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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2597
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  ゴジラ-1.0
「恐怖」が、戦後直後の復興途中の東京を蹂躙し、街を“再び”焼き尽くす。 たった一発の絶望的な熱線により、「生活」のすべてが吹き飛び、巨大なきのこ雲が立ち上る様を呆然の見上げるしか無いその“無慈悲”は、まさしく本作の映画世界でこの国が経てきたばかりの悲劇の再演であった。 突如現れた畏怖の象徴を目の当たりにして、立ち尽くす“日本人”の視線は、恐怖感や絶望感を超えて、諦観しているようにも見え、その様が事程左様に無慈悲への拍車をかけていた。 “恐怖の化身”という言葉がそのまま当てはまる大怪獣に対する畏怖の念は、1954年の第1作「ゴジラ」、そして2016年の「シン・ゴジラ」に勝るとも劣らないシリーズ随一のものだったと、まず断言したい。  1954年の「ゴジラ」第1作目から70年、国内製作の実写版としてちょうど30作目となる本作。過去のシリーズ作全作、ハリウッド版やアニメ版も含めてすべて鑑賞してきた“ゴジラ映画ファン”である自分にとっても、確実に五指に入る傑作だった。 正直なところ、7年前の「シン・ゴジラ」があまりにも大傑作だった故に、もうこれ以上ゴジラ映画を製作することは難しいんじゃないかと思っていた。 今年、新作が公開されるという情報を見聞きしても、期待感はそれほど膨らまず、ギリギリまで高揚感も高まらなかった。 山崎貴監督は、その懸念と軽視をものの見事に吹き飛ばし、蹴散らしてみせたと思う。  自らの得意分野であるVFXによる圧倒的ビジュアルを駆使して、観客を映画体験を超えた“ゴジラ体験”に引き込んでみせたことが、成功の最たる要因だろう。 これまでのシリーズ作においても、伝統的な特撮技術や、先進的な撮影手法による魅力的なゴジラ造形や映像世界の構築は多々あるけれど、そのどれよりもゴジラを巨大に、そして“間近”に見せていると思えた。 ゴジラの巨躯と対峙する登場人物及び、我々観客との圧倒的に短い距離感こそが、この体験のエキサイティング性を際立たせているのだと思う。  そしてゴジラが登場する映画世界の舞台を1947年にしたことも的確だった。 過去作でいくつも昭和の日本描写をクリエイトしてきたこともあり、その精度も最大級に高まっていた。精巧な映像世界の“創造”ができるからこそ、それを“破壊”することにおいても極めて高いクリエイティビティを発揮できているのだと思う。  昭和時代の人間模様を描いたドラマとストーリーテリングには、この監督らしい懐古主義をいい意味でも悪い意味でも感じ、台詞回しや演出プランには、ある種のベタさやオーバーアクト的な雰囲気も感じたけれど、その点も“昭和のゴジラ映画”へオマージュを含めたリブートと捉えれば的確だったし、印象深い演技シーンも多かった。 神木隆之介の華奢な主人公感、浜辺美波の圧倒的に美しい昭和女優感、吉岡秀隆の一瞬イカれた目つきを見せるマッドサイエンティスト感、佐々木蔵之介の分かりやすくべらんめえ口調な江戸っ子感等々、愛すべきキャストのパフォーマンスが、本作への愛着を高める要因となっている。   一つ一つの台詞に対する丁寧な伏線回収や、クライマックスの作戦終盤において熱線放射寸前で発光しているゴジラを海中に沈めることで状況をビジュアル的に認識できるようにした工夫など、本作は努めて“分かりやすく”製作することを心がけている。 ストーリー展開や登場人物の心情の少々過度な“分かりやすさ”は、世界のマーケットも見据えた本作の明確な製作意図であることは間違いない。  私自身、ハリウッド版ゴジラの各作品や、国内で制作された“アニゴジ”の3部作、Netflix配信のアニメシリーズ「ゴジラ S.P」の鑑賞を経て感じたことは、世界的なカルチャーアイコンとなった「ゴジラ」に対しては、ファン一人ひとりにおいて「観たいゴジラ映画」があって良いということ。 そして、“ゴジラファン”を経て、クリエイターとなった一人ひとりにおいても、「ゴジラ」をテーマにしたストーリーテリングは、自由闊達にその可能性を広げて良いということだ。 そのためにも、日本国内のみならず、より広い世界のターゲットに向けて、改めて「ゴジラ映画」の魅力を提示し、新たな展開に繋げていくことは、ともて意義深いことだと思う。  「映画作品」としての質や価値を主眼にするならば、本作は1954年「ゴジラ」や、「シン・ゴジラ」には及ばないかもしれない。 ただし、世界中の人々が愛することができる「ゴジラ映画」として、この作品の立ち位置はまさしく一つの「最適解」だ。
[映画館(邦画)] 10点(2023-11-04 23:39:30)(良:5票)
2.  孤狼の血 LEVEL2 《ネタバレ》 
前作「孤狼の血」は、現在の“ヌルい”娯楽映画が蔓延るこの国の映画界において、確実なカウンターパンチとなり得る“アツい”作品であったことは間違いない。 血と脂汗が入り混じって匂い立ってくるような暴力性とその熱量は、往年の大傑作「仁義なき戦い」をはじめとする東映のジャンル映画を彷彿とさせた。 昭和臭漂う血生臭い映画世界は、平成という時代の末期において、時代を越えて逆に新鮮で、センセーショナルだったと思う。  前作公開時点で決定していたこの続編に対しても期待感はひとしおだったけれど、どうなのだろう?という危惧もあった。それはやはり、前作で絶対的な主人公であり物語の中核であった“大神”の不在(死亡)によるところが大きい。 演じた役所広司の存在感の大きさもあり、あのキャラクターが不在で、果たしてこの映画世界のテンションが保持されるものだろうかという不安が拭えなかった。  だがしかし、結果的にはそういった危惧は杞憂に終わったと言っていい。  役所広司の跡を文字通り引き継いだ松坂桃李が主演俳優として気を吐き、新たな敵役として登場した鈴木亮平が圧倒的な存在感を放っていたからだ。 両者は終始敵対するキャラクターでありながらも、ストーリー展開と共に己に孕んだ狂気を相互に高め合い、最終局面で爆発させる。 そのキャラクター描写とストーリーテリングは、現実離れしていて殆どファンタジー。全くもって常軌を逸しているけれど、それをまかり通す映画的エネルギーに溢れていた。 特に鈴木亮平が演じた“上林”のキャラクター造形は凄まじく、凶悪性、残虐性を超越したその「絶対悪」ぶりは、国内映画において近年稀にみるヴィランを作り上げており、松坂桃李演じる日岡と正対するもう一人の主人公としてキャラクター性を高めていたと思う。  主人公二人の狂気と凶悪に引き寄せられるかのように、その他のキャラクターもみな悪人揃い。