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onomichiさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 404
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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41.  死ぬまでにしたい10のこと 《ネタバレ》 
とてもグッとくる映画だった。この映画は一種のファンタジーだと思う。  彼女はまだ23歳の女性だ。17歳で子供ができ、まともな恋愛も経験していない2児の母親である。夫は失業しており、自身は夜勤パート。昼間は寝ていて夕方と朝に夫と子供に触れ合う生活。低所得居住の象徴たるトレーラー暮らし。母親も父親もそれぞれ別々の移民系で、父親は刑務所にいる。ただ、生活に追われながらもそれなりに充足する毎日。それが主人公のバックグラウンドとしての現実である。僕らはその現実を理解できるだろうか? 感情移入できるだろうか? それはそれとして、実はその現実そのものを描くようなシリアスな作品を作るのは容易いことだ。しかし、それは当然のことながら製作者の本意ではない。それと同じように彼女の死に至る過程、病状や告知、闘病生活を描くこと(いわゆる難病もの?)も本意ではないと僕は思う。 「私のいない私の生活」それが原題である。さて、私がいなくても私の生活があるのだろうか? それがこの映画のタイトルに込められた作品のテーマではないかな。その時の「私」とは一体誰のことだろうか? この作品の主人公の境遇は上記に述べた通りであるが、何故、彼女が主人公に選ばれたのだろう?  この映画で印象的だったのは最初と最後のモノローグである。 人は死ぬ時にひとりであることを強烈に自覚するに違いない。私がひとりの私であること。孤独。普段、僕らは生活の中でいろいろな関係性を生きている。(それが人間というものだから) しかし、その関係性の中にいる自分という人間、「私」を疎かにしていないだろうか。孤独を感じたくないが故に「私」を見殺しにしていないだろうか。 「死ぬまでにしたい10のこと」というのは印象的なタイトルであるがそれほど重要なことのように僕には思えない。彼女は「私のいない私の生活」を想像し、それを生きる決意をすることにより、「私」を得たのだと思う。それは楽しいことではない、とても辛いことでもあるのだけど、その実感こそが、彼女の現実を価値あるものにしたのではないだろうか。  最後に、、、母親役のデボラ・ハリー。存在感がありました。そして、隣人のアン役のレオノール・ワトリング。すごく魅力的な人だと思ったら、『トーク・トゥ・ハー』の彼女だったのですね。ショートカットもよく似合います。
[DVD(字幕)] 10点(2008-03-06 02:07:48)(良:3票)
42.  それでもボクはやってない 《ネタバレ》 
いい映画だと思う。映画というのはそもそも主観的で恣意的なもの。中立である必要性は全くないし、そうあるべき意味もない。 この作品を一方的な見方で糾弾することは簡単だけど、これってそんな簡単な作品なのかな? ものごとを単純化してしまうと本来そこにあるはずの多様性を感じることができないと思う。中立であるべきなのは僕らであって、必ずしも作品の方ではない。 僕は多少首をかしげるところもあったけど、概ね作品の流れには感心した。主人公は痴漢をしたのか、していないのか、それを真実と言うのならば、結局のところそれは主人公以外に分からない、ということが最後に分かったのである。判決はあくまで有罪であり、それが事実の結果なのだから。ラストの宙吊り感は作品に深みを与えていると思う。 
[映画館(邦画)] 8点(2008-03-06 02:02:39)(良:2票)
43.  ロッキー・ザ・ファイナル 《ネタバレ》 
実は、『ロッキー・ザ・ファイナル』こそは『ロッキー』の30年ぶりの続編として捉えるのが妥当なのではないだろうか。この映画では冒頭から『ロッキー』の名場面がその所縁の場所とともになぞられ、ロッキー自らの口からその思い出話が語られる。『ロッキー』の端役であったスパイダー(ロッキーにバッティングを食らわせ、逆にKOされる作品最初の対戦相手)やリトル・マリー(酒場からロッキーに連れ戻され、道すがら説教を受ける不良少女)が印象的な役として30年を隔てて蘇る。まさに『ロッキー・ザ・ファイナル』は『ロッキー』へのオマージュとして作られた作品であることが僕らに示されるのであるが、それはまた30年ぶりの『ロッキー』の焼き直しでもあった。確かに30年の年月は鈍重で長い。60歳のスタローンがもう一度『ロッキー』の世界を再現する、そのことに対する世間の手放しの賞賛もよく理解できるが、やはりボクシングはそんなに甘くない。本来それは自分自身に対する大きな投企であり、そこから湧き上がる歓喜であり、それを飲み込む恐怖であるべきものである。当然のことながら60歳のロッキーは若くないし、ある種の生き難さ、もどかしさ、焦燥感、人生に対するラディカルな切実感も30年前に比べて薄い。(そういうものを全て包んでくれたエイドリアンもいない)しかし、まぁそれはそれでいいのかもしれないと僕は思っている。