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1.  運命じゃない人 《ネタバレ》 
Aはごく普通の青春ドラマの装いで始まる。Bの、泣き出して気味悪いですか、なんてのがいい。おごってもらって悪いからと自転車こぐのもかわいい。でもがぜん映画が動き出すのはCになってからだ。携帯電話ができてメロドラマのすれ違いが出来なくなったと後ろ向きに考えてはいけない。新しい道具もどんどん使いこなしていくように映画は舞台を提供してきていたし、これからもそうだろう。見えないところでとんでもないドラマが進行していた、という楽しみ。映画が始まったときは、ベッドの下に○○○が隠れていたりする種類の映画とは思っていなかった。表情に別の意味が与えられていく。時間ずれてドラマに裏打ちがなされていく。義憤にかられての怒りと思っていたものが、早くトンズラしたい焦りだったり、走って追いかけてくる者も、あとで読み直される。鞄を抱きかかえてた意味も。これが初見だった中村靖日、その後朝ドラの「ゲゲゲの女房」で見、今の朝ドラにも出てる。いいキャラクターなのに、便利な脇役として消費されないで欲しい。
[DVD(邦画)] 9点(2013-12-05 09:23:51)
2.  裏窓(1954) 《ネタバレ》 
これは映画館で観なくちゃ意味がないような映画で、スクリーンと向かい合って、あたかも脚にギプスをはめて身動きが出来ないような気分で味わうフィルムよ。そうでないと、向こうがこちらを見つける瞬間の怖さは半減する。G・ケリーが脅しの手紙を持って向こう側に現われただけで、なんか信じられないことが起こったようなドキドキが起こる。あるいはこちらで掛けた電話が向こうで鳴り、話し合ったりする。それらに比べると、グレイスがいる間に男が帰ってきたりする向こう側だけでのドキドキは大したことない。こっちと向こう側がつながることが怖いので、こうなると最後は向こうがこちらに侵入してくるよりほかにないわけだ。こちら側の観客の一人だったはずのグレイスが向こう側に行っちゃうだけでショックなのに、安全地帯から覗き続けていたはずのスクリーンの人物が、「覗いてたな」とにらみ返すんだから、もうパニック寸前。映画という装置の怖さを知り尽くした作品だろう。
[映画館(字幕)] 9点(2012-12-29 09:23:28)(良:1票)
3.  有頂天時代 《ネタバレ》 
このコンビの映画ではこれが一番好きなの。変化球のようでいてちゃんとツボを押さえているとこ。趣向が凝ってる。アステアの結婚式から始まるが、相手はロジャースではない。そうだったら話が進まないけど、こう始めて話を収められるのか、と観客は興味津々。ロジャースとの最初の出会いはツンツンしているという定型を踏む。そこらへんの「外し」と「定型」の揺らし具合がシャレてるんだ。うさんくさげに見られて、次第に心が解けていく経過が、だいたいこのシリーズの基本。わざと下手に踊ってから実力発揮、ってパターンも好きだね。それにずっと一緒にいる親父が楽しさを添える。ダンスの見せ場としては、三つの影とのやりとりか。最初はアステアの影と思わせておいて、次第にズレてやりとりを始めちゃう。とこの客席に元婚約者が現われて、さあどうするどうする、となる。アステアとロジャースは、大人数で踊ったあと二人だけでしみじみ踊る定型へと進む。こういうダンスは「愛」のシーンなの。ただただうっとりさせる。最初は下の階で踊ってて、心の高潮とともに上の階にのぼり、クルクル回る。この二人で踊った一番ロマンチックなナンバーじゃないか。そしてもじもじしていた婚約者マーガレットとの再会、マーガレットの手紙を読んだアステアが「You don't love me」と喜悦に震えて叫ぶ。一同大笑いになるのもアメリカ映画のいいところ(藤木孝似の指揮者は可哀想すぎる。婚約者のモチーフがあるのだから恋敵はいらなかった。なんかイタリア系をいつも笑いものにしているな)。フランスだったら人生の皮肉を強調したりするとこだが、あっけらかんと元恋人同士が互いを祝福し合う。いいなあ。
