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21.  くちづけ(1957) 《ネタバレ》 
拘置所を訪ねたある若者(川口浩)が面会手続きを行った。面会を待つ間、若者は、目の前を泣きながら走り去る若い娘(野添ひとみ)を見る。 若者の面会相手は父親だった。丁寧語で遠慮がちに話す若者に対し、父親の口ぶりは、収監されている自分自身を誇らしげに語っているかのようだ。だが、10万という(当時としては)高額な保釈金の話が出てから、父親は急に弱気になり、その工面を若者に託す。 面会後、先ほどの娘が、食堂で「収監人の食費が足りない」と言われ困っていた。それを見た若者は、これまで一面識もなかったその娘の代わりにお金を支払い去っていく。娘は、バスに乗った若者に声をかけながら後ろから乗り込み、若者の住所や名前を聞こうとする。それに答えようとしない若者は、競輪場前で急にバスから降りる。同じように降りて後をついてくる娘に、若者は「誕生日はいつなのか」と聞き、それと同じ番号の投票券を買う。券は見事に大当りし、配当金で一緒に食事をする。こうして二人の距離が近づいていくのであった…。  本作の魅力は、通俗的かつ普遍的な恋を、当時の風俗を交えながらストレートに、シンプルかつスピーディーに描き切ったところだ。以下、解説していこうと思う。  川口浩演ずる主人公・宮本欽一は大学生だ。1957年当時の大学進学率が10%程度だったことを考えれば、エリートと言っていいだろう。両親は3年前に離婚。父親は選挙犯として現在三度目の収監中だが、一方の母親は、個人で営む宝石商の成功で羽振りがいい。欽一が住む父方の一軒家にはばあやがいて、保釈金の用意までは難しそうだが、経済的にはそこそこ恵まれているようだ。それでも、両親の離婚からか、欽一はどこか屈折したところを持っている。  野添ひとみ演ずる娘は白川章子といい、母親は清瀬の結核療養所に入所中、父親は勤めていた役所の金を使い込み、欽一の父親と同じ拘置所に収監されている(療養代金のための横領とも考えられるが、その具体的説明はない)。彼女はそんな両親を支えながら、ヌードモデルで生計を立てている。天真爛漫なところがあるが、生活苦のため、普段は心のゆとりが少ない。  欽一から見た章子は、魅力的な容姿で(江の島での水着姿を見て「いい体してる」と言っている)性格も明るい。一方、章子から見た欽一は、優しさと少々の不良っぽさを持つエリートで、お金の工面までしてくれる存在だ。  互いが持つこういった魅力は、今日の恋愛や結婚の相手に求められているものと何も変わらない。男が女に求める若さと容姿、明るさ。女が男に求める優しさ、ほどほどの野性味、そして経済力。モテる男女の条件は少なくともこの頃から変わらないと分かるし、本作が通俗的であり普遍的であるのはこのためだといえる。  さらに言えば、本作は、半ば偶然に出会った男女が惹かれていくというシンプルな物語を、74分という、映画としては非常に短い時間で中だるみなしに一気に見せるため、とても見やすい。  また、物語を描くために積極的に取り入れられている当時の風俗も、今では貴重な資料となっている。  欽一と章子が入った競輪場は、今ではなくなってしまった後楽園競輪場であり、中の様子が克明に記録されている。オートバイに乗る時はヘルメットをかぶらなくて良かったし、堂々と二人乗りもできた。恐らく舗装されて年数の経っていない道路には車が少なく、広々としていたことも分かる。 江の島の海水浴場の水着ショーで、思い思いのポーズをとる女性たちにかぶりつくようにカメラのレンズを向ける男たちは、コミケでのコスプレ撮影に比べて遥かに遠慮がない。隣接したローラースケート場では、なんと水着のまま滑っている。 また、恐らく運輸支局だと思うが、電話で車のナンバーを伝えると持ち主の住所をあっさり教えてくれるところからは、当時の個人情報に対する意識がうかがえる。  最後に、スタッフとキャストの関連性について、あえて触れてみたい。本作の原作者・川口松太郎と、欽一の母親役の三益愛子は実の夫婦だ。二人の間には4人の子供がいるが、その長男が川口浩であり、野添ひとみは、当時付き合っていた川口浩が大映重役だった父親の松太郎に頼んだことによって松竹から大映に移籍し本作に出演。そしてこの二人も1960年に結婚している。 本作には川口家の関係者が多く携わっており、当時のスタッフがどのように考えていたのか、気になるところだ。
[DVD(邦画)] 8点(2020-10-31 15:32:40)
22.  越前竹人形 《ネタバレ》 
昭和初期の越前の山奥。雪がそぼ降る冬のある日、亡くなった父親の跡を継いで竹細工で生計を立てていた喜助の元に、美しい女性が訪ねてきた。芦原から来た女性は玉枝と名乗り、父親の墓参りに来たと言う。敬虔に墓参りをする玉枝に惹かれた喜助は、その後、芦原に玉枝を訪ねる。玉枝は遊女だった。喜助の父親が玉枝の馴染み客だったので墓参りに行ったと言う。玉枝のいる遊郭に何度か訪ねるなか、身請けがあるかもしれないと聞いた喜助は、150円もの大金を玉枝に渡し「結婚してほしい」と言う。喜助の願いは叶い、ある日、嫁入り道具とともに喜助のところに来た玉枝。二人の新婚生活が始まるが、喜助は仕事に打ち込むばかりで、玉枝と同衾しようとしなかった…。  本作の魅力は、二人の繊細な気持ちのすれ違いと、それが生む悲劇を見事に描き出したところだ。  喜助が玉枝と同衾しようとしない理由は、彼の父親がかつて玉枝と同衾したと思うことからの複雑な感情だった。