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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2597
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  哀れなるものたち
嗚呼、とんでもない映画だった。  ひと月ほど前に、映画館内に貼られた特大ポスターを目にした瞬間から「予感」はあった。 何か得体のしれないものが見られそうな予感。何か特別な映画体験が生まれそうな予感。 大写しにされた主演女優の、怒りとも、悲しみとも、憂いとも、感情が掴みきれないその眼差しが、そういう予感を生んでいた。  チラホラとアカデミー賞関連のノミネート情報は見聞きしつつも、本作の作品世界についてはほとんど情報を入れずに、公開日翌日の鑑賞に至った。 朝から原因不明の頭痛が続いていて、その日の鑑賞をぎりぎりまで逡巡したけれど、体調が万全でないことで、逆に映画世界に没入できるとも思い、赴いた。  正直、もっと楽観的にファンタジックな映画世界を想像していたものだから、モノクロームで映し出された序盤の展開から面食らってしまった。 ゴシックホラーを彷彿とさせる怪奇とグロテスクは、想定していた“ライン”を嘲笑うかのように超えていき、油断をすると一気に置いてけぼりを食らうところだった。  今思えば、この序盤のモノクローム展開の中で、惜しげもなくトップレスを披露する主演女優エマ・ストーンに対して、「さすがアカデミー賞女優、体を張っているな」などと上から目線の称賛を送っていた自分は、あまりも幼稚で愚かだったと思う……。  死んだ母親の体に脳を埋め込まれて「生」を得た主人公ベラは、狭く、色の無い世界を抜け出して、人生という冒険に踏み出す。そして、「性」の目覚めとともに、その世界は過剰なまでの彩色と造形で彩られていく。 世界は綺羅びやかではあるけれど、その本質は決して美しくない。それは、「良識ある社会」のルールやあり方が、まったくもって美しくないからに他ならない。  綺羅びやかに彩られた醜い世界、そしてそこに巣食う“哀れなるものたち”  それはまさしく、呪いたくなるくらいにおぞましくて、哀しいこの現実世界と人間たちの本質だろう。 けれども、何よりも自分自身の“成長”に対して純真無垢で迷いのないベラは、それらすべてを受け入れ、自分の価値観に昇華していく。 タブーとされる行為も発言も、性別や職業、生まれた環境に対するレッテルも、希望も絶望も、薄っぺらな「良識」を盾にして拒否することなく、先ず全身で受け入れ、自分自身の「言葉」を紡いでいく。  主人公ベラのキャラクター造形は、すべてにおいて奇々怪々だけれど、その生き様は極めて“フェア”であり、昨今の耳ざわりの良さだけで乱用されているものとは一線を画す真の意味での“ジェンダーレス”を象徴する存在だった。 怪奇とグロ、ありとあらゆる禁忌が入り交じる本作の混沌とした映画世界が、ベラの達観した眼差しと共に、極めてフラットで高尚な地点へ着地していることが、そのことを雄弁に物語っていると思えた。   すべてを曝け出して、人間の本質をその身一つで体現してみせたエマ・ストーンは、授賞式を前にして二度目のオスカーに相応しいと確信した。 久しぶりに“緑色の超人”以外のキャラクターで卓越した演技を見せたマーク・ラファロも流石。プレイボーイの放蕩者を、その凋落ぶりも含めて見事に演じきっていたと思う。 古き父性の象徴であり、“怪物”の生みの親として、作中もっとも破滅的な人生観を披露するマッド・ドクターを演じたウィレム・デフォーの存在感も素晴らしかった。  時に「4mm」という超超広角レンズで写し取られた映像世界は、非現実的でありながら、この世界のすべてを文字通り広い視野で余すことなく映し出しているようでもあり、類まれな没入感を得られる。 その映画世界のすべてをクリエイトしたヨルゴス・ランティモス監督の圧倒的な世界観には、終始驚愕だった。   ふと“ジャケ買い”したアルバムが、想定外に強烈なパンクで、問答無用に脳味噌をかき混ぜられ、ほじくり返された感じ。(いや、本当に文字通りの映画なのだが) 奇想天外で、際限なくおぞましい映画世界ではあったが、不思議なくらいに拒絶感はなく、愛さずにはいられない。そして、これがこの世界の「理」だと言われてしまえば、確かにそうだと納得せざる得ない。  エンドロールを見送りながら、様々な感情と感覚が入り混じり、とてもじゃないが脳と心の整理がつかなかったけれど、朝から続いていたはずの頭痛は、きれいさっぱり消え去っていた。
[映画館(字幕)] 10点(2024-01-27 23:36:23)
2.  007/ノー・タイム・トゥ・ダイ 《ネタバレ》 
