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onomichiさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 404
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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【製作年 : 1980年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎 《ネタバレ》 
マドンナは竹下景子。  彼女は清楚で可憐で、、、と言えば吉永小百合に近いイメージだけど、博のセリフを借りれば、「美しさの中に知性を秘めたとでも言いますか」、、、で、やっぱりお嫁さんにしたいタイプ。内容もシリーズ中で人気のある作品だけあって、見応え十分。  やはり最後の柴又駅のシーンが素晴らしい。竹下景子が寅さんの袖を掴み、その顔を潤んだ瞳でじっと見る。その視線に答えられない寅さん。これはシリーズ最高のラブシーンではないかと僕は思う。別れの後に「・・・という御粗末さ」とつぶやく寅さんのドテラの後姿が寂しい。あと10年若かったらなぁと。そんなラブシーンの始まりを予感してすっと脇に引くさくらの所作も彼女の複雑な感情が見え隠れしてなんとも言えない味がある。  初期の頃とは違う落ち着いたとらやの雰囲気も良し。下條正巳のおいちゃんはあまり人気がないのだけど、でしゃばらない味わいはそれはそれで良し。
[DVD(邦画)] 10点(2012-04-29 23:26:15)(良:2票)
2.  男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋 《ネタバレ》 
マドンナはいしだあゆみ。  寅さんの悲恋物語。ドタバタもなく、いつもの寅さんとは全く違う雰囲気だったけど、本作は、ある意味で寅さんとは何者か、実はどういう人物なのかということをしみじみと感じさせる素晴らしい一篇であった。寅さんは女性から本気で求められると、受け身になって、すっと自らを引いてしまう。そして自分を「駄目な男だ」と言って一人涙を流す。恋に恋して、恋できない臆病者。それが寅さんなのか。寅さんの流した涙を思い、12歳の満男と同じように悲しくて僕も泣いた。寅さん、あなたはただひたすら優しすぎるのだ。そういう愛があってもいいじゃないか。寅さんが満男に言う。「お前もいつかは恋をするのだろうな。可哀相に」 すると満男が答える。「僕、恋なんかしないよ」と。(10年後の自分に聞かせてあげたいセリフだ)  この回に津嘉山正種がいしだあゆみの元カレで登場する。津嘉山と言えば、オープニングでのドタバタ劇専門でずっと登場していたが、ついに本編昇格かと。彼はその後、『真実一路』でも部長役で登場している。その後のOPドタバタはアパッチけんが引き継いでいる。
[DVD(邦画)] 10点(2012-04-29 23:26:04)(良:1票)
3.  男はつらいよ 寅次郎紙風船 《ネタバレ》 
マドンナは音無美紀子。  夢のシーンに続き、寅さんの小学校の同窓会の場面から始まる。同級生でいじられ役の東八郎が寅さんに逆切れするシーンが切なくて良い。そして、旅先では家出少女の岸本加世子にテキヤ仲間の小沢昭一。テキヤの女房役、音無美紀子は少し翳りのある美しさが光る。この回好きかも。  寅さん、音無さんとの旅先での別れの後、彼女と所帯を持つという決意を抱き、会社の就職試験まで受けるのだけど、結局最後は自分から身を引いてしまう。このパターンは『ハイビスカスの花』『あじさいの恋』や『口笛を吹く寅次郎』などこの時期の寅さんによく観られる。今回も音無さんがとらやの帰り道に寅さんにそれとなく気持ちを確かめるのだけど、寅さんはその気持ちを分かっていながら、答えられない。あれほどとらやの面々に所帯を持つという決意を語っておきながら、いざとなったら何故?って思うのだけど、それが寅さんなのね。音無さんとの2つの別れのシーンはとてもぐっときた。
[DVD(邦画)] 10点(2012-04-29 23:18:40)
4.  男はつらいよ 寅次郎かもめ歌 《ネタバレ》 
マドンナは伊藤蘭。  キャンディーズ解散から2年後の作品である。彼女は、田舎の無教養で少しはすっぱだけど、純朴で熱意ある少女をうまく演じている。とにかく可愛らしい。今回の寅さんは、マドンナの父親役といったところ。いつもの恋騒動はないのだけど、伊藤蘭のことが可愛くて心配で仕方がないという父親のような寅さんの思いが泣かせる。そんな若いマドンナとの交流は『奮闘編』を思い出させる。  そして、伊藤蘭の通う定時制高校の教室でも人気者となる寅さん。最後に寅さんが勉強を志し学校に受験願書を出していたことをさくらが知らされるシーンには泣けた。その願書の寅さんの写真がすごくいいのだ。願書によれば、寅さんが生まれたのは昭和15年11月29日、御年40歳とのこと。(演じる渥美清が昭和3年生まれ) と騙されてしまうところだが、確か寅さんは15歳で家を飛び出し、20数年ぶりに葛飾柴又に帰郷したのが第1作。とすれば、その時37-8歳。(2作目でも38年前に産み落とされたと言っていた) 本作はそれから10年後なので、47-8歳のはず。寅さんは永遠の40歳という話もあるけど、その設定はあまりにも無理があるよ。(サザエさんじゃあるまいし。。。ん? 似たようなものか?)
