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プロフィール
コメント数 731
性別
自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


…………………………………………………


人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


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41.  星の王子さま(1974) まだ映画館が入れ替え制じゃなかった中坊の頃、朝から夕方まで続けて3回見ました。それからサントラLPも買って、何度も何度も聴きました。その後、残念なことに1度も再見する機会がないままだけど、この映画を愛おしむ気持ちは、今も変わりません。それが多分に、記憶の中で美化されたものであることを承知しつつ、あらためてこの映画にささやかなオマージュを捧げたいと思います・・・。 ぼくはこの映画の、何よりその“小ささ”を愛する。アメリカのミュージカル作品でありながら、大規模なセットも、華麗なダンスシーンも、目を見張るようなカメラワークとも無縁な、むしろそういった「メイド・イン・ハリウッド」的な(あるいは、「ブロードウェイ」的な)要素とは徹底して逆をいくその“小ささ”を。それはあくまで原作に忠実であろうとしたからであり、「見えるもの」よりも、「見えないもの」こそが大切なんだ…と語りかける物語が要請したものであるだろう。いかにもアメリカ映画らしいスペクタクル(見せ物性)じゃなく、スペキュレイティブ(思索的)なものをめざされた映画。その静けさと、純粋さ。 だからここでは、あのジーン・ワイルダーですら驚くほど透明感あふれる演技を見せるのだし、ボブ・フォッシーの演技と圧倒的なダンスも、それ自体は過剰なまでに突出していながら、決して作品を破壊するものではない。それすら精神的なものへと消化=昇華され、この、「愛と孤独をめぐるささやかな寓話」へと内面化されていく。その慎ましい“小さな(寓話)世界”を構成するものとして、静かにおさまっていくのだ。 もちろんこの作品は、難解でも、知的ぶったシロモノでもない。だが一方で、有名な童話をミュージカル映画化した単なる「ファミリー映画」でもないだろう。これは、「本当に大切なものは目に見えない」という、その「目に見えないもの」を映画にしようとした、ほとんど無謀なと言ってもよい作品だ。そしてぼくという観客には、確かにその、「大切なもの」が見えたように思えたのだった。 ・・・たとえ世界中がこの映画を忘れても、きっと、ぼくは決して忘れない。[映画館(字幕)] 10点(2005-07-22 14:03:51)(良:1票) 《改行有》

42.  ミリオンダラー・ベイビー 《ネタバレ》 母親に家を贈ったものの、「こんなものより金をよこせ!」と毒づかれたヒラリー・スワンク演じるヒロイン。傷心の彼女は故郷からの帰り、イーストウッドの老トレーナーに「あたしには、もうあなただけ」と言う。ふたりは、老トレーナーが大好物のレモンパイが美味しい店に立ち寄る。そしてひとくちほおばった彼は、「もう死んでもいい…」とつぶやくのだ。 それは、もちろんレモンパイの美味しさに対してのつぶやきではあるだろう。けれどぼくたちは確信する。それが、「あたしには、もうあなただけ」というヒロインのひと言に呼応するものであったことを…。 イーストウッドはこれを、「父と娘のラブストーリーだ」と言う。つまり、それぞれ相手の中に「父親」と「娘」を見出していく主人公たちの“精神的な絆”と、その精神的な「愛」を描いたものだ、ということか。けれど映画を見終わってぼく(たち)は思うのだ。いや、違う。これは、「父親」のような男と「娘」のような女の「ラブストーリー」以外の何物でもない、と。「女がボクシングなんて!」とまったく相手にされなかった彼女が、それでもこの老トレーナーだけを頼りにした時から、すでにふたりは愛しあっていた。だから彼女は、まるで生を燃焼し尽くすように戦い続けたのだ。自分のためじゃなく、老トレーナーのために。彼のため、一刻もはやく「年老いる」ために!  …年老いることを、「死を目前にした肉体と精神」あるいは「死へとなだれ込んでいく状態」と定義するなら、全身マヒで寝たきりになった彼女は、もはや老トレーナー以上に「年老いた」存在に他ならない。そして彼女は、ある意味こうなることを望んでいたのではないか。何故ならこのふたりは、そういうかたちでしか「愛」を成就できなかったからだ(「父」と「娘」ではなく、ひとりの「男」と「女」になるための試練…)。確かにそれは悲劇的で残酷な結末かもしれない、けれどその時、誰がこのふたりを「不幸」だなどと言えるだろう。 ゆえに、最後に老トレーナーがとった行為は、決して社会的倫理的に“許されざるもの”ではあり得ない。あれは、まさしくひとつの、絶対的な「愛の行為」であり、ふたりが“ひとつ”になった瞬間なのだ。 そう、これは74歳のイーストウッドだからこそ撮れ、演じ得た、唯一無二のラブストーリーである。ただただ、素晴らしい。[映画館(字幕)] 10点(2005-05-31 14:06:03)(良:8票) 《改行有》

