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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1001.  アントマン&ワスプ:クアントマニア
“フェーズ4”の作品群は、良い意味では極めて多様性に溢れ、悪い意味ではあまりにも世界観を広げようとしすぎるあまりこれまでの各フェーズと比較するとまとまりが無かった。 MCUという大河のシリーズとはいえ、元来は各作品とも独立した映画であることが前提なので、“まとまり”を求める必要は本来ないのかもしれないが、“ビッグ3”が牽引して「エンドゲーム」で大団円を迎えた“フェーズ3”までの流れがあまりにも奇跡的だったので、どうしてもそういうことを感じてしまう。  昨年(2022年)も「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」を皮切りに「ドクター・ストレンジ/MOM」と「ソー:ラブ&サンダー」を勇んで劇場に足を運び、それぞれ楽しんだけれど、前述の世界観の肥大とそれに伴う情報量の“拡散”に対して、やや疲弊感を感じてしまったことも事実。 結局今の所まだ手を出し切れていないが、「Disny+」で立て続けに配信されたスピンオフの各ドラマシリーズを全く追いきれていないことも、それに拍車をかけている。 ついには「ブラックパンサー」の続編を劇場鑑賞スルーしてしまうなど、自分の中で確実に“MCU離れ”が生じ始めていた。  “フェーズ5”の第一弾となるこの「アントマン&ワスプ」の続編に対しても、二の足を踏んでいたが、結果的には劇場鑑賞しておいてよかったなとは思う。 正直なところ「大満足」というレベルの作品ではないけれど、“フェーズ5”の入り口として重要な情報が多い作品であったし、何よりもやっぱり“アントマン&ワスプ”というヒーローカップルの活躍は痛快だった。  「アントマン」の過去作が公開された時と同様に、この小さき者はいつだってMCUという大河における停滞と混濁に痛快な風穴を開けてくれる。 「量子世界」というミクロの先のもう一つの果てしない宇宙を舞台にした映画世界は、イマジネーションに溢れ、そこにアントマンというキャラクター性が表す個性がユニークに発揮されていたと思う。  ただし、量子世界の造形美そのものは、美しく神秘的であった反面、明らかに“スターウォーズ”オマージュの要素が強く、また「アバター」等にも類似していて、必然的に既視感があったことは否めない。 現代のエンターテイメント全体のトップランナーであるMCUの一作だからこそ、そこは“見たことがない”映画世界と価値観を創出してほしかったとは思う。  物足りなさについて加えると、今後の“ラスボス”として初登場した“カーン”という強大なヴィランが、結局何者なのかが分かりづらかった。 節々の台詞で“におわせ”はしているものの、つまるところ彼は何を成し遂げたいのか、そして時間の終末に何を見たのかが、今後の展開を踏まえた意図的なものであることを理解しつつも、あまりにぼやけ過ぎていたように思える。  もう少し、このヴィランが時間そのものを支配している存在であることを映像表現として伝えるべきだった。カットになった未公開シーンでは、ホープやその他キャラクターのあり得たかもしれない“未来の姿”を見せるような展開もあったという。 時間軸が入り混じった新たな価値観を含めたこのヴィランの恐怖を表現できていたら、それこそ近年のSF映画の傑作「メッセージ」のような既存の概念を覆す深淵のドラマが表現できたのではないか。  また、演じるジョナサン・メジャースの演技は称賛されているようだが、個人的な所感ではキャラクターとしての厚みを感じられなかったのが正直なところだ。(少々わざとらしい演技プランも興を削いだ) 彼が今後の展開のキモとなるのは間違いないし、文字通り様々な「顔」を見せてくるのだろうから、その変貌ぶりも含めて期待していきたい。  そして、本作における最大の“欠落”は、マイケル・ペーニャが演じていた“ルイス”の不在だろう。 彼の存在と軽妙な言い回しが、過去作における代え難い娯楽性であったことは明らかだったので、冒頭かラストの1シーンでも登場させて欲しかったというのは、ファンの共通した思いに違いない。   とまあ、クドクドと不満要素多めになってしまったが、ヒーロー映画として面白くないなんてことは決してなく、充分に楽しめた。 エヴァンジェリン・リリーとミシェル・ファイファーの熟女母娘が、めちゃくちゃ美しく、格好いいだけでも、個人的な満足度は担保されている。  エンドロール後のクレジットをワクワクしながら待ち、登場したキャラクターを見て、「ああ、やっぱりDisny+に引きずり込まれるのか?」と神妙な面持ちになったことは否めないけれど。
[映画館(字幕)] 7点(2023-03-03 23:56:03)(良:1票)
1002.  トムとジェリー
テレビ放映を子どもたちが観ていたので、一緒に鑑賞。“金曜ロードショー”をまともに観るのも何年ぶりだろうか。 「トムとジェリー」は、自分の幼少時はもちろん、子どもたちが生まれた頃からよく観ていた。 言葉がわからなくとも、言語がわからなくとも、映し出されるコメディがただただひたすらに面白い。 それが、このアニメが世紀を越えて愛され続ける要因であることは明らかで、僕も子どもたちも、破茶滅茶で愛くるしいネコのネズミの狂騒劇に大笑いし続けてきた。  アニメーションと実写が融合して映画化された本作も、その狂騒劇の真髄はいかんなく発揮されており、真っ当に面白かったと思う。 実写映像の中にアニメのキャラクターが登場する作品は幾つも制作されてきたと思うが、よく考えれば「トムとジェリー」ほどその手法に相応しい作品も無いように思う。 マンハッタンの一流ホテルを舞台にして、ビル群と人間世界の中で、所狭しと大騒動を繰り広げる様は、言わずもがな娯楽性に溢れていた。  ストーリー展開自体はベタすぎるほどベタだったが、主演のクロエ・グレース・モレッツの愛嬌も手伝って、愛すべきファミリームービーに仕上がっていたと思える。  これからもいくつもの時代を越えて、彼らが仲良くケンカする様を見続けたい。
[インターネット(吹替)] 7点(2023-02-11 22:31:29)
1003.  非常宣言
