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onomichiさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 407
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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121.  15ミニッツ
TVで流れていたので何気なく観ていて、もしや?まさか?と思っていたけど、最後のクレジットで確認したら、本当にそうだった。オレッグ・タクタロフ! いやー、こんなところにいたとはー;最近見ないと思ったら、いつの間に役者になったんだ? それだけが気になる。
6点(2004-01-30 23:29:40)
122.  死の接吻(1991)
小説のネタバレにはならないので言っちゃいますけど、この映画の原作は叙述トリック(というかフーダニットかな?)の名作です。皆さんいろいろと書かれていますが、おそらくこの映画を手に取った動機というは、「ほんとに映画化できるのかよー、どれどれ。。。」と言ったところではないでしょうか。僕もそうでした。<我らがマットとショーンの共演というのも理由のひとつですが。。。> 実際に観たのはもう10年くらい前になるので、いまいち記憶もあいまいなのですが、僕の印象としてはそれほど悪くはなかった、というところです。実際、原作の一部叙述を無視すれば映画化も可能なのだなぁと感心したものです。双子っていうことで丸ごとごそっと抜けているところもまぁ仕方ないかなと。<それが大事なところで、だからダメなんだという話もあるけど;> 叙述トリックのミステリーと言えば、クリスティのあの作品やアイリッシュのあの作品がありますよね。でも叙述トリックは日本の方にも名作が多く、筒井康隆のあの作品とか、綾辻行人のあの作品やあの作品とか、我孫子武丸のあの作品とか、去年の話題になったあのミステリーもありますねぇ。まぁいろいろありますけど、日本の名作ということで左記に挙げた作品は絶対映画化できない!でしょうね。これは断言できます。。。といっても何がなんだかよく分からないか;
7点(2004-01-26 01:00:57)
123.  グッバイガール
とても見応えのあるロマンティックコメディでした。バスルームでお互いの気持ちを確かめ合うシーンはとてもロマンティックと呼べるものではなかったけどね;; 相手をだんだんと好きなっていく過程がちょっとお約束すぎるけど、そこに華やかさがない代わりに恋愛感情に通底するお互いの自信のなさが微妙なリアルさを醸し出しています。この物語、マーシャ・メイスンの側からみてもかなり切ないお話ですが、ドレイフィスの側からも微妙な味わいがあります。男もいろいろと大変だなぁ、っていうが素直な感想。でも、あのグッバイがこの物語のハッピーエンドであって、彼らの本当のスターティング・オーバーだって思いたいですね。
8点(2004-01-25 18:37:12)(良:1票)
124.  クレイマー、クレイマー
凡そ中学生くらいの頃にこの映画を観たときは、シングルファーザーどころか、離婚やら裁判やら失業やら、この物語で描かれるそういった家族や生活のあり方に全く現実感を抱けなかった。もちろん僕自身も若かったし、当時は安定した家族や生活というものに当たり前のような信頼をおいていたから、それはそれでとても自然な感想だったのだと思う。あれから20年、日本の現実は、この物語さえも普通の、いや過去の物語に変えてしまった。そして僕は大人になり、主人公と同じ運命を辿ることになる。この映画のハッピーエンディングが如何にポジティブな家族愛に満ちていたかをしみじみと感じる今日この頃である。
8点(2004-01-24 02:57:05)(良:1票)
125.  キャリー(1976)
