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コメント数 106
性別 男性
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41.  特攻大作戦 《ネタバレ》 
あまりにもカットを割るので辟易していたのだが、なるほどこれは視線の映画である。少佐と将校たち、少佐と囚人たち、常に多数が存在する場を提供するにあたり、オルドリッチが役者に厳密に指示したのが目の動きであり、角度を変えることで位置関係を把握させ、目線に生命を与える。そのための異常に緻密なカット割りだったのだ。大佐が部屋から出るたびに演奏を始める指揮者が面白いのも、「例の二人組だ」という伝言が暴行された本人に行き着く面白さもすべて位置関係と目線の面白さである。演習において青軍が赤軍の腕章を着けるのはルール違反であるし、戦争において敵軍将校の服を着て欺くことは条約違反である。ルールを守らず刑を与えられた者たちがルールを破ることで英雄となる。もちろんそういった面白さもあるのだが、何より、死刑囚に一度限りのチャンスが与えられるという適当な材料を料理していかに面白さを作れるか、男臭い魅力を放ち続けるか、その一点においてこの映画はあまりにも素晴らしい。 
[ビデオ(字幕)] 9点(2006-12-29 02:31:46)
42.  断崖
なんという徹底主義であろう。いかなる時もカメラは人物を中心に捉える。執拗に人物の動きについてまわり、中心から逃がさない。たかがそれだけのことである。だがそれだけのことも徹すればエモーションの緊密性を生み出し、連続性を意識させる。そして結果として玄関から別部屋に入り込む刑事を270度パンして追いかける、といった素晴らしいショットまで生み出す。いつものことながらサスペンスの辻褄合わせに関しては中途半端なのだが、それでもやはり、言葉や表情でなくUターンする車ですべてを告げるラストシーンも、そもそも断崖沿いを走るそのショットが、いや不安や疑惑の付き纏う緊密性が、やはり素晴らしい。 
[ビデオ(字幕)] 7点(2006-12-29 02:30:46)
43.  裁かるゝジャンヌ
言うまでもなく映画史にその名を刻むクロースアップの映画なのだが、問題なのは顔のクロースアップによって構成されているという点にある。裁判という言語的な題材をサイレントで撮る。顔で撮る。表情で撮る。それはけして非言語的ではなく極めて言語的な試みである。精神的事実を、魂を、敬虐に語るには表面的な言語では限界があり、表情という抽象性にこそ術がある。ただの切り返しショットではない。精神性を抉り出すかのようなローアングル、行き交う視線、静観するハイアングル。室内にも拘らずあまりに動的な映像は言語的積極性に溢れており、そのモンタージュによるところの動は火刑にいたって至高のものとなり、情動を与える。その精神性を唯一の術によって顕在化した非のない映画である。 
[ビデオ(字幕)] 8点(2006-12-29 02:25:41)(良:1票)
44.  勝手にしやがれ
洒落っ気だとかアンチ・ヒーローだとかかっこいいだとか、そんな陳腐な言葉でしか観客に評価されなかったゴダール。映画という概念の捉え方、映画の本質へと向かう姿勢を示すために、教示的姿勢を気付かせるために、大衆性を排除せざるを得なくなってしまう、これ以後のゴダール作品の方向性を決定付けてしまった呪われた一本である。映画は物語の善し悪しでは決まらない。たしかに物語が良質と思える傑作は多くあるのだが、それは物語を映画的に解体し語っているから面白いのであって、決して物語が面白いのではない。 「8数えるまでに笑わなかったら絞め殺す」 パトリシアの部屋で行われる長回し、アフレコによって自由に一瞬のジャンプカットを挟み、不必要にパンして凱旋門を映したり、奇跡的に美しい車のライトを映したりする。それは要するに阿呆でも気付くところの洒落っ気ではあるのだが、その洒落っ気だけで映画が映画として成立することが重要なのであり、そのことを意識的に観客へ教示しようとする姿勢こそゴダールの特別たるゆえんなのである。映画を構成する要素に「物語」なんてものは存在しない。人、モノ、映像、音、言語、これらを使って物を語ること、それが映画なのである。 