航空機パニック×感染パニック×韓国映画、その触れ込みから想像し得る映画の構図は、予告編の段階で極めてエキサイティングで鑑賞意欲を掻き立てられた。 ソン・ガンホ、イ・ビョンホンというもはや国際的映画俳優である2大スターのキャスティングも、古くからオースター映画の代表格だった航空機パニック映画の系譜であり、期待感を煽った。 結果的に、想像通りにエキサイティングな映画であったことは間違いない。  ただし、注意しておくと、本作は決して褒められた仕上がりの映画ではない。 ストーリー展開は、娯楽映画であることを踏まえても、リアリティに乏しく想像以上に破茶滅茶だった。主人公らをはじめ、登場人物たちの言動や心理描写も、割と大雑把でありお粗末。 限りなく“トンデモ映画”に近い映画世界のテンションには、ときに閉口してしてしまうことは避けられないだろう。  が、しかし、それでも成立させてしまうのが、やはり韓国映画の“地力”の強さだ。 強引だろうがなんだろうが、積み重ねられた二重三重の絶望的パニックが、すべての人間が実は孕んでいる悪意と脆さ、そして尊厳をあぶり出している。  タイトルでもある「非常宣言」を発した上で、領空侵犯を犯す韓国の民間機に対する自衛隊機の対応の様など、日本人鑑賞者として色々な感情が渦巻くシーンもあり、文字通り二転三転する不安定なストーリーテリングには、浮遊感と居心地の悪さを存分に感じる。 ただ、その“乗り心地”の悪さこそ、このパニック映画のテーマに相応しいと思った。  往年のハリウッドの航空機パニックとは異なり、ハッピーエンドではありつつも、明確な“傷み”をしっかりと映し出す姿勢も、韓国映画らしく味わい深い。
[映画館(字幕)] 7点(2023-01-30 23:10:50)(良:1票)
1004.  新・男はつらいよ
今年も正月は“寅さん”からスタート。元日の夜半、シリーズ4作目にしてしっかりと定番化したキャラクター描写とお決まりの喜劇が心地よく身にしみる。  前作(第3作「男はつらいよ フーテンの寅」)は、舞台設定やストーリーテリングがやや脱線気味でまとまりがない印象があったが、本作は「新」という冠のもとで、原点回帰というか、本作以降も続くであろう定形が固まった印象を受ける。  決して特別に感動的な話が展開されるわけではないが、渥美清演じる車寅次郎の特異なキャラクター性を軸にしてベタな喜劇が安定していたと思う。  ヒロインの描写がやや表面的で、彼女が抱える人生模様に踏み込みきれていないようにも思うが、自身の実父の死に対する悲しみを、とらやの面々の滑稽な様を目の当たりにしつつ深めて、自分の中の本当の思いに気づく様は印象的だった。  寅次郎は相変わらず馬鹿で迷惑な男だけれど、人間誰しも素直になれない不器用さや愚かさは内包しているもの。これからも、時代を越えて、この国の人たちは寅さんに思いを重ね続けるのだろう。
[インターネット(邦画)] 7点(2023-01-01 23:57:45)
1005.  アダムス・ファミリー(1991)
まさかこの映画を観ていなかったとはな。 Netflixのオリジナルシリーズ「ウェンズデー」が面白そうだったので、元ネタである本作を復習しようと思ったら、なんと続編の「アダムス・ファミリー2」だけ観ていて、本作は未鑑賞だったという事実が発覚。 ちょうどクリスマス時期にも相応しいと思い、まさかの初鑑賞。 キャラクター造形も、テーマ曲も、その世界観も、初鑑賞でありながらももはや「懐かしい」映画世界だった。  もっとチープで子供向けのファミリームービーの印象だったが、冒頭からしっかりと作り込まれた美術やカメラワークが秀逸で、想像よりもずっとレベルの高いクオリティを誇る娯楽映画の世界観に引き込まれた。  本作が娯楽映画として世界的人気を得た最大の要因は、何と言ってもファミリーを演じる個性的な俳優陣によるキャラクターにマッチした表現力だろう。 主演のラウル・ジュリアを筆頭に、個性派俳優たちが嬉々として奇妙なキャラクターを演じきっている。  個人的に最も印象的だったのは、やはり“フェスター伯父さん”に扮するクリストファー・ロイド。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズで“ドク”を演じ終えた直後の出演作だけあって、その表情をはじめとするアクトパフォーマンスのそこかしこに“ドク”が垣間見えて、楽しい。  そして何と言っても、クリスティーナ・リッチ演じる“ウェンズデー”の特異なキュートさがたまらない。弟を処刑ごっこの実験台にし続けたり、首がちょん切れた人形を大切にしていたり、学芸会の舞台では大量の血しぶきをぶちまけながら熱演を繰り広げたりと、その言動のすべてが常軌を逸しつつも、ひたすらにブキミでカワイイ。  本作のストーリーそのものは、ベタなコント的なものであり、あってないようなものだけれど、そんなマイナス要因を補って余りある奇怪で愉快な映画世界は、やはり魅力的だ。 30年の時を経て蘇る「ウェンズデー」には、クリスティーナ・リッチも出演するらしい。益々楽しみだ。
[インターネット(字幕)] 7点(2022-12-16 23:54:41)
1006.  シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション
ふいにレコメンド表示された「シティーハンター」のこのフランス実写版を、半ばザッピング感覚で鑑賞し始めた。 ところが想像以上に原作漫画に対して忠実で、クオリティの高い“実写化”に少々驚いた。 単行本を全巻揃えていて、北条司のイラスト集も保有していたくらいの原作ファンとしても、遠いフランスでの愛ある実写化に多幸感を覚えたと言っていい。  「シティーハンター」の漫画世界が孕む唯一無二のハードボイルド性までが完璧に表現しきれていたとは言えないが、それ以外の多くの要素、コメディ性、アクション性、そしてセクシー描写と“下ネタ”は、きっちりと再現されていたと思う。 一つの映画作品として傑作と言えるような見応えがあったとは言わないけれど、「シティーハンター」の1エピソードの映像化としては充分に及第点のクオリティだったと思えるし、率直に「シティーハンター」らしい世界観だと思えた。  本作オリジナルのストーリー展開の肝となるある要素についても、主人公冴羽獠の特性をよく理解した上で、現代のフランスで描き出されるに相応しい新しいアイデアによる“危機”をユニークに描いていると思った。  一方、せっかくのフランス人キャストなので、冴羽獠と槇村香のビジュアルが、もっとマンガ的にスタイルの良い美男美女だったならば更に高揚感は高まったかもしれないなと、一寸思う……。 と、思いきや、どうやら主演俳優のフィリップ・ラショーなる人物が、監督と脚本も務めているようで、紛れもなく「シティーハンター」及び主人公・冴羽獠に対する愛を持って演じ、この映画世界をクリエイトしてくれたようだ。 映画全体のテイストがコメディに振り切っていたことを考えると、主人公以外も含めてキャスティングされたフランス人俳優たちはよく頑張ってくれていると思い直した。  そして、お決まりのエピローグ描写からのエンドクレジットで流れる「Get Wild」。重ね重ねオリジナルに対する「愛」に感謝。
