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やましんの巻さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 731
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自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


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人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


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121.  トップ・ハット
歴史的という意味じゃ、まさに第一級の名作。ではあるんでしょうが、正直言って、今なお見るに値するのはアステアとロジャースのダンスナンバーのみ。それとて、その古典的(クラシカル)な優雅さは、例えば後年の『バンドワゴン』の映画的センスというより、純粋にダンスホールでこそ見出すべきものでありましょう。ハッキリ言って、映画としちゃ少々タイクツなんですよね。初期のアステア=ロジャース作品なら、圧倒的に『有頂天時代』こそをぼくは推します。↓STING大好きさん、申し訳ない… 《追記》最近、ビデオで再見しました。まったく、俺は何を見ていたんだろう…。最初にまだ顔がつるんとしたラッキョウ顔の(失礼!)フレッド・アステアがステップを踏んだ瞬間から“感電”し、滂沱の涙。正直、この映画のモダニズムというのか様式化されたセットには、やはり「古色蒼然」たる印象を抱かざるを得なかったものの、アステア&ロジャースが「Picclino」のリズムに乗るや否や、このシンプルなセットとキャメラワークこそがご両人の偉大な才能を十全に映像化し得る最良の選択であったことを、深く深く再認識させられました。…作品としては、やはり『有頂天時代』のソフィスティケーションこそを愛するものではあるけれど、アステア、そしてジンジャー・ロジャースが踊っている、それだけで映画はひとつの「奇跡」をスクリーンに現前化する。思わず、テレビの小さなモニターに向かって「ブラボー!」であります。もちろん「6」→「10」!
10点(2005-01-29 16:34:11)(良:2票)
122.  哀愁
昔の映画って、やはりセットや照明などの技術面がしっかりしているから、例えばこんなくだらない・安っぽい・ご都合主義的なストーリーでも一応「名作」っぽく見せてしまうんですなあ。確かにヴィヴィアン・リーは美しいけど、彼女が出ていなきゃ、とっくに風と共に忘れ去ってしまわれていたでしょうね。この映画を翻案したとおぼしい溝口健二の映画もあったけど何だっけ? あれも溝口にしちゃ正直ヒドイ出来だったなあ… 《追記》うわあぁああっ! 何だこのヒドイ文章は!! 自分で書いたなんて、未だしんじられましぇ~ん(泣)。たぶんあれだな、カミさんとケンカしたか、仕事でトラブッたか、ひそかに好意を寄せていたコが結婚しちゃったか…いずれにしろ、“八つ当たり”以外の何物でもありません。もう、見てから20年近くたってるはずだけど、その時は特に前半のヴィヴィアン・リーの完璧な美しさにア然ボー膳としていたっけ。それだけでも、高評価に値するでありましょう。もうひとつ、溝口の『夜の女たち』も今見直せば、きっと自分の不明を恥じ入って、自殺したくなるに違いない…。削除も考えましたが、点数だけ変更しておのれのスットコドッコイさ加減をさらしておくことにします。この映画を正当に評価されておられる皆さん、本当に申し訳ありませんでしたっ!
8点(2005-01-29 15:46:39)
123.  ターミナル 《ネタバレ》 
別にトム・ハンクスが出演して、「空港」が重要な舞台になっているからと言うんじゃないけれど、この映画はやはり『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』との関連で語られるべきなんだと思う。設定も、物語にも、何のつながりはない。でもこの2本は、ひとつの〈主題〉において連続している。つまり、〈父〉という主題において。  あの作品のディカプリオ演じる主人公は、実の父親を“捨てる”ことで、トム・ハンクス扮するFBI捜査官という理想的な「父親(的存在)」を得る。つまり主人公は、父親を心の中で「殺す」ことによって、ようやく立ち直ることができたのだった(その後、主人公の父親は本当に死んでしまう…)。そして今回はトム・ハンクスが「息子」を演じ、亡き父親とのある“約束”を果たすために、空港内で何ヶ月も足留めを食らうという不条理な悲喜劇をサバイバルしていく。あきらかに『キャッチ・ミー~』で見捨てた父親との“和解”こそが、この映画ではめざされているのだ…(そう考えたなら、なぜキャサリン・ゼタ=ジョーンズの客室乗務員とのロマンス部分があれほど“淡白”な描かれ方だったかが、納得できる。あの老インド人同様、彼女もまた「自己犠牲」によって主人公を救う、人間の“善意”の象徴であり、こう言って良ければ主人公の「主語天使(!)