言うなれば“狂気乱舞”の愚かな人間模様が、本作に相応しい娯楽性を生んでいた。 その中でも特に印象的なのは、“或る夫婦”役として登場する中村梅雀と宮崎美子。中村梅雀は2時間サスペンスの「信濃のコロンボ」シリーズでの刑事役そのままの暢気な風貌で登場するが、そのイメージ操作こそがまさに確信犯的であった。 彼らが孕む真の悪と、闇。劇中、中村梅雀演じる瀬島自身の台詞に表されていた通り、「悪意」の無い「悪」こそが最も始末が悪いということ。  両目を自らの指で圧し潰すという猟奇性極まる殺人を繰り返す鈴木亮平よりも、手料理の味見をしながら“味付けに満足したかのように”微笑む宮崎美子の方が、実は一番恐ろしい。     無論、完璧な映画ではない。 この映画における最たるウィークポイントは、女性キャラがあまり魅力的ではないということだろう。 これは前作における最大のマイナス要因でもあったが、どうやらこの監督は、男性俳優に対しては突っ切った演技指導ができる反面、女優に対する演出が大人し過ぎるようだ。 この手のジャンル映画において、濡れ場や、シンプルな「裸」描写は必須だと思うのだが、それが殆ど無いというのはいただけない。 乃木坂を卒業したばかりの西野七瀬を脱がせろ!とは言わないけれど、あのような役柄である以上、もう少し踏み込んだ演出は必要不可欠だったと思う。西野自身、求められればそれに応える覚悟はあった筈だ。 どうしても初々しいヒロインに対する演出が無理ならば、かたせ梨乃御大に“一肌”脱いでもらうくらいの心意気は、監督側に見せてほしかった、と、思うのだ。
[インターネット(邦画)] 8点(2022-05-29 00:29:07)(笑:1票)
3.  ゴジラvsコング 《ネタバレ》 
今作は、或る意味、正統で真っ当な1962年の東宝映画「キングコング対ゴジラ」のハリウッド映画化と言えるだろう。  思い起こしてみれば、“モンスターバース”と銘打たれたこのハリウッド版“GODZILLA”シリーズは、“アメリカ”という国ででゴジラ映画を愛し続けてくれた映画人たちが、その“オタク魂”を遺憾なく発揮し続けたシリーズとも言える。 だからこそ僕は、これまでのシリーズ作において、“核の取り扱い”の一点において拭い去れない「嫌悪感」を示しつつも、製作陣のゴジラ映画やそれに付随する数々の特撮映画に対する「愛」を感じずにはいられなかったし、本多猪四郎や円谷英二、伊福部昭ら、東宝特撮映画のクリエイター達に対する尊敬の念に裏打ちされた映像世界に圧倒されたことを否定できなかった。  そういう意味で捉えるならば、この最新作もとい“モンスターバース”の一つの終着作とも言える今作も、ゴジラ映画や東宝特撮映画に対する「愛」に溢れた映画だと言えるだろう。  ただし、だ。今作の場合、その表現方法が、あまりにも「馬鹿」過ぎた。 その“馬鹿さ加減”も含めて、1962年の「キングコング対ゴジラ」だと言われれば、全くその通りなのだけれど、ただただひたすらに、その馬鹿さ加減のみが、地球3周くらい回って勢いがついた挙げ句にひっくり返って、無様にのたうち回っているようだった。  SF映画や怪獣映画として、“ストーリー”と呼べるものはまるで無く、「馬鹿」といか言いようがない登場人物たちが織りなす行きあたりばったりなストーリー展開が延々と続く印象を覚えた。 ゴジラとキングコングの文字通りの「肉弾戦」のビジュアルは流石に凄まじかったけれど、本当にどうかしていると思えるくらいにストーリー的な上手さやドラマ性が皆無なので、決戦描写が激しくなればなるほどに、どこか鼻白んでしまった。  クライマックスである香港決戦の描写や、地球空洞説を踏まえた空想科学要素は、個人的に好ましいエンターテイメント要素ではあったけれど、よくよく考えてみれば完全に「パシフィック・リム」の二番煎じでもあり、決してフレッシュではなかった。  そして今作のストーリーテリング上では“サプライズ”として登場する“メカゴジラ”も、何とも不格好でダサく、あまりにも魅力的でなかったことが傷口に塩を塗り込んでいる。 モデリングの醜悪さもさることながら、それを創り出し操っている人間が馬鹿すぎるので、メカゴジラの存在意義自体があまりにも希薄だった。 そもそも前作で登場したキングギドラの骨(DNA)をベースにしているのならば、“メカキングギドラ”でいいじゃん!と、「ゴジラVSキングギドラ(1991)」の大ファンとしては思わざるを得ない。 (そして、小栗旬の役柄の不憫さったらない……)   と、呆れて物が言えないくらいの不満を覚えながら、改めて思い知ったことは、アメリカ人にとっての「ゴジラ映画」とは、まさに今作のベースである「キングコング対ゴジラ」以降の、“怪獣プロレス”を延々と繰り広げた昭和ゴジラシリーズに尽きるのだろうということ。 彼らにとって「ゴジラ」とは、どこまでもいっても“核が生み出したヒーロー”であり、それは即ち自らが生み出したこの星の“都合のいい守護神”なのだ。  実際に、プロレスブーム全盛の昭和ゴジラシリーズが存在し、アメリカのオタクたちが愛した怪獣映画がそれらである以上、その結果生み出された映画を「否定」することはもはやお門違いなのかもしれない。 それでも、日本のゴジラ映画ファンの一人として、この映画が、馬鹿馬鹿し過ぎる作品であることは否定できないし、玉石混交のゴジラ映画シリーズの中においては、或る意味今作もその系譜に相応しい作品と言えると思う。   この「落胆」は、この国のゴジラ映画ファンとして、むしろ「安堵」と言えるものかもしれない。 「シン・ゴジラ」を特異点として、日本国内のクリエーターたちにおける“ゴジラ”に対する創造性は、「新解釈」と共に益々多様的に展開している。 アニメ映画版三部作や、今年(2021)Netflix配信されたアニメシリーズ「ゴジラ S.P」はその顕著でエキサイティングな産物だろう。  どれだけ莫大な予算や映画的人材を駆使したとしても、「ゴジラ」だけは、日本でしか描きぬくことができない。それは、この国の映画文化が最も誇るべきアイデンティティの一つなのではないかとすら思える。
[映画館(字幕)] 2点(2021-07-03 12:05:09)(良:1票)
4.  GODZILLA 星を喰う者
