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ユーカラさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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521.  わたしを離さないで 《ネタバレ》 
寄宿学校以外の世界を知らず、また精神の存在自体を問われる設定の主人公として、児童期から青年期を繋ぐキャスティングは重要なポイントとなるが、その点とくにキャシーを演じるイソベル・メイクル=スモール(少女期)とキャリー・マリガンの相似とキャスティング・リレーはほぼ完璧といって良いのではないか。  両者共に、意思的でありながら柔らかな佇まいにおいても通じ合い、一見淡白な身振りの中に秘めた思いを滲ませている。  二人の女優が、それぞれベッド上で想いを押し留めるように胸に手を当てながらプレゼントのカセットテープを聴くシーンの切ない情感がいい。  劇中、ヒロインを唯一照らし出す陽光は黄昏の残照のみ。 鉄線に絡みついたビニル片が風に揺れる、夕暮れの丘。 廃船が一隻打ち上げられている鈍色がかった海岸線。  共に、世界に抗うことの出来ない小さな存在を象徴するアイテムとして原作にもあるが、その忠実な視覚化という意味でロケーションの貢献も大きい。 
[映画館(字幕)] 7点(2011-06-19 20:40:23)
522.  月あかりの下で ある定時制高校の記憶
卒業式の「涙そうそう」に被せて挿入される思い出のフラッシュバック。担任からのメッセージを聴く生徒の表情へのズーミング。これらの「感動」演出はあまりに通俗的で品が無い。 公的な場であることが、撮影四年越しのクライマックスに至ってカメラの自重と緊張感を奪っているのではないか。  逆にこの映画は、日常の彼らの姿を捉えたシーンこそ輝いている。  例えば中盤のシーン。 ナオミと呼ばれる少女が、太鼓の練習の休憩時間にそっと場をはずす。 カメラは彼女を追い、ゆっくり階段の踊り場まで登っていくが、そのフレームが捉えるのは踊り場の壁と彼女の影のみ。「どうしたの?」という監督の声。続いて彼女の嗚咽が聞こえてくる。 カメラは壁と彼女の肩だけを捉えている。ここでナレーションによって彼女の家庭事情が語られるが、カメラは彼女の座りこんだ姿を一瞬だけフレーム内に入れ込むと、ゆっくりと後ろ向きに後退していく。 撮影者=監督は、彼女に寄り添い、肩を抱くことを優先し、彼女を撮らないことを選択した。 浦商の生徒や教師と同様、「撮ること」と葛藤し、悩みためらいながら関係を築いてゆこうとするカメラの誠実な揺れが胸を衝く。  映画は、本来ならばドラマティックな「見どころ」となるべき場面を何度か事後ナレーションですましている。 それは単なる省略ではもちろん無く、上記の1シーンに露わな様に繊細な感性を持つ彼ら「撮られる」側の苦痛を知り、デリケートで重要な人間関係の場には安易にカメラを踏み込ませまいとする倫理的な決断ゆえだろう。  彼女らの過酷な境遇。自傷のエピソードを自ら明るく語る彼らの真の苦しさ。それらは決して画面には表れてこない。 そこをこそ、観る側は汲み取りたい。 
[映画館(邦画)] 8点(2011-06-19 17:53:38)
523.  八日目の蝉 《ネタバレ》 
例えば、施設から脱出するシークエンスで窓や鉄条網に対して永作博美がどのような所作によって娘を護り、どのように庇いながら封鎖を抜け出るか。そういう細部の動作によってこそ観る側に彼女の情愛を伝えることが出来るはずなのだが、そうした部分の演出が手薄である。 単に脱出の絵解きでしかない。  また、特に井上真央の台詞に削るべき部分が多い点、歌のモチーフの連携が活かしきれていない点なども気になる。  しかし、最後に登場する島の写真館の異空間ぶりと緊張感は素晴らしい。 寡黙な館主(田中泯)の超越的な存在感。 