この映画の何がいいって、やっぱりナンシー・アレンとジョン・トラボルタのアーパーカップルでしょう。ナンシー・アレンのいやらしさムンムンの表情は、とっても可愛らしかったなぁ。それに対比するエイミー・アービングとウィリアム・カットの端正さもいい。ウィリアム・カットの微笑は、典型的な好青年って感じの能天気さがうまく表現されていました。この映画は、デパルマ特有の印象的な映像によって綴られた、若く儚いティーンエイジのいかがわしくも美しいエッセンスがむっちりと詰まった青春映画なのです。もちろん、キャリーことシシー・スペイシックの美醜が入れ替わる容姿と状況によって左右される感情の有り様も僕らに青春の仄かな辛苦を感じさせます。冒頭のシャワーシーンの大らかなエロスもとても印象的でした。基本的には原作ホラーの物語部分に忠実ながら、デパルマはこの作品を青春映画の傑作へと昇華させました。お見事!。。。とあまり大きな声で言えないけれど、それがまた、この監督作品のマニアック的な魅力ですね^^;青春映画の典型にホラー要素をふんだんに持ち込むことによって、青春という地平に新たなバイブレーションを起こさせた作品ということもできます。そして、改めて言うまでもなく、この作品はホラー映画の佳作であるとともに青春映画の傑作なのです。
10点(2004-01-11 18:29:02)(良:2票)
126.  カッコーの巣の上で
プログラム化された精神病棟は、メタフォリックな意味での現代社会を表している。精神病患者としてボランタリーに日常を封じ込めた人たちが集う静謐な世界。それは、共同体の失われた現代において、一種の非日常的な日常空間でもあるだろう。<大江健三郎の「他人の足」と同じ世界か。> この世界にトリックスターたる存在として、ジャク・ニコルソン演じるマクマーフィが投げ込まれる。彼は、予測不可能な行動を繰り返すことによって、他の精神病患者たちを戸惑わせると同時に大いに惹きつける、外の世界の魅力をプンプンさせる実に人間くさいキャラクターなのだ。この作品の主人公は、精神病棟そのものである。マクマーフィのある種のヒューマニズムによって掻き乱される閉鎖世界。世界は風穴をあけられ、人々はこころを取り戻すかと思われた、が、最終的にマクマーフィの人間性が剥奪されることにより、世界は元の閉鎖状態に戻ってしまう、ように見える。しかし、ここに到って内部の人間チーフの選択が浮かび上がってくるのである。<ある意味でこのチーフこそ、本来的な主人公ではないかとも感じる> チーフは、既に人間性を奪われたマクマーフィの息を止めることによって、彼の幻影を消失させ、世界から跳び出すことを選ぶ。そして、それ以外の者たちは、そのチーフの姿に改めてマクマーフィの幻影を追うのである。この映画の印象的なラストシーンは、僕らに突きつけられた「人間としての可能性」に対する問いだと言えるのではないか。僕にはそう感じられた。断絶した世界の中で、”生きていく”可能性とは、一体どういうことなのか? それは、とても切実な問いである。
10点(2004-01-03 23:57:23)(良:3票)
127.  三つ数えろ
ボギーは何をやってもボギーですな。まぁあえて言えば、マーロウよりもスペードの方がイメージに近い感じがしますが、どうでしょう? マーロウは、もっと男の寂しさや哀しさを体現した、タフでしょぼくれたキャラクターですからね。
8点(2004-01-03 18:03:35)
128.  レッド・ツェッペリン/狂熱のライブ
ZEPの2枚組サウンドトラック「永遠の詩」。僕は高校生の頃に買って以来、2,3回しか聴いたことがない^^; ZEPのスタジオ盤は何回も繰り返し聴いているのに。。。やっぱり、あのライブは映像がないとキツイ!かな?と思い、最近ようやく映画版DVDを購入しました。が、いきなり、最初の2曲「Rock and Roll - Black Dog」。プラントの声が屁たれている~!なんかやばい雰囲気。。。<あの悪名高きライブエイドを思い出したよ~> しかし、3曲目から、ようやくプラントの声も出るようになって安心。どうも、映画とサウンドトラックでは演奏が違うようですね。<曲目も違うのだ> 1973年7月のMSG3日間のライブ演奏を編集したのが「永遠の詩」なのですが、映画版の編集はかなりやっつけ的で問題が多いというのが一般的な評価のようです。だいたい、何でいきなりプラントの声が屁たれたバージョンを持ってくるのだろうか?? でも、まぁそれ以外は、僕みたいな素人にとって、編集の是非なんてあまり気にならなかったからいいですけど。映像に関しては、ロバート・プラント王子の美しい立ち姿も、ペイジのノリノリプレイも、ジョンJのお茶目な演技も、ボンゾのド迫力ドラミングにも、かなり満足しました。ペイジのギタープレイングは最高にカッコいいね。