441. 脳男
オレンジ色の太陽が登場するのは2シーンのみ。 その2度の夕焼けシーンとラストの快晴以外はほぼ雨か曇天。 登場人物を赤く照らすのは、忌まわしい火事の炎と爆発の火焔、そして血糊だ。 それらが、ローキー設計の見事な屋内シーンの中に浮かび上がる。 半逆光のシルエットの中に瞬く、生田斗真の左目の冷たい眼光がいい。 閉所でのしなやかな格闘動作も流石だ。 まるで松田優作を思わせる江口洋介のキャラクターはご愛嬌といった感じである。 物語上の様々な説明が多いのは止むを得ないとして、 護送途中のアクシデントと混乱の中で、生田がどのように姿をくらましたのか、 そのあたりは省略しないでアクションとして提示して欲しかったところ。 あるいは病院を舞台としたラストの二階堂ふみとの決戦も、 病棟の空間と構造をもっと有効に提示して両者の位置関係を明瞭にするよう 工夫すべきだろう。 いずれも、台詞説明に頼っていて肝心な画面自体による説明が不十分である という事が云える。 [映画館(邦画)] 7点(2013-02-11 21:23:11) |
442. ドリームハウス
ヒーローを演じつつもどこか邪まさを匂わせるダニエル・クレイグの キャラクターイメージが次第に活きてくる作劇の転換が サスペンスを呼び込んで面白い。 夜の窓外に蠢く人影より何より、主人公の変貌ぶりにインパクトがある。 家の映画としても、二階に続く階段、地下への階段がそれぞれドラマの舞台に 組み込む配慮が為されていて如才ない。 ラストの業火の中、レイチェル・ワイズとのやり取りが感動的で、 温かい余韻を残す。 [映画館(字幕なし「原語」)] 7点(2012-12-30 00:29:56) |
443. 007/スカイフォール
序盤のウォーターフォールと終盤のスカイフォール。 幾度も己自身を見つめさせることになる鏡面あるいは水面と、 様々にメタ的な着想を凝らして内面描写というトレンドに倣っている。 公聴会での暗殺阻止からそのままクライマックスのアクションに なだれ込めばいくらでもテンションを上げられたところを、 内省やら回帰やらの要素を持ち込んで新味を出さねば気が済まないところが シリーズものの枷というところか。 例によって、本作の「小悪党」も卑小な内面ばかりを語りたがり、 犯罪の動機付けに汲々とする。ゆえに悪役に恐さがない。 高層階のネオンライトを背景とした シルエット同士の格闘などは実にスタイリッシュであったり、 籠城戦前の夕暮れから夜の闇へと推移する緊迫の描写も良かったり、 日本版予告編で使われたショットの数々も個々にはケレンがあって 様になっているのだが、いずれもが単発止まりである。 一連のアクションの繋がりとして見ると平板で うねりを欠いてしまうのが勿体ない。 いわゆる人間ドラマに比重が掛った結果だろう。 [映画館(字幕なし「原語」)] 5点(2012-12-25 23:50:25) |
444. レ・ミゼラブル(2012)
舞台劇との差別化として「顔面」の映画が狙いであるのはよく判るし、 そのクロースアップに関するキネマ旬報の篠儀道子氏の 好意的な解釈も理解できるが、やはり長丁場での顔面づくしは 構図取り放棄の印象が強い。 アン・ハサウェイのソロの表情は、 確かに『裁かるゝジャンヌ』のように力強いものの、 その後は、それなりの美術を背景に人物の顔さえ配置して歌わせれば どう撮っても話は繋がる、とでも言うような安易な画面が続いて正直苦痛である。 あらすじを絵解きする以上の余裕がみられない。 エディ・レッドメインとアマンダ・セイフライドの柵越しのデュエットは まるで別撮りしたかのような単調な切り返し。 ラッセル・クロウの屋上シーンもまた暑苦しく単調な構図を幾度も反復する。 