撮影用の長椅子に座る永作博美と渡邊このみの手と手が交わす授受のアクション。 オフ空間から静かに聞こえてくる波音。その波音が、高台や浜辺やフェリーから見た「キラキラ光る」海のショットと、その情景に結びつく二人の交流の記憶を観客にたいしても呼び覚まさせる。  井上真央は暗室の中で、黒く不鮮明なネガを「現像」する手続きを経なければならない。 現像液の中に滲み出るように浮かび上がってくる二人の記念写真。(「ネガ」から「ポジ」への直喩的転換)  そして写真館を飛び出して歩む彼女の力強い闊歩が良い。 (小豆島の浜辺、自転車、唱歌、記念写真は『二十四の瞳』に連なる映画アイテムでもある。) 
[映画館(邦画)] 6点(2011-06-13 22:10:05)
524.  少女たちの羅針盤
忽那汐里の提案によって四人が公園のブランコに乗る短いシーンは当然ながら原作小説にはない、ロケーションを活かした映画オリジナルのささやかな設定である。  それは四人の一列横並びと、ブランコの振り子運動、そして吊り手を握りしめる拳を映画表現する為のものと思ってよい。  謎解きの理屈は原作の領域に過ぎない。言語の行間を如何に実景化し、如何に画面にのせるかが映画の要であり、この作品はそこが充実している。  岸壁で夕陽に見惚れるシーンの横並び、公園の噴水でのじゃれ合い、衝動的な疾走と絶叫、健気な「手」のアクションなど、小説の記述では成し得ない映画ならではのエモーションにことごとく打たれる。 喜怒哀楽の内心を紋切型の表情演技で表出させない、微妙に屈折やコンプレックスが入り混じる女優たちの思春期の相貌もとてもいい。  四人はあるときはバラバラな方角を向き、あるときは求心的に向き合って手を重ね合い、そして横一列に並んで一方向を見つめる。  座り方、立ち方で各キャラクターの個性差を提示しながら四人を一画面内に収める配置はバラエティ豊かで、かつ的確だ。  舞台上で手を繋ぎ合ってスポットライトを浴びる四人のシルエットの画も美しい。  
[映画館(邦画)] 8点(2011-06-11 19:07:59)
525.  ツーリスト
燃えカスとなった紙片のコンピュータ解析や、列車~本部間での顔写真照合を駆使するハイテクチームに対し、メトロの人波を計算して悠然かつ優雅に尾行グループをまいていくヒロインの貫禄が痛快で楽しい。 常に男の上手を行く対話劇も面白い。  一方の『間違えられた(?)男』ジョニー・デップは、ヒッチコック作品のケイリー・グラント的な鈍臭いアクションや非技巧的な演技設計に逆に技巧が透けてしまうのが難点か。  観光名所でのロケーションに、列車内での男女の出会い(『バルカン超特急』他)に、絞殺(『ロープ』)、屋根上のチェイス(『泥棒成金』、『めまい』)、パーティ(『汚名』)そして窓を通した監視(『裏窓』)と楽しい要素は数多く、またふんだんな空撮も豪勢感があって良い。 
[映画館(字幕)] 6点(2011-06-07 23:14:33)
526.  戦火のナージャ
広大なロケーションと膨大なエキストラを武器とした旧来的な物量志向に、現代ハリウッド的なCG加工が微妙に織り交ざる戦争アクションが見所。 橋梁、赤十字船、強制収容所をシュトゥーカが急降下爆撃するモブシーンも旧ソ連戦争大作を思わせるスケール感であり、酷寒の大雪原で、白煙と濃霧の中を飛び交うドイツ戦車の砲撃光の明滅も迫真性満点だ。  中でも、納屋に押し込まれた村人たちがドイツ軍の火炎放射によって焼き討ちされるシーンの凄絶な業火が痛ましい。  しかしそうしたスペクタクルシーン以上に、オレグ・メンシコフがピアノ演奏を強要されるスターリン邸のシーンや、身内を虐殺されたジプシーの娘がドイツ兵の銃口を前に一人踊るシーンの静かな恐怖感の演出こそ、ミハルコフ監督の真骨頂だろう。  時間軸を必要以上に錯綜させる構成に妥当性を見出すのは難しいが、大幅にカットが施されているという日本公開版では仕方ないか。  『太陽に灼かれて』に続いて主演するナージャ・ミハルコフの従軍看護士としての活躍が不足気味に感じられてしまうのも、恐らく短縮版ゆえだろう。