43.  村の写真集 映画の終盤近く、ダムに沈む村の人々を写真に撮り続ける父と息子が、山道で立ち止まってふもとの景色を眺める場面があった。そこには、山々に抱かれるようにして村落が広がり、いろんな生活風景が繰り広げられている。農作業に勤しむ老人、洗濯物を取り入れる主婦、学校帰りの子どもたち、自転車をこぐ女子高生、散歩する犬、…。そのひとつひとつを、画面は衒いなく、ただ丁寧に映しとる。そしてぼくという観客は、このなんでもない短い場面に途方もなく魅せられ、いつしか涙ぐんでいる…。 そう、これは、何よりも「風景」の映画だ。徳島の山深い自然の風景ばかりでなく、たとえば人間の日々の生活や営みをも「風景」としてとらえ、見つめるまなざしによって創られた映画。父と子、家族の葛藤と和解を主題としながら、それすらも「風景」のなかの点景として描く映画なのだ。しかも、決して高みから見下ろすような(ある種“傲慢”な)「神の視点」なんかじゃなく。 そんな、「人間」をも「風景」のように見つめること。日が昇り日が沈み、風が吹き木立を揺らすようにして“時間(とき)”が過ぎるごとく、人は生き、やがて死んでいくことを、ひとつの「風景」としてスクリーンに映し出そうとすること。…その時、この映画は、大げさじゃなくひとつの<コスモス(=宇宙・調和・摂理)>をフィルムのなかに創造し得たのじゃないか…と、ぼくは思う。 繰り返すが、それは決して「運命」だとか「死生観」だとかといっただいそれたものじゃない。それは、慎ましい人生の哀歓を、「物語る」のではなくそっと「見つめる」ことで成立していたかつての日本映画のように、ささやかだけれど美しい「風景」それ自体なのだ。 …かつて本作の三原監督が、『風の王国』で福岡アジア映画祭でグランプリを受賞した時、その作品を強く推したのが台湾の候孝賢だったという。彼もまた、「人間」を「風景」のように見出し、映し出す監督に他ならない。そう、『村の写真集』は、たとえるなら候監督の『恋恋風塵』のように美しい映画なのである。 拍手![試写会(字幕)] 10点(2005-05-17 21:21:53)(良:2票) 《改行有》

44.  真夜中の弥次さん喜多さん 《ネタバレ》 見終わって、しばし絶句。思わせぶりなモノクロ映像から始まるものの、その実まるで陰影のないペラペラの画面。もはや“破綻”などということ自体が空しくなるほど、いきあたりばったりの展開。意味深のようで、いきなりナ~ンチャッテと足下をすくわれるだけでしかないエピソード。テレビの最悪な部類のバラエティ番組に比べても「笑えない・面白くない・痛い」コント風の意味不明なシーンの数々…。なんだコリャ、悪い冗談か? と思われても仕方あるまい。 しかし、ここまで見る者に居心地の悪い思いをさせつつ、その“居心地の悪さ”には、一方で不思議な切実さというかなまなましさがある。そう、もはや失笑すら出ないような、ほとんど“不愉快”なまでのこの映画が持っている<感触>を、ぼくたちはすでに知っているじゃないのか。何故なら、それはぼくたちがこの「現実」を生きていく上で多かれ少なかれ常に感じている<感触>、笑えないコントの連続めいたリアリティの希薄なこの「現実」そのものの感触に他ならない…。 主人公の弥次さん喜多さんが、何を求めて旅を続けていたかを思い出そう。彼らは、すべてがナンセンス(=無意味)な“この世”にあって本当の「リヤル」を探していたのだった。その時、そんな二人をとりまくナンセンス(=馬鹿馬鹿しい)な事件や脱力ものの展開は、カタチこそ違えど、家庭で、学校で、職場で、あるいはこの社会のどこであれ、日々ぼくたちが遭遇し、感じているあの「気分」…リアルなものの薄っぺらさや嘘っぽさを、これ以上なく「リヤル」に表象したものとして迫ってくるのだ。 監督・脚本のクドカンは、はじめから「良い映画」なんて撮ろうなんて思っちゃいない。彼はこのフィルムに、この今という「現実」そのもの(の「気分」)だけを切り取り(=撮り)、映し出そうとした。不快で不愉快でまったりと希薄なその<感触>を、そのままこの男の「天才」はフィルムに描きとったのだ。…もしアナタがこの映画を見て不快や不愉快な思いにとらわれたなら、それは間違いなくこの映画における「正しい」見方なのです。ぼくたちは、こんな不快で不愉快な「現実」を生き、でもどこかで本当の「リヤル」を夢見て生きている。そう考えると、とても「泣ける」映画じゃありませんか…いや、マジで。[映画館(字幕)] 10点(2005-04-19 21:47:26)(良:2票) 《改行有》

45.  新ドイツ零年 主人公のレミー・コーション(主演のエディ・コンスタンチーヌは、ゴダールの『アルファヴィル』でもこの“レミー・コーション”役を演じている。そこでは「探偵」として、だったが)は、東ドイツに何十年も潜伏していた西側のスパイ。しかし社会主義体制が崩壊し、東西ドイツが統一されたことで自らの「存在理由」を喪い、かつて自分が属していた[場所(=世界)]へ戻ろうとする…。 この映画を見て、まず何よりも鮮烈に印象づけられるもの。それは、主人公の「孤独」の深さだろう。かつて『アルファヴィル』において、「言葉=思考」を人々から奪い絶対的服従を強いる全体主義世界を破壊し、アンナ・カリーナ扮するヒロインとともにさっそうと車で画面から消え去っていったレミー・コーション。その“英雄”がここでは、まったく役立たずの老スパイとして登場する。しかも、その任を解かれた今となっては、彼という「存在」はまったくの無に等しい。これまでの何十年かが、ベルリンの壁が消え去ったのと同時に“零”となってしまった。もはや彼は何者でもなく、何物も持ってはいない。その深い、深い「孤独」こそが、本作のトーンを決定している。 実際、この映画は1980年代以降のゴダール作品にあって、最も沈鬱で、内省的で、夢想的だ。レミー・コーションの独白(モノローグ)は、そこで何が語られているかではなく、その言葉がどこへも行きつかず、誰によっても受け止められないことの悲哀によってこそ「意味」を持つだろう。彼は、車ではなく徒歩によって移動する。おぼつかない足どりで、凍った湖を渡り、息をきらして道ばたにへたり込む。その歩みに過去の映画の断片や歴史的映像がコラージュされる時、映画は、この老いた男こそがドイツの、ひいては西欧の「歴史」そのものの[アレゴリー(寓意)]であると観客に示そうとしているのだ。東西ドイツの統一に湧く当時にあって、そっと西欧の“黄昏”を奏でるゴダール。だからタイトルの「零年」とは、“終わりの始まり”を意味するのに違いない。 そしてそういったこと以上に、ここにはゴダール自身の心情が、その「孤独」が、これまでにないほど吐露されているのだと思う。…映画の中で、「帝国は唯一であることをめざし、人は二人でいることを夢見る」というような台詞があった。「孤独」を定義するのに、これほど美しい言葉をぼくは知らない。[映画館(字幕)] 10点(2005-03-31 19:28:45)(良:3票) 《改行有》