[インターネット(字幕)] 7点(2022-11-19 22:50:59)
1007.  オリエント急行殺人事件(2017)
とても真っ当に「豪華絢爛」な映画だったと思う。 豪勢に作り込まれた列車内の美術や調度品、雪原を突き進む急行列車の雄大な風景、そして昨今ではなかなか見られない“オールスターキャスト”。 それらの娯楽要素がこの映画企画の中核であることは間違いなく、求められるクオリティでしっかりと仕上げてみせている。監督&主演を担ったケネス・ブラナーは、映画人として、相変わらず堅実な仕事を全うしている。  アガサ・クリスティの原作「オリエント急行の殺人」は、過去何度も映像化されたミステリーの古典であり、その知名度の高さは言わずもがな。必然的に、ミステリーの要である「真相」も既に世界中に流布されている。 普通ならば、オチが知れ渡っているミステリー映画を何度も観たいとは思わない。 それでもこの推理小説が何度も映像化されるのは、描き出される人間の群像の中心に、唯一無二のドラマ性が存在するからだろう。  僕自身が「オリエント急行の殺人」の映像化作品を観たのは、本作で4作目。 1974年のシドニー・ルメット監督作版、2010年のデヴィッド・スーシェ主演のイギリスのテレビドラマ版、そして三谷幸喜脚本による日本を舞台にしたスペシャルドラマ版(2015年)に続く、4度目の「オリエント急行殺人事件」となる。  本作も含めて、どの作品ともとても楽しんで鑑賞することができたことからも、僕自身この物語自体が大好きなのだろうと思う。(恥ずかしながら原作は未読なので、今更だけども小説も読んでみようと思う)  そして、入れ代わり立ち代わり描き出される群像劇こそが肝の物語の特性であることが、オールスター映画として仕立てやすく、そもそもセレブリティを対象にした急行列車が舞台であることも相まって、「豪華」な映画世界を構築しやすいことも、この作品が映像作品として幾度も製作される要因だろう。  本作は、幾つかのキャラクター設定や人種設定の変更はあったものの、基本的には過去の映像化作品から大きく逸脱するものではなかった。 悪い言い方をすれば、斬新さというものは皆無と言ってよく、今の時代にリメイクされることの意義を問われることも致し方無いとは思う。  ただ敢えてオーソドックスにリメイクされることが、映画史の文脈において価値があることもあり、本作はまさにそういう類の作品だとも思う。 是非はともかくとして、監督も務める映画人が新たなエルキュール・ポアロを自ら体現し、ハリウッドきっての個性派のスター俳優が憎しみの象徴となる悪役を演じ、新旧の名女優たちが顔を揃えて世界一有名なミステリーを彩る構図は、ただそれだけでも確固たるエンターテイメントだったと思える。 過去の映像化作品と比較して、No.1ポワロは誰だとか、あの役はあの俳優の演技のほうが良かったなどと言い合うこともまた映画を楽しむことの一つだと思うのだ。  オーソドックスではあるものの、一つ一つのシーンやカットはとても丁寧に作り込まれていて、ケネス・ブラナーらしい様式美に溢れていた。 窓ガラスの縁でダブる乗客の表情や、「最後の晩餐」を思わせる横並びのカットで審判を受ける乗客たちの構図など、意欲的な画作りは交換が持てたし、本作が持つ味わい深さだと思う。  僕自身、改めて過去作を見返して、それぞれの「オリエント急行の殺人」を堪能してみようと思う。
[インターネット(字幕)] 7点(2022-06-26 23:20:07)
1008.  ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス 《ネタバレ》 
ある程度「覚悟」はしていたつもりだったけれど、想像を越えた“狂気のるつぼ”を目の当たりにして、正直面食らってしまった。 タイトルが指し示していた通り、“マルチバース”の多層世界が折り重なると同時に、あらゆる表現で具現化された狂気性そのものが入り混じり、特異な映画世界を構築していた。  一瞬、これが“MCU”の最新作であることを見失ってしまうくらいに、この映画における狂気と怪奇、そして恐怖は振り切っていたと思える。 そこには、これまた予想以上に、監督を務めたサム・ライミの“風味”が充満していた。 先日、サム・ライミ版「スパイダーマン2」を再鑑賞した時も感じたが、やはり芸術的なまでにおぞましい恐怖描写こそがこの名匠の真骨頂であり、どんなシリーズ映画であろうともその“サム・ライ味”が抑えられることはないのだろう。  シーン的に白眉だったのは、やはりダークサイドに完堕ちしてしまったワンダことスカーレット・ウィッチの恐怖シーン。 満を持して特別出演した“イルミナティ”の面々を一蹴(惨殺)した挙げ句、逃亡するストレンジたちを執拗に追走してくるシーンは、まさにホラー映画そのものだった。  その他にも、古楽器から奏でられる音楽を具現化したストレンジ同士のバトルシーンや、ゾンビストレンジによる“死霊のはらわた”全開の怨霊大作戦、全編に渡ってゴシックホラー感満載のヴィンテージライクなカメラワークなど、やっぱりこの映画は、MCU映画である以上に、「ドクター・ストレンジ」の続編である以上に、“サム・ライミの映画”だった。  一方、個人的には、「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」以来のエリザベス・オルセン演じるワンダのファンなので、スカーレット・ウィッチとして完全に暗黒世界に陥ってしまった彼女の姿は悲しすぎて見てられなかった部分はある。 そして、こうなってしまった経緯を描いているらしいドラマシリーズの「ワンダヴィジョン」はやっぱり観ておくべきだったなと後悔は否定できない。  ただ、この映画の混沌は、そんな個人的趣向や、ストーリー上の不理解なんてどうでも良くなるくらいに常軌を逸している。 本作によって強引なまでにこじ開けられた世界観の拡大によって、今後のMCU作品が益々“マルチバース化”そして“マッドネス化”していくことは明らかだろう。  お決まりのエンドクレジットでは、まさかのあのトップ女優のMCU初参戦確定! リアルに多層構造化し巨大化していくディズニーのビジネス戦略にまんまと取り込まれることも覚悟して、改めて“Disny+”の契約も検討せねば……。
[映画館(字幕)] 7点(2022-05-07 18:54:44)
1009.  狂った野獣(1976)