ダニエル・クレイグの、そして“ジェームズ・ボンド”の“青い瞳”が、今作では特に印象的に映し出される。 その瞳は、時に怒りを滲ませ、時に強い決意を表し、そして時に愛する人を慈しんでいた。 “ブルーアイズ”こそが、ダニエル・クレイグが演じたジェームズ・ボンドの象徴であり、アイデンティティだった。  2005年に新ジェームズ・ボンドに、ダニエル・クレイグのキャスティングが発表された際には、金髪で青い瞳という従来の“ボンド像”からかけ離れたその彼の風貌に対して批判が殺到したらしい。 ただ、その固執されたイメージからの乖離、古い時代性からの脱却こそが、この俳優を起用した最も大きな狙いだったのだろう。 クレイグ版007第一作「カジノ・ロワイヤル」から足掛け15年経った今、改めてこのキャスティングは大英断だったと言えると思うし、少なくとも僕にとっては、この無骨で厳しい主演俳優こそが「007」だった。   そのダニエル・クレイグ版007の最新作にして、最終作。パンデミックによる1年半以上の公開延期を経て、ようやく日の目を見た今作は、自分の想定以上に印象的な映画作品として、心に残り続ける作品となった。 初回鑑賞後、あまりにも衝撃的でエモーショナルな今作の顛末を思いながら、しばらく思考をまとめることができなかった。 その間、頭の中では、ビリー・アイリッシュが歌唱する今作の主題歌が繰り返し流れ続けていた。 自分が思っていた以上に、ダニエル・クレイグが演じたジェームズ・ボンドと、彼の「007」シリーズが特別であったことを思い知った。 気持ちの高ぶりが収まらず、居ても立っても居られなくなり、今作の感想を綴る前に、クレイグ版007の過去4作すべてを再鑑賞することにした。  過去4作を見返すと、改めてこのシリーズが、それ以前の過去の「007」シリーズとは一線を画する革新的なアプローチの連続であったことを痛感する。 それは主演俳優のビジュアルなどに留まらない。作品世界そのものに対する是非、ジェームズ・ボンドというキャラクターに対する解釈、そしてそれらが今この現代社会に存在した場合に求められる視点と価値観、そういうことをシリーズ通じて真摯に追求し、挑戦し続けていた。 その象徴であり、顕著な結果が、ダニエル・クレイグという俳優が演じた荒々しく、生々しく、故に極めて“人間らしい”ジェームズ・ボンドだったのだと思う。   今作も含めた5作品において、ジェームズ・ボンドは傷つき続け、悲しみ続けてきた。そしてその「傷跡」は、決して単作で消え去ることは無く、シリーズを通じてしっかりと残り続けてきた。 そのさまは、時に悲壮感に溢れ、重々しいけれど、それは、ジェームズ・ボンドという架空のキャラクターが「人生」を得たことの証明だったと思える。  「人生」を得たからこそ、人間には、必ずその“終わり”が訪れる。 今作のタイトル「NO TIME TO DIE」が表すものは、即ち「今は死ぬ時ではない、けれど、いずれ死に相応しい時が訪れる」ということだったと思う。  シリーズ第2作「慰めの報酬」で、ボンドは敵から『手を触れる相手がみな死んでしまう』と罵られる。 彼はその事実と真理を誰よりも深く噛み締め、苦悩し続けていたのだろう。 自分が存在し続ける限り、トラブルは起き続け、大切な人はみな死んでいく。  かつての敵の台詞が全く直接的な意味合いで伏線となり、ジェームズ・ボンドはあまりにも厳しく悲しい顛末を迎える。 ただ、そこにあったのは必ずしも「悲劇」ではなかったと思う。 苦しみと悲しみの果てにようやく得た本当の「愛」。それを守り通すために、彼は自らの苦悩の螺旋を断ち切る。「死ぬにはいい日だ」と言わんばかりに、これまでで最も穏やかな表情で、その時を迎える。 それはやはり、「悲劇」なんかではなく、闘い続けてきた男に相応しい「解放」の瞬間だった。  過去4作を観終えた後、再びこの最終作を鑑賞し、その悲しみと慈愛にむせび泣いた。 寂しいけれど、今はダニエル・クレイグ版「007」をリアルタイムで映画館で観られた世代であったことを幸福に思う。   “007”は去った。でも、これで彼が消え去ってしまうわけではない。 彼が守り通した世界、そして大切な人たちによって、彼の存在は語り継がれ、残り続ける。 そう彼の名は、「Bond, James Bond」
[映画館(字幕)] 10点(2021-10-03 20:26:34)(良:1票)
3.  ブラックブック
第二次世界大戦末期。「戦争」の只中で、人間の善悪の境界を渡り歩く一人の女。 絶望と、虚無と、断末魔を幾重にも折り重ねて辿り着いた彼岸で、彼女は何を思ったのか。  「苦しみに終わりはないの?」  終盤、主人公はそう言い放ち、それまでの人生で最大の絶望に覆い尽くされ、慟哭する。 その後に展開される更なる絶望と残酷のつるべうちが凄まじい。 裏切り、恥辱、怨み、復讐、そして新たな争乱……。 それは、主人公の“クエッション”に対する、監督の取り繕いのない“アンサー”だったように思う。 そう、「苦しみに終わりはない」のだ。  あまりに取り繕いもなければ、救いもない潔いその返答に対して、主人公も、観客も、逆に絶望すら感じていられなくなる。 突き付けられた「人間」と、この「世界」の本質を目の当たりにして、どうしようもなく愚かに感じると同時に、それでも「生きる」ことしか我々に許された術はないということを解し、清々しさすら感じてしまう。  そういうことを、この映画の主人公は、実ははじめから直感的に理解していたからこそ、悲しみと恥辱に塗れながらも、「生きる」というただ一点に集中し、その中で喜びや愛さえも育んでいけたのだと思う。  いやあ、なんて「面白い」映画なのだろう。  現実を礎にした悲惨極まる重厚な物語を、ただ重苦しく描くのではなく、映画という娯楽の真髄を刻みつけている。 時に残酷に、時にエキサイティングに、時に情感的に、時にユーモラスに、圧倒的に「面白い!」映画世界に圧倒される。  ハリウッドから本国オランダに帰り、「本領」を見せつけたポール・ヴァーホーヴェン監督の気概が本当に素晴らしい。  そしてその偏執的な変態監督の演出に応えた俳優たちもみな素晴らしい。 主要キャラクターから端役に至るまで、キャラクターの一人ひとりの存在感が際立っていて、それぞれが“良い表情”を見せる。  その中でも、主演女優カリス・ファン・ハウテンの文字通りに体と心を張った演技は、言葉では言い尽くせない。 家族の血を浴び、反吐を吐き、陰毛を染め、糞尿を浴び、それでも誰よりも美しく、高らかに歌い上げる。 