それが今回の60歳のロッキーなのだから。 僕らが『ロッキー・ザ・ファイナル』にベビーブーマー達の人生の岐路、第2の人生とでも言うべきイメージを重ね合わせてみてしまうのは致し方ない。もちろん、ロッキーの言葉はとても説得的なので世代を超えた共感も得られるだろう。しかし、逆に言えば、それが『ロッキー』から30年という年輪を経た現代の教訓的な教条主義(お説教)でしかなく、この物語は結局のところ、(60歳のプロボクサーと世界チャンプとの接戦という破天荒さとは別に)そんな教科書的な感動話の枠組みに行儀よく収まってしまうように思える。また別の見方として、この映画は、60歳のロッキーが30年前の自分の姿をなぞってみせたものの、そこにかつての切実感はもうなく、失われた熱情だけがあった、というように僕には思えた。確かにそれが年をとるということであり、それは否応なく受け入れざるを得ないことなのだ。 
[映画館(字幕)] 7点(2007-05-03 09:45:06)(良:1票)
44.  アカルイミライ 《ネタバレ》 
明るい未来ではなく「アカルイミライ」である。それは決して約束された未来、誰もがその輪郭をイメージできる立体感のある未来ではなく、戯画化されフラット化した「アカルイミライ」である。その「アカルイ」は本当に「明るい」のだろうか?ゲーム的なリアリティに意味を見出さざるを得ないような社会が真っ当に明るい未来なのだろうか?2極化した社会。その断絶は年々広がり、自らの価値観の中でしか現実が選択されず、オンリーワンであることに自足して閉じこもる一部の若者達。彼らの(そして僕らの)目の前の未来はとても暗澹としているように思える。  この映画の主人公、仁村はそんな一部の若者達を象徴する存在として描かれる。しかし、仁村に信頼される年長の有田守は、そういった現代的な等価交換的な考え方の染み付いた若者達とは一線を画する存在であるように思える。彼は、「待つこと」と「行くこと」の意味を理解している。有田守は自白によって殺人罪で逮捕されるが、実際の行為は描かれず、理由は明らかにされない。その場面では、殺されて横たわった夫婦と家を飛び出し歩いている少女のみが映し出され、有田守は何かを庇って罪を犯したか、又は罪そのものを被っているのではないかということが暗示される。(そう考えなければ彼の人物造形と行動が物語として矛盾する) そして彼は「待つこと」と「行くこと」の重要性をメッセージとして残しつつ沈黙と共に自死を選択する。 結局のところ、仁村は、有田守やその父親に導かれるように「生きる」ことそのものが、「待ち」そして「行く」ことであることを理解する。そうであれば、仁村は「許され」、癒されるべき存在であり、その未来を自ら進み、掴むことができるであろう。 同じようにゲバラTショーツを着た少年たちや両親を失った少女に明るい未来があるだろうか? この映画はそれを「アカルイミライ」と称し、決してその希望と可能性を失うべきではないと宣言しているように思える。有田守やその父親、そして仁村も、結局のところ、その少年少女達の「アカルイミライ」を保護し、承認する存在として描かれていると僕には思えた。  そして、僕はこの希望的「ミライ」を支持したいと思う。黒沢清のメッセージはこの作品から強く僕らに伝えられる。僕はゲーム的リアリティよりも、やはり人間的なリアリティを信じたい。それがどんなに狭く光微かな道であっても、である。
[インターネット(字幕)] 10点(2007-04-20 23:08:24)
45.  ロスト・イン・トランスレーション 《ネタバレ》 
この映画、実は現代版の「東京物語」とも呼べる。元々、ソフィア・コッポラは東京という街をアメリカ人が迷い込む異国の地、自発的な孤独を生み出す環境として捉えているように思うが、それは正に小津の『東京物語』の主題でもあったはずである。これはある意味で外国人を主人公にすえたからこそ描かれ得る、本来的な「東京」の姿なのであるが、僕らはもうそういった見立てというか作為なしに、都市としての東京に現代的な物語としてのリアリティを感じないのかもしれない。確かに東京という物語は矮小化し、偏在化しつつあり、それはもう「東京」でなくても全く構わないとも思える。 本当の『東京物語』であれば、東京という場所における笠智衆と原節子の立ち位置が小津の世界観として一番しっくりくるが、それがこの映画では逆転<笠智衆がスカーレットで、原節子が都市生活に疲れたビル・マーレイ>しているところがアメリカらしい彼らの基本的なイノセンスの構図<子供こそが穢れなき存在であること>なのだと言える。そう考えれば、スカーレットの異様な子供っぽさも理解できるような気がするが、それを現代社会というタームに照らし合わせてみれば、また別の意味での新しさをも想起させる。 『ロスト・イン・トランスレーション』は都市という孤独を鮮明に描こうとするが、孤独は現代という空間であまりにも無自覚に受け入れられている為にその悲哀の輪郭はとてもぼやけている。抵抗しつつもそれを受け入れざるを得ないこと。それがたぶんビル・マーレイの悲劇であり、スカーレットの常態なのだろう。その受け入れ方の違いはある意味でとても切実である。 
[DVD(字幕)] 8点(2007-04-20 23:06:26)