愚かで傲慢な“旧時代”の人類は、「存続(=勝利)」し続ける限り、憎しみと虚栄を捨て去ることができない。 絶対的な「畏怖」の対象と、それがもたらした「新しい世界」を目の当たりにして、旧時代の英雄は、自ら“憎しみの螺旋”を断ち切るために飛び立つ。 三度、あまりにも強大な宿敵と対峙し、憎しみと怒りをぶつける彼が見せた“最期の安堵”。それは、自分が本当に”滅ぼすべきもの”が何だったのかということに到達した儚くも、勇ましい帰着だった。   というわけで、れっきとした“ゴジラファン”でありながら、世評の悪さから鑑賞を先延ばしにし続けてきたこの長編アニメ版「GODZILLA」トリロジーを一気に完走。 各レビューサイトとも、世評はやはり「否定」の嵐だったが、僕自身は、この三部作を通じて、想定外の世界観の深さと、ストーリーテリングの振り切り方に驚き、感動したと言っていい。  ハリウッド版含め30作以上に及ぶ玉石混交の「ゴジラ」映画全シリーズ作品を根底に敷き詰め、まるで原作版「風の谷のナウシカ」のような人類文明終末の虚無感と運命への抗い、そして、永井豪の「デビルマン」のクライマックスを彷彿とさせる人間の本質的な「業」がもたらす罪と罰の様相が、豪胆なストーリーテリングの中で展開されていたと思う。 無論、今作が、過去のゴジラ映画シリーズ随一の映画だとか、上に挙げた伝説的漫画作品に匹敵する作品だとは決して言えないけれど、そういった偉大な過去作に対する明確なリスペクトを掲げつつ、この製作チームが目指した高みは、素晴らしくチャレンジングで、間違いなくエキサイティングだった。  大多数からの“拒否感”は認める。だが僕は、ゴジラ映画ファンのはしくれとして、過去の全30作を鑑賞してきたことを踏まえて、敢えて全方位的に「肯定」したい。  日本の映画史、そして世界の特撮映画史に燦然と輝くゴジラ映画シリーズだが、控えめ言ってその7割以上は「駄作」である。 特に、このトリロジーの直接的な原作とも言える1964年「三大怪獣 地球最大の決戦」をはじめ、以降の昭和時代に製作された各作品は極めて陳腐で子供だましのものが圧倒的に多い。 ただ、そういう駄作群も含めて、長きに渡り世界中の映画ファンに愛され続けているのが、「ゴジラ」という歴史であり、魅力であろう。「三大怪獣 地球最大の決戦」にしても、ゴジラ・モスラ・ラドンのまるっきり“コント”のような共闘の滑稽さに呆れつつも、キングギドラ登場のインパクトと精巧さには惚れ惚れする。そういうアンビバレントな感覚を堪能することこそが醍醐味だと思う。  このトリロジーの諸々の強引な設定や中二病的なストーリー展開に対して鼻白み、批判する評が多いようだが、個人的には、そういう部分こそが特撮映画っぽさ、ゴジラ映画っぽさでもあり、全くもって許容範囲だった。 むしろ、そのある意味伝統的なチープさを取り込みつつ、最新のSFアニメとして最大限増幅し、振り切ってみせていることが、ファンとして高揚感を高められた最大の要因だったと言える。  ゴジラ映画としても、アニメーション映画としても、歪だし、独善的な映画であることは否定しない。ただそれ故に印象的で忘れ難き作品になっていることは間違いない。  ただ……、“モスラ”はちゃんと孵化させて、ゴジラ、ギドラと同様に圧倒的なアニメーションで見せて欲しかった。 アレンジされた「モスラの歌」が双子姉妹によって奏でられるのを今か今かと心待ちにしていたのだけれども。
[インターネット(邦画)] 9点(2021-01-22 23:43:40)
5.  GODZILLA 決戦機動増殖都市
ゴジラ映画初の長編アニメシリーズ(三部作)の第二弾。 世間の評判の悪さから長らく敬遠してしまっていたのだが、ようやく鑑賞した前作「怪獣惑星」が、思いのほかゴジラ映画ファンの琴線をくすぐってきたので、同日に続けて今作を鑑賞。  「決戦機動増殖都市」というこの副題が、中二病的でとても良い。 このタイトルを堂々と掲げることで、この映画は“そういう映画だ”ということを宣言しているのだと思う。 詰まりは、この国が長年に培ってきたアニメ文化、特撮文化、そしてオタク文化を愛し続けた者たちが、寄ってたかって“自己満足”を積み上げた作品であるということ。 そして、「それの何が悪いのか?」ということを、開き直るように力強く叩きつけている作品であるということだ。  前作のラストで、ようやくゴジラを討伐した歓喜も束の間、ほぼ間髪入れずに現れた真の絶望。 あまりにも巨大な絶望に対する次なる対抗手段として描き出されるのは、共闘する異星人がかつて地球に持ち込んでいた“メカゴジラ”の「構成素材」で2万年の間に勝手に出来上がっていた“増殖都市”という、完全にワケガワカラナイ代物。 ワケガワカラナイが、だからこそケレン味に溢れ、極めてSF的だと断言したい。  “メカゴジラ”のビジュアルを一切登場させることなく、その“素材”と、それを扱う異星人たちの異質な“思考原理”のみで、もはや地球環境そのものとなっている“ゴジラ”と対峙し、ストーリーをテリングしていくこの作品のあり方は、やっぱりマニアックでぶっ飛んでいる。  肝心要のゴジラの描写すらもそこそこにして、舞台であり、兵器である“増殖都市”そのものの禍々しさを突き詰め、その中で異なる思考をぶつけ合う人間同士の消耗戦と、それに伴う悲劇に主眼を置いていくストーリーの顛末が極めて興味深かった。  そして、そんな異質なストーリーテリングを展開しながらも、しっかりとゴジラファンの高揚感を煽る描写、伏線が張り巡らされている。 双子の美少女、卵を崇める民族、隠された異星人の思惑、そして「ギドラ」という忌まわしき言葉。  世間の評価がどんなに低かろうが、前作に続き今作もしっかりと“ゴジラ映画”であり、“SF映画”であったと思う。 主人公を見つめるヒロインの目線が絶妙に合っていない不気味さすらもはや味わい深い。 さあ、次はいよいよトリロジーの最終作。“地球最大の決戦”に向けて準備は万端だ。
[インターネット(邦画)] 8点(2021-01-18 00:21:32)
6.  GODZILLA 怪獣惑星
まず冒頭のプロローグ的なニュース映像の中で最初に登場する怪獣が、カマキラス、そしてドゴラだったことがマニアックで、思わず喜色を浮かべた。 地球が滅亡したくだりを伝えるこのオープニングクレジットは、非常に端的であり、かつ東宝特撮映画ファンの心をくすぐる娯楽性に溢れたものだった。(“ヘドラ作戦”が気になる!)  “ゴジラファン”でありながら、今作に対してはあまり良い評判が聞こえてこなかったので、今の今まで鑑賞を先延ばしにしまっていた。 随分とハードルを下げきったことが逆に良かったのかもしれないけれど、今作は、想定を大いに超えた満足感を得られるれっきとした“ゴジラ映画”だったと思う。  タイトルが「GODZILLA」となっているように、そのキャラクター性を含めたゴジラの造形や世界観のテイストは、2014年のハリウッド版「GODZILLA」の方向性に限りなく近い。 ゴジラ自体の姿形もハリウッド版とほぼ同じフォルムであり、「破壊神」と称されるに相応しいその巨躯はこのアニメ版においても迫力があった。 その一方で主人公をはじめとするキャラクターたちの台詞回しや、作戦進行を中心としたストーリーテリングにおいては、2016年の「シン・ゴジラ」を彷彿とさせる要素も垣間見れ、個人的には適切なバランスで両国版の「ゴジラ」が融合している印象を受けた。   