[ビデオ(字幕)] 8点(2006-12-29 02:24:16)
45.  空中庭園 《ネタバレ》 
あまりに似つかわしくないランプシェードを円の動きで捉え続けるオープニング。カメラ自身も回転しながら団地を映し、バスの上から見る街並みを、丸い観覧車を、そして人物を取り囲むように映す。円は恐怖であり、穏やかさであり、輪廻であり、螺旋である。遠くから近づくバスを待つ固定ショットのコーナーにはタンポポがあったりだとか、光の配し方だとかカメラワークだとか、まるで学び始めたばかりのような厳密さがあり、洒脱さに欠け、退屈ではあるのだが、しないよりはマシというのも事実なのだから仕方がない。また小泉の二面性を表すフォークのシーンや、変化を表す「死ねよ」という言葉も私にはその裏切りの展開や方法論が何とも凡庸に感じられるのだが、何とも嬉しいことにこの作品には何とも素晴らしい「映画的帰結」が詰め込まれていた。秘密のない家族、秘密のある事実。母親の愛情不足の所為で人生が狂ったという思い込みの認識と注がれていたという事実。いま中で出して卵子に精子が届けばすぐに家族になれちゃう事実、思ったよりも簡単に気付かないところで愛は生まれているという事実。母親からの「誕生日おめでとう」の電話で思い込みから解放される小泉。ベランダに出て、血の雨を受け、浄化される小泉。泣きながら血まみれで産まれてくる赤ん坊のように、血まみれで泣き叫び、生まれる。何とも映画的ではないか。これでいいんだ。この豪腕さが、映画なのだ。 
[DVD(邦画)] 7点(2006-12-29 02:21:51)(良:1票)
46.  カミュなんて知らない
食い入るように観る。それは物語の高揚によるものではなく、映画の高揚によるものであることを知る。映画が映画であり、映画の魅力とは映画の魅力であったことを思い出す。ゴダール・ウェルズ・アルトマン・溝口健二・サイコ・メルヴィル・ラング・ベニスに死す・・・言葉で捧げるオマージュは容易であり、軽薄である。だが柳町光男は意思継ぐものとして作品を捧げてくれたのである。単体として捉えた時、長回しはたかが技術と努力であるし、クレーンショットや陰影の美しさ、エロスの質感や瞳の水気は単なる細部の豊かさに過ぎない。だが細部の豊かさを徹底することが映画にエモーションの連続性を与え、映画的サスペンス体験の緊密性を保つのである。そしてそういった才覚と人柄に恵まれた作家こそがシネフィルの眼に耳に脳に焼き付く決定的なショット、シーン、シークエンスを生み落とすのである。正常と異常の話が面白いのではない、それを映画の魅力に変換しているから面白いのだ。まずは陰鬱さから距離のあるはずの大学の集団に正常と異常を多岐の関係性に渡って溶け込ませ、果ては、異常と正常の関係性であるはずの映画と営みの境界線を取り除く。感嘆すべきはその関係性の構造であり、語り口の構築である。それこそが映画を魅力的にし、たかが話を面白くしているのだから。 
[DVD(邦画)] 9点(2006-12-29 02:19:07)
47.  話の話 《ネタバレ》 
時折見せる写実的な画のあまりの完成度に緊張感が漂う。何故こんなにも光や土や水や木を捉えられるのだ。何故大きな一枚の画を自由に眺める視点のような、二次元を散歩しているような感覚を作り出せるのだ。  現実世界では、男たちが戦争に駆り出され女の下を去って行き、狼は車の排気でくしゃみをする。夫婦同士でさえ仲良くできない両親と言う現実を見せられた瞬間、カラスと林檎を分け合い肩に手を回す子供の夢想はハジけて消える。 一方、牛や猫や男や女が共に縄跳びをし、揺りかごを揺らす2次元の世界。魚までもが同じ画(世界、社会)に収まるフィクションの世界。眩いほどの光を放ち、正体が分からないほどにイノセントな生命。 ユートピアから盗んでしまった子供、ユートピアに近付くための必死の子守唄。 戻ってくる男と戻れない男、片足を失った男。 そして花火。 再び夢想に浸る子供。 それとは対照的に魅力を失っていくユートピア。牛はひとりで縄跳び。男は一人でイスに座る。 必死の子守唄が実を結んだ瞬間。人間ではなく獣によって理想郷を必要としなくなったその瞬間である。
[ビデオ(字幕)] 9点(2006-09-24 12:49:10)
48.  