46.  パフューム/ある人殺しの物語 《ネタバレ》 
この物語、副題には『ある人殺しの物語』とあるが、実はそこに「物語」がない。主人公は匂いをもたない人間であり、それは同時に自己が希薄で「こころ」がないことを示す。故に、彼には自分のための物語、自己と他者を繋ぐ物語が一切ない。映画は、主人公が次々と殺人を犯していくのと同時に、13人目の被害者となる女性の日常をも映し、その接点ともいうべき二人の邂逅の過程をドラマチックに描いていくが、その邂逅自体のドラマ性をあっさりと否定してみせる。  では、彼は何を目指していたのだろうか?彼は世界を動かしてみせる。その現実性うんぬんは別にして、非物語的で即物的な「パフューム」によって人心を把握する(「愛情」ともいうべき)幻想を顕現してみせるのである。 彼は「パフューム」によって世界を動かすが、最終的にそれを受け入れることができない自分を発見するに至る。それこそがこの映画の救いなのであろうか。しかし、主人公が群集を前にして流す「涙」に僕は全くと言っていいほどリアリティを感じなかった。僕らの世は無知にあえぐ18世紀のパリではない。情報過多の21世紀の日本である。同じような非物語で貫かれた世界でありながら、そのバックグラウンドとなるべき現実感には決定的な違いがあるような気がした。 主人公が流す涙のリアリティをそれを誰もが理解しないという現代性に通じる現実によって否定してみせる。もし、そうであれば、僕はこの映画のすごさを感じるが、その辺りの意図はよく分からない。いずれにしろ、そういった構造分析的な意匠では僕らの「こころ」を響かすことができないことだけは確かである。  最近、東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』という本を読んで、同じように「どんより」とした気持ちになったが、彼が提唱する「物語の死」とか「物語の衰退」と呼ばれるポストモダン的な状況やデータベース化した環境下での新しいコミュニケーション社会とそれを前提とせざるを得ない新しい批評体系というのはとても理解できるが、そこには全くと言っていいほど、「こころ」に響くものがない。 この「どんより」感はもう自明であり、仕方のないものなのかもしれないが、僕らはいつかその「どんより」感の中でもゲーム的リアリズムによって「こころ」をふるわせる日がくるのであろうか。そういうことを想起すると、また「どんより」としてくる。。。 
[映画館(字幕)] 7点(2007-04-20 22:55:10)
47.  ドリームガールズ(2006)
ジェニファー・ハドソンがとにかく素晴らしい。最初はモータウン風のフランクリン・シスターズって感じですごく楽しめたし、彼女の抜けた後の現代風シュプリームスもよかった。ジェニファー・ハドソンの歌はまさにアレサ・フランクリンのゴスペル調のボーカルスタイルを彷彿とさせ、さすがにシュプリームスの中には入れられないかなと思うが、それはそれで十分楽しめる。それよりも何よりも、ステージシーンにも増して、ミュージカル仕立ての部分での彼女の「うた」がとにかく響きまくっていて、その響きの倍音が僕らの肌を粟立たせ、胸をぐいっと掴んでくる。彼女の状況語り、心理語りの「うた」が伝える響きこそが、実はこの映画が描きたかったことそのものではないだろうか、とさえ僕には思えた。 全編に響き渡る「うた」は、その浅薄なシチュエーションを越えて、僕らにある種の「身体的な意味性」とも言うべき感動(それはジャッキー・チェンのアクション映画から受ける感動にも似たもの)を訴えかける。それは従来の映画における分かりやすく意味の通った(そうであることを求められる)セリフ回しという映画的常識、その不自然なリアリティを方法論的に(自覚的に)変容してみせるのだ。(例えば、市川準『東京夜曲』で描かれる人々の会話が、その聞き取り難さ故に、各人の「ためらい」という身体性をリアルに表現するのと呼応する) 改めて言えば、『ドリーム・ガールズ』こそは、今、僕らの物語に求められる「身体的な意味性」を、映画的なコミュニケーションを、「うた」の響きによって体現している方法論的に革新的な映画なのではないかと思うのだ。(これこそがロックやソウルの感動であり、物語との融合である) それには言うまでもなく、ジェニファー・ハドソン抜きにはこの映画を語れない。これは彼女の映画なのである。。。と、ビヨンセとエディ・マーフィーを忘れてはいけないか。もちろん、ビヨンセのとことんまでダイアナを表現してみせたポップセンスも素晴らしい。エディ・マーフィーもJBというか、ピケット風なシャウトあり、マーヴィン風のメロウサウンド、且つポリティカルソングもあり、マーヴィン&タミー風なデュエットあり、いろんなスタイルが楽しめて、MTV時代のParty All The Timeの軽いノリとは全然違う、彼の奥深さを感じた。これだけ感動できて、楽しめるんだから、この映画は傑作でしょう。やっぱり。
[映画館(字幕)] 9点(2007-03-11 11:15:22)
48.  シカゴ(2002)