46.  ビフォア・サンセット 《ネタバレ》 映画の初めの方で、ほんの少しだけ前作『恋人までの距離《ディスタンス》』の映像が登場するところがある。そこには9年前のイーサン・ホークとジュリー・デルピーがいて、やはり若いというか、初々しい。その後、あらためて画面に現在のふたりが映し出される時、ぼくたち観客もまたある深い感慨にとらわれるだろう。「ああ、あれから本当に9年たったんだ…」と。 9年前に出会ったアメリカ人青年とフランス娘の、パリでの再会を描く本作。映画の中のふたりも、演じるイーサンとジュリーも、それぞれ9年という歳月を経てきたことを、この10秒にも満たない前作のインサートによって実感させる。それだけで、いとも鮮やかに虚構と現実それぞれに流れる“ふたつの時間”を重ねるのだ。あわせてこの作品は、85分という上映時間と物語の進行をシンクロさせるという“離れ業”を実現してみせる。今は作家となったイーサン・ホークがパリを発つまでの85分間を、映画はきっちり85分で描いてみせるんである! …この「演じる役者/演じられる登場人物」、「映画の上映時間/映画の中の時間」という“現実と虚構”の境界線を曖昧化することで、そこには、「真実味(リアリティ)」という以上の「リアル」が実現されているだろう。イーサンとジュリーはただこの役を演じていうのじゃなく、この役を「生きている」という…。その上で、映画の中のふたりが「9年間」という《ディスタンス(距離)》を「85分間」で埋めることが出来るかどうか、観客もまた固唾を飲んで見守り続けることになる。それはどんなサスペンス・ドラマよりもハラハラさせられ、またどんな人間ドラマよりも人生の“真実(リアル)”に満ち、さらにどんなラブストーリーよりも“恋愛(あるいは、男と女)”そのものの核心を、ぼくたちに見せて(=教えて)くれるに違いない。 そして見終わった後に、ぼくたちはきっと確信する。イーサン・ホークとジュリー・デルピーのふたりは、間違いなく「映画史上最高のカップル」である、と。何故ならこのふたりは、この現実においても間違いなく「最高のカップル」に違いないのだから。…少なくともこの映画を見たアナタなら、その一点においてきっと誰もがそう思ったことでありましょう。 …でも、ジュリー・デルピーLOVEな小生にはツライ映画だったよぉ~。何でユマ・サーマンと別れたんだよぉ、イーサン・ホーク!(笑)10点(2005-03-22 16:44:50)(良:1票) 《改行有》

47.  Mr.インクレディブル 《ネタバレ》 世論の圧力(!)で引退を余儀なくされた元スーパーヒーローが、夜な夜なかつての仲間と人命救助なんかをコソコソとやっている…。このくだりに大笑いしながら、確信しましたです。うん、間違いない、これは単なるアニメを超えて、現代アメリカ映画におけるエポックメーキングたり得る大傑作だ! と。 正義のヒーローが、その圧倒的なパワーゆえに人々から敬遠され、“リストラ”される。誰もが「平等」であるべき社会にとって、彼らは許されざる者たちだっ! …これまで、ヒーロー礼賛を繰り返して飽くことを知らなかったアメリカ映画にあって、こういうカタチでその存在を“否定”する作品が(それも「子ども向け」アニメで!)現れるなんて。しかも、スーパーパワーという「個性」の発揮を抑圧された弟の鬱屈や、その「個性」ゆえに“自分は他の人と違う”と引っ込み思案な姉、そして、そんな夫や子どもたちに頭を悩ませる妻…と、ここには、思春期の問題やら、個性の画一化やら、家庭の事情といった、様々な〈主題〉が見事に織り込まれ、それぞれの日常がきっちりと画き込まれている。繰り返すけれど、それもあくまで「(一応は)子ども向け」アニメーションとして、だ。 彼らを危機に落とし入れる、主人公の崇拝者だった元「オタク」少年の屈折したキャラクターを含め、本作の人物造型は、昨今のどのジャンルの作品以上に錬り込まれ、アニメ的誇張を施されているとはいえ「リアル」な説得力に満ちている。その上で、アクション/ファンタジー/アドヴェンチャーの面白さを損なうことなく、万人向けのエンターテインメントとして成立させた、その何という力わざだろう。 「家族愛」と言うより、これは正しく「個性的であること」、それを発揮できることの大切さを、きわめてソフィスティケートに展開してみせた映画に他ならない。…どなたかもおっしゃっておられたように、ぼくも、ブラッド・バード監督はこの作品によって完全に「宮崎駿を越えた」と思います。脱帽!!10点(2005-01-21 12:58:21)(良:6票) 《改行有》