宗教と王室を守ることを第一義とする右翼体制の政府、警察国家、統治国家に対するコスタ・ガヴラスの批判的思想が生み出した作品であり、また、この作品の歴史的背景には驚嘆させられるしかないのだが、そんな思想より、背景よりも、この演出力である。独特な音楽も大きな魅力の一つであるが、群を抜いているのはカメラワーク。これほどまでに大胆で滑らかな動のカメラを私は知らない。ショットが短く複雑で、クロースアップも多用しているのに疲れさせることなくそれぞれのショットが流麗に繋がっている。モンタージュ技法を応用したフラッシュバックも過不足ない情報量が詰め込まれ、過去の出来事や心象を見事に伝えてくる。これはもう、とっくに政治作品云々を超えた「映画」であろう。細部に至るまでのリアリズムが貫かれているわけではないが、判事と同じく観客も中立の立場から作品に参加させる意図と、演出力によって敢えて行われる軽量化により、魅きつけられてしまう。映画の持ち得る力や魅力が分かり易く詰まった大傑作である。
[ビデオ(字幕)] 9点(2006-09-24 12:46:32)
49.  殺人者たち 《ネタバレ》 
こんなにも「映画」を感じさせてくれる濃い100分はなんと久し振りなことか。オープニングショット、リー・マーヴィンのクロースアップ。サングラスに相棒がうっすらと映りこむ斜めからのショット。『男と女』以上に鮮烈な実際のレース映像。蒸し風呂での脅し。アンジー・ディッキンソンの美しすぎる笑顔を惜しげもなく、鼻水の垂れた醜い顔に変えてしまうその非情さ。二人を撃ち家を出たリー・マーヴィンのよろめきなんてとても形容できない。 枝葉の演出や展開に対するアイデアはことごとく派手であるのにそれをひけらかさない。けして仰々しくしない。例えばアンジーが贈ったブレスレットを数年後に再会したカサヴェテスが身に付けていたシーン。当然ブレスレットにクロースアップするかと思いきやカメラは動こうとしない。観客の期待に応えながらも所々で肩透かしするこのバランスに妙に魅かれる。 脚本としてはアンジーの裏切りが唐突にも感じられるが、それを補って余りある演出力。関係者の話を聞きながら過去の真実を探っていくという展開も一見使い古されたもののようではあるが、展開の中心にいる男がオープニングであまりにあっけなく殺される今作の展開は特異ですらある。 映画史に残すべき傑作。
[ビデオ(字幕)] 9点(2006-09-24 12:44:38)
50.  岸辺のふたり 《ネタバレ》 
死へと漕ぎ出す父親、何もできずにただ見送る幼い娘。四季は繰り返し、時代は巡る。その折々に父を失ったあの岸辺で、父の帰りを待つかのように思い出す娘。ピアノとアコーディオン。枯れる木々。枯れる海原。ただ一つ変わらず回り続け、時代の巡りを感じさせる車輪。死期が近付き、父と再会する娘。走り出す娘。思い続けた愛が素晴らしいのか、人生の無常が寂しいのか、感動が胸を包む。 超適当にどんな作品か説明すると、赤い風船のようなタッチでポネットを描き、無法松の一生を取り入れたような作品。
[DVD(字幕)] 9点(2006-09-24 12:41:28)
51.  夜の人々(1948) 《ネタバレ》 