この映画は、現実とミュージカルシーンとの2重性により展開していくが、最終的に、その2つの展開を別々に捉えては理解できない部分が見えてくる。ミュージカルシーンでの心情の吐露や妄想が全くの装飾であり、嘘ではないか?と感じさせるシーンもあり、ミュージカルシーンのリアリティそのものが宙吊りされるような感覚に襲われるのである。しかし、この映画が図らずも表現し得たのは、実は現実とミュージカルシーンとの2重性、この2つ展開の擦れから地下水のように滲み出てきたある種の違和感、その断絶線から沸き出でる本質的な感情なのである。 最後の裁判シーンで、リチャード・ギア演じる弁護士がロキシーの日記についての弁明を行う。その際、彼はずっとタップを踊り続けている。彼はステップを刻み続けるが、それは、何というか、彼にとっての脅迫観念のようなものだったと僕は思う。『とにかく踊り続けるんだ。。。』 そういう声が彼の最も深いところから聞こえているということが、場面の擦れから、その断絶線から僕らに伝えられる。この映画がミュージカルというエンターテイメント性からハッキリと零れ落ちた場面である。(その後、ギアに言い訳を言わせるが。。)  結局のところ、この映画は、ミュージカルシーンによって心情と現実という区分を明確化するのだが、実際はそれによって明確化され得ないもの、2つ場面展開の擦れや捩れを克明に捉えることである種の表現を達成し得たのではないだろうか。その方法論こそ、これからの映画が目指すべきひとつの方向性ではないかとさえ僕は思う。  最後に、、キャサリン・ゼタ=ジョーンズの迫力ある歌声と踊りは素晴らしかったが、やっぱりレニー・ゼルウィガーの存在感もすごいナ。そういう愛すべき映画でもある。まぁ当然のことながら。。 
[ビデオ(字幕)] 8点(2007-03-11 10:51:19)
49.  エリ・エリ・レマ・サバクタニ 《ネタバレ》 
正体不明のウィルスによって自らの意思とは関係なく自殺してしまう"レミング病"が蔓延する近未来のお話。レミング病は視覚映像によって伝染し、確実に死に至るという。まさに死に至る病である。  レミング病とは何か?それは死に至る病である。 死に至る病とは何か?それは絶望である。  作中の浅野忠信演じるミズイが相棒アスハラの自殺を目の当たりにしてつぶやく。 「病気の自殺と本気の自殺とどうやったら区別がつく?」  『死に至る病』の作者キルケゴールによれば、その区別は様々あれど、やはりそれは同じ罪としての絶望である。絶望を知り、それを克服する意思があるとしても、自己自身を抱えている以上、それは同じように絶望なのだと。本当にそうだろうか?  ウィルスによる絶望というのは、外敵、非自己による自己化ともういうべき自己の病への囚われ、第5の絶望、現代という無自己を絶望と化した時代のメタファーだろう。『ユリイカ』の監督である青山真治は、この最新作でそういった新しい絶望も含めた全ての「死に至る病」に対する抵抗を試みている。僕にはそう思えた。 アスハラが自転車をこいでミズイに会いに行く短い映像。その音楽。生きること、死ぬことに根源的な意味がある以上、僕らは常に本気でいるべきなのだと。少ないセリフの中にも僕にはそういった輝きを感じることができた。映像の一つ一つに抵抗としての生を感じることができた。  絶望に囚われ、それでも自己自身であり続けようとする。 自らの生を受け入れ、自らで選択する。  恣意的のようでいてとても示唆的な映像。 素晴らしい映画。  絶望につけこまれ、、、腹いっぱいになっても、、、死に至るか。。。 
[DVD(邦画)] 10点(2007-01-27 01:15:50)
50.  硫黄島からの手紙 《ネタバレ》 
素晴らしい映画だった。僕は前作『父親たちの星条旗』のレビューで、クリント・イーストウッドは個人という矮小な物語から戦争という壮大な物語を描いてみせる、ということを書いた。今、彼の硫黄島2部作の後編というも言うべき『硫黄島の手紙』を観終わって、正に我が意を得たりとでも言おうか、その感想に聊かの変化も感じていない。  この映画の主人公は一兵卒、西郷であろう。(彼は狂言回しではなく、この物語の主人公である) その弱々しくも人間的なキャラクターから硫黄島戦を捉えたとき、この映画は戦争という極限状態における個人的な側面をその切実さとともに描き出す。クリント・イーストウッドは戦争という局面の中でも執拗なまでに「人間」を描くのである。ほぼ全編にわたって硫黄島戦の経過をなぞるように場面が進んでいく為、『硫黄島の手紙』は『父親たちの星条旗』と違い、硫黄島戦の史実を日本軍側から忠実に描く戦争記録映画として観ることもできるだろう。しかし、主人公の西郷、そして、栗林中将、元憲兵の清水の過去、その個人史がフラッシュバックで描かれる、その短い場面に込められた登場人物たちの「生きる想い」、その凡庸でありながら、普遍的な切実さこそがこの映画に込められた最大の「祈り」であり、それが僕らの心に自然に、そして重く受け止められるのである。  西郷は生きる。彼は逃げ続けることによって、生を得る。そして彼は言うのだ。 『私はただのパン屋です』  私は愛する妻と未だ見ぬ娘に会いたい、彼女らに会うために祖国に生きて帰る、そういう自らの真実に支えられて戦場を生き抜く、そういうただのパン屋なのです。  ただのパン屋であるという西郷の真実。それとともに、西郷が清水の死に触れて流す涙、栗林を看取る際の涙、それは単純ではない人間の(ある意味でパン屋であるということを越えた)在るがままの涙であり、そのことの重みが僕らの胸を強く掴む。 彼は誰にも知られずに誓った「生きて帰る」という信念を貫いたわけだが、そういう個人的な正義を僕らは誰も非難することなどできない。何故ならばそういった人間の信念が戦争という狂気の中で揺らぎ、繋ぎとめられる、それこそが戦争というものであり、クリント・イーストウッドが伝えたかった信念であろうと僕は思うのである。