48.  コラテラル マイケル・マンという監督は、常に“反社会的な者たち(アウトサイダー)”を描く。そして、その生きざま(や、死にざま)を、ひたすら〈崇高〉なものとして描き出すのだ。彼らはみな、社会に、運命に立ち向かい、反逆し続ける。その姿(というか、魂)は、英国の思想家エドモンド・バーグが言う〈崇高さ〉そのものだ。 「我々が崇高を感得するのは暗い森林や寂しき荒野、ライオンや虎や豹や犀などの姿においてである、(中略)それが解き放たれていて人間を無視していることの強調によって、少なからぬ崇高な姿に盛り立てられているが、そうでなければこの種の動物の描写は何一つ高貴な要素をそなえぬであろう」(中野好之訳) …しかし、トム・クルーズ扮する殺し屋を主人公のひとりとする本作は、いかにもマイケル・マンらしいようで、これまでの作品とはどこか異質な印象を与える。それは、常に脚本にもクレジットされていた彼の名前がここにはないことからくるのか。あるいは、120分という彼の映画では(『ザ・キープ』を除いて)最も短い上映時間によるのか。デジタル・カメラによる奇妙なほど奥行きと陰影を欠いた映像によるものなのか。 …そう、まるでスコセッシの『アフターアワーズ』や『ヒッチャー』にも似たこの悪夢めく「不条理劇」は、むしろ製作者のひとり『エルム街の悪夢3/惨劇の館』の監督チャック・ラッセル(同じく製作に名を連ねるフランク・ダラボンも、あの映画の脚本家だった…。このご両人、どんな仲?)あたりこそがふさわしい。その意味において、マンは単なる「御用監督」でしかないのだろうか? … しかし映画の中で、ロス市内の道路を2頭の野性のコヨーテが悠然と横切った瞬間、ぼくたちは確信するのだ。あのコヨーテたちこそ「解き放たれて人間を無視している」ことで孤高を生きる、マイケル・マン的存在に他ならないことを。そして、殺し屋とタクシー運転手もまた、その瞬間から夜のLAという「荒野」を生き、死んでいく者たちとして「解き放たれ」る。まさしく「ライオンや虎や豹や犀」のように生き始めるのだ。だからこそラストの、よく生き、よく死んだ両者の姿は、かくも〈崇高〉で、ただただ美しい。10点(2004-12-03 14:39:04)(良:5票) 《改行有》

49.  レッド・バロン(1971) 実際にジョン・フィリップ・ローなど役者を操縦席に座らせた複葉機が、大きく空中で一回転する。と、役者の真正面に据えられたキャメラは、その表情とともにバックに広がるヨーロッパの田園地帯の風景をも映し出す…。 この「究極のリアリズム」の前には、もはやどんな最新のCG映像も太刀打ちできまい。もちろん空中戦のシーンでも、本当に役者が空を飛ぶ飛行機上で“演技”している。つまり彼らは、その時「本物のパイロット(もちろん、操縦しているのは別人だろうけれど)」として、画面の中で君臨(!)しているんである。そう、彼らは、第一次世界大戦の“空の勇者”を演じるというより、その生身(なまみ)でもってパイロットが見た・感じたままの“現実(リアル)”を「再現」しているのだ。 ロジャー・コーマンの映画は、一連の“エドガー・アラン・ポーもの”をはじめゲテ物と蔑まれるようなB級映画であろうと、ロケーションと美術セットに対する感覚において際立ったものを持っている。彼の監督作を見たなら、そこに映し出される森や池、古い城壁それ自体がドラマを暗示し、見る者をその作品世界へといざなっていくものであることを誰もが認めるだろう。さらに、どんなに低予算であろうと、登場人物以上に「物語」を雄弁に語るあの美術セット。…そう、コーマンは決して役者たちの演技やセリフによるのではなく、あくまで“画”によって恐怖を、悲哀を、官能を、憎悪を、狂気を、…そう言った人間の内面の「闇(=病み)」を描く術において卓越しているのだ。 そんな彼の資質が、この生涯で唯一(?)の大作においても遺憾なく発揮されている。19世紀的騎士道精神を生きる“レッド・バロン”ことリヒトホーフェンの驕慢さと、その背後に隠された「滅びへの意志」。一方の、英国軍パイロット、ブラウンにおける徹底した上流階級に対するルサンチマンとその「破壊衝動」。その相対立する葛藤劇を、コーマンは、役者を複葉機に乗せて飛ばす全編にわたっての空中シーンという形で“画”にしている。言い換えるなら、役者たちというフィジカル(肉体)な“実体”を用いて、メタフィジカル(形而上的)な“精神”を描くこと。そこにこの映画における「野心」があったことを、ぼくは信じて疑わない。 …監督としてのロジャー・コーマンを、今一度ぼくたちは再評価するべきだ。10点(2004-11-04 16:13:10)《改行有》

50.  第7騎兵隊 《ネタバレ》 たぶん↓のお二人と同様、関西の地方局によるテレビ放映で見ました(こんな古い西部劇を流してくれるあたり、ほんと“ビバ! サンテレ”ですよね。サイケデリコンさん)。でもって、確かにご両人のおっしゃる通り、お話的にはどうにも盛り上がらない。だって、カスタ-将軍の第七騎兵隊が全滅した“リトルビッグホーンの戦い”は、生き残った騎兵隊員の口で語られるだけだし、クライマックスにしても、結局のところインディアン対騎兵隊の銃撃戦などないまま、1頭の馬(!)の出現があっさりと戦闘を解決してしまう。派手なドンパチだけを期待する向きには、やはりおすすめ出来ません。 ただ、映画のはじめ近く、人の気配のない砦の様子をさぐるランドルフ・スコットの主人公が、砦の内部を見渡す場面がある。カメラは主人公の視線のままぐる~りと360度パンしていくんだけど、最後に映し出すのが主人公のスコットの顔! …人は鏡でもない限り、決して自分の顔を見ることはできないよね。だのに、はじめは明らかに彼の“眼”としてあったカメラが、最後に自分自身を見るといったこのシーンは、あくまでさりげなく、けれど実に大胆なものだと思わずぼくは興奮させられましたです(強いて言うなら、アラン・レネの『去年マリエンバートで』の名高い360度パンに匹敵するくらいの…マジっすよ!)。 さらに、この映画は西部劇のくせに室内場面が多いのだけど、手前の人物と、背景の両方にカメラのピントが合っているパンフォーカスで撮られている。それだけでなくテーブルなどの小道具と壁の色が統一されているなどの演出により、この「壁」が何とも生々しいっていうか、異様にぼくたち観客の眼差しをひきつけてやまないっていう点も、指摘しておきたいと思う。こんなに「壁」を意識させられたのは、これも大げさな例をもってくるなら、カール・ドライヤーの『奇跡』以来じゃないかな。ホンマっすよ! …これが鈴木清順の映画とかなら、「なるほどスゴイや」と感嘆すると同時に納得もさせられるそういう画面の“突出ぶり”を、こんな日本未公開の名もないB級西部劇で目撃させられることの驚き。そのことにこそ、ぼくは興奮したいと思う。たとえこの映画の監督が、一部ではカルト的な人気と評価を得ていることを知らなくても、テレビのモニターからでさえ作品の“特異さ”はひしひしと伝わってくるのだから。ただただ、スゴイです。10点(2004-10-20 13:00:12)(良:1票) 《改行有》