[映画館(字幕なし「原語」)] 9点(2011-05-01 09:55:14)
4.  ウエスト・サイド物語(1961) 《ネタバレ》 
欠点を先に言っちゃうと、後半、踊りのボルテージが下がること。ストーリー上、群舞しづらくなってて仕方なくはあるんだけど、前半の圧倒的な迫力があったもんだから、冷える。そのかわりアニタが泣かせてくれるけど(自分の恋人を殺した男を助けに行くとこなんか、長谷川伸っぽい)。この映画、音楽もいいけど、踊りだよね。個人の至芸より群舞の迫力にミュージカル映画の活路を探っている。「ことば」を「ダンス」に置き換えて説明するだけじゃなく、もっと多面性を持った表現になっている。ファーストシーンなんか、たしかに踊りによる会話なんだけど、それ以上の雄弁さがあるでしょ。シャーク団がフィンガースナップを始めるところなんか、あのやろう、とか、こんちきしょう、とか言うより、ずっと「語って」いる。和解させようというダンスパーティで、パートナーをやっぱり自分の団から選んですぐマンボに移る気合い。ここは何度見てもゾクゾクさせられる。後半で唯一の群舞の見せ場「クール」は、直接には窓から「うるさいぞ」と叫んだおじさんに向けられた歌だったんだね。ガレージの中で頭を冷やしてからまた外に出て「パォ」ってやるわけ。そのときカメラは窓の位置にある。個人の恋をタップで表現するより、集団の鬱屈をフィンガースナップで描く時代になってしまったわけだ。
[映画館(字幕)] 9点(2009-09-18 12:01:49)(良:1票)
5.  宇宙戦争(2005)
戦場を経験したことのなかった国が、9・11の同時多発テロを受けて、それなりのアンサーをした作品なのではないか。武力で抵抗することの限度を越えた敵に、どう対処すればいいのか、という問題。本来テロってのは、武力が不均衡のとき劣る側が抵抗する最後の手段だが、それをされる側から目に見える形にすれば、こういう宇宙人の姿になってもおかしくない。とにかく今持ってる武器が無力になってしまう敵なのだ。群衆が同一方向を見上げるシーンって、この監督の映画でしばしば見てきたような気がするが、そういった無力感と通じあっているようでもある。火星人の登場シーンが素晴らしい。穴の底での鳴動、走るひび、それが垂直に建物にも上がっていく。陥没してから吹き上げられる車。奥と手前とのつながり。車での脱出。高架からの列車の転覆、そのスピード感。こういうのやらせると、ノリにノッてしまう。一方、森の中で服が落ちてくるのなんかもいい。小屋での探索が次の見どころ。にゅーっと動き回る「目」の不気味さ。見られることの恐怖。アメリカはボストンからやり直そう、という決意のラストでもあろう(これの映画化はいつもその同時代になってしまうが、原作・19世紀末の英国を生かしても面白いと思う。第一次世界大戦もまだ経験していない時代で、自転車で逃げ惑う人々が馬車に踏み潰されたりする。怖いもの見たさの群衆ってのが小説に現われた最初のころではないか)。
[DVD(字幕)] 8点(2014-01-29 09:39:31)(良:1票)
6.  歌っているのはだれ? 《ネタバレ》 
いろいろな人が乗り合わせてバスは行く、いうよくある設定だけど、よくある映画にはなってない。非凡。このバス、親父が絶対権力者として君臨し(他の乗客は諦めている)、軍隊やらテロリストやらが絡んできたり、ジプシーや喀血男が心理的に排斥されていったり、政治風刺的にも見えるが(1941年セルビアからベオグラードにバスは向かっている、ってのはドイツ侵攻とかち合うとピンと来るらしいんだけど)、そう見ちゃうよりブニュエル的コメディと思いたい。回り道をすると、なぜか道を耕している、とか、紳士が落下して泳いで帰ってくる、とか自由奔放(追放された猟男も再登場するんだったっけ? 常に乗客を回収するバスだ)。こういう自由さがドイツの侵攻という歴史と吊り合っていたのかもしれん。川辺での宴はラストを知ってから思い返すと哀切。運転手青年の笑顔が忘れられませんなあ。
[映画館(字幕)] 8点(2013-05-27 09:56:54)
7.  