[DVD(邦画)] 10点(2012-04-29 23:18:33)
5.  旅立ちの時 《ネタバレ》 
『旅立ちの時』の最大の魅力は、リバー・フェニックスその人に尽きると思います。リバーの演技、特に彼の切ない表情がたまりません。 彼と彼女(マーサ・プリンプトン)の出会いのシーン、何気ない散歩のシーン、初めてのキスシーン、自分の思いを告白するシーンなど、それは全て青春のオンパレードとなります。また、マーサ・プリンプトンがとても魅力的で、自分の愛情に正直な振る舞い、彼を一途に思う気持ちが胸を打ちます。それに対し、両親世代には自分たちの生き方に対するほろ苦さがあり、彼ら自身の親との断絶も描かれて、リバーの境遇を通して繰り返される家族の悲劇が僕らの胸を締め付けます。  リバーはとても従順な男の子で、決して両親に逆らわないのですが、そこには彼なりの葛藤があります。熱い気持ちと諦念が同時にあり、それはもどかしくも彼の中で静かに流れていきます。その描かれ方は、反抗の60-70年代とは違うし、現代的な無根拠で等価交換的な若者の振る舞いとも違います。ある意味で、リバーの姿こそ、僕らの世代(80年代をティーンエイジャーとして過ごした世代)の象徴のような気がして、なんとなく心置けない気持ちになるのです。  この家族は、反体制派であり、反社会的な存在の最たるものなのですが、その中にも「愛」があり、そして今や失われた「青春」があります。そして、大人になるということ。その道筋がしっかりと示され、達成されている。実は、とても真っ当な家族の姿だと僕には思えます。
[DVD(字幕)] 10点(2011-05-31 22:21:33)(良:1票)
6.  ハンナとその姉妹 《ネタバレ》 
『ハンナとその姉妹』は、ウディ・アレンの集大成的な映画だと思う。彼の哲学が詰まった作品。これまでのウディ中心の恋愛劇から群像的な方向が打ち出され、以後のスタイルの原型ともなった作品。各人の会話と心理描写が錯綜し、演者の表情や背景/風景が物語に奥行きを与えている。話は、ウディ特有の惚れたの腫れたのという単純な恋愛劇なのだけど、それと並行して、彼自身の生来の問題意識でもある「SEXと死」というテーマが扱われている。ウディ演じるテレビのディレクターが「死」という観念に囚われ、仕事を辞め、宗教に嵌り、最後にそれを乗り越えていく様子とマイケル・ケイン達のプリミティブな恋愛ゲームとの対比の中で、何故ウディ・アレンが映画の中でそこまで恋愛に拘るのかがじんわりと分かってくるのである。  ウディ・アレンは、恋愛をその出会いから成就までという従来のサイクルでは考えない。彼はその終わりと終わりからの始まりを描くことで恋愛の本質、「今、この瞬間の思いを大切にすること」を表現する。「今、現在」は過去の思い出や未来の不安の断片を常に含む、思いがけず、また思い込むことで連続していく様々な瞬間の蓄積としてある。他人同士が分かりあい、そしてすれ違い、我慢し合い、深く知り合う。恋愛がそういう蓄積としてあるならば、それは常に波のように揺れ動くものであり、ある振幅で瞬間的に壊れる可能性もある。あらゆる瞬間の可能性の中で人生という喜悲劇があり、恋愛というものがある。人生という波を微分的に捉え、そこに本質を見出し、それを味わうこと。そういう意志を自然のものとして感じる。  ウディ・アレン映画は、その総体、ひとつのシリーズとして評価することができる。こんな作家は今では他にいないだろう。『アニー・ホール』があり、『マンハッタン』があり、『ハンナとその姉妹』があり、『夫たち妻たち』があり、『重罪と軽罪』があり、『世界中がアイ・ラブ・ユー』があり、、、ウディ・アレンは年をとる毎に彼の「今、現在」を撮り続けることによって人生を表現していると言えよう。
[映画館(邦画)] 10点(2010-06-13 21:06:30)
7.  ナチュラル 《ネタバレ》 
