰も、登場人物の喋りにびっくりすると思う。ゆっくりした棒読み。なんだこれは! そういう喋り方をする土地なのか、とオロオロしていると、上原謙や桑野通子もそう喋る。トーキー初期の録音技術では普通に喋ると言葉が聞き取れなくなるのか、と気を回す。いや、これより古い『隣の八重ちゃん』は普通に会話してた。呆然としながら考えた末に結論はただ一つ、監督の指示としか考えられない。そしてそう判断したころは、このリズムにこちらが合ってしまって、大変心地よい境地になっている。お年寄りが昔話を語っているような、宮沢賢治の世界のような。トーキー初期はこんな思い切った演出冒険も出来たのだ。子どもらはバスの後ろに飛びつき、女歌舞伎のお披露目と遭遇したり、桃源郷を思わせる。ところが描かれる内容は厳しい不況下の世情なのだ。226の年で、青年将校らを決起させた地方の娘の身売りが、上原謙に「葬儀運転手の方がよっぽどいい」とぼやかせるまでに、車内を重くしている。映画の結末は飛躍のある展開で作品の傷かとも思えたが、あのゆっくりとした喋りで世界が変容されていると、峠を越えることで善意が勝つんだ、と素直に受け入れてしまえた。この前々年に満州国が誕生し、五族協和と「仲良し」が強制的に偽装される時代になったが、本作では朝鮮人の苦衷がキチンと語られていた。まだ厳しい検閲はなかったのか、もし検閲官が見逃していたのなら「ありがとー」だ。車窓風景の映像史料としての価値は計り知れない。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2013-01-04 09:53:22)
26.  裏窓(1954) 《ネタバレ》 
これは映画館で観なくちゃ意味がないような映画で、スクリーンと向かい合って、あたかも脚にギプスをはめて身動きが出来ないような気分で味わうフィルムよ。そうでないと、向こうがこちらを見つける瞬間の怖さは半減する。G・ケリーが脅しの手紙を持って向こう側に現われただけで、なんか信じられないことが起こったようなドキドキが起こる。あるいはこちらで掛けた電話が向こうで鳴り、話し合ったりする。それらに比べると、グレイスがいる間に男が帰ってきたりする向こう側だけでのドキドキは大したことない。こっちと向こう側がつながることが怖いので、こうなると最後は向こうがこちらに侵入してくるよりほかにないわけだ。こちら側の観客の一人だったはずのグレイスが向こう側に行っちゃうだけでショックなのに、安全地帯から覗き続けていたはずのスクリーンの人物が、「覗いてたな」とにらみ返すんだから、もうパニック寸前。映画という装置の怖さを知り尽くした作品だろう。
[映画館(字幕)] 9点(2012-12-29 09:23:28)(良:1票)
27.  知りすぎていた男
トーキー初期作品をリメイクした本作は、音が明晰になった喜びが随所に踊っている。主に二つの音が重なること。次第に靴音が二つになったり、賛美歌に合わせた会話、銃声とシンバル、ケセラセラと口笛、などしばしば観客は耳を澄ます喜びを味わえる。一つのものが無理に二つに分けられる緊張と、二つの異なるものが無理に一つに合わされることから来る緊張。一つであるべき靴音が二つに分離していく驚きから、無理に二つに分けられていた母子が一つのメロディで重なっていくまで。本作や『北北西…』など、とにかく盛りだくさんにした作品がヒッチにはあり、『裏窓』のような集中していく作品よりは軽く見られがちだが、この満腹感もそうとうなもので、同じくらい好きです。
[映画館(字幕)] 9点(2012-12-25 10:04:03)
28.  廃市
蛍、昼の月、水藻などのアワアワした世界が広がっている。作中の言葉を使えば「道楽」の世界。「本来の仕事を忘れてそれ以外のことにふけり楽しむ」ときの心のゆとりというか、合いの手を入れるオルゴールの音や花火の音が、それこそ「道楽」の雰囲気でした。ハッと気を取り直すようで、またそこに没入していってしまう。自分は愛されていないと思いたがっている人たちの物語で、愛されるのが怖いというか、他人の心をおもんぱかることの傲慢さを自ら封じてしまってるというか、みんなの思いがそれぞれ孤立して、流れ出さず淀んでいる町。頽廃への傾倒、意志のなさ、行為に対する不信、というより面倒くささか。舟で見る歌舞伎の遠景のシーンの、古い記憶のような懐かしさ。全体のトーンからすると、ちょっとクサいところはあって、根岸季衣が顔をピクピクしたり、ラストの三郎君の叫びとかありますけど、それらが目立つほど全体のトーンはいいの。ラストの「列車の窓から」を除いて風景が広がらないのもいい。もう二度とこの夏を繰り返すことができない取り返しのつかなさが、大林監督のモチーフだな。