51.  大列車強盗(1903) 走る貨車のなかで、列車強盗と守衛が撃ち合っている。こんな至近距離でよく弾(たま)が当たらないもんだなあという、何とも牧歌的(?)場面。しかし一方で、彼らの背後は扉が開いたままになっていて、そこには流れるような森の光景が映し出されている。この映画を見ると、いつもぼくの眼はそこに釘付けとなってしまう…。 もちろんスタンダードサイズの映画だから、ほぼ正方形に近いフレームの映画のなかに、もうひとつ「開かれた扉」というフレームがある。そしてそれは、ぼくの記憶ではヴィスタサイズ風の横長で、そこに映し出された“流れるような森の光景”の映像には、見るたびいつも陶然とさせられてしまうのだった。 あるいは、登場人物たちの服装やちょっとした小道具など、その細部(ディテール)がもたらすリアリティはどうだ。この映画が撮られた1903年と言えば、まだワイルド・バンチ一味も、ブッチ・キャシディ&サンダンス・キッドも実在していた。西部劇の主役たちが生きていたんである! この映画に描かれたものは、すべて当時の「現実」であり、それを再現したものであるのに他ならない。そしてそれは、今なお本作を、フィクションでありながら「ドキュメンタリー」的な生々しさを見る者に与えないだろうか(少なくともぼくは、そう感じた)。 他にも、100年以上前に作られたこの10分程度の映画は、今なお、ぼくという現代の観客を魅了する部分に事欠かない。それは決して「歴史的」やら「骨董的」な意義だのとかじゃなく、まさに1本の「映画」として、ぼくの瞳と心を奪ってしまうのだ。 …例えば、有史以前の人類が洞窟内に描いたラスコーやアルタミラの壁画。その単純な線と色彩による馬や牛、人などの絵は、驚くべき力強さで見る者を圧倒する。それを「古い」とは、誰も言えないだろう。それは「古い」のではなく、「オリジナル(原初・起源)」だからこそ永遠の“生命”を持つ。同じくこの映画もまた、真の「オリジナル」として永遠に「新しい」のだと、ぼくは信じている。10点(2004-10-13 11:46:23)(良:6票) 《改行有》

52.  LOVERS 《ネタバレ》 男2人・女1人の「三角関係」ドラマは、“誰に感情移入できるか”じゃなく、3人のいずれにも感情移入できる…というか、いずれの心情をも理解できるか否かが大事なんんだと思う。愛する者、愛される者、愛されなかった者、それぞれの苦悩や歓喜、とまどい、揺れ動く想い…。そんな3者それぞれの“立場”を、観客はハラハラしながら、切なさに涙しながら、その行方をただ見守っていく。そして、一方的なハッピーエンドなどあり得ない(2人の恋が成就した時、そこには、かならず1人の“敗者”が残される…)という「真理(!)」を体現するがゆえに、すぐれた「三角関係」ドラマは、ぼくたちに《愛》というものの甘美さと残酷さを「経験」として与えてくれるのだ。 …ぼくはこの映画の、チャン・ツィイーに、金城武に、とりわけアンディ・ラウに、心から魅せられた。彼らのいずれをも、ぼくは人間として「共感」できたのだった。それは、CGとワイヤー操作を駆使したどんなに華麗なアクションシーン(たとえそれらが、あの素晴らしいキン・フー監督の『山中伝僖』や『侠女』をより精巧に“再現”したものだったにせよ)よりも、はるかに息詰まり、胸を高鳴らせ、眼を逸らせない、男と女と男の情念の闘争劇を繰り広げていた。確かにあざとく、作り過ぎの陰謀をめぐるストーリーでありながら、彼ら3人の「愛」をめぐるドラマこそが見る者を圧倒するのだった。 このような「人間(の愛)」を、チャン・イーモゥ監督がかくも正面きって描いたことなどなかったはずだ。イーモゥの映画は、これまで常に「人間」など物語の、あるいは映像(…彼の映画を見ていると、いつも「はじめに映像ありき」という倒錯した想いにとらわれてしまう。あの色彩も、あの構図も、すべてが空しいまでに美し過ぎる)のための“手段”でしかない。なるほど、彼は「天才的」な映像の作り手であり、物語の語り手かもしれない。しかし、そこには、「人間」がいない。つまり、「愛」がないのだった…。 そんなイーモゥが、ついに「人間(の愛)」を描いた。相変わらず審美的すぎる「美しい画」の洪水のなか、それでも確かに「人間」の息づかいが聞こえてきた。 …それゆえ、ぼくはこの映画を愛する。 10点(2004-09-24 20:10:59)(良:1票) 《改行有》