精神的には心から玉枝が好きでも、肉体的に愛することに抵抗があったのだ(劇中で、なぜ一緒に寝ないのかと聞く玉枝に「(玉枝が)母親に似てるから」と答えるところからマザーコンプレックスとする解説もあるが、僕はこの説を採らない)。 結婚後しばらくして、ひとり留守番していた玉枝のもとに、喜助の作った竹人形の取引のため、京都の人形店の番頭・忠平が訪ねる。忠平は玉枝の昔の馴染み客だった。酒をふるまわれていた忠平は、とつぜん玉枝に迫る。かつての馴染み客だったからか、取引先という弱みか、あるいは喜助に抱かれず体がうずいていたのか、玉枝は忠平に抱かれてしまう。  そんなことはつゆ知らず、玉枝への複雑な気持ちから精神的に荒れていく喜助だったが、かつての玉枝の遊郭で同僚だったお光から「父親は玉枝と一度も寝ていない」と聞く。憑き物が落ちたように晴れ晴れとした表情で玉枝に迎えられた喜助。ようやく玉枝を抱こうと思ったが、玉枝が突然吐き気を催す。玉枝は忠平の子を宿していたのだった。  最終的に玉枝が亡くなるところまで、ただただ幸せに生きたかった二人に訪れる運命のいたずらに、観ているこちらの心は痛みながらも、緻密に描かれた本作の構成に感心するのである。  華のあるキャスティングも本作の魅力だ。玉枝を演じる若尾文子の、親しみやすさのなかにある妖艶さはもちろんだが、忠平役の西村晃の、男の嫌らしさを体現した姿、お光役の中村玉緒の人の良い親しみやすさ、さらに、ラスト近くで登場する船頭役の二代目中村鴈治郎の、年配の男が持つぶっきらぼうな優しさとその存在感(ちなみに玉緒と鴈治郎は親子共演だ)。  そして、彼らを映し出す映像の美しさ。特に冒頭の墓参りの雪景色は絶品だ。宮川一夫の撮影の力だろう。  決して超大作ではないが、郷愁を誘う美しい風景のもとで描かれる悲劇。喜助の葛藤に同意出来かねる者もいると思われるが、ドラマを効果的に描くために必要な装置だったと僕は思いたい。
[DVD(邦画)] 8点(2020-06-11 16:57:16)
23.  君の名は。(2016)
ロジカルで現代的な舞台設定を根っこにしながら、SF、ファンタジー、ラブコメ、さらにはアニメーション独自のダイナミズムやデフォルメがごった煮になった、不思議な手触りの作品だ。前半は複雑な情報が錯綜して分かりにくいが、中盤以降の展開や視点は観客の心をグッとつかむ方向にきちんとコントロールされており、観た後は観客に余韻が残る作りになっている。「面白かった」「感動した」と一言で言えない手触りや感想を、観たそれぞれの人たちが感じられる、多様性のある作品に仕上がっているのではないだろうか。  10分ほどで一気にここまで書き上げてみたが、まるで新聞記事のように客観的で血の通わない文章に自分で驚いている。観た後の、熱くて切ない気持ちがある一方で、大ヒットした現状に、どこかで冷めた気持ちも働いてしまうのだ。自分だけの作品、あるいはマイナーな作品であってほしかったと考えてしまう想いに何とも言えない寂しさも感じてしまうのだ。これがマイナーな世界で生きてきたオタク――と勝手にひとくくりにしてしまっていいのか分からないが――の一方的で病理的でもある、不思議な感覚なんだろうなぁ。
[地上波(邦画)] 8点(2018-01-04 04:42:37)
24.  生きものの記録
いわゆる超大作ではないだろうし、黒澤映画の中では時間が短い方だから、と気楽な気持ちで観始めた。だが、内容やテーマが想像以上に多重的で重く、観終えたあとの気持ちはとても重苦しい。この作品にある、原水爆への恐怖心から家族総出でブラジルへの移住を進めようとする主人公の立ち振る舞いのようなことは、たとえここまで大きな問題でなくとも、我々の生活のどこかにあるのではないか、と思う。僕自身の経験で言えば、こんなことがあった。10年ほど前に、仕事関係の会の有志で、軽く山登りをしようと計画したときのことだ。そういった試みは初めてのことで、ピクニックのようなコースを歩くことになったのだが、保険や安全装備などを必要以上に心配して、そういったフォローをとことんまでしようとする、一人のメンバーに辟易したことがあった。当時は、僕がそのリーダーに担ぎ出されていて、その行為に対して、そこまで心配しなくていいのでは、と消極的反対をしたのだが、そういった心配は正論と言えば正論だと、ほかのメンバーは誰も表立っての反対ができず、結果、リーダーとして、そのフォローに大変な負担を強いられたことがあった。それ以後、僕は山登りを計画しなかったし、とっくに交代した歴代のリーダーも、山登りを一度も行おうとしていない。そしてもちろん、そのメンバーは今も会に在籍している。僕自身のこういった経験からも、過剰な善意による、結果的な迷惑行為を止めるのは大変難しい、と強く思うし、それゆえに、この作品での、そういった問題を正面から描いたことによる重さに、すっかり参ってしまったのだ。しかし、この映画の重いところはそれだけにとどまらない。そういった迷惑行為がエスカレートすることによって、結果的に家族の生活基盤までもが崩壊してしまう。その崩壊に至るまでにも、主人公の、妾を含めた複雑な家族構成や、そこから見え隠れする人間の醜さがじっくりと描き出されていくのだ。確かに、それによって、この映画のドラマ性はさらに深みを増し、映画の完成度はさらに上がっている。だが、皮肉なことに、それが、観ている僕の心をますます重くしてしまうのである。上映当時の興行成績は良くなかったそうだが、それは、エンターテインメント性に欠けた、この映画の重さのためなのではないだろうか。徹底的に救いのない内容であるため、何度も観たい映画ではないが、ドラマ性のある作品を観たいという人にはお薦めしたい、非常に良く練り込まれた作品だと思う。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2016-05-05 16:25:43)