この世界で「生きる」ということはこういうことだという、「真理」を語る映画史上に残る女性像を体現している。  そんな主人公エリスの存在感は、日本のアニメーション映画「この世界の片隅に」の主人公“すず”と重なる。 この二人は、まさに“同じ時代”を生きている。劇中の描写から察するにほぼ同じ年頃ではないだろうか。 残酷な時代と運命に翻弄されつつも、どこか飄々として、芯の強い女性像の類似。 その興味深い類似性は、過酷な時代を一人の女性が「生きる」ということを物語る上で欠かせないファクターの表れなのだろう。   動乱のさなか、時流の変化によって“変色”するかの如く、人間の表裏の表情には善と悪の両色が無様に入り混じる。 誰もが善人にもなれば、悪人にもなれる。 「戦争」は、勿論愚の骨頂であり、“悪”以外の何ものではない。  しかし、いくら綺麗事を並べ立てても、それを繰り返し続ける「人間」自体の本質的な“おぞましさ”から目を背けてはならぬ。 ポール・ヴァーホーヴェンがこの映画に描きつけたものは、まさしくそのすべての人間が背けたくなる「視点」そのものなのだと思った。
[インターネット(字幕)] 10点(2017-09-16 20:06:29)(良:1票)
4.  キャロル(2015)
許されない恋に没入していく二人の女性が、強烈に惹かれ合い、惑い、激しく揺れ動く。 惹かれ合うほどに、喪失と決別を繰り返す二人がついに辿り着く真の「恍惚」。 ラスト、大女優の甘美な微笑は、この映画を彩る悦びも哀しみも、美しさも醜さすらも、その総てを呑み込み、支配するようだった。 エンドロールに画面が切り替わった瞬間、思わず「すごい」と、声が漏れた。  1950年代のNYを舞台にしたあまりにも堂々たる恋愛映画だった。 パトリシア・ハイスミスの原作は、1952年に“別名義”で出版され、1990年になって初めて実名義が公にされたらしい。2000年代に入ってようやく映画化の企画が進み始めたことからも、この物語がいかに「時代」に対する苦悩とともに生み出され、翻弄されてきたかが伝わってくる。  そして、紆余曲折を経て今この映画が完成に至ったことに、奇跡的な「運命」を感じずにはいられない。 「時代」そのものが、この映画を受け入れるに相応しい状態にようやく追いついたことは勿論だが、それよりも何よりも、この映画に相応しい「女優」が、この時代に存在したことに奇跡と運命を感じる。 言うまでもなく、“キャロル”を演じたケイト・ブランシェットが物凄いということ。  冒頭に記した通り、この大女優のラストの表情が無ければ、この映画は成立しなかっただろう。 もう一人の主人公“テレーズ”を演じたルーニー・マーラも本当に素晴らしかったが、彼女の存在だけでは今作は「傑作」止まりだっただろう。 ケイト・ブランシェットという現役最強最高の女優が存在したからこそ、この映画は「名作」と呼ぶに相応しい佇まいを得ている。 随分前から名女優ではあったのだけれど、この数年の彼女の女優としての存在感は、文字通り神々しく、他を圧倒している。  マレーネ・ディートリッヒ、キャサリン・ヘプバーン、イングリッド・バーグマンら往年の大女優の存在感は、どれだけ時が経とうとも色褪せないが、将来その系譜に確実に名を連ねるであろう大女優の現在進行系のフィルモグラフィーをタイムリーに追えることに、改めて幸福感を覚える。   今作では、冒頭と終盤に同じシーンが視点を変えて繰り返される。 男から声をかけられる寸前のキャロルの唇の動き。冒頭シーンでは遠目に映し出されて何を発されているかは分からない。 逃れられない恍惚と共に、その言葉の“正体”に辿り着いたとき、テレーズと同様、総ての観客は、彼女の「虜」になっている。
[DVD(字幕)] 10点(2016-10-10 23:27:07)(良:2票)
5.  博士と彼女のセオリー
余命2年。そのあまりに残酷な“運命”を突きつけられ、“彼”は己の人生から逃避するように“彼女”の元を去ろうとする。 それでも、彼女は背筋をピンと伸ばして、彼の後を付いていく。 そして、眼鏡の汚れを拭き取り、キスをする。 その瞬間、彼は、彼女によって、その先の人生を生きる意味を与えられたのだと思う。  生かした者と、生かされた者。  両者は時の流れとともに、くるくると回転するように、入れ替わり、立ち代わる。 この映画は、現代が誇る“天才物理学者”の功績を描くものではない。 スティーブンとジェーン。この男女が共に過ごした「時間」を、ありのままに切り取ったような映画だった。  それぞれの人間の強さも弱さも平等に描いたこの物語は、必ずしも綺麗事ばかりではない。 過酷な人生の中で、当然起こり得る人間の感情の機微を、決して臆すること無く誠実に描き出したこの映画は、とても勇敢で、辛辣で、だからこそ“人間”に対する慈愛に溢れていると思えた。   スティーブン・ホーキングという物理学者が専門とする「量子宇宙論」なるものを正確に理解することなんて、僕には出来やしない。 けれど、それが「宇宙」と「時間」という絶対的な概念に対する果てしない探求であることは分かる。  この映画が、二人の男女の心模様を通じて描きつけたものは、まさにその「時間」の残酷さと慈しみだった。 “2年”という時間の限界を越えて生き続けた男と、彼を生かした女。 誰よりも明晰な頭脳を持ちながら、その考えを伝えるためには、誰よりも膨大な時間が必要となってしまった男。 時に奇跡的に、時に過酷に、「時間」は彼らを生かした。   ラスト、博士と彼女は並び、「見てごらん、僕らが築き上げたものを」と視界を共にする。 その瞬間、かつて彼が提唱した理論をなぞるように“彼らの時間”が巻き戻っていく。 彼らが辿った道程とその行く末が、幸福だったのか、不幸だったのか、それは他人には分からないし分かる必要もない。 それは彼らだけが、判別すればいいことだ。  ただ僕は、二人が歩んだ「時間」そのものが放つ光に涙が止まらなかった。  たぶん、この2、3年ほどの間でいちばん泣いた。 喜びも、悲しみも、全部ひっくるめて泣いた。 それは、「宇宙」と「時間」の真理を追求する天才物理学者を描いたこの映画において、とても相応しいことだったと思う。