かまくらやなまはげといった風物が織り込まれているってだけじゃなく、その扱いに詩情がある。落とし穴に落ちて雪を投げる子どもたちのシルエット、なまはげがくつろいで面を取ったのを盗み見て「インチキ」と呟くところなど、その扱いに懐かしさを含んだ詩情がある。仔を思う母馬が朝焼けのなかを駆け回る、高峰が病気の馬のために青草を探しに行く、弟を馬に乗って見送る、など、ここらへんのストーリーは常套的と言えば常套的なんだけど、それが繰り返し語られてきた物語を聞いているような、まるで時がたてばそのまま民話になってしまうようなファンタジーになっている。カメラが人物に近寄らないのも、民話の不特定の人物らしくなっている。顔のアップはラストの泣き顔だけだったんじゃないか。馬が仔を生んだときの家族のソワソワが一番いいシーン。小さな家族が一つの心配事を中心に寄り添っている光景のいとおしさ。詩情豊かではあるが、底には農家の貧困があり、馬を家族と見れば「離散もの」と言えるだろう。そして常に日本の少女は明るく健康でけなげなのであった。
[映画館(邦画)] 8点(2012-05-04 15:38:17)
8.  失われた週末 《ネタバレ》 
サスペンスには何も殺人が必要なのではなかった。人殺しなしでも作れるサスペンス映画の傑作。とりわけ前半は「アルコール依存症はいかにして酒を得ようとするか」というモチーフだけで、グイグイ見せていく。冒頭の窓辺に吊り下がった酒瓶だけでもう観客の心をつかむ。回想の中でのオペラシーンも傑作。ほかの観衆は「乾杯の歌」に聴き入っているのに、主人公だけはステージ上の乾杯の酒そのものに魅入られている。そしてステージ上のコーラスたちの揺れ動く姿が、外套の中に忍ばせていたラム酒を強く喚起していく幻想。セリフなしで彼の心中の動きが伝わってくる。ピークは酒場で隣席の客のバッグを盗むあたりから、タイプライターを質入れしようと街を彷徨するあたりまでのシークエンス。酒の代金を盗めてホッとしたあとトイレから室内に戻ってくるときのほかの客たちの視線で、ジワジワと発覚を知らせてくる緊張の高めかた、惨めさのどん底の室内でライトの上の酒瓶が神の顕現のように(あるいは悪魔の魔法のように)光っているとこ、シャンと立ち直ろうとする気持ちがどんどん崩れていく怖さが圧巻である。田代まさしもこんな心理的体験してたんだろうな、としみじみ思う。おそらく監督はサスペンス映画を作る楽しみで前半突っ走り、原作がどうなっているのかは知らないが、最後で映画の啓蒙性に考慮したような落着をとりあえず付け加えた。尻すぼみにはなってるが、映画にはそういう社会的使命も当時あったのだろう。看護士が依存症の幻覚について「ピンクの象は出ないが…」と言っていた。あちらでは過度に酔うとピンクの象が見えてくるという言い回しがあったんだな。ダンボが酔っ払ったときの幻想シーンがピンクの象から始まるのは、その通言に乗っかってたんだと、いまさら納得した。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2012-03-20 12:29:30)
9.  雨月物語 《ネタバレ》 
溝口の映画では舟が出てくると、しっとりとした空気が漂い悲劇が起こる。『残菊物語』の舟乗り込みのような賑やかな舟も、けっきょく悲劇の進行を強調する背景でしかない。行方定まらぬような心細さが、悲劇を引き込むのだろうか。とりわけ本作は、此岸と彼岸の掛け渡しのような存在で、それ以前と以後の世界の違いを見事に表現していた。向こうの世界の幽玄、侍女たちが燭台を持ってくる朽木屋敷の空ろさと、こちらの家の囲炉裏の火の確かなぬくもりとの対比。欠点は小沢栄太郎の芝居のクサさと彼がらみのエピソードの浅さで、あの夫婦のあっさりした決着は投げやりと言われても仕方ないだろう。