[映画館(字幕)] 10点(2006-12-11 20:55:08)(良:1票)
51.  男たちの大和 YAMATO
乗組員3,333人の内、生存者はたったの300余名。それが史実「戦艦大和の最期」における最も明白な事実であろう。 作家山本七平が戦闘というものを「何が起こったのかなんて全く分からないまま、気がつくと周りが死体だらけだった」という現実として捉えていたように、各戦闘員はそれぞれの持ち場での役割をこなすのに精一杯で、各人が戦闘そのものを総体として捉えるのは無理な話だと言われる。大和の戦闘員の多くがその断片を抱えたまま死んでしまった現在、そのジグソーパズルを完成するのは不可能であり、大和での戦闘の実体というのは結局のところよく分かっていないというのが実際のところなのだろう。大和での戦闘に限らず、戦場で生まれたであろう多くの物語は、死者と共に失われてしまったと考えるべきなのだ。僕らは小説『男たちの大和』や吉田満の本によっていくつかの大和の物語を知ることができるが、やはりそれは断片なのだ。大和がどのようにして撃沈されたか、それはもう永遠に知ることができないのかもしれないし、彼らがどのような思いで闘い、死んでいったのか、それも結局のところ、その僅かな断片を知りえるのみなのである。 ひとりの士官が書いたルポによって大和の最期が全て記録できるとはとても思えないし、ましてや大和とは何か、などというものを総括できるわけがない。大和とは乗組員3,333人に限らず、その他多くの関係者の様々な物語の総体としてあり、その多くはもはや失われてしまったのだ。そして残ったのは神話である。それは吉田満『戦艦大和ノ最期』によって作られたものもあるだろう、また、太平洋戦争を通して日本人が拠り所とせざるを得なかった幻想がいまだに語られ続けているものもあるであろう。しかし、それはあくまで神話である。僕らは戦争というもの考えるとき、そのことを肝に銘じる必要がある。 そんなわけで映画における大和での戦闘シーンにもはや期待すべきものはないと言えようか。この映画は戦闘シーンを無理に描写するよりも、兵員、特に年少兵達に焦点を当て、彼らの青春群像として大和の物語を再構築した点がとても清々しく、これは青春映画としても出色の出来であると僕は思う。(そう、この映画は紛れもなく青春映画である) ある意味で、そういった群像にこそ、ほんとうの大和の物語、その断片の輝きがあると思うのだ。
[映画館(字幕)] 8点(2006-12-02 13:55:52)
52.  父親たちの星条旗 《ネタバレ》 
戦争は神話を生む。それは常にある意図をもった物語として、その一面性、その共振性のみがクローズアップされ、形式化される。本来、物語とは多面的であり、ある種のイデオロギーに容易に集約されるべきものではないが、物語をその純粋たる物語として描ききることはとても難しい。『父親たちの星条旗』は3人の硫黄島戦の英雄という個人に焦点を当てることにより、そこから戦争と生死、国家と個人などのタームをその絶対的感情として取り出してみせる。個人という矮小な物語から戦争という壮大な物語を描いてみせようとする。  戦争とは戦闘のみではない。しかし、戦闘は戦場における最も明白な現実であり、それが戦争の狂気そのもの、その由来でもある。戦争という現実は、実際に体験したものしか分かりえないだろう。いくらそれを映像としてリアルに再構築したとしても、戦争の恐怖と高揚、狂気はその場にいたものしか分からない絶対主観的な体験なのである。硫黄島戦は太平洋戦争史上で米軍にとっては多大な犠牲者を出した最も過酷な戦場であり、海兵隊神話にもなった象徴的な戦闘である。その物語を個人の側から再構築し直す。それがイーストウッドがこの作品で行った映画的試みであると僕は思う。  この物語の主人公は3人の硫黄島の英雄たちである。その中でも原作者の父親でもあるジョン・ブラッドリーは英雄という称号を不平なく受入れて政府に協力し、そして、その立場に自らを規定されることなく静かに生活を続けて年を重ね、死の間際に至る。彼は戦争について語らず、その語り得なさを心に保ち続ける。衛生兵として多くの兵士達の死を看取り、自らも過酷な戦場で生存の危機に晒される。しかし、彼が執拗に捉えられたのは彼がコンビを組んでいたイギーの死(その悲惨な死は僕らにも隠される)であった。その一人の兵士の死が一人の兵士の生の、その生きる手綱を握り続ける。そのことの重みを僕らは見せ付けられる。  彼は最後に息子に対して赦しを乞う。赦しとは、「人は誰もが自分と同じように弱い」という人間にとって最も根本的な地平から生まれるものであり、「自分が存在することの原理」への気付きでもある。最後に映画がこのことを描いたとき、僕の心は確実に震えた。
[映画館(字幕)] 10点(2006-11-24 00:06:29)
53.  博士の愛した数式