[映画館(字幕)] 10点(2015-03-14 23:29:16)
6.  インターステラー
レイトショーの映画館を出て、真冬の凍てつく空気に包み込まれた。ふと夜空を見上げると、澄んだ空気の遥か先に満月と星が光っていた。 広大な宇宙の中で、自分自身がひとりぽつんと存在している感覚を覚え、孤独感と大いなる宇宙意思を同時に感じ高揚感が溢れた。 普段の何気ない景色が一変していたようだった。これこそがSF。これこそが映画だと思えた。  数多の大傑作がそうであるように、今作もとてもじゃないが言葉では表現しきれない。 特にこのSF映画が描き出す世界観の多層性と文字通りの深淵さは、言葉で説明すべきものではないだろう。 「圧巻」とひと言で言ってしまえばそれまでだろうし、それで充分だとも思える。  とても複雑な宇宙理論が繰り広げられる語り口は、一見難解に見える。しかも監督はクリストファー・ノーランである。一筋縄ではいかないことは必至。 しかし、実際に観終えてみれば、この映画は決して難解なのではなく、難解な要素に彩られた普遍的な人間ドラマであったことに気づく。 複雑に入り組んでいるのは、宇宙理論ではなく、むしろ多様な人間の在り方とそれに伴う濃密なドラマ性だった。  “親子愛”をはじめとする人間のドラマを根底に敷き、未知の領域に踏み出した人類は、「人類」そのものの限界とその先を追い求めていく。 中盤、“マン博士”という人物が登場する。その名前の通り、彼こそが今現在の人間の本質を表したキャラクターであろう。 一つの“限界”に辿り着いてしまった人類、進化か滅亡か、このキャラクターはその分岐点の象徴と言える。(このキャラをほぼノンクレジットで演じているスター俳優はエラい) 主人公が、“マン博士”と真正面から対峙し、それを越えようとする様こそが、人類の進化の瀬戸際だったのだと思える。  高度な科学的空想の先に辿り着く人間の真の姿と可能性。僕はそれこそが、人間が生み出した「Science Fiction」の本質であり、醍醐味だろうと思う。 そういうことが満ち溢れんばかりに繰り広げられるこの映画を、愛さないわけがない。  ただし、この映画を語り切るには、まだまだ膨大な時間が必要だ。 それは、これがとても幸福な映画体験であったことの証明だろう。
[映画館(字幕)] 10点(2014-12-07 01:37:45)(良:2票)
7.  SHAME -シェイム-
ベッドに仰向けに横たわる主人公が目を見開いているファーストカット。 映像が静止しているのか、もしかしたらこの人物は絶命しているのかとすら思ってしまう程、彼の瞳に光は無い。 無気力なまま起き出した彼の後に残る乱れたシーツを背景にメインタイトルが浮かぶ。 その冒頭数十秒のカットを観ただけで、この主人公の“悲しさ”が染み入ってくるようだった。  映画全編において繰広げられるものは、ただただひたすらな“セックス”。 やってもやっても満たされない。悲しく、狂ったようなセックスシーンに丸裸にされた感情が掻きむしられ、痛い。そして、涙が滲み出る。 ただ無様に性欲の衝動に溺れる主人公の姿が、悲しくて、辛い。  見紛うことなきセックス依存症。彼がそうなってしまった理由とは何だったのか、彼が本当に「依存」していたものは何だったのか。 彼がひた隠しにし続ける「shame【恥部】」は、ついに明らかにはされない。 ただし、彼のありのままの姿を終始見せつけられた観客は、その真相を“予感”せずにはいられない。 その“予感”に対して、また深く悲しくなる。  手塚治虫の短編集「空気の底」の中の一編に「暗い窓の女」という作品がある。この映画を観て、真っ先に思い出されたのは、この短編だった。この短編に限らず、手塚治虫の作品には“あるモチーフ”が度々描かれる。 監督スティーブ・マックイーンが、手塚治虫の漫画を読んだことがあるのかどうかは不明だけれど、この物語感覚の類似は非常に興味深かった。  何と言っても主演のマイケル・ファスベンダーが素晴らしい。文字通りに“すべてを曝け出している”その姿は、どこまでも痛々しく、滑稽で、“人間”とは何て悲しいんだと思えてならなかった。 そして、彼がここまで曝け出すことが出来ているのは、スティーブ・マックイーン監督への絶大な信頼が礎にあるからこそだろう。それを引き出し、完璧に仕上げたこの新鋭監督の力量はまさしく本物だ。  「私たちは悪い人間じゃない。悪い場所にいただけ」と、妹は兄にメッセージを残す。 主人公は冷たい雨の中さめざめと泣き伏せる。 果たして、彼は「依存」から逃れるための答えを見出すことが出来たのだろうか。 それすらも敢えて明確にせず、主人公の不穏な表情を映し出したまま映画は終幕する。  凄い。  観賞後シャワーを浴びながら、ざわざわと惑う心情を必死になだめた。
[DVD(字幕)] 10点(2014-05-11 16:44:21)
8.  ゼロ・グラビティ 《ネタバレ》 