一般的な評価はやはり低く、「ゴジラ映画として認められない」という意見も多いようだけれど、「ゴジラ」を初めてアニメーション作品で描く上で、実写での特撮映画では実現が難しい試みに挑んでいることは、正しい映画作りのあり方だったと思う。  そして、この映画には「ゴジラ映画」として相応しいテーマがしっかりと備わっているとも思う。 そのテーマとは、ゴジラに対する人類の「畏怖」の念だ。 第一作目の1954年「ゴジラ」しかり、「シン・ゴジラ」しかり、玉石混交のゴジラ映画シリーズの中で確固たる傑作として輝いている作品は、ゴジラという大怪獣に対する「畏怖」をどれも等しく描きぬいている。  今作に対しては手放しで「傑作」とは言い切れないけれど、人類のゴジラに対する「畏怖」については、どの過去作よりもダイレクトに描きつけられていると思う。 突如地球に出没した“破壊神”ゴジラの「災厄」としての存在感を突き詰め、人類文明を明確な「滅亡」に至らしめたのは、今作のゴジラが初めてである。 「ゴジラによって地球の人類文明は滅亡しました」というイントロダクションから始まる今作の豪胆なストーリーテリングは、今作が実写シリーズとは一線を画したアニメ映画だからこそ成し得たものだったと思う。  SF、アニメ、トリロジーというフィールドを最大限活かして、これまで誰も見たことがない「ゴジラ映画」を見せようと試みたこの映画プロジェクトの精神は、まったくもって正しいと思うのだ。  極限的に壮大なストーリーのわりに、主人公をはじめとする登場人物たちの言動が直情的でやや希薄に感じたり、諸々の設定がさすがにぶっ飛びすぎているというような「粗」が溢れかえっている作品ではある。 ただ、そういった雑多な映画的テイストもまた「東宝特撮映画」の文化であろう。  とりあえず今は、続編2作品を続けて観られることが楽しみで仕方がない。
[インターネット(邦画)] 7点(2021-01-17 15:08:57)
7.  この世界の(さらにいくつもの)片隅に
正月などに親族で集まると、決まって、もう何年も前に亡くなった祖母の話題になる。 孫から見ても、なかなかパワフルな人だったので、エピソードには事欠かないのだけれど、このところは特に、戦中戦後のあの時代に、農家の嫁として苦労したであろう話を、父や伯母連中からよく聞かされる。  祖母は農家に嫁ぎ、子を授かったが、生まれたのは3人続けて女子だった。 「時代」と「環境」を踏まえると、肩身が狭かったことは明らかで、あらゆる角度からあらぬ非難も受け続けただろう。 4人目でようやく長男(父)が生まれたことによる祖母の喜びというよりも、「安堵」は想像に難くない。  ものすごく理不尽で、愚かしいことだけれど、当時の女性にとって、特に“嫁”として嫁いだ女性にとって、“跡取り”を生むことは「義務」であり、社会にとっても、女性本人にとっても、その価値観の絶対性は揺るがないものだったのだと思う。 現代の価値観で、当時のその“常識”を非難することは容易だけれど、それこそ、「時代」も「環境」も異なる“ものさし”で推し量ったところであまり意味はない。  ただ唯一確かなことは、“農家の暗い納屋の片隅”で、“小さな借家の狭い炊事場の片隅”で、いくつもの世界の片隅で、涙を流し続け、それでも生き抜いた「彼女」たちの人生の上に、僕たちは生かされているということ。  映画の中の“すずさん”も、その「時代」に嫁いだ女性の一人として、自分の中にも知らず識らずの内に根付き、蔓延っていた“常識”にぶつかり、思い、悩む。 生来の呑気な性格も手伝って、ゆらゆらと風の吹くまま気の向くまま生きてきた彼女だったけれど、“リン”という一人の女性との邂逅を通じて、自らの女性としての存在意義に対して目を向けざるを得なくなる。  そこには、疑念や嫉妬や怒りを含んだ感情も渦巻くけれど、喜びや慈しみも生まれ、一人の女性として人生を深めていく様がありありと映し出されていた。  「この世界に居場所はそうそう無うならせんよ」  と、遊女のリンは、すずに語りかける。 人は誰だってこの世界で必要な存在であろうし、たとえどんなに辛くても人は“生き続けるための場所”しか与えられていない。 友に対する“優しさ”も、自身の生い立ちを踏まえた“厳しさ”も、等しく含んだこの台詞は、彼女たちの人生の機微を雄弁に物語り、深く深く、心に染み入ってきた。     この映画は、「この世界の片隅に」で意図的に“間引かれていた”エピソードを追加し、前作の「行間」に在った感情を紡ぎ直した「新作」である。 「この世界の片隅に」は“完璧な映画”だった。 そして、この「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」は“また別の完璧な映画”だった。  人間が人間らしく、ただ「生活」を営むということの、強さと、儚さと、眩さ。 それはあまりにも普遍的な輝きだからこそ、強引に奪われたことによる闇はより一層に深まり、傷つく。  悲しかったでしょう、悔しかったでしょう、怖かったでしょう、痛かったでしょう、辛かったでしょう。  でも、それでも、泣いて、怒って、笑って、「貴女」が生き続けてくれたから、僕たちは“今”生きている。 そのすべてをひっくるめたこの映画の高らかな愛しさに、また涙が止まらない。
[映画館(邦画)] 10点(2020-02-01 22:40:52)
8.  ゴジラ キング・オブ・モンスターズ 《ネタバレ》 
ゴジラ映画ファンとして先ず断言したいが、本作が映し出すビジュアルはとんでもなくエキサイティングであり、世界中総てのゴジラ映画ファン、怪獣映画ファンは、必ず映画館で見なければならない。 それが決して言い過ぎではないくらいに、映像的には本当に“どえらいもの”を見せてくれる。それは間違いない。  その妥協の無い映像的クオリティーは、この映画の製作陣が、日本が生んだ“ゴジラ映画”を心から敬愛し、尊敬してくれていることの紛れも無い証明であり、そのことについては、日本のゴジラ映画ファンとして心底嬉しく思う。  と、5年前の前作とほぼ同じ、いやそれ以上の「満足感」を得られたことは否定しない。 しかし、だ。その「満足感」と同時に、決して看過できず、拭い去れない「拒否感」を覚えたことも否めなかった。 前作鑑賞時と同様に、エンドロールを見送りながら、“神妙な面持ち”を崩すことができなかった。  「拒否感」の正体はもはや明確である。“核の取扱い”只々この一点に尽きる。 ストーリーテリングにおける“それ”についての「意識」の違いさえ無ければ、僕は前作も含め、この“ハリウッド版ゴジラ”を大絶賛することを惜しまなかっただろう。 だが、残念ながら、前作に続き本作においても、「核兵器」という人類が生み出した最凶最悪の脅威に対する“意識の違い”というよりも、むしろ明確な「無知」が、大きく分厚く障害として立ちはだかった。  