一見、この物語は少し変わった人物(80分間しか記憶がもたない数学者)である博士と平凡な家政婦親子との交流を軸にした心温まる人情物語にも見える。博士と義姉との過去の不倫関係が匂わされる程度で、これといった恋愛劇もなく、穏やかな愛情、心の交流とでも言うべきものを描いたストーリーだと捉えられる。 この物語のメイントピックを支えるのは数学であろう。物語の日常や記憶の中に数学という論理性や完全性という意匠をちりばめながら、その純粋さや単純な美しさを説く。そういった崇高性を帯びた雰囲気の中で、博士は日常という記憶を失った人物、まさに数学的な論理と純粋さのみを纏った人物として描かれるのである。 一昔前ならば、こういった人物像は、ある種の探偵小説やミステリーで描かれる独我論的な犯罪者に見出される妄想的な観念の根拠となったものである。 そういった観念の崇高性は、数学的論理そのものが破綻すべきものであることが証明され、思想化された70年代後半以降、失われた熱情となったはずである。この物語の主人公である博士は、そういったある種の微温的なラディカリズムを内に秘める人物として設定可能でありながら、それは80分間しか続かない記憶のように、永久に失われるべきものとしてこの小説には一切表には出てこない。 完全性を失った数学に対し、完全性への美しさを希求するが故に、記憶を永遠に失い続ける数学者。そして日常への信と不信を生きるよるべとしながら、その原理に否応なしに惹かれ始める家政婦。数学を媒介としながら、そのお互いの心理は巧妙に隠されていると僕には感じられた。それはお互いの可能性を実に巧妙に回収しつつ、その微細な亀裂にエロスを仄かに立ち上らせる。それはとても感動的な光景だ。その巧妙さがとても感動的なのである。それがこの小説の新しさであり、僕らを動かす違和なのだ。 以上が小説に対する僕の感想であるが、さて、映画である。この映画が原作のもつ高い水準のメタレベルを映像的に継承している、とはとても言いがたい。残念ながら、映像がその本質を全く捉えていないし、映像が映像足りえていない映画作品としか言いようがない。原作の素晴らしさを知ってしまった以上、その欠落はあまりにも目に余る。残念ではあるが、この小説がいくつかの賞をとり、ベストセラーとして映画化されてしまったことにその悲劇の原因があるのかもしれない。
[DVD(邦画)] 7点(2006-11-05 02:15:01)(良:1票)
54.  ブロークバック・マウンテン
「恋愛が自意識の劇であり、鏡であること、そしてその究極には不可能性という可能性への期待があり、それが刹那に超越され、持続しない。これはそういった恋愛の本質をよく捉えた小説であると共に、自意識が恋愛という観念に結実した美しくも悲しい、と同時に奇跡的に幸福な作品である」 以前、『春の雪』のレビューで僕はこのように書いた。この言葉は映画『ブロークバック・マウンテン』にもそのまま当てはまる。 この映画の優れている点は、やはりその映像にある。セリフが少ない映画ではあるが、映像は僕らに様々な言葉を伝える。それは言葉にならない言葉であるとともに、僕らに明確な言葉を喚起させるのだ。恋愛は言葉である。それは理性の森を通してしか発現しえない人間の特権である。映像が言葉を伝える。とてもシンプルかつ緻密な繊細さを要求する作業を見事に表現できたこの映画は素晴らしいと思う。表現は意思より発現し、そして意思に帰る。それはテクストや作者の背景を含めたあらゆる個人の歴史を巻き込み、作品の絶対性を生むのである。作品とは常に読者と一対一の関係にある。それは凡百のテクスト論を超えて、僕らが僕らであるが故の様々な感動をもたらすと僕は信じている。 『ブロークバック・マウンテン』は素晴らしい作品であり、珠玉の恋愛映画であった。その哀しさに心を震わすと同時に久々に幸福感を味わった。
[DVD(字幕)] 10点(2006-11-05 02:09:57)
55.  夜のピクニック
現代のロード・ムーヴィー。80kmをただひたすらに歩くという年に1度の歩行祭を彼女たちが特別なことと思い、そこに現代では既に埋没してしまった「青春」を掘り起こして、その古の情熱を感じたいと願う、その心情自体が実に現代的なのだと思った。しかし、この映画は当然のことながら従来の熱い青春映画とは対極の位置にある。確かに主人公の女の子と男の子の境遇は特別で、一歩間違うと湿っぽい叙情劇となりうるのだが、それがギリギリのところで乾いた共有感覚によって持ちこたえられ、実に爽やかな青春のワンシーンに差し替えられる。その過程のある種中途半端な心理劇の中に、この作品のその中途半端故の乾ききった「ニュアンス感覚」の現代性がある。また、青春という定型ファンタジーがリアルへとあまりにも容易に転換するそのマンガ的なリアルさがとてもリアルなのだ。 ロード・ムーヴィーとは何かを探す旅を写す。そこには常に不可能性の可能性とも言うべき不条理な行き方が見え隠れするのがこれまでの常だった。そういう意味で、この映画は正にロード・ムーヴィーたる資格を持ちながら、それを見事にはたき込み、うっちゃってしまう。彼らの答えは実に安直で、恐ろしいほどのハッピーエンディングに結びついてしまうのだ。それが現代の浅薄さ、画一性を象徴しているところは、おそらく映画的に言って確信的と思われる潔さで、それが僕にはとても面白いと思えた。結局のところ、それをニュアンス的に共有してしまう、その面白さが僕らの中にもあって、それがこの作品の評価を支えるのだろう。そして同時にこれはもう後戻りができないのだろうという諦念をも感じた。 ちなみに小説も読んだが、小説の方は説明過多という感じで、僕には映画の方がしっくりきた。 あと、全然関係ないけど、生徒達のTシャツが少し気になった。主人公のTシャツがチェで、あと青と赤のモッズのトレードマークTシャツのやつもいたなぁ 