ついに進退窮まった最後の局面において、主人公は「これは誰のせいでもない」と達観する。 それはすべてをやり尽くした上での諦めの境地のようにも見えるが、やはり、彼女がようやく辿り着いた“生きる”ということに対しての強い覚悟の表れだったと思える。  子を亡くし人生に打ちひしがれた主人公は、自分に与えられた仕事にひたすらに没頭し、その結果気がつくと「宇宙空間」に居たのだと思う。 それは彼女にとっては逃避に近い行動だったのだろう。  そこに訪れた文字通りに絶体絶命の危機。  無重力の怖さ、無音の怖さ、無酸素の怖さ、どこまでも広がる「無限」の怖さ、宇宙空間の虚無的なリアリティとそれに伴う絶対的な恐怖を描き抜いたこの映画は、一人の人間の弱さと脆さ、そして「生」に対しての神々しいまでの「執着」を導き出していく。  「宇宙」というものに少しでも興味を持った人ならば誰しも、あの「空間」に放り出されることを想像し、その恐怖に総毛立ったことがあるはず。 この映画の発端は、まさにその誰しもが覚えた恐怖感であり、紡ぎ出されるストーリーも極めてシンプルだと言える。 しかし、シンプルだからこそ、その徹底された無重力世界の描き込みの総てにおいて驚嘆せずにはいられなかった。  登場するキャラクターはほぼ2人きり。しかも映画の大部分は、サンドラ・ブロックによる“孤独感”のみで描かれる。 余計な人物描写や回想なんて完全に排して、今その瞬間の「現実」と、それにさらされた主人公の等身大の姿のみで描き切ったこの91分の映画の潔さが素晴らしい。  「結末」は誰しも容易に想像できる。 それでも、繰り広げられるスペクタクルの一つ一つに例外なく息を呑み、終始主人公と同様に息苦しさすら覚え続けた。 そして無重力下で球体化する彼女の涙を見て、こちらも涙がこぼれた。  果てに、彼女は地上に降り立ち、地球の地面に屈服する。 紛れもない重力に喜びを感じ思わず笑みを浮かべる。 赤土を握りしめ、彼女は再び立ち上がる。 映画全編に渡るあらゆる比喩は、彼女が「再誕」したことを如実に表現している。  凄い。本当に凄い映画だ。
[映画館(字幕)] 10点(2013-12-14 15:16:04)(良:6票)
9.  レ・ミゼラブル(2012)
2012年、年の瀬。たぶん、今年一番泣いた。 生命をまっとうした人物たちが、人生の讃歌を高らかに歌い上げるラストシーンに涙が止まらなかった。  こんなにも泣くつもりはなかった。「レ・ミゼラブル」という物語については、原作も読んだことがあるし、過去の映画化作品も観ていたので、描き出されるストーリー自体に感動こそすれ号泣などはすまいと思っていた。 実際、涙が止まらなかった直接的な理由は物語に対しての感動によるものではなかったと思う。 映画の持つ素晴らしさ、音楽の持つ素晴らしさ、芸術という表現そのものが持つ果てしなく大きな「力」に対して、感動し、むせび泣いてしまったという感じだった。  この物語に本質的な意味で“間違っている”人物は登場しない。 すべての人物は、ただただひたすらに“生きる”ということに執着しているだけだ。必死に生き抜こうとしている彼らを誰も否定することなど出来ない。 ただ、だからこそ人間同士はぶつかり合い、すれ違い、「人間」であるが故の悲喜劇が生まれる。 この物語が、時代と国を越えて愛され続けているのは、そういう人間そのものの本質的な葛藤とそれに伴う壮大なドラマが、決して色褪せるものではないからだと思う。  その色褪せない人間ドラマが、音楽、歌唱、映像、演技、それらすべてをひっくるめた「光と音」で彩られる。 スクリーンいっぱいに繰り広げられるその映画世界は、もはや奇蹟的で、神々しさすら感じた。  そんな映画にこれ以上言葉など必要ない。 今この時季にこのミュージカル映画を観られたことへの多幸感に対して、立ち上がって拍手を送りたくなった。 いつか必ず舞台版も観たい。
[映画館(字幕)] 10点(2012-12-23 00:57:58)(良:3票)
10.  アバター(2009)
流行りの3D映画を初めて観た。 その「初体験」がジェームズ・キャメロンの12年ぶりの新作で、本当に良かったと思う。  革新的な映像を見せる映画に対して、“未経験の映像体験”なんてキャッチコピーはよく使われるが、今まで観たどの映画よりも、この映画こそその常套句にふさわしい。 まさに、「観た」というよりは、「体験した」という表現の方がぴったりとくる。   正直、危惧の方が大きかった。 「タイタニック」以降、音沙汰なかった巨匠が、12年ぶりに挑んだ最新作は流行りの3D映画。 個人的に、3D映画に対しては、最新技術に頼った安直さが伺えて興味がなかった。映画の「本質」をぼかしているように思えたからだ。 大々的に広告はしているけれど、ただただ資金と時間を浪費した“超駄作”に仕上がっているのではなかろうか。と、不安を抱えたまま劇場へ入った。 初めての3Dグラスは、非常にかけ心地が悪く(眼鏡をかけているので尚更…)、上映前に益々萎えてきた。  しかし、本編が始まるにつれ、危惧とか不安とかそういうものは一蹴された。 それ以上に、今ここにある自分の日常的な存在自体が、どこか遠くに吹き飛ばされる感覚を、終始覚えた。 冒頭から間もなくして、すっかり映画世界に引き込まれた。  “引き込まれた”という表現を映画の感想で多々使ってきたけれど、今作ほどその表現にふさわしい映画はないと思う。 まさに「体感」。出演者の息づかいをスクリーン越しに感じるのではなく、自分自身が彼らと共に息づいているような感覚。それは紛れもない未体験ゾーンだった。   素晴らしい映画によくありがちなことだが、この映画は、うまく形容する言葉が見つからない。  『未開の惑星を侵略する地球人、スパイとして先住民族の中に送り込まれた主人公、やがて主人公は愚行から目覚め先住民と共に地球人の侵略に立ち向かう。』  と、プロットをただ言葉にするとあまりにありふれている。 が、そこに加えられた“光”と“音”によって、圧倒的な価値が生まれる。 それこそが「映画」そのもののマジックであると思う。  3Dという新たな映画表現によって見せ付けられたのは、そういう根本的な映画娯楽の魅力と、 12年ぶりに復活したエンターテイメント映画の大巨星の、絶対的な“瞬き”であった。  “ゼロ”からの圧倒的な「創造」。そのすべてが、凄い。物凄い。