その「無知」は、致し方ないものとも思える。 世界で唯一の被爆国として、この国の子どもたちは、核兵器の脅威とそれがもたらした悲劇に関する情報を、教育の中で蓄積し、潜在意識レベルで認識している。 いかなる場合であっても、核兵器は「否定」の対象であり、その象徴が、脅威としての「ゴジラ」なのだ。 一方、かの国の子どもたちにとって、「ゴジラ」とは“核が生み出したヒーロー”であり、その認識を変えることは極めて難しいことなのだろうということを、前作と本作を観て痛感した。 歴史も、文化も、価値観も違えば、それは当然のことだろうし、こと「核兵器」に関する経緯においては、日本とアメリカの立場は全く両極にあったわけだから、その「乖離」は殊更であろう。  ただ、そのように俯瞰して見れたとしても、本作における核兵器のあまりに軽薄な取り扱いは、この映画が「ゴジラ映画」だからこそ認めるわけにはいかない。 衰弱したゴジラに対し、核爆弾をあたかも“カンフル剤”のように爆発させ、復活する様を仰々しく映し出し、本作随一の名場面のように仕上げた様には、怒りを覚えるというよりも、唖然としてしまった。 我らが渡辺謙の熱い見せ場には申し訳ないが、日本のゴジラ映画ファンにとっては、あのシーンが最も「不適切」で「不要」だった。   でもね……。 これがアメリカ人が愛し、アメリカ人が観たい「ゴジラ映画」であれば、それがすべてであり、娯楽映画として本作の在り方を否定する余地は無い。と、本心から思う。(立ち位置が定まらないようで申し訳ないが)  実際、僕自身、前作同様にゴジラの巨躯に感動し、キングギドラが醸し出す絶望感に更に感動し、あの“新兵器”の登場や、“小美人”オマージュなど、一つ一つの要素に興奮した。そして、伊福部テーマ全開の劇伴には、高揚感と共に感謝が溢れた。  詰まるところ、僕はこの映画が大好きなのだ。だからこそ、“嫌い”な部分が我慢ならないのだと思う。
[映画館(字幕)] 7点(2019-06-01 23:30:00)(良:2票)
9.  孤狼の血
「今」の日本映画において、ぶっちぎりに「熱量」が多い作品であることは間違いないし、こういう日本映画をもっと観たい。 が、しかし、熱量が高騰したことは認める反面、それが沸騰するまでに達したかというと、正直なところ疑問符が残る。 触れ込みの通り、往年の大傑作「仁義なき戦い」を彷彿とさせる作品ではあるが、その系譜の娯楽映画、即ちジャンル映画として、あらゆるしがらみから「脱却」しきれていないと、敢えて言いたい。  言い換えれば、色々な意味で、「丸裸」になり切れていないとも言える。 必ずしも、もっとエロく!もっとグロく!ということではなくて、ジャンル映画としての本質的な部分で、もっと脱ぎきってほしかった。脱がしきってほしかった。  敢えて表面的な部分を指摘するならば、そのままの意味合いに聞こえるかもしれないが、もっと「裸」を見せるべきだったと思うのだ。 傍若無人のマル暴刑事を演じた主演の役所広司にしても、妖艶さを振りまく真木よう子にしても、“こういう映画”で「裸」にならないのは如何なものか。 ましてやせっかくの“濡れ場”にも関わらず、松坂桃李を脱がさずに、おぼこいラブシーンに終始した演出には、「一体、どういうワケだ?」と監督を問いただしたくなる。  「暴力映画」として随所に振り切れているのだからそんなことは些末なことだと言う人もいるのかもしれないが、バイオレントシーンやグロテスクシーンにおいて白眉なものを見せてくれているからこそ、そういうあるべき娯楽要素の欠落に、何だか遠慮めいたものを感じてしまい、非常に勿体無く思えた。 それは、この映画が、「俺たちが観たい日本映画」を表現してくれているからこそ、発さずにはいられない“物言いだ”。  封切りから間もないが、どうやら日本映画としては異例の続編製作が既に確定しているらしい。 白石和彌監督が、これからの日本映画界を牽引していくべき中堅監督の一人であることは疑わない。 是非とも、「仁義なき戦い」の第二弾である「広島死闘編」並に遠慮なくブチ切れた続編を期待したい。
[映画館(邦画)] 7点(2018-05-19 17:34:35)
10.  この世界の片隅に(2016)
正月に妻の祖父母の家に行った際に、義祖母から大戦時の空襲の話を聞いた。 居住していた郊外から、市街地が空襲を受ける様を遠目で見たという。 変な言い方だけれど、と前置きをした上で、当時子どもだった義祖母は、爆撃される光景が花火のように「綺麗」に見えたと言った。  とても印象的だったその正月の義祖母の話が、この映画のシーンと重なった。 主人公のすずは、爆撃を受けるその只中に立ち、眼前に広がる“非現実的な現実”の光景に対して、「ここに絵の具があれば、絵が描けるのに」と思う。 勿論、それが夢想であり、現実逃避であることを本人は分かっている。 でも、そうでも思わなければ、この目の前の現実を踏まえて次の瞬間を生きていない。それがこの「時代」を生きた人々が、共通して持った“生きる術”だったのではないか。 そして、義祖母の「綺麗」という感情もまさにそれだったのだろうと思う。   初めてこの映画を観てから2ヶ月近くが経とうとしている。 その間、何度も感想をまとめようとした。けれど、映画を振り返る度に、主題歌と主人公の声が言霊のように頭の中を巡り、繰り返し繰り返し感情を揺さぶっている。今もなお。  悲しくて、悲しくて、とてもやりきれない。  でも、涙が溢れる理由は、決して悲しいからだけではない。 悲しみを越え、苦しみを越え、痛みを越え、怒りを越え、虚しさと絶望を越えて、その先に何があったのか。 悲しみが消えて無くなるわけでもなく、それを補うだけの幸福があったわけでもない。 それでもだ。それでも命を繋ぎ、ただ生きていく。 その“普通”の人間の、愛おしいしぶとさに涙が溢れる。  “すずさん”の人生が特別なわけではない。 彼女と同じように、何千万人もの普通の人たちが、泣き、笑い、怒り、「戦争」という生活を生き抜いてくれたからこそ、僕たちのすべてと、この映画は存在している。  ん、やっぱりうまくまとまらない。 ただ、全部がすごい。  取り敢えず映画を2回鑑賞し、原作漫画を読みふけったが、この先も僕は人生を通して“すずさん”と共に泣き笑うだろう。 そして、この世界の片隅で命を繋いでいくだろう。
[映画館(邦画)] 10点(2017-01-22 21:13:56)
11.  ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃
待望の最新作「シン・ゴジラ」の鑑賞を控えて、過去のゴジラ映画シリーズの中で唯一観れていなかった今作をついに観ることが出来た。 正直なところ、過去のゴジラ映画全28作(ハリウッド版を含めれば全30作)の鑑賞実績をコンプリートして、満を持して最新作に臨めることの“ゴジラ映画ファン的”な満足感が先行し、今作自体に対する満足度など二の次になってしまったことは否めない。  東宝映画自体の斜陽期に製作された作品だけあって、ゴジラ映画としてのルック的にも、ストーリーテリング的にも、尺的にも、極めて低予算で、つくり手(本多猪四郎大先生)が力を入れようにもどうしようもなかった作品であることは一目瞭然であった。 ストーリー上のメイン舞台は、“ゴジラが存在しない現実世界”となっており、怪獣たちの登場シーンは、あくまで主人公である鍵っ子少年の「空想世界」に過ぎない。映し出される特撮シーンもその大半が、過去作映像の使い回しだった……。  この時代のゴジラ映画が「駄作」であること自体は何も珍しくないことなので、今作もきっぱりと「駄作」と言い切ってしまうことは簡単なことである。 しかしながら、今作の場合は、ゴジラ映画として「駄作」だとは言い切れない部分がある。 そもそものコンセプト自体がゴジラ映画としては「異質」である。 今作は、ゴジラ映画の要素を借りただけの全く別物の作品だと思う。 だから、ゴジラ映画として「珍妙」ではあるが、「駄作」ではないと思うのだ。  鍵っ子少年の悲哀と健気さ、児童誘拐などの治安問題、当時の世情を反映した社会的な問題意識こそが、この子供向け映画に込められた製作者たちの思いだったに違いない。  まあ、だからと言って、ちっとも面白くはないのだけれどね……。ガバラは糞ださいし、ミニラは喋って興ざめだし……。   P.S. 今作鑑賞の数時間後に「シン・ゴジラ」を観た。イロイロな意味で“振れ幅”が半端無かった。それはそれで、ゴジラ映画ファンとして貴重な映画体験だったと思う。
[CS・衛星(邦画)] 3点(2016-07-31 23:22:25)
12.  ゴジラ対メカゴジラ
「駄作」だらけの、昭和“プロレス”時代のゴジラ映画の中では、なかなかどうして“楽しさ”だけは随一と言える作品だったのではないかと思う。(無論、この時代の他のゴジラ映画もつぶさに観てきて、ハードルを下げきった上での鑑賞だったからだろうけれど……)  まず何と言っても、シリーズ初登場となる“メカゴジラ”の娯楽性溢れる存在が良い。 ブラックホール第3惑星人という荒唐無稽な宇宙人が操るこの機械仕掛けの大怪獣の存在性は、良い意味で東宝特撮映画ならではの馬鹿馬鹿しさに溢れている。 文字通り全身から放たれる兵器によって、対するゴジラを苦しめ、一旦は瀕死の状態まで追い込んだ戦績は、長きゴジラ映画シリーズにおいても賞賛に値するのではないかと思える。  あくまで「兵器」であるメカゴジラの特性上、ストーリー的な主軸が人間たちの攻防にある点も好ましかった。 馬鹿らしくて子供だましではあるけれど、滑稽な宇宙人たちとの攻防に、インターポールまで介入し、SFとスパイものが合わさったようなアクション映画的な展開は、この時代の娯楽映画の在り方として正しかったと思う。  また今作では、沖縄がメインの舞台として描かれ、キングシーサーなる土着怪獣まで登場するわけだが、この映画の公開当時、沖縄は2年前に返還されたばかりであり、それ故の風俗描写の微妙な違和感もまた興味深い。 文化面や精神面の描写で垣間見える理解度の低さが、当時の本土と沖縄との“距離感”を表しているように思えた。 沖縄が舞台にも関わらず、自衛隊も米軍もまったく登場しない展開にも、世情に対する製作者たちの思惑が垣間見える。  というわけで、今作においては、肝心の“ゴジラ”の印象は極めて薄いが、それを補うだけの娯楽性と、様々な側面での見応えはあるゴジラ映画だったとは思う。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2016-07-30 11:04:21)(良:1票)
13.  ゴジラVSスペースゴジラ
ゴジラ映画ファンでありながら、長年に渡ってスルーし続けてきた作品だけあって、ある意味“安心”の駄作ぶりだった。 ハードルを限界まで下げきった上での鑑賞でありながらも、「早送りしてぇ」と思わざるを得なかった出来栄えには、もはや「流石」と言いたくなった。  「ゴジラVSビオランテ」以降“平成VSシリーズ”の“心のヒロイン”としてレギュラー出演し続けた三枝未希(小高恵美)が、ついに作中のメインヒロインとして登場したことは嬉しかったが、青臭い恋愛模様が痛々しくて仕方なかった。(おまけにイメージチェンジのショートカットが可哀想なくらいに似合っていなかった……)  兎にも角にも、90年代の映画であることを疑うくらいにストーリー展開の稚拙さが際立っている。諸々の事情により急遽製作された作品であるらしいが、それにしても酷い。  ただし、一点だけピックアップポイントはあった。 主要キャラとして登場する女性科学者の名前が「権藤」。これはピンときた。 「VSビオランテ」ファンとしては、“権藤一佐の弔い”という一つの要素には口元が緩んだし、彼の形見であるジッポーを柄本明演じる少佐が使っているという裏設定は胸熱ではあった。
[CS・衛星(邦画)] 2点(2015-06-15 22:24:25)
14.  ゴジラ×メガギラス G消滅作戦
予告編を観ただけで、否が応でも鼻につく“駄作臭”から逃れるようにこれまでスルーし続けてきた今作。 ただゴジラファンとして、シリーズ中観ていない作品があることも口惜しいので、ついに初鑑賞。 ハードルを下げきっていた分、思ったよりは“観られた”感覚はあるが、やはり駄作は駄作だと思う。  予告編の段階から明らかだったことではあるが、今作における最たるマイナス要因は“キャスティング”だと思う。 田中美里には大変申し訳無いけれど、主人公の特殊部隊隊長に彼女を起用したことは、完全なるミスキャストだ。どこからどう見てもまるっきり戦闘員に見えないことは、主演女優の演技力どうこうではなく、配役の失敗以外の何物でもない。 今作で監督デビューを果たした手塚昌明は、この後の「ゴジラ×メカゴジラ」でも釈由美子を女性戦士役で主人公に配しており、完全に彼の“趣味趣向”なのだろうが、今作のこのキャスティングミスは致命的だった。  もちろん“駄作”と言い切る以上、主演女優一人にその原因を押し付けることは出来ない。 その他のキャラクターの軽薄さ、ストーリーそのもののお粗末さも、当然褒められたものではない。  そして、個人的に最も我慢ならなかったのは、ゴジラの造形である。 不必要に仰々しい背びれは厨二病丸出しのデザインで不自然でダサい。 ゴジラと対峙するメガギラスなる新怪獣も下品な毒々しさが空回りしており、これまたダサい。  とまあ振り返ってみれば、オープニングタイトルから、ラストカット、エンドクレジット後の“蛇足”シーンに至るまで、ことごとく「ダサい」の一言に尽きる。  しかし、ゴジラシリーズは実のところ7割以上が“駄作”であることは、ファンであれば周知の事実。 それを踏まえれば、今作の駄作ぶりなどそれほど目くじらを立てることではないとも思える。 そして、今作での長編デビュー後に、手塚昌明監督が再度挑んだ「ゴジラ×メカゴジラ」と「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS」は、シリーズの中でも屈指の良作だと思っているので、この「失敗」は許せる。