[映画館(邦画)] 9点(2012-12-17 09:58:16)(良:1票)
29.  蜘蛛巣城
おそらく映像美としては黒澤最高作だろうが、これ音もいいんだよ。旗さしもののパタパタいうのから、矢の突き立たる音まで、なんというか、中世の渋い音が満ちている。一番はマクベス夫人の衣擦れの音ね。主人殺しの槍を持ってくるとことか、ほんとに音だけで怖い。浪花千栄子の魔女の声もある。『羅生門』の巫女でも男声を使ってたが、ああいう効果がある。演出としては、モノノケの家がワンカットの間に取り除けられる、なんてのをやってた。マクベス夫人の視線の演出も凄い。話し相手には向けられない。いつもどこか虚の一点を見詰めている。旦那の目を見てものを言うのは「酒を見張りの者たちにつかわそう」と、言外の意を含んでいるとき。真意を眼で告げているわけで、「企む女」の演出がここにキマる。謀反の瞬間は、夫人の所作のみで見せていた。ほとんど舞いである。黒澤の能好きが一番生かされたフィルムで、異なる芸術分野がひとつの作品に理想的に結晶した稀有な例であろう。
[映画館(邦画)] 9点(2012-11-06 09:59:00)(良:1票)
30.  草迷宮
おそらく寺山が一番自由にイメージを氾濫させた作品。一応構造みたいなものを取り出してみると、母の記憶の代表として“失われた手毬唄”があり、青年になって自由を得た代わりにそれを失った、ってなことか。でもこの映画の魅力はあくまでイメージの輝き。たとえば「毬」の球体が繰り返されていく。ときに囚人の重しとなり、ときにガラスの浮き(?)となり、子さずけ石、スイカのバケモノ、さらにはらんだ母の腹へとつながっていく。球体という「何かを包み込む・囲い込むもの」が反復される。最後の魔の跳梁は、スラプスティックぎりぎりで、若松武が刀を振り回したりするが、シラけないのはユーモアでフェイントを掛けてるから。女相撲の土俵入なんか絶品でしたなあ。あそこに母の首があるので、魔の勝どきのような凄味も加わり、その首が「いつまでもお母さんの子よ」とか言うんだよね。逃げても逃げてもお前をはらみ続けてやる、って感じか。鏡花のモチーフに寺山のテーマが被さっていく。「母・故郷・記憶」との闘争史であり「母・故郷・記憶」からの逃走詩。主人公を誘う少女の手毬の身振りが凄くエロチックで、右手で毬を突いてて(くっついてる)左手は後ろに跳ね上げるような仕種。ああいう細かな動きの正確さは、演劇人としての鍛錬のたまものだなあと思う。二人がかりでものを運ぶ、ってのも繰り返されてた。祭のような苦役のような。
[映画館(邦画)] 9点(2012-11-01 12:39:24)
31.  十二人の怒れる男(1957)
アメリカ映画の好きな裁判ものだが、やる気のなかった国選弁護士の代わりに一人の陪審員が奮闘する法廷後の話になっていて、次第に覆っていく面白さは裁判ものの常道だが、「それで食ってる」弁護士でなく、本来ならチャッチャッと済ませてすぐ帰りたい「面倒ごと」に付き合わされてる一般人にしてあることで、「正義とは」というテーマがより際立った。そして意見を持つことの大変さ、それを表明することの大変さというテーマも浮き上がり、そっちのほうが本作のキモではないか。別に無罪を証明しなくてもいいんで、「有罪にするには合理的な疑いがある」って比較的低いハードルでも、11人の反対者の22の冷たい瞳に囲まれると、私だったら…と自信がなくなりそうな場。そういう逃げようと思えば逃げられる場で自分の少数意見を表明すること。こういう勇気を賞揚するのが、アメリカのいいところだ。