的存在」として配されていたのだと)。  少年時代、母親が弟と妹を連れて家を出たというスピルバーグ。「自分は捨てられた」、という悲しみと、残された父親との確執は察するにあまりある。そして彼は、そういった心象を常に密かなモチーフとして、自作品にしのばせてきた。特に近年の作品には、ますます私小説ならぬ「私映画」的傾向が色濃くなってきたように思える(たとえば、“母に捨てられた子ども”の物語としての『A.I』…)。しかも、それをあくまで大ヒット狙いの商業映画として成立させようとしているところに、ヒットメイカーとして宿命づけられた彼の“困難さ”があるんだろう。でもぼくは今回のこの映画を、ひとりのアダルト・チルドレン(!)だった監督による、おかしくて悲しい、けれど「救い」に満ちた美しい〈ファミリー・ロマンス(家族の精神史〉だと信じて疑わないのです。
8点(2005-01-24 11:28:28)(良:2票)
124.  Mr.インクレディブル 《ネタバレ》 
世論の圧力(!)で引退を余儀なくされた元スーパーヒーローが、夜な夜なかつての仲間と人命救助なんかをコソコソとやっている…。このくだりに大笑いしながら、確信しましたです。うん、間違いない、これは単なるアニメを超えて、現代アメリカ映画におけるエポックメーキングたり得る大傑作だ! と。  正義のヒーローが、その圧倒的なパワーゆえに人々から敬遠され、“リストラ”される。誰もが「平等」であるべき社会にとって、彼らは許されざる者たちだっ! …これまで、ヒーロー礼賛を繰り返して飽くことを知らなかったアメリカ映画にあって、こういうカタチでその存在を“否定”する作品が(それも「子ども向け」アニメで!)現れるなんて。しかも、スーパーパワーという「個性」の発揮を抑圧された弟の鬱屈や、その「個性」ゆえに“自分は他の人と違う”と引っ込み思案な姉、そして、そんな夫や子どもたちに頭を悩ませる妻…と、ここには、思春期の問題やら、個性の画一化やら、家庭の事情といった、様々な〈主題〉が見事に織り込まれ、それぞれの日常がきっちりと画き込まれている。繰り返すけれど、それもあくまで「(一応は)子ども向け」アニメーションとして、だ。  彼らを危機に落とし入れる、主人公の崇拝者だった元「オタク」少年の屈折したキャラクターを含め、本作の人物造型は、昨今のどのジャンルの作品以上に錬り込まれ、アニメ的誇張を施されているとはいえ「リアル」な説得力に満ちている。その上で、アクション/ファンタジー/アドヴェンチャーの面白さを損なうことなく、万人向けのエンターテインメントとして成立させた、その何という力わざだろう。  「家族愛」と言うより、これは正しく「個性的であること」、それを発揮できることの大切さを、きわめてソフィスティケートに展開してみせた映画に他ならない。…どなたかもおっしゃっておられたように、ぼくも、ブラッド・バード監督はこの作品によって完全に「宮崎駿を越えた」と思います。脱帽!!
10点(2005-01-21 12:58:21)(良:6票)
125.  フォー・ザ・ボーイズ
ベット・ミドラー、本当に素晴らしいですよね。何で一度も日本でコンサートやってくれないんだろう…。ともかく、彼女が自分のプロダクションこさえて、『ローズ』で一緒だったマ-ク・ライデル監督を引っぱりだして(監督は監督で、気心の知れたジェームズ・カーンと自分の息子を呼び出して)、もう、やりたいようにやったという感じが、やや暑苦しくもあるけど、素直に拍手してあげたいっす。特に、あのベトナム慰問シーンは、何度見ても感動させられるし。《追記》2005.1.11ビデオで久しぶりに再見。映画の中で、「あの二人なら、ボブ・ホープ&ビング・クロスビーを超えられる」というセリフがある。ぼくもまた、このベット・ミドラーとジェームズ・カーンのコンビなら、あの偉大なホープ&クロスビーを超えられる! と、本気で思ったのだった。それほどまでに、本作のミドラーとカーンは素晴らしい。とりわけミドラーは、本当に本当に本当にファビュラスでマーヴェラス!! …確かに映画は、時代の上っ面をなぞっただけの通俗的なメロドラマであるに過ぎないのかもしれない。けれど、人の心を癒し、なぐさめることもまた「娯楽」の効能であるのなら、これは間違いなく最高の「娯楽映画」のひとつだろう。ミドラーとカーンに敬意を込めて、あらためて評価を「8」から「10」へとさせていただきます。
10点(2005-01-12 19:37:32)(良:2票)
126.  冒険者たち ガンバと7匹のなかま 《ネタバレ》 
このアニメがテレビ放映されていた時、熱狂しつつ見ていました。で、改めてその総集編といった劇場版を見直して思ったのは、その絵のタッチの斬新さ。まるでエッチングのような線描画めいた背景は、色彩も、遠近感も、極端に簡略化と誇張が施されている。そこを愛らしいネズミたちや、十分に禍々しさを感じさせるイタチたちなどのキャラが、ストップ画を多用しながらも驚くほどダイナミックに動き回っているあたり、作画と演出は自らのセンスにこだわりつつ、あくまで「子ども向きアニメ」である一線を越えるぎりぎりのところで作品を成立させている。確かにダイジェスト風ではあるものの、苦難の旅をへて7匹のネズミたちが、イタチによって全滅の危機にある島のネズミたちを救うといったプロットに絞り込んだ構成は、1本の作品としても十分まとまっている。いたずらに衒学趣味に走ったり、キャラクターを特化することで“萌え”ることのみがすべてといった「オトナ(と言うより、大きなお友達)だまし」なアニメとは違う、作り手がおのれの全力を注いで「子どもたち」に勝負を挑む本作を、今さらながら高く評価したいと思う。