公開時の観客にとってはつい最近まであった戦後の世相が重なり、「戦地から帰ったら妻がパンパンになっていた」という身の上相談への回答といったレベルで受け止めた人も多いのではないか。しかしそれを補って余りあるほどに森=田中夫婦のほうのエピソードは見事で、森帰還のシーンが素晴らしい。こちらだって戦地から帰ったら妻が空襲で死んでいた、という現実と重なるが、それ以上の普遍性に達している。夫の帰りとともにフッと現われる宮木、そして朝日が差し込むまで家を守って消えていく。彼女はいっさい個人の無念も恨みも述べないが、より深い無念へと観客を導いていく名シーンだ。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2011-07-29 10:07:53)
10.  海と毒薬 《ネタバレ》 
成田三樹夫や岸田今日子という配役が実はちょっと心配だった。モロ悪人・モロ非人間って感じの造形になってるんじゃないか、と。しかしさすがいい役者はフトコロが深い、ズルズルとああいうことやってしまいかねない環境をじっくり再現する部分としての役割に徹し、個人の問題を越えられた。あたりに瀰漫している死。大きい動きに翻弄されて、責任もその大きなものに寄りかかっていれば消えていってしまう気配。言い訳が準備されていれば・別の責任者がほかに用意されていれば、人は大抵のことは何でも出来ちゃうという怖さ。本来善なる目的を持った集団が、狂気をはぐくむ。そこへ向けて凝集している作品になれた。人を生かすための手術では死なせてしまい、人を死なせるための手術では、その心臓の強靭さに素直に感動する空気がみなぎる。ここらへんの皮肉。そしてラストのキモ。日本人がキモと発音するときの精神主義の厭わしさが重なって、私は単なるブラックユーモアを越えたと思った。
[映画館(邦画)] 8点(2010-07-31 10:09:44)
11.  動くな、死ね、甦れ!
地にはぬかるみ、空には曇天。そのなかの上下から圧迫されているような世界、あるいは廊下の左右から圧迫されている気分。ソ連映画でよく味わう気分、これはロシア人の心象に深く刻まれている気分なのか、単にあちらの気候のリアリズム的反映なのか。近くに収容所があり、やがて主人公も、拘束から何度も逃れていく。よっぱらいの歌・よさこい節・スターリン賛歌・ダンスパーティと歌が多い。この天候と歌とが互いを嘲笑しているようで、そこから滲み出した狂気もあちこちに潜んでいる。みんなここ以外の場所へ行きたい。生活する楽しみが何一つ見いだせない町。しかし外には悪の世界がある。この少年と少女、弟的なものと姉的なものに、男女の原型が感じられた。後半、ガリーヤが「姉」のなかから「女」の気配をのぞかせる。ストーリーとして・あるいは道徳的教訓として要約される前に、このようにしてあった少年と少女の存在感のほうがグーッときて、それに圧倒される。こういう世界がたしかに地球上のある時期に存在した、って。長回し・手持ちカメラのドキュメントタッチの力。
[映画館(字幕)] 8点(2010-06-25 11:56:16)
12.  美しき諍い女 《ネタバレ》 
スランプに落ち入っていた芸術家が生涯の大作を完成させるまでの過程を、カメラが観察し続けていく。それはさながら、氷結していた河がゆっくりと解け出して再び怒涛の流れを起こすまでを、ずっと見守っているような興奮に似たものがある。動きそのものよりも、作動するときの時間のうねりにこそ感動があるらしいのだ。冒頭で画家が落ち入っているスランプは、それなりに安定した生活でもある。芸術家としての焦りさえなければ、安定した夫婦の関係と重なっていて、普通の夫婦ならこれが理想の生活なのである。しかしその穏やかさからは芸術が生まれてこない。