おとぎ話とか、お涙頂戴とか、こういう場面で来そうな反発がいちいちいリアルで、観てるほうの心のなかで動く反対意見をちゃんと残りの11人が表明していく。議論の質を落とさない。そして少しずつ同調者が増えていく。ここも大事なところで、なぜかとりわけ日本では「ブレる」ということが、さも悪事のように言われがち。でもそれがなくては議論する意味がないわけで、反対意見に最大限想像力を働かせ、自分の意見と闘わせた上で、それでも意見を変えない・あるいは変える、というのは同質のことのはず。悪いことではない。日本の「ブレない政治家」ってのは、反対意見に耳を塞いでるだけで(ラスト近くのリー・J・コッブのように)、あとは「おとぎ話」「お涙頂戴」と切り捨てるのなんか、まったく映画と同じですな。というわけでアメリカ映画の最良の部分がここにある。室内劇でありながら夏の暑さを描いた映画としてすぐに思い出されるってのも凄いことだ。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2012-10-11 10:11:32)(良:1票)
32.  お早よう
これはトーキー以後の小津で、蒲田サイレント時代のリズムが一番感じられ大好きな作品。子どものハンストが『生れてはみたけれど』の反復という直接的な関係もあるが、どちらかと言うと、おでこをツンとする仕種が『生れては…』のまじないを思い出させ、タンマの仕種も絶妙に使われている。給食費請求のゼスチャー、「書いて示せばいいのに」と思ってしまう我々は、トーキー以後の映画を見て育ってしまった人間の無言観で、ここは「字幕」に頼らず沈黙の身振り・仕種で伝えようとしなければ、サイレント時代から映画を作ってきた矜持が許さないのだろう。久我美子のトンチンカンな解答が笑わせてくれる。若夫婦がジャズを口ずさみながら横断するカットは、チンドン屋好きの成瀬ならまだしも小津のトーキーで見るとかなり異様に映るが、サイレント期の、学生の応援団(『落第はしたけれど』)や肩を組んで歩む不良グループ(『朗らかに歩め』)の再来なのではないか。ところで、四つの家の配置がいつもよく分からなくなるので(住んでる東野英治郎でさえ間違うくらい)今回は図を描いてみた。草の土手がある側に杉村春子と高橋とよ、ブロックの斜面がある側に長岡輝子と三宅邦子が並んでいるよう。異常なのは奥と手前両方を土手状の斜面で視界を塞いでいることで、こんな住宅地現実にあるだろうか。庭の眺望が必ず隣家によって遮られる小津の嗜好が、拡大されたのであろう。つまりこの住宅地が一つの家のようで、小津映画でおなじみの部屋から部屋への出入りを、隣近所に広げてみたわけ。移動する四人の主婦が小津常連の名手ばかりで、最良の弦楽四重奏のようなアンサンブルを楽しませてくれる。全編天上の音楽を聴くような傑作で、トーキーになってもこういう純粋なコメディをもう2、3本作っておいてくれてても良かったのに、と思うけれど、一本でもあるだけ嬉しい。登場する駅は、蒲田の川向こうの八丁畷であった。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2012-10-07 09:35:47)(良:1票)
33.  豚と軍艦 《ネタバレ》 
長門裕之、ちょっと演技過剰だけど「滅びゆく豚の代理人」としてその愚かさを否定的でなく描いている。ヤマ場で豚に向かって「逃げろ」と叫ぶのは、初めて恋人吉村実子への真摯な語りかけだったんだろう。アメリカに寄生する豚のような人間たちを豚が押し潰していく60年安保直後の夢の爆発、アメリカに色目を使うネオンサインを機関銃で破壊していく爽快な夢。でも本人は便器に顔を突っ込んで死んでいくわけで、夢でない現実は吉村実子のこれからに託されるわけだ。ラストの超望遠で口紅を拭き取るシーン、以後も今村でよく目にする望遠の効果の代表例となる(その対極のように豚とそれに潰されていくやくざの顔が画面にミッチリ詰め込まれたカットもあった)。基地に寄生するという形で現実を生きていく女たちも、批判的ながらイキイキ描かれていた(70年安保のときにもう一度横須賀をドキュメンタリーで描いた『にっぽん戦後史』で、そういうマダムを対象にする)。