孤独な者たちがそれぞれ孤独を歌い上げるなら、 ただただ寄りすぎるカメラは映画話法的に逆効果となりはしないか。 大半の後景はソフトフォーカスで判然とさせず、 観客はこの顔面・この部分だけを見、この歌だけを聴けと強要される。 蜂起前の若者たちの合唱も一部の主要人物の顔面偏重で、 背景の「その他大勢」の顔などはまるでどうでも良い というようにぼかされている。 映画はその謳い上げるお題目とは裏腹に非民主的で、 観客に後景の美術やコスチュームや脇役の表情を楽しむ「自由」はまるで無い。 [映画館(字幕なし「原語」)] 3点(2012-12-23 21:11:48) |
445. アフロ田中
《ネタバレ》 『モテキ』の絶叫モノローグが使いどころとバリエーションを心得て より効果的に使われているのに対し、 その二番煎じのようなこちらは終始一本調子であり、 終いにはいい加減飽き飽きしてくる。 そして、あくまで森山未來のアクションやダンスによって映画を弾けさせる 『モテキ』に対してこちらは松田翔太の顔芸と奇怪な挙動と、 原作由来だろうダイアログのギャグ頼みだ。 それはやはりテレビの笑いに近く、映画の笑いとは云えない。 蓮實重彦の『バットマンビギンズ』評ではないが、 自動車で並走しながらの愛の告白という絶好の映画的シチュエーションをつくりながら、 そこに流れる風景を画面に収めて走行感を出す才もないために 情動が喚起されることもない。シーンを停滞させ失敗している。 佐々木希の演技が不十分ならそれこそダンスの見せ場でも作ればよいものを、 その知恵もなく、単にファッション着せ替えのモデルでしかない。 彼女に関しては、かろうじてラストの上段蹴りのショットが救いである。 [DVD(邦画)] 3点(2012-12-16 23:33:22) |
446. グッモーエビアン!
楽しい食事シーンを持つ映画には無条件に魅了されてしまう。 物語と離れて、演技に拠らない素の「食べる」表情が キャラクターの人間的な魅力を増すのだと思う。 この映画も、カレーや焼き鳥や団子やクレープや目玉焼きを美味しそうに食べ、 ビールを幸せそうに飲む麻生久美子・大泉洋・三吉彩花らの家族の姿がより一層、 好感度を増す。 普通なら欠点ともなる俳優のクロースアップもさして苦にならないどころか、 俳優の表情に対するカメラマンの惚れ具合までが伝わってきて心地いい。 その極めつけが、ラストでストップモーションとなる三人の 「美味しい」笑顔の素晴らしさだろう。 ご当地映画ながら、商店街やフリーマーケットなど、 生活感のあるロケーションへの俳優の溶け込ませ方も巧く、 移動撮影による二度の自転車のがむしゃらな走行感もいい。 そして、映画に携帯電話というコミュニケーション手段を 安直に持ち込まない点も褒めたい。 女性たちが並んで座るベンチのシーン、校舎屋上のシーン、ライブのシーン。 そして能年玲奈の卒業写真と手紙のショット。 そこには携帯に拠らずに直に言葉を伝えること、直に触れあうことの温かみがある。 [映画館(邦画)] 8点(2012-12-16 21:07:20) |
447. 巨神兵東京に現わる 劇場版
加東大介『南の島に雪が降る』の中で、南方戦線の兵士たちは、 演芸分隊による作りものの雪や柿に涙する。 実物の雪でないのは明らかであるにもかかわらず彼らの心を打ったのは、 そこに人の手作りによる文化の感触があったからではないか、と長谷正人氏は云う。 CGアニメーションの動画が最新技術によって いかに滑らかに軽やかに表現されようが、 コマ撮りアニメの独特のタッチと動きがいまだに新鮮さを失わないのは 実物らしさの問題ではなく、丹念な手作りの感覚の中から 作り手の人間性や心意気が伝わるからこそだろう。 