僕にとって涙なしに観ることができない映画です。「人生には2つある。学ぶ人生とその後の人生。」実力がありながら16年間を棒に振ってしまったレッドフォード演じるロイ・ハブスがようやく大リーガーとしての夢に辿りついた時、意に反するその夢の不確かさを語った後に、グレン・クローズ演じるアイリスが呟いた言葉である。 この映画の好きな場面はたくさんあるが、僕はやはり最後のシーンを語りたいと思う。シーズンプレーオフの最終試合。古傷の再発に耐えながら不調に喘ぐロイ。ベンチのロイにアイリスから手紙が届く。その言葉自体は僕らに伝えられない。しかし、そこにはアイリスの子供がロイとの間にできた子供であることが告げられており、その言葉がロイに力を与えたであろうことを僕らに想像させる。手紙を読み、立ち上がるロイ。スタンドを見上げ、ベンチを歩き回り、そして決意を胸にする。ロイは期待通りに逆転のホームランをスタンドの照明灯に打ち込み、チームをプレーオフ勝利に導く。この試合を最後にロイは引退した(であろう)ことが後に続く息子とのキャッチボールのシーンで僕らに伝えられる。確かにクライマックスシーンは派手であるが、僕はこれらのシーンにさざめく静かな感動を覚えた。それは何故だろう。この作品はベースボールを題材とした映画であるが、ベースボールゲームそのものを描いてはいない。なぜなら、ロイが最後にバットに想いを込め、ホームランを捧げたのは自分の息子に対してであるからだ。あの場面でバッターボックスに立ったロイは、既に「その後の人生」に足を踏み入れていたのだと思う。ある意味でこのクライマックスシーンの主役はアイリスとその想いを受け取ったロイであり、彼女の想いがあの結末を導いたのである。最後、親子によるキャッチボールとそれを見つめるアイリス。最後のキャッチボールといえば、名作「フィールド・オブ・ドリームス」が思い浮かぶけど、この映画の最後のキャッチボールは親子の様々な思いを想起させるノスタルジックなそれとは少し違う。何と言っていいか、、、ある確信的な勇気、ささやかながら何か大切であろう心の有り様を僕に思い起こさせるのである。それははっきり言って凡庸たる家族や愛情というタームなのかもしれないが、にもかかわらず、僕は「はっ」と思った時には心が既に溢れ、我知らず涙を流している自分に気付くのだ。。。
[ビデオ(字幕)] 10点(2005-02-14 06:29:03)(良:1票)
8.  レイジング・ブル
『タクシードライバー』では自らの過剰な感情を正義へと志向させ、『キングオブコメディ』でそれを狂気へと潜行させた。その中間に位置する本作『レイジングブル』では、その過剰さの生々しい姿を実に大らかに、そしてシンプルに描いて見せる。 そういう意味で『レイジングブル』は、主人公の過剰な生の有り様が明瞭であり、幸福な時代の幸福な物語なのかもしれない。主人公にはボクシングがあった。自らの抑えがたい感情や衝動をぶつけるものとしてのボクシングが存在したが、もちろん、彼の過剰さは、ボクシングという競技を軽々と超え、周りの人間、兄弟や恋人達を容易に傷つけることになる。気がつけば、周りの人間には愛想を付かされ、裏切られ、そして独りきりになる。彼はつぶやく、『何故だ?』と。そのとき、彼は一人の人間としてのゼロ地点に立っていることに気がつくのである。そこで自分という人間の生の姿を理解し、直視することができれば、彼は狂気へと向かわないし、社会性を失ったりしない。そういうギリギリの確信とその揺らぎが主人公の生き様に通底しているのである。この映画の美しさは、幻想を剥ぎ取った人間の根源的な過剰さに由来するのと同時に、それがまだ歪んでいない実に健康的な立ち姿によるのではないか。この映画が苛立たしくも晴やかな印象を残すのはその美しさ所以であろう。
10点(2004-11-06 20:07:33)(良:1票)
9.  アマデウス