25.  悪い奴ほどよく眠る
冗長過ぎるきらいがあるし、首をかしげる所も無いでもないが、ラストの衝撃で全て吹き飛んだ。想像ほどのスケールは無かったが、重厚な出演陣の熱演もあり、なかなかいい映画だった。観て損無し、お勧め。
[ブルーレイ(邦画)] 8点(2013-01-06 23:45:29)
26.  崖の上のポニョ
「面白い」ではなく、「凄い!」の一言に尽きます。ストーリーはあって無いようなものですが、その一方で子供の視点から見た世界観を、手描きアニメーションの技術を駆使して見事に、そしてゴージャスに描ききっています。映画の隅々まで気を配った作りでない分、大人の視線で視る人達からは非難されそうですが、子供の心で観れば、充分に楽しめることは間違いありません。宮崎監督がまだこれほどの力技を持っていたことには、本当に驚かされます。また、耳に残る主題歌アレンジやオーケストラ、そして久石氏のおなじみなメロディーも聴ける音楽も素晴らしく良かったです。うちの子供はまだ小さいので映画館には連れて行けませんでしたが、DVD発売の折には是非親子で楽しみたいと思っています。
[映画館(邦画)] 8点(2008-07-20 00:32:14)(良:1票)
27.  となりのトトロ 《ネタバレ》 
「上映初日の土曜日、当時高校生だった私は半日の授業が終わると同時に自転車に飛び乗り、あわてて映画館へ飛び込んだ。ところが予想に反して観客は3人ほどしか居らず、ほぼ貸し切り状態。足を投げ出し、お尻や背中の痛みと格闘しながら『火垂るの墓』と共にそれぞれ2回通り観ると6時間経過し、上映終了。周りを見渡すと、他の観客は誰もいなかった…」と、色々な意味で今では考えられないであろう環境で観ました。自然や田舎への郷愁を強く感じて心が温かくはなったものの、物語性の薄さにがっかりした部分も大きく、当時はあまり評価していませんでした。ところが今では観返す度にこの郷愁の感情のみに心が支配されてしまい、思考停止に陥ってしまう自分がいます。本当に恐ろしく、そして凄い映画だと思います。余談ですが、十数年前の大学時代に宿泊したペンションのテレビの棚の、数少ないビデオテープの中に「となりのトトロ」とマジックで大きく書かれたテープが一際目立っていた事を、何故か時々思い出します。
[映画館(邦画)] 8点(2007-06-10 01:29:36)
28.  AKIRA(1988)
公開当時は、「バイクシーンは凄かったけど、ラストが良く分からないな」と すっきりしない気分で映画館から出て来ましたが、 今、改めて観直すと芸能山城組による音楽もさることながら、 全編に亘っての、作画や背景のクオリティーの高さにただただ圧倒されます。 また、映像の情報量が物凄く多く、観直す度に新たな発見がある、するめのような 作品でもあります。  ただ、作画マニアが観れば、終始にやにやしながら観られる映画である事は 間違い無いのですが、ラストは今観ても疑問が残りますし、 構成がやや平坦な感じもしますので、作画マニア以外の一般の映画ファンには とっつき難い作品かもしれません。
[映画館(邦画)] 8点(2006-04-15 23:28:14)
29.  拳銃は俺のパスポート 《ネタバレ》 
本作は非常にアニメ的な作品である。そのために敷居の高さはあるが、その一方でそのアニメ的なところが本作の大きな魅力にもなっている。まずは魅力について順番に述べていこう。  本作を観ていて最初に奇妙に思ったのは島津組の組長・島津の会社のたたずまいであった。彼は用心棒を連れて仕事に出掛けるのだが、そのオフィスはがらんとしており、他に誰もいなければ彼の机と椅子以外の物も見えないのだ。 そんなのっぺりとした空間でただ机に向かっている島津を見て僕は思った。「(これは)エヴァンゲリオンだ」と。 TV版『新世紀エヴァンゲリオン』の特徴の一つに「書かなくてもいいものはとことん書かない」ことがある。島津のオフィスもリアルに描写した方が作品としての風格は上がるだろう。だが、本筋に直接関係のないオフィスを緻密に表現しなくても物語の進行自体に支障はない。しかも、ハリボテのようなオフィスは、島津と彼を見張っている主人公の殺し屋・上村の、狙う者と狙われる者という特殊な状況を浮かび上がらせて強調する役割を果たしているとも言えるのだ。  上村のキャラクターもかなりアニメ的である。彼には過去もなければ未来もない。別の言い方をすれば、劇中で過去にも未来にも触れられず、なおかつ本作を観ている観客の興味がそれらに向ける必要のない、極めて分かりやすい設定となっている。 一切のしがらみがない状況で殺し屋として生きる上村に、宍戸錠という名優の存在感やパーソナリティーが加味されることで彼はさらに魅力を増す。特に島津を狙撃するためにライフルを構える上村には華があり、不思議な色気と独特のカッコよさにゾクゾクさせられる。余談ながら宍戸に関しては、これまで中年以降のバラエティやワイドショーでの姿しか見たことがなく、彼がスターとしてマスコミで扱われていることについて少々違和感を持っていたが、本作を観てそれが理解できた。彼はまごうことなきスターだったのだ。  アニメ的なのは、島津や彼に敵対していた大田原組に属する組員も同じだ。上村とは逆に、彼らにはキャラクターが与えられていない。上村を追い、彼を捕獲あるいは抹殺しようとする役割のみが与えられている。だから彼らの顔の区別はつかない(これは僕が日活アクション映画を殆ど見ておらず、役者に疎いからかもしれないけれど)。