53.  最後通告 《ネタバレ》 「子ども」という《概念》が登場したのは、近世になってからのことだ。それまでの社会は、子どもたちのことを、「大人になる前の“半端”な存在」としか認識していなかった。「子ども」が無垢で、大人たちとは“断絶”した彼らだけの「世界」に生きているなどという「子ども観」は、少子化をむかえ、「少なく産んで大切に育てる」ことが可能になった近代に成立したイデオロギーにすぎない。中世までの「数多く産んで、生き残った者を育てる」という、あの頃の医療水準では仕方のないことだった状況からは出てくるはずもないのだ。それまでの彼らは、「死んだらまた産めばいい」程度の存在でしかなかったのだった…。 昨今の、世界中で繰り広げられる子どもたちへの“受難”を見るにつけ、この世は、ふたたび中世以前に逆行しているとしか思えない。ささいなことでわが子を虐待し、死に至らしめる親たち。無抵抗ゆえに、平気でテロの対象として殺戮していく大人たち。…むしろ中世以上に、今のほうが子どもたちの命を軽く見ているのではあるまいか。 この映画の中で、子どもたちは理由もなく失踪していく。大人たちはただ戸惑い、嘆き、必死に失踪の謎を追う。しかし、結局、誰が、どこへ連れ去ったのかは分からない。 けれど、映画を見るぼくたちは、彼らが不思議な黒人少年に誘われ、この世界を捨てて“あちらの「世界」”に行ったことを了解する。子どもたちは、“どこでもない「子ども」だけの世界”に消えていったのだと。でも、なぜ? さらに問う観客に、映画は最後まで答えようとしない。そして、ラストに、まもなく世界中の子どもたちが“こちらの「世界」”から消え去ってしまうことを暗示した「数字」を、ただ見せるだけなのである…。 このラストは、本当に戦慄的だ。この世界から子どもが消えていく…そんな世に、当然ながら未来はない。ゆえにそれは、まさにひとつの黙示録的《終末》を告げるものとしてあるだろう。この、とことんダークで不気味な「ピーターパン(!)物語」は、子どもたちへの“受難”が続く現代だからこそ、極めて鋭く、絶望的な寓話であり、警鐘として見る者を撃つのだ。 子どもたちが、この「世界(=大人たち)」を見捨てていく。…ファンタジーでありながら、何て「リアル」な恐ろしさ、哀しさ。 10点(2004-09-24 15:11:16)(良:1票) 《改行有》

54.  ALI アリ マイケル・マン監督の映画に出てくる「男たち」は、常に寡黙でありながら雄弁で、饒舌でありながら静謐だ。何ものかに挑む時、彼らは黙々と行動する。ただ黙って闘い、殺し、愛し、勝利し、敗北し、死んでいくのだ。命を賭けるものがあるなら、「男たち」は迷うことなく“死”へと突き進む。安っぽいヒロイズムや、無鉄砲さとはあくまで無縁の、「運命に挑み、その結果を受け入れる者」としての孤高と諦観を漂わせて。 アリもまた、そんな“マイケル・マン的「男たち」”のひとりとして、マンの世界(マン・ダム!)に召還された。この、蝶のように舞い蜂のように刺す天才ボクサーは、一方で「ほら吹きクレイ」と呼ばれるほど挑発的な言動を繰り返す。試合前のインタビューで、試合中も相手ボクサーに対して、“暴言”を吐き続けるアリ。そこに、黒人である彼の、アメリカの白人社会へのレジスタンスが込められていることは、間違いない(そんなアリの最大の理解者が、白人のスポーツキャスターであったこと。それもまた、アメリカの一面であることを示すあたりの心憎さ!)。が、この映画は、そんな「社会派」風の、あるいは「ヒューマン・ドラマ」風の側面以上に、アリというひたすら饒舌な男のなかにある“寡黙さ”を、ほとんどそれだけを映し出そうとした。ボクシングと言葉によって「アメリカ」に闘いを挑み続けた男の、内なるストイシズム。そこにこそ彼の、真の偉大さがあったのだと。 だからこの映画が、ボクシングを描きながらどこまでも「静か」なのは当然だろう。これはボクサーたちの闘いを通じて、さらには、ひとりの黒人青年によるアメリカへの闘いを通じて、自らの「運命」と対峙し続けた偉大な魂の記録なのだから。そして、偉大な魂とは、常に孤独で、寡黙で、静謐なものなのだ。 繰り返そう。マイケル・マンの映画の「男たち」は、たとえどんなに“反社会的(アウトサイダー)”であろうとも、孤高を生きる者たちだ。本作もまた、そんなマンならではの世界観が昇華された、偉大な映画だとぼくは信じて疑わない。…皆さんの評価があまりにも低いこともあるので、あえて満点を献上する次第です。10点(2004-09-15 13:27:53)(良:1票) 《改行有》

55.  南部の人 《ネタバレ》 息子が敗血症になり、毎日どうしても新鮮な牛乳が要る。けれど、貧しい農夫一家にはとてもそんな余裕がない。苦しむ子どもを前に悲嘆にくれていると、おばあちゃんが再婚(!)相手と現れて乳牛をプレゼントしてくれた。めでたし、めでたし。 また、度重なる不幸と苛酷な農作業で、すっかり偏狭な性格になった近所の意地悪オヤジ。その嫌がらせに怒りを爆発させた主人公は、オヤジを叩きのめす。復讐のため銃を持ち出すオヤジだったが、長年の夢だった川の大ナマズを主人公が釣り上げたのを見るや、コロリと態度を変え、「このナマズを俺の獲物にさせてくれりゃ、もう嫌がらせはしねぇ。井戸も使わせてやる」と言い出す始末。これまた、めでたし、めでたし。 …もう、万事がこの調子なんである。苛酷な、あまりにも苛酷な農夫一家の生活ぶりを、おそらくオール・ロケで描きながら、この映画には大らかな楽天性が息づいている。ほとんどデタラメすれすれのご都合主義が、リアルな写実主義風展開のなかに突然顔を出して、あれよあれよと主人公一家を救うのだ。 結局、豪雨で農作物が全滅し、一度は土地を手放そうと考える主人公。けれど、コンロに火を入れてコーヒーを沸かす妻の姿に、ふたたびやり直すことを決意する。…このラストにも、ぼくらは「うん、彼らは大丈夫だ。きっとうまくいく」と確信する。何故なら、彼らは“祝福”されているのだから。誰に? もちろん、この映画に。というか、この映画を撮ったジャン・ルノワールに!  映画のなかで、町の工場で働く主人公の友人が、「苦労ばかりの農業なんかやめて、工場へ来いよ」と誘う。が、「俺は青空の下で働きたいんだ。自由な気がするから」と答える。…どんなにつらい人生でも、何より「自由」こそが大切なのであり、生活の細部(ディテール)には幸せが、生きる歓びが宿っている。…こんな風に“貧しさ”をかくも“豊か”なイメージで描き得るのは、たぶんこのルノワ-ル監督をおいてないだろう。 ぼくは見ながら、何度も泣いた。この映画のなかに描かれる、文字通り「人の生きる姿」としての人生の、あまりの美しさに。 たぶん、間違いなく、これが本当に「幸福な映画」というものだ。[映画館(字幕)] 10点(2004-07-27 14:08:01)(良:1票) 《改行有》