モーツアルトは<神の子>である。神の子として、その天賦の才をもってしても人間である限りにおいて生きるという現実は単純ではなく、彼が苦悩と怖れを抱えて人生を生き、死んだことはよく知られている。モーツアルトを一人の人間として捉えるドラマというのもひとつの観点として興味深いものであるが、実際、その試みはイエス・キリストを主人公とするのと同じように難しいだろう。とはいえ、この映画を天才モーツアルトに対峙する凡庸の人サリエリの物語と考えるのはちょっと違う。サリエリがモーツアルトの音楽についての真の理解者であり、この映画をサリエリという自意識の鏡を通したひとつのモーツアルト像として捉えるのがやはり一番しっくりくるのである。やはり、主役はモーツアルトであり、モーツアルトの神性、人間性をサリエリという自意識を通して語ることによって、僕らは僕らの中の無限のかけがえのなさを語りえるのではないか、というのが僕の<文学的な>捉え方である。 モーツアルトの音楽を語る時、アポロン的な伝統音楽の高度な模倣の上にディオニュソス的な情熱、官能のエッセンスを見出すことが重要である。さらに生と死を行き交う精霊の如く、まさにデモーニッシュな一面により生み落された名作「レクイエム」に至っては、彼が神の子の苦悩を人間的な深みによって表現し得たことを示している。それをモーツアルトのモノローグによって語ることは不可能である。この映画では、サリエリという媒介を通じて、僕らはモーツアルトの心性を知るのである。 サリエリのモーツアルトに対する歓喜、恍惚、忘我、嫉妬、憎悪、愛情を僕らは理解する。芸術とは、神の言葉、御業かもしれないが、それはあくまで人間によって生み落されるものだ。人間という理性の森を通してしか、それは具現化されない。それがモーツアルトの作品であり、サリエリという自意識を通した時、それは僕らに人間的なドラマ<現代的な神話>を提供するのである。
10点(2004-08-15 23:15:59)(良:1票)
10.  ホテル・ニューハンプシャー
「ホテルニューハンプシャー」とは喪失の物語である。家族、或いは父親が真っ当な存在としてのあり方を模索しながらも、結局はそれが永遠に失われてしまったことが語られているのだ。熊とは正にその真っ当さの象徴だったのではないか。この物語の中で、本物の熊が冒頭で殺されてしまうのは、家族としての真っ当さの死を象徴しているのだろう。そして、擬似の熊はその喪失の代替的な役割を担っており、彼らが常に失われたものへの快復を切実に求めていることの証しなのである。父親はその失われたものを快復しようとホテルニューハンプシャーの経営を始めるが、家族はそれぞれに不具を抱えており、さらに新たな喪失にも見舞われてしまう。彼らは、それでも家族としての或いは生きていくことの真っ当さを求めることを諦めず、喪失感の中で彷徨<その象徴がウィーンであろう>し続けるが、結局のところ、彼らは何処に辿りついたのだろうか。もちろん何処にも辿りつかない。村上春樹の小説「回転木馬のデッドヒート」の有名なプロローグは、その現代的な喪失感を的確に表現している。「我々が意志と称するある種の内在的な力の圧倒的に多くの部分は、その発生と同時に失われてしまっているのに、我々はそれを認めることができず、その空白が我々の人生の様々な位相に奇妙で不自然な歪みをもたらすのだ。」 この映画<或いは小説>は、僕らにこう考えることを教えてくれる。それは一種の方法論として。それでも、僕らは意志し、生きていく。それしかないのだと。
10点(2004-02-28 23:35:06)
11.  ザ・ビーチボーイズ/アン・アメリカン・バンド
ブライアン・ウィルソンがブルース・ブラザースと夢の共演を果たしている。それだけでも一見の価値あり。但し、歌の共演ではないが^^; ビーチボーイズに関しては、ちょっとこの場だけで語りつくすことはできない。ただビーチボーイズの偉大さを知る上でもとにかく観て欲しい作品だ。初期のサーフィン/ホットロッドの時代からブライアンの才能溢れる「ペットサウンド」の時代、伝説の「スマイル」製作風景とブライアンがドラッグに溺れていく様、ブラザース時代である不遇の70年代初期とブライアンの復活、そしてデニスの死。まさに原題のごとく一つのアメリカンバンドの歴史を追いながら、それはまさしくポップ&ロックの歴史そのものでもあるのだ。80年代のレーガノミクスの時代、ビーチボーイズがアメリカンロックの象徴として建国記念コンサートに招かれたのは当然といえば当然であるが、不遇の時代にヨーロッパでは認められながらもアメリカから見放され続けた彼らが実際どう思っていたのかは分からない。まぁとにかくビーチボーイズを知るための入門映画として、お薦めの一品である。僕としては、デニスが歌う「You are so beautiful」がとても印象に残っている。ブライアンとカールの入れ替わるPVも暗示的だったな。 そしてトリップ状態のブライアンがソロで歌う「Surf's up」・・・美しくも哀しい。