個性的なキャラクターとして描かれないことで、彼らはアニメの(その他大勢の)悪役のようになっているのだ。  本作の敷居の高さとなっているのは、こういった上村と組員の虚構性だ。現実世界を舞台に、現実的かつ本質的な心理を描く物語に虚構の登場人物が存在する。繰り返しになるがこれは多分にアニメ的であり、非現実的な側面がどうしても目につきやすい。そこから本作を受け付けない人も多いだろう。  ただ、本作上映当時に比べ、現在ではアニメ作品はすっかり市民権を得ている。モノクロ映画という点や、時代を感じさせる風俗に抵抗を感じる人もいるかもしれないが、もしかしたら現代の方が受け入れられやすい作品なのかもしれない。  ここからは、これまでの流れとは違う、映像作品ならではの本作の魅力を書きたい。  まずは、巧みに表現されているサスペンス。たとえば、何らかの車でやって来ると分かっている上村を港で待ち受ける組関係者の前にタクシーが現れる。身構える彼らだったが、実は立小便をしにきた運転手だったシーン。モーテルに潜んでいる上村達に突然乗り物の音が聞こえ、組関係者かと身構えたがそれは新聞配達のオートバイだったシーン。ベタと言えばベタなのだが、文章では伝えられない絶妙さが、観ているこちらもドキッとさせてくれるのだ。  それから、本筋とは直接関係がないのに大胆に挿入されるカットの存在。たとえば、島津を狙撃する直前の上村のライフルのスコープに小鳥が見える。小鳥は数秒映り、しかも小鳥が首をかしげる可愛らしい仕草までとらえられているのだ。 あとは、上村と組関係者の最終決戦の直前。指定した埋立地に約束の時間よりも早めに行き、穴を掘るなどの細工を施す上村だが、傍らの砂の上に一匹のハエが止まる。それを見ている上村。次の瞬間に激しい銃撃戦が始まるのだ。 どちらのカットにも直接的な意味はない。だが、何かを感じさせてくれるのだ。それは観ている人にゆだねられる。緊迫した場面での一瞬の平和かもしれないし、手塚治虫の漫画に多く見られるギャグ的表現かもしれない。観ている人が日常生活で感じたり背負ったりしている何かを連想するかもしれない。いずれにせよ、こちらも間の絶妙さが堪能できる、映像作品でしか表現出来ない魅力であることは間違いない。
[DVD(邦画)] 7点(2020-09-22 19:21:36)
30.  用心棒 《ネタバレ》 
ある宿場町に立ち寄った浪人風の男。そこは絹を主な産業とする町だったが、博打打の跡目争いですっかりすさんでしまっていた。番太も仕事を放棄して彼らにおもねる始末だ。そんな中、その男はふらりと入った居酒屋で町のあらましを聞き「気に入った」。彼らを除するつもりのようだが、その方法とは…。  ここで唐突な話だが、僕が本作にいだく印象は『風の谷のナウシカ』(以後『ナウシカ』)によく似ている。どちらもレイアウトに力があるし、心躍るカットも多い。良く出来た作品と認めることに異存はないのだが、好きな作品とはならず、心にモヤモヤが残るのだ。  今回、この感情を何故かと考えた末に分かったのは、どちらも評判や評価の高さを先に知り、そこで述べられる具体的な表現――たとえば『ナウシカ』は「感動の超大作」、本作は「黒澤監督がのびのび撮った痛快娯楽作品」――と、実際に僕自身が観た後に持った感想が大きく乖離していることだ。  今と比べれば人格形成が未熟だった若い時に、なまじ分かりやすく、ともすれば誇大な宣伝文句や評判を先に聞いてしまったためにそれが刷り込まれてしまい、同じ感想を持てない自分とのギャップに悩んでしまうのだ。  言ってみれば、まるで隣のクラスに転校してきた優等生のようなもので、「あいつはすごい奴」と多くの口から先に評判を聞き、実際に勉強も運動も出来るのも知ったが、その大まかな評判と本人から持った印象に何とも言えないズレがあるため素直にすごいと認められず、自分とは縁のない存在に思えてしまう、そんな印象なのだ。  『ナウシカ』の話題はここまでとしておこう。世間の評価とは違う、僕が本作で評価したい点は、作品の緻密な構造である。具体例は省略するが、これは、娯楽と言う言葉とは相反するものだ。 三船敏郎というどっしりしたキャストが中心にいるため、大きな存在感を持つ主人公が自由自在に大活躍をするという印象を持つ(あるいは持たせようとする)ケースが多い気がするが、実際は正反対と考える方が個人的には腑に落ちるのだ。  ただ、この作品が厄介なのは――こういう言葉を使ってしまうところに僕自身の奇妙なこだわりがあることは承知しているが――三船演ずる桑畑三十郎の人間性や、東野英治郎演ずる居酒屋の権爺や加東大介演ずる亥之吉の人間味、所々に挟み込まれるユーモア、クライマックスの高揚感といった、分かりやすく、抗えない魅力が本作に横溢していることだ。こういった要素が本作を類型的に称賛することに貢献していると思うし、それには同意せざるを得ない。  様式的な称賛がきっかけとなった本作との出会いは、僕にとっては不幸であった。意外にもずいぶんいびつな感想となってしまったが、本投稿を読まれた方のうちのほんのわずかな方が何かを思ってくださるのを祈るばかりである。
[ブルーレイ(字幕)] 7点(2020-09-06 18:14:11)(良:1票)
31.  風花(1959) 《ネタバレ》 