8点(2005-01-05 18:56:05)(良:2票)
127.  The Man I Love(1946)
欧米では、マーチン・スコセッシ監督の『ニューヨーク ニューヨーク』の元ネタ映画として有名な本作。日本では未公開であるものの、小生は20数年前に地元TV局の放映によって見ました(で、その時に録画したビデオで再見)。その際の放映題名は『哀愁のメロディ』。ただ、このタイトルでの記録がまったくないので、原題のまま新規登録した次第。どなたか、何か情報をお持ちの方おられませんか…。  内容はと言えば、ヤクザなクラブ経営者から弟と妹を救うために、あえてその店の歌手となるヒロインの恋と人間模様を描くメロドラマ。妹の亭主は戦争後遺症で入院中だし、弟はヤクザ世界に憧れて裏社会に足を踏み入れようとしている。そんな彼らをまとめて面倒みようとする、鉄火肌の姉(というより、まさに“姐さん”)。この酸いも甘いも噛み分けたクラブ歌手を演じる、アイダ・ルピノがまず素晴らしい。冒頭、親しいミュージシャン仲間と音合わせする場面では、大人の女としての艶っぽさと剛毅さを漂わせて貫禄十分。ロバート・アルダ扮するヤクザなクラブ経営者と渡り合うあたりも、色目を使う男に毅然としつつ、つれない仕種が、粋っちゅうか、見事ないなせっぷりちゅうか。それが、ピアニストくずれの船乗りに恋したとたん、彼の前では一途で可愛い女になるあたり、もう泣かせるのなんの。…ああ、まるで『非牡丹博徒』のお竜さんじゃないか!  こういう、「大人」のオンナとオトコの機微や人情を描く時のラオール・ウォルシュ監督は、間違いなく我が日本の加藤泰に通じる濃密さとあだっぽさを醸し出す。特にクラブ店内の場面など、テレビの小さな画面からでさえ煙草とアルコールの匂いが漂ってきそうな雰囲気を作りだしている。ガキの映画ばかりがまかり通る昨今を思う時、映画とは洋の東西を問わずどんどん幼稚化していることは、やはり間違いないらしい。  惜しむらくは、ぼくが見たテレビ放映版では、音楽場面の多くがカットされているらしいこと。ぜひ完全版を見たいと思わせる(その時は、必ず満点を献上するであろう)、これはヴィンテージものの1本であります。
9点(2005-01-05 18:30:43)(良:1票)
128.  命ある限り(1949) 《ネタバレ》 
舞台は、戦争が終わって間もないビルマの野戦病院。その一室で帰国の時を待つ連合国の兵士たちは、リーダー格のアメリカ兵をはじめヤンチャ坊主のよう。そして、彼らを見守る美しく聡明な看護婦は、憧れの女教師といったところか。そんな彼らのところへ、誰にも心を閉ざしたスコットランド兵が送られてくる。さあ、ますます「学園ドラマ」風になってきたぞ。彼は、自分が余命いくばくもないことを知らない。この偏屈者で困った“転校生”の残りわずかな生を何とか幸せなものにしてやろうと、心優しきヤンチャ坊主どもの奮闘努力がはじまった…!   原作は舞台劇ということで、役者たちのアンサンブルが主体。確かに映像的な面白味には欠けるかもしれない。けれど、この作品全体から発散される「健康さ」はどうだろう。その屈託のない笑顔が素晴らしくチャーミングなロナルド・レーガン(!)をはじめ、「内面」を演じることが優れた演技だとするスタニスラフスキー・システム風の演技にまだ“毒されていない”俳優たちの、すがすがしい佇まい。そんな彼らを常に複数で画面におさめるため引き気味に置かれたキャメラと、思わせぶりな陰影など邪魔だと言わんばかりにたっぷり注がれたフラットな照明。今じゃ少年マンガですら取り上げられない「友愛」という主題ひとつをストレートに押し通すことで1本の映画を創ってみせた演出の、控えめな、だが慎ましい“野心”。…どれをとっても、そこには心洗われる清潔感とまっとうさがある。  1930年代の黄金期も過ぎ、やがてテレビの台頭で衰退期を迎える映画。それが決定的になる1950年代の直前に製作された本作は、たぶん映画が「健康」であり得た最後の時代の産物であり、“証人”だ。ぼくたちがこの地味な作品を見て、今なお感動し心打たれるのは、きっとそういった「健康さ」こそがもはや失われてしまった映画の「本質」のひとつだからに違いない。  映画の中で、スコットランド兵にみんなが贈った民族衣装のスカート(「キルト」でしたっけ?)。アメリカ兵たちは、「あの下に、下着をはいているかどうか」でスッタモンダする。で、最後の最後に彼らは「答え」を知るんだけど…ズルイぞ、観客にも教えろよっ!(笑)
8点(2004-12-28 18:04:07)
129.  達磨はなぜ東へ行ったのか