10点(2004-02-22 04:09:17)(良:1票)
12.  プロジェクトA
僕らの世代はやっぱりジャッキーチェンです。あの頃、ジャッキーチェンの映画は欠かさずに観てましたね。で、ジャッキーチェンの代表作といったら、やっぱりこれ<と「酔拳」>でしょう。これまでのカンフーアクションから、独創的なスタントの世界へと飛躍した彼の記念碑的な作品。サモハン、ユンピョウとのトリオも最高です。ギャグもアクションも冴えに冴えていました。アイディア溢れる格闘シーンと体を張ったアクションの数々。素晴らしいですねー。ジャッキー全盛期の大傑作映画でしょう。今のハリウッドスタイルのアクション映画を観ると、つくづくジャッキーチェンの偉大さを身に沁みて感じる今日この頃です。
10点(2004-01-31 00:39:42)
13.  五福星
最高に面白い映画。サモハン一味のギャグだけじゃない。アクションも素晴らしい。特にジャッキー・チェンのローラー・スケートのシーンはかなりきてます。彼の一連のスタントの中でも衝撃度は1,2を争うんじゃないかな。あと、個人的には香港仲良組の中で、チンケとハンサムが特に笑えたなぁ。とにかく、こんなに笑えた映画はないね。といっても観たのは20年前だけど。
10点(2004-01-31 00:19:45)
14.  ニュー・シネマ・パラダイス/3時間完全オリジナル版
曖昧な記憶だが、確かに「完全版」と呼ばれるものも観たことがある。が、僕にとっては「完全版」であろうが、「劇場版」であろうが、この名作のモチーフは全く揺るがない。大体、なぜ「完全版」なのか?「劇場版」があまりにも不完全で納得いかなかったが故の再編集なのだろうか。もしかしたら、観やすく編集された「劇場版」に寄せられる賞賛の声が作家の思惑と違うという多少ひねくれた理由によるのかもしれない。でも、この2つのバージョンは、元々が同じ水脈の基で創られたものだし、そこで挿入されるエピソードが全く無駄なものだとはとても思えない。<この辺は鉄腕麗人氏と同じ意見です> にもかかわらず、「劇場版」に対して「完全版」の評価が低いというのは、単にこの映画の真のモチーフを多くの人が捉え損なっているだけなのではないだろうか。僕は、この映画が単に映画ファンを泣かせるだけのノスタルジックな作品だとは全く思わない。「劇場版」のレビューでも書いたが、この作品は、アルフレードという良く言えばナイーブ、悪く言えば偏狂的で自意識が凝り固まってしまった男のこれまた偏狂的な人生を解き明かす謎解き物語なのだ。ラストシーンは正にその謎が解ける瞬間。だからこそ僕はあのシーンに胸を掴まされる。老映写技師と少年の心の交流という美しい物語に見せながら、その実、自意識の罠に嵌り、映画という空虚なリアリティに心を奪われた男と、その謎に囚われ続けながらも正反対の生き方を選んだ男、ある意味で大人になりきれず青春の影に押しつぶされた2人の男たちの哀しい物語なのです。その物語に僕は感動したのだ。作品というのは、如何ようにでも解釈可能なものだから、多くの人が抱いた感想に敢えてケチをつける気持ちは全然ないけど、あまりにも同じような声が聞こえてくるので、ちょっとひとこと言いたくなる。それは、単に僕がひねくれ者だからです。あと、映画はやっぱり完全な形でひとつだけ世に出して欲しい。それがそもそもの混乱の元なのだ。
10点(2003-11-06 02:29:04)(良:2票)
15.  悲情城市