[映画館(邦画)] 7点(2006-10-21 01:40:55)
56.  シン・シティ
これはマンガそのもの。それも手塚治虫が提唱していたデフォルメーション的マンガ表現。劇画ではない、これはマンガそのものだ。 映画がマンガに向かうというのは、現実がマンガ的破錠性を違和感なく受け入れつつあるという現象なのだろうか。いや、もうそんな段階は飛び越えて、現実が永遠にコピー&ペーストを繰り返すシミュラークル的なマンガ世界そのものになったのか。 この映画が思いのほか違和感なく僕らに受け入れられるのは、昨今の映画的傾向、『マトリックス』や『スパイダーマン』(もちろん『フロム・ダスク・ティル・ドーン』も含む)などの流れから当然のことなのであろう。 映画がなんでも出来るようになった時、そこで失われる映画的なものとは一体何だろう? 果たしてそんなものがあるのだろうか? そして、僕の答えは、、、 この映画は、そんな疑問を吹っ飛ばすくらいに面白かった。。。ということだ!  映画的なもの、そのオリジナリティは虚妄に過ぎない。 僕らはいろいろなツールから様々な意味を汲み取ることが出来るのだ。本当に大事なことは、僕ら自身の個人的な、文学的な心情であって、それこそが解釈の源なのだと思う。それが失われたら、世界は終わる。全ての意味は零れ落ち、僕らは何も「観る」ことができなくなるのだ。 僕らの文学性は既にその次元を変えている。 それは変成され、解体され、複合され、差異化されて、その表面的な深度は確実に失われつつある。しかし、その現実を観る視線からこそ、世界は始まるのだ。それは偏在化しつつあるが確実に内在する。僕らはよく目を凝らさないといけない。そして、、、世界は始まるのだ。 
[映画館(字幕)] 8点(2006-10-12 21:38:26)
57.  ロング・エンゲージメント
『シンデレラの罠』のジャプリゾが描く第一次世界大戦期の歴史ミステリー。これをジュネ&オドレイのアメリコンビで映像化。僕は映画を先に観てから原作を読むという幸福な関係でこの作品に接したので、映画自体もとても楽しめた。ジャプリゾは映画の脚本も書いている人なので、原作自体も映画的なスピード感覚に溢れ、場面展開も小気味よい。相手からの手紙を挿入することによって、周りに状況を語らせ、主人公の語らなさ(レティセンス)を補完する手法も読み手の好奇心を煽り、ついつい読みを走らされる。また、ジャプリゾは、フランスで『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を翻訳した人でもある。サリンジャーが戦争を直接描かないことによって、戦争という心的状況を突き詰めた作家であることを思えば、この小説に戦闘シーンの直接的描写が一切ないのも納得できる。ミステリーは、謎解きによって真相を追い求めていくものであるが、今では、事件の真相とそこに本当の真実がないというアンビバレンツな感覚こそが現代的なリアリティでもあり、そこからどう一歩進めるか、どう結末を付けるのかが今僕らの読む物語に求められているのではないだろうか。さて、映画であるが、この作品は基本的にミステリーだが、主人公が恋人を思い続ける恋愛映画でもあり、そこにアメリ的な「生きることそのものが、希望であり可能性であること」という思想が全面的に押し出されていく。主人公が事件の謎解きをしていく中で、事件に関わった人々の様々な人生と事件に対峙することで自らに問い掛けざるを得なかった生きることに対する戸惑いが次第に露呈されて、それは僕らの中にも沈殿していくのである。しかし、主人公は決して希望の芽を摘むことなく、謎解きこそを自らの生きる希望に変えるのである。偶然に頼る主人公の心情は余りにも乙女チックすぎる気もするが、彼女の楽観的意思の切実さは、逆にこの作品に時代的なリアリティを与えることに成功していると僕は感じた。人は様々な人達の様々の物語に翻弄され、いつでも間違え得る状況にいるが、その中でも適切に綱引きを行いながら、常に真っ当さを信じて生きていくべきなのだろう。この映画は遠い過去を描いていながら、そんな現代的な歴史性をとても素直に描いてみせる。あと、戦闘描写のリアリティについては、あまりここで語るべきものでもないと僕は思う。そこには客観的描写以外の何もないからである。
[映画館(字幕)] 9点(2006-06-03 16:29:03)
58.  春の雪