[映画館(字幕)] 7点(2011-06-05 01:04:42)
527.  アジャストメント
追手と妨害をかわして、ドアの合間からエミリー・ブラントのダンスを「見て」しまうマット・デイモン。 マット・デイモンの語る真相に混乱を来しながらも、ただ彼と「見合う」ことで彼を信頼するエミリー・ブラント。 親密な眼差しこそが男女の運命を決していく。  古典的な切り返しによって結び付けられる二人の視線。そのシンプルな二元論的編集が二人の運命的な愛の成就を予告する。  「人を見ること」=「人を愛すること」という古典的スタイルの直截なあり方がいい。 同じく、ブラフとしての台詞(理屈)をことごとく裏切っていく画面の、シンプルな活劇性がいい。  ソフト帽をかぶり、ドアからドアへとマット・デイモンは無我夢中でひた走る。 (選挙対策のような)知略も作戦も捨て、ただひたすら疾走することによって愛を獲得する。その無謀の運動性こそ映画らしい。  夜の路地で競争する二人の楽しそうな笑顔も良かった。 
[映画館(字幕)] 7点(2011-06-03 23:17:44)
528.  トゥルー・グリット
秋口の景観が印象的なヘンリー・ハサウェイ版(69)とは大きくトーンを異にし、こちらは原作に忠実な冬枯れのロケーション。 粉雪が風に舞う山岳地帯の寒々しさがいい。 黒の濃い「夜用の夜」によるナイトシーンも増え、映画のルックは現実的で渋く冷たい。  シネスコ画面を活かした(『許されざる者』的)長大な地平線のライン、スコープ内の像と空砲の音響の時間差、そうした劇空間の広大さや距離感の演出も徹底している。  その中で、ジェフ・ブリッジスが傷ついたヘイリー・スタインフェルドを搬送する夜の画面が美しく味わい深い。  夕景から夜景へと移り変わる地平線を馬が駆けていく夢幻的なイメージの連鎖と、娘が星空を背景にした「父親」を仰ぎ見るショットの古典的画像処理は一際輝いている。  一方で、より「叙事詩」的となり人間ドラマに傾注した感のあるコーエン版は、ハサウェイ版でジョン・ウェインが酒瓶を指に引っ掛けてグイ飲みする粋な仕草や、馬上でライフルを回転させる手捌き、キム・ダービーが急坂を転げ落ちる動作といった(内面性を伴わない)西部劇的アクションの大らかな魅力を必然的に欠いてしまってもいる。 
[映画館(字幕)] 7点(2011-05-21 17:42:49)
529.  ブラック・スワン
明らかにそれと判るデジタルエフェクトほど無粋なものはない。 観客が気付かないぐらいが効果的なのであって、過度に充血した眼やら、鳥肌やら、自傷やら、大仰な効果音付で繰り返されればさすがに興も冷める。  二次加工も半端に使われてしまうと、実写画面への信頼性すら揺らぎかねない。 『タイタニック』でレオナルド・ディカプリオらが踊ったアイリッシュダンスのように、モーフィングによってダンサーの下半身と俳優の上半身を繋ぐ事などもはや造作もないのだから。  ダンスシーンの、演者に肉薄していくような手持ちキャメラワークを始め、役者の身体性と演技に拘るのなら尚のこと、過剰な特殊効果は控え、出来る限り役者の生身だけで勝負してくれなければ価値を減じてしまう。  つきつめていけば、「演技賞」とはどこまでを言うのかという事にもなる。  地下鉄の車窓、ドレッシングルームや稽古場の大鏡の錯覚的な重層性と迷宮感。CGの援用はこれらに限定するだけで十分かと思う。 
[映画館(字幕)] 6点(2011-05-15 20:49:56)
530.  エンジェル ウォーズ 《ネタバレ》 