侯孝賢監督映画。80年代終わり頃に流行りました。「冬冬の夏休み」とか「恋恋風塵」とかね。で、この2作を太刀持ちとして、どーんと構えるのはやっぱり歴史大作「悲情城市」でしょう。あの頃、ようやく中国映画なんかが国際的に評価されてきて、陳凱歌とか張芸謀の映画が次々と公開されていました。彼らの初期の作品というのは、中国の広大な大地に根ざした裸の人間たちを描くかなり骨太で大味な印象を与えるものでしたが、台湾出身の侯孝賢というのはどちらかといえば繊細で暖かな味わいを作風とする為、彼の作品の方が、僕らには受け入れやすかったように思います。小品を得意としてきた彼が初めて祖国の歴史大作として世に問うたのがこの「悲情城市」です。<それまではこういった歴史を公然と語ることができなかったそうな> 大戦後の日本軍の台湾撤退から、蒋介石による台北制圧までの4年間の内乱を、ある家族の悲劇を通して描いていきます。戦後の台湾の歴史を知らないとなかなか理解できないところもあるかもしれませんが、実際、そこに僕たち日本人が深く暗い影を落としていることが事実としてある以上、それを知らないのは本当は失礼なことなのかもしれません。それはともかく、トニーレオン扮する聾唖の写真屋と少女の静謐な愛情のやりとりが秀逸です。歴史のうねりに翻弄されながらも家族の愛を拠り所とする生き様<そう最後の家族写真のシーンです>には、静かな感動と言い知れぬ哀しさを感じずにはいられませんでした。中国人監督達がその後、商業ベースにしっかりと乗っかったのに対し、一体、侯孝賢はどうしてしまったのでしょうか?ここのレビューで全く人気がないのも忘れ去られた監督故なのでしょうか?ちょっと心配なところです。
10点(2003-10-16 00:03:35)(良:1票)
16.  遥かなる山の呼び声 《ネタバレ》 
『幸福の黄色いハンカチ』へ繋がる前章という位置づけもできるが、倍賞千恵子を中心として見れば、民子3部作の最終章であり、『家族』から10年目の続編という見方が妥当だろう。  この物語は、民子の物語である。 民子(倍賞千恵子)と武志(吉岡秀隆)親子の元に現れる一人の男。高倉健。彼は、70年代を貫く山田洋次作品の中のゲストであり、主役はあくまで民子である。民子は、これまで家族の中の妻と母という立場であり、女ではなかった。今回、『遥かなる山の呼び声』で、高倉健という適役を得て、彼女は初めて女になった。この物語はそういう物語としてある。そこにこそ心動かされる。  高倉健は当時、40代後半。個人的には、この頃(70年代後半から80年代前半)の作品が高倉健の最も「健さん」らしい味わいに溢れていると思う。傑作も多い。男も惚れる。子供も女も皆健さんに惚れてしまう。本作でも寡黙だが実直、男気に溢れ、喧嘩も強い。逃亡犯という陰を持つが頼れる男、「健さん」がそこにいる。  高倉健が別れを告げた夜、「どこにも行かないで、私寂しい」と彼にすがりつく民子。そのシーンの切実さを想うと涙が出る。そして、別れの朝のシーン。列車内でのハナ肇とハンカチ。僕らは2度の号泣を覚悟しなければならない。この映画は山田洋次監督の70年代の作品群の最後に結実した大きな結晶のような作品である。『家族』から始まった民子の受難はここでもまた続くことになるけれど、それは愛という結晶を得ることによって、希望へと結実したのである。  とにかく素晴らしい映画。何度でも繰り返し観られる。実際、昔はテレビで何度も観た。今はDVDで何度も観る。北海道の大自然、時に厳しい自然の姿があり、それを含めた美しさに圧倒される。 本作は、山田洋次作品の金字塔であり、日本映画、不朽の名作である。
[DVD(邦画)] 10点(2003-09-08 00:34:46)(良:2票)
17.  グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版