一面に広がる田圃と遠くに見える山々の稜線が美しい信州・善光寺平(長野盆地)。ある屋敷から一人の花嫁が現れた。外には大勢の見送りがおり、離れた場所には立派な自動車が停まっている。 時を同じくして、屋敷から一人の若者が飛び出した。「捨雄!」。後を追う女性。捨雄は川で自殺しようとする。それを止めた女性は彼の母・春子だった。ここから話は19年前の戦時中に遡る…。  本作は、戦時中から戦後10数年後までの名倉家とそこに渦巻く人間模様を描く作品だ。戦時中、地主だった名倉家には若い息子が二人いた。長男・勝之は名家から嫁・たつ子をもらっており、その間には小さな娘のさくらがいる。次男は召集前日に恋人の春子と心中。次男は死に、春子だけが生き残った。そんな彼女のお腹には次男との間の子供がいた。春子は半ば隔離された状態で名倉家に住み、男の子を産む。春子は英一と名付けようとしたが、主の強之進が勝手に捨雄と名付けた上に届け出てしまった。踊りを教わるなどして大事に育てられるさくらに対して、捨雄は春子と共に厄介者として扱われる。それでもいとこ同士のさくらと捨雄は仲良しだった。  戦前は地主として裕福な名倉家だったが、戦後の農地改革で土地の殆どを失い、没落していく。 たつ子の実家からお金の工面してもらおうという話の中、癇癪を起こした強之進は倒れて死ぬ。母・トミは地主時代のプライドが捨てられず、古風な考えに固執し、家族の自由を許さない。女学生となったさくらの、男子学生を含むグループとの付き合いも禁ずる。一方で、没落した名倉家にはさくらの婿のきてもなく、跡取りが望めない。物語はこんな名倉家の悲劇とそこから垣間見える滑稽さを描きながら進んでいく。ここで言う悲劇とは、没落したとはいえ、ある程度の土地と建物を所有する一家が、それゆえに土地に縛られ、家に縛られる中、徐々に衰え、腐っていく過程である。  家から出たいと考えるさくらに、ついに結婚の話がやってくる。嫁にもらいたいという話で、さくらは望み通り家から出られることとなった。そして、それまで悪役然としていたトミが「これでやっと楽になる」と、名倉家を守る者としての責任からの解放を口にする。  ある日、さくらのところに女学生時代の友人・乾幸子が訪ねてくる。女学生時代のグループの一人だった幸子は昔話を始める。やがて「あなたは何も経験していない。私は色々経験している(大意)」。これまで謳歌した自由や、絵描きとの結婚への自慢じみた話に移行するが、最後に5,000円を貸してほしいと頼む。ここで監督は自由な生き方をことさら誇示する若者も揶揄したかったのだろうか。いきなり余談だが、丁度この時代が青春だった女性で、年を重ねた今も幸子のような慇懃無礼な話し方をする人がいる。あの話し方は、この時代の若者言葉だったのかもしれない。  ある日、大勢の前で踊りを披露するさくら(披露会?)。それを見た捨雄は「綺麗だ」と手紙を書く。捨雄はさくらに手紙を渡すつもりはなかったが、春子がお別れだからとそれを渡す。自分に対する捨雄の恋に気付くさくら。そして自分も捨雄が好きだったことを自覚する。結婚前夜に外で密会する二人。「これっきりよ」。二人は堅く抱き合う。 結婚当日。ここで冒頭シーンに戻る。さくらが嫁に行き、正式な跡継ぎがいなくなった名倉家。春子と捨雄は自由を求めるために家を出て、東京を目指すのであった…。  こうしてあらすじを辿っていくと、本作は運命に翻弄される一家を描き出したなかなかの力作と言える。映画としては比較的短い、78分という時間でこれだけのことを描き切ったのにも驚く。 だが、観た後の不思議な感慨は、本作の物語がようやく把握出来た中盤以降に芽生え始めた感情だ。正直、それまでは何をしているのかがさっぱり分からず、開始20分ほどで一度視聴を中断している。なぜ分からないのか。実は本作はやたらと回想が多く、「19年前」以外はテロップがない上にナレーションもないからだ。文字や言葉による説明の不在は、確かに本作にじんわりとした味わいを残してくれた。それでも、もう少し分かりやすい構成でも良かったのではないか。それとも、上映された昭和34年当時は、名倉家のような状況が鑑賞者の共通認識で、説明の必要がなかったのだろうか。  もしかしたら、僕自身が地主の悲劇という視点の物語を観たのはこれが初めてかもしれない。これまで考えなかった視点だが、当時はかつて小作人だった者たちが本作を観て溜飲を下げたり、いい気味だと思ったりしたのだろうか。  鬱屈とした内容を反映してか、豪華キャストだったにもかかわらず、作品自体を輝かせて引っ張る俳優・女優が存在しなかったのは残念だったが、これは仕方のないことかもしれない。
[DVD(邦画)] 7点(2020-09-04 17:02:44)
32.  HERO(2015)
僕にとっては東映オールスターキャスト映画のような作品(観たことないけど)。お馴染みのメンバーには安定感があるし、見せ場もある。ストーリーもシリーズを逸脱せず、収まるべきところに収まっている。一言さんお断りで安心感重視の作りなので、映画として、また映画館で観るべき作品ではないのかもしれない。だが今回のテレビ放送は、僕のようにテレビシリーズを全話観てきた者にとっては、スペシャル番組として充分に楽しめた。
[地上波(邦画)] 7点(2016-12-20 10:31:40)
33.  かぐや姫の物語 《ネタバレ》 
昔話は主人公の「個」よりも、シチュエーションを重視する。そしてこの映画は、テロップに脚本の名前はあるものの、昔話の竹取物語を忠実に劇場アニメにした印象がある。それゆえ、現代の映画を観る時の視点、つまりかぐや姫の心の移り変わりという視点から観ると、ついていけない場面が多々あり、観ているこちらの心が置き去りにされている感があった。観ている最中に思い出したのは、「太陽の王子 ホルスの大冒険」のヒロイン、ヒルダだ。その心から入れ込めないヒロインと、今回のかぐや姫は正しく一致。高畑監督の嗜好と竹取物語が一致したのだな、と興味深く思った。その一方、作画は全般に渡って見事。特に宴会の最中、月夜の中をひたすら山へ走り抜けるかぐや姫の作画は本当に見事だった。結論としては、純粋なエンターテインメントになりきっていない所を考えると、万人にお薦め出来るあ作品ではないかな。