妄想なのだから、架空のカメラワークでも、物理法則無視でも、誇張アクションでも良いのだが、その肝心のアクションにいわゆる「ツメ」「タメ」といったアニメーション的ケレンもハッタリのセンスも衝迫力も感じない。 手垢塗れのスロー・クイックモードを濫用して奇を衒おうとするのだが、動作の中で施すべき箇所を取り違えているように見える部分が多々ある。だから、殺陣アクションがメリハリも快感も伴わない。 というより、そもそもシチュエーションに危機感もなければ痛覚の演出もないから、どうでも良くなってくる。 当然ながら、ヒロインがコックの喉元にナイフ一本を突きつける厨房シーンのほうがまだアクションとしてのスリルがある。 意匠とイメージ先行で、デジタルエフェクトの陥穽に嵌っているというべきだろう。  図面を必要とする程の複雑構造の病棟なら、その建築物の空間的ディティールをアクションや芝居場に活かすべきだろうに。 火炎も脱走経路も印象が極めて薄い。 
[映画館(吹替)] 4点(2011-05-07 16:34:52)
531.  あしたのジョー(2010)
俳優が役柄に似せて熱演する、増減量と鍛錬で体格をつくる、体技を披露するといった役作りレベルなら格別な感動はない。 伊勢谷友介が「役を演じる」フィクション性と「役を生きる」ドキュメンタリー性が綯い交ぜとなった、その意思的なフォルムが他を圧倒している。 役柄上のライバル関係を演じる主演二人の対抗と信頼の関係性もまた競演の中で重なり合ってくるところがこの映画の面白さだ。 しかるに、肝心のボクシングシーンは映画的なアクションとして画面を運動させているとは云い難い。 同じスローモーションでも、イーストウッド『インビクタス』のそれが伝える運動感・重量感・獣性とは天地の差だ。 しっかりと汚しが施された衣類や小道具、ジムの内外装やバラック集落などの美術単体では味があって見事ながら、一方でそれらを薄暗い照明の酷さが台無しにしているのにも通じる。 あるいは女優への演出の不在。香里奈には役柄以上のものが何も示されないのもどうなのか。  
[映画館(邦画)] 5点(2011-05-03 16:43:46)
532.  RED/レッド(2010)
質素な居住空間の中、6時起床、7時朝食、12時昼食の定時行動を示すショットを反復した上で、翌日早朝の異変を旋回のショットと時計のショットとで仄めかす。 ここで示されるブルース・ウィリスの鋭敏な時間感覚の設定は、カール・アーバンとの電話の逆探知シーンやCIA本部の脱出シーンでの伏線ともなる。  フライパンで炒られ暴発寸前の銃弾や、蜂の巣となる家屋から悠然と歩み出てくる主人公の図が、波乱の幕開けの演出として効果的だ。  ハイテク対ローテク、理論対経験則、理性対直感といった頭脳戦の要素は薄く、CIA本部の包囲網脱出のアイデアなどを始め、『レオン』や『ミッション・インポッシブル』の二番煎じで意外性がなく物足りないが、強引な力技も悪くはない。  特に3人のREDがそれぞれ見得を切る射撃シーンの貫禄がいい。 旋回する車を降り立ち、躊躇無くカール・アーバンの車に弾丸を撃ち込んでいくブルース・ウィリス。 炎上する貨物を背景に仁王立ちで暗殺者と対峙するジョン・マルコビッチ。 そして、白いドレスを纏い瞬きひとつせずにマシンガンを撃ち込むヘレン・ミレン。 銃撃の反動にも姿勢を崩すことない、その立ち姿が凛々しい。  廃車にカモフラージュした隠れ家といったアイデアなども奇抜で楽しい。  
[映画館(字幕)] 6点(2011-04-30 16:01:42)
533.  塔の上のラプンツェル 《ネタバレ》 
ラプンツェルが危機一髪で崖からジャンプする瞬間と、刑場に引かれていくユージーンのショット。映画の中で二箇所限定で用いられたスローモーションの沸き立つような高揚感。 あるいは的確なクロースアップ、POV、移動ショット、ジャンプカットと、洗練された映画的ショットと編集の宝庫ともいえる。落下運動の向地性と無限上昇運動としての浮遊を対比的に活かしたアクションの緩急と、光の見事さ。 ティアラの輝きと透明感の表現力は、ディズニーの伝統を着実に受け継いでいる。 画面の充実は、エンドクレジットに記されたレイアウトやライティング担当スタッフの豊かさにも明らかだ。  語りを含めた完成度の高さを十分認めた上であえて欲をいうなら、離れ離れとなった二人が塔の上で再会するクライマックスにかけてはそれに相応しいもう一段の困難と試練が欲しい。  落下と振り子運動をダイナミックに駆使した、中盤までの縦横無尽のアクションシーンがあまりに素晴らしいだけに、二人が互いを求め合うクライマックスでは塔の高低と構造を活かしたよりドラマティックなアクションが間違いなく出来たはず。 『カリオストロの城』の時計塔や、『長靴をはいた猫』の魔王城のような。 