コストだけでは計れない贅沢な職人技、だからこそ現在的な意義がある。 作り手の後ろ向きな回顧趣味では為し得るわけが無い。 光線に貫かれたビルの被弾部が一瞬間を置いて溶解し、炎が噴出する。 寺院をなめた背後の建築物が爆発すると共に散乱する大小様々な破片。 舞い上がる火の粉。巨神兵の姿を揺らめかせる陽炎の効果がさらに禍々しい。 崩れ落ちるビルは、内部まで高精度に作り込まれており、 安っぽい発光を用いないので鉄塊の物質感は満点である。 細部に至る作り込みとハイスピード撮影との相乗効果が生み出す即物感と重量感。 それこそが、CGには出せない具体的な味の最たるものだ。 [映画館(邦画)] 7点(2012-12-09 01:43:17) |
448. 人生の特等席
《ネタバレ》 ベネット・ミラー『マネーボール』では裏方に徹する功労者を表わすように、 ブラッド・ピットの像は濃い陰影が強調されていた。 イーストウッド&トム・スターンなら更にロー・キーかと思いきや、 ストーリーの明朗さとロケーションの解放感にあわせて、 ポジティヴな画調が爽やかだ。 暗闇が活かされるのは、 エイミー・アダムスからの電話をそれと知らずに悪態をついてしまう イーストウッドを照らすランプの灯や、夜の漆黒の湖、 忌わしい過去を仄めかす短いフラッシュバック映像くらいである。 その回想の中に一瞬現れる彼の禍々しい形相はやはり 『タイトロープ』からのものだろうか。 スコープサイズを活かした横並びの対話劇。 それを捉える奇を衒わない構図と編集。その堅実な語り口に品がある。 視力の衰退した静のイーストウッドに対し、 ビリヤードにダンスに投打にと、颯爽とした動が 魅力的なエイミー・アダムスが彼の球を打ち返す。 楽しげにグラウンドを駆ける娘と、彼女を眩しそうに見る父親。 そこで緩やかに旋回するカメラと、 静かに流れる音楽によって豊かな情感が流れてくる。 そして、彼女は何の躊躇もなく携帯電話を軽やかに投げ棄てる。 その決断のアクションのシンプルさ・軽快さこそが素晴らしい。 [映画館(字幕なし「原語」)] 8点(2012-12-03 23:52:44) |
449. 希望の国
警察官と揉み合いながら、封鎖を突破していく清水優と梶原ひかりのロングショットや、 村上淳と神楽坂恵の記念写真といった、ふとしたシーンの軽妙なユーモアがいい。 生真面目一辺倒の『生きものの記録』路線でないのが救いだ。 『ヒミズ』の貸ボート店のソファも良かったが、本作の縁側や花壇や牛舎なども、 身近な生活空間が魅力的で切実な舞台として映えている。 背景の花と手前で打ち込まれる杭を組み合わせたショットなど、 意味性が強く観念的すぎる箇所も多いが、 逆光を効果的に使った白バックのシンプルなショットが要所要所で印象強い。 花壇中央にそそり立つ立木を包む光。 夏八木勲への感謝を電話で伝える神楽坂恵を包む光など、 今作の園子温はかなり照明に意識的である。 あるいは、透明ビニルシートを背景に父親に電話する中村淳の横顔。 一面の雪の中で踊る夏八木勲と大谷直子の夫婦の楽しげな様。 いずれも白をバックとした画面が、人間の像を一層引き立てている。 [映画館(邦画)] 8点(2012-12-02 22:50:02) |
450. 北のカナリアたち