でも本作が記憶に残るのは日本では珍しかったブラックユーモアの連発で、癌ノイローゼのやくざという造形が傑作。自殺できない気の弱さから殺し屋に「知らない間の射殺」を依頼するも、その後勘違いが分かって逃げ回るという滑稽。それ以上に記憶に刻みつけられるのが加藤武で、ニコニコ笑いながら「へへへ、シルが出たよ~」と死体処理の汚れを人につけて楽しんでいる。「豚から入れ歯」のシーンも、彼のニコニコ笑いがあるのでさらに弾ける。小沢昭一のエッセイにはよく加藤の話が登場し、生粋の江戸っ子なのね、彼。本作のニコニコ笑いを見てからずっとファンです。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2012-09-27 09:49:15)
34.  西部戦線異状なし(1930) 《ネタバレ》 
ドイツの話だから自由に軍隊批判を出来た、ってことより、やっぱりこれ当時の世界的ベストセラーの映画化ってことで描けたんでしょう(日本ではこの映画より先に斎藤寅次郎が『全部精神異状あり』なんてパロディを作ってる)。ペンタゴンから文句言われても、原作があるんだから仕方ない、って言える。エピソード集の形をとって、反軍のメッセージが込められたシークエンスが展開し、群像ものとしても見られる。長靴が兵士の死を渡っていくエピソードなんかいい。塹壕の中で初めて敵を殺した兵士のヒステリックに赦しを請う態度から、翌朝「戦争とはこういうものなのさ」と“正しい兵士”へ“成長”していってしまう怖さ。そして突撃シーンの壮絶、無駄に死んでいくことがただただ強調され、勇敢さは微塵も感じられない。煽り立てている教師のところに戻って訴えるシーンなぞいいのだが、この映画が作られた後にも、原作の国と映画化の国とで第二次世界大戦が起こり、さらに朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争、その他その他が繰り返し起こっていることの脱力のほうが、重い。戦争は嫌だなあ、という不快感は万国民共通のはずなのに、それがちょっと「国のメンツ」を突つかれると、たちまち「戦争やむなし」の大合唱になってしまうんだ。/確認のため年を調べたら、原作の発表が1929年で、斎藤の映画と同年だ。原作発表すぐに翻訳が行なわれ、すぐにパロディが作られたのか。それとも話題作ということで題名がまず伝わり、それだけで一本のパロディ映画を作ってしまったと考えたほうが、当時の活力あった邦画界にふさわしいな。
[映画館(字幕)] 9点(2012-09-04 12:35:06)
35.  銀河鉄道の夜(1985)
猫にしたのが当時は賛否両論だった。子ども向けに迎合してる、って意見があったけど、猫にしたことによって無表情が自然になってる、と私は断然「賛」だった。人間だと無表情は中間的表情というより陰気なイメージになってしまうが、猫だとほんとにニュートラルな表情となり、それが少年の純な心にピッタリする。そして賢治の世界にふさわしい。原作のイメージが素晴らしいんだけど、映画もそれを膨らませている。丘へ上る道が銀河につながっていくところ。静かに繰り返されるレールのガタンガタンのリズム。冒頭を初め、全編を通して振り子のイメージが貫いている。待合い所のメトロノーム、新世界交響楽の駅にも大振り子。ときどき流れ過ぎる輝く正四面体がちょっとつまらないのと、リンゴの皮を剥くとどんどん蒸発していく原作のイメージがなかったのは残念。ジョバンニが自分だけ違う切符を持っているあたりから忍び寄ってくる不安、「どこまでも一緒だよね」と何度も確認するあたりから、もう泣けてしまう。ジョバンニには妹を失った賢治がいるし、カムパネルラには、貧しい農民になれない地主の息子の後ろめたさを抱いている賢治がいる。そういったもろもろを静かな暗さの中で反芻していた賢治は、本当にいいなとあらためて思う。永訣の夜としての銀河鉄道。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2012-08-22 10:04:56)(良:1票)
36.  細雪(1983)