三島由紀夫の『春の雪』は恋愛小説である。と同時に欲望と精神の総合小説とも言うべき『豊饒の海』の第一部を構成する。『春の雪』は、独立した作品としても十分に読め、ここには三島由紀夫の恋愛観が見事に顕現している。その骨子は、恋愛が自意識の劇であり、鏡であること、そしてその究極には不可能性という可能性への期待があり、それが刹那に超越され、持続しないことにある。『春の雪』はそういった恋愛の本質をよく捉えた小説であると共に、自意識が恋愛という観念に結実した美しくも悲しい、と同時に奇跡的に幸福な小説なのである。 僕は以前より映画化を期待する小説として、この『春の雪』を挙げていたが、理由はこの小説の様々なシーン、その背景がとても映像的であると常々感じていたからである。そして、今回、この映画化作品を劇場で観て、我が意を得たりとでも言おうか、その映像美にはとても魅せられたし、主演の2人もイメージ通りで、この映画が目指す映像世界にとてもフィットしていたと思う。 三島由紀夫の小説世界を美しく映像化し得た、この映画の監督の手腕を僕は褒めたい。幌車での雪見のシーン、旅館での逢瀬のシーン、どれも期待以上の出来であった。それを認めた上で僕は敢えて言いたい。 やはり、『春の雪』は小説を読むべきだと。 映画『春の雪』を一個の作品として認めるが、それが言説として完結してしまうほど、『春の雪』という作品の本質は多様ではなく、そして深い。 
[映画館(字幕)] 8点(2005-12-30 16:31:47)
59.  亡国のイージス
ガンダム世代によるガンダム的戦争小説。これが僕の原作評価である。戦争がテクノロジーとメカニックにより支えられたシミュレーションゲーム(ウォーゲーム)であるのと同時に、そこで一瞬にして消え去る生命に対して、その大量死を否定し、生のリアリティを確かめずにはいられない、ある意味で非戦場的な感情劇こそが現代の戦争小説なのである。それがある種のヒューマニティとテロルの論理との葛藤によって支えられる安直な思想劇であること。イデオロギーや理想に支えられる世界という観念、革命という精神の観念劇は物語の浮間に露ほども顔を見せず、行動は私怨により支えられる復讐劇であって、全ては各個人の生きる意味と意志に還元される。これは良くも悪くも我々の世代の戦争観であり、現実である。つまり戦争が絶対的外圧として描ききれない、平和な時代の無精神な戦争観こそがこの戦争冒険ノベルズの核なのである。「これが戦争だ」という台詞に漂う不可思議で不明瞭な違和感、それはマンガ的な非現実感であると同時に湾岸戦争から9.11に至る現代の戦争で僕らが感じた現実感そのものでもあるのだ。 とはいえ、僕が原作をなかなか面白く読了したのは、自身もガンダム世代だからだろうか。原作者がガンダムから戦争を学んだという言説を僕らはリアリティをもって受け止めることができるのだ。 さて、映画であるが、まずこの映画化に際して注目すべきは、監督が阪本順治であることだろう。阪本順治と言えばやはり『トカレフ』である。あの奇妙な人間闘争劇、剥き出しの個人が放つ乾ききった殺意や愛憎は、この監督ならではの現代感覚であった。この妙にウェットな戦争大作を阪本がどう料理し、映像化するか、興味はその一点に尽きるとも言えたのである。 結果から言えば、この監督の味わいは完全に原作に飲み込まれてしまったというのが僕の感想である。この映画の中に『トカレフ』の「あの」主人公たちはいない。原作への忠実さにダイハード的な冒険色を前面にうち出した映像はなかなか見ごたえがあり、そういう意味では、原作の冗長さを的確に纏めた上手い映画だと思う。役者達の演技も素晴らしかった。それだけに、もっと乾いた視線で登場人物たちの人間性を抉り取り、僕らに切実なる違和を投げつけてもらいたかったというのが正直なところでもある。それだけの力量を持つ監督だけに少し残念であった。 
[映画館(字幕)] 8点(2005-12-09 20:49:30)(良:1票)
60.  父、帰る
解かれざる問いがあっさりと解かれてしまう。これこそが出来損ないのミステリーと言えるのではないか。現代のミステリーとは、謎が問いかけられ、そして解かれないこと、世界と人間という大いなる謎の前で解かれるべき謎のちっぽけさに愕然とし、そこから新たに謎が連鎖すること、事件の解決が読者を宙吊りにすること等々、一筋縄ではいかないのが特徴であり、ミステリーとして、作者や登場人物、そして読者たる僕らが謎に対峙する姿勢には実に現代的有り様が反映されているのだ。 確信犯的に謎を残す映画『父、帰る』は、まさにそんな現代的な謎に満ちたミステリーだといえようか。しかし、この映画で問われて解かれない謎については、それが解かれ得ない状況に追い込まれてしまうという、その状況設定こそがこの映画の肝ではないかと僕は感じる。つまり謎の解決が知らしめる真相とか真実そのものには大した意味はないはずなのだ。 この映画はもっと素直に観られるべきだと思う。父と子、母と子、兄弟、そして家族。その根源的な関係性から立ち上る感情というもの、そして生きる原理としての赦しの視線をもってこの作品を観てみれば、そこで描かれるドラマに最初から謎などない。この映画はロードムーヴィー的な平板な物語に内包される人間同士の言葉を超えた感情劇なのであり、僕らはその微妙さこそを感じ取るべきなのだ。  実は僕も偶にしか帰らない父なのだが、父帰る時の息子の視線には気を配るようにしているゾ。。。 
[映画館(字幕)] 9点(2005-10-02 10:15:26)(良:2票)
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