《ネタバレ》 パズルの如く図式化しながら構成を練っている脚本現場が目に浮かぶようだ。 例えば、唐突に挿入される小池栄子の不倫のエピソードなどは、 恋愛のままならなさといったものを弁明するために安直に取ってつけている事が 見る傍から判ってしまう。 つまり、彼女は程よく込み入らせたストーリーの辻褄合わせの都合から 象られたキャラクターでしかなく、単なる説明の道具でしかない。 そのように頭でつくった露骨な作為が見えてしまうと、 当然ながらその人間味などは薄れ、 彼らの合唱も単に上手い歌でしかなくなってしまう。 様々な歩行や移動のアクションで何とかバリエーションをつけているものの、 吉永小百合と各生徒との再会をことごとくワンパターンな台詞とリアクションで 反復させてしまう芸の無さは救いようがない。 いかにも日本アカデミーあたりが撮影賞を与えそうな、 いかにもの絵葉書的景観ショット、 助演賞を与えそうな森山未來の吃音演技がまた打算的な感じが勝って心に響かない。 さらに、いかにも時宜にかなった優等生風のメッセージからして、 作品賞あたりも目論んでいるかも知れない。 [映画館(邦画)] 3点(2012-11-26 06:34:25) |
451. 悪の教典
《ネタバレ》 屋上でキスをする伊藤英明と女生徒の前景と、後景の校舎。 人影は映らないものの、間違いなく誰かに見られている、という感覚で シネスコ画面が効果的に活かされているが、 どちらかといえば広がりよりも、奥行きや深さを強調した画面が印象的だ。 (吹越満の乗る電車車両の揺れる悪夢的感覚。 廊下奥や教室奥の外光で薄暗く浮かび上がる伊藤の姿など) 一方で、AEDレコーダーや救助袋の伏線シークエンスなどは あたかも取ってつけたようで、 回収地点でかえって作り手の逆算が露呈し、大いに興ざめである。 これなら、余計な伏線など無いほうがよほど気が利いているし、 インパクトもあるだろうに。 回収のための伏線張り。それは単に観客に辻褄合わせの納得を促すだけで 何ら驚きをもたらさない。 ついでに、盗聴器を仄めかすコンセント口等のショットのくどい反復や、 伊藤の来歴のフラッシュバック。 これらの無駄を省いただけでも、 110分程度には引き締まったはずだろう。 [映画館(邦画)] 7点(2012-11-11 23:49:08) |
452. 009 RE:CYBORG
CGを介してアニメに近づいていく実写映画と、同様に実写に近づいていくアニメ。 本作における人物やメカニックの動作も照明と陰影のかけ方も、 いわゆるリアリズムが志向されており、アニメ的なデフォルメされたアクションや 構図は時折に差し挟まれるといった感が強く、 正直のところ(CG)アニメーションであることの必然性や戦略は見えづらい。 ビル爆破、核爆発、サイボーグの特殊能力といったCGスペクタクルも、 現在なら十分に実写画面に加工することが可能なわけで、 そこをあえてセルアニメーション風でやるからには、アニメならではの特性がもっと欲しい。 そして、作中の核爆発などが単に小奇麗な光とスピード感による スペクタキュラ―な見世物でしかないのはかなり気になる。 人間不在のカタストロフィでは何の感慨も起きようがない。 平和やら善やらを語りながら、そこに焼かれる人間の痛みも悲惨も まったく描けていないのは、CGアニメという手段の問題ではなく 視点と想像力の問題である。 記憶の操作に関するあからさまな説明台詞など、脚本も無駄が多い。 [映画館(邦画)] 3点(2012-11-05 00:38:49) |
453. アウトレイジ ビヨンド
『アウトレイジ』の主要な顔でもある黒塗りの車体と、 北野映画の「海」とが組み合わさるタイトルバックから一気に惹き込まれる。 前作にも引けをとらない俳優陣の面構えの強さと、 暗闇に浮かび上がるブルーがかった街路と黒塗り車の光沢の艶。 舞い上がる土埃。そして暗転した画面に響く銃声もまたフェティッシュな感覚を纏う。 今回はどのように煙草を使うかと見ていれば、 「煙草は止めた」との台詞で主人公の変化を提示し、 新井浩文・桐谷健太二人の遺影の前に置かれた二箱の煙草のショット一つによって、 乾いたドラマの中にさりげなく情緒を潜ませるあたりが熟練である。 ほとんど顔を見せない高橋克典の身のこなしも凄みがあり、いい。 映画の締め方にも痺れる。 [映画館(邦画)] 8点(2012-11-04 21:20:24) |