市川崑は「女たちの帝国」とでも呼ぶしかない世界を好んで描いてきた。それの大映時代の代表作を『ぼんち』とするなら、東宝時代がこの『細雪』だろう。大映時代には『黒い十人の女』もあるし、東宝時代の『犬神家の一族』もその系譜だけどね。じゃれあう姉妹たちで閉じられた世界、夫たちも足を踏み入れられない聖域。雪子が溺愛するのも甥ではなく姪であり、女の血の流れだけで守られた上品な淫蕩さが支配する結界だ。この宇宙が崩壊していく物語なんだけど(いや、散り散りになっても決して崩壊しないという物語なのか)、あからさまな腐臭はたたせない。啓ぼんでさえ、変な言い方だが実に趣味よくすさんでいく。雪子の見合いの相手はどんどん落ちていき、妙子の相手の質も悪くなっていくのだが、そのことが蒔岡姉妹を汚せない、雪子の高貴さを高めるばかり。こういう不可思議な帝国を観客に納得させるのは、女優たちの力で、佐久間良子の三枚目ぎりぎりの「愛すべき人物」ぶりなんかが実にいい。最初キャスティングが発表になったとき、吉永小百合の雪子は違うだろ、と思ったが(現実の女優が雪子を演じるということ自体無理な話なのではあるが)、観てみると、なんか納得できる出来になっている。下手に雪子らしさを強調するとオカルト娘っぽくなっちゃうし、何も演じなければただの愚図になってしまう、その程度が良い。鮎男との見合いのあとフェイドアウトになるときの曖昧な表情。たしかに軽蔑があって、それを隠してもいないのだけど、棘がないというか、相手に向かっていない。相手にマゾヒスティックな悦びを与えてあげているような表情。蒔岡姉妹とはつまりこういう表情を作れる人なんだ、と得心させられる。「細雪」という作品の本質が一瞬であらわになった場面だった。「女性映画」と並んで崑で優れているのが「無内容な純粋娯楽作品」だと思ってるんだけど、それの大映時代の代表作が『雪之丞変化』、東宝時代の代表作が「金田一もの」。そういう私にとって、本作で「本家」とか「分家」とかの活字を画面に目にすると、あのシリーズを思い出しホロッとしたものでした。
[映画館(邦画)] 9点(2012-08-01 09:58:38)
37.  アッシャー家の末裔
空間の広がりの薄ら寒さと言ったらない。友人が犬を呼ぶが逃げていくあたりの閑散とした感じ。カーテンのそよぎ、スローモーションで本棚から崩れ落ちてくる本。レースの死に装束が風で揺れだすあたり。時を告げる鐘が鳴るとホコリがさらさらと落ちていって。アッシャー氏がギターを爪弾くと外の荒涼とした風景と共感していく。ちょっと目まぐるしすぎるかな、ってとこもあるけど、映像の音楽性を極めている。ギターの弦がぶつんと切れるなんて、日本の怪談でもよく三味線であったけど、世界共通の怪奇趣向なのね。黒猫やら振り子やらも出てくる。次第に嵐になっていくとこのカッティング。音が重要な役割りをする原作を、サイレントで映像に翻訳したという意味で、無声映画のひとつの「結論」を提示したような作品になった。姫の登場の盛り上げ。世界がブレだしてくるの。開かれたドア、狂ったようにひらめき続けるカーテン、振り子の脇からのアップ。映像によって、凍りついた音楽に耳を傾ける、いや目を凝らすという映画芸術の達成。
[映画館(字幕)] 9点(2012-07-28 09:28:41)
38.  サンライズ 《ネタバレ》 
ストーリーだけ取り出すと、ヘン。何も都会に逃げ出るからって、妻を殺す必要はないだろ。舟の上での殺意のシーンの演技なんか表現主義時代の悪影響が感じられる。都会=悪、田舎=善というパターンも気に食わないし、どう見たってシティ・ガールより可憐な妻のほうがいいじゃないか…。でもたぶんこれは神話なんだよね。しっくりいかなかった夫婦が真の夫婦になるまでの試練の物語。そう思えば、この二人が都会で過ごす部分がシミジミといい。ついさっき殺意を見せた夫に追いつかれると、もう逃げようともせず、つまり自分の命の危機よりも、夫婦生活が崩壊してしまったことのほうに泣いている妻。可憐そのもの。一緒について行くんだ。教会を経て新婚夫婦のようにはしゃぎまわるの。写真館、床屋、そして遊楽場の光の洪水に、花火のおまけまでついて。帰りに湖水ですれ違うかがり火焚いた船(いかだ?)。そのあとの嵐も極端なんだけど、神話としての駄目押しね。これでラストの「よかったよかった感」が深く心に定着していく。私の知る限り、モノクロで一番美しい映画。