そこで若い娘マリアンヌがモデルとして入り込んでくる。安定していたこの家の空気が、創作のほうへ傾き出す。妻としては夫の仕事の再開を喜ばなければならない。しかし、自分を通して完成されなかった絵が、若い娘の裸を通して完成されていくのを、アトリエの外で待っていなければならないとき、妻のほうでも、夫の創作に並行した心理のドラマが動き出す。そっとアトリエを覗いて見ると、以前描きかけだった自分の顔がマリアンヌのお尻の絵に塗り潰されてたりして。この二人に加え、さらにマリアンヌの時間もある。画家との間に生まれてくる緊張のドラマだ。最初はデッサン、ポーズもただ椅子に座っているもの。それから普通のヌード。背中。だんだんと外界の田園風景と隔絶した造形の奥へ、芸術の創造という魔の領域へ入り込んでいく。最初は丁寧に口で指示していたポーズも、ついには画家みずからの手でぐいぐいとマリアンヌをねじ曲げていくようになる。格闘と言ってもいい。人形のように解体されていくことへの抵抗と、心のどこかで感じている妻への勝利感が、マリアンヌのドラマを動かし出す。この三つの流れが絵の完成へ向けて合流し大河となっていくところ、安定の対極にある充実、芸術の完成という死の瞬間に向けられた沸騰、それをこの映画は描き尽くした。そのとき出来上がった絵などは、映画にとってもうどうでもいいのである。
[映画館(字幕)] 8点(2009-09-15 12:14:31)(良:2票)
13.  運動靴と赤い金魚 《ネタバレ》 
イタリアのネオ・リアリズムがこんなところにまで流れてきてたのか、とも思うが、あちらはしばしば社会から見た子どもが登場したのに対し、こちらは子どもから見た社会が描かれている。子どもだってけっこう気遣いするのだ。なくした靴のことで親に心配をかけないように心を配る。妹は妹で試験を早く終わらせたりする。兄の妹への負い目、妹の兄への気遣い、と兄妹の間での心の揺れに、また友だちとの間でも、同情やその同情があっさり捨てられるところが描かれ、とても豊かに子どもたちの世界が立ち上がってくる。お父さんの庭師訪問のさいの内弁慶ぶりがケッサク。お父さんがかわいく見えた。マラソンのシーンで音楽が入らないのも正しく、ふと前を見ると誰もいないカットがうまい。そうした演出の的確さは、金魚が寄ってきて赤い靴となるラストで最高潮に達した。
[映画館(字幕)] 8点(2008-11-19 12:12:55)
14.  ウィスキー
ときに人形の表情が雄弁になるように、無表情が多くを語ることがある。髪型を変えても気がついてもらえない・写真を撮らねばと言っても反応がない、そこで主人公はがっかりした表情を作らず、無表情で通す。がっかりした表情をすれば、それは「がっかり」だけだ。無表情だと、がっかりしたけどがっかりしたことを男にさとらせないぞ、という意地や、別にがっかりしてないもん、という自分へのごまかしや、その他いろいろ複雑な感情を、見てるほうが類推し膨らませてしまう。無色を保っている彼女の内面に、多彩な色彩が飛び交って見えてくる。演技力とは、そういう無表情を作れる能力を言うのだろう。
[DVD(字幕)] 8点(2007-10-29 12:22:08)(良:1票)
15.  ウィンチェスター銃'73(1950) 《ネタバレ》 