[映画館(邦画)] 7点(2013-12-08 01:41:35)(良:1票)
34.  火垂るの墓(1988) 《ネタバレ》 
「やっぱり戦争って嫌だなあ」「あの小母さんは嫌な奴だなあ」「清太はともかくとして、節子かわいそう」、以上が私が高校の時、劇場で初めて観た時の主な感想です。ところが今では、「節子の為にも我慢して(あるいは手伝い等をしてでも)小母さんの家に居ついていれば良かったのに」という感想が真っ先に浮かびます。恐らく初めて観た時の年齢や考え方によって評価がかなり大きく分かれる映画なのだと思います。大人の社会で日々努力している人達が観れば、清太の身勝手さを腹立たしく感じるでしょうし、思春期を過ぎるまでの人達が観る(あるいは観せる)ときっと清太に共感を覚え、映画のやるせなさに打ちのめされるでしょう。当時の私のように…。
[映画館(邦画)] 7点(2007-06-09 01:40:07)(良:2票)
35.  空飛ぶゆうれい船 《ネタバレ》 
ボアジュースのCMや宮崎駿が担当したゴーレムのシーンは今観てもインパクト充分なのですが、後に制作スタッフが述懐しているとおり、後半の構成がグダグダ。台詞による状況説明や種明かしにはガッカリさせられます。杜子春さんもコメントされていますが客観的に考えますと、初視聴が小学生の時ならば9点、中学生なら7点、それ以後なら5点といったところです。私は中学生の時に初めて観ましたので、7点献上します。
[ビデオ(邦画)] 7点(2006-08-26 00:00:13)
36.  流れる 《ネタバレ》 
本作は、置屋「つたの屋」を舞台に、そこに居住・在籍する女性を丹念に描きながら、つたの屋が凋落する軌跡をたどる作品である。  本感想のために各々の登場人物についてまとめてみると、その人物設定や配置が非常に巧みで、相当練りこまれていることがわかる。  物語の中心に存在し、最も複雑な内面が描かれているのが、つたの屋の経営者であり、自身も芸者であるつた奴(山田五十鈴)だ。芸者の仕事に懸命だし、これからも続けていきたい。優柔不断で気が弱いところもあり、さらに在籍する芸者の上前を撥ねるこすっからいところもある。いいところも悪いところもじっくりと描かれるが、彼女の姿を追っているだけでは物語がなかなか進行しない。その役目を担うのがつた奴の娘・勝代(高峰秀子)だ。どちらかと言えば陰気で、気が強い。芸者を継ぐつもりはなく、独身で付き合っている男もいない。今はこれといった仕事はしないままつたの屋に住んでいるが、経営状態の良くないつたの屋を閉めてもらい、つた奴にも芸者をやめてもらって、共に別の仕事で生計を立てていきたいと考えている。気に入らない相手に対してはっきりものを言うことで我々観客をスカッとさせ、物語にうねりを加えながら進行させていく。  それに対して、同じくつた奴の娘で、幼い娘・不二子を連れて出戻っているのが米子(中北千枝子)だ。今も近所に住む別れた旦那に未練があり、姿を見ると追いかけてしまう。勝代と同じように芸者になる気はないが自立した生活を送る気もない。不二子がいるからか生来の性格からか、ちょっとした仕事ならしてもいいが、基本は家でのんびりしたい、不二子を芸者にしていいからその分面倒を見てもらいたいと考えている。余談だが、本作にはたくさんの芸者が登場するにもかかわらず、唯一色気をみせるのがこの米子だ。物語冒頭でほんの少しだけ着物がはだけているところに僕はドキッとした。子供こそいるが、生活感のない米子だからこそ、さりげないところで色気が出たのだろうか。  生活感のない米子に対して、生活感丸出しなのがつたの屋に所属する芸者の一人・染香(杉村春子)だ。つたの屋に在籍する芸者の一人で、お調子者で世渡り上手、ちゃっかりしたところもある。僕にとっては「こういう人いるよね」という、ちょっと苦手な存在だ。  本作で華の役割を担うアイドル的な存在が、同じくつたの屋に所属する芸者・なな子(岡田茉莉子)だ。中盤で披露する下着姿は、本作唯一のサービスシーンだ。  そんな彼女たちを見守る役割を果たしているのが2人の女性だ。まずは、序盤で女中としてつたの屋にやってくる梨花(田中絹代)。腰が低くて気が利く働き者で、つたの屋を内側で支える存在となる。向かいの店に女中として誘われるくらい近所の評判も良く、つた奴や勝代にも頼りにされる。彼女の視点が我々観客の視点と最も近く、狂言回し的な立場でもある。  あと一人は「水野」の女将・お浜(栗島すみ子)だ。置屋組合の顔役のようで、あれこれとつた奴の世話を焼く。終盤でつた奴からの申し入れを聞き、つたの屋を買い取る。戦前のスター女優で、本作で「特別出演」した栗島自身の芸歴と重なってか、本作を上の立場からしっかり引き締める風格が感じられる。  豪華なキャストで描かれる本作で最も感心したのは、つたの屋に住む母娘3人が家族のしがらみにとらわれていることが感じられるところだ。家族経営の商売は有利なことも多いが、家族の存在そのものが桎梏となることもあるのだ。  では、本作が楽しんで観られたかといえば、残念ながら否である。なぜか。退屈だったからだ。僕にとって、本作は冗長過ぎた。シンプルなストーリーの中に、一見同じ立場のようで実は異なる意識や目標を持つ登場人物の心の機微を描き出す。それが本作の魅力なのだが、その描写ばかりに力を入れると、フィルムとしてのテンポの良さは失われる。  本作の原作は小説である。音声や映像のない小説ならば、本作のスタイルはそのまま作品の魅力につながる。だが、せっかく映像になるのだから、映像ならではの魅力がほしいと僕は思うのだ。目を惹いたのは、前述した米子となな子のカットくらいか。あとは終盤でお浜が梨花に、自分のもとで芸者になるよう勧めながら――梨花はその誘いを断る――買い取ったつたの屋を旅館にするつもりであり、いずれつた奴たちに出て行ってもらうことを告げるシーンにオーバーラップするように三味線の練習を熱心に続けるつた奴と染香、それを(本作で初めて)虚しい視線で見つめる梨花が長く映し出されるシーンの物悲しさも印象的だが、そこに至るまでが長すぎた。もう少し内容を圧縮すれば、テンポが良くなって見やすい作品になったかもしれない(本作はそういう作品ではないと言われればそれまでだが)。