[映画館(字幕)] 9点(2012-07-21 09:52:18)
39.  サン★ロレンツォの夜 《ネタバレ》 
この監督の映画はエピソードをひとつひとつ思い出すだけでも心が満ちてくる。教会が砲撃され司祭と母親が額をつき合わせて傷ついた娘を運び出す場とか、画面は至ってシンプルなのに沁み入って来る。寓話の紙芝居をめくっているように、戦争の残酷がピクニックの絵日記のように展開していく。残酷が頂点を極めるのが、小麦畑での戦い。今まで幾多の戦闘シーンが映画の歴史の中で撮られてきているだろうが、私にとってはこれが一番きれいで残酷。グロテスクな意味での残酷ではなく、まさに戦争そのものの残酷さが、うららかな小麦畑の中で繰り広げられるのだからたまらない。圧巻は少年ファシストを射殺するシーン。少年ならではの純な高揚がその前に描かれている。父の「まだ十五歳だから」と嘆願している目の前で、地を這いずり回って助けを求めている少年を射殺する。殺す側も身重の妻をファシストに殺されており、この憎悪の増幅の耐え難い残酷さほど、ストレートに戦争を告発した場はないだろう。射殺の次にパッと遠景のカットになり、画面を美しい緑で埋めてしまうニクさ。さらにすごいのはラストで「実際に起こったことでもハッピーエンドになることがあるんだよ」って言うんだ。ずっと深い絶望を語ってきた映画の最後で、それを踏まえた上での希望を語っている。断固とした平和への意志が感じられる。戦争をそのまま描けば、いやピクニックのように楽しんでいる少女を通して描いても、それは反戦映画になる、という確信を監督は持っている。こういう作品を作れるのは本当の平和主義者に違いない。私は傑作の多いこの監督の作品群でも、本作と『カオス』がとりわけ好きだ。
[映画館(字幕)] 9点(2012-05-24 10:07:34)(良:2票)
40.  水俣 患者さんとその世界
胎児性の患者さんがこちらを振り向くところからラストまでは、とりわけ凄い。私たちはいままで水俣病を知っているつもりになっていたけど、それはたとえば支援団体の膜越しだったりした。その膜を破って、じかに水俣病に触れ得たという実感がある。このドキュメンタリーだって「支援団体」とさして違わないはずなのに、距離感が違うのだろうか。患者にこちらの眼=カメラをいじるに任せているカット、やっと患者と触れ得たという感動がたしかにあった。漁民の生活を丹念に描いたことも大きい。味噌とバターでの餌づくり、蛸採りの美しい水中撮影。自然と一体となった生活があったのだ。それをずっと続けていけたと言うのは理想論すぎるけど、そういった生活への懐かしさや憧れは、やはり暮らしの方向を考える上で大事なのではないか。あるいは患者のためにオルガンやステレオなど家に似合わないハイカラな物が置かれている光景もジーンとさせる。親の贖罪の気持ちがそこに凝縮している。水銀を食べさせたのは親の責任ではないのに、その申し訳なさはこういう形でしか表せないのだ。スピーカーの振動を手で感じている耳の聞こえない弟。けっきょく優れたドキュメンタリーとは、当事者との距離を正確に知っているということだろう。患者とその家族との苦痛に触れられないということで、観客もチッソと同じ側についている。その認識が安易な同情や哀れみを禁じていて、知らず知らず観客はより積極的に患者の側に身を乗り出さざるを得なくなる。限りなく近づこうと想像力を使役させなければならなくなる。だからたとえば総会で支援団体の人が壇上に上がってきた行為などは浮わついて見えてきてしまうのだ。患者たちの御詠歌の迫力には、薄っぺらな行為は吹き飛んでしまう。伝染病かもしれないと思われて子どもを引き離されたエピソードや、町の発展を妨げるものとして排斥された動きなど、これまでに描かれてきた細かい棘の数々がここで裏返され、あの御詠歌になってごうごうと唸り立てているのだ。
[映画館(邦画)] 9点(2012-01-28 12:40:09)(良:1票)
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