演奏的にはサントラに収められていない「Since I've Been Loving You」と「Heartbreaker - Whole Lotta Love」が良かったかな。どちらもZEPサウンドの真骨頂でしょう。ZEPのライブアルバムなら、72年のものがようやく公式盤として出たみたいで、プラントのハイトーン・シャウティングの状態はそちらの方が良いという話です。<僕は聴いてないけど> ただ、76年製作のこの映画は、やっぱりロックファンなら必見だよね。こういうライブ映像をもっともっと観たいなぁ。あわよくば、僕の好きなフリー<第1期>とかフリートウッドマック<ピーター・グリーン在籍時>、ハンブルパイ<フランプトン在籍時でもいない時でもどっちでもいいけど、マリオットが元気な時>なんかを観たい! 映像が残っていればねぇ。やっぱり映画としてばっちり映像が残っているZEPは、ロック界の王者だったんだなぁ。
9点(2004-01-03 17:14:25)
129.  キング・オブ・コメディ(1982)
主人公が表層の笑いを追及すればするほど、彼の深層における絶対的な孤独が浮かび上がる。彼の(僕らの)深層に笑いはない。ここで彼によって追求される「笑い」とは表層における連帯意識そのものなのだ。彼のような社会から疎外された人間がそのような笑いに拘れば、無自覚に覆い隠された深層の孤独は、容易に狂気という形で表出することになるだろう。「タクシードライバー」で描いた現代的な狂気の姿をさらに無自覚的なレベルにまでおし進めたのが本作ということになるか。それはある意味で80年代的だといえなくもない。
9点(2004-01-03 14:27:41)
130.  カイロの紫のバラ
映画の中の世界というのは、フィクションであろうが、ノンフィクションであろうが、観る者にとってはあくまで想像の世界です。想像は美しく、そして現実には手が届かないもの。その現実がまさに手の届くところにあったとしたら。。。スクリーンの中の憧れの俳優がまさに私の目の前に現れたとしたら。。。そんなストーリーなんて現実に起こるわけない!単なるファンタジーでしょ、っていう声が聞こえてきそうですね。「ニューシネマパラダイス」のアルフレードがスクリーンの女優たちに想いを抱き続けたように、「カイロの紫のバラ」のセシリアも「憧れ」の対象として映画を観続けます。そんなナイーブさを現実逃避だといって笑うでしょうか?そうかもしれません。でも、彼女たちのナイーブな想像世界は、そのナイーブさ故に、彼女を彼女自身たらしめるとても大切なものだと僕は思います。「憧れ」とは、起こり得ないことに可能性を抱くこと。それはある意味でポジティブで、ある意味で哀しい。しかし、その哀しさは、慈愛となり、あるとき恋の熱情にもなる。そして、それは、僕らを常に優しい気持ちにしてくれるのです。映画への「憧れ」は人を優しくします。そう思いませんか?
9点(2003-12-29 16:29:42)
131.  イングリッシュ・ペイシェント
恋愛映画を1本だけ挙げろと言われたら、「黒い瞳」にするか「ベティブルー」にするか、それとも「東京夜曲」にするか、一晩悩んだ末に僕は「イングリッシュペイシェント」を挙げているだろう。恋愛映画にとって、登場人物を取り巻く状況は重要なファクターとなるが、それは恋愛に対する障害の大きさがその激しさに比例すると考えられているからであろう。しかし、恋愛映画にとって一番重要なのは状況そのものよりも、恋愛の本質理解である。恋愛とは自己意識と世界の関係性そのものである。そのため、意識としての恋愛は常に利己的かつ自虐的ものとならざるを得ない。それは自己の周囲にメタフォリックな非現実空間を作り出し、他者との現実的な劇に引き合う中で苦悩や挫折を導くことになるのである。「彼は深くそして熱烈に恋している、これは明らかだ。それなのに、彼は最初の日からもう彼の恋愛を追憶する状態にある。つまり、彼の恋愛関係はすでにまったく終わっているのである。」これはキルケゴールの言葉だがまさに恋愛の利己性を衝いており、恋愛が本質的にメランコリックであることを見事に言い当てている。本質を捉えていない作品は空虚で薄っぺらく、この本質を間違うと途端に見るに耐えないものに陥ってしまうだろう。また作品の状況が状況だけに間違ってしまう場合があるが、ここで「戦争の愚かしさや虚しさを痛烈に告発する力強いメッセージ」などは不要である。主人公の口からそのような台詞が吐かれた途端、僕らは一変に興ざめしてしまうに違いない。ここまでくれば、「イングリッシュペイシェント」が恋愛の本質を十分に表現している優れた恋愛映画であることがお分かりいただけたかと思う。<え?分からない?そうですか、それは残念です。> 最後に補足;人はシンプルな恋愛映画を指して「昼メロ」と呼ぶことがある。典型的なパターンとして不倫愛を挙げるだろう。その場合、それを「昼メロ」と呼んでしまった途端にその発語者は恋愛という劇から最も離れた存在である自分を自覚することになる。だからなるべくそういった類型的な視線を排して、作品を鑑賞しなければならない。