56.  少年(1969) 強い者が弱い者を虐待・搾取し、虐待・搾取された者は自分より弱い者を虐待・搾取し…。延々と繰り返されるこの関係性が《権力》の構図だとするなら、その最底辺に「少年」がいる。 親に「当り屋」を強要され、逃げ出して故郷の祖母のところへ行こうにもお金がなくなり、見知らぬ町でひとりぼっちで泣く少年。自分が稼いだお金なのに、父親から「好きなものを食え」と言われても一番安いメニューをおずおずと選ぶ少年。いじめられている子に声をかけようとしたら、その子に、大切にしていたジャイアンツの野球帽を泥水に叩き付けられた少年。幼い弟に、「いつかアンドロメダ星人がやって来て、ぼくたちを地球から連れていってくれるんだ」と何度も何度も語りつづける少年。… 大島監督がこの作品に託した「国家」と「権力」という観念的なテーマ以上に、あまりにも理不尽な“受難”を受け続ける少年の心の痛みが、見る者の心にも突き刺さる。それは「いじめ」や親の虐待といった、今日なお切実な問題をぼくたちの前に突きつけてくるだろう。が、何よりもこの少年のつらさや悲しみの深さが(↓の方も書かれている通り、少年を演じる子役のあの眼差し…)、ストレートにぼくたちの心を撃つことで、単なる「問題提起」だけではない切実さを与えるのだ。 ぼくは見るたび、この映画の中の少年に涙する。しかし、それは決して同情や憐憫からじゃない。この映画を見ている間、ぼくは「少年」そのものになっている。そう、あの少年は「ぼく自身」だ。だから少年が泣く時、ぼくも泣く。少年がこの世界に押しつぶされそうになるのをひとりで耐えている時、彼の代わりにぼくが涙を流す。…『少年』は、ぼく自身の「物語」となるのだ。 それは、たぶん、間違いなく、あなたにとっても。10点(2004-07-21 20:27:23)(良:1票) 《改行有》

57.  スチームボーイ STEAM BOY [1]思うに、ジェ-ムズ・キャメロン監督の『タイタニック』でぼくが最も印象的だったのは、主演の2人が手を広げる例の「名場面」でも、沈没の大スペクタクルシーンでもない。それは、タイタニック号の機関室で巨大な歯車とピストンが蒸汽によって動く、ほんの短いシーンなのだった。あの、すべてに壮大だがどこか空虚(だと、ぼくには思えた…ファンの方々すみません)な映画の中で、ほとんど唯一と言って良い「リアル」な映像の手ざわり。…今回、大友克洋の最新作を見ながら、何よりも連想したのが、そんなキャメロンがかろうじてなし得た巨大メカの質感であり、その質感から実感させる「リアルさ」だ。何も、精巧に創り上げたからリアルさが産まれるのではない。それが「映像(=イメージ)」として強度がある・見る者の感性を揺るがす・“生きている”からこその「リアル」だ。そして、それこそが映画の《本質》だと信じる者にとって、コノ『スチームボーイ』は、まぎれもなく「映画」」そのものとして、例えば『タイタニック』を遥かに凌駕していると、ぼくは思っている。 [2]確かにこの作品の、物語や、その語り口の“欠点”をあげつらい、批判するのは易しいかもしれない。そもそも、何故『AKIRA』を撮った大友がこんな映画を撮らねばならないんだ、と。 それについては、ぼくなりに、“これは手塚治虫『アストロ・ボーイ』への「返歌」であり、大友なりのオマージュなのだ”と思いたい。手塚的ヒューマニズムと世界観への、批判的継承を果たそうとしたものとして見た時、あの父子3代の葛藤の物語ひとつとっても、『スチームボーイ』は、感動的な、あまりに感動的な映画として屹立する。 [3]ぼくの「満点」評価は、あくまで以上の「極私的大友克洋観」の所以であることを(というか、ぼくの場合そんなのばっかですが…)ご承知おきください。10点(2004-07-21 13:11:20)(良:3票) 《改行有》