主演の渡瀬恒彦が、スター俳優であるにも関わらず、走行中のバイクからバスに飛び乗り、自ら運転する大型バスをド派手に横転させる、ノースタントで。 世の好事家たちの文献から聞き及んではいたけれど、この時代の渡瀬恒彦は“ヤバい”。その様は時に狂気的にも見え、故に俳優として魅力的だ。  或る深夜、ふいに古めの日本映画が観たくなり、時刻も深かったので上映時間が78分と短かった本作をサクッと鑑賞。 程よい雑多感や、荒々しい風俗描写がそのまま「娯楽」として“激突”してくるような芳しいエンターテイメントだった。  一台の路線バスに偶然乗り合わせた一般人と、悪党と、別の悪党。 それぞれが孕んでいた欲望と焦燥は、暴走するバスと同調するかのように行き場を見失い、破滅へと突き進む。 先に主演俳優の狂気的な破天荒ぶりに言及したが、この映画の登場人物たちは皆々狂っている。いや、結果的にそもそも人間がうちに秘めている狂気を抑えきれなくなったということかもしれない。  主演の渡瀬恒彦のみならず、脇役の俳優たちもみな個性的で印象的。 特に終始“小物感”を撒き散らし、衝撃的な死に様を見せる川谷拓三が見事。
[インターネット(邦画)] 7点(2022-03-27 00:30:27)
1010.  バットマン・フォーエヴァー
個人的に初めて観た「バットマン」の映画は、本作の直接的な続編である「バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲」だった。1997年に映画館で鑑賞したあの映画は、イロイロな意味でどうかしている作品で、当時高校一年生だった僕に、偏ったバットマンのイメージを植え付けてしまった。 その結果、前作であった本作はおろか、ティム・バートン版の2作品も観ることなく、2005年のクリストファー・ノーラン監督作「バットマン ビギンズ」が公開されるまでバットマンに触れることは無かった。 そして更に時が経ち、ティム・バートン版に触れつつ、ノーラン監督の三部作を終え、ベン・アフレックがバットマンとなった「ジャスティス・リーグ」を経て、今年また新たなバットマン映画が公開される矢先に、ようやくこの「フォーエバー」の鑑賞に至った。“Mr.フリーズ”から実に25年、無駄に感慨深い。  僕の中では“残された”バットマン映画だったが、率直な感想としては、今まで鑑賞に至らなかったことを少し後悔するくらいに、魅力的な娯楽映画だったと思う。 クリストファー・ノーランが描いたバットマンや、サム・ライミが描いたスパイダーマン以降のアメコミ映画ファンとしては、良い意味でも悪い意味でも極めて“マンガ的”な本作のテイストは、一周回ってフレッシュで、ヒーロー映画の原点を観たような感覚さえ覚える。  監督こそ異なるが、一応はティム・バートン版からの流れを汲むシリーズ3作目という位置づけもあり、余計な説明描写は差っ引いて、冒頭からいきなりメインのヴィランとの攻防を描く展開が、アクセル全開という感じで小気味いい。 各アクションシーンを彩るケレン味たっぷりの美術や装飾も90年代のヒーロー映画の味わいを象徴しており、シンプルに観ていて楽しい。  そしてなんと言っても、キャスト陣がみな良かったと思う。 先ずは、トミー・リー・ジョーンズ&ジム・キャリーが演じるヴィランズのイカれっぷりがサイアクでサイコー。それぞれのキャラクターがヴィランに落ちた経緯やバックグラウンドなんてそこそこにして、名優二人が嬉々として狂人を演じるさまが素晴らしかった。 ヒロインを演じるのは、こちらも大女優ニコール・キッドマン。当時既にスター俳優だったとは思うが、その風貌はまだまだ瑞々しく、麗しいヒロイン像を体現していたと思う。  そして、個人的に最も不安視していたのは、バットマン役に抜擢されたヴァル・キルマーだったけれど、想像以上にバットマン=ブルース・ウェインというキャラクターにマッチしていたと思う。 本作では、ヒーローとヒロインのキスシーンが繰り返し映し出されるけれど、それも納得のセクシーな口元が印象的だった。何故次作の「Mr.フリーズの逆襲」ではバットマン役が交代になったのか、少々疑問が残る。  と、想定外の満足感と共に鑑賞。この流れで「Mr.フリーズの逆襲」も25年ぶりに観てみようかな。
[インターネット(字幕)] 7点(2022-03-13 01:07:03)
1011.  ゴーストバスターズ/アフターライフ
2022年2月12日、「ゴーストバスターズ」を生み出した映画監督アイヴァン・ライトマンが亡くなった。 この最新作にもプロデューサーとして名を連ね、監督を務めた息子ジェイソン・ライトマンと共に出演していたプロモーション映像でも顔を見たばかりだったので、その訃報は一映画ファンとしてとても悲しかった。 ただ、同時に、彼がクリエイトした娯楽映画史上に残るポップアイコンを自らの手で息子に託し、亡き盟友ハロルド・ライミスに捧げた本作の公開を見届けて逝ったことには、運命的なものを感じた。  そういった映画作品にまつわる様々なメタ的要素も絡みつつ、“若い世代”によってクリエイトされた本作は、1984年の「ゴーストバスターズ」が公開された“あの時代”に子どもだったすべての大人たちのためのジュブナイル映画であった。只々楽しく、そして泣けた。  1984年にアイヴァン・ライトマンが監督した「ゴーストバスターズ」の文字通り正統な続編であり、あの大人気映画があったからこそ意味を成す作品であることは間違いない。 そういう意味で、今の時代に相応しいテーマ性やアイデア、新鮮味がある映画ではないかもしれない。  でも、何も新しい物事を追い求めることばかりが、“新しい映画”にあるべきことだとは、僕は思わない。 過去の優れた娯楽や芸術を、新しい才能で蘇らせることもまたクリエイティビティなことだと思う。 敢えて80年代当時の着ぐるみ的な質感を携えたゴーストたちの造形だったり、80年代の空気感を残す田舎町を舞台にしたことなど、明確な演出はしっかりと創造性を孕んでいた。  そして、「継承」というテーマを映画世界の内外で強く意識した作品であるならば、その価値は更に意義深いものになる。 父親が生み出した世界に愛されたポップアイコンを、偉大な父以上の一流映画監督となった息子が継承し、その映画世界の中では、“お化け退治”の知識と技術と勇気が祖父から孫へと継承される。 この映画製作における文脈そのものが、大変エモーショナルだったし、王道的にエキサイティングだったと思うのだ。  息子ジェイソン・ライトマン監督が映し出した「画」は、尽くエモーショナルで素晴らしかった。 主人公の少女が佇む何気ないカットから、ゴーストバスターズ専用車両“ECTO-1”が田舎町を疾走するカットに至るまで、すべてのシーンが叙情感に溢れていて、それだけでも「いい映画だな」と思わせた。  一方で、ストーリー展開的において踏み込めていない要素は正直なところ少なくない。 主人公の少女を始めキャラクターたちは皆魅力的だったとは思うが、現在に至るまでの背景的な描写が極めて希薄なので、彼らが成長したり変化したりすることに対する感動は上手く表現できていなかった。  主人公フィーヴィーを演じたマッケナ・グレイス、兄役のフィン・ウルフハード、友達となるローガン・キムら若いキャストたちはキュートでジュブナイル性に溢れていた。 