10点(2003-12-07 02:48:41)
132.  レナードの朝
「生かす」というのは非常に難しい問題だと思う。なぜなら「生きる」とは元来、主体的な問題だからである。「生きる」という倫理には、結局のところ普遍的な結論というのは有り得ず、道徳という道筋や常識という枷でそれを推し量ることはできない。ただ、人間というのが常に<他者との>関係性によって成り立つ社会的な自我そのものであること、それ故、人間の抜け殻である身体が果たして人間としての価値を有するのか、という素朴な<ある意味哲学的な>疑問を誰もが拭い去れないのである。そういう潜在的な妥当がこの映画を感動的にしている要因であると思う。レナードが眠りから覚めるシーン。その輝きと喜び。生きることの素晴らしさへの訴え。一体これは誰の意思なのか、一瞬、疑念が湧く。確かに人嫌い医師とレナードの対比は作為的に感じるし、展開があまりにも予定調和すぎるような気がしないでもない。ただ、僕はこの映画を素直に捉えたい。この映画が見せる「生きる」という問いかけを僕は真摯に受け止めたい。彼が「生きたい」のかどうかは僕には分からない。ただ、僕は「生きる」のである。その主体的な有り様、実はロビン・ウィリアムス演じる医師に投影されているところの、生きていくことの素直な有り様を深く考えさせる、そういう映画として僕は評価したいと思う。
9点(2003-12-06 22:58:46)(良:1票)
133.  ソフィーの選択
この世の中にこれほどの絶望の生があろうか。彼女には狂気という逃げ場さえも奪われているのだ。生きるということを決定的に引き裂かれ、それでも生きていかなければならない、それほどの地獄があるということに、僕らはただ息をのみ、言葉を失うしかない。 彼女はそれでも「不在」の神に祈りを捧げるのだろうか。「不在」の神とは、常に「沈黙」する神。「カラマーゾフの兄弟」でイワンが切々と訴える「永久調和の世界が将来達成されたとしても、それが何であるかを理解しえずに涙を流したまま死んでいった子供がいる以上、到底承認することができない」神でもある。もし、祈り続けられる勇気があったのなら、本当に狂気から目をそらさずにいられるのだろうか。
9点(2003-11-11 19:51:44)(良:1票)
134.  マトリックス レボリューションズ
20世紀の哲学者ボードリヤールは、世紀後半の世界をオリジナルとコピーの区別が付かない、また、付き得ない世界になるだろうと予言した。<それをオリジナルとコピーの中間形態であるシミュラークルの世界と呼んだ> インターネットの普及はまさにその予言の具現化に大きな役割を果たしたといえる。コンピューターの俗語で「コピペ」という言葉があり、これはオリジナルをコピーしてペーストするという意味であるが、インターネット環境で何度も「コピペ」を繰り返す内に、そのオリジナルと思っていたものが、実は元のオリジナルの巧みなコピーであり、それがその又元のオリジナルのコピーのコピーであったかもしれないという事態が容易に起こるのである。つまり、インターネットの世界に関していえば、既に厳密な意味でのオリジナルは存在しないといってよく、引用に対する制限はもはや制御不可能な状態にある。インターネット世界が現代社会を写すイメージそのものというのであれば、現代は「コピペ」の時代といってかまわないが、それはまさにシミュラークルの世界そのものでもある。シミュラークルの世界には、絶対的価値観など有り得ない。すべてが相対化され、データベース化され、その中で差異を表出することに価値を見出すのみである。映画の世界ですら、この世界観から逃れられない。それが「マトリックス」である。
7点(2003-11-09 23:44:28)