[CS・衛星(邦画)] 3点(2015-05-05 22:12:46)
15.  言の葉の庭
7年前に観た「秒速5センチメートル」は、最高に好きだった。 観たことが無い程のクオリティーのアニメーションによる美しさと儚さに胸が詰まった。 “新海誠”というクリエイターに類い稀な美意識と可能性を感じた。  が、残念ながらこの作品では、以前のような感動を殆ど感じることが出来なかった。  映し出される映像世界は相変わらず美しい。むせび泣くように降り続ける雨に包まれた街並は、さめざめ物悲しくもあり、美しい。 ただ、正直なところ、特筆すべきはそれだけの作品に終始してしまっている。  ネックとなった要素は、「青臭い」の一言に尽きる。 雨に濡れた新緑の臭いがそのまま漂ってくるように、ただただ青臭い。  経験に乏しい多感な高校生を描いているわけだから、そうなってしまうことはある意味必然だったとは思う。勿論、青臭くても良い映画は沢山ある。  でも、今作においてはその未成熟さが、どこまでいってもただ“浅はか”に映るだけで、徐々に不愉快にさえ見えてくる。  そしてそれは、次第に制作者自身の青臭さに直結しているように見え、紡ぎ出される言葉も、映し出される映像も、安直な自己満足に見えてきてしまった。  ただそれは、自分自身もしばしば陥ってしまいがちな“語り口”で、己の感受性の豊かさを他者に示したいという素人臭い願望の表れの重なるようで、少々身につまされた。  まあ、そんな”素人臭さ”と重なるようでは、やはり駄目なわけで。  主人公の高校生は、密かに靴職人を目指していて、そんな自分の夢と現実社会の厳しさ(のようなもの)との狭間で思い悩んでいる。 その描かれ方は、いかにも夢と現実の折り合いをつけている風だが、実際のところは決してそうではなく、その“折り合い”も含めて葛藤している自分自身に酔っているように見えて仕方なかった。  「靴職人」ってそこまで特殊な仕事かよと思うし、それなら「ヴァイオリン職人」を目指して“青臭さ”全開で突っ走る“天沢聖司”の方がよっぽど偉いわ!とまったく関係ない比較をしてしまった。  とにかく、現実の辛辣さを描くふりばかりで、結局は綺麗事を並び立てたばかりに見える映画世界に対して、まったく感情移入が出来なかった。
[CS・衛星(邦画)] 2点(2014-09-08 00:03:44)
16.  GODZILLA ゴジラ(2014) 《ネタバレ》 
神々しくそびえ立つ巨躯。体の髄にまで響き渡る咆哮。 満を持してスクリーンに甦ったそれは、まさに「怪獣の王」と呼ぶに相応しく、その存在感は圧倒的だった。 この極めて完成度の高い映画が、映画史上最高クラスの「怪獣映画」であることは、間違いないと思う。 日本が誇る「怪獣」と「特撮」を、ハリウッドの最前線の精鋭である映画人たちが、多大な“リスペクト”をもって甦らせてくれたことに、先ず感謝したい。  「怪獣映画」として、絶賛は惜しまない。 しかし、絶賛の上で、ただ言いたい。  これは……、「ゴジラ映画」ではない。   最大の違和感は、ゴジラが「何もの」であるかということに対する認識のズレだろう。 今作では、絶対的な存在感を誇るゴジラが、その存在感のまま神格化され、文字通りの地球の「守護神」として描き出されている。 この映画単体においてみれば、ストーリー的な違和感はない。 しかし、これが「ゴジラ映画」というのならば、その描かれ方は致命的な欠陥と言わざるを得ない。  ゴジラという怪獣は、“核の化身”でなければならない。 他の怪獣がどうであろうとも、ゴジラだけは決して“古代生物”などであってはならない。 人類自身が生み出してしまった災厄である「核」。その「権化」でなければならないと思う。  ゴジラはいくらその姿が強烈な畏怖の対象であり神々しくあろうとも、決して神格的なものなどではないし、あってはならない。 なぜならば、ゴジラは人類の「業」そのものであり、愚かな人類にとっての合わせ鏡の如き存在でなけらばならないからだ。  だからこそ、人類は圧倒的な力の差を見せつけられようとも、強大なゴジラに立ち向かい続けなければならない。 だからこそ、時に己の身を賭してでも、ゴジラ(=人類)の暴走を止めなければならない。  「ゴジラ映画」におけるスペクタクルとは、圧倒的で悲劇的な「破壊」と、その破壊を生み出してしまった人類が自戒を礎にし、己に打ち勝とうとする様にこそ生まれるべきだと思うのだ。 それこそが、“戦争”と“核”、そして自らの“驕り”によって一度叩き潰された国が、再び進み出すために生み出した“エンターテイメント”だったと思う。  だから、そういう「精神」が根本的に欠けていたこの映画は、少なくとも僕にとっては、「ゴジラ映画」とは言い難い。
[映画館(字幕)] 7点(2014-07-29 23:32:19)
17.  ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘
ゴジラシリーズのファンなので、この作品のタイトルは勿論知っていたが、シリーズ中もっとも興味が薄い作品だったと思う。 その最たる要因は、やはり、「エビラってなんだよ!」というところ。 今さらエビの怪物が登場したところで、娯楽性が生まれるとは到底思わなかった。 そして、予想通り、“エビラ”に関しては、ゴジラに対峙する相手としてのインパクトはほぼ無い。  ただし、映画としてのつくりは、意外な程に真っ当だったと思う。 主人公たちが偶然流れ着いた孤島で繰り広げるアドベンチャーには、思ったよりもちゃんとした娯楽性があったように思う。 エビラはもとより、作品の顔である筈のゴジラや、ゲスト出演感が強いモスラを、敢えてストーリーの脇に据え、主人公チームと謎の秘密結社との攻防に主軸を置いた展開が、功を奏していた。  「南海の大決闘」と銘打ちながらファーストシーンでは恐山のイタコが登場したり、シュール極まりない「耐久ラリーダンス大会」など、善し悪しは別にして変わった味わいがある作品に仕上がっていることは間違いない。  一方で、雷で復活するゴジラの描写や、意外に悪くはないエビラの造形など、怪獣映画としても決して見応えがないわけではない。 またシリーズ第一作「ゴジラ」で芹沢博士を演じた平田昭彦が、同役を彷彿とさせる眼帯姿で悪役を演じるなど、配役にも面白さがあった。  ハードルをグッと下げて観たからという前提は取り除けないし、出来のいい作品ではないが、ゴジラシリーズファンならば決して観ておいて損はない作品であるとは思う。