人生において破綻寸前の母親のキャラクターや、片田舎の冴えない教師に甘んじる地震学者を演じた“アントマン”もといポール・ラッドも、良いキャラクター性を孕んでいたのだが、「活かしきれていない」という印象は拭いえない。  「JUNO/ジュノ」、「ヤング≒アダルト」等々、人生に打ちひしがれた人間ドラマでこそ卓越した手腕を発揮してきたジェイソン・ライトマンだからこそ、そういう“負け犬たちのワンスアゲイン”的なキャラクター描写に物足りなさを感じてしまったことは、もったいなく思う。  だがしかし、振り返ってみれば父アイヴァン・ライトマンが監督した「ゴーストバスターズ」も、決して完璧な映画などではなく、くだらない部分はどこまでもくだらなくて、ポップでライトな“ノリ”に溢れた作品だった。 その“ちょうどいい”娯楽感こそが、「ゴーストバスターズ」であり、やっぱり正しい「継承」だったのだと思う。 短い時間ではあるが、亡きハロルド・ライミスを含めたオリジナルの4人が揃い踏みし、その中でビル・マーレイやダン・エイクロイドが気の抜けたジョークを繰り広げる。 1981年生まれの映画ファンは、そのさまを観て、率直に「ああ、良かったな」と思えた。
[映画館(字幕)] 7点(2022-02-18 22:48:34)(良:1票)
1012.  ドライブ・マイ・カー
僕は、コミュニケーションが上手くない。 決して「嫌い」なのではなく、上手くない。 日々の生活の中で、伝えたいことはあまりにも多いのに、それがあまりにも伝わらない。 そういうことが、ストレスや、怒りになってしまって、結果、コミュニケーションを避ける傾向にある。  幾つもの異なる言語が飛び交い、表現方法が入り混じり、過剰なまでの間接表現を散りばめてこの映画は紡ぎ出されている。 村上春樹の原作は、未読だが、作者の独特の文体とそれが織りなす物語の世界観も、この映画の或る種異様な空気感に直結していると思う。  この映画の中で繰り返し繰り返し表現されている通り、そもそも自分以外の人間のことを完璧に理解することなど不可能。 コミュニケーションの肝とされる「会話」にしたって、果たしてどれだけ相手のことを本当に理解できているか分からない。 劇中の演劇練習でも語られていた通り、世の中のすべての会話も、ただ自分の意思を一方的に伝えるための“きっかけ”に過ぎないのかもしれない。  多重言語による奇妙な作劇、セックス後の断片的な物語創造によってかろうじて関係を繋ぎ止めてきた或る夫婦、鏡越しに発覚する裏切り、車の中での直接目線を合わせない会話……。 映画を彩るすべての要素は、この世界における残酷なまでの行き違いと、コミュニケーションそのものの困難さ、そしてそれでも相手のことを知ろうとすることの重要さを物語っていた。  「本当に他人を知りたいなら、自分自身を見つめるしかない」  結局、本当のことを知り正しく理解できるのは、自分自身のことでしかない。 それは時に、億劫で、怖くて、困難なことだけれど、それをしなければ、伝えたいことが相手に正しく伝わることはないのだろう。 僕は、コミュニケーションが上手くない。けれど、自分自身のことを見つめるというプロセスは、人生においてとても大切だと思っている。今一度、自分が何を伝えたいのか、そのために何ができて、何をすべきなのか、少し落ち着いて考えていこうと思った。   幾重にも重なる多重表現、間接的表現は、必然的に映画の尺を長くし、テンポを鈍重にしている。 映画的な表現として、上手い映画だとは言えないと思うし、すべての人が正しく理解できる映画だとも思わない。 ただ、その長い長い鈍重さと、そこから生まれる分かりにくさや、もどかしさ、そして不意に訪れる人間の再生。それらをすべて含めて、3時間身を委ねてみる。これはそういう映画だと思う。
[映画館(邦画)] 7点(2022-02-11 22:44:41)
1013.  レッド・ノーティス
“Rock”のような強大な筋肉系アクションスター、“Wonder”に強く神々しい美女、不遇という俳優としての“Dead”を幾度も越えてきた愛すべき人気俳優、今やハリウッドにおいても最も愛されていると言ってもいい3人のスターによる三つ巴。そんな娯楽大作が面白くならないわけがない。  勿論、今年ナンバーワンの傑作!だとか、映画史に残るアクション映画!などと言うつもりはない。 アクション映画の「質」としては有り触れたものであり、新鮮味などは殆ど皆無だ。 “ベタ”で、幾つもの過去作の“トレース”と言ってしまっていいだろう。けれど、同時に、そういう娯楽映画の系譜をしっかりと踏襲した真っ当な娯楽映画であることも間違いない。  監督は、ローソン・マーシャル・サーバーなる人物。誰かと思えば、同じくドウェイン・ジョンソン主演のパニックアクション「スカイスクレイパー」の監督じゃんか。 「スカイスクレイパー」も、過去のパニックアクションの“お約束”をもれなく踏襲した隠れた傑作だったので、本作の娯楽力も納得だ。  最新のNetflix映画ではあるが、作品自体のコンセプトやアプローチは、もはや古典的で古臭いとも言える。 でも、1980年代生まれで、90年代のハリウッド映画で育ってきた映画ファンとしては、こういう映画には愛着を持たずにはいられない。  終盤唐突に発される“ヴィン・ディーゼル”ネタのジョークには笑った。
[インターネット(字幕)] 7点(2022-01-22 23:42:14)
1014.  シャン・チー/テン・リングスの伝説
正直なところ、この映画に対するファーストインプレッションは“微妙”だった。 マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の中に突如登場した東洋人ヒーローには、同じ東洋人としても違和感というか、強引な印象を禁じ得なかったし、チャイニーズマーケットに対するあからさまな“目配せ”のようにも感じてしまい、素直に期待感を高めることができなかった。 カンフー映画も、チャイニーズアクションも幼少期から慣れ親しんでおり大好きだけれど、それがMCUの世界観の中でどう成立するものかと甚だ懐疑的だったことは否めない。  が、しかし、意外にもというか、案の定というか、蓋を開けてみれば、本作はMCUの娯楽映画としてしっかりと楽しく、きっちりと成立していた。勿論ちゃんとした“カンフー映画”として。 もはや何度目か分からないが、MCUというブランドに対して、「流石かよ」と感心せずにはいられない。  MCUが二十数作にも渡って築き上げてきたエンターテイメントの“フォーマット”にチャイニーズアクションを重ねただけと言ってしまえばそれまでだが、世界の映画ファンが見たいアジアンアクションの要素を盛り込み、「娯楽」を追求し、実現していることは映画製作において“正義”だ。  