135.  ハンニバル(2001)
「ブレードランナー」のラストシーンは原作を超えていた。リドリー・スコットは、ラストシーンでルトガー・ハウアーの美しき死に様を見事なまでに演出してみせたが、本作での新たな解釈を持ち込んだラストシーンは、果たしてどうであったか? 僕は、はっきり言って納得できない。「ブレードランナー」が原作のモチーフを十分に理解した上で、レプリカントの悲哀と自尊心という「人間らしさ」を新たな軸に加えて作品を原作から悠々と昇華させてみせたのに対し、「ハンニバル」の原作ぶち壊しの甘ちゃんラストは、、、ま、まったくなんてことだ! ハンニバル・レクターこそ、意識を自由自在に操る「超人」であり、「人間らしさ」を超えてしまったが故に、ある意味で悲哀を備えたレプリカント以上にレプリカント的人物として捉えられるべきではなかったか。それこそリドリー・スコットお得意の分野のはずだ。なのに。。。「ハンニバル」は言うまでもなくレクター博士の物語である。原作では、レクター登場から3作目にして、レクター自身の独白や過去の物語がようやくと語られる。特に彼自身が経験したトンでもなく残酷な出来事を通じて、彼が既に人間という枠を見事に超えてしまったことが僕らに伝えられるのである。それは映画では語られない。そのことは別にいい。原作は長いし、映画に原作そのものをすべて詰め込むことはできない。ただ、レクター自身が、映画で見られるようなあんなラストシーンに掴まされるような人格では決してないということを分かっているのだろうか。(あの手錠のシーンです。。。) そして、クラリスもレクターと同種であるのなら、あんなラストを導くようなことはしないはずなのではないのか。原作のあの2人して人間界から飛翔する驚愕のラストシーンは何だったのか。凡百のサスペンスドラマのような結末は、途中までが良かっただけにかなり興ざめである。やっぱり、ここでもハリウッドスタイルの万人向けの座りの良い結末志向が顔を見せているのだろうか。小説「ハンニバル」が哲人ニーチェの思想をベースにした「超人」物語であることをリドリー・スコットが理解していないはずはないのだが。まったく不可解である。
7点(2003-11-09 10:03:23)(良:1票)
136.  インディアン・ランナー
正義漢の兄と落ちこぼれの弟のお話。兄弟は、話の展開にしたがって徐々に心が離れていくようにみえる。理解しあえるようでいて、それはどんどん遠くに離れてしまうのである。そのことの理由は語られない。最終的に警察官の兄が犯罪者となった弟を追跡するシーンにまで至り、父親は兄弟の確執とは関係のないところで意味もなく自殺する。図式はありふれているし、話としても結構単純だ。しかしそのモチーフは僕にとって切実に思えた。兄は弟を追いながらそのことの意味を理解できない。弟は兄に追われながらその理由を失っている。自分の心さえ掴めない寂莫感にお互いが自覚的ではあるけれど、最後に兄が弟を見逃すシーンに言葉はなく、ただ「アイ・シャル・ビー・リリースト」(byザ・バンド)が流れるのみ。「いつかきっと僕は解放されるだろう」 あー、なんてリアリティのないフレーズだろうか。そのことの空虚さが心を締め付ける。「インディアンランナー」はたぶん時代遅れな映画だ。すべてに自覚的でありすぎる分、それはもう時代遅れなのだ。僕らはその時代遅れの気分でしか、もう心を震わすことができないかもしれない。それはとても切ないことだけど…。 <ちなみに冒頭で、狼の力を盗んで鹿狩りをするインディアンの逸話が出てくる。弟の中で幻影のように現れるインディアンとは、自分自身に潜む凶々しさとその神々しさが一体となったスピリチュアル・イメージであり、その「らしさ」に理由がない絶対的な存在としての強迫観念でもあるのだ。>
10点(2003-11-08 19:24:47)(良:2票)
137.  ビリー・ザ・キッド/21才の生涯