名刀が流転して妖刀になっていく話は日本にもあるけど、こういう名品は単なる武器以上の価値が寄り添い、魔が生まれてしまうんだな。ま、本作の銃は魔ってほどではないが、手にした者は次々と命を落としていく。そしてそれを所有するにふさわしかった最初のリンに帰っていくって話。流転していく連作短編のようでいて、一応全体としての筋も整えて90分ちょっと、という手ごろな仕上がり。それぞれのエピソードに見せ場がある。射撃競争で始まり、その賞品のウィンチェスター銃が奪われ、さらに荒野の中のクセモノの武器商人にポーカーで巻き上げられる。ついでロック・ハドソンのインディアンに渡って(逃げる馬車と追跡するインディアン)騎兵隊との銃撃戦、ここで銃が戻るかと思わせといてはずし、町で家に立て籠もった悪漢に奪われる(この悪漢ウェイコが、ちょっと若いころの三井弘次を思わせるいい味。ダン・デュリエって役者いまここで検索したら『飾窓の女』に出てる。こんなネチネチしたユスリが出てたがあいつか?!)。そしてラストで冒頭のエピソードの人物が回帰して閉じるという趣向。西部劇の見せ場集みたいになっちゃうところをリンの銃回収の旅という芯を仕込み、射撃競争の敵役の再登場でまとまった感じを出せた。この宿命の敵が実は兄弟ってので、神話的な味を狙ったのか。あちらの人にとっては、カインとアベルなんかを連想し、重さが出るんだろう。アンソニー・マン監督とジェームズ・スチュアートという『グレン・ミラー物語』の組み合わせ。まったく異なる世界のようだが「ものすごくアメリカ的」ということで共通しているな。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2012-09-21 12:24:57)(良:1票)
16.  歌姫カルメーラ
脚本のラファエル・アスコナは『最後の晩餐』のホンにも関わってる人だそう。カメラは『エル・スール』の人。芸人の舞台と抵抗者の銃殺場とがダブってくるところがミソ。照明を浴びるということ。ガソリンを盗んでいるときに女が「芝居」をしに車のライトの中に出ていく。銃殺場でパッと照明を浴びせると、まるでカキワリの前の舞台のよう。ステージと現実との違いというより、照明を浴びるものと照明に向かい合うものとだろう。芸人にとって舞台は銃殺場に立っているような真剣なものなのだ。煉瓦模様のカキワリの前で歌うカルメーラの心意気は背筋を伸ばして見ねばならぬ。男は何してるかっていうと、屁をひってるだけ。情けない。市長のベッドも煉瓦のカキワリ並みに不吉だった。スペイン内戦は悲惨な出来事だったが、スペイン映画はその悲惨からなんとか「元を取ろう」と真剣に向かい合っている。
[映画館(字幕)] 7点(2012-06-18 09:53:21)
17.  ウルガ 《ネタバレ》 
この監督、草原趣味がある。草原を描くととてもいい。セルゲイ君登場のあたりの悠々とした演出。眠りと戦うために一生懸命はしゃいで運転しているトラック。何かを発見しあわてて戻り、間違って川に突っ込む。浅い水に浸かって呆然とする、ってのは『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』のラストをほうふつとさせる。で、心づくしの歓待になる。この心づくしの感じが丁寧に演出されていてよかった。気を許せることを強調しすぎず、ちょっとテレもあったりし、でも気を配りあってて、女の子のアコーディオンとか(思いのほか本格的で唖然とするセルゲイ君)、こういうところを自然に演出できるってのは、なかなかの力量だ。羊の解体のとき、切られた足先を子どもがバチに見立てて太鼓叩くみたいに遊んでいるスケッチ。宴も尽きて月のアップからゆっくりカメラが回っていくと川に突っ込んだままのトラック、なんてのも実にいい。翌朝、しぐれる中での夫婦の語らいも味わい。で町へ出るんですが、ここらへんからちょっとトーンが違ってきて、中国における少数民族とか、ロシア人のあり方とかいったお話を聞かせていただいてる、ってな感じになってしまう。ちょっと剥き出し。自分たちの基盤が不確かになっていく感覚が、チェーホフに通じるところもあるけど。前半の語り口が絶品だっただけに、若干残念。でもいい映画です。
[映画館(字幕)] 7点(2012-03-25 09:48:29)
18.  ウェディング・バンケット