ぼくには、むしろアンドレイ・タルコフスキーの映画に近いものを感じさせてくれる映画でした。禅仏教の「真理」を探求することより、火・水・土・風というもののなかに摂理を見出していくかのような、東洋的というよりはむしろ「西洋的」な、ただ「物質」そのものと化した映像。思えばタルコフスキーの最良の映像もまた、あらゆる象徴や隠喩に還元されない火や水、風、草や樹木といった「物質」それ自体の現前で見る者を圧倒するものではなかったでしょうか。…およそドラマとしての「面白味」を望みようがない作品ではあるけれど、映画が「映画」じゃなくなるぎりぎりの地点で成立したこの作品には、言葉の真の意味で「孤高」の輝きがある。もっとも、これは劇場で集中して見ないと、その2時間10何分という長さはそれこそ生理的忍耐度を試す禅的(?)苦行になりかねない…と、ご忠告申し上げます(笑)。
9点(2004-12-24 11:01:06)(良:1票)
130.  コラテラル
マイケル・マンという監督は、常に“反社会的な者たち(アウトサイダー)”を描く。そして、その生きざま(や、死にざま)を、ひたすら〈崇高〉なものとして描き出すのだ。彼らはみな、社会に、運命に立ち向かい、反逆し続ける。その姿(というか、魂)は、英国の思想家エドモンド・バーグが言う〈崇高さ〉そのものだ。  「我々が崇高を感得するのは暗い森林や寂しき荒野、ライオンや虎や豹や犀などの姿においてである、(中略)それが解き放たれていて人間を無視していることの強調によって、少なからぬ崇高な姿に盛り立てられているが、そうでなければこの種の動物の描写は何一つ高貴な要素をそなえぬであろう」(中野好之訳)  …しかし、トム・クルーズ扮する殺し屋を主人公のひとりとする本作は、いかにもマイケル・マンらしいようで、これまでの作品とはどこか異質な印象を与える。それは、常に脚本にもクレジットされていた彼の名前がここにはないことからくるのか。あるいは、120分という彼の映画では(『ザ・キープ』を除いて)最も短い上映時間によるのか。デジタル・カメラによる奇妙なほど奥行きと陰影を欠いた映像によるものなのか。  …そう、まるでスコセッシの『アフターアワーズ』や『ヒッチャー』にも似たこの悪夢めく「不条理劇」は、むしろ製作者のひとり『エルム街の悪夢3/惨劇の館』の監督チャック・ラッセル(同じく製作に名を連ねるフランク・ダラボンも、あの映画の脚本家だった…。このご両人、どんな仲?)あたりこそがふさわしい。その意味において、マンは単なる「御用監督」でしかないのだろうか? …  しかし映画の中で、ロス市内の道路を2頭の野性のコヨーテが悠然と横切った瞬間、ぼくたちは確信するのだ。あのコヨーテたちこそ「解き放たれて人間を無視している」ことで孤高を生きる、マイケル・マン的存在に他ならないことを。そして、殺し屋とタクシー運転手もまた、その瞬間から夜のLAという「荒野」を生き、死んでいく者たちとして「解き放たれ」る。まさしく「ライオンや虎や豹や犀」のように生き始めるのだ。だからこそラストの、よく生き、よく死んだ両者の姿は、かくも〈崇高〉で、ただただ美しい。
10点(2004-12-10 18:51:43)(良:5票)
131.  ハウルの動く城 《ネタバレ》 
主人公のソフィーは、映画の中でいつも「家事」ばかりしている。帽子に刺繍を施したり、散らかり放題の魔法使いハウルの“動く城”を掃除したり、買い物にいったり、料理をしたり、洗濯物を干したり。…そういったごく「日常的」なあれこれを、たとえ90歳の老婆にされても変えることなく続けていく。  そして宮崎駿監督は、このソフィーの「家事」に対立するものとして、「戦争」を持ってくるのだ。日常生活をやがておびやかし、破壊してしまうものとしての「戦争」。その時「魔法」とは、戦争の“道具(!)”に他ならない。…ハウルたち魔法使いが、国の軍事面をつかさどる者たちとして描かれていることを、ぼくたちは重く受け止めねばならない。まったく、『魔女の宅急便』の愛らしい魔女との、何という違いだろう!  だが映画は、掃除し料理を作り続けるソフィーの「勝利」によって、幕を閉じる。彼女の「家事」によって、ハウルが、荒野の魔女が、火の悪魔カルシファー(見かけは可愛いものの、いうまでもなく「火」は使いようで脅威に成り得る…)が、少年の魔法使いが、案山子男(かかしではなく、出来れば“あんざんし”と読みたい・笑)が、ひとつの“家族”となってまとまり、「魔法」を、戦争ではなく日常生活を守る・取り戻すための「道具」とし、遂には「戦争」そのものに打ち克ってしまうんである。  …そう、どんなに強大な力も、「家事」に代表される人々の生の営みの前には敗北する。歴史上に現れたいかなる王国や帝国もいつかは滅び、けれど人々の「生活」はどんな時代にあっても連綿と続いてきたのだ。それを言うために、映画は、ソフィーたちの生活の細部(ディテール)こそを丹念に描いていく。そこにはもはや、戦いの愚かさを訴えながら逆に「戦い」を魅力的(!)に描いてしまう(たとえば『ナウシカ』…)宮崎作品の抱え続けてきたアンビヴァレンツ(二律背反)はない。平凡な日常の繰り返しのなかにある生きることの喜びや、愛することの素晴らしさを、優しく、少しだけ照れ(?)ながら肯定するばかりだ。  前作『千と千尋の神隠し』に続いて、ぼくはこの作品もまた、(多くの方々が指摘される「欠点」にうなずきつつも)その「世界観」ゆえに心から共感し、愛したいと思う。
9点(2004-12-09 12:20:07)(良:2票)
132.  気狂いピエロ