僕にとってのペキンパーNo.1。この映画は、ペキンパーの思想そのものだ。ペキンパーほど生き様と死に様が醸し出す時代精神の深みを切実に描く作家はいない。見方によってはすごく青臭いと思うかもしれない。クリストファーソンやディランのようなミュージシャンを出演させていることが若者に媚びた印象を与えたかもしれない。ジェームズコバーンが単なる理不尽なおじさんにみえたかもしれない。そう、どれも当たりです。いや、逆です。すべてがペキンパーそのものなのです。クールに生きて、あっけなく死んでいくクリストファーソンと葛藤に苛まれながら己の生き様を貫いたコバーンの対比。生き様が死に様であり、死に様が生き様であることを体現していく多くの脇役たち。<イカサマおじさんや川縁の決闘で死んでいく老ガンマンが特によかったけど、その他ペキンパー映画の常連たちも素晴らしい> これら一つの時代の終わりを丹念に追っていくこと。ひとつひとつにペキンパーの情念が感じられないだろうか? こんなにもカッコよくて、こんなにも哀しい群像に満ちた作品が他にあるだろうか? ペキンパーの撮影中の酒乱が原因で撮影が長引き、編集権を配給会社に奪われたりとかなんとか、そういう先入観でこの映画を観てはいけません。ここにこそペキンパーの集大成があるのですから。それぞれのシーンを揺蕩(たゆた)う深く哀しい情念の灯火。僕はしっかりと受け止めましたよ。とてもぐっとくる映画。
10点(2003-11-07 12:13:22)(良:2票)
138.  フットルース
ちなみに僕の中ではケビン・ベーコンといえば、いまだに「フットルース」です。それで「フットルース」といえば、やっぱりケニー・ロギンスになる。ちなみにケニー・ロギンスといえばジム・メッシーナ。ジム・メッシーナといえばバッファロー・スプリングフィールド。バッファロー・スプリングフィールドといえばニール・ヤング。ニール・ヤングといえば「ヘルプレス」。「ヘルプレス」といえば「いちご白書」。「いちご白書」といえばバンバン。バンバンといえばスズキのバイク。スズキのバイクといえば仮面ライダー。仮面ライダーといえば藤岡弘。藤岡弘といえばアメリカのサムライ映画。アメリカのサムライ映画といえば「ラストサムライ」。「ラストサムライ」といえばトム・クルーズ。トム・クルーズといえば「トップガン」。「トップガン」といえば「デンジャーゾーン」。「デンジャーゾーン」といえばケニー・ロギンス!ケニー・ロギンスといえば「フットルース」!!「フットルース」といえば、やっぱりケビン・ベーコンだぁ!!! 
7点(2003-11-07 01:17:26)(良:1票)
139.  マルホランド・ドライブ
「マルホランドドライブ」はリンチの集大成的作品といえるでしょう。リンチの映画は一種の妄想です。まぁ映画そのものが映画作家の妄想であることも確かなんだけど、リンチの場合はそのことを明確に主張しているように僕には思える。この映画のすごいところは、リンチの妄想という土俵の上でさらに妄想的な世界と現実的な世界が入り乱れているにも関わらず、メインストーリーがしっかりと成り立っていることである。前半はマルホランドドライブの境界に入り込んだカミーラが妄想の世界に迷い込んでいるというのが僕の解釈だけど、観てる時には全くそのことに気がつかない。逆にカミーラの存在に違和を感じてしまう。箱を明けたところで妄想的世界が終わり、その後に「以前の」物語が始まるんだけど、それまでの流れと一変して激しい展開になる。これが実は現実的世界で、この物語の軸となるのは、ダイアンのカミーラへの強烈な恋心である。この「恋」への執心と現実の違いに対する嫉妬、憎しみ、絶望がダイアンの中の世界を歪ませてつくらせた物語が前半の妄想世界だと僕は思う。最後にカミーラはダイアンの雇った殺し屋に殺られそうになるんだけど、不意の交通事故で助かって最初のシーンにつながる。とにかくこの作品のストーリー展開と映像にはもう観ている最中から興奮しまくりました。(レズシーンだけじゃない!?)それはリンチの奇妙に捻れた映像感覚が僕らの内面の捻れに共鳴しているからなんだと思う。そして観終わった後に、この物語の核がダイアンの恋心であり、それがとても哀しい「ラブストーリー」なんだって気がついた時には妙に心が揺さぶられるものがあったのです。「マルホランドドライブ」は、リンチのベスト作品だと思う。ついにここまで来たか…っていうのが素直な感想。
10点(2003-11-02 00:04:15)
140.  ニューヨーク・ニューヨーク
個人的にはデニーロの役が結構魅力的で改めて彼のカッコ良さにうなった映画。ストーリーも悪くない。演出もいい。ただ、ライザ・ミネリとのミスマッチングがなぁ。。。何とかならなかったのかなぁ。
9点(2003-10-26 18:49:01)
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