[映画館(字幕)] 10点(2009-12-26 02:06:09)(良:1票)
11.  めぐりあう時間たち
この作品が描き出すテーマは人間にとって物凄く深遠であり、同時に極めて身近なものである。それはすなわち「欲望」、人間として本質的なそれである。多くの人間、いやすべての人間が欲望を消化するために生き、欲望を抑えながら生きている。ほとんどの場合、欲望を抑えて生きている人が多いのが現状かもしれない。この映画で描かれる3人の女性像、彼女たちの生き様は欲望に対する狂おしいまでの自分自身の解放によるものだったと言える。欲望のままに生きることができればどんなに幸福だろうと、多くの人は思う。しかし、欲望に対し自分を解放することは、これほどまでに苦しく、エネルギーが必要だということを今作は訴えかけてくる。時間軸の異なる3人の女性のある一日の人生をひとつの時間枠に捉えることに成功した脚本が見事の一言に尽きる。
10点(2004-01-30 21:50:48)
12.  2001年宇宙の旅
観客に意味が伝わらなければ、どんなに崇高なテーマを持っていたとしてもその映画は駄作であると思う。今作もその類に極めて近いことは確かであろう。しかし、尊大なラストシーン、あの瞬間に私は震えるような、何かが目覚めるようなひらめきを感じた。かたっくるしく難解なストーリーのすべてが一気に脳裏に流れ込むような衝撃を感じたとしか言うほかない。この伝説的映画が真の傑作かどうか、一度しか観ていない私には判断できない。ただ、もしかしたら人間の想像力と創造力の限りない深遠まで近づいた映画なのではないか、そんな気がするのは確かである。
[DVD(字幕)] 10点(2003-12-17 14:21:29)
13.  ダンサー・イン・ザ・ダーク
あくまでも徹底的な悲劇に私の心は揺らぎっぱなしだった。基本的に悲劇は苦手だし好きではないのだけれど、この映画が描くものはもはや好きとか嫌いとかそういうレベルではない。辛い現実を覆い隠そうとするかのような濃厚な幻想でのダンスシーン。哀しいまでに躍動的に歌い踊るその姿は、誰が何と言おうとも私は「幸福」そのものだと言いたい。幻想であろうと何であろうと、彼女が生きぬいたその様は、「悲劇」さえも越えた深い深い「幸福」だったに違いない。
[映画館(字幕)] 10点(2003-12-12 01:34:50)(良:1票)
14.  ストレイト・ストーリー
数多くの映画を観てくると、何十本かに一本自分の中で何かが目覚めるほどの感慨深さが生まれる作品にめぐり合う。今作はまさにその類の一本で、見終わったあとのとてつもない味わい深さに大きな幸福感を覚えた。今作が遺作となったリチャード・ファーンズワースの演技が何よりも素晴らしい。これはもはや演技ではなく、彼自身の生き様に違いないと錯覚したほどである。彼のたどった道筋、言葉、物腰を私はこれからも何度となく観ることであろう。
10点(2003-11-30 13:05:59)
15.  アポロ13
「月へ人類を送る」 あのJFKの号令から端を発した「アポロ計画」。NASAの大事業のハイライトはもちろん、 1969年のアポロ11号による「月面着陸」だろう。 しかし、今尚NASAの組織内において、最たる価値を持つ功績として掲げられているのが、この「アポロ13」の“事故”からの“生還”であるという。  宇宙開発という大事業において、重要視するべきものは、その価値観において多岐に渡ると思う。  「月面着陸」という大目的の達成は、もちろんその一つであると思うが、同時に、「事故死」という最悪の失敗を避けることも、「成功」と同等の価値を持つ成果だと思う。  そういう意味で、NASA史上最大の“危機”を最大の“栄誉”に転じさせてみせた、飛行士たちをはじめとするアポロ13のスタッフの功績は、偉大であり、その人間模様を緻密に描き出した今作の素晴らしさを唯一無二のものにしていると思う。  久しぶりに観たが、何度観ても、ラストの交信再開のシーンには、心がふるえる。 
[映画館(字幕)] 10点(2003-10-06 14:01:09)(良:3票)
16.  ターミネーター
最新作「新起動」を観る前に、オリジナルを“おさらい”しておかなければ!と思いたち、相当久しぶりに1984年の第一作を鑑賞。  改めて観返してみると、記憶に無いシーンが随分と多かった。続編である「T2」は散々繰り返し観たものだが、よくよく考えてみればこの第一作目は、子供の頃に観たきりだったかもしれない。 そして、忘却してしまっているというよりも、民放のテレビ放映版を観たことしかなかったため、大部分がカットされていた可能性が高いようだ。 そういうこともあり、僕自身が3歳の頃の映画を殊更フレッシュに楽しむことができた。  エンターテイメント性の高い「T2」に比べて、この第一作目が“疎遠”になっていた理由は明らかだ。 それは、少年時代にこの映画を初めて観た時の“恐怖心”に対してのトラウマが確実に残っていたからだと思う。 今、大人になって観返してみても、ラストの恐怖感と緊迫感は物凄い。それこそ、30年前の映画であることを忘れさせるくらいにフレッシュで、ただただ面白い。  “無名のボディービルダー”を感情を持たない殺人マシーンに配し、その肉体を剥ぎ取られてもなお執拗に追わせることにより、類まれな「恐怖」という娯楽性を生み出したこの映画の「発明」は、あらゆる意味で映画的価値に溢れている。  ただ逃げ惑うだけのウェイトレスだったヒロインが、クライマックスでは自らを助けにきた未来の戦士に対して「立ちなさい!」と叱咤する。 それはまさに、ヒロインが自らの運命を受け入れ、“未来”に向けて覚醒した瞬間だった。