必ずしも60年代中期までのゴダール作品に対して全面的に肯定するものじゃないけど、これはもう文句なし。ゴダールがこの1本のなかに、「映画(とは何か)」、「政治(とは何か)」、「アンナ・カリーナ(とは何者か)」という、自らのオブセッションをすべて注ぎ込み、映画とともに格闘し、苦悩し、歓喜する瞬間瞬間が、画面から鮮烈に浮かび上がってくる。これほど感動的な作品は、そうないです。いや、唯一無二かもしれない。それほどまでに、ぼくにとっても永遠の作品であります。 《追記》ハッキリ言ってゴダ-ル作品は、昔も今も普通の意味で「面白くない」です。そして映画は何も「お勉強」するために見るんじゃないのだから、もしアナタが普通の意味で「面白い」ことのみを求めているんなら、初めからゴダ-ル作品なんて見なくて結構。それこそハラたつか、カネを損したと後悔するだけでしょうから。もちろんぼくも、ただ単に「面白い」映画の存在価値を認めないワケじゃない。映画には決して安くない入場料を払った観客を楽しませる“義務”があるのだから。けれど、そういった映画を見ている間のぼくたちは、何にも考えていない。与えられた「面白さ」を、2時間なりの時間と引き換えに消費しているだけだ。そしてその後には、何も残っていない。対するにゴダ-ル作品は、そういった怠惰な姿勢をぼくたちに許さない。「さあ、どう思う。どう感じる。どう考える」と、常に見る者を刺激し、挑発する。そのへんを↑で【帰ってきたおっさん】さんもおっしゃっておられたんだと思う(11/26現在、その【帰ってきたおっさん】さんは本作のレビューを削除したまま帰ってきません…)。…たとえゴダ-ル作品を見て「何じゃこりゃあ!」と怒る向きがあったとして、その時アナタはすでにゴダールの挑発に乗せられているんです…。そしてぼくは、貴重な人生のいくばくかの時間を割くのだから、時には映画を見ている間、自分にも思いがけない「思考」が映画によって導かれることがあってもいいと思う。その時、「面白くない」ゴダ-ル作品が、何にも増してスリリングな映画体験をもたらしてくれるってことを、ぼくは信じて疑わないのです。
10点(2004-11-26 12:13:51)(良:6票)
133.  砂漠の救出作戦
自分で登録しておきながらナンなのだけど、う~ん、何書いたらいいのやら…(笑) とりあえず、これ、欧米の好き者の間ではカルト化している(らしい)『ジャングルの裸女』という“女ターザンもの”の続編です。でもって、日本じゃ劇場未公開。小生もテレビ放映で見ました。  映画が始まると、タイトルも出ないうちにいきなりアフリカ奥地の村落で、トップレス姿の黒人娘(オバサンも、少々)たちがドンドコ踊っています。と、そこにふんどし一丁の白人少女が現れ、激しく、妖しく踊りだす! 長い金髪で胸を隠しているものの、ちょっと見はすっぽんぽん!1950年代にこの大胆さはさすが旧・西ドイツじゃわい…と、もうこの時点で大満足(…もっとも、よく見ると白人少女は、乳首のところに飾り物つけているんですけどね。アフリカの現地女性たちは丸見えだってのに、このあたり、昔の“エセ秘境もの”記録映画で、原住民の秘部ならボカシなしで公開していたニッポン国に通じる「差別観」がモロ)。主役のマリオン・ミハエル嬢は、まだ10代だったそうな。 踊りの最後、彼女はトランス状態になって大股開き(!)で倒れ、キャメラはそれを真正面から捉えます。ウ~ン、なんてスケベなアングルなんだっ! と、その頃にゃもうすっかり小生の視線は、キャメラと同化(笑)しておりました。  その後も、このストリップ…もとい、ダンス場面は、物語とはまるで関係なく2、3回登場し、マリオン嬢は、たとえ街の場面で普通の服に着替えていても、お股に食い込む短パン姿で、通りを行くオトコたち(と、小生)の眼差しにさらされまくり。いやぁ~、もうたまりまへんです。  …そりゃあ、『シーナ』のタニア・ロバーツや『類人猿ターザン』のボー・デレクの方が、文字通りの“裸女”だったけどサ。この映画のマリオン嬢って、実に天真爛漫というか、無垢というか、イノセントな“処女性”に輝いているのね。だからイイんですっ!。それは、前作が実のところ「ターザン」というより「アルプスの少女ハイジ」的な展開だった(すみません、未見です)ことを考えると、作り手の意識が決してスケベ心だけじゃなく、彼女を通して「アフリカ」という“処女地”に対する西欧人のロマンチックな憧れを描きたかったということなのかも。  でもやっぱり、これはマリオン嬢を鑑賞するため(だけ)の映画ですけどネ。
6点(2004-11-22 20:35:40)
134.  大怪獣出現 《ネタバレ》 