“この青年とこの娘の物語は正しく伝えられたことがない” 頭に予感が走ったがやはりそうだった。ボニー&クライドである。かの低脳映画、『俺たちに明日はない』とは較べたくもない出来映え。真実 かどうかは知る術がないが、少なくともこの作品には真実味、説得力がある。――何故か――二人の愛、つながり、悲壮感、苛立ち、沈黙を描いているから。キャラクター設定からして説得力がある。ボウイは16歳で罪を犯し、7年間投獄された世間知らずの青年。女との喋り方も分からず、結婚式の最中でも堂々としていられず、これでいいのかな、って顔で戸惑っているような青年。一方のキーチーはアル中の父親と二人で暮らし続け、普通の女の子がすることなんて自分には縁遠いと諦めていた娘。 おれは思う。 本当の純愛物語は童貞と生娘でしか成立し得ない。彼らだからこそ可愛らしいという目で見守ってあげられるのだ。 とまぁここまでは前提であって魅力の本質ではない。 まず目立たないが台詞が粋だ。「タバコを」 {よく吸うね} 「いらないわ」 {持ってない} この極端に短いやり取りだけで、キーチーがいじらしく好かれようとしているのが伝わり、またその後に陥りがちなロマンチックで寒々しい空気を一瞬にして打ち消している。この魅力を作品の中心に据え、一つの映画にまで昇華させたのが『ストレンジャー・ザン・パラダイス』である、というのはまぁいいか。 そしてもう一つの魅力は説得力に裏打ちされた、これまた地味ながら緊迫感と味のある演出。分かり易いのはやはりラストのショット。説得力のあるマッツィの裏切りと演技ののち、静かにキーチーの眠るモーテルに近付くボウイ。この際の緊迫感も大したものだが、重要なのはその直後。警察に気付いたボウイがわずか2歩ほどだが、モーテルから離れる。地味だが、この、キーチーを巻き込みたくないという一貫した想いを行動で描写する演出に素敵を感じさせてくれる。
[ビデオ(字幕)] 9点(2006-09-24 12:38:52)(良:1票)
52.  Mr.インクレディブル 《ネタバレ》 
もう、手放しで褒めてあげたい。先ず観始めてすぐに感嘆させられるCGの完成度の高さ。あの草木の素晴らしさ。CGというだけで毛嫌いする人の多い現在にあって、表現として手法として芸術として認められてしかるべき、市民権を得てしかるべき完成度。作品のスタッフに対して信頼感を持つことのできる、没入できる完成度である。―――個性を排除し、既成概念(道路やビル)を壊す人間を非難し、無理矢理枠に押し込めようとする現代社会に対して、眠らされた個性の解放、そしてそれでこそ深まる絆を痛快に描き出した――――なんてことを感じても感じずとも、超一流に娯楽できる新しき指標となるべき大傑作。それぞれの(勿論フロゾン含め)能力の解放には胸が詰まり、感涙してしまうほど、喜びに満ちていた。
[DVD(字幕)] 9点(2006-09-24 12:36:13)
53.  誓いの休暇(1959) 《ネタバレ》 
片足の悩める男を妻に引き合わせ、偶然頼まれただけの石鹸を律儀に届け、列車で居合わせた家族を救う。母に会い、屋根を修理するための折角の休暇を往路で出会った人々に振りまき、優しさを浪費するアリョーシャ。だが彼にとってそれらは浪費ではなく、後悔する対象でもないだろう。彼はそういう人間なのだ。善意を意識せずに果たしてしまう青年。戦車がすぐ傍に迫り、砲弾の雨にさらされていても、仲間に退却を告げてからしか逃げ出せない。挙句に戦車に追われ、時間に追われ、無自覚のまま英雄と呼ばれるに至る、そんな男の子なのだ。 彼はそれを語らない。黙って石鹸の宛名を書き換え、母親にも途中で寄っただけだから時間がないと話す。 だからこそ唯一実時間で彼と行動を共にし、アリョーシャという人生を間近で感じたシューラの存在は大きい。軍服を着せられ二人が乗り込んだ軍用列車の窓から見える青空の美しさ。頻繁に心情描写を託される空という風景であるが、これ程までの素晴らしさは唯一の経験である。 6日もの休暇を与える将軍も、密航を軽く見逃す鬼のような中尉も魅力的だが、何と言ってもこの作品はアリョーシャ。その人生なのだ。