[インターネット(字幕)] 5点(2014-05-07 23:06:59)(良:1票)
18.  極道の妻たち
今さらながらの「極妻」初見。 まあとは言っても、昔は何度もテレビ放映されていたし、それを観る父親らの傍らでどこかしらの場面場面を観ていた記憶は、子供心に確実に刻まれている。 「岩下志麻」という大女優の固有名詞を聞いて真っ先にイメージされるのは、確実に「極妻」であるし、「初見」という感じはまったくしなかった。  今作よりもさらに一昔前の「緋牡丹博徒」などの任侠映画や、「仁義なき戦い」などのヤクザ映画は大好きでよく観てきたので、今作にも同様のカタルシスを期待した部分があったのだけれど、良い意味でも悪い意味でもその思惑は結構外れてしまった。  家田荘子のルポルタージュを原作にしているだけに、想像以上に“リアル”な分(実際何がリアルかは知らんが……)、映画としての娯楽的な格好良さやドラマ性は薄く、極道の世界で入り乱れる女と男の“生々しさ”が際立っていた。 岩下志麻も含め、登場する“妻たち”は、決してただ妖艶に美しいわけではなく、むしろ“無様さ”の方が目立つ。 主人公も決してヒーロー然としているわけではなく、あの世界に身を捧げた女のある種の美しさと醜さ、そして儚さが滲み出ているように見えた。  その主人公を殆ど喰ってしまっているのが、ご存知かたせ梨乃。 今作における文字通りの熱演によって、“肉体派”女優としての存在感と絶大な人気を決定づけた彼女のパフォーマンスは、流石に凄い。 ラストの強烈な“絡み合い”だけでも、この映画を観る価値はあるというもの。  エンターテイメント性の強いタイプの極道映画を期待してしまうと、大いに困惑してしまうことは否めない。 しかし、他の映画シリーズにはないこの映画ならではの“女の情念”とそれに伴う独特の禍々しさが、多くの人たちを惹き付けたことはよく分かる。   最後に、この映画においても最も残念なところを言及したい。 主人公の側近役で、“斬られ役俳優”の福本清三がキャスティングされている。 彼のキャリアの中では珍しく全編通して登場するのだが、結局、死なずじまい……。 おいおい、勿体なさ過ぎるだろうよ。
[インターネット(字幕)] 6点(2013-06-13 23:28:17)
19.  コクリコ坂から
「まるで安いメロドラマだ」と自分たちに与えられた境遇に対して、少年が言う。 “恋”が芽生え始めた少年少女の間に生じた「出生の秘密」は、使い古されたプロットでまさに少年の台詞がふさわしい。 しかし、彼らはその事実に対して、決して安易な悲劇に浸らない。悲しみや困難から目をそらさず、自分の感情に対してまっすぐに立ち、乗り越え、その先を歩んでいく。  その自分の人生に対する力強いスタンスは、主人公の二人に限ったことではなく、この映画に登場するほとんどすべてのキャラクターから見て取れる。 1963年という時代背景の中で生きる人々。もちろん、幸福も不幸もある。しかし、そこには現代社会のような閉塞感はなく、幸福だろうが不幸だろうが、自分の意志で前を向いて生きていかなければならないという力強さと希望が溢れている。 そういう生き生きとした人間模様こそが、この映画の最たる魅力だったと思う。  すなわち、このアニメ映画は相当に素晴らしい作品だったと断言する。  映画は主人公の少女の「日常」の朝の風景から始まる。 主人公の少女の境遇や周囲の人間の人物像を捉えても、特別に劇的なことは何もない。 それなのに、次第に彼女をはじめとするキャラクターたちの言動に惹かれていく。  それは、この映画が人間の一人一人をとても丁寧に描き、彼らが生きている「時代」をありありと切り取っているからだと思う。 そこにはあざとく説明的な台詞や描写は存在しない。時に時代背景や当時の社会風俗の知識が無いと分かり辛い部分もある。しかし、そういったものは、彼らが生きている様を見ているうちに自然と解消してくる。 そうして、気がつくとどっぷりと主人公たちの感情に移入している。  とても丁寧ではあるが、決して大衆に安直な迎合はしない潔さと、映画表現の巧さがこの映画には溢れている。 作品の性質上、なかなか万人向けとは言えない映画であり、特に子どもが見ても面白さは分からないかもしれない。 ただ、かつて「耳をすませば」や「おもひでぽろぽろ」が、歳を重ねるにつれ面白味が溢れてきたように、長い年月において自分が成長していく中で、理解が深まり初見時とは違った感動が膨らむ映画だと思う。  だからこそ、年代問わずいろいろな人に見てほしい素晴らしいアニメ映画だと言いたい。
[映画館(邦画)] 9点(2011-07-18 00:24:23)(良:2票)
20.  今度は愛妻家
僕は、結婚をしてもうすぐ一年になる。特に問題はなく楽しい新婚生活を送れていると思う。 結婚をしてからというもの、「夫婦」の様を描いた映画に弱い。何気ない描写にすぐに涙腺が緩んでしまう。  なので、この映画もいつものように一人で観ようと決めていた。  タイトルと予告スポットを観ただけで、映画の大筋は読めてしまう映画だった。 だから、ストーリー展開に対する“驚き”については、端から期待はしていなかった。 ただ、もう少し巧く展開させていけたのではないかと感じ、その点は残念だった。  製作者側も”驚き”を見せたいわけではないらしく、結構映画の序盤で「真相」はほとんど明らかになる程に見え隠れする。 “驚き”に重点を置いていないのは分かるが、もう少し「真相」を隠した上で、主役となる夫婦の様を見せてくれた方が、後の感情の揺れは大きかったと思う。 更に言わせてもらうならば、“夫婦”以外の描写が多すぎる。周囲の人間模様をあまりに執拗に描き過ぎな印象を受けた。 被写体となる夫婦像に焦点が定まってきた時に、脇役のドラマがいやに細やかに描かれるため、ピントがぶれてぼやけてしまった。  ただし、“夫婦”の描写は素晴らしい。 たわいもない愚痴を言い合うシーンから、ただ手をつないで歩くシーンまで、愛おしさに溢れている。 それを成しているのは、薬師丸ひろ子の好演に他ならない。 年齢と単純な美貌を超越した“妻”の愛らしさを表現し尽くした彼女の存在が無ければ、この映画は成立していないと思う。  全体的に脚本が稚拙であることは否めず、あざとささえ感じる台詞と演技には正直なところ直視できない部分さえある。 が、薬師丸ひろ子が居て、豊川悦史との二人芝居に入った途端、目映い程の夫婦愛を描いた映画に様変わる。  完成度が高い映画とはとても言えないが、垣間見せる雰囲気には涙が溢れるという不思議な映画だった。
[DVD(邦画)] 5点(2010-09-24 12:33:58)
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