この映画は、まだ中学生だった頃テレビで見ました。その後、数年してもう一度再見。なかなかのインパクトを与えてくれる出来映えで、未だに強烈な印象が残っています。(日本では、大幅にカットされた短縮版でのみ公開とか。でも、近年WOWOWで「完全版」を放映したんですって? …いいなあ、見たかった!)  ストーリー的には、1950年代に流行した“放射能によって変形・巨大化したモンスターもの”のひとつ。海底で甦った古代のカタツムリ(と、いろんな文献で紹介されているけれど、どうみてもトンボの幼虫のヤゴかイモムシやんか)軍団と、アメリカ海軍との攻防がメインになっているあたり、特に『放射能X』に似ている。  とは言え、パラシュート訓練中に海で行方不明になった兵士をめぐる冒頭(捜索中、血を吸われたミイラ状の死体が、突然海上に浮かんでくるショック演出の巧さ!)から、映画はサスペンスを途切れさせることなく見る者をグイグイと引き込んでいきます。何よりモンスターの、醜悪さと昆虫的攻撃性が見事に表現された造型の素晴らしさ!(…後に『魔獣大陸』とかいう映画を見たら、ソックリな顔したモンスターが登場していた記憶がある。この怪物クン、意外とあちらじゃ「有名」なのかしらん) どうにか彼らの巣を見つけて爆破し、やれやれと思ったら、調査用に回収してあった研究室の卵がふ化してヒロイン(と、その幼い娘)が絶体絶命のピンチというのも、ありきたりな展開ではありながら、伏線の張り方やその語り口がうまいものだから、思わず手に汗にぎってしまう。いやぁ、この映画の脚本と演出は、間違いなく一級品です。  当時のこの手の作品には、明らかに「政治的」寓意性(アカ狩り、冷戦といった“共産主義”のメタファーとして、当時の「モンスター」や「エイリアン」たちは描かれていたものだ)を持っていたり、「核」と“放射能”への恐怖を煽るものが大半だったのに対し、本作は、そういうイデオロギー臭や社会ヒステリー的な要素をほとんど意に介していない。その上でただ純粋に「怪獣映画」としての面白さ、それだけを主眼とした潔さこそが、ぼくには好ましい(皆さんがバカにするローランド・エメリッヒ監督の映画も、同じ意味でぼくは評価しています)。作品的には単なる「B級モンスター映画」なれど、山椒は小粒でもピリリと辛い、とは、こんな作品のことを言うんすよね!
8点(2004-11-22 10:59:35)(良:1票)
135.  脱走四万キロ 《ネタバレ》 
ロイ(・ウォード)・ベイカー監督と言えば、ジェームズ・キャメロンの『タイタニック』でもかなり“参照”されたとおぼしい『SOSタイタニック』や、あるいはハマー・フィルムのドラキュラ映画でご存知の方も多い(?)のでは。実を言うと、ある時期まで(いや、実は今なお)このベイカー監督の名前は、ぼくにとって、例えば同じイギリスのデヴィッド・リーンなんかよりもずっと“偉大(!)”だったんである…  この監督の映画は、「ドキュメンタリー的」な面と「ドラマ性」とが融合し、時には対立しながら、あるひとつの濃密な“劇的空間”を画面に構築していく。そして題材やストーリーによって、「ドキュメンタリー的」な要素が勝ったり「ドラマ性」が大きくなったりする、そのバランス感覚においても傑出してたんだと思う(…後年、ハマーのゲテ物ホラー映画を撮る頃には、そういったバランスなどほとんど“放棄”しているかのようだったが…)。  例えば、この『脱走四万キロ』だ。イギリス映画でありながら実在したドイツ軍パイロットを主人公とし、しかもまんまとイギリス軍の収容所から脱走するまでの顛末を描くという本作。冒頭の空中戦から、主人公が不時着して捕虜となるまでのくだりにおいて、実写フィルムを巧みに織りまぜながら見る者を一挙に「ドラマ」へと引っ張り込んでいく。その後は、何回も脱走を繰り返すパイロットの“一人舞台”となるのだけれど、特に後半、厳冬のカナダの収容所に送られた彼が、雪の平原や森、凍った河を逃亡する描写は、ひたすらロングに引いた苛酷な自然の中にポツンと映る主人公の姿を延々と追うだけでありながら(ほとんどセリフすらない)、本当に血沸き肉躍る、いっときも眼が離せない、スリリングな冒険譚になっているんである! …昨今の大げさな設定やらCGによるド派手な映像やらがなくても、この地味なモノクロ映画は、主人公の置かれた“状況”をキャメラで捉えるだけで、かくも濃密な「ドラマ」が描きうることを教えてくれる(そんなベイカー監督の才能が遺憾なく発揮されたのが、本作の翌年に作られた『SOSタイタニック』に他ならないだろう)。何も「ドキュメンタル」な撮り方だから良いんじゃない、その“状況”の描写力において傑出しているからこそ、素晴らしいのだった。  この監督をきちんと再評価してくれる評論家センセイ、誰かおられませんかねぇ…
9点(2004-11-22 10:48:27)(良:1票)
136.  マイ・フレンド・メモリー
もう、圧倒的な素晴らしさ。松竹富士(もうなくなっちゃったけど)って映画会社の、それぞれ全然関係のない映画なのに『マイ~』と付ける、そういった一連の「感動作」シリーズ中でも、これはダントツに群を抜いて見事な映画です。ともに障害をもつ少年2人の友情物語という枠組みの中に、実に深い死生観や、「記憶し、その者のことを語り続ける限り、その者は“生き”続ける。そして『物語る』とは、そういった”語りつづけること”からうまれた」という主題(と、ぼくはこの映画から受け止めた…)を盛り込むなど、そんじょそこらの「芸術映画」なんぞよりずっとずっと高尚かつ思慮深いと思う。こんな悲しい内容だのに、柔らかなリリシズムとユーモアを随所に盛り込んだ演出が、これまた泣かせるのなんの…。主人公を演じた2人の少年はもちろん、シャロン・ストーンはじめ大人の役者たちも素晴らしい。特に『Xーファイル』からは想像もつかないジリアン・アンダーソンの、ペーソスあふれる姐御っぷりに拍手!