[ビデオ(字幕)] 9点(2006-09-24 12:31:27)
54.  天国の日々 《ネタバレ》 
映像が綺麗な作品? そうだ、だがこの作品は「映像がキレイ」で片付けられない。そう、映像集ではないのだから。皆さんはあの狂気の瞬間を目に入れただろうか。保ってきた人間性が崩壊する瞬間に訪れたこの映画の躍動を。幾度となく映されていた動物に虫がついて回るという変化を。 イナゴをつかまえて笑っていた少女がそれを叩き出したその瞬間。イナゴの生々しいクロースアップ。はっきりと見えてしまった瞬間。農場主の気品ある穏やかな顔が歪むその瞬間。 画が画でなくなり、ショットがショットでなくなる。 全てが映画へと還元されるその瞬間。  「世の中には持てる者と持たざる者がいる。」少女のナレーションが語る。持てる者がいる以上、持たざる者について回る劣等感。拭い去ろうとすることが持たざる者の人生なのか。 であるならば、狂気とは何と身近なことだろう。
[ビデオ(字幕)] 8点(2006-09-24 12:29:57)(良:2票)
55.  シャンプー台のむこうに 《ネタバレ》 
余命少ない人間が崩壊した家族を取り戻そうとする。いわば定番のプロットだが、美容師コンテストと絡ませることで映画としての魅力をそちらに転嫁し、佳作となり得ている。シドニー・ポラックはこういったごまかし気味に良質のドラマを仕立てるのが巧い。「自分で家族崩壊させたくせに何をいまさら・・・プゲラ」といった批判を正面から受けずにすむ術を知っている。この作品では洗練されたスタイリングという期待を裏切らず(サンドラの変貌ぶりは見事)、ベタだが心躍らされる音楽、次第に姿を変え調子付いてくる市長ら脇役の魅力がそれであり、「せめて男と逃げるべきだ」「栄冠を隠す気か」といった粋な台詞も勿論それである。   というか何というか、レイチェル・リー・クック。 一回戦でヘアブローされる洗練されたレイチェルもいいけど、何といっても最終戦直前、自ら髪を切り捨て、短髪、無言で父親を見詰めるリー・クックは別格。小動物のような骨格と、つるんとした肌、怯えながら責め立てるような少し潤んだ瞳。 あぁ、レイチェル。 あぁ、リー・クック。そんな目で見ないで。そんな目で見られちゃったら僕はもう・・・ っと、危ない危ない。 もうちょっとでシャンプー台のむこうに行ってしまうところやった。
[ビデオ(字幕)] 8点(2006-09-24 12:28:05)
56.  汚れなき悪戯 《ネタバレ》 
子供を捨てちゃうような母親は地獄に堕ちちゃっているので、マルセリーノが天国に行っても会えないんじゃないか とか 病の少女にこんな話したら、私やっぱ死ぬんだ、って落ち込んでしまうんじゃないか とか考えてしまうおれとは対極に位置しそうなこの作品。 がしかし、真相を突き止めるべく潜んでいたお粥さんの指が組まれるその瞬間ばかりは崇める心を共有し、「マルセリーノが あの子が 神に召された」という台詞で信仰が少しだけ沁みこんでくる。汚れなき天使が呼び起こす理解を超えた奇跡。そして汚れなきものがそれを語ることにより私たちが胸を震わす小さな奇跡。この作品は正に神の僕たる修道僧として、忠実な語り部としての立場を保っている。
[ビデオ(字幕)] 8点(2006-09-24 12:26:11)(良:1票)
57.  吸血鬼ノスフェラトゥ(1922)