454. エクスペンダブルズ2
序盤でのブルース・ウィリスとシルヴェスター・スタローンの対話を、 それぞれ別撮りしたかのような単調な切返し編集で焦らしながら、 シーンの最後ではしっかりと二人を横並びに収めてみせるあたりが憎い。 複数のスターを同一画面内にどう配置し、どういうアングルと距離で引き立てるか。 如何に編集で邪魔せずに、ジェイソン・ステイサムが「classic」と呼ぶ スター自身による体技をフルショットで見せるか。 そうした見得の切り方、ケレンの利かせ方が前作より格段に良く、 静のシーンを短く配置した緩急のバランス感覚もいい。 その静の中にも、朝霧・硝煙・葉巻の紫煙の動が演出され、 粒子の粗いザラついた感触の残る画面によく映えている。 そして、重低音の銃撃と爆発も祝砲と花火のように華々しい。 [映画館(字幕なし「原語」)] 8点(2012-10-24 06:32:08) |
455. ボーン・レガシー
《ネタバレ》 序盤、二階建てのレイチェル・ワイズ宅の外壁を身軽に登ったジェレミー・レナーが、 階上の採光窓を蹴破って二階廊下の侵入者を拳銃で狙撃する。 家屋の構造と空間を活かした、アクション映画らしきアクションは後にも先にもこの1ショットのみと云っていい。 それ以外は、前三部作を踏襲した高速カット割りがことごとく映画の運動を殺す。 マニラロケによる車線無視の乱雑なカーチェイスも頑張ってはいるのだが、 そこで終わりでは締まらない。 少しは徒手格闘の見せ場も無くては、敵暗殺者の脅威が際立たないだろうに。 何よりも、延々と続く近視眼的なアップの連続、その芸の無さが耐えがたい。 [映画館(字幕)] 3点(2012-10-21 23:06:17) |
456. ハンガー・ゲーム
表情のアップを主体とする手持ちカメラは、 ヒロインの主観に寄り添うという趣旨なのだろう。 舞台上のインタビューのシーン、弓を引くシーンの接写では それなりに効果を見せるのだが、全般的に1ショットが極端に短く、 寄りすぎ且つ不安定で、とにかく見苦しい。 折角のジェニファー・ローレンスの魅力を削いでしまっている。 撮影監督トム・スターンであるにもかかわらず、 マスターショットの不足で場の状況の説明すら覚束ない始末である。 人工の猛獣の襲撃や、格闘場面などでは、カメラの振り回しすぎで 肝心の俳優のアクションも判然としない。 本来なら、森の中を人物が疾走するショットなどは アクション映画の格好の素材のはずなのだが。 語りも冗漫すぎる。この程度の内容で、143分は無い。 [映画館(字幕)] 3点(2012-10-19 06:19:06) |
457. アイアン・スカイ
月面の硬質な近未来空間と、黒づくめのユニフォームを始めとする 旧態依然とした第四帝国の武骨なレトロ感覚。 両者がモノクロ画調の中でよくマッチしている。 そのナチズムの形式主義を茶化したギャグは ルビッチの『生きるべきか死ぬべきか』を少し思い出させてそれなりに面白いけれど、 こちらは若干くどい。 クライマックスの決戦ではヒロイン:ユリア・ディーツェを もっと活躍させる事が出来たはずだし、 クリストファー・カービーとの協調と連携も淡白すぎる気がしないでもないが、 二人の微妙な関係性は本作の面白味だ。 宇宙間戦闘のSFXも健闘している。 [映画館(字幕)] 8点(2012-10-15 23:49:15) |
458. 踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望