[DVD(邦画)] 6点(2024-04-08 17:40:51)
37.  すずめの戸締まり 《ネタバレ》 
総じてよくできた作品だと思う。まるで「理路整然と美しく作られた箱庭を上から見つめている」気分になる作品でもある。  地震そのものを巨大なミミズの形にシンボライズさせ(そういえばミミズは「地竜」とも言うんだよなぁ)、その発生や活動を選ばれた人間が食い止めているというのが本作の基本設定である。地震の予知と阻止は、我々現実の人間にとっても夢であり憧れだ。本作は、我々の普遍的な願望を取り入れたファンタジーとなっている。  物語の主人公は、宮崎県に住む女子高生・鈴芽だ。幼いころの不思議な記憶がある彼女は、人知れず地震を食い止める任務を持つ大学生・草太と出会う。鈴芽にとって魅力的な外見を持つ彼は、神道的祝詞を唱えたり、手で印を結んだりしながら、日本各地の廃墟にある扉(後ろ戸)から現れるミミズを封印する。ここで物語に少女マンガ的要素やヒーロー物の要素、セカイ系の要素も加わった。さらに言えば、廃墟ブームを取り入れた設定は、そこでの封印シーンが(周りに人がいないために)描きやすくてカタルシスが得られやすいというメリットも持つ。  ミミズを封印していた要石(かなめいし)はかわいらしい猫の姿となって、人目を気にせず日本各地を巡りながら北上していく。なぜか、その要所要所にはミミズが封印された扉がある。猫によって、鈴芽が子供の頃に使っていたお気に入りの椅子に姿を変えられた草太の手助けをしようと、鈴芽は扉の封印の旅に同行する。猫はあちこちで写真に撮られ、ハッシュタグをつけた形でネットにアップされ、それを手掛かりに鈴芽たちは猫を追う。ここで、物語を象徴するマスコットキャラが生まれた。ネット社会の描写を取り入れながら、ロードムービーとして物語は進んでいく。  ここまで挙げてきたように、本作には幅広い観客の目や心を惹く様々な要素が巧みに織り込まれている。観客を満足させようとあの手この手で情報を並べて入れ込み飾り立てていく。本作を箱庭にたとえたゆえんである。  実際、ミミズの封印シーンはカタルシスがある見せ場となっているし、草太に起こる中盤のさらなる悲劇は涙を誘う。少なくとも、観て後悔する作品ではない。  だが、心から満足できたかといえば、そうとは言えない。以下に二つの理由を書いてみたい。  まず一つ目の理由は、猫がなぜ鈴芽を助けるのかがわからなかったことだ。上記のように、猫はわざわざミミズが封印された扉があるところに姿を現わす。物語後半では、鈴芽の生まれ故郷に同行する。鈴芽たちは「敵」に守られながら「敵」を封印しようとしているのか。こちらとしては訳がわからなくなってしまう。こうして、後半の展開への感情移入が阻まれてしまったのだった。  二つ目の理由は、箱庭の負の部分になぞらえれば、上からきれいに見える一方でその内部に入り込めなかったことや、作品を主観的に楽しめずどこか疎外感さえ残ったことだ。  まず、本作のあちこちに散りばめられた、あまりにもあからさまな庵野秀明・宮崎駿・細田守各監督作品のリスペクトやオマージュからは、仕込み感や作り物感、メタ的感が強く感じられてしまった。  そしてそれ以上に大きかったのは、本作で鈴芽にふりかかる一連の困難が、まるで鈴芽の成長を助けるように、鈴芽の過去のトラウマを払拭させるように思えてしまったところだ。周りの様々な環境や状況、すなわち製作者によって鈴芽に与えられた苦しみが、鈴芽に試練を与えながらも同時に鈴芽を引き立てているように見えてしまったのだった。  僕はここである言葉を思い出す。「神は乗り越えられない試練は与えない」。新約聖書にあるこの言葉は、現実の様々な難題で心身が消耗している人に対して、励ましの目的で使われることが多い。本作の鈴芽は、この言葉に沿った形で描かれたのではないかという気がするのだ。  まあ、シンプルに考えれば、普通の女子高生に超絶アクションをさせることの限界が露呈しただけとも言える。男のように傷口から出血させてズタボロのケガまみれ姿にさせるのは難しいからなぁ(それをさせると作品の「色」が大きく変わってしまう)。  これまで観てきた『ほしのこえ』『君の名は。』の印象も併せて考えると、僕と新海誠監督作品との相性は良くないのかもしれない。
[地上波(邦画)] 6点(2024-04-06 18:38:09)
38.  愛人/ラマン 《ネタバレ》 