58.  ピストルオペラ 鈴木清順カントクって、かつて映画会社の社長サンから「わけの分からん映画ばかり作られては困る」と言われ、クビになったツワモノです。その「わけの分からん」と言われた作品が、『殺しの烙印』。 で、この映画、その34年ぶりの“続編”というか、新バージョンなんだけど、これが前作に輪をかけて「わけの分からん」シロモノなんすよねぇ…。 お話しは、いたってシンプル。「組織(ギルド)」に所属するプロの殺し屋たちが、ナンバーワンの座を競って殺しあう…という、ただそれだけのもの。だのに、あれよあれよと、奇怪な映像とデタラメ極まりない展開によって、見る者はトロンプ・ルイユ(騙し絵)的な迷宮世界へと迷い込んでしまう。特に後半の、「世界恐怖博覧会」なる見世物小屋(?)で繰り広げられる、江角マキコ演じるナンバースリーの主人公とナンバーワンの対決なんざ、あまりのシュールさに相当の清順ファンですら頭を抱えるんじゃあるまいか… 正直ぼくも途方に暮れつつ、けれど、ここまで徹底しているといっそ“痛快”な気分にさせたれたものです。う~ん、これって、結局のところ、したり顔で自作の〈大正浪漫三部作〉を持ち上げた批評家や(ぼくのような)観客に対して、清順師がアッカンベ~をしてみせたものじゃないか。“ワシの境地にどこまでついてこれるかい?”というイヂワルだけど愛嬌たっぷりな師の、赤々とぬめった「舌」だけをぼくたちは見せられたんじゃあるまいか… だから、「バカにするな!」と怒る向きも、ただ絶句する向きも、どちらも「正しい」見方でしょう。ともかく、ひとつ言えるのは、この映画の前にゴダールもデヴィッド・リンチも、「まだまだ“修業”が足りん」ということでしょう。まったく、その独創(=独走)ぶりには、0点か満点かで応えるしかありませぬ… あ、そこのあなた、爺ィの「アッカンベ~」を見続ける覚悟と“寛容さ”がおありですかぃ?10点(2004-07-16 16:13:30)(良:3票) 《改行有》

59.  スミス都へ行く 先日の参議院選挙を含めて、ぼくは選挙権がありながら選挙で投票したことがありません(世の良識ある方々、スミマセン…)。一票を投じたい政党や人物がいない…というより、どこに、誰に投票するにしろ、それは現体制を「肯定」することになってしまうと考えているからです。一票の格差などの、まずはあまりにも公正を欠いた選挙制度そのものを是正することもなく、そのくせ「投票に行こう」と、膨大な税金をつかってタレントを起用し、PRする国側の“欺瞞”もウンザリですし。 そんなぼくも、この映画のジェームズ・スチュアート扮するスミス氏になら喜んで投票するかもしれない。するかな。するよな。うん、きっとする!(笑) この、リンカーンを崇拝する田舎の州出の青年が、周囲のあまりにも汚い権謀術数にうちひしがれ、リンカーンの像の前で泣く時、まるで「アメリカン・デモクラシー」そのものが泣いているかのようだ。そんな彼が議会で延々と演説を繰り広げ、その孤軍奮闘を議長(ハリー・ケリー…涙が出るほど素晴らしい!)が秘かに共感の笑みを浮かべて見守る姿に、少なくともぼくは「アメリカ(人)の良心」を見る思いがする。たぶん、公開当時も今も、この映画を見るアメリカ人はみんなあの議長のように主人公スミス氏のことを見守り、微笑んでいるんだろう… それを、「ただのおとぎ話だ」とか「いかにもアメリカらしい偽善じゃん」とせせら笑うのは簡単だ。ぼくらは、あの国のイヤな面をこれまでも(そして、今も)さんざん見せられてきているのだから。 けれど、ぼくは、自身が移民だった監督のフランク・キャプラ自身もとっくにそんなことなど承知していたのだと思っている。彼がこの映画を撮った1939年は、世界中が戦争の危機に直面していた。そうした時に、「アメリカ(人)の理想主義と良心」をひとりの純朴な青年に託したキャプラは、「この世の中はマヌケといわれてきた人たちの賜物なのよ」とジーン・アーサー(これまた素晴らしい!)に言わせた通り、最後には人間の〈善〉が勝つという「夢物語」こそがアメリカの理想主義じゃないか。それは「夢」だからこそ「理想」なんじゃないか…と静かに、だが毅然と述べているのだ。 ぼくも、国家としてではない、アメリカ(人)の夢見る「理想主義」には、心からの“一票”を投じよう。それが、どれだけの失望を招こうとも。 10点(2004-07-16 14:58:36)《改行有》

60.  カラビニエ 1960年代(少なくとも『中国女』までの)のゴダールって、結局のところアンナ・カリーナへの“愛”と、それ以上の“絶望”に囚われていたことは、間違いない。盟友トリュフォーが「(ゴダールの)アンナ・カリーナへの愛は、死に至る病だから…」とつぶやいたというけれど、そういう天才でありながら「モテない男」だったゴダールの歓喜と苦悩が、『気狂いピエロ』を頂点とした数々の傑作を産んだことに、才能もないただの「モテない君」である我々はただナミダし、以後のゴダールがいかに「難解」で「前衛」として突っ走ろうと、やはり「応援」せずにはいられないのだ(よね、ご同輩?)。 そんなゴダールの60年代初期作品にあって、一連のメロドラマ(!)的な“情念”から唯一解放された映画が、たぶんこの『カラビニエ』なんじゃあるまいか。 監督自身が「これはひとつの寓話である」と定義する、この映画。その名もミケランジェロとユリシーズというナイーブな兄弟が戦地に赴いて繰り広げる、呆れるぐらいに愚かで残酷で滑稽な従軍記だ。もちろん、“寓話”なのだから、教訓はある。映画は、かつてないほど単純明快に「戦争」というものの愚劣にして残虐さを、一見あの史上サイテ-監督エド・ウッド作品(!)みたくデタラメな展開の中に展開していくんである。…その、愚劣にして残虐な兄弟たちを通じて。 それにしても、この映画の何というすがすがしいまでの「自由さ」だろう! ここでゴダールは、喜々として映像という“素材(マテリアル)”によって「観念」を表象することを楽しみ、淫している。それは、まさに1980年代以降のゴダールの「唯物主義(マテリアリズム)」を予告…というか、彼の才能の行方を告げるものだ。そう、この「おもろうてやがて哀しき戦争(についての)映画」には、この天才の「可能性の中心」のすべてがある。10点(2004-07-14 20:31:45)《改行有》

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