《ネタバレ》 『映画は映画的であるほどドラマから遠ざかる』と、 本広克行が尊敬しているらしい押井守が書いている。 ドラマの本質はダイアログと状況設定にあり、 映像的主張はドラマを停滞させるから、というわけだ。 バストショット主体の対話劇でドラマは十分に機能するが、 劇場用作品となるとそうはいかない。映画的な見せ場こそ肝要だからである。 となると、既に盛んに批判されている荒唐無稽なバス突入や、 織田裕二の直感的判断と疾走こそ、 ドラマ的には不正解、映画的には正解だと見る事が出来る。 合理的動機に拠らない活劇であり、スペクタクルだからである。 あるいは、膨大なエキストラを統制しまとめあげた署内セットのモブシーンの活気、 充実した空撮、盛り上げどころで目一杯活用されるクレーン撮影の快いリズム感、 そして事件解決後の織田と柳葉のツーショットに 適切に差し込まれた朝陽の演出なども同様だ。 一方で、戒名を巡るギャグやラストの織田の演説などは、 ドラマ的には妥当であり、映画的には妨げでしかない。 活字、言語が機能するシーンだからである。 そうしたドラマ―映画のバランスの中途半端さは、 テレビドラマを始点とするシリーズ映画ゆえの性質にも拠るのだろう。 ステマを含む局の様々なしがらみ、制約、ファンサービスにも折り合いをつけながら、 映画的こだわりが伝わるのが何よりである。 [映画館(邦画)] 6点(2012-09-17 22:19:28) |
459. おおかみこどもの雨と雪
映画に登場する母親の子育てのスタンスを批判するのは実に容易い。 だが、フィクション映画の登場人物が賢くあるべき必要などまったくない上、 子育ての正論などそもそも映画とはなんの関係もない。 人間が不完全で愚かなのは当たり前の話。 あいにく、こちらはご立派で正しい子育て論など アニメーション映画に求めてはいない。 作り手が試みているのは、主人公が愚かであるなりに、間違っているなりに、 子への情愛とその試行錯誤を映画という動態の中でどう表現するかである。 愚直に読書に頼り、独学にこだわる未熟で愚かなキャラクターだからこそ、 睡眠不足で身体を泳がせる様、息を切らしながらの農作業、 涙と鼻水を流しながら瀕死の息子を抱き締める姿、 そして嵐の山中を必死に捜し回る歩みが愛しむべきものとなる。 その中で、『時をかける少女』でも不可逆性の象徴として使われた 坂道や勾配がアクションとドラマの場として活きてくる。 中盤の雪山を延々と滑降するシーンが作画的クライマックスとして印象深いのは、 そこにあるのが自立的な疾走感・爽快感だけでなく、 己の意思ではどうしようもない自然の力が作用しているからであり、 それが親離れのドラマ展開の予告ともなっているからだ。 そして細田印の蒼(空)と白(雪と雲)もまた印象的なシーンである。 [映画館(邦画)] 6点(2012-09-12 23:29:17) |
460. しあわせのパン
いくら寓話とはいえ、この度を越してメルヘンチックで空虚で生活実感のない 主人公夫婦のキャラクターの空々しいあり方は何なのか。 いくら絵空事とはいえ、この度を越して退屈で幼稚で深みのない 妄想エピソードの漫然とした並べ方は何だろう。 生計であるとか労働であるとかは、ことごとくオママゴト以下の描写でしかなく、 山や湖は単に観光向けの小奇麗な風景でしかない。 そしてカップに注がれるコーヒーを、皿に盛りつけられる野菜スープを 単に真上から撮って良しとする安直なショットからは、 食の魅力というものがまるで伝わらない。 そもそも肝心のパンが大して美味しそうにみえないという、 褒めどころのない映画である。 [映画館(邦画)] 2点(2012-09-10 22:45:13) |