10点(2004-11-20 11:49:18)
137.  レッド・バロン(1971)
実際にジョン・フィリップ・ローなど役者を操縦席に座らせた複葉機が、大きく空中で一回転する。と、役者の真正面に据えられたキャメラは、その表情とともにバックに広がるヨーロッパの田園地帯の風景をも映し出す…。  この「究極のリアリズム」の前には、もはやどんな最新のCG映像も太刀打ちできまい。もちろん空中戦のシーンでも、本当に役者が空を飛ぶ飛行機上で“演技”している。つまり彼らは、その時「本物のパイロット(もちろん、操縦しているのは別人だろうけれど)」として、画面の中で君臨(!)しているんである。そう、彼らは、第一次世界大戦の“空の勇者”を演じるというより、その生身(なまみ)でもってパイロットが見た・感じたままの“現実(リアル)”を「再現」しているのだ。  ロジャー・コーマンの映画は、一連の“エドガー・アラン・ポーもの”をはじめゲテ物と蔑まれるようなB級映画であろうと、ロケーションと美術セットに対する感覚において際立ったものを持っている。彼の監督作を見たなら、そこに映し出される森や池、古い城壁それ自体がドラマを暗示し、見る者をその作品世界へといざなっていくものであることを誰もが認めるだろう。さらに、どんなに低予算であろうと、登場人物以上に「物語」を雄弁に語るあの美術セット。…そう、コーマンは決して役者たちの演技やセリフによるのではなく、あくまで“画”によって恐怖を、悲哀を、官能を、憎悪を、狂気を、…そう言った人間の内面の「闇(=病み)」を描く術において卓越しているのだ。  そんな彼の資質が、この生涯で唯一(?)の大作においても遺憾なく発揮されている。19世紀的騎士道精神を生きる“レッド・バロン”ことリヒトホーフェンの驕慢さと、その背後に隠された「滅びへの意志」。一方の、英国軍パイロット、ブラウンにおける徹底した上流階級に対するルサンチマンとその「破壊衝動」。その相対立する葛藤劇を、コーマンは、役者を複葉機に乗せて飛ばす全編にわたっての空中シーンという形で“画”にしている。言い換えるなら、役者たちというフィジカル(肉体)な“実体”を用いて、メタフィジカル(形而上的)な“精神”を描くこと。そこにこの映画における「野心」があったことを、ぼくは信じて疑わない。  …監督としてのロジャー・コーマンを、今一度ぼくたちは再評価するべきだ。
10点(2004-11-10 12:52:53)
138.  渚のたたかい
見たのはもう随分と大昔で、しかもテレビ放映だったけれど、今なお忘れ難い「(ぼくにとっての)永遠の名作」です。ノルマンディ上陸作戦を背景にした第二次世界大戦ものの戦争映画だけど、決して『史上最大の作戦』や『プライベート・ライアン』なんかのように大上段に「歴史」だの「悲劇」だのを描くものじゃない。派手な戦闘シーンもほとんどない。むしろ一編のメルヘン(!)めいた、不思議な余韻を残す「反戦」ならぬ「反=戦争映画」とでも言いましょうか…。  クリフ・ロバ-トソン扮する軍曹率いるアメリカ軍小隊が、沿岸近くの村人やドイツ兵捕虜を、安全な連合軍キャンプまで引率しようとする。が、ようやく連れてくると司令官に「もう一度村へ連れ戻せ!」との命令。仕方なく再び来た道を戻ったものの、まだ砲弾が飛んでくる危険な状態。軍曹は、今度こそとキャンプへ彼らを連れていくが、またまた拒絶されてしまう。そして一行は、今度も村への道のりをてくてくと…。  と書くと、何だか風刺っぽいコメディみたいだ。けれど映画は、村と連合軍キャンプを行きつ戻りつする彼らの中で次第に芽生えていく連帯感やら心のふれあいを、ただ丁寧にスケッチしていく。食べ物を分け合ったり、楽器を演奏したり、時にはいがみあったり砲弾を喰らったりするものの、まるでピクニックのような気分。そのへんてこな“珍道中”を通して、「悲惨な戦争時にも、こんな風に普通の人々は笑ったり、泣いたり、恋したりして生きてきたんだ」という実感を、見ているぼくたちはしみじみと噛みしめるといった次第です。ほんと、すべてを“白か黒か・正義か悪か”と単純化するアメリカ映画にあって、この良い意味での「ゆるさ」は、実に新鮮なオドロキをもたらしてくれることでしょう。  最後、仲良くなった村人たちと分かれて、戦争という非日常的な「日常」へと戻っていく軍曹と彼の小隊。その美しいラストを含めて、“そして、人生は続く”ことをかくも詩情豊かに描いた本作を、ぼくはいつまでも愛し続けたいと思います。DVD、出ないのかなぁ。
9点(2004-11-04 17:24:01)(良:1票)
139.  女は夜の匂い(1962)