本作が、MCUのフェーズ1とかフェーズ2あたりに挟み込まれていたら、それは流石に作品として浮いてしまっていただろう。けれど、ユニバースを広げ続け、あらゆる価値観や宇宙観をも取り込んでいく「多様性」こそがシリーズ全体のテーマになっている現在のフェーズ4においては、本作が描き出す異文化と異次元のストーリーテリングは、まったくもって許容範囲であり、もはや必然的にすら感じる。 アメリカ社会におけるアジア人の境遇や職業面の描き方も、さり気なく問題意識が提示されていたと思う。  キャストにおいては、主人公シャン・チーを演じたシム・リウが、正真正銘の「無名」の状態からMCUという巨大な映画ブランドの“ニューヒーロー”として登場した経緯がメタ的な要素も含めて非常にエキサイティングだ。 ビジュアル的にも決して華やかさのないこの新人俳優を大抜擢し、ニューヒーローのキャラクター像を文字通り“ゼロ”から構築していく展開が、一映画ファンとしてとても熱かった。  そして脇には、トニー・レオン、ミショル・ヨーらアジアが誇るスーパースターを的確にキャスティングし、作品としての安定感と説得力を高めている。 特に、長らく数々の作品で、トニー・レオンという俳優の色香に酔ってきた映画ファンとしては、危うく、妖しく、脆く、秘められた慈愛が混濁した本作のキャラクター性は、彼の俳優としてのキャラクター性とキャリアに相応しい適役だったと思える。 トニー・レオンが演じたシュー・ウェンウーは、本作で絶命したが、“テン・リングス”の力によって1000年生きてきたことや、そもそも彼が“テン・リングス”を手に入れた経緯など、まだまだ描ききれていない要素は多々あるので、再演を望みたい。  兎にも角にも、カンフー映画を礎にし、“ワイヤーアクション”や“ドラゴンボール”までもフォローして、MCUは益々その世界観を広げていく。
[インターネット(字幕)] 7点(2021-12-26 23:20:56)(良:2票)
1015.  らいか ろりん すとん -IDOL AUDiTiON-
BiSHのセントチヒロ・チッチが、悔しさと憤りが入り混じった涙を流す。 アイドルオーディションの中に渦巻く過酷。そこには、アイドルを目指す過酷と、アイドルを続ける過酷が混在していた。 チッチの涙は、WACKというプロダクションのトップランナーとして、その世界で走り続ける者のプライドと悔しさ、そして優しさが溢れ出たものだったように思う。  BiSHにハマり、彼女たちが所属する音楽プロダクションWACKを追い始めて3年。同プロダクションが毎年開催している合宿オーディションのWeb中継を見るのも3回目だった。 毎年沢山の女の子たちがアイドルを目指して、せめぎ合い、そしてその大半が去っていく。 その様子をつぶさにカメラで追い続け、生配信をし、映画化するこのプロジェクトは、非常に残酷であり、その反面物凄くエモーショナルだ。  その“残酷”と“エモーショナル”が合わせ鏡のように共存し、アンビバレントな価値観を放つことこそが、“アイドル”という存在の本質的な魅力だと思う。 現在40歳の僕自身は、アイドルファンを公言して間もない。ただ、4年前、36歳の見まごうことなき“おじさん”になってから初めてアイドルにハマった理由は、まさにその相反する二面性が表現するドラマティックに他ならない。  今回の合宿オーディションの参加者は、例年になく良い意味でも悪い意味でも曲者揃いで、ある部分においては明らかに脆く、拙かった。 その様が、プロダクションの稼ぎ頭ではありながらも、まだまだ一般的な認知度は低く、活動の中で悔しい思いの方が圧倒的に多いであろうチッチの感情を昂ぶらせ、乱しただろうと思える。  今回のドキュメンタリー映画は、二人の有力候補生の様子を主軸にして綴られる。 年格好も、技能も、才能も似通った二人は、互いに励まし合い、刺激し合い、過酷なオーディションを生き残っていく。 だが、最終日にして、或る“直接対決”によってその片方が脱落し、片方は合格を勝ち取る。 アイドルオーディションのドキュメンタリーとしてその“ストーリーライン”は、とても王道的だった。  ただ、今作はそこで終わらない。  「合格」のその先、アイドルを続けるということの過酷が、端的に、リアルに伝えられる。 そこには、セントチヒロ・チッチの涙が表していたことの本質、“アイドル”として存在を示し、決して綺麗事ではなく残り続けていくことの難しさが、表れていたと思う。  “コロナ禍”というタイミングも相まって、“彼女”が、アイドルとして歩み出し、存在し続けていくことが極めて困難であったことは容易に想像できる。 ただそれでも、アイドルとして存在し続けられたことのみが「正義」であり、それ以下もそれ以上もない。  運も必要、タイミングも必要、強かさや、狡猾さ、そしてもちろん“ファン”とそれに密接に結びつく“お金”も絶対的に必要。 それら全部ひっくるめて、この生きづらい世界の中で、アイドルたちは存在し続ける。
[インターネット(邦画)] 7点(2021-12-07 22:00:02)
1016.  あの頃。
現実の鬱積に打ちひしがれた主人公が、死んだような瞳で、ふと手にした松浦亜弥のMVのDVDを観始め、ある瞬間ふいに涙を流す。 正直、この冒頭のシーンのみで、この映画が伝えるべきことは表現されている。と、思った。 僕自身、アイドルファンのはしくれとして、あの瞬間の情感が、人生における明確な一つのトピックスであることを否定できるわけもなく、彼の感覚がリアルな経験と共に蘇ってくるようだった。  4年前、36歳にして初めて、アイドルグループにハマり、その沼に足を踏み入れた。 夫として、二児の父親としての節操は最低限保ちつつも、円盤を買い漁り、You Tubeの動画を見漁り、SNSで情報を追っては掘り起こす日々は、存外に楽しく、時を忘れた。 地方在住、家族持ちの身として、おいそれとライブに行くなんてことはできなかったけれど、東京出張の合間に、彼女たちのグループ名の由来となった“坂”に赴いたり、ついには東京ドームでのライブにも参戦できたことは、個人的に極めてセンセーショナルなことだった。  そういうふうに、時代に関係なく、タイミングや年齢に関係なく、そして“推し”に関係なく、ひいては必ずしも“アイドルファン”であるかどうかも関係なく、ただ「何か」にふいに涙を流してしまうほどのエモーショナルを感じ、そこに「今日」を生きる理由を見出した経験があるすべての人達に捧げられた映画だと思う。  主人公たち「恋愛研究会。」の面々の言動と、人生模様は、美しくもなければ、決して褒められもしない露悪的なものだけれど、その醜さや、愚かしさも含めて、彼らが過ごした「あの頃」そのものだろうし、その短く限られた時間があったからこそ、彼らは日々を連ねられたのだろう。 それは、辛いことや嫌なことばなりの日々の中で、一つの音楽、一つの動画、一つの画像で何かしらの“救い”を得た経験があるすべての人達が理解できることだと思う。  原作者であり、主人公本人でもある“劔樹人”の自伝的エッセイが原作なので、決して特別にドラマティックなストーリーテリングが用意されているわけではない。 冒頭にも記した通り、この映画作品の醍醐味は、オープニングの主人公の涙に集約されている。 ただ、その全編通した堕落感やしょうもなさこそが、「あの頃。」と銘打たれたこの作品における何にも代えがたい価値のようにも思える。