[映画館(吹替)] 8点(2011-04-26 22:32:02)
534.  ザ・ファイター
マーク・ウォルバーグがみせる、ブランク時とリングシーンの体格調整アプローチは『レイジング・ブル』のデ・ニーロを意識したか。  クリスチャン・ベールの演技も、擬斗シーンの打撃の効果音も過剰気味で今ひとつ面白くないが、母親(メリッサ・レオ)が父親(ジャック・マクギー)に投げつけるフライパンや、左拳を折る警棒のほうは痛々しくていい。  役者に対して主舞台となるホームタウンの印象も薄いが、それぞれ二階建ての家の造りなどは独特で面白い。この映画では玄関先がドラマの場だ。  マーク・ウォルバーグが再起を決意し歩き出す朝の玄関先、クリスチャン・ベールがエイミー・アダムスらを背に歩み去る玄関先の道。その無言のシーンが、饒舌な映画の中では活きている。  ミット打ちのリズミカルなコンビネーション、パンチングバッグの連打音、そして玄関先での呼び鈴の応酬なども、挿入曲と併せて音楽的でいいけれど。
[映画館(字幕)] 6点(2011-04-23 23:57:45)
535.  ブンミおじさんの森
大雑把に三部に分けられる構成には侯孝賢の『百年恋歌』のような趣がある。  熱帯林の緑の濃淡と、湿潤の感覚。裸電球の下で食卓を囲むショットとフレームへの人の出入り。エピローグのPOPミュージックなど等、、。  小さな滝と水流の幽玄性、中国茶の入ったガラスコップに木漏れ日を美しく反射させる採光などは実に繊細だ。寝室の蚊帳は幾度も画面に淡く美しい紗をかける。 水と小魚の鍾乳洞のイメージなどは母胎のメタファーそのままだが、まずもって具体の画面として吸引力がある。  冒頭から豊かに響く生命の気配の濃密さ。静かな地鳴りのような音響へと変わり、それが途切れた瞬間に引き立つ静寂、その音響が緊張を孕みながらも心地よい。 あるいは足を患うジェンの不自由な足取り、水牛、犬、精霊の佇まいもまた静かな緊張感を終始漲らせる。  赤い目を光らせる「猿の精霊」の造型はどこか宮崎駿の描く神人の影響などもおぼろげに感じさせる。 暗い洞穴の中で輝く、星のような鉱石の光。その美しいイメージはまさに『天空の城ラピュタ』の一場面の優れた実写化だ。
[映画館(字幕)] 8点(2011-04-18 23:01:37)
536.  ヒア アフター
兄を失った少年が里子に出されるシーン。屋外から遠く雷鳴が聞こえてくる。続く逆光の窓には雨が降り始める気配がする。里親に預けられる事となった少年が外に出ると、雨上がりの濡れた路上に陽光が反射している。  何気ない地味なシーンが、降雨と雨上がりの光の丁寧な描写によって何故か忘れ難い。  他には、階上の部屋から窓外の暗い街路を見下ろすマット・デイモンのショット。彼の乗った旅客機がロンドンに向けて離陸していく夕景のショット。階段に座り込むブライス・ダラス・ハワードのショット等など。  物語上の軽重にも画面の濃淡にもかかわり無く、幾多のショットが深い叙情を湛えて脳裏から離れない。  それは主として対象への光の当て方に表れる作り手の思い入れの強度からだろうか。  マット・デイモンやマクラレン兄弟がベッドに横臥するモチーフ的なシーンで、彼らの頬を照らすベッドサイドのシェードランプの薄灯り。少年の頬を伝う涙を小さく美しく輝かせる癒しの光などは繊細の極みだ。 
[映画館(字幕)] 9点(2011-04-10 22:21:43)
537.  ウォール・ストリート