とても好きな映画。僕が観たのは「グレートブルー」(THE BIG BLUE)でしたが。映像と音楽がとにかく素晴らしいですね。シチリアの白い大地と青い海、青い空のコントラスト。まるで海が奏でたような、静謐でいて躍動感溢れる音楽。ジャックのライバルであり、友人でもあるエンゾのキャラクター造形も何ともいえない味があります。ジャックにとって海とは、父親を奪った悪魔でありながら、常に自らを優しく包み込み、安らかな一体感を誘う大いなる(母なる)存在であったのではないか。その海がまたしても友人であるエンゾを奪った時。。。彼は悩みながらも、最期は海に誘われるがまま、海と同化することを選びます。そこに本当の答えがあると信じ。。。彼の中では自分こそ人の命を奪う海であり、悪魔だと思ったのかもしれませんね。彼にとっては避けられない結末だったのでしょう。彼はジョアンナという素敵な女性に恋をし、普通の生活を始めようとした矢先でもありました。簡単に言ってしまえば、男のロマンということになるのかな?? 大いなるものに導かれ、己の信じる運命に抗えず、自分の本当を確かめる為に、あなたを振り切って出ていこうとする彼氏に対して、ジョアンナのように「Go and see my love.」と言って送り出すことができるだろうか? どうでしょう、女性の皆さん。まぁ現代の普通の男性にとって、可愛い彼女と子供以上に大切なものなんてないだろうけど。
10点(2003-09-07 18:11:09)
18.  ブレードランナー
文句なし。いまさら言うことなし。原作をある意味で超えている。大傑作。
10点(2003-09-07 00:25:11)
19.  ガープの世界
「ガープの世界」とは、“父”の不在を前提とした“母”の崩壊めぐる寓話である。こう言ってしまうと、なんだ江藤淳の「成熟と喪失」の引用かい、と思われるかもしれないが、この物語を読み解くのに、日本型フェミニズムの到来を予見した江藤淳の60年代の名著が手がかりになることは間違いない。なぜアメリカ人のアーヴィングが江藤淳なのか? 確かに「ガープ」に関わらず、「ホテルニューハンプシャー」でもアーヴィングは成熟しない<し得ない>家族の物語を描いている。「ガープ~」は、特に父の不在を前提とした中での、母性の密着と崩壊をテーマとして扱っていると思える。父の不在は、精神喪失の世紀と言われる19世紀からの自明の現象であり、その自明の不在を敢えて物語として設定化した上で描きたかったものは、現代的問題である母性の行方のはずなのである。<ここで言う母性とは、根拠のある自閉性といっていいかもしれない> だから、ガープの母親ジェニー・フィールズは、過激なフェミニストにして、やはり母親そのものであるというアンビバレンツな存在なのだ。これは小島信夫「抱擁家族」と全く逆のシチュエーションであり、アーヴィングは母性を崩壊させない。「すべてを受け入れて赦す母」と「責任に耐える治者としての父」、これは江藤が夢想した国家イメージである。これはアーヴィングの登場人物たちが目指す家族イメージに重なるだろう。江藤にとっての日本は、アーヴィングにとっての家族なのである。そして、それは、母子という最も根源的な関係性を前提としているのである。「ガープの世界」は、この問題に対して、どう着地しているか。ガープは決して成熟していないが、そこには既に失われたものでありながら、成熟する為の根拠を求める意志があり、彷徨があるのだ。「ホテル~」もそうであるが、そこがこの作品の着地点であると感じる。しかし、僕たちにとっては、日本も家族もその根拠を求める意志すら薄らいでるようだ。これこそが江藤が決して認めたくなかったことだが、常に彼の著作に漂っていた現実なのである。最後の最後でこの2人の見通しは決定的に違う方向を向いていたといえるのではないか。そして、今や母の崩壊は成熟を意味しない。父の不在の中で母の崩壊を達成する、それは根拠のない自閉性の罠に嵌ったということなのだ。
[ビデオ(字幕)] 10点(2003-09-06 16:09:52)(良:1票)
20.  蜘蛛女のキス
とても哀しいラブストーリーだと思う。恋する感情を強烈に見せられると、なんで人は哀しい気分になるんでしょうね。三島由紀夫が「豊饒の海」で恋愛とテロリズムを同列に扱っているが、恋への妄想も現実変革への希求もその心情の過剰さは抗いがたく、すべては叶わぬ想いの中で自らの美意識に消えゆくのみか。
10点(2003-09-06 15:12:59)
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