[インターネット(邦画)] 7点(2021-12-04 00:18:05)
1017.  ザ・ファブル 殺さない殺し屋
この娯楽映画は、現代の「時代劇」だ、と思う。 主人公ファブルが用いる殺傷能力の無い“弾丸”でのガンファイトは、さながら時代劇の「峰打ち御免!」に通じる。 即ち、この映画の在り方ははある側面において、日本の“チャンバラ映画”文化の継承とも言えてしまうのではないか。 圧倒的戦闘能力を保持する主人公が、その現代の“峰打ち”を縦横無尽に放ちながら、敵を蹴散らしていく様は、良い意味で単純明快な娯楽性に富み、楽しい。  最近、原作漫画の1stシーズンを全話読み終えて、この作品の世界観やキャラクターのエンターテイメント性にすっかりハマった。 心身ともに“人間離れ”した主人公が、「普通」に生活することに喜びを感じつつ、殺し屋稼業故に尽きない危機に対応していく様は、とてもユニークでフレッシュだ。敵味方含めて個性に溢れたキャラクター描写も魅力的で愛着にあふれる。  映画化に当たって、漫画世界が内包する独特の空気感や絶妙なコメディセンスまでもが完全に再現されているとは言えないけれど、アクションシーンの精度と意欲には、前作含めて目を見張る。 特に原作漫画にはなかった「団地」で一連のアクションシーンは、国内映画のアクションレベルを数段階上げたと思わせる迫力と娯楽性が備わっていた。 そこには、主演の岡田准一の体技とアクションセンスが存分に生かされていて、改めてベストキャスティングだと思える。  キャスティングにおいては、悪役“宇津帆”を演じた堤真一も流石だった。偽善と謀略を巡らせる悪人を見事に演じきっていたと思う。その他のキャストも概ね原作漫画のビジュアルやキャラクター性に対して忠実で、原作ファンとしても違和感は少ない。  というわけで、すべてが満足というわけではないけれど、そういう多面的な側面での娯楽性を持つ映画シリーズになっていると思う。 次作は“山岡”の登場かな。それを誰が演じるのかの想像を巡らせながら、続編も楽しみにしたい。
[インターネット(邦画)] 7点(2021-11-22 10:51:13)
1018.  DUNE デューン/砂の惑星(2021)
映画史における伝説や逸話が、何十年にもわたって先行し、流布し、世界中の映画ファンの「期待値」があまりにも大きく肥大したこの映画企画に挑み、“作品”として創造してみせたことを、先ずは称賛すべきだろうと思う。  ドゥニ・ヴィルヌーブ監督は、「メッセージ」や「ブレードランナー2049」でも見せたその芸術性の高さと、芳醇なイマジネーションを最大限発揮し、“DUNE”の世界観を見事にクリエイトしている。 この映画監督の素晴らしさは、ただ単に芸術的な画作りができるということではなく、絵画のように研ぎ澄まされた映像表現が、ストーリーを紡ぐ登場人物たちの感情や人生観にきちんと直結していることにある。 どこかのインタビューで、ヴィルヌーヴ監督自身が力を込めて話していた通り、映画製作における最優先事項は、映像の美しさや音響の素晴らしさではなく、その根幹に存在すべき人間の“ストーリー”なのだ。 そういう映画作りにおける本質を、圧倒的な創造性の中で表現できるこの映画監督の立ち位置は、今後益々孤高のものとなっていくだろう。  そして、本作も、そのヴィルヌーヴ監督の孤高の創造性に裏打ちされた見事な映画作品だった……とは思う。  ただし、この映画が、映画史における複雑に入り組んだ文脈、そこに深く絡む期待と宿命、それによるあまりにも高くそびえる“ハードル”を超える作品であったかと言うと、そこは「否」と言わざるを得ない。     僕自身は、本作で初めて“DUNE”の世界観に触れたのだが、1965年に発表されたSF小説「デューン 砂の惑星」と、その「映画化」への挑戦の歴史が、その後に創造されたあらゆる作品に多大な影響を与えていたことはよく理解できた。  製作開始直前にとん挫した1970年代の映画化企画による“遺産”が、その後の「スターウォーズ」や「エイリアン」に大きな影響を与えたことは言わずもがなだろうし、映画の構造としては、「マトリックス」や「ロード・オブ・ザ・リング」や「アバター」も、その系譜の上にあることは間違いない。 日本の作品に目を向けると、「風の谷のナウシカ」がその筆頭だろう。 描き出された未来世界のビジュアル、文化、慣習、人々の価値観や相関図に至るまで、あらゆる側面が色濃く影響していたことは明らかだった。  今回の映画化作品が、上述の歴史的大作の数々に匹敵するポテンシャルと魅力を備えていること自体は疑いようもない。  ただ、それらの作品が映画史上において果たしたような「革新」が、本作そのものに備わっていたかと言うと、残念ながらそれは無かったと思える。 壮大で果てしない映像表現も、体の奥底まで響き渡るような音響表現も、その上で息づく人物たちの深い生き様も、映画作品として最高水準のものであったことは間違いないけれど、そこに、心が沸き立つような映画的革新を感じることはできなかった。  「革新」を宿命づけられるなど、そもそもが無理難題なのだとは思う。 「スターウォーズ」にしたって、「マトリックス」にしたって、時代の中でふいに誕生したからこそ、その驚きと共に「革新」に至るのであって、予定調和の上の革新などあるわけがないのだ。 そういう意味で本作は、もしかするとたとえ「傑作」だったとしても「失敗作」という寸評から逃れられないあまりにも重い宿命を背負った作品だったのかもしれない。  だからこそ、その無理難題に果敢に挑み、映画作品として仕上げて見せたこと自体が素晴らしい成果だったと思う。 そして、その成果は、この後製作される“PART 2”によっていかようにも転じるだろう。 大きく上方修正されて、改めて革新的な「名作」として映画史に残るかもしれないし、逆に「駄作」として人々の記憶に残る結果に終わるかもしれない。  めでたくも続編の製作は決定しているらしいので、映画ファンとしては引き続き心待ちにしたい。 ラスト、主人公本人の台詞で明言された通り、この“伝説”は「始まったばかり」なのだから。
[映画館(字幕)] 7点(2021-11-06 13:47:52)
1019.  最後の決闘裁判