[CS・衛星(字幕)] 10点(2003-09-29 01:38:57)
17.  女王陛下のお気に入り
絢爛豪華なイングランドの王室を舞台にしつつも、べっとりと全身に塗りたくられた“何か”の臭いが漂ってくるようだった。 その臭いの正体は、汚物交じりの泥なのか、吐しゃ物なのか、生臭い体液なのか、それとも嫉妬と愛憎に塗れた“怨念”なのか。 いずれにしてもこの映画が描き出すものは、実在の女王を中心に据えた煌びやかな史劇などでは全く無く、3人の女性のあまりにも生々しい「欲望」そのものだった。  情け容赦なく、無情なこの映画の物語性は、普通の映画づくりであれば、もっと鈍重に、ただただ陰惨に映し出されて然るべきだろう。 しかし、この“へんてこりん”な映画のアプローチはまったくもって異質で、まるで観たことがない映画世界を構築し、魅了する。 それは決してビジュアル的にヴィヴィッドな映像表現をしていたり、突飛な演出をしているわけではなく、重厚な史劇描写の雰囲気を保持したまま、時代考証の垣根を越えて、現代的な“軽薄”と“インモラル”を孕ませている。  そんな特異な映画世界の空気感の中で、3人の女優が演じる「女」たちが、見事なまでに怖ろしく、哀しく、息づいている。 オスカーのトリプルノミネートとなった主演女優3人の文字通りの「競演」が本当に素晴らしい。 既に女優賞ウィナーのエマ・ストーン、レイチェル・ワイズは無論素晴らしかった。 が、やはり特筆すべきは、本作で主演女優賞ウィナーとなったオリヴィア・コールマンの圧倒的な存在感と、表現力に尽きる。 彼女が演じたアン女王からは、重く悲痛な運命を背負った哀しみと、女性としての強かさと恐ろしさと醜さ、そして欲望に対する純粋な貪欲さに至るまで、ありとあらゆる感情や情念が文字通りねっとりと全身から溢れ出しているかのようだった。  圧倒的権力を持ちつつも、心身ともに脆く危うい哀しき女王は、幼馴染の聡明で美しい公爵夫人に身を心も委ねることで、何とか“バランス”を保てていた。 しかし、そこにもう一人の“女”が入り込んでしまったことで、バランスは脆くも崩れ、三者三様の欲望は渦となり、彼女たち自身を吞み込んでいく。  泥に塗れ地に堕ちた屈辱を胸に秘め、若き女は、悪魔になることも躊躇わず、ついに“兎”のように女王の寵愛を勝ち取る。 そしてはたと気づく、17匹の兎の寿命は短く、蠢く命の中から常に入れ替わっているだろうことに。 彼女自身、無限に続く「代用」でしかないことに。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2019-10-26 23:49:32)(良:1票)
18.  ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書
かの国は、どの時代も多大な危うさと愚かさを孕み、危機的な状況に陥る。 だがしかし、どんな時代であっても、その過ちにに対して是非を唱えることを躊躇わない国民性と精神が、しぶとく、力強くその存在を主張する。勇気ある個の主張が、次第に大きなムーブメントとなり、国の行く末を変えていく様を、歴史は何度も見ている。愚かで危うい国ではあるけれど、根底に根付くその精神こそが、かの国の本当の強さであり、偉大さなのだと思う。  実際に巻き起こったニクソン政権下における新聞社への政治的弾圧を背景にし、それに抗うジャーナリズム精神、女性の社会進出と権利主張、ベトナム戦争の是非に至るまで、当時のアメリカ社会の病理性がテーマとして複合的に絡み合う構成が、極めて見事だ。 スティーヴン・スピルバーグ監督は、タイトなスケジュールの中に埋め込むようにして、急遽今作の製作を進めたという。 巨匠をそこまでして突き動かした要因は、この映画のテーマ性が、まさに今現在のアメリカ社会が抱える切実な問題意識に直結するからだろう。 前述の通り、アメリカという国は、今この時代においても危うさと愚かさの中を突き進んでいる。 スピルバーグはこの映画を通じて、再び勇気ある主張が、大きなエネルギーとなって国の潮流を変えていくことを願ってやまないのだと思う。  そして、この映画において重要なことは、そういった現代社会に直結する重く堅いテーマ性を扱いながらも、しっかりと映画娯楽として確立されていることだ。 ストーリーの展開力、名優たちによる名演、精巧な美術等々、映画を彩るどの要素を切り取っても「面白い!」という一言に尽きる。  どうせ良い映画なんでしょ。と、思いつつ、実際観てみると、やっぱり、というよりも想像以上に良い映画だったことに舌を巻いた。 相変わらず世界最強の映画監督による、世界最高峰の映画娯楽を心ゆくまで堪能できる。もはや「流石」としか言いようがない。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2018-11-25 08:10:12)
19.  アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル
“トーニャ・ハーディング”が、テレビカメラ越しに、やや諦観しているような真っ直ぐな眼差しで、軽薄な「大衆」に向けて、「あなた」という呼びかけと共に、静かな怒りと諦めをぶつける。 「あなた」というのは、まさに自分自身のことだと思えた。  1994年のリレハンメル五輪のあの冬、僕は13歳からそこらだったと思うが、トーニャ・ハーディングが途中で演技を止めて、審判席に詰め寄る光景をよく覚えている。 そして、僕は確かに、彼女のその様を、「往生際の悪い女だ」と、好奇と侮蔑を携えて見ていたことも、よく覚えている。 年端もいかない“ガキ”だったとはいえ、断片的に伝え聞いていたのであろうワイドショーの情報と、衛星中継の一寸の光景だけで、そういった底意地の悪い感情を抱いてしまったことは、恥ずべきことだったと思う。 結局、何が「真実」かなんてことは分からないけれど、自分も含めた大衆の無責任さは痛感せざるを得ない。  それにしても、一流アスリートとオリンピックを巻き込んだあの一連のスキャンダル事件を、このような形で、スポーツ映画としても、一人の女性像を描き出す作品としても成立させ、見事な傑作として完成させてみせたことには驚かされた。  マーティン・スコセッシの犯罪映画のようでもあり、デヴィッド・フィンチャーの実録映画のようでもあり、最新の撮影技術を駆使した確固たるスポーツ映画でもある今作は、極めて芳醇な多様性を孕んでいて、最初から最後まで決して飽くことがない。 二十数年前のスキャンダルを知っていても、知らなくても、面白みを堪能できる作品に仕上がっていることは、虚偽と真相、フィクションとノンフィクションの境界を描く今作が、大成功を収めていることの表れだろう。  演者で特筆すべきは、やはりなんと言ってもマーゴット・ロビー。 どこまでも愚かであり、どこまでも不憫な実在の女性像を見事に表現しきっている。そして、間違いなく世界トップクラスのフィギュアスケーターだったトーニャ・ハーディングを演じるにあたってのアスリートとしてのアクションも、極めて高い説得力と共に体現していたと思う。  ラストシーン、スケート界から追放された主人公は、ボクシングのリング上で、アッパーカットを浴び宙を舞う。 その様をかつての“トリプルアクセル”と重ねて映し出すという「残酷」の後、リングに打ち付けられた彼女は再びこちらを見つめてくる。 この映画は、無責任な好奇の目に晒され続けた彼女が、それを浴びせ続けたこちら側を終始見つめ返す作品だった。
[DVD(字幕)] 9点(2018-11-23 23:52:48)(良:2票)
20.  ダンケルク(2017)
耳をつんざく爆撃音、ぶつかり合う鉄の質感、あらゆるものが燃え焦げついた臭いが漂ってくるような生々しい空気感。 映画が始まったその瞬間から、「戦場」に放り込まれる。 凄い。と、冒頭から思わず感嘆をもらさずにはいられなかった。 これほどまでに、最初から最後まで“IMAX”で観ることの価値を感じ続けた映画は記憶にない。 この「体感」は極めて意義深い。  第二次世界大戦初期、ドイツ軍に包囲された連合軍は、フランスはダンケルクの海岸に追い詰められる。  この映画は撤退を余儀なくされた連合軍兵たちの「敗走」の様をこれでもかと描きつける。 登場する人物の前後のドラマを一切描かず、無慈悲な戦場での過酷な「敗走」のみをひたすらに映し出すことで、「戦争」を表したこの映画の豪胆さに何より感服する。  映画史には世界中のありとあらゆる戦争を描いた数多の「戦争映画」が存在する。 その数の分、一口で「戦争映画」と言っても、映画表現の“手法”と“目的”は様々だ。 「プライベート・ライアン」のようにリアルな戦闘シーンを究めた作品もあれば、「地獄の黙示録」のように戦場で苛まれた人間の心の闇を果てしなく掘り下げた作品もある。またはチャップリンの「独裁者」のように風刺と情感を込めて、強く反戦を訴えた作品もあろう。  「ダンケルク」は、戦場の「体感」を究めた戦争映画である。 ただ、だからと言ってこの映画が、戦争の「リアル」を描き抜いた映画かというと、それは少し違う。  “本物主義者”のクリストファー・ノーラン監督により、今作も例に違わず極限までCGによる映像処理は避けられている。 本物の空、本物の海、本物の飛行機、本物の船、本物の人間によってすべての映画世界は映し出されている。 それにより、観客はまさに極限まで「本物」に近い“感覚”を味わうことができる。  ただしそれは「リアル」ではない。言い表し方が難しく語弊があるかもしれないが、クリストファー・ノーランは、リアリティを追求するために「本物」を求めているわけではないと思う。 それは、映画という表現方法で「何か」を伝える上で、必ずしもリアリティの追求が「正解」ではないことを、この偏屈な映画監督は知っているからだ。  「現実」に起こったことをありのままに表すよりも、より効果的に伝えるべきテーマを観客に表現する方法は確実にあり、それを導き出すために、本物の素材を使い、スクリーン上で目に映るモノのリアリティを高めるという試み。 その一連のプロセスこそが「映画」をつくることだと、クリストファー・ノーランは信じて疑わない。  そのつくり手の「信念」がこの「戦争映画」には溢れ出ている。 だからこそ、ただただ「敗走」を繰り返すという、あまりに無骨でストーリー性に乏しい映画であるにも関わらず、圧倒的に「面白い」。
[映画館(字幕)] 9点(2017-09-22 23:57:42)
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