映画史を遡るしかない我々には元ネタを発見するという楽しみがある。脚本の元ネタは当然だが、数々の構図が後年の作品にそのまま使われていることに驚く。これはつまり模倣することでしか水準を満たすことのできない、カリスマ的なまでの完成度を本作品が有しているという証明だろう。 それにしてもこのシュレックという俳優はその容姿といい、影絵に生かされる長い指といい、まるでこの作品のために生まれたかのような俳優ではないか。  この作品においての影絵とはグロテスク描写を排するための手段であり、美しさであり、光と影の戦いの象徴でもある。船の上部をぐるりと回りこむ際の影はとりわけ忘れ難く、この作品の力強い存在を見せつけられる。
[ビデオ(字幕)] 7点(2006-09-24 12:24:37)(良:1票)
58.  スターシップ・トゥルーパーズ 《ネタバレ》 
確かにこの徹底ぶりを見ると勘違いする観客や批評家がいても仕方がない。“これは逆に反戦映画なんじゃないか”と。 だが違うだろう。バーホーベンは語っているではないか。武力でしか解決できない状況、武力によって重ねられた歴史があるという事実を。アメリカの積極的介入をただ純粋に批判できるような能天気な人間には理解が及ばないだろうが、そう、これから先、全生物が滅亡するまで武力はなくならないのだ(否応なく)。  そしてもうひとつ。「共存はできないのでしょうか!?」「両親を殺されたんだ。皆殺しにしてやる!」 虫が相手とは言え、この台詞に共感してしまうという事実を。 人間の命は尊いと言う。なぜ?――考えるからだ。だが、考える虫の命を尊いとは思えまい。空腹をシンナーでごまかす貧窮国家の人間の子どもは救っても、空腹で農作物に手を出す虫は救うまい。 適当な論理や道徳という脆い柱に支えられた平和主義。バーホーベンはただその現実を誇張し、映し出したに過ぎない。惜しみのない虫の大群。惜しみのない裸体。惜しみのない殺戮描写。恥じらいを感じさせないヒロイック。定石を貫くストーリー展開。 反戦?昂揚?知るか、んなもん。でもお前ら、こんなん好きだろ!? おれにはそんな声しか聞こえない。
[ビデオ(字幕)] 8点(2006-09-24 12:20:33)
59.  さすらいのカウボーイ 《ネタバレ》 
男と女。男と男。幸せを愛に求め、それゆえに愛に誠実な女という生き物。愛を求めながらも、幸せという抽象的な概念を計りきれずに、さすらいを続けてしまう男という生き物。さすらいや自由こそが幸せと考えることも、分からなくなることも、結局は愛に落ち着くこともある。愛を求め、自由を求め・・・飽くことのない繰り返し。それが人生。自由と疲労と少しの優しさが人生。ギター、逆光、オーヴァ・ラップ。さすらいの失われた現代。失われることのないさすらいへの憧れ。煮え切らない感情や曖昧な感傷を包み込むようにフィルムに焼き付けた正に珠玉の一本。
[ビデオ(字幕)] 9点(2006-09-24 12:18:37)(良:1票)
60.  さらば箱舟 《ネタバレ》 
田舎者にしか出せない感覚。 この映画には整合性が無い。欠落しているのではなく、欠落させている。整合性を持たない均整。狂った地点での均整。演出への自信。下品を恥じない演出。時計の魔術、時間の喪失、貞操体、健忘症、死者の穴、血筋、抜け出せない田舎、100年遅れた田舎、モノクロ、緑、音色。全てが土着的で田舎臭くて洗練されている。田舎と都会を兼ね備える者にのみ奏でられる協奏曲。消え去る田舎、連れ去る都会、消え去る時代、消えざる写真。笑えない驚きとの感動的出会い。
[ビデオ(邦画)] 9点(2006-09-24 12:17:21)(良:1票)
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