リドリー・スコットの最新作は、中世フランスで実際に起こった出来事を描いた意欲的な「裁判劇」だった。 真相が分からない裁判事案を「決闘」で決着させて、負けた方は火あぶり+吊し上げという当時の法制度のあまりの乱暴さと残虐性もさることながら、そこに被害者である「女性」の権利や主張は殆ど存在せず、男性社会の愚かな虚栄と身勝手な欲望のみが交錯していく様が、極めて醜く、この作品の主題に対する忌々しい「嫌悪感」を創出していた。  今作は三幕構成で描き出されており、最終的に“決闘”を行う男(騎士)二人、そして暴行を受けた女(騎士の妻)の3人の視点で同じシークエンスを辿るストーリーテリングが面白い。 その構成とストーリー性から、黒澤明監督の「羅生門」にインスパイアされていることは明らかで、実際、脚本を担ったマット・デイモン&ベン・アフレックによると、多分に影響を受けたらしい。 まさに“藪の中”の真相が、3人の視点によって描きされることで詳らかになっていく様は興味深かった。  そして、男性側の愚かで都合の良い解釈や言動が、実際女性目線からはどのように映っていたのか、その“乖離”が目の当たりにされることも、興味深さと嫌悪感を覚えると同時に、僕自身一人の男性として、また一人の夫として、身につまされる思いだった。 男性としての何気ない言葉や、態度が、女性に対して何かしらの精神的苦痛を生んでしまっているかもしれないということを、一人ひとりの男性がもっと理解しなければならないのだと思う。  「時代」は常に刷新され、新しい価値観や常識が広がっているとはいえ、この世界や社会において、まだまだ旧態依然としている要素は数多あり、この作品で描き出された醜悪な出来事が「遠い昔の絵空事」とは言い切れない。 こういう時代の上に、今の世界は存在し、今なおその暴力的な理不尽を残し続けているということを、認識しなければならないと思う。   リドリー・スコット監督にとって、中世の史劇を圧倒的なリアリティと創造性によって描き出すことは、もはやお手の物だろうけれど、齢83歳とは思えないそのクリエイターとしてのアグレッシブさには、毎度のことながら感服する。 対峙する二人の騎士を演じたマット・デイモン、アダム・ドライバーは、それぞれ「流石」の一言に尽きる存在感と実在感をもって、時代性を象徴する二つの“男性像”を体現することで、絶妙に胸くそ悪い“糞野郎”を演じきっていた。 そして、その狭間で、女性としての尊厳を守るために“声”を発した妻マルグリットを演じた新星ジョディ・カマーも、美しさと強かさを併せ持つ印象的な存在感を放っていたと思う。 また、享楽的ながらも支配者的能力に長けた領主ピエール伯を厭味ったらしく演じたベン・アフレックも好演しており、デイモンとの共同執筆の脚本とともに、作品に深みを与えていたと思う。   ただしかし、非常に映画的なクオリティーが高く、意欲的な作品だったのだが、だからこそ感じた一抹の物足りなさも否定できない。 気になった最たるポイントは、この物語の真の主人公であるべき、マルグリットのキャラクターの描きこみがやや希薄だったのではないかということ。 三幕構成の最後のパート(真実)が、彼女の“視点”で描かれるわけだが、彼女の人間性を描き出すに当たっては、もう少し深堀りしてほしかった。 どのような生い立ち、どのような心境で政略結婚の“道具”にされたのか、二人の男や、実父、姑らに対して本当はどのような感情を抱いていたのか。 そして、決闘裁判を経て、子供を生み、結果彼女は何を得て、何を失ったのか。 そういう主人公の「女性」に対する描き込みがやや物足りなかったので、作品の性質やクオリティレベルのわりに、映画全体がやや淡白で軽薄な印象になってしまっている。  史実における諸説を辿ると、マルグリットを暴行した人物は本当は全く別人だったとか、実は仮面を被った夫が暴行したなど、様々な憶測や噂話も入り混じり散見している。 実際に何が起こったかということは、600年後の現在において分かるはずもない。 「決闘裁判」などという暴挙が成立している時代である以上、生き残った者(妻も含めて)が一方的に語ったことが“真実”としてまかり通っていることも多分にあるだろう。 であるならば、「出来事」自体をもっと多面的に見えるように映し出し、「真実」そのものが乱立する構造にしても面白かったのではないかと思う。  いずれにしても、この映画を観た後では、史劇や事実を描いた他の様々な歴史映画においても、描き出される“真実”めいたものに対して、「別視点」を訝しく意識せずにはいられなくなる。
[映画館(字幕)] 7点(2021-10-16 22:46:19)
1020.  21ブリッジ
2020年8月に43歳の若さでこの世を去ったチャドウィック・ボーズマンの“遺された”主演最新作は、80年代〜90年代の良い意味で雑多な娯楽性に溢れたポリスアクションであり、今この瞬間の時代性を根底に敷いた骨太なサスペンスでもあった。  幼き頃に殉職した父親の面影と無念を追うように警察官となった主人公は、「正義」の名の下に、凶悪犯を射殺し続ける職務経歴を問題視されていた。そんな折、真夜中のコカイン強奪に絡み警察官8人が殺害される凶悪事件が発生する。 殉職した父親への想いと、自らが掲げる「正義」の正当性を信じて、犯人を追う主人公だったが、次第にくっきりとあらわになっていく陰謀の輪郭に反するかのように、信じ続けた「正義」に対する焦点がぼやけていく様が印象的。現代社会の「闇」を描くドラマとして面白かったと思う。  劇中で登場するホテルの名前が「パララックスホテル」となっていることからも明らかなように、この映画が伝えるテーマは、この社会における「視差(parallax)」であり、異なる視点で見ると浮き上がってくる社会の「真実」そのものであろう。  浮き上がった真相に失望し、絶望しながらも、主人公は己の正義を貫き通す。 しかし、事件解決という“夜明け”と共に帰路につく彼の表情は暗く沈み、その虚ろな瞳に光は無かった。  自分が幾人もの犯人の射殺も厭わず貫いてきた「正義」とは一体何だったのか? 殺害された8人の警察官たちや、欺き陰謀に巻き込んだ地元の警察官たちと同様に、もしかすると、殉職した父親にも表沙汰にならなかった“真実”が存在するのかもしれない。 そんな主人公の思い疑念に包み込まれるように、映画は幕を閉じる。  「正義」とは何か? 視点や立場によってその形は都度様変わりしてきた。 今この瞬間も、異なる正義と正義がいがみ合い、傷つけ合い、悲劇を生み出し続けている。  主人公と同じ虚しさを感じると共に、その主演俳優がもうこの世に居ないことに、喪失感が深まる。
[インターネット(字幕)] 7点(2021-08-30 23:47:38)(良:1票)
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