ホモが絡むコメディとなると、だいたいいじましい笑いになってしまうのが多いのだが、これではどちらかというと笑いのネタは「父‐台湾」とのギャップのほうにあって、いい。二階でぐったりしている父親、鼻息を確かめたりしていると昼寝から覚めて、カクシャクと歩み去っていったり、とか。宴会シーンで中国が横溢する。もっとおとなしい民族かと思ってた、いう。どんちゃん騒ぎを描いて酔い潰れているのを描いて、ああいうのを描けるのは、台湾を離れた者の視線を持ってたからなんだろう。慎ましさと傍若無人の同居。すべてを受け入れ肯定していく。
[映画館(字幕)] 7点(2011-03-30 10:12:08)
19.  歌行燈(1943)
戦時中はなぜか芸道ものはよく作られていて、これが当局にとってどう国威発揚とつながっていたのか分からないが、後世の映画ファンにとってはありがたいことだ。脚色が久保田万太郎である。芸道ものの典型である「慢心によるしくじり」のドラマ、より完璧な境地を目指す者のトラブル。新内流しに落ちて門付けして回るあたりのわびしさ、それほど芸道ものが得意という監督ではないかも知れないが、こういう“わびしさ”を描くとなると一級である。彼と対になるように仕舞いをする芸者を置いて、彼女も芸に関していわば「しくじって」おり、そのしくじり同士が、松林の木洩れ陽の中で稽古をするわけだ。このシーンの美しさ。おっとその前に、そのお袖の消息を初めて喜多八が耳にする舟着き場のシーンがある。なんでもない舟待ちの人々のカットなんだけど、いいんだ。風。ドラマの中では、人と人が芸を媒介にして行動する。あるいは自殺に追いやられ、あるいは再会し、そしてすべてがラストで一部屋に集められるのも“芸”ゆえのこと。父が呼んだ芸者が仕舞いをし、その中に息子の署名を見、この鼓の音を喜多八が聞きつけアンマの幻から逃れてくる。その中心で舞うお袖の仕舞いが無表情ってのが、シマるんだなあ。観つつ、舞台となった明治と製作された昭和18年の双方に思いがいって、胸が詰まった。
[映画館(邦画)] 7点(2009-12-31 12:14:56)
20.  ウォーリー 《ネタバレ》 
擬人化を最小限に抑えてあるのが楽しめる。いかにも機械機械したウォーリーが、しだいに個性を見せてくるあたり。目の双眼鏡のところの傾きだけで、けっこう細かい表情が出来るんだ。アニメの楽しみはこういうところにある。終わりのほうで“ただの機械になってしまう”なんてことを表現できるまでに、命を吹き込めていたわけ。大したものである(さかのぼれば『トイストーリー』、さらには『E.T.』でもぬいぐるみに化けるってのがあった)。ドラマとしては前半の廃墟の地球での出会いの部分が優れていた。映画史上でもかなり奇抜なボーイミーツガール。無駄な言葉のないサイレント映画の楽しみ。もっと廃墟そのものも味わいたかったけど。小さい助っ人ってのは、ディズニー映画では出さなければいけないという契約でもあるのだろうか。それほどドラマの進行に役立ってなくて、ただチョロチョロしてるだけだったという印象。宇宙船に話が移ってからは、『モンスターズ・インク』など既視感ある追っかけものになって、ボルテージが下がる。さらに『2001年』のパロディというか、コンピューターの反乱になって、デブとなった人類が再び歩行を始めるとこでツァラトゥストラが流れるのは、“パロディ”というより現在時点での“読み替え”と取ってやりたい。生き方を変える転換点としてのファンファーレ。寝たままのデブの対極に、ミュージカルのダンスがあるあたり、アメリカ人の誇りなんでしょうなあ。
[DVD(吹替)] 7点(2009-10-04 12:15:37)(良:2票)
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