1929年の仏領インドシナ。家から寄宿舎に向かうため、15歳半の少女が貨物船に乗っていた。彼女は母親と二人の兄の四人で暮らしている。長兄が乱暴で素行が悪く、家族の悩みの種となっており、家庭内の雰囲気も良くない。 自らが選んだ男物の帽子をかぶり、物憂げな表情でデッキに立つ少女のそばに黒いリムジンが停まっている。その中から少女を見つめる男がいた。車から出た男は、少女にタバコを勧める。華僑の金持ちの息子と名乗るその手は震えていて、落ち着かない様子だ。「寄宿舎まで車で送る」という男の申し出を少女は受ける。道中では、男は少しずつ少女の手に触れ、握る。少女もそれに応えるように握り返す。 次の日、少女が寄宿舎から学校へ行こうと門を出ると、昨日の黒いリムジンが停まっていた。中の男を見た少女は、閉まっている後部座席の窓にキスをする。 学校の帰り、待っていた男の車に乗り込む少女。車はチョロン地区と呼ばれる中華街へ。外の喧騒が聞こえる広い部屋に通された少女。男はここを愛人と会う部屋と説明するが、「私は怖い」とも言う。少女は「ただ抱いてほしい」。二人はそっと、やがて激しく交わるのだった…。  本作で感心するのは、少女の心理を巧みに描き出しているところだ。  男の愛人となった少女。彼女はセックスを反乱とする。まるで、阿片に溺れて家庭内を殺伐とさせる長兄を大事にする母親や、長兄自身に対するあてつけのように、自らの体を傷つけながら肉体的な快楽をむさぼり、金銭を得る。セックスに対するこういった感情は女性特有のものであると思われる。実際、世の中にも同じように考えて行動する女性も少なくなさそうだ。  愛人生活の中、いや、もしかしたらそれより前、初めて男と出会った時からの、男に対する少女の不安定で揺れ動くような恋心や愛情があちこちのシーンから感じられるところも本作に深みを与えている。 彼女がフランスに帰ることになり、男と別れる段階になってからようやく男への複雑な愛と、それが成就しない悲しみを自覚し始めるところも若干ドラマ的ではあるが、決して悪くない。  一方、男の描写は、少女のそれに比べるとソフトな――あえて強く言えば浮世離れした――描かれ方がされているように感じる。 緊張しながらも少女と愛人関係を結んだ男。頻繁にセックスする二人だが、そのプレイはどこか緩慢に見える。 父親の決めた相手との結婚をすることになった後、自らの欲望や気持ちを優先せず、少女の気持ちを考えるようになってしまうと、「僕を愛していない君は抱けない」と心を閉ざしていき、やがて性欲も消える。 少女の長兄が阿片でかかえた借金と渡航費を負担する。盛大な結婚式が終わり、少女が乗ったフランス行きの客船を黒いリムジンの中から(少女が見つけてくれるとは限らないのに)見送る。 こういった男の描写は、女性が好む、女性向きの描写のように思えてしまう。 原作が、フランスの女性作家による自伝的小説であることも大きく関係しているのであろう。本作のターゲットは女性なのではないか。  僕の結論。本作は女性向けである。男性側から考えると、女性の心理を知ることができる映画であり、女性と観ると盛り上がれる映画であるかもしれない。だが、心から楽しめる映画とは言えない。
[ブルーレイ(字幕)] 6点(2020-06-12 16:58:19)
39.  蜘蛛巣城
この作品のために作られた城のオープンセットをはじめとして、多くの馬や役者などからは、時間や手間、お金をかけているのが伝わってくる。こういった点は、黒澤作品ならではのゴージャス感として高く評価している。また、ラストでの、矢で串刺しになる主人公、鷲津武時の死にざまは、壮絶で美しく、そして迫力満点で、強く印象に残るものだ。しかし、その他の面においては、多くの不満が残る作品だったのも事実だ。まず、ストーリーに関して、理解はできるのだが、物の怪の妖婆の登場で見方が分からなくなってしまった。おとぎ話として観ればいいのか、実際にあったことのようにリアルな視点で見ればいいのか、それが僕の中で定まらないまま、作品が終わってしまった。つぎに、映像面に関しては、重厚ではあるのだが、シーンによってはバッサリ切れるだろうと思われるカットがあったり、明らかに間延びしているカットがあったりして、映像の流れと気持ちがシンクロ出来ず、気分が高揚しなかった。この原因としては、ゴージャスに作りすぎたために、編集段階で切り詰めることができなかったのかな、と勝手に想像している。それから、能などの伝統芸能を演出に取り入れていることに関しても、それが映像作品としての完成度を上げているかと考えると、疑問が残る。上記の、不要と思われるシーンやカットと同様に、その演出が、作品と僕の心のシンクロを阻んでしまったからだ。もっとも、これに関しては、伝統芸能に対する僕の素養が足りないのかもしれないし、この作品の公開当時と現在とでは、いわゆる一般大衆の、伝統芸能に対する経験値が違うのかもしれない。あと、人物描写で言えば、主人公の妻の浅茅には、最後まで強いままでいて欲しかった。主人公に主君の殺害を吹き込む前半と、殺害時に付着した手の血の幻を洗い流そうとする後半で、その描写が、明らかに齟齬をきたしてしまっている。最後に、音響面に関して述べてみたい。作品鑑賞の前にこのページを読んだところ、セリフが聞こえにくいとあったので、最初から字幕をつけて観ることにした。字幕によって、画面全体は観にくくなったが、ストーリーが追いやすくなったのは良かったと思う。それにしても、一番聞き取りにくかったのが三船敏郎の声というのは、意外と言えば意外だったかな。
[ブルーレイ(字幕)] 6点(2016-05-05 00:55:31)
40.  借りぐらしのアリエッティ 《ネタバレ》 
水の描写や音響、音楽は見事。ですがラストの、引越しをせざるを得なくなったアリエッティ達と、翔との別れのシーンには引っかかりを感じ、スッキリ出来ませんでした。そのシーンだけを抜き出せば、それなりに感動的なのですが、それまで様々な原因をつくったお互いが、とってつけたように涙でお別れをされてもねえ…。全体的なストーリーの構成に問題があるのではと思います。
[映画館(邦画)] 6点(2010-07-17 23:43:52)
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