バイクを運転しながら、ヘアカットしながら、トレーディング・フロアを速歩しながら。携帯電話を駆使しての、せわしない「ながら対話」の生み出すリズム感と運動感。  点描されるマンハッタン遠望は、株価チャートになぞらえた右肩下がりの凹凸運動に転化され、父娘と恋人の和解は階段の段差の中にバランスが見出されていく。  冒頭でビル街を一気に上昇していく圧巻のカメラは、ドラマの市況状況に連動して上昇と急落を繰り返し、ラストで新たなバブルの緩やかな浮上を仄めかす。  デスクに置かれたコンピュータのディスプレイ群、キャラクターの人間性を示唆する衣装デザインも、業界の虚栄を華麗に視覚化している。  監督本人、チャーリー・シーン、イーライ・ウォラックのふとした出演シーンの愛嬌が映画を大いに和ませてくれて楽しい。(携帯電話の着信音楽が憎い。) 
[映画館(字幕)] 7点(2011-03-06 21:14:16)
538.  トスカーナの贋作
検閲の厳しいイランを離れ、イタリア・ルネサンスの地で表現される女性のエロティシズム。 それをジュリエット・ビノシュが艶めかしく体現する。  車のフロントガラスを流れていく街並みと空、そこに重なる車内の男女の像。ガラスや鏡を介した複写の主題も、レストランの窓ガラスや化粧室の鏡から、オートバイのミラーへの反射に到る細部まで手が込んでおり、迷宮感すら催す。  ウィリアム・シメルが登ってゆくホテルの階段の深い暗がりと、窓から差し込んでくる微かな陽光の推移など、光に対する感性あふれる画面にも魅了される。  画面奥の空間を示唆する多層的遠近感の演出も、ルネサンス絵画技法の映画版というべきか。  そして、雷鳴・風音・鳥の羽音・鐘の音色がもたらす豊かな空気の震えも聞き逃せない。 
[映画館(字幕)] 8点(2011-03-05 21:51:41)
539.  ザ・タウン
まず賞賛すべきは路地カーチェイス、ガンアクションの見事さ。 適度にカットを割りながらも、右左折は丁寧に編集で繋がれ、空撮やロングの適切な挿入にもよって、経路と位置状況が明瞭に提示出来ている。稀有といって良い。 銃撃戦において、壁面への弾着と人物を出来る限り同一ショット内に捉える迫真性の演出も徹底されている。 いずれも、舞台となる「街」をアクションの中に描きこもうとする意思からくる。  アクションシーンに限らず、菜園・墓地・尖塔・スケートリンク・銀行前の路地・コインランドリーと、生活感のあるロケーションがドラマパートにも効果的に活かされている。その中で、水辺を歩くレベッカ・ホールの後姿のショットが幻想性を帯び印象深い。  あるいはオープンカフェのシーン等のサスペンス演出。席を外したR・ホールが戻ってくる際の、三者の表情を捉えるさりげないショット繋ぎの妙が緊迫感を煽る。  ベン・アフレックと、ピート・ポスルスウェイトの至近距離の銃撃戦。その突発性もいい。  
[映画館(字幕)] 7点(2011-02-13 22:14:03)
540.  白夜行 《ネタバレ》 
導入部の土砂降りの雨、索漠とした葦原など、銀残しによる寒色系で統一された硬質な画調に味がある。うらぶれ感の良く出た住宅街の美術もいい。  掘北真希の纏う冷たい純白の陽と、通風ダクトの闇に魘される高良健吾の陰。 手にこびり付いた父親の血、現像用暗室の赤、ワインの赤は、流血の運命を予告する。  警察車両3台が、農道を延々と横移動するロングテイクなどには気合が感じられるし、刑事(船越英一郎)が電話しているテレフォンブースの後景や聞き込み中の託児所の窓ガラスにさりげなく人影を映りこませたり、掘北の足音をオフで響かせる演出なども工夫されているのだが。  終盤の謎解きシーンで語り口が一気に陳腐化してしまうのが勿体無い。『砂の器』的に感傷を煽る音楽と補足説明が安易で興ざめさせられる。  折角、実子とのシーンを台詞無しで積み重ねてきたはずが、船越の屋上での台詞過多もこれを台無しにする。残念。 
[映画館(邦画)] 5点(2011-02-12 20:19:44)
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