もう30年近く前(いやはや…)にテレビ放映で見て、その後10年ほど前にビデオで再見。以来、見直す機会に恵まれないものの、今なお小生には忘れ難い作品のひとつです。日本でのタイトルはレレレだけど(検索すると、まっ先に日本の小林旭主演作『ネオン警察・女は夜の匂い』だの、洋画ピンク作だのがヒットする…悲しい)、とっても小ジャレたフレンチ版赤川次郎(?)とも評すべきライトなロマンチック・ミステリーであります。  もっとも、何人もの女性と同時に付き合っているものの、一度も真剣に愛したことのないプレイボーイが主人公。コイツが女のひとりに偽証され、殺人犯として追われるものの、いつも女たちに匿われて救われる…というストーリーにゃ、思わず「ケッ!」とくる御仁も多いことでしょう。しかし映画は、そんなお調子者の男のスッタモンダを描きつつ、ちっともイヤミじゃない。むしろ、こんな男を好きにならずにはいられない女性たちの「愚かさ」を、むしろ“女ゆえの「可愛さ」”としてユーモアたっぷりに描いている。このあたり、監督のミシェル・ドヴィルと女性脚本家ニナ・コンパネーズの才気が光っています。  そして主人公は、逃亡と真犯人探しの中で、はじめて女性に心奪われる。けれどそれは人妻で、いくら彼が生まれてはじめての“純粋な愛”を捧げても、彼女の心は夫のものだと悟らされてしまう。その時、主人公は、鏡に映る彼女の後ろに立ち、彼女の顔を両手で包み込みながら「ほら、これが笑っている時のきみ。これは泣きベソ顔のきみ、おこりん坊のきみ、(目尻を吊り上げて)中国人のきみ…」と、百面相(?)ごっこのイタズラをするんだけど、そこには、はじめて女性を好きになったのに、どうしようもない男の悲しみとあきらめが痛いほど感じられる。そう、ぼくはこれほどロマンチックで、洒落ていて、でも切なくて、叙情的なシーンを、今にいたるまで見たことがない。だからこそ、このほとんど語られることのない映画のことが、未だ忘れられないのであります。  ヌーベルヴァーグ全盛の頃に作られながら、いかにもフランス的なコケットリーとソフィスティケ-トを持った、むしろ「古い」タイプの映画には違いない。けれど、ぼくはこんな「おフランス」な味わいも心から愛していきたい。…自分にゃ縁のないものだから、いっそうのこと(笑)
8点(2004-11-01 13:45:04)
140.  モーターサイクル・ダイアリーズ
「アメリカ」と聞けば、ぼくたちは、すぐに「アメリカ合衆国」のことだと思ってしまう。しかし「アメリカ」とは、南北にまたがる広大な大陸(=土地)に与えられた名前でもあるのだった。そしてまだアルゼンチンの若い医大生だったエルネスト・ゲバラが、友人とともに敢行した冒険旅行のなかで見出したもの。それは、常に虐げられ“搾取”される「(南)アメリカ」という土地と人々という現実に他ならない…。  この映画は、50年前にゲバラたちが見た風景を、あらためて映し出す。それらは、ゲバラが眼にした時とほとんど変わらないのだろう。同じく、差別と貧困にあえぐ先住民や、工事現場での苛酷な労働を余儀なくされる人々の姿もまた、きっと当時のままだ。ウォルター・サレス監督は、まるでドキュメンタリ-作品であるかのようにナマの土地を、人間たちをフィルムにおさめていくことで、そういった「現実」を静かに告発する。そうしてぼくたちは、ゲバラが見た・感じた・考えたままの「現実」、今も変わることのない南アメリカの「現実」と直面することになるのだ。  …ただ、このハンサムで喘息持ちの理想主義者に過ぎなかったひとりの青年エルネストが、後に真の「革命家」チェ・ゲバラになっていったことを、本作は描くものでなかったこと。そのことだけは、やはり少し残念に思う。ゲバラがこの旅を通じて見出したもの、それは“ふたつの「アメリカ」”だったのではないか。ひとつは土地としての「アメリカ」であり、もうひとつはそんな土地を搾取し続ける国家としての「アメリカ」。その構図と直面したことが、彼を“アクティヴィスト(実践的革命家)”へと成長させたはずだ。その“ふたつの「アメリカ」”の関係を、本作は巧妙に避けている。確かに後半のハンセン病患者たちとの交流を描くシーンは、美しく感動的だろう。が、あれだけでは、ゲバラとは単なる「理想主義者」のままにしか見えない。そして「理想主義者」とは、決して偉大な「革命家」たり得ないのだ…。  それでも、映画のなかのナレーションにもある通り、これは「偉業の物語ではない」のかもしれないが、「偉大な“魂”の物語」であることは間違いないだろう。本当に、こんなにも“美しい人”を、ぼくは映画のなかで久しぶりに見た気がする。そのことだけでも、この作品に出会えたことを心から喜びたいと思